第四話 螢火/弐

 3日が過ぎた。
 龍麻はまだ、学校に現れない。
 1日、2日は「めずらしいこともあるね」と笑っていた面々も、さすがに不安を覚えてくる。
「絶対おかしいよ。京一ならともかく、ひーちゃんがボクたちに何の連絡もなしに3日も休むなんて」
「俺ならともかくってなんだよ」
 小蒔につっこむ京一の声も、いまひとつ精彩を欠いていた。
「だって、京一は昔からしょっちゅー学校さぼってたじゃない。……今はけっこー真面目に来てるけどサ」
「そりゃあよ……今はこんな状況だしな」
 言いながら、違うと自分で否定する。京一が真面目に学校へ来ていた本当の理由は。
 力を持て余していた京一の退屈を、鬱屈を、吹き飛ばしてくれたただ一人の存在のため。

 ここには龍麻がいるから――。

「風邪をひいて寝込んでるだけかもしれないぞ」
 醍醐が口を挟む。
「だって醍醐クン。ケータイも繋がらないなんておかしいよ」
 東京で起きている怪異は、望むと望まずに係わらず自分達を巻き込んでいく。いつ何があるかわからないため、どこにいても連絡を取り合えるようにしておこうと言い出したのは龍麻だった。よほどのことがない限り、携帯電話の電源を切ったりはしないだろう。
(ひーちゃん、いったいどうしちまったんだよ……)
 胸の奥がちりちりと焼ける。どうにも嫌な予感がしてならなかった。
「そうね。お家のほうにかけても、誰も出なかったし」
「えっ。葵、ひーちゃんちの電話番号知ってるんだ!?」
「うふふ、マリア先生に聞いたの」
「ふむ、なら一度、龍麻の家に行ってみるか?美里のことだ、マリア先生にちゃんと自宅の場所も聞き出しておいたんだろう?」
 ええ、と美里が頷く。
「心配はいらんと思うが、念のためだ。まあ、本当に寝込んでいるなら、見舞いをして帰ればいいんだしな」
 醍醐とて自説を信じているわけではなかった。龍麻に変事が起きたのは間違いないだろう。ただ、必要以上に小蒔達を不安にさせたくなかっただけだ。
「京一もそれでいいな」
 返事がない。
 じっと俯いて何かを考え込んでいる京一に、他の3人の視線が注がれた。
「京一?」
「京一くん?」
 何度も呼ばれ、やっと我に返る。
「あぁ、悪りィ。なんだって?」
「京一ってば、なにぼーっとしてんの。まさか、目を開けたまま寝てたわけじゃないよね?」
「んなわけあるか!」
 たまに人が考え事をしているとこれだ。京一はふてくされた。
「みんなで龍麻の家へ行きましょうって話してたのよ」
「ひーちゃんの家に?なんだ、場所知ってんのか?」
「……あんたどこから、聞いてなかったの」
 小蒔は呆れかえった。

 美里にもう一度同じ話を繰り返してもらい、京一はようやく納得した。
「へへっ。なるほどね、そういうことなら……」
「うふふふふ~。自宅に行っても~、ひーちゃんには~会えないわよ~」
 背筋を毛虫がはい登るかのごとき、いや~な声に、びくりとして飛び退く。
「うっ、裏密ッ」
 京一が上擦った声で呼んだ名に、醍醐が顔色を変えた。
 距離を取ったのは、生存本能が反射神経を総動員した結果だ。背後になど立たれた日には、なにをされるかわからないではないか。

 オカルト研究会部長裏密ミサの占いは、よく当たると評判で女生徒(と一部の男子生徒)に多大なる人気を誇っている。が、京一ははっきりいって、お近づきになりたくなかった。皆よくあんなところに足を踏み入れる気になるものだ。裏密は部費で怪しい通販の呪いグッズを購入しては、部室で試していると聞く。まかり間違ってヒキガエルにでも変えられたらどうしてくれるのだ。
 超常現象や幽霊が大の苦手の醍醐に到っては、裏密の存在そのものがすでにオカルトである。
 普段戦っている化け物ならば大丈夫なのだ。ちゃんと見えるし、正体が――例え化け物でも――知れているのだから恐くない。眼に見えなくて得体の知れないものが駄目なのだ。
 そんなわけで、真神で一、二を争う豪傑二人に恐れられる――気色悪がられている――裏密だったが、何故か龍麻は特に警戒する必要はないと判断したらしい。平然としてオカルト研究会に足を運んでは、裏密と親交を結んでいた。
 裏密の方でも龍麻を気に入った模様で、周囲に出没する頻度が増えている。京一と醍醐にとっては頭の痛いことであった。

「ミサちゃん。どうしてわかるの?」
「うふふふふ~それはね~。ひーちゃんの星が凶角にはいっているからなのよ~」
「凶角……龍麻に悪いことがおきているってことね」
 小蒔と美里は裏密と屈託なく会話している。
 お前らどうして、なんとも思わないんだァーッ!と京一は叫びたかった。
 醍醐など、かろうじてその場に留まっているものの、額に脂汗を浮かべているというのに。
「虹色の羽衣をつむぎし乙女の、蒼き綾糸が彼を捕らえているわ~。黄金の鱗は稀なる宝玉に触れ、内に秘めし闇を解き放とうとしている~。星は明日にも大殺界へと移行するでしょうね~」
 さっぱりわからん。
 京一はやはり同じように困惑する醍醐と顔を見合わせた。
「それって急がなくちゃいけないってこと?」
 小蒔には通じているようだ。京一は尊敬の念を抱いた。
「そう~~なるべく早く~。遅くとも今日中にはなんとかしないと~、ひーちゃんは助けられないわよ~」
「なんだってぇ!!」
 今度は京一にも、裏密の言わんとしていることがわかった。
 裏密は薄気味悪いし信用がならないが、占いがよく当たることだけはこれまでの経験でわかっている。
「ちょっとあんたたちっ!」
 ガラリっと勢いよく扉を開けて、アン子が飛び込んできた。
「いまそこで聞いたんだけどね、龍麻が休む前日に、手紙を届けにきたヤツがいるんだって」
 アン子もまた、龍麻の消息を案じているひとりだ。特別な《力》こそ持っていないが、地道な聞き込みと調査で情報を掴んだのだろう。
「アン子ちゃん。それ本当なの?」
「ちょっと美里ちゃん、アタシの情報網を疑うの?龍麻が小さな子どもから校門前で手紙を受け取った後、慌ててどっかに走っていったって、ちゃんと見てた人がいるんだから」
「じゃあ、その手紙の主が龍麻になにかしたってことか!?」
 京一の目に緊張が走る。
「可能性はあるな。よしっ。校門前にいってみるか」
「でも醍醐クン。いまさら行っても、しょうがないんじゃない?」
「万が一ということもあるだろう」
 重々しく紡がれた言葉は、龍麻を心配しているためだけではなく、一刻も早く裏密から離れたいという願望も含まれている。意見を同じくする京一は共同戦線を張った。
「そうだ。現場百遍っていうじゃねーか。行こうぜ美里、小蒔ッ。裏密、アン子じゃあな!」
 調子を合わせて、強引に美里と小蒔の背中を押す。
「うふふふふふふ~。がんばってね~~」
 裏密はいつも抱いている人形に頬ずりしていた。人形――ヒトガタとは、本来、呪い(まじない)に使われるものなのだとどこかで耳にしてから、京一にはソレが恐ろしい呪具のように感じられてならならない。意識してそちらを見ないよう努めた。
「ちょっと京一!」
 女生徒2人を教室の外へ押し出すことに成功した京一は、戸口でアン子に呼び止められる。
「なんだよアン子、まだなんかあんのかよ」
 柳眉を潜めて振り返ると、思い詰めた瞳とぶつかった。
「そうじゃないけど、……絶対、龍麻を助けてね」
「おうッ。まかせとけ!」
 京一が力強く請け負うと、アン子はやっと笑顔になった。
「信じてるからね。がんばりなさいよ」

  

 校門に来てはみたものの、やはり手懸かりらしきものはなにもない。
 さて、どうしたものかと、裏密から離れたことでやっと人心地のついた醍醐は腕を組んだ。
「ねえ、ひーちゃんに手紙を持ってきた子を捜すことはできないかな」
 小蒔が校門に寄りかかる。
「あん?んなの無駄にきまってんだろ」
「なんでそんなことがいえるのサ。やってみなきゃわかんないだろッ」
 立ち姿も行儀のいい美里が、口元に拳を当てた。
「もし、その子が近所の子だとしても、アン子ちゃんの教えてくれた特徴をもとに捜すのは、すごく時間がかかるわ。それに、きっとその子は頼まれただけだと思うの」
 うまく探し出して聞いてみたところで、『覚えていない』といわれればそれまでだ。
「あ……そっか」
 小蒔がしゅんとなった。
「くっそーっ。どうすりゃいいんだっ!」
 裏密の占いが焦燥感を煽る。京一が拳で校門の壁を叩いた。
「よぉ、ずいぶん荒れてんな、京一」
「ホント、あんたらしくないじゃない」
 門を挟んだ外側から、声がかかる。ひとりは十字架をモチーフとした改造学ランに袖を通した、金髪の青年。もうひとりはよく焼けた肌に紫のルージュといういでたちの、女王様然とした雰囲気を持つ女生徒だ。
「雨紋、藤咲!おめーらなんだって……!?」
「龍麻サン行方不明なんだろ。ちょっと気になってよ、様子を見に来たんだ」
 肩に乗せた細長い包みを雨紋は両手で握り直す。京一達はその中身が槍であることを知っていた。
 雨紋はひと月ほど前、代々木公園で起こった事件に深く係わっていた。鴉を操り集団で人を襲うよう仕向けていたのが、雨紋の同期生・唐栖亮一だったのだ。龍麻達が雨紋に力を添えることで事件は解決したが、唐栖は姿を消し杳として行方は知れない。しかしそれ以来、雨紋は龍麻に懐き何かあるごとに力を貸してくれていた。
「お前ら誰に聞いたんだ」
「舞子からだよ。アタシも龍麻には色々と世話になったしさ。なんか役に立てればと思ってね」
 小蒔がぽんっと手を叩く。
「そっか、ボク昨日、葵がたか子センセーのところに挨拶に行くのについてって、喋っちゃったんだっけ」
 たか子は桜ヶ丘病院の院長だ。心霊療法で有名な病院で、高見沢舞子はそこで看護婦をしている鈴蘭看護学校の一年生だった。
「たか子センセーだとォ。おい小蒔!お前、あんな奴に関わると喰われちまうぞッ」
 特にあいつは美少年が好きなんだからよとのたまわる京一に、小蒔は拳を振り上げる。
「誰が美少年だ!」
 からかいの言葉は、龍麻を心配する自分達を元気づけるためのものだと解っていたから、振り下ろすことだけはやめておいた。
 桜ヶ丘は京一の師匠の行きつけの病院でもあったと聞く。幼い頃を知られているためか、独特な雰囲気をもつたか子の迫力に気圧されるのか、京一は極力たか子に近づかないよう心掛けているようだ。
「うふふ。たか子先生は、とてもいい方よ。お世話になったんですもの。一度きちんとお礼がいいたかったの」
 藤咲が気まずそうに髪を掻き上げた。
「ゴメン。それアタシのせいだよね。もう躰の方は大丈夫なのかい?」
 藤咲とは目黒を中心に起こった事件で知り合っている。彼女は当初、敵として龍麻たちの前に立ちふさがったのだ。
 高校生がある日突然夢から覚めなくなる。それは、藤咲の友人である嵯峨野麗司が、自分をいじめた生徒達に復讐するために行っていたことだった。さらに嵯峨野は憧れていた美里を手に入れようと魔手を伸ばし、たか子は夢に捕らわれた美里を救うべく、高見沢とともに手を尽くしてくれたのだった。
「もうなんともないわ。ありがとう藤咲さん」
 その藤咲が、今は龍麻のためにこうして駆けつけてくれている。縁(えにし)とは、不思議なものだ。
「それは置いといて、いまは龍麻サンのことが先だろ?」
「そうだったね雨紋、ゴメン。舞子にも頼まれてたんだ。今日はどうしても病院の方をぬけられないからって」

「あの、皆さん」
 また、違う声が割り込んできた。千客万来だなと醍醐が一人ごちる。
「おや、君は……」
 醍醐が思い出すより早く、京一の声が弾んだ。
「紗夜ちゃんッ!」
「あっ、どうもです」
 紗夜が丁寧に挨拶を返す。
「どうしたんだ。龍麻に会いに来たのか?だったら、わりーけど、今日は休みだぜ」
 京一は他の者が口を開く前に、さっさと告げてしまう。第三者には知られたくない。
 首を突っ込まれるとやっかいだという思い半分、紗夜は龍麻に淡い感情を抱いているから、心配させたくないという気遣いもある。
「いえ、違うんです。これ……」
 紗夜が四角に折り畳まれた小さな紙片を京一に渡す。
 開くと、中には手書きで地図が書かれていた。
「これは?」
「そこに、龍麻さんがいます」
 京一が、はっとして紙片から顔を上げる。
 他の者達も驚いて、紗夜を見つめた。
「お願いです。どうか、彼を……龍麻さんを助けてあげてください」
 紗夜はかろうじてそれだけ言い残すと、一目散に駆けていってしまう。
 残された者達は紗夜を追うことも忘れ、呆然として京一の手元をのぞき込んだ。
「コレどう思う?」
 小蒔が指をさす。雨紋ががしがしと頭を掻いた。
「オレに聞かれたってわかんねーよ。あの子も龍麻サンの知り合いなのか?」
 美里が首を傾げ、頬に手をあてる。
「わたし達もよく知らないの。龍麻と一緒にいるときに何度か会ったけど……」
「京一はなにか知っているのかい?」
 藤咲の問いに京一がかぶりを振る。
「俺だって知らねえよ。ひーちゃんも最近知り合ったばかりみたいだったぜ」
 つまりは、なにも解らないということだ。
「龍麻がここにいるなら、行かなきゃなんないだろうね」
「そうはいってもよ。藤咲の姐サン、罠ってことも考えらんじゃねーの?」
「だが、他に手懸かりはない。少なくとも彼女は龍麻が消えたことを知っていたんだ。なんらかの関わりがあると見て間違いないだろう」
 醍醐が言い聞かせるように一同を見回した。
「虎穴に入らずんばってことかよ」
 雨紋が舌打ちする。
「アタシは信用できると思うよ。なんかあの子、必死な顔してたもん。そう思わないかい京一」
 京一は、ゆっくりと息を吐き出した。
「いってみりゃ、わかんだろ」
 泣きそうだった紗夜の顔が、頭を離れない。
 胸中に蟠る不安が膨らんでいた。

  

『兄さんもうやめて。わたしは兄さんの人形じゃない』

 炎が揺れる。
 地図をたよりに駆けつけた品川の廃ビル地下で、龍麻は床に膝をついていた。
 飛び散る火の粉にも頓着することなく、ただじっと俯いている。
 龍麻は上半身が裸だった。露わになった滑らかな肌に、うっすらと無数の傷が走っている。
 おそらく人体実験の痕なのだろうと考え、京一は初めて敵に殺意を抱いた。
「龍麻ッ!!」
 普段は使わない名前を呼ぶ。
 龍麻の反応はなかった。腕に抱き込んでいるものに心を捕らわれているようだ。
「おいっ、ひー……紗夜ちゃん!?」
 重ねて呼びかけた声が、叫びに変わる。
 龍麻の腕を深紅に染め上げて横たわるのは、先ほど別れた少女、比良坂紗夜だった。
「しっかりして!」
 葵が炎を避けて龍麻の側に膝をつき、《力》を開放する。
 しかし、回復の呪文も、治癒の光も紗夜の顔色をよくすることはなかった。傷が深すぎるのだろう。
 龍麻は静かな瞳で、紗夜の言葉を聞いている。
「そうだ、…今度……どこかに……行きませんか?」
 苦しそうに喘ぐ少女を、そっと支える。
「いいよ。どこでも比良坂の好きな場所へ行こう」
 そこだけは、時も息を潜めているようだった。
 他者を寄せ付けない雰囲気に、一同は声を殺して二人を見守る。炎が迫っているのに、危険だと忠告する気さえおこらない。
「えへへ……楽しみだなあ……」
 紗夜が嬉しそうに、目を細めた。
 京一はいたたまれなくなって顔を背ける。と、白衣の男が眼に止まった。
「紗夜……僕の紗夜。可哀想に。こいつにたぶらかされてしまったんだね」
 唇を戦慄かせ、男はひとり喋り続けている。憎悪と狂気に彩られた瞳が龍麻を射抜いていた。
 察するにあれが今回の首謀者なのだろう。男の言葉から、京一は紗夜が彼の協力者だったことを知った。彼女は男を裏切ったのだ。
 龍麻を救うために。
「緋勇龍麻さえいなくなれば、紗夜は僕のところに戻ってくる。大丈夫だよ……今、こいつを殺してあげようね……」
 男の指がすぐそばにあるボタンに伸びる。背後の鉄の扉が音を立てた。
「ひーちゃん!!」
 京一がとっさに紗夜ごと龍麻に覆い被さる。扉の向こうから流れ込む新しい酸素に、炎が轟っと逆巻いた。
「行け腐童!緋勇龍麻を殺せっ!!」
 命令に応じ、陽炎に巨大な影が浮かぶ。緑色の皮膚をしたフランケンシュタインといった様相だ。背後に引き連れた手下も同じような感じだったが、腐童に比べると一回り小さかった。
「……京一」
 そっと肩を押し戻され、炎の舌から龍麻を庇っていた京一は抱きしめていた腕を緩めた。
「ひーちゃん、大丈夫、なのか?」
「俺は、問題ない……藤咲、美里、比良坂を頼む」
 龍麻は紗夜の額に張り付く前髪をそっと掻き上げてやると、意識を失った少女の躰を預けた。
「わかった、こっちはまかせといて」
「龍麻、はやく終わらせて彼女を病院へ連れていきましょう。たか子先生ならきっと彼女を助けてくれるわ」
「そうだね」
 美里の提案に、微笑みで答える。
「ひーちゃん……」
「京一、雨紋と一緒に死蝋の捕獲に回ってくれないかな」
 死蝋というのが、白衣の男の名前なのだろう。
「おい、ムチャするなって」
 立ち上ったとたん、ふらりと傾いだ身体を支える。龍麻はその腕をやんわりと拒んだ。
「俺は大丈夫だから。京一」
 いつにない強固な瞳に、京一が折れた。
「わかった。雨紋、いくぜ」
「オーケー」
「醍醐と桜井は退路を確保しておいてくれ!」
 入り口付近にいた二人に声だけで指示を出す。
 腐童が鈍い動きながら、龍麻に一直線に向かってきていた。
 行く手を塞ぐ実験道具や器具を無造作になぎ倒している。信じられないほどの怪力の持ち主だ。
 ふっと、龍麻の口角が吊り上がった。普段からは想像もつかない凄惨な笑み。
 音もなく構えられた拳。ふわりと髪を逆立て、黄金の《氣》が立ち上る――。
 裂帛の気合いとともに、龍麻の拳から破魔の力が放たれた。

 八雲――。
 素早く拳を繰り出し、幾重にも重ねた《氣》を相手にたたきつける技である。

 光の束となった《氣》は炎を割り、腐童と呼ばれた怪物に襲い掛かる。
 咆哮に廃ビルが揺らいだ。
 それは、歪んだ研究の果てに生まれた生物の断末魔の叫びだ。腐童は魔を砕く《力》の前に、なす術もなく吹き飛ばされた。己の這い出てきた扉の奥の壁へ叩きつけられた肉体は、胸から腹にかけて巨大な穴を穿たれている。
「すっげェー」
 雨紋が動きを止め、口笛を吹いた。
「馬鹿、雨紋。他に気ィとられてねェで急げッ」
 吃驚したのは京一も変わらないが、いまはそれどころではない。早く死蝋を捕獲しなければ、こっちがローストにされてしまう。
「わかってっけどよ、京一。こりゃあ一筋縄じゃいかねえぜ」
 ぼやきたくなるのも当然のこと。燃え上がる研究用の器具に行く手を阻まれ、気を抜くと引火した薬品の爆発に巻き込まれてしまう。挙句、敵は炎をものともせずに攻撃してくる化け物どもだ。
 30メートルほどの死蝋との距離が、果てしなく遠かった。

「比良坂さん!?比良坂さんは、どこいったの!?」
 背後で悲鳴が上がった。京一が振り向くと、藤咲が髪を振り乱して、あたりを見回している。
 襲い掛かってきた腐童の手下に対処していたほんの少しの間。目を離した隙に紗夜の姿が消えていた。
「紗夜ちゃん!?」
 あんな躰で、どうやったら動けるというのか。
 京一は焦った。小蒔を戸口に待機させ、醍醐も慌てて戻ってくる。

「おい京一、あれ……」
 雨紋が藤咲のもとへ走ろうとする京一を引き留めた。指し示された方向に目を向け、京一は息を呑む。
 紗夜は京一達が向かっていた場所、死蝋影司の傍らに立っていた。

「龍麻さん……」
 すでに正気を失った死蝋を支え、可憐な声が龍麻を呼ぶ。いつ息絶えてもおかしくなかった少女の、どこにそんな力があったというのか。
「比良坂?」
「ごめんなさい。わたしたちの罪は、こうすることでしか償えません」
「紗夜ちゃん。戻ってくるんだ!」
 足を踏み出した京一の視界を塞ぐように、炎の塊となった梁が落ちてきた。
 いまや炎は地下室全体を舐めつくしている。崩れ落ちるのは時間の問題だった。
「どうして、そんな奴庇うんだだいッ」
 藤咲が必死に呼びかける。紗夜は微笑んだ。
「兄を――兄さんをひとりにはできません」
「兄さんだってェ」
 京一が素っ頓狂な声を上げる。
 紗夜はかまわず続けた。
「龍麻さん。わたしね、始めて本当の倖せがわかったような気がするんです。いまなら奇跡も信じられる」
 天井からタイルが、パラパラと剥がれ落ちる。
「いかんっ、もう持たないぞ」
 醍醐がせっぱ詰まって叫んだ。

 そのとき、放心したように紗夜を見つめていた龍麻が動いた。
 炎に飛び込んでいこうとする躰を、とっさに後ろから醍醐が羽交い締めにする。
「龍麻よすんだ!!」
「放せ、醍醐っ!!」
 京一は、龍麻が声を荒げるところを初めて見た。いつも冷静な瞳が、今は炎を映し狂ったようにもがいている。
「無理だ、もう間に合わん。京一、見てないで手伝え!!」
 ともすれば引きずられそうになるのを必死に押さえ込み、二人がかりで戸口まで連れ出した。
「比良坂!!」
 龍麻の悲痛な叫びが炎に吸い込まれていく。
 紗夜が、倖せそうに微笑んだ。唇が動く。

 ありがとう龍麻。
 わたしあなたに出会えてよかった――。

 微かに届いた声を最後に、天井が崩れ落ちた。

2001/03/01 UP
ひきつづき紗夜×ひー。
雨紋と藤咲も登場。ミサは、書いててすごく楽しかったです。

【次号予告(偽)】

龍麻の他人を拒絶する態度に腹を立てた京一。強引に押し掛けた龍麻の家で、怒りにまかせ掴みかかった。
京一:「ふざけんなっ!!てめえ……龍麻ッ!!」
陶磁器の割れる音。
龍麻:「あ、割れた」
京一:「そんなこと気にしてる状況か?!カップのひとつやふたつ後で弁償してやる」
龍麻:「いいのか?これ、マ○センのカップで25万円ぐらいするんだけど……」
京一:「へっ?……に、にじゅうごまんえん……?……」
龍麻:「そう。25万円(税別)」
京一:「……えっと……な、何で高校生の一人暮らしの部屋にそんなものが……?」
龍麻:「さあ?俺、食器とかよく解らなくて人に適当に選んでもらったものだから」
京一:(適当でマイ○ン?こいつの金銭感覚って一体……)
龍麻:「本気で弁償してくれるんだ?(別に無理してくれなくてもいいんだけど)」
京一:「うっ……そ、その件につきましては、改めてゆっくりと話し合いをば……」