a Castle in the air

 雲の狭間に浮かぶ城。
 風に揺らめき、陽光に滲み、雨に流され、大気に散じる。
 形もなければ、移ろいやすく、気まぐれで自由な空の楼閣。



 湖から吹く風が心地よく頬を撫でる。
 どこからともなく漂ってくる梅の馨りが、春の兆しを感じさせた。
 僕がデュナン湖の畔に建つ城へ戻ってから、6度目の冬を越えようとしている。
「その後、ハイランド残党の動きはどう?」
 部屋の中央にあるソファーに腰掛けたセラウィスさんが、静かな問いを発した。窓辺で外の景色を眺めていた僕は、首を巡らせ壁に背を預ける。
「最近は形を潜めてます。もともと、酒場でくだを巻くぐらいしか脳のなかった人達ですから。ハルモニアさんのお手伝いがなくなっちゃったら、隠れんぼでもするしかないんじゃないですか?」

 ジョウストン都市同盟とハイランドの統合によって生まれたこの国は、情けないことに立ち上げた瞬間から破産の危機に瀕していた。
 同盟の主要都市はハイランドに占拠された折、略奪の限りを尽くされている。貧乏道場の息子が率いていた軍の金庫は、ネズミの住処となっていた。
 当てにしていたハイランド王家の財産は、ジョウイがどこか──って、恐らくジルさんのところだろうけど──に隠してしまった後で、残っていたのは崩れ落ちた城の瓦礫のみ。

 トランに、これ以上の借りを作ることは躊躇われた。
 レパント大統領はいい人だけど、ボランティア精神で僕達に力を貸してくれていたわけじゃない。資金援助なんて頼んだら、国政に嘴を挟まれる怖れがあった。
 かろうじて交易でこちらが有利になるようティントが便宜を計らってくれたけど、輸出できる品がないから、収入が得られない。足りない物資を補うための輸入ばかりが増えていき、財政はますます圧迫された。

 そこで、我らが奇才軍師改め宰相となったシュウが捻りだした案が、ハイランド貴族制度の廃止である。
 狙いは、彼等が溜め込んでいる私財。当初、宰相はハイランド貴族達に金品で新たな爵位を買わせるつもりだった。
 しかし、旧体制の権威を残すことを怖れた他の新政府メンバーがこれに反対、策はより強引な手法へと変貌する。
 ハイランド貴族達は爵位と資産を剥ぎ取られ、名実共に平民となった。
 戦争の爪痕に苦しむ国民を救うためとはいえ、それは、法の名を借りた略奪行為に他ならない。
 奪われた者達の怒りと屈辱が、新政府に対する反感へ成長するまでにさほどの時間は要しなかった。

 これが、後にハイ・イースト動乱と名付けられた騒動の端緒である。

 デュナンが大国となることを快く思わないハルモニアが関与してきたり、デュナンとティントの仲が拗れたりしたこともあって、騒ぎは殊の外、大きなものとなった。

「ハルモニアが手を引いたのは、ティントとデュナンの国交が回復したからだよね?頑迷な所のあるグスタフ殿をどうやって懐柔したの?」
 旧ハイランド勢とティントに手を組まれていたら、新生デュナン政府に勝ち目はなかった。茶器を手にしたセラウィスさんが、不思議そうに小首を傾げる。
「ティントの望みは『公平な商取引』をすることでした。3年という約束で便宜を計らってもらってたのに、シュウさんがそれを10年に引き延ばしちゃったんですから、そりゃあ怒りますよね~」
 グスタフさんにしてみれば、恩を仇で返されたというところだろう。
 隣国の英雄がゆったりと茶器を傾ける。
「開国から10年はデュナンにとって受難の時だった。国の要たる王の不在に加え、天候不順による凶作や交易品の大暴落等が続いたりしたからね。シュウ殿も形振り構っては、いられなかったのではないかな」
 そうなんだよね~。トランと違い、デュナンは人材不足の感が否めない。重大な責任を負う仕事になればなるほど、シュウがひとりで采配を振るわなければならなかったんだよね。
 胃潰瘍と闘いながらも、よく頑張ったと僕も思う。
「デュナンに事情があるのは、グスタフさんもわかってくれてたみたいです。釈明と謝罪をした上で、改めて交易条件について話し合ってみました」
 総合的にみてティントに損が出なければいいのだ。食料や衣類といった日常必需品を安く融通してもらう代わりに、貴金属や宝飾類の関税を下げ、差額をあちら側の利益とすることで合意を試みた。
「ティントの名産品は鉄鋼と宝石ですから、彼等にとってもこの方が都合がよかったんでしょうね。機嫌良~く握手して下さいましたよ」
 ポットからお茶を注ぎ足す僕に、セラウィスさんが小さく会釈する。
 何気ない仕草にも気品があるっていうか、典雅さが違うっていうか。こういうところに育ちの良さが現れるんだよね。
 この大陸に於いても有数の名家出身である彼は、惜しげもなく地位を捨て、今ある自由を楽しんでいる。
 人間の価値は地位と資産の多さで決まるとかほざいていた国賊共とは大違いだ。
 ああ、旧ハイランドの馬鹿貴族達に爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいっ!もったいないからやらないけどさ。
「そのせいで、デュナンの収益が下がるようなことはなかったの?」
「多少は。でも、大量に仕入れた食料を転売して利鞘を稼いだら、すぐに穴が埋まりましたよ。商才溢れる宰相殿が面目躍如とばかりに頑張って下さいましたからね」
 デュナンではなんでもない食べ物が、地方によってはとんでもない高値で取引されたりする。砂漠地方に果物類を売りに行ったり、周りを海に囲まれた島国に山の幸を届けたり。中でも某神聖国にてご禁制とされている食材は、闇ルートで流したところ飽食気味の上流階級にそれはそれはもてはやされた。
「……ハルモニアを追い払う資金を、ハルモニアから調達したの?」
 目を丸くする佳人に、僕は笑顔で頷く。
「はい、シュウさんも大概良い性格をしてますよね。有能な宰相を持てて僕も幸せです」
 けれど、それもこの春までのことだ。
 国内情勢も落ち着いたことであるし、そろそろ阿漕な商売からは足を洗って、ティントとの関係を清算しようと考えている。
 僕の見たところかの地の鉱脈は、もって後十数年。それまでに貸し借りをなくしておかないと、後々面倒なことになりそうだった。
「とりあえず、これまで安く輸入していた衣料や食料を正規の値段に戻そうと考えています。貴金属の方は、3~4年掛けて調整することになりそうですね」
 お世話になった分、多少はティントにも儲けさせてあげないとならないだろう。
「では、後は交易さえ安定すれば、デュナンが開国より抱えていた問題は片づくのだね」
「そうですね、ほぼ終わりです。すっごく頑張ったんですよ僕。もー疲れちゃいました」
 旧ハイランド貴族軍の首魁を征伐するまでに2年、その後の始末に4年を費やしている。
 労いの言葉を期待して隣に席を移すと、セラウィスさんが眦をきつくした。
「自業自得でしょう。火種を作ったのが誰だったか忘れてしまったの?」
 ……………うう、ごめんなさい。僕です。
 事件を大きくしたのはハルモニアだけど、実のところ最初にハイランド勢を先導したのは僕だったりする。感情を煽ってその気にさせ、策を弄して騒ぎを起こさせた。
「でもでもっ!これほど大きな騒ぎにするつもりは、なかったんですよ~」
 哀れっぽく呟いてみる。
 もっとも、騒ぎが大きくなったらなったで構わなかったんだけどね。

 デュナンがどうなろうと関係なかった。
 ただひとつ、望んだモノがこの手にはいるなら。

「嘘言わないの。ハルモニアとハイランドの親密な関係を知らない君じゃないでしょう。デュナン統一戦争時には、かの国がハイランドの友軍として参戦しているところだって目にしているのだしね」
 ハイ・イースト動乱におけるハルモニア関与の必然性に僕が気付かなかったはずはない、とセラウィスさんは確言した。浅はかな僕の思考回路などお見通し、ということだろう。
「うわぁ、感激です!セラウィスさんってば、僕のことよく解ってくださってるんですね!」
 満面の笑みで抱きつくと、呆れたように頭を叩かれた。
「カイネ……」
「だって、どーしてもっ!!貴方にお逢いしたかったんです。デュナンで騒動があれば、きっと様子を見に来てくれるだろうなって思ったから……」
 現に、こうやって再会できましたし。
「だからって……っ」
「10年も!!探してたんですよ?なのに全然逢えなくて……気が狂いそうでした」
 胸の痛みそのままに吐き出すと、腕の中の人が黙止した。
「セラウィスさんは?僕の事なんて奇麗さっぱり忘れちゃってました?離れてから一度でも逢いたいと思って下さったことはなかったんですか?」
 夜の湖を思わせる虹彩が、僕の顔を映して揺らぐ。
「そんなことは、ないけど……」
「本当に?」
 念を押すと、恥じらうように視線を逸らされた。
「思っていなかったら、会いになんてこないでしょう……」
 動乱を沈めるため、僕にデュナンへ戻るよう勧めたのはセラウィスさんだ。
 自分で捲いた種を自分で刈り取るのは当然のこと。僕だって苦労して打ち建てたデュナン新国に滅んで欲しいわけじゃない。
 ただ、再会早々セラウィスさんと離れ離れになりたくなかった。トランの英雄たる彼を、デュナンに引き留めるには問題がありすぎる。一番いいのは、僕が一緒に旅に出てしまうことだった。

 迷いを断ち切ってくれたのは、月に一度は会いに来てくれるという彼の一言。

 佳人にしてみれば、図らずもデュナンに混乱を招く要因のひとつとなってしまったわけで。義務と責任感から申し出てくれたことだろう──と。そう、思っていたのだけれど。
 こんな台詞が聞けたってことは、多少は違う感情が交ざっていると期待していいのかな。
「はい、ありがとうございます!……ねぇ、セラウィスさん今夜はお泊まりしていきませんか?」
 胸の奥から温かいものが込み上げてくるのを感じながら、お伺いを立てた。

 執務が終わった頃に現れて、朝には姿を消してしまう人。
 デュナン警護兵の目を潜り抜け、他の誰かに存在を知られることもなく。
 夢のように。幻のように。ふわりと現れては、痕跡も残さず去っていく。
 逢瀬の時間が楽しければ楽しいだけ、目覚めた時に触れるシーツの感触が冷たかった。

 だからたまには、一緒に朝ご飯を食べましょうよ……って毎回お願いしてるんだけど、色よい返事が貰えた試しはない。
 きっと、今回も駄目なんだろうな~。
「…………そうだね。たまにはいいかな」
「そうですよね。たまには………って、え?ええぇぇぇ?!?!?!」
 しまった、つい大声だしちゃった。この部屋防音にしておいて良かったあ。勤務中の従業員達が大挙して押し寄せてきちゃうところだった。
 い、いや、待て!そんなことはどうでもよくて。いま、お泊まりしていってくれるって言った?言ったよね?!
「カイネ?やっぱり迷惑だったかな?」
 内心動揺してあたふたしている僕に、セラウィスさんの花顔が曇る。
「い、いえ!そんなことありません!誘ったのは僕なんですよ!!」
 迷惑なんてことありませんから、前言撤回しちゃ嫌です~!!
 ひっしと腕にしがみついて全身で意志表示した。
 それにしても、一体どういった心境の変化なんだろう?
「ありがとう。……ごめんね」
 あ…………。
 微かに震える唇が刻んだ謝罪の響きに誘発され、つい先程、間諜よりもたらされた報告が耳の奥に甦る。
「……グラスランドの騒ぎ、収まったらしいですね」
「うん………」
 グラスランドとゼクゼン、それにハルモニアを巻き込んだ騒動は、終結と引き替えに僕等の大切な戦友ひとりの生命を奪っていった。
 セラウィスさんは特に彼と仲がよかったから、哀しみも深いのだろう。
 そうして、いつもは断る誘いに頷いてしまうぐらいには、寂しいと感じている。
 不謹慎だけど、ちょっと羨ましい。
「じゃあ、今夜は二人でグラスを傾けながら思い出話に花を咲かせましょうか」
「それもいいかもね」
 淡い笑みに庇護欲を募らせながら、彼の愁いが晴れるような話題を探した。
「そうだ!いっそのこと僕と旅行しませんか?シュウさんが珍しくお休みくれたんですよ」
「宰相殿が?」
 驚いてるし……って無理もないか。
 同盟軍時代のシュウは、二言目には『仕事、仕事』と叫んでいたからなあ。
 今は僕が真面目に働いている分、小言の数は減ったけど、一日一回は聞かないとなんとなく物足りなく感じてしまうのだから不思議なものだ。
「実はジョウイから手紙が届いたんです。一度、顔を見せに帰ってこないかって。それで、ダメモトでシュウさんに頼んでみたら、あっさり許可をくれたってわけです」
 セラウィスさんを探すため一人で旅に出ようと決めたとき、今生で再びジョウイとナナミに会うことはないだろうと覚悟を決めていた。
 僕の行為は二人に対する裏切りだった。許しては貰えないだろうと考えていたから。まさか、手紙を貰えるなんて思ってもみなかったんだ。
「二人とも元気で暮らしているそうです。手紙の文面がちょっと年寄り臭くなってて、可笑しくなっちゃいました。まだ、そんな歳でもないでしょうにね」
 あれから17年。二人は今どんな暮らしをしているんだろう。
「……………………」
「住居はゼクゼンの端にある田舎町にあります。風光明媚な土地ですし、きっとのんびり出来ますよ」
 ナナミの料理の腕、ちょっとは上がったのかなあ。ジョウイは相変わらずニンジンが苦手なんだろうか。
 久方ぶりに会う家族への想いに胸を膨らませていると、セラウィスさんが緩やかに首を振った。
「……僕は行けない」
「セラウィスさん?」
 どうしたんだろう。『行かない』じゃなくて『行けない』だなんて。普段はこんな曖昧な物言いをしない人なのに……。
「セラウィスさん、どうし……」
「君の親友は、僕を恨んでいるかもしれないね」
 ……ジョウイが?
 セラウィスさんを恨んでいる?
 僕はあんぐりと口を開けた。
 ええと、こういのなんていうんだっけ、青天の霹靂……は違うか。寝耳に水、とかかな?
「どこからそんな発想が……って聞いてもいいですか?」
 僕の親友は昔からトランの英雄贔屓だった。ジョウイがセラウィスさんを嫌うだなんて、天地がひっくり返ってもあり得ない。
 もしかして、僕がひとりで旅に出てしまった後で、二人の間に何かあったとか?
 でも、それならジョウイが手紙に書いて寄越す筈だよね。
 あれこれ考えながら視線を落とすと、セラウィスさんが膝の上で両手を握り締めていた。
 所在なさげに、動く指。
「カイネは……僕がいなければ、『始まりの紋章』を宿そうなんて考えなかったでしょう?」
「え?ええ、それは、まあ……」
 ジョウイの泣き落としと、星見のおばさんの無言の圧力がなければ、『真なる盾の紋章』を引き継ぐことだって断っていただろう。
「こんなところで執務に追われることも、紋章の呪いに囚われることもなく、ナナミやジョウイと静かな暮らしを送っていたはずなのに……」
「それで、ジョウイがセラウィスさんのことを恨んでいるかも知れないって考えられたんですか?」
 穿ちすぎじゃないのかなあ。
 家出もジョウイから紋章を奪ったことも、僕が勝手にやったことだ。僕の親友はあんまり利口とはいえないけれど、逆恨みするような奴じゃない。セラウィスさんが気にすることなんて何一つないのに。
「だってジョウイは、カイネの『特別』だったのでしょう?」
 ……………………はい?
 ええっと、いまなんだかものすごく、とんでもないことを言われたような気がするんですが。
「ジョウイはカイネのこと好きだったのでしょう?カイネだって……」
 ……どの意味での『好き』でしょう?……なんて、怖くて聞けない。
「ジョウイは親友ですよ?」
 恐る恐る、告げてみる。誤解されているのだろうか。
「うん、カイネが一番大切にしている人だよね」
「セラウィスさんの方が大事です!」
 きっぱりと否定する。
 ナナミとセラウィスさんなら……どちらも同じぐらい大切って答えるけど。親友と恋人なら断然、恋人を優先したい。
「それは……僕と出逢って順番が入れ替わってしまったということ?」
「ちょっと違います。なんて言ったらいいんでしょうね……、一番大切な人はナナミで、一番好きな人はセラウィスさんで、一番の親友はジョウイ。僕の中ではそれぞれに違う位置付けがされていて、それぞれが一番なんです」
 それは三人を比べたら、セラウィスさんが筆頭にくるけれど。
 だからって、ジョウイに対する気持ちが減ったとか、ナナミに対する接し方が変わったとかいうわけじゃない。
「意味は違いますけど、三人共に大好きなんです。だから、他の二人とも仲良くしてもらえたら嬉しいなって思うんですけど……我が儘でしょうか?」
 セラウィスさんが誤解しているにしても、本当にジョウイに含意があるにしても。双方が会って話し合わないことには対処のしようがない。必要以上に仲良くされるのも困りものだけど、恋人と親友にはできるだけ良好な関係であってほしい。
「カイネの気持ちは嬉しいよ……でも、僕は行けない」
「ジョウイに会うのが、そんなに嫌なんですか?」
「そうじゃなくて……」
 セラウィスさんが迷うように視線を泳がせた。
「はっきり仰って下さい、セラウィスさん」
 少しだけ焦れた僕は正面にある頬に手を添えると、強引に自分の方へと向き直らせる。
 逡巡しつつ開かれる、薄い唇。
「一緒に行ってしまったら、カイネが彼等ともう一度平穏な生活を送りたいと願ったとき、引き留めてしまいそうだから……」
 空耳……じゃないよね?
 も、もう一度聴かせて欲しいな、なんて言ったら駄目ですか?
 跳ね上がる心拍数を抑えようと、胸に手を当て深呼吸する。なんだか今日は、いろいろな意味で驚かされる日だ。
「喜んで送り出されてしまったら、僕の立場がないですよ?」
 寧ろ、しっかりはっきり引き留めて欲しい。
「ジョウイ達といる方が、君の幸せに繋がるとわかっているのに?僕にそんな権利はないでしょう」
 もう、この人は。何を言ってるんだか。
「セラウィスさん以上に権利のある人なんていません!天然で鈍いところも可愛いですけど、もうちょっと自覚して下さってもいいんじゃないですか?」
 僕の恋人は貴方だけなんですよ!
「天然で鈍いって……」
 ごめんなさい、口が滑りました。気にして欲しかったのはそこじゃなかったんです。
「さっきセラウィスさんは、僕が貴方と出逢ってなかったら……って仰ってましたよね。もし、貴方と出逢っていなくても、僕はジョウイ達とは一緒に暮らしていなかったと思います」
「どうして、だって君は……っ」
 言葉の先を折ろうとする唇に人差し指で触れ、声を封じる。
「昔から決めてたんです。ナナミをまかせられる相手が見つかったら一人で旅に出ようって。デュナン統一戦争の時は、皆バラバラで幸せにはほど遠かったですからね。とにかく元の状態に戻ろうと躍起になっていましたが」
 あの頃は、僕も若かったしね。……外見だけなら今でも当時のままだけど。
「でも、セラウィスさんと出逢って、一緒にいたいと思うようになった……貴方がいないことを寂しいと感じるから……。そういった意味での気持ちの変化ならありましたね」
「彼等と会ったとき、また気持ちの変化が訪れないとも限らないでしょう?人の心は移ろいやすい。ある日突然、対極の想いを抱くこともあれば、まったく別の感情へと変わってしまうこともある……」
「そんなこと……」
 あるはずないでしょう!って言いたいところなんだけど。
 些細な誤解で感情は行き違い、疑惑や妬心は本来あるべき感情を別の色へと塗り替える。昨日は恋人同士だった者達が、今日には憎み合っているなんてよくある話だ。
 だから、相手に対して誠実であろうとすればするほど、確かなことは約束できない。
 もちろん、変化は恋人の間だけに生じるものとは限らない。友人、家族、周りの人々。人間関係が増えれば増えただけ、己の力のみで感情をコントロールするのは難しくなる。
 僕は人の話を鵜呑みにする方でないけれど、仲の良い人から会ったこともない人の悪口を日常的に聞かされていたら、ついつい迎合してしまうかもしれない。噂の御仁と会ったとき、まったく色眼鏡無しで見れる自信はない。
 近くにいる人間に遠くの人の噂を聴いたらあっさりと信じてしまいそうだし、現在進行形で親しい人と疎遠になった相手なら、思考はどうしても親しい人寄りになる。
 セラウィスさんの言葉は続く。
「人は『永遠』を持たない生き物だからね。刻一刻と姿を、心を変えていく。……悪いことだと言っているわけではないよ。それが成長するということなのだから」
 残されることを、少し寂しいとは思うけどね。
「なんだか僕って、ものすご~く不誠実な奴だと思われてません?」
 苦笑しつつ、脳裏に古い友人の姿を想い描く。
 目蓋に浮かぶのは、風を纏い深緑の長衣を靡かせた小生意気そうな横顔。彼は連絡が途絶えていた間に、ハルモニアの神官将になっていた。
 天を仰ぎて唾せし者。天理に逆らい、神を殺そうと目論んだ大罪人。
 ハルモニアにて反逆者の烙印を押されたその神官将は、トランとデュナンでは英雄譚に名前を連ねる人物だった。
 英雄から罪人へ──。彼の心の中に訪れた変化がどのようなものであったのか、僕達に伺い知る術はない。
 ひとつだけいえるのは、セラウィスさんがこんなことを言い出した原因は間違いなくアレにあるってことだけだ。あ~あ、こんなことなら一発殴っておくんだったなあ。
「違う、そうじゃなくて……」
 言い淀むセラウィスさんの髪を梳き、僕はにっこり笑顔を作った。
「でもね、セラウィスさん。喩えこの先気持ちが変わるようなことがあっても、それで『今の気持ち』が嘘になるわけじゃないんですよ。今の僕はセラウィスさんが好きですし、ずっと一緒にいられたらいいなって思ってます」
 それも、信じては頂けませんか?
 佳人の首の動きにつられ、指先から黒髪がさらりと零れる。
「……信じてる、けど……」
「だったら、いつくるかわからない『明日』に怯えるよりも『今』を大切にしましょうよ。明日には変わってしまうかもしれないものなら尚更、大切にしておかないと。後悔先に立たずですよ」
 未来に絶望する余り、仮面の神官将が目の前にあった小さな希望を見逃してしまったように。遠くばかりを見つめていると、足元にある小さな幸せを逃がしてしまう。
「未来はたくさんの『今日』の積み重ねなんですよ。変化も継続も今日という土台があってこそでしょう?人の心は移ろいやすいものかもしれませんけど、なんの根拠もなしに変わってしまうものでもないんですよ」
 セラウィスさんの頬に軽くキスをして、「だからね」と続ける。
「たくさんたくさんお話をして、『今日』を創っていきましょう」
 明日も明後日も明明後日も。お日様が昇れば、今日になる。未来を憂えるのもいいけれど、過去を振り返るのもいいけれど、やっぱり一番大切なのは『今』を生きることだから。
「……そうだね、ありがとうカイネ」
 僕の言葉に、セラウィスさんの表情が和らいだ。ふんわりした笑顔をうっとりと眺めながら、先程から気になっていたことを聴いてみる。
「ところで、セラウィスさん。どうしてあんなにジョウイのことを気にしていたんです?」
 ナナミの方じゃなくて。
「それは……ナナミの性格は知っているし……」
 セラウィスさんが緩やかに瞬きをした。
「親友ってやっぱり格別な気がするでしょう。親友は一生の宝というしね」
 ……………宝ねぇ。
 あぁ、そういえばセラウィスさんって『親友』と『恋人』の境界がよく理解できてない人だったっけ。僕とジョウイの関係をテッドさんとセラウィスさんの関係と同じだと思われると、激しく困るんだけどなあ。
 けど、今ので解ったことがある。
 僕はやに下がりそうになる顔を隠すため、口元に手を当てて僅かに顔を逸らした。
 前髪を嬲る風が冷たさを増している。
 そういえば、窓を開けっ放しにしたままだったっけ。
 閉めに行くべきか考えて、ふとあることを思い出す。セラウィスさんの手を引き、ソファーから立ち上がった。
「カイネ、どうしたの?」
 怪訝な顔をする佳人を誘って窓辺に近寄る。外には僕が想像していたとおりの光景が広がっていた。
「ほら、セラウィスさん見て下さい。蛤さんのお休み風景です」
「蛤……?ああ、海市蜃楼(かいししんろう)……」
 湖の上にうっすらと浮かぶ幻の街を見て、セラウィスさんが頷く。
 昔の人は蜃という大きな蛤が気を吹くと、それが楼閣城市の形を取って空中に現れるのだと信じていた。
 奇麗で儚い幻の街。中空に佇む朧なる楼閣。
 別にいいんだけど、なんで蛤なんだろう。浅蜊や蜆じゃだめなのかな。
 値段の違いだろうか。それなら鮑の方が高いよね?
「移ろいやすく形のない泡沫の城。……人の心を現しているかのようだね」
 下らないことを考える僕の隣で、セラウィスさんがぽつりと呟いた。
「触れそうで触れられない。近くに見えて遠くにある。手に入れたと思った次の瞬間には、跡形もなく消え失せているかもしれない不確かなモノ……」
 唄でも口ずさんでいるかのような、流麗な声。僕は、暫しその透明な響きに陶然と耳を傾けた。
「それでも人は求めずにはいられない。蜃が空に幾度となく楼閣を描くように。けれど現実は夢のように奇麗ではないから、裏切り裏切られ別れを体験しては心に傷を負う……」
「裏切行為っていうのは、ある程度信頼関係の築かれた人達の間にしか成り立たないんですよ。例え短い期間だとしても好意を抱ける時期があったなら、幸せだったと言えるんじゃないでしょうか」
 最初から信じてもいない相手なら『裏切られた』なんて言葉は出てこない。詐欺に遭ったとか、騙られたとかは言うかも知れないけど。
「それすら、勝手な思い込みかも知れないよ。相手は最初から欺くつもりだったのかも」
「ちゃんと相手がいるだけマシってものです。一人さみし~く、夢の中で遊んでいるだけなんて想像するだけで虚しくなりません?」
 それに、どんなに都合の良い夢でも、覚めてしまったらそこまでだ。
「蜃気楼には、虚しいモノという意もあるね……」
 背後から抱きつくと、背中越しに微笑む気配が伝わった。
「けれど現実でも、心が離れてしまえば人と人との関係はそれまででしょう?」
 傷つかない分、夢の方が幸せだとは思わない?
「思いませんね」
 楽しい夢が覚めるのを恐れる気持ちと、恋人の心変わりを恐れる気持ちは似て非なるモノだ。夢はいつかは覚めるものと決まってるけど、心変わりは必ず起こるとは限らない。
 なにより。
「僕もよく貴方の夢を見ますけど、夢の中のセラウィスさんって温かくないんですよね~」
 抱きしめた感じもあやふやで、現実のような充足感は得られなかった。
「どことなく味気ないですし。まあ、所詮は僕が創った幻に過ぎませんから、僕の貧困な想像力以上の行動を取ってくれるはずないんですけど」
 綿菓子みたいに優しい夢は、傷つくことが無い代わりに思いがけない悦びで満たされることもない。
「セラウィスさんがジョウイに焼き餅を妬いて下さるなんていう、可愛らしい一面を覗かせてくれることもありませんしでしたしね~」
「…………っ?!カイネっ!」
 さっと、セラウィスさんの頬に朱が走る。
「逃げちゃ嫌です」
 僕は腕に力を入れ、藻掻き出す身体をしっかりと抱きしめ直した。
 ああ、可愛い!僕ってば、なんて幸せ者なんだろう!
「蜃も夢なんかで満足してないで、現実にある楼閣に登ってみればいいんですよ」
 それは、簡単なことではないかもしれないけど。
 多くの苦しみと哀しみを伴う道行きになるかもしれないけど。
 苦労すれば苦労した分だけ。辛ければ辛かった分だけ。
 長い道のりを踏破した先に拡がる光景には、幻などでは味わえない感動があるだろう。
「行った先に、望みのものがあるとは限らないでしょう?」
 幻滅することだってあるかもしれないのに。
「その時は、また新しい楼閣を探して登ればいいんです。簡単なことでしょう?」
「……雲を掴むような話だね」
 僕の笑顔につられたように、セラウィスさんの目容が緩んだ。
「そうでもないんじゃないですか?本当のところ、蜃気楼は光の異常屈折によって起きる現象だそうですよ。あれは遠くの景色を投影しているのであって、まったくのでたらめというわけじゃない。探せば必ずどこかにある場所なんです」
 だったら、どんなに遠くても歩いていけばいつかは必ず辿りつけるはずだ。
「これって、人の気持ちを掴むのにも似てますよね。嘘とか誤魔化しとかいろいろありますけど、誰もがひとつは真実を持っている。必ずあるものなら、探せないはずありません」
「君は本当に前向きだね」
 僕の腕の中で身体を反転させたセラウィスさんが、緩やかな手つきで頭を撫でてくれた。
 その指先にキスを落とし、絡め取るように手を握り締める。
「僕がここでの役目を終えたら、一緒に探しに行きませんか?」
「幻の街を探しに?」
 既に日は落ち、外はほの暗く、互いの吐息を感じるほど近づく以外に相手の表情を知る術はなかった。
「楽しそうでしょう?」と、笑う僕の瞳を覗き込むように、セラウィスさんの顔が近づく。
「…………その時は、僕に君の親友を紹介してくれる?」
 ほら、ね。こんな風に夢では味わえない幸せに浸れることがあったりするから。
「はい、喜んで」
 躊躇いがちに見上げてくる双眸は、息を呑むほどに奇麗だった。
 僕はセラウィスさんの肩を抱き、闇に沈んだ景色を窓の向こうに置き去りにする。
 蜃の夢は消え失せていた。

 夢に逃げ込むのではなく。幻に惑わされるのではなく。
 誰に強要されるのでもなく。誰かに唆されたわけでもなく。

 幻だけでは満足できないから。
 夢の中だけでは哀しいから。
 必ずどこかにあるはずの真実を求めて旅に出よう。

 雲の狭間に浮かぶ城を目指し。
 大気に散じる幻を追い。
 流れゆく雲と共に歩んで。
 幻想よりも美しい、景色を求めて旅をしよう。
2005/04/18
サイト引っ越しのお知らせイラストはよく見ますが、引っ越し告知SSというのは余り見ないな、と思いまして。
要するにやってみたかったんです。サイト名と同じタイトルで、移動することを匂わせる内容、ついでに大昔に頂いたキリリクもこなしてしまおうとなどと欲張った結果、詰め込み過ぎな感じになってしまいました(汗)
これの前段階に当たる話を全然書いていなかったため、前半の説明がやたらと冗長です。
今回、ちょっと心に溜め込んでいたことを吐き出してる部分があります。
もちろん、これを読んでどう受け取るかは読んでくださった方々次第なのですが。少しだけ「何か」を感じて下さったりすると嬉しいな、とか。