Keep on keeping on

 あの方は、もう覚えていらっしゃらないだろう。

 ザーツバルムの元で働き始めてすぐの頃。主の書簡を届けに行った先でハークライトは重要書類搾取の冤罪をかけられたことがあった。
 下層市民である青年に弁明の余地などなく。書類が出てこなければ犯人として罪が確定してしまう。雇用主の権威にも関わる。
 困り果てた下級兵の窮地を救ってくれたのが、その城で従僕として働いていたスレインだった。
 彼の機転によりハークライトの嫌疑は晴れたが、代償として少年に待っていたのは主人の仕事に口出しした罰という名の激しい暴力。

『慣れていますから大丈夫ですよ』

 傷だらけの身体で、何でも無いことのように微笑んだ少年の――愚かで高邁な、その精神。
 どれほどに虐げられても、否定されても。
 己を曲げず折れることのない強い意志に。逆境の中にあっても、絶望と憎悪に染まることのない汚れなき心に。
 若き兵士の魂は震えた。
 もし、この世に高貴な生まれというものがあるのなら。それは、彼の姿をしているに違いないとハークライトは思う。

 騎士として身を立てた暁には、彼に忠誠を捧げよう。
 アルドノアの光輝を身に纏い、星の海を行く彼の背にどこまでも追随しよう。

 もっとも、第三階層出身の青年に貴族の仲間入りをする機会など訪れる筈もなく、ましてや地球人の少年が人を雇う地位を得る日など巡ってはこないのだけれど。

 こんなものは、感傷に過ぎた夢物語に過ぎない。

 そんな、ヴァースの階級社会に囚われたハークライトの固定観念さえ、スレインは覆してくれた。
 彼に仕え、騎士となり、共に戦場を駆け抜けたその奇跡を。報われることのなかった人生の中で、無謀にも抱いた願いが叶った喜びを。
 どの様に言い表したら良いのだろうか。
 彼こそはハークライト唯一絶対の主君。心より仕えるべきたった一人の相手。
 泥中を這うように生きてきた青年が、初めて仰いだ天に煌めく星だった。



1.

 なんだろうなあ、この混沌は。
 目前で繰り広げられる茶番狂言を、バルークルスは一歩下がった所から鑑賞していた。
 ヴァース本国に送られることになったと、いきなり通達を受けたのが2日前。1時間前に護送船に乗せられ、約20分後には緑深い山中で記憶に残る航空母艦に乗せ替えられた。
 そこで、処刑されたはずのトロイヤード卿と再会を果たし、互いの生存を喜び合ったのも束の間。
「スレイン様、よくぞご無事で……っ!!」
 主君の手を押し戴いて咽び泣く背の高い男と、少し離れたところで諍い合う男女により、バルークルスはぽつねんと立ち尽くす羽目に陥っていた。
「あの、ハークライト…さん……」
 スレインは過剰な反応を示す部下に若干引いている。
「なんと水臭い。以前のようにハークライトと呼び捨てになさってくださいスレイン様」
「いえ、あの……」
 己の手を取り戻そうと幾度か試みるも、御許を離れまいと誓う副官の決意は固かった。
「ああ、スレイン様、貴方のお心も知らず、命令に背いた私をお許し下さいますか」
 キラキラした双眸で主君を見上げる姿は、薄暗い病室や獄舎の一室で虚のような目をしていた男と本当に同一人物なのか疑わしくなる程。
 涙の邂逅――些か一方通行気味だが――を果たす主従の背後では、語気を荒くする女性と面倒臭そうにいなす男の姿があった。
「なお君。お姉ちゃん聞いてないわよ。いつからお付き合いしていたの!?」
「ユキ姉。その話はまた後で」
「なによ、お姉ちゃんにちゃんと言えないの?」
 会話からして姉弟のようだが、バルークルスの記憶が確かなら、あの青年はトロイヤード卿を追い詰めた連合の軍神ではなかったか。
 なんだ、『なお君』って。
「お姉ちゃんにだけ秘密にするなんて、いつからなお君はそんな薄情な子になっちゃったの!」
「個別の任務に借り出されて不在にしていたのはユキ姉の方じゃないか」
 軍神の姉君は見目良く快活であることから、要人の案内役を仰せつかることが、ままあるらしい。此度も、横浜の国際会議に出席していた各国首脳陣を相手に、次世代カタフラクト機のガイダンス役として引っ張り出されていたそうな。
 そうして一仕事終えて戻ってきたならば、艦内は実の弟の恋愛話で持ち切りであった、と。
 事の顛末を当人に確かめたくなる気持ちは分からないでもないが、戦闘指揮所でやることなのかそれは。
「デューカリオン、成層圏を抜けました。これより安定飛行に入ります」
「サテライトベルトの磁気から生じる風に注意し、安全運転を心掛けてください」
 亜麻色の髪を持つ操舵手の一報に、艦長らしき女性が指図した。
 騒動に巻き込まれたく無いのか、こちらには一切関知してこない。的確な判断といえた。
「時間が無いので、概略だけお伝えします」
 副官の引き剥がしを諦めたスレインが、部下に手を預けたままバルークルスに視点を当てる。元伯爵もまた、姉弟からは意図的に顔を逸らしていた。
「この航空母艦が向かっている先は、北米です」
 第一次宇宙速度で走行すれば、横須賀基地からコールドレイクまでは約30分。ハークライト達をピックアップする都合上、デューカリオンはギリギリまで日本に残っていた。出立が夕刻だったことから、時差により現地へは深更に到達する。
「地球連合軍は北米火星騎士の駆逐に関する決議を下しました。翌朝、カルガリーの揚陸城へ向けて総攻撃が開始されます」
 第二次惑星間戦争終結より1年半。軌道騎士の一部は未だ地上に残り実行支配を続けていた。
「今春、地球軍はアルビールを支配していた軌道騎士の撃退に成功しています。内部の強硬派が、この流れを維持しようと強引に事を押し進めてしまった、というのが表向きの筋書きです」
「裏に、スレイン様が関与せねばならない事情が絡んでいると?」
 主との再会に浮かれまくっていようと、ハークライトは有能だった。元伯爵は己の部下とバルークルスを交互に見やる。
「北米の要塞は、いつからか現クルーテオ公クランカインの手に落ちていました。公爵は地球で静かな生活を送っていたレムリナ姫を攫い、自身の野望の道具にしようとしています」
 真の目標はアルドノア因子を持つ少女の奪還。王配ごときに彼女を好きにさせるわけにはいかなかった。
 そこから、戦争首謀者とされたスレインが生かされた経緯や、公爵の為そうとしている計画。地球の軍神と火星の元伯爵が手を結んだ流れが語られ、ハークライトとバルークルスを仰天させた。
「ふむ。レムリナ姫とは、皇女アセイラムのお姿で貴公の隣におられた御方ですな」
 俄には信じがたい話だ。バルークルスはやっとのことでそれだけを口にする。
 ザーツバルムに与する『アセイラム』が、存在を隠されていた第二皇女であったことは、月面基地放棄の時に知った。血統への忠誠心を喚起し、少女を無事に地球へ送り届けさせる為の情報公開。あいにくバルークルスは最期の一花を咲かせる方に血道を上げてしまったが、幾人かは狙い通り護衛の任を果たしている。
「はい。故あってザーツバルムの庇護を受けられていた御方です。無理をいってアセイラム姫様の代わりを勤めて頂きました」
 偽りの夫に寄り添う皇女の瞳には恋慕が宿っていた。強制的にやらされている感じはしなかったが、姫君の立ち位置を慮っての発言なのだろう。
「お二方を呼び寄せたのは助力をお願いするためです。これは単なる要請であって命令ではありませんから、断って頂いても構いません」
 成る程。自分達の急な釈放にはトロイヤード卿が関わっていたのかと、バルークルスは察した。
 連合上層部との取引に、相応の犠牲を払ったことは確実。恩に着せ了承を取り付けることも可能であるのに、元伯爵はそれを良しとしない。
 これだから危なっかしくて、放っておけないのだ。
「私はスレイン様の臣下です。一言、命じてくださればそれで良いのですよ」
 レムリナ様のことはザーツバルム卿より後を任されてもおりますしと、ハークライトが涙の跡を残した顔を上げる。
 バルークルスも然諾した。ここまできて局外者扱いはなかろう。
「話を聞いた限り、放置しておける内容でもなし。何より……」
 最敬礼を持って、紛う事なき第二次惑星間戦争の立役者を正視する。
「貴公がヴァースへ示された温情を返さずに何が騎士か」
 戦後、大怪我を負ったバルークルスは、危篤状態で運び込まれたハークライトと同じ病室に収容されていた。
 副官が目を覚ましたのは、終戦から半月近くも経った頃。彼等の総領スレイン・ザーツバルム・トロイヤードは、疾うに刑の執行を終えていた。
 即座に主人の後を追おうとした忠臣の命を繋いだのは、連合軍の監視をかいくぐり接触してきたひとりの下士官。
 彼がもたらしたスレインのメッセージは、外野でしかなかったバルークルスでさえ、涙を誘われずにはいられないものだった。

 時代に翻弄され、大人達の醜い都合を押しつけられた少年。
 されど彼は、決して虐げられ潰されるだけの存在ではなかったのだ。

 先細る火星の未来に、元伯爵は新たな道を残していた。
 それが正しいか。己の意に添うものかどうかは、関係ない。
 その偉業に。功績に。ハークライトは残りの人生を捧げることを誓い、バルークルスは畏敬の念を抱いた。
「我等はトロイヤード卿の手足となる者。お好きなように使われると良い」
「感謝します」
 ゆうるりと頭を下げるスレイン。
 その口元には、戦争中にはなかった柔らかな微笑が刻まれていた。


 随分と馴れ馴れしい。
 ハークライトは連合の青年将校と打ち合わせをしている主君の様子を横目にしていた。何気なく伸ばされた軍神の指が、白金の髪や頬に触れる度に苛立ちが募る。スレインが許している以上、口を挟むべきではないかもしれないが、あの者の振る舞いは少し不遜に過ぎないだろうか。
 気を散らしながらも、装備の点検に手抜かりはない。戦場へ着くまでに支度を調えねばならなかった。
 デューカリオンはコールドレイク基地での準備を終え、カルガリーへ向けて舵を切ったところ。役儀分担の為、主立った者達はブリッジに集められていた。
 ダルザナの指示通達を聞き過ごし、慣れた手つきで銃を分解して各部位を清掃。再び組み立て直し、弾薬に不良品が混じっていないかひとつひとつ丁寧にチェックする。
 続けてスレインが袖を通す火星下士官用の上着に空いていた穴を丁寧に縢った。本来なら、臙脂の爵位服こそ誰よりも似合うお方なのに。
「ハークライト。バルークルス卿も、本当にその格好で行かれるおつもりですか?」
 一通り作業を終えると、スレインが二人の様子を見に訪れた。その口調に火星騎士達を束ねていた頃の峻厳さはない。
「問題ありません、スレイン様」
 ハークライトは恭しい手付きで、己が上官の肩に繕い終えた上衣を着せ掛けた。
 元伯爵の部下は二人共に、獄舎を出るとき渡された安物の白いワイシャツとズボンを着用している。
「なに、入り用なら相手から奪うまで」
 献身的な副官の働きを脇で眺めていたバルークルスは、好戦的な笑みを浮かべた。目立つには違いないが、動く分には支障がない。彼は根っからの軍人だった。戦場を前にすれば心が躍り、気持ちが逸る。
「作戦は、お伝えした通りです」
 界塚伊奈帆率いる連合軍カタフラクト及び陸上戦車が城の正面に集結。敵の主力戦隊を引きつける。
 動く要塞を抑えるのは内部制圧部隊の役回りだ。彼等は敵が地上戦に注力している隙を突き、空路を辿って揚陸城へ侵入する。
 ここまでは、アルビールを陥落させたのと同様の戦法であり、連合軍が軌道騎士に攻城戦を仕掛ける際の常套手段だった。
 今回は突入部隊を増員し、城内で破壊工作を行う者達と、皇女の保護を図る小隊とに別れる。
 レムリナについてはヴァース帝国内でも公になっていない事情を斟酌し、両惑星の和平に不満を持つ火星人に連れ去られた『連合加盟国政府要人の娘』という扱いになっていた。
「了承した。参考までにお聞かせ願いたいが、貴公、万が一我らが断っていたら、どうされるおつもりだったのだ?」
 スレイン達は素性を隠したまま、救出要員の別働隊として動く。
「そうですね。レムリナ姫のお御足のことを考えると単身では少しきついかな……」
 青年は当たり前のように、単独潜入を視野に入れていた。
「その時は順当に、表を韻子達に任せて僕がついていったよ」
 頸部保護用のエアバックを手にした伊奈帆が近づいてくる。
「輸送機を奪って独りで種子島まで飛んでくるとか、サテライトベルトの連合軍基地を単騎カタフラクトで破壊したりすることに比べれば楽勝だ」
 スレインは上着に袖を通すと、視線を青年将校へ巡らせた。
「個人で月面基地に潜入してくるのと、大差はありませんよ」
「どれも通常は行いません。貴方達はもう少し危機感というものを持って下さい」
 マグバレッジが苦言を呈する。
「許可を出したのは艦長じゃないですか」
 幼馴染みの恋物語は韻子の耳にも届いていた。沈んだ気持ちを吹っ切るように頭を振ると、いつもの調子で明るく突っ込みを入れる。
 空元気がバレているのだろう、気遣わしげなニーナにはアイコンタクトで感謝の意を伝えておいた。
「放っておくと何をしでかすか解りませんから。最初から作戦に組み込んでしまった方が、後々の厄介事が減ります」
 この二人、引き離せば大人しくなるかと云えばそんなことはない。各々が自己の見地に基づき、どんどん行動を起こしてしまうのだ。一括りにしておいた方が、別の指向に走らない分だけ、まだマシというものである。
「行き当たりばったりに聞こえます」
 前向きなのか投げやりなのか解らないコメントに、ハークライトは面食らっている。
「活気のある職場ではあるな」
 とは、バルークルスの言。
 二人の所論に苦笑を浮かべた元伯爵は、改めて青年将校へ向き直った。
「復刻された火星カタフラクトは、タルシスの飛行機能に随類する力を、新たに得ているかもしれません。くれぐれも気を付けて」
 以前と同じ手が通用するとは限らない上、何体相手にすることになるのかも分からない。
「その言葉、そっくり返すよ。敵陣の中、孤立無援なのは君等の方だ」
「北米の揚陸城は沈めます」
 スレインが、きっぱりと宣告した。
「他人の女に手を出しておいて、ただで済むとはクランカインも考えていないでしょう」
 レムリナはザーツバルムの姫だ。家門の娘に非礼を働かれ、捨て置けるほど一族の誇りは低くない。
「それなんだけどさ」
 伊奈帆が探るような目つきになった。
「セラムさんの代わりをして君と婚姻を結んでいたのは、彼女だったってことだよね?」
 どの程度、本気で夫婦をやっていたの?
「……レムリナ姫には、あくまで戦略の一環として婚姻を装って頂いただけです」
 ちょっと狼狽えたように、視線を彷徨わせる元伯爵。
「レムリナ様からは違う答えが返ってくると思いますが」
「ハークライト」
「……は。出過ぎたことを申しました」
 青年将校は憮然として、目の前にある月光色の髪をくしゃりと掻き混ぜた。
「なんですか?」
 絡まった毛先を指先で解しながら、恨めしげな表情を作るスレイン。
「別に」
 伊奈帆は微妙に拗ねていた。
「仲良いなあ」
 バルークルスが、なんとはなしに抱いた印象を口にする。副官は柳眉を逆立てた。
「スレイン様がお優しいのを良いことに」
「そう射殺しそうな目をするでない。少し落ち着かれよ」
 月面基地時代より上官に話しかける輩を誰彼構わず威嚇していたハークライトの習性は、未だ健在であるらしい。
「各隊より通信が入りました。全員、配置についたそうです」
 友軍の繋ぎ役を務めていた祭陽が報告を上げた。
 動員数はヴィクトリア湖戦並み。元伯爵の交渉力の賜だ。
 マグバレッジが立ち上がった。
「これより作戦行動に移ります。各自持ち場についてください」
 スレインは上着のボタンを全て止め終えると半眼を伏せ、息を吐き出す。
 伊奈帆がストローマイクの装着を終えた。
 二人の纏う空気が一変する。ブリッジ内の緊張が高まった。
「行こう、韻子」
 幼なじみの肩を叩き、青年将校がカタクラフト格納庫へ歩を進める。
「行くぞ。ハークライト、バルークルス卿」
 偉大な指導者であった頃を彷彿とさせる怜悧な声音に。火星騎士達は我知らず背筋を伸ばした。



2.

 地表スレスレに拡がる煙幕が、戦闘開始の合図だった。
 友軍機の合間を縫って走るハンヴィーが、一路、揚陸城を目指す。ハンドルを握るはハークライト。
 装甲車の位置特定を困難にし、初動を有利に進めようとする工作は、スレイン達の動きを悟られない為の目眩ましともなっていた。
 デューカリオンのブリッジで口に出すことは憚られたが、元伯爵はレムリナを救出するのは自分達火星陣営でなければならないと思い定めている。
 アルドノア因子保持者である第二皇女には、火星の優位性を傾覆させ国の勢力図を一気に塗り替える価値があった。
 この件に関して地球圏は必ずしも味方ではない。彼等に渡したが最後、レムリナは有無を言わさず移送され、身柄を拘束されるだろう。伊奈帆やダルザナが取りなそうとも、彼等程度の階級では意味を為さない。
 煙幕の隙間から蒼天を臨めば、遙か上方を戦闘機の群れが滑空していった。
 再生された火星カタフラクトの手繰る榛色の拳が、彼等の行く手を阻んでいる。
 次々と打ち墜とされる軍用機を前にしても、体の良い囮役であるとしか感じなかった。
 自分達より先に皇女に近づく心配をしなくて済むのも有り難い。

 誰かの死に心が痛まないわけではないけれど。
 他者を切り捨てて行くことも厭わない。

 倫理観はノヴァスタリスクで投げ捨てた。
 己が灰燼に帰そうとも、護るべき大切な者が残りさえすれば良いと。思い極めてここにいる。
 当初はアセイラムひとりきりだった対象に、レムリナやエデルリッゾまで含まれるようになってしまったのはちょっとした誤算だったが。
「公爵側の陣営は、アルギュレ、ヘラス、エレクトリス、スカンディア、オルテュギアの5体か。乗り手の技量は本来の持ち主に遠く及ばないにしても、数だけは多いな」
 これでは、伊奈帆も苦戦は避けられまいと、スレインは独り言ちる。
 タルシスの姿はなかった。
 公爵の招待状によって明らかとなったのは、レムリナの行方だけではない。マズゥールカの報告を装ったメールには、クランカインの送信日以降半月分の予定が記されていた。
 彼は数日前より、軌道上にいる身重の妻を見舞っている。主に伴われた白銀の機体は、空の上でメンテナンスでも受けている時分だ。
 当人さえいなければ、北米と王婿の関係は立証されない。女王に逆らい地上の支配を続ける軌道騎士を排除しただけだという言い訳が、火星と地球どちら側からでも成り立つ。
 スレインと共に地球の英雄は潰したいが、連合内賛同派との連携は保ちたい公爵が考え出した苦肉の策だった。
 内部分裂を避けるため問題を表沙汰にしたくない連合側も、敢えて彼の魂胆に乗っかり不在時を選んで行動を起こしている。
「大盤振る舞いですな。我等が愛馬は消耗品などではないというのに」
 立身栄達の象徴ともいえる火星カタフラクトを軽々しく扱われ、バルークルスは憤っていた。
 ハークライトはハンヴィーのハンドルを大きく右へ切る。
「お二方とも、もうじき目標地点です。準備をお願いします」
 揚陸城の根元は地中に潜ると、大樹が根を張るごとく展開して2階層分のフロアを形成する。これが巨大な城の支えとなった。
 地面と接する位置に出入り口はない。3mの高さにレーザー砲用のアロースリットが並ぶのみだ。日本風にいうなら大砲狭間。上空からの都市制圧時に活躍する設備だが、地表に降り立った後は密閉率の高い揚陸城の通気口として使われている。よって基本は常時開口だ。
 横付けされた車両から降りたバルークルスが、ワイヤーガンでアームを打ち出した。放たれた鉤爪が狙い余さずアロースリットの角を捕らえる。
「私が先に行く」
 火星下級兵の制服を身につけたスレインが、腰のカラビナにワイヤーの端を填め込んだ。
「お気を付けて」
 案ずるハークライトに頷きを返し、左手で自動リールを操作する。引き上げられていく身体。砲台の隙間から城内に身体を滑り込ませれば、幸いにも辺りに巡回兵の姿はなかった。
 合図を送り、地上に残してきた二人を順番に引き上げる。
「さて、囚われの姫君を救いに行くのなら、上階へ進むのがセオリーですが」
「まずは地下牢へ行く」
 バルークルスの問いに、スレインは迷いなく答えた。
 北米を支配した軌道騎士は周りを血族で固め、強い結束を誇っていた。下級兵士と雖も易々と公爵の軍門に降ることはない。だが、城の管理には人手を要した。管制塔や武器庫以外であれば、元からここで働いていた兵達でも事足りる。
 クランカインは人手を確保するために、城主に次ぐ身分の者を人質としているのではないか。
 スレインが思い描くのは一人の老爺だった。彼とはクルーテオの使用人時代に何度か顔を合わせている。
 始末されていなければ、間諜行為で捕らわれたマズゥールカも居るはずだ。
 上手くいけば双方から情報を引き出せる。
 大過なく辿りついた地下牢では、端から順に扉を解錠していった。中を確かめることはしない。捕らわれているのがどんな罪人だろうと、城内を混乱させ掻き回してくれる分には問題ないからだ。
 目当ての人物に出会したのは、3つ目の扉を開け放った時だった。
「これは……トロイヤード卿、生きておられたのか」
 小さな部屋の奥、ひとつだけ設置された粗末な寝台に腰掛けた翁が皺だらけの顔に驚きを宿す。
 37家門軌道騎士がひとりフェルト伯爵。
 先代当主であった彼は甥に地位を譲り、隠居と称して経験の浅い後継者を側近くで補佐してきた。実質、彼がこの揚陸城の主だ。
「お久しぶりです。後見殿」
 残った扉の開放をハークライトに任せ、足を独房の中央に進み入れる。
「亡霊ではなさそうですな。何故このようなところに?」
「ザーツバルム縁の娘が、公爵に攫われました。此の地へは彼女を取り戻しに」
「おなごか。あの若造、王婿となったにも関わらず、未だあちらこちらの花に手を出す癖が抜けきらんとみえる」
 同じ37家門騎士として、後見は幼少期よりクランカインのことを知っていた。老人に掛かれば公爵も、まだまだ尻の青い小童に過ぎない。
「後見殿は何故、逃げなかったのですか。巡回兵の中には、貴殿の部下も多く含まれているのでしょう?」
 彼等に命ずれば、牢から抜け出すことなど造作もなかったはずだ。
 年老いた男の顔が苦渋に彩られる。
「不詳の甥が……な」
 決闘に敗北し財を奪われる。それは良い。勝負自体は、後見たる自分も立ち会った正当なものだった。されども以降がいただけない。
 クランカインは揚陸城のアルドノア・ドライブを稼働させる方途として、現当主の延命を選んだ。短い間のことであるなら、女王に初期化を願うよりも手っ取り早く言い訳も要らない。
 用意されたのは、スレインがアセイラムの快癒を願って使ったのとは異なる生命維持装置。
 痛みや苦しみが軽減されることはなく、心の臓が停止すれば電気ショックを与えて無理に動かすだけの機械だ。
「助かる傷ではなかった。公爵も助けるつもりなど端からない。甥は文字通り、苦悶の中で生かされ続けておる」
 回復の見込みがないのであれば、せめて安らかな眠りを与えてやりたい。
 老人は、甥が捕らわれている部屋の入り口に施された特殊なキーロックを外す手掛かりを得るため、囚われの身に甘んじていたのだった。
「心ないことをするものですな」
 一通り扉の開放を終えたバルークルス達が、背後にマズゥールカを従えて戻る。
 スレインは口の端を少しだけ上げた。
「殺されずに済んだようだな」
「お手間を取らせました。面目次第もございません」
 平静を装って謝罪しているが、年若い火星騎士の表情は恥辱に塗れている。
 マズゥールカは始めから公爵に信用されていなかった。当人から『計画』について聞かされたことは一度もない。諜報活動が早々に露呈したこととて、クランカインが彼の動向に常に目を光らせていたからだ。
「スレイン様、この者いかが致しますか?」
 ハークライトが主に裁定を問う。スレインと伊奈帆が手を結んでいることを知られてしまった件は、明らかにマズゥールカの失態だ。
 若き火星騎士は頭を垂れ、断案を待つ。庇える状況にないことを知るバルークルスは沈黙を保った。
「想定より情報を得られたことには感謝している。こんなところで生かすの殺すのやっている暇もない。後は好きにしろ」
 その程度にしか期待されていなかったとは。
 ちょっと傷ついたマズゥールカだったが、元伯爵が多大な温情を示してくれたのは疑うべくもない。バルークルスがほっとした顔で頷いてくれたのも嬉しかった。
「然らば、これより私も貴公の傘下にお加え下さい。公爵の行いはアセイラム女王陛下のお心に添うものとは到底思えず、臣下としても火星領主としても見過ごすわけには参りません」
 クランカインに見限られたからではない。よくよく考えた上で、導いた答えだ。
「……いいだろう」
 スレインは二人の部下の反応を確かめてから、許しを与える。次いで背後を振り向くと、寝台に腰掛けたままだった翁に手を差し伸べた。
「共に来ませんか?当代殿の救命は無理でも、再会に力を貸すことはできます」
 牢獄の解錠に使用した火星用小型端末は、ザーツバルムの姫を救出するに当たって手に入れたもの。特殊なキーや複雑なパスワードへの対策も整えていた。当代が捕らわれた部屋の入り口にも適用できる。
「何故に?儂を連れ出したところで、メリットなど少なかろうに」
 精々が、回廊で会う兵に襲われることが無くなるぐらいだ。彼等は重要な区画には配置されていない。もとよりやる気もないので、倒すのも容易。
「クルーテオ伯爵に仕えていた頃、貴殿には何度か助けて頂きました。その礼だと思って頂ければ」
 火星の初期入植者でありながら地球暮らしの方が長かった老人は、スレインに対する偏見がなく、謂われ無き暴力から時折そっと庇ってくれた人でもある。
「結末は変わりませんが、貴殿にとっては課程こそ重要なのでは?」
 北米の基地は本日、終わりを迎える。再会は果たせずとも、目的は達せられる。
 しかし、後見としての望みは自らが甥の最期を見届けることだ。
 以前のスレインであれば、己のことで手一杯である時に他者を助けようなどとは考えもしなかったろう。
 今は誰かを救う手立てとなれるのなら、可能な限りは力を尽くしたかった。
 自身もそうやって生かされた身為ればこそ。
「承ろう」
 往年の騎士が重い腰を上げた。


 巡回兵が老人に目礼を捧げ、路を空ける。
 レムリナが運び込まれた部屋の場所は、探すまでもなく後見の配下が把握していた。
 空から潜入を果たした連合の小隊は、上階にある入り口付近で足止めされているという。
 ヘラスの拳を躱し、城まで到達した航空戦闘機は予定の1割以下。片手で足りる人数しかいなかった。
 彼等は死なないようにするのが背一杯で、それ以上動くことは適わない。
 一行は焦ることなく、マズゥールカを先導役に回廊を渡った。
「其方は少し変わったな」
 元伯爵に翁が語りかける。
「そうでしょうか?」
 いち早く北米を制圧したフェルト一族は地域の平定に忙しく、爵位を継いでからのスレインをモニター越しでしか知らない。青年は威風堂々としていたが、同時に随分と窮屈そうでもあった。
「うむ、気持ちに余裕が生じておる。良い変化でもあったか?」
 けれど、ここにいるスレインは。儚くも危うい雰囲気がなりを潜め、精神的に安定しているように見受けられた。
「欲しかったものが手に入ったから、かもしれません」
 どれほどに祈っても。渇望しても。届かなかったもの。
 伸ばした手を掴み取ってくれる『誰か』の存在。
「全てを失い諦めた後になって……。不思議なものです」
 仲の良い祖父と孫のような会話を交わす二人を見守りつつ、バルークルスとハークライトは背後を固めていた。城内には公爵の配下も多く残っている。油断は禁物だった。
「火星は其方にとって安寧の地ではなかったからの。恨んではおらぬのか?」
 ハークライトの肩が微かに跳ねる。
 それは彼の周辺にいた者達が、怖くて口にできなかった発問だった。
 恨んでないわけがない。
 ヴァースの民は彼に平穏など一度も与えなかった。虐げ、侮蔑し。心にも身体にも無数の傷を付け、最後には背負いきれないほどの罪を被せて打ち棄てたのだ。
「儂はこれまで極端な反地球政策に異を唱えてきた。利害が絡めば争うこともあろう。開拓時代に約束しておきながら、物資配給を怠った母星に対する恨みは儂の中にもある。したが、元は同じ大地より派生した者同士。育った場所を原拠に啀み合うなど滑稽でしかない」
 劣等民族だから侵攻するのではない。蔑むべき種族だから奪っても良いのではない。

 戦争とは己の信念を貫くためのひとつの手段であり、政治の継続である。

 だからこそ、老人は民の不信を地球に方向付けることで、やり過ごそうとした帝室に同調できず距離を置いた。
 諫める言葉は聞き入れられず。いつしか地球蔑視は本流となり。
「作り出された歪みを受け止める存在となってしまったことこそが、其方の不幸の始まりだ」
「『私』のではなく『貴方達』のでしょう」
「私達の……?」
 予想外の返答に声を割り込ませしまった副官を、スレインは咎め立てせず小さな笑みを向けるに留めた。
「ヘブンズ・フォール以降、ヴァース帝国民にとって地球人は直に接する機会の殆どない偶像となり果てました。心の中だけならどれほど苛もうと罪にはならなかったというのに。私という『実物』が現れてしまった」
 そして、両惑星の確執など知らなかった幼いスレインは、同じように悪感情を植え付けられる前だったアセイラムと交流を結んでしまい。帝国民は地球人を憎めと説いた皇族が、その対象を庇い立てする場面を幾度となく目の当たりにすることになる。
「クルーテオ伯爵もジレンマに苦しんでおられたようです。いっそ私を殺してしまうことができたなら楽だったのでしょうが」
 頑陋至愚、軽挙妄動。卑賤な民族であると教え込まれてきた地球人は、実際に対峙してみれば自分達と何等変わる所なく。年端もいかぬ子供に過ぎなかった。
 騎士として弱者を護らなければならないとする精神と。
 ヴァース帝国の教えを守る臣下として、劣等民族を受け容れてはならないとする立場。
 良心と義務。道徳と役儀。鬩ぎ合う気持ちは常に彼を苦しめ。元凶たるスレインを遠ざけようとしても、アセイラムの手前どうすることもできなかった。
「そうか、其方は……」
 我らを哀れんでくれていたのだな。
 過酷な環境の中で、それでも優しさを失わなかった青年の胸の内を受け止め、全員が口を閉ざした。
「トロイヤード卿。こちらの部屋になります」
 後見の部下に教えられた部屋の前で立ち止まり、マズゥールカが重たい沈黙を破る。その辞儀には様々な胸懐が込められていた。
 ハークライトが入り口の脇に設置された電子パネルに触れる。
 足が悪く自力で逃げ出せないレムリナを甘く見たのか、ロックは掛かっていなかった。呆気なく開く扉。
「レムリナ姫、ご無事ですか?」
 月面基地での態度に後ろめたさを抱いていたスレインの呼び掛けは、微かな怯えを孕んでいた。
「スレ、イン……?」
 部屋の中央にある寝椅子に腰掛け、大きなモニターを注視していたレムリナが顕著な反応を示す。王配直属の部下が付き人をしていると聞いていたが、席を外しているのか姿はなかった。
「本当にスレインなのですか?」
 皇女の瞳に涙の膜が張る。震える足に力が籠もり、ソファーより腰を浮かせた。
「姫?!」
 無重力区画でのみ自由に動き回れた少女が、地球の重力の中、両足で立っている。離れていた時間が生み出した変化に、スレインは目を見開いた。
 レムリナが意のままにならぬ足を必死に動かす。宙を掻く両腕。
 蹌踉めく身体に駆け寄った元伯爵が肩を支えると、首に回された腕がキツく抱きしめてきた。
「ああ、スレイン。スレイン、スレイン、スレイン……っ!」
 涙を流してしがみつく第二皇女を、青年は僅かな躊躇いと共に見下ろし、
「お待たせして申し訳ありませんでした、レムリナ姫。ご無事で何よりです」
 一度だけ強く、抱きしめ返した。
 夢にまで見たスレインからの抱擁に、レムリナは新たな涙を零す。
 目の眩むような幸福だった。
「募る話はありますが、まずはここを出ることが先決。――失礼します」
 壊れ物を扱うように丁寧に抱き上げられ、愛する人の温もりに包まれたのも束の間。
「ここは私にお任せ下さい」
 などと、余計な申し出をしたハークライトの手に、レムリナは委ねられてしまった。
「なんですの。貴方のそのうだつの上がらない格好は」
 華奢なスレインにレムリナを抱えたまま城を脱出する持久力はない。
 理解はできても不満は残った。
「バルークルス卿と共に牢から出されたばかりなのです。戦闘行為に支障はありませんのでご安心を」
 ふんっと鼻を鳴らして再び想い人へ気を戻すと、スレインは先程まで皇女が視聴していた映像に眼を凝らしている。
 画面では連合軍が、火星カタフラクト相手に苦戦を強いられていた。
「伊奈帆……」
 耳慣れない名を呟く横顔に、レムリナは得体の知れない胸騒ぎを覚える。
「外におるのは噂の連合軍将校か。さしもの軍神も攻めあぐねておるようだの。手助けに向かわれるなら格納庫へ行け。使われていないカタフラクトが残っていると聞く」
 待機カタフラクトは公爵の私兵が護りを担っていた。交戦は避けられないが、隠し通路を辿れば何とかなるだろうと老人は告げる。
 スレインは皇女の前に片膝をついた。
「レムリナ様、友軍の援護に向かうことをお許し下さい」
「連合軍を味方としたのですか?」
「味方ではありませんが、共闘する相手……っ?!!」
 ぐらり、と足下に振動が走り、床面が大きく傾ぐ。
「なんだ?!」
 マズゥールカとバルークルスが付近に警戒を走らせた。
 皇女を抱えたハークライトは腰を落として態勢を安定させる。
「揚陸城が浮上しておるのか?」
 優れた武人でもある老人は、僅かに上体を揺らしただけで体勢を立て直した。
「どうやら我々はクランカインの残した罠に嵌まったようです」
 苦々しい顔で、スレインが立ち上がる。
 入り口の電子ロックは、専用コードを入れずに部屋の扉を操作すると、中央管制室に信号が送られる仕組みになっていた。
 狙いは内部潜入部隊と外部戦力の分断。
 部屋にレムリナ以外いなかったのはスレイン達の油断を誘うためか、後の事を考えて差し当たり戦力を引き上げたかのどちらかだろう。
 恐らくこの揚陸城が浮上した先、衛星軌道上には開戦の合図を受けて集結した公爵の艦隊が待ち受けている。内部に残った手勢と連携を取られると打つ手がなかった。
 大気圏突破までに要する時間は凡そ8分。
「制限時間内に中央管制室を占拠する!」
 元伯爵は即断するとホルスターから銃を引き抜いた。
 要塞の制御を奪い、抗戦可能な武力を得る。戦術的優位を損なったと知れば、敵は地上へ折り返したところで追い掛けては来ないはずだ。彼等は引き際を心得ている。
「我らが城を好き放題に動かされるのは業腹だ。協力しよう」
 老人がいつの間にか部屋の外で控えていた配下に伝達を行った。
 方々から足音が響き、瞬く間に兵隊が揃う。
「後見殿のお力添えがあれば、こちらは手間取ることなく終わるでしょう。スレイン様は地球軍のサポートへ向かって下さい」
 ハークライトが進言した。レムリナの意向を問う元伯爵。
「私のことでしたら心配いりません。地球人達に貴方の力を見せつける良い機会。戦況をひっくり返してきて下さい」
「御意のままに」
 スレインは優雅に一礼した。
「バルークルス卿とマズゥールカ卿は、フェルト一族の兵と中央管制室を制圧しろ。ハークライトは後見殿と共に当代殿の身柄保護を。レムリナ姫の護衛を怠るな」
 地球の兵は入り口で足止めされたままのようだが、万が一と云うこともある。事情を知らぬ彼等によって当代の身に何かあれば、揚陸城は墜落し、中にいる全員が無事では済まなかった。
 第二皇女を戦闘区域からなるべく遠ざけたいという意図もある。
「残機に搭乗者登録がされているやもしれません。アルドノアの初期化に姫君のお力が要るのでは?」
 皇女が艶やかな笑みでバルークルスの憂虞を打ち消した。
「その懸念は不要です。スレインこちらへ」
「……レムリナ姫、他の方法は……」
 皇族であれば、初期化を経ずとも他者の生態情報が登録されたアルドノアの書き換えを行える。
 レムリナの持つ因子は、この上書き権の貸与さえ可能とした。一度与えたら剥奪不可の起動権とは異なり、使用回数を制限することもできる。
 レイレガリアやアセイラムにはなかった彼女だけの能力だ。
「知りません。あったとしても、拒否します」
「うう……」
 スレインは躊躇いがちに皇女の手を取り、指先に触れるだけのキスを落とす。
 これじゃ駄目?と問いたげな哀れっぽい上目遣いを受けて、レムリナが苦笑した。
「しょうのない人ね」
 月面基地の時は、こんな隙みせなかったくせに。
 皇女がハークライトの腕から身を乗り出して元伯爵の目元に唇を寄せた。左目の下に軽く触れる。
 バルークルスとマズゥールカが「おお!」と歓声を上げた。
 アルドノア起動権授与の要件は二つ。与える側の意志と両者の接触である。直接、触れ合えるのであれば、場所は問わない。キスに拘ったのはレムリナの乙女心だ。
「これで一回分。後は自分の力で何とかなさいな」
 回数制限には、次はもうちょっとうまく機嫌を取りなさいという無言の要求が含まれている。
「感謝致します、レムリナ姫」
 元伯爵は決まり悪そうに頭を下げると、老人が付けてくれた護衛2名を連れてエレベーターで階層を下った。
 閉塞した箱の中で先の構造を簡単に聴取し、銃の安全装置を外す。
 昇降機は格納庫の手前にある機材置き場への直通だった。大小様々な荷物が広いフロアの中、所狭しと積み上げられているという。
 スレイン達は到着したエレベーターの扉が開ききるのを待たず、隙間から気配を頼りに発砲した。牽制目的なので、当たらなくても構わない。
 待ち伏せがないなどという楽天的な考えは、始めからなかった。
 相手が怯む合間に飛び出し、近くのコンテナに身を寄せる。
 息を吐く暇も無く、銃撃戦が開始された。
 手早く弾倉を替えながら、敵手の人数を探る。
「11名か。内3名は、初撃で怪我を負ったようだな」
「我等があの者達を引きつけます故、トロイヤード卿は先へお進み下さい」
 真向かいのコンテナにいた護衛兵の一人が、銃弾を潜ってスレインの側へ位置を変える。
 隠し通路の存在を知らない敵は、唯一の通り道であるこの場に戦力を集中させていた。格納庫内に残っているのが非戦闘員ばかりなら、一人でも対処は為る。
「わかった。後を頼む」
 コンテナの陰から発砲を繰り返す二人の兵を残し、元伯爵は教えられた細長い廊下に肢体を滑り込ませると一息に駆け抜けた。
 やはり大きな貨物に隠された出口の先には、折良くこちらに背を向けた一人の男。
 スレインは逃げ出されないよう背後から首に腕を巻き付けると、こめかみに銃口を当てた。
「動くな!少しでも抵抗をみせれば容赦はしない。仲間に武器を捨てるよう命じろ」
「そのお声は、サー・スレイン・ザーツバルム・トロイヤードですね」
 アルドノア研究者と思わしき白衣に身を包んだ男が、大人しく両手を上げる。意外にも落ち着いた声だった。
「侵入者が貴方様であると知ってから、お越しをお待ちしておりました。貴殿のカタフラクトの整備は済んでおります」
「どういう意味だ?」
 訝る元伯爵に、白衣の男がくつくつと喉を鳴らす。
「私をお忘れですか?」
 振り向く面差しには、覚えがあった。
「お前は、マリルシャン卿の所の……」
 男は、決闘で手に入れたマリルシャンの揚陸城で働いていた研究職員だった。大層、優秀だったと記憶している。権限を割り振って統括管理職に近い役職を与えてみたところ、難なく役割をこなしていた。
 戦後、件の揚陸城が皇族の直轄となったことで、男も王婿の配下に組み込まれたのだろう。
「ご無沙汰致しておりました、サー・トロイヤード。再びお会いできたことを光栄に存じます」
「お前にとって私は、主を殺した憎い仇だろう?」
「私が尊敬申し上げる騎士は、サー・トロイヤードおひとりです」
 マリルシャンは特権階級であることを笠に着た典型的な火星貴族だった。身分故の不条理に晒され続けてきた男は、スレインの配下となって始めて正当な評価を得た。積み重ねてきた研鑽と努力が漸く日の目を見たのだ。感謝してもしきれない。
 クランカインは表面的な態度だけは丁寧だったが、内実はマリルシャンよりも酷かった。彼にとって身分の低い者達は、使い捨ての駒でしかない。
「この場に居る者達で、伯爵に害意を持つものはおりません」
 目を転じれば、二人のやりとりに気付いた者達が一様に跪いている。
 スレインは戸惑いを隠せないまま、カタフラクトの所まで案内するという男に付いて歩き出した。
「右手の整備兵は輸送船で機材を運んだ折、トロイヤード卿に命を助けられました。その奥にいる女性研究員は、トライデント基地の兵に兄を殺されています。貴方様が仇を取って下さったのです」
 誰もが皆、何らかの形で地球生まれの騎士による救済を得ている。
「本末転倒だな。私という戦争の素因が無ければ、己や家族が危難に遭うこともなかったのだとは考えないのか?」
「我等とて見る目は持ち合わせています。第二次惑星間戦争はヴァース帝国の淀みが形となったもの。圧政と歪んだ社会構造を産み出した女王や帝室こそが真の元凶」
 スレインに対しては火星のために死力を尽くしてくれたことに恩義を抱きこそすれ、恨みなど持ち合わせるはずがなかった。
「そして『彼』も。再び貴方の元で力を振るう日を心待ちにしておりました」
 誘導された先にあったカタフラクトに、スレインは驚く。
「タルシス……どうしてここに?!」
「公爵は城の浮上に合わせ、内外から侵入者を窮追する段取りを組んでいました。内部の役目に当てられたカタフラクト2体のうち1体がタルシスです」
 残る一体はニロケラスだ。揚陸城は巨大な要塞とはいえ、人型戦車が自由に動き回れるような設計はされていない。そこで、あらゆる遮蔽物を排除する力を持つ藍紫の機体が道を作り、小回りの利くタルシスが狩りを行うことになっていた。用済み後破棄される城だからこその詮術だ。
「王婿は地球との摩擦が起きるのを避け、城を後にしたと聞いていたが、どこかに身を潜めていたのか?」
 乗り手が居なければカタフラクトは動かせない。タルシスの主はクランカインだ。眉を顰めた元伯爵に男が新たな事実を発する。
「タルシスは使い辛いのだそうです。カルガリーへ運び込む直前、公爵は気に入りの食客に下げ渡すべく陛下にアルドノア・ドライブの初期化を願い出ました。自身は別の機体へと乗り換えられています」
 その食客とニロケラスのパイロットは、戦闘要員がエレベーター前の防備に回るのを待って整備員達で取り押さえた。朋輩からの不意打ちに、二人の騎士は為す術もなく縄を打たれ、床に転がされている。
「愚かな男だ。タルシスほど軌道上で戦うのに適したカタフラクトはないのだがな」
 ましてやタルシスはクランカインの父親、亡きクルーテオ卿の愛機であったというのに。
「アルドノアの書き換えは、如何様になさいますか?」
 短い間とはいえスレインの元で働いていた男は、数日前攫われてきた少女が二代目皇帝ギルゼリアの落胤であることを承知していた。
 誰かを呼びにやらせましょうかという申し出を元伯爵は断る。
「不要だ。祝福は既にこの身の内に。助力に感謝する」
 スレインは懐旧の情を胸に白い機体を見上げると、リフトに足を掛けた。



3.

 復刻版火星カタフラクトは、一度は倒したことのある相手ばかり。弱点は知れている。
 5体の放出は意想外だったが、どれと当たっても対処できるだけの仕込みはあった。
 真っ先に焦点を当てたのはエレクトリス。広範囲に亘る雷撃が厄介な上、スカンディアと合体されると面倒毎が増した。いち早く片付けるに限る。
 前回、多大なダメージを負わされたデューカリオンは、船首に傘の骨を逆向きに拡げたような器具を展開した。
 鞠戸率いるクライスデール隊はエレクトリスを正面に、航空母艦よりやや後方に陣取る。
 ボルドーの機体を包んだ黄金の帯が、連合の軍勢に高電圧の牙を剥いた。
 デューカリオン、延いては艦下のクライスデール隊に直撃するはずだった稲光は、予想に反し前面に伸びたアンテナを避けるように散っていく。
「よし、狙い通りだな」
 鞠戸がニンマリとした。
 航空母艦が用いたのは、電子の移動を妨げるガラス管を設置した消雷装置だ。成功率は70%程度だが、自然界の落雷より威力の落ちるエレクトリスの攻撃には、一定以上の効果があった。
「喜ぶのは、まだ早い。次が来ます」
 アナリティカルエンジンで敵を探っていた伊奈帆が警告する。意識は戦場から離れた場所に停車する小型トラックに向いていた。
 運転手のカームは指示に従い、車を止めると搭載してきた自動二輪で急ぎその場を離脱している。
 残されたのは中古車輌と荷台に乗せられた円錐型の鉄塔のみだった。
「機を逃さないで下さい」
「任せろ!」
 クライスデール隊リーダーが気炎万丈に応える。
 エレクトリスは大きな技を放つ際、いつも動きを止めていた。硬直していると言い換えてもいい。
 アルドノアの動力を攻撃に割り振り過ぎた結果、カタフラクト本体にまで回らなくなってしまったというのが大方の予想だ。
 それでも常態であれば、外周を巡る電撃が防護壁の役割を担っているので難事とはならないのだが。
 青年将校はコックピット内に持ち込んだ遠隔操作装置を手に取る。
 デューカリオンに初撃を防がれ、業を煮やしたエレクトリスが力を貯めるように身を屈めた。
 ドーム状に拡がるプラズマの電圧変化を左目で読み解いた軍神がリモコンを操作する。
 荷台の鉄塔から輻射された光が、ボルドーの機体と直線を結んだ。
 クライスデール隊が特攻を開始する。
 エレクトリスを取り巻いていた電子が、吸い寄せられるように光線を遡った。
 霹靂の洗礼を浴びて炎上する小型トラック。
 鉄塔が放出したのは炭酸ガスによる可視光と目に見えない弱電離性の紫外光からなる2種類のレーザーだ。雷の通い路となるプラズマを大気中に生成する、レーザー誘雷と呼ばれる技法だった。
 本来は装置の前に背の高い誘雷塔を置くのだが、準備に時間が足りなかったことから敢えて装置自身に落とした。チャンスは一度。それでいい。
 攻守の力を奪われたまま硬直するエレクトリスに、クライスデール隊が手加減無しの一斉掃射を浴びせた。
 耳を劈く轟音と共に爆砕する機体。自軍に負傷者を出すことなく上げられた戦果に、幸先の良いスタートだと誰もが胸を撫で下ろした。
 而して、連合の快進撃はここで止まる。


 アルギュレのビームサーベルが、装甲車を両断した。
 揚陸城を目指す戦闘機を大きく穿つ拳。背面を狙って撃ち込んだミサイルは、悉くが弾かれた。
 アナリティカルエンジンの解像力を上げると、前回は剥き出しだった基幹部分を覆う障壁が虹彩に映し出される。外装一切が巨大分子と化していた。
 ヘラス対策として航空部隊の中に射撃の優れた者を配置しておいたものの、まったく歯が立たない。
 アルギュレは復刻前と比べて刀身が長くなったビームサーベルで草でも刈るように装甲車を屠り続けていた。
 ユキの率いるマスタング隊が煙幕を張り続けているにも関わらず、赤きケンタウロスは姿を消したまま。予測不能な方向から飛んできたボウガンを受け、援軍のアレイオンが戦闘不能に追い込まれた。攻撃力も低く防御も甘いスカンディアを軽んじて、次善策を練らなかったのが悔やまれる。
 クライスデール隊はオルテギュアの量子テレポートによる物量攻撃を凌ぐので精一杯。デューカリオンには伊奈帆が前回解析したデータを基盤にした出現予測システムが積んであったが、設定条件よりも増殖速度と頻度が増していたことから計算が追いつかなかった。
 伊奈帆は臍を噛む。
 状況は最悪だった。敵機は軒並み性能を上げている。作戦が当たり事なきを得たエレクトリスも、前戦と比べ攻撃威力がプラスになっていた。
 アナリティカルエンジンは、プリインストールされた機能以外は使えないようにしてある。デューカリオンに代わり、オルテギュアの出現予測を演算するような真似はできなかった。
 救いは中性子ビーム砲を備えたリュカオンという戦艦が出てこないことぐらいか。あれだけは防ぎようがない。
 打開策を講じる頭脳の働きを妨げるように、地響きが足下を揺らした。
 浮上する巨大な要塞。城内ではスレイン達が丁度、レムリナとの対面を果たしたところだった。公爵の罠が発動したのだ。
 兵達の間を動揺が走る。戦力の分断というクランカインの意図を正しく読み取った軍神は、揚陸城参戦かと怯える周囲を宥めに掛かった。スレインの身が案じられるが、助けに行く余裕はない。
 心を静め状況を分析する。
 アナリティカルエンジンの機能を現時点の最高値に設定し直し、戦場をぐるりと見渡す。左手の一角が刹那、飛び交う銃弾を煙に映し出した。付近から顕れたボウガンの矢に絡繰りがほどける。スカンディアは光学迷彩を鏡面に変えることで煙に紛れていたのだ。
 ロジックは解したが、効果的な処理が浮かばない。半人半獣型の機体はエレクトリスを乗せていない分、動きが早くなっていた。偶然所在を掴んでも、移動されたらそれまで。かといって、煙幕を消せば光学迷彩は本来の機能に戻され、余計に探しにくくなるだけだ。
 オルテギュアには、更に対抗する術がない。仮に出現予測を行えたとしても、相手の数が多過ぎて以前と同じ方法は採れなかった。
 では、変幻自在な動きで航空部隊を翻弄する三面六臂はどうか。背面の攻撃は受け付けなくなったが、まだ、指を動かした時に共有結合が解除される可能性は残されている。アルギュレにも打てる手がありそうだが、優先度合いから云えば回避困難な攻撃でより甚大な被害をもたらすヘラスに軍配が上がった。
 韻子を一旦下がらせ、輸送機の操縦に換えてもらってスレイプニールで空からのアプローチを行う。
 方針を決めた伊奈帆は通信機器のスイッチに手を伸ばしかけ、動きを止めた。

 遙か上空から雲を引き、白銀の機体が舞い降りる。

 ほぼ自由落下の速度から放たれた弾丸が、戦闘機を握り潰さんとしたヘラスの眷属を貫いた。
 失速する拳。流星のごとく現れたカタフラクトの勢いは尚も止まらず。高度を下げながら両腕のシールドに内蔵されたブレードを伸ばした。地面に激突する直前で、機体を屈伸させ水平飛行へと移る。翼のように拡げた上肢が、進行上にあったオルテギュアの一群を易々と切り裂いた。
 正面の敵は、顔前に突き出した盾で叩き伏せる。反動を使って再び上昇。
 空中で待ち受けていた別の拳は、躍り掛かろうとした所を両機の真下に位置を変えたスレイプニールが撃ち墜とした。
 巨大分子化が解ける条件が以前のままであったことに、伊奈帆は安堵する。
 戸惑う連合兵には、通信を送った。
「落ち着いて下さい。白い方の機体、タルシスは僕達の……」
 そこで一旦区切り、表現を選ぶ。
「共闘者です」――と。
 青空を背景に、高見から戦場を見下ろすタルシスは陽光を受け偉容を放っている。
 一目で分かった。
 動き、速度、威圧感までもが。公爵が搭乗していた時とは異なる。
 火星でサテライトベルトの白き守護神と謳われた英雄。地球の兵に白銀の死神と畏れられたカタフラクトが真の主を得て還ってきたのだ。
 回線を切り替える。
 以前、面白半分にスレインと二人でスレイプニールに、火星と地球の通信プロトコル変換モジュールを組み込んだのが、こんなところで役に立った。
「手短にいこう。そちらの装備は?」
 用意した台詞は、種子島の時と同じもの。
「機銃の弾が17発とブレ―ド。未来予測は動きが鈍るので切りました」
 演算システムに手を入れる時間はなかった。
「相変わらず、思い切りが良い」
 どうりでスピードが違うわけだ。
「こちらは203mmグレネードライフル2発。アサルトライフルが3発とサブマシンガン」
「苦戦していますね」
「反撃はここからだ」
 ニアミスを避けるため同属機ならスカンディアの位置が分かるのではと投げ掛けると、スレインが登場した途端、信号を切られてしまったと返される。そう上手くはいかないらしい。簡潔にいくつかの事項を確認すると、行動を開始した。
「さて、まずはアルギュレをやっつけよう。鞠戸大尉、オルテギュアの牽制をお願いします。他のカタフラクト隊と協力して少しでも数を減らして下さい。ユキ姉達はそのまま煙幕を張り続けて。僕に考えがある」
「人使い荒いな、オイ!」
「マスタングリーダー了承したわ。なお君ガンバだよ!」
 サブマシンガンを手に、スレイプニールがアルギュレの正面へ回る。
 手近に居たアレイオン3体に協力を請い、三方から銃弾の雨を浴びせた。
 アルギュレはライデンフロスト現象を駆使して攻撃を弾くも、ブラドと比して技量の劣る搭乗者に防ぎきれるものではない。凌ぎにくい足下から少しずつ被弾していった。

 ヘラスは眷属2体を失ったことで不利を悟ったのか、合体変形を始める。
 上空に留まっていたタルシスは、青年将校を通じて連合軍側の戦闘機を撤退させた。大きさを増し、動きが複雑化する三面六臂に彼等では太刀打ちできない。
 変容を終え、元伯爵に狙いを澄ませる高分子化の塊。白き守護神が煙幕の中へと身を沈めた。
 唐突に始まった凶悪な鬼ごっこが、スモークを割り大気を掻き乱す。
 伊奈帆はタルシスの動静を目で追いつつ、アルギュレに向けてトリガーを引き続けた。
 白いカタフラクトは、スカイキャリアよりも高い機動性を有する。
 未来予測機能がなくとも、スレインには周りに気を配る余裕が残っていた。
「これぐらいか?」
 戦場を数度巡ったところで、タルシスを大きく旋回させる。地表から2m程の高さを一直線に飛んだ。
 追尾する榛色の敵機。
 スレイプニールがマシンガンを投げ捨て、アルギュレの間合いに踏み込んだ。
 不用意に近づいた獲物に敵機が殺気を漲らせる。
 青年将校は怖じけることなく、武器を持ち替えた。
 グレネードライフルを手にした軍神に、連携していた兵は焦る。威力はあっても1分間に5発から7発しか撃てない銃では、ビームサーベルの餌食になるだけだと思われたのだ。

 タルシスは直進を続ける。

 追い縋るヘラスが足先を掠めた。金属を擦り合わせる不快な音と共に火花が飛び散るも、スレインは振り返らない。
 行く手には得物を大上段に構える剣豪の機体があった。
 すれ違いざまブレードで膝裏を薙ぎ、猛スピードで背後を抜ける。バランスを崩した敵カタフラクトの頭部をスレイプニールがすかさず狙った。
 慌てて仰け反るアルギュレ。直撃こそ免れたものの、先の攻撃と銃弾に損傷を負っていた脚は踏ん張りが利かなかった。ビームサーベルを掲げたまま仰向けに倒れ込む。
 あと少しで敵を捕捉できる所まで接近していたヘラスは執心するあまり、斯かる脅威に気付くのが遅れた。
 巨大分子と化した機体と、膨大な熱量を有するビームサーベルが接触する。
「ビームサーベルの表面温度から試算した熱量は、共有結合したヘラスの融点よりも高い」
 時を置かずに証明される、軍神の言葉。ヘラスは外装を溶かされ、あっけなく駆体を両断された。
 スレイプニールが残ったグレネード弾を、横転したアルギュレのコックピットに喰らわせる。二つのカタフラクトが爆煙を上げた。
 両隣にいた兵から歓声が上がる。
「ユキ姉、スカンディアの行動パターン解析結果が出た。そっちに送る」
「なお君?!まさか、また無茶をしたんじゃ……」
 姉の勘違いを弟が正した。
「僕じゃない。スレインのお陰だ」
 スカンディアは通常時と煙幕に巻かれた時とで、光学迷彩の仕様を変える。然し、タルシスが散々に大気を掻き乱した中では切り替えが追いつかず、度々姿を表すこととなった。出現地点を線で繋ぎ合わせれば移動経路は割り出せる。後はアナリティカルエンジンによって、行動予測を算出するだけだ。
 送られてきた資料を素に布陣を組むマスタング隊。標的を打ち破るまでに、そう時は掛からなかった。
「さて、残るはあいつだ」
 鼠算式に増えていくオルテギュア。クライスデール隊の奮闘も虚しく分裂は止まらず、戦場を埋め尽くすのも時間の問題だった。
「僕が出現予測をします。その間、守備をお任せしていいですか」
 タルシスがスレイプニールの右斜め後方に着地する。
「うわ、怖っ!」
 韻子が思わず声を上げたのも無理はなかった。
 地球の軍神たるオレンジ色のスレイプニールと、火星の守護神と呼ばれた真白のタルシス。
 両雄が並んだ姿は、敵味方関係なく重圧となって一同の意識にのし掛かった。
「デューカリオン、全カタフラクトのコントロールをこちらへ回して下さい。可能であればデューカリオンの操作権もお願いします」
「了解しました。デューカリオンについては、全砲台の照準のみの開放となります」
「なお君、大丈夫なの!?」
 マグバレッジの声に被せ、弟を案じるユキ。
「タルシスから送られてくるデータを中継するだけだから、左目は使わないよ」
『接触回線オープン』
 スレインはスレイプニールの肩にタルシスの手を乗せた。音声よりも大きな情報を交換するための回線拡充措置だ。
 アルドノア・ドライブの出力を上げ、量子演算システムを再起動する。
「未来予測を5分後に設定、解析に2分ほど要します」
 青年将校はアサルトライフルで近づいてくるオルテギュアを端から狙撃した。残った自軍機の数と大凡の位置を掴んでおく。
「無理だ。残ったカットじゃ、あの数に対応できない」
 鞠戸の呻きは、最前まで伊奈帆の頭を悩ませていた事柄だった。今はあの時とは状況が異なる。
「手はあります。鞠戸大尉は5分間、残弾数を0にせず生き延びることだけに腐心して下さい」
 アサルトライフルを早々に討ち果たした軍神は、得物をタルシスの機銃に替えていた。
 タルシスの武器は盾の中に収納されているが、取り外すことも出来る。火星も地球も一般的な武器の使用法に差異はなく、スレイプニールでも扱えた。
「5分ってのは、長すぎじゃないか。それに接触回線じゃ解析結果なんて大きなデータの伝達はできないだろ」
「『対策』の準備に少し時間が掛かります。スレイプニールに火星機とのデータ変換モジュールを入れてあるので、通信に関しては解決済みです」
「いつのまに……。そういやお前達、さっきからなんか打ち合わせしている風だったな」
 絶句する大尉。タルシスの音声データを拾えるのはスレイプニールのみであるため、他の機体に二人の会話は伝わっていなかった。
 元生徒と教官が交流する合間にも、量子演算システムは活動を続ける。スレインは割り出された答えをコピーと共に転送した。
「解析終わりました」
 データを手にした伊奈帆が、全カタフラクトの照準を定める。
 思考と直結していたアナリティカルエンジンの時と同じようにはいかなかった。誤差の修正が終わったのはタイムリミットの間際。
「タイミングを合わせろ!」
 スレインが通信機に向かって叫んだ。
「3、2、1……ファイヤ!」
 デューカリオンの全砲台とアレイオンの銃口が、数多のオルテギュアに向かって火を噴く。
 全体の約半数がコックピットに穴を空けた。
 残りの半分を、大気圏から降りてきた巨大要塞のレーザーが搦め捕る。元伯爵は算定資料を、中央管制室を制した部下にも送っていたのだ。
 攻撃が止んだとき、地上に残る火星カタフラクトはタルシス一体のみ。
 揚陸城の射撃管制装置の前では、二人の火星騎士が会心の笑みを交わしていた。

 北米戦役の様子は、海賊放送で全世界へ流されている。フェルト卿の部屋で後見と映像を眺めていたハークライトと第二皇女も人心地をつけた。
 女王とその妹姫にスレインの最期を見せつけるという公爵の目論見は失敗に終わった。
 今頃、地団駄を踏んで悔しがっているだろう姿を想像すれば、レムリナの溜飲も下がる。

 その日。各地に残る揚陸城から、慎ましやかな祝砲が上がった。



4.

 コールドレイク基地には、ハークライト達が一足先に帰還していた。一行はマズゥールカの操縦する軽飛行機で揚陸城を後にしている。
 北米の要塞は連合軍の勝利を見届けた後、アルドノアの稼働を止めた。
 内部で起きた爆発が、外部との接触を遮断。フェルト一族は伯爵に殉じ、家門の歴史を閉じたのだ。
 スレインをタルシスまで案内した研究者や整備士等、一族と関わりのない者達は連合に投降していた。
「伊奈帆、目は大丈夫ですか?」
 白銀のカタフラクトから降り立ったスレインが、隣に並んだ青年の左目にそっと触れる。
「少し熱を持ったぐらいだ。温かいと感じる程度だし、平気だよ」
「ならいいのですが……」
 愁眉を開くも、案じる表情は変わらなかった。
「スレイン様っ!!」
 二人の姿を認めたエデルリッゾが走り寄る。
 予定通り合流を果たした侍女は、今し方までレムリナと再会を喜び合っていた。
「頼まれていたものを、お預かりしてきました」
 胸に抱えていた、分厚い茶封筒を元伯爵に差し出す。
「有り難うございますエデルリッゾさん。ご無理を言って申し訳ありませんでした」
 スレインは中から書類を半分ほど引き出すと、懐かしげに捲った。
「とっくに捨てられているものと考えていましたが、まだ取ってあったんですね」
「あの、スレイン様……。あの方は一体……」
 物問いたげな侍女の後ろから、レムリナ達も来る。皇女は引き続きハークライトが抱き上げていた。
「ちょうど、その話をしていたところなのです」
 青年の求めに応じてエデルリッゾが訪ねたのは、北ヨーロッパではそれなりに知られている歌手だった。妖精のような姿と歌声で人気を博している。
「芸能界の方って簡単にはお会いできないものと決めつけておりましたが、スレイン様のお言葉通り『トロイヤード博士の使い』を名乗って封書をお渡ししたらすんなりと面会が許されました」
 とっても綺麗なお方でしたと頬を紅潮させて、侍女がほうっと溜息をつく。
「彼女、何か言っていましたか?」
 エデルリッゾには、スレインの情報を一切洩らさないよう頼んであった。侍女の方にも細部については語っていない。
「ええっと、それはその……」
「どんなことでも構わないので仰って下さい」
「こんなことになるなら、あの男を殺しておくんだったと。それと手紙を書いた人に会ったら、いつでも一緒に暮らす準備は出来ているから戻ってきなさいと伝えて欲しいって」
 口籠もりつつ述べた侍女に、スレインは笑み崩れた。
「相変わらずですね母も」
 母?!今、母って言ったか!?
「君、母親がいたの?」
「それは母親ぐらい居ますが。伊奈帆は僕のことをなんだと思っているんです」
 いや、そういう意味ではなく。
「でもスレイン様。あの方、30代前半だとお伺いしましたが」
 スレインの年齢からすると、12~3歳で出産したことになる。早婚傾向にある火星の事情に照らし合わせてみても早過ぎた。
「表向きはそうですね。6歳はサバを読み過ぎだと忠告したのですが……」
 息子が主要戦争犯罪人だと知れると普通の生活もままならなくなるので、今となっては都合が良かったともいえる。できればご内密に、と青年は付け足した。
「えぇっ!じゃあ本当はもうじき40歳ってことですか?!とてもそうは見えませんでした」
 エデルリッゾが両手を頬にあて、驚きにあんぐりと口を開ける。
「あの、差し支えなければ、いきさつをお話し頂いても?」
 マズゥールカがおずおずと挙手した。流れが汲み取れない。
「エデルリッゾさんには、私の両親が離婚する時、母が慰謝料代わりにと持って行った父の研究論文を取りに行って頂きました」
 スレインの母は、芸能人に相応しく(?)電撃結婚して極秘出産してスピード離婚している。といっても5年は続いたのだから、長持ちした方かもしれない。
 どちらにせよ『あの』研究漬けの父と婚姻を結ぶだけあって、母親の方もかなりぶっとんだ性格をしていた。
 別れた当節。彼女は年齢を偽り、独身を装って活動していた仕事が波に乗り始めたばかりだった。環境的にも収入的にも子供など引き取れたものではないのだが、最後まで駄々を捏ねていたと伝え聞く。殺しておけば良かった、とは元夫。トロイヤード博士に対しての台詞である。
「トロイヤード博士の論文。ではアルドノアの?」
「はい。ですが内容はレムリナ姫が考えていらっしゃるようなものではないかと」
 これはトロイヤードがまだ地球圏に居た頃に、学会で発表した研究資料だ。
 火星との関係に亀裂を生じさせた地球にとって、アルドノアは望んでも手の届かない輝きだった。
 どれだけ優れた研究だろうと、自分達の利益に繋がらなくては意味がない。トロイヤードの学問は、受け容れられなかった。
 鬱屈を抱えた博士は、論文を繰り返し息子に読み聞かせ。幼子が嫌がって泣いても止めない夫に腹を立てた母親が、それを取り上げた……というのは、言わなくても良いエピソードである。
 トロイヤードが火星へ向かったのは、より深くアルドノアに携わりたいという探究心はもちろんのこと、この時の経験により地球を見限っていたからでもあった。
「母御がおられたなら博士が亡くなられたとき、クルーテオ卿の揚陸城になぞ行かずとも、地球に帰還されれば良かったのでは?」
 首をひねるバルークルスに、レムリナが醒めた目を向ける。
「お姉様のせいですわよね。地球に帰すという話も出ていたのに、お姉様が貴方を手放すのを嫌がった為に妥協策が取られたと、ザーツバルム伯爵から聞いておりますわ」
 地球の少年と継嗣の姫。仲の良すぎる二人に危機感を抱いていた近侍の者達は、スレインを本国から離れた揚陸城に追いやることで体裁を取り繕った。お会いになりたければ、いつでも会えますよとアセイラムには吹き込んで。
「……有り体に言えば、そうなります。一応、トロイヤードが研究上知り得たヴァースの機密情報が地球圏に漏れるのを防ぐ、という趣意もあったそうです」
 父親が研究に没頭する余り、息子を放置していたのは周知の事実なので、さほど重要視はされていなかったが。
 バルークルスとマズゥールカは愕然とする。
 いくら地球人相手とはいえ、子供に対する仕打ちではない。
「ご自分で無理に引き留めたのですもの。スレインを庇うなど当たり前のこと。お姉様は結局、ご自分のことしか頭にないのですわ」
「陛下は己の発言がどのような仕儀になるのかを、理解していらっしゃいませんでしたから」
 困った顔をするアセイラムの騎士。
「あの歳になってもまだ理解していないでしょう。そうやって貴方が甘やかすからつけあがるのです」
 なんだか子供の教育論争じみてきた。
「君さ、色んな事情を抱え込みすぎ。この際、隠していることがあるなら全部吐いたら」
 伊奈帆が嘆息する。
「別に隠していたわけでは。それに伊奈帆には大抵のことは話してますよ」
 ちょっと殺し文句である。
「……先程から気になっていたのですが」
 あからさまな敵意を浮かべたレムリナが、連合軍の若き将校を睨めつける。
 彼に対するときだけ、スレインの口調が微妙に幼く――年相応になるのが心に引っ掛かっていた。
「その男は、月面基地の戦いでスレインを地表に落とした屑野郎ではなかったかしら」
 どこかで聞いたキーワードだ。怠惰の女神ならともかく皇女様の使う単語ではないのでは?
「ご承知のことと、紹介していませんでした。彼は界塚伊奈帆です。一連の件について色々と協力してもらっています」
 ここでは「よろしく」と頭を下げるのが通例なのだろうが、伊奈帆にそんなつもりは毛頭ない。代わりにスレインを抱き寄せた。
「この人、僕のだから」
 ずざっと大きな音を立てて後退る一同。レムリナ、ハークライト、エデルリッゾの反応は特に大きかった。バルークルスの目は点になっている。
「ななな、何を仰っていますの?!」
「ス、スレイン様、誠……なのですか?」
「嘘です!わたし、信じません!!」
 KKMCで一度目にしていたマズゥールカだけが、面白がって見物に回っていた。
「何で君まで引いてるの?」
 距離を取る元伯爵に、青年将校が不服を申し立てる。
「伊奈帆、TPOという言葉をご存じですか?」
 もちろん知っている。知っているからこそ、この時なのだ。
 全員の意識が、元伯爵に集中する。
「何かに間違いですよね、スレイン様っ!」
 涙目のエデルリッゾに詰め寄られるスレインを、伊奈帆の両目がじいっと見つめた。
 観念する元伯爵。
「………………。違いません」
 ほほう、と興味深げに唸ったバルークルスが己の顎を撫でた。
 軍神殿の噂のお相手はトロイヤード卿その人であった。こんなことなら戦の前にブリッジで起こった騒ぎを、もう少し真剣に聴いておくのだったと後悔する。
 せっかく楽しめそうな話題だったというのに、勿体ないことをしたものだ。
 私は負けません~とエデルリッゾはぎゅっと眼を瞑り、繰り返し唱えている。
「どうして、そのようなことになっているのです!」
 甲高いレムリナの声が響いた。
「どうしてって……どうしてでしょう?」
 首を傾げる。流されたかな。うん、半分ぐらいは流されたな。
「その反応はないんじゃないかな」
 渋面を作る伊奈帆。
「では、理由はありますが内緒ということで」
 スレインの返答には、とんでもない場所でとんでもない発言をしてくれた青年に対する意趣返しが含まれていた。
「この話はおしまいにしてください。ここで話題にすべきことは他にありますから」
 際限なく長引きそうなので、強引に締め括る。レムリナを抱え続けるハークライトも疲れている頃合いだ。
「場所をデューカリオンに移しましょう」



5.

 スレインに従い、因縁深い航空母艦の中に身を置いた一行は作戦室へ通される。食堂を除けば、一堂に会して話せるスペースはそこしかなかった。レムリナには折りたたみ椅子が持ち込まれ、他の者は立ったまま全員が顔を突き合わせる。
 話し合いの場には、デューカリオンの責任者であるマグバレッジも現れた。
「まるで反地球軍本部のようですね」
 元敵軍の最高司令官と副官が一人。軌道騎士二人に、火星皇女と付き添いの侍女まで揃っている。そんな印象を得てしまうのも無理からぬことだった。
 この場における地球勢はダルザナと界塚弟のみ。その唯一の同胞たる青年が厳かに告達した。
「じゃあ、最後の答え合わせといこうか」
 要請に応じて、顎を引く元伯爵。
「わかりました。さて、何から話し始めましょうか」

 そうして、関係する者達が知りたいと願って已まなかった戦争の全容を。
 スレイン・ザーツバルム・トロイヤードは、ゆっくりと語り出した。


 人と自然。火星と地球が仲良く暮らしていける世界。
 争いのない時代の訪れを、アセイラム・ヴァース・アリューシアは望んでいた。

 下層階級に生まれながら、立身の夢を捨てきれなかったハークライト。
 ザーツバルムはヴァース帝室に復讐を誓う傍らで、摯実に火星の未来を案じていた。

 誰もが何かを志し、叶わぬ願いに少しでも届こうと足掻き続けていた日々。
 鳴り止まない銃声と嘆きの声の中、様々な思いを胸に刻んだスレインもまた、ひとつの答えを選び取っていた。

 エデルリッゾの父親と繋がりを持ったことで、戦争の裏側を知った青年が最初に目論んだのは、ザーツバルムを表舞台より退場させること。
 罪科を背負うために据えられた人柱が生粋の火星騎士では、ヴァース帝国側に多くの責任が問われることになる。
 その点、地球人とも火星人ともつかぬスレインであれば、天秤の傾きを中立に保つことができた。その為の、役者交代だ。

 和平への道筋は第三勢力出現による、両惑星協調路線の確立。

 新たな勢力の立ち上げには下層市民を巻き込んだ。彼等の存在を強調し、階級社会に一石を投じるのが本旨。
 第三階層から騎士にまで成り上がったハークライトを筆頭に、取り立てられた者達は様々な分野で才能を開花した。
 彼らの有能さと組織力は貴族連中を震え上がらせ、将来に夢を抱けずにいた市民たちの希望となる。

 戦争と併行して推し進めたのがヴァース帝国の構造改革だ。
 アルドノアによって過度に人口を増やしたことが、火星の貧苦を加速させた。一方で、ヘブンズ・フォールと第二次惑星間戦争で人口を減らした地球は、産業の維持に人手を欲している。
 そこで、ザーツバルムが地球のインフラ調査目当てに用意した土地を立脚地とし、帝国民を地上の生活に馴染ませた。
 火星人の持つ地球人に対する偏見や生活習慣の差による戸惑いが薄れれば、彼等は母なる大地への回帰を果たせる。両者は手を取り合える。
 戦後から3年以内に帝国民の1割である3万人を動かし、最終的には40%から60%の人間を逆移民させるつもりだった。

 人口移動により火星の物資に余裕が生じ、土地に空きが生じたところで、再テラフォームに着手する。
 食糧事情の改善がヴァースの急務。輸入に頼ってばかりはいられなかった。荒れた土地でも根付く作物を育てることから始め、緑を増やす。家畜を飼い、魚介類の養殖場を整備して。やがては火星に馴染む地産品の開発をも視野に入れていた。原資には逆移民が地球で得る外貨と、火星で取れるレアメタル、アルドノア関連技術の輸出を当て込んでいる。
 女王の説得と事業の推進は、エデルリッゾの父親が引き受けてくれた。

 スレインの退場後、逆移民の入り口となる足場の管理を願った相手がレムリナとハークライトだ。
 皇女には拠点の総括と存在が地球側に知れたときの交渉役を。ハークライトには彼女のサポートを要請している。引き受けるかどうかは、各々の判断に任せた。断られたときは、計画に賛同してくれた部下の一人が役目を負うが、二人ほど上手くは勤まらないだろう。

 ハークライトが、ふと何かに気付いたように面を上げた。
「確かザーツバルム卿が、ヘブンズ・フォールの影響でゴーストタウンになった土地を購入したのは、スレイン様の進言によるものでしたね」
 地球侵略後の準備として。アルドノアのない生活を領民に体験させる名目だった。
 あれは、スレインがザーツバルムに降って数日と経たない頃の出来事。
 一体いつ頃から計画し、行動を開始していたのかと、副官は主人の周到さに戦慄を覚えた。
「地球の法に則って土地を取得したかったので、ザーツバルム郷の財力に頼らざるを得ませんでした」
 不法占拠では揚陸城に等しく強制排除されかねない。正規の手続きは、権利を主張するための保険だった。戦争が終わった後なら、基盤さえ確立していれば安易に潰されることもなくなる。
「その人達の生活費の捻出はどうやって?」
 火星貴族の収入がどれくらいかは知らないが、一個人で賄いきれるものではないだろうと、伊奈帆は指摘した。
「生活に必要な収入を得られるだけのインダストリーは形成しました」
 一例として上げられたのは、青い薔薇の育成販売。これまでにないペルシャンブルーのハイブリッドティーローズは、スレインが品種改良したものだった。
 部下の名前で特許を取得し、小さいながらも企業法人を設立。ネットを中心にアレンジメントや花束等の商品展開を始めてみたところ、もの珍しさから好事家を中心に高値で商われるようになった。
「最近、話題になっていましたが、そうですかあれは貴方が……」
 ダルザナが青薔薇を知ったのはニュースを見てからだが、軍ではその少し前から、昇進祝いなどで胡蝶蘭に次ぐ人気を博していた。花というのは存外金になるらしい。
「ザーツバルムとマリルシャン卿の資産を使い果たす前に、軌道に乗せられたのは僥倖でした。後は、レムリナ姫の裁量にお任せすれば、良きように取り計らって下さると信じていましたから」
 大きく育てて自治区を目指すも良し。世界各国に足場を増やすも良し、だ。平坦な道ではないだろうが、皇女とハークライトの二人にならば安心して託していくことができる。
 レムリナは、自分がスレインから多大な信頼を寄せられていたことに胸を熱くした。ハークライトの決意は病院で伝言を受けた際、既に固まっている。
 言葉もなく立ち尽くすマズゥールカ。バルークルスはプライドだの民族の違いだのという些末事に拘り、権力闘争に明け暮れていた己を恥じた。
「要するにさ」
 地球の将校が、ここまでの情報を整理する。
「君はザーツバルムさんが罪を被るのは嫌で、火星が貧しいままなのも嫌で、セラムさんが幸せにならないのも嫌だったと」
 凄いね。
「身も蓋もない総括をしないで下さい」
 ……だいたい合っているけど。
 だから言いたくなかったのに。
「ですが、義父を手に掛けたのは、アセイラム姫を害したことが許せなかったからです」
 決してザーツバルム郷の為などではなかった。

 アセイラムに地球への憧れを植え付けてしまったのはスレインだ。
 青い空が見たい。空を飛ぶ鳥がどんなものが知りたいと。そんな望みを抱かなければ、彼女は親善訪問など行わなかった。
 そして、ノヴォスタリスクでの悲劇もまた。スレインの迷いが呼び水となっている。
 少女の命を救いたかった。責を取らなければならなかった。戦時中の己を動かしていたのは、そのふたつの事象のみだ。

「うん、でも君は放っておけば、都合の良い形で自滅してくれる人に手を掛けるなんて意味の無いことはしない。セラムさんの件が念頭になかったとまでは言わないけれど、ザーツバルムさんに絶望を味合わせたくなかったことと比べて、どちらの比率が大きかった?」
「……………それ、は…」
 スレインにだって解らない。
 尊敬できる人だった。様々なことを学ばせてくれた。もっと、違う形で知り合っていたなら。あるいは早くに出逢っていたら、スレインは『正統に』彼の志を継いでいたかも知れない。
 アセイラム姫への恩さえ忘れて。
「どちらにせよ独善でしかないでしょう。今更です」
 話の途中から大粒の涙を零していたエデルリッゾが、ハンカチを握り締めた。
「やっぱりスレイン様は最初から……」
 命を捨てるおつもりだったのですね。
「わたし知りませんでした。父がそんなことに荷担していたなんて」
「エデルリッゾさんのお父上には、私から協力をお願いしたんですよ」
「アセイラム殿下に黙っておられたのは何故ですか?トロイヤード卿が真に目指されていたものを知れば、賛同を得られたでしょうに」
 マズゥールカの所見をレムリナが鼻で笑い飛ばす。
「お姉様は話を聞こうともなさりませんでしたわ」
 己が望むだけで、軽易に和平など成ると信じていた少女は、スレインとの対話も一方的に即時停戦を命じただけで終わらせていた。
 元伯爵は目を伏せる。
「もっと良い方法があったのかもしれませんが、私にはこれが精一杯でした。義父も多くの軌道騎士達も切り捨てて死に追いやった。アセイラム姫が受け入れて下さらなかったのは当然です」
 理解されないことはわかっていた。
 許されないことをしたし、許されるとも、許されたいとも思わなかった。
「戦争を終結に導き、逆移民の下地を整え、セラムさんの命を救った。これだけやれば充分だ」
 自己評価が低すぎだと伊奈帆は指摘する。
 これで能力不足などと嘆かれたら、散々に翻弄された自分達の立つ瀬がないと、ダルザナも同意した。
「我が主スレイン様。私は貴方を尊敬しています」
「馬鹿なお姉様。最も信頼に足る人の手を、ご自分から遠ざけてしまわれるなんて」
 力説するハークライトと、憐れみさえ滲ませるレムリナの呟き。
 マグバレッジは、真摯な瞳でスレインに向き合った。
「スレイン・ザーツバルム・トロイヤード、私達は戦争を行っていました」
 勝敗により境遇は分かたれたが、やっていたことは同じ。
「本来なら罪も罰も、貴方一人に背負わせるものではありませんでした。悔いたところで過去は取り戻せませんし、貴方から奪った権利や時間を返す当てもありません」
 スレインが謝罪など求めていないことも知っている。
 ですから、とデューカリオンの艦長は言辞を連ねた。
「ここからは、未来へ進むための話をしましょう」
「連合軍上層部との取引は、北米の戦いに限定されていた。この先、公爵に対抗するにはもう一度彼等を説得するか、軍備を揃える別の手立てがいる」
 第二皇女を奪回されたことで、焦ったクランカインが強引な策に走る可能性もある。時間との勝負だと軍神は宣う。
 バルークルスが胸を叩いた。
「我等は軌道騎士達の説得に回りましょう。公爵の元で働いていたマズゥールカ卿の証言があれば、証拠も充分。ヴァースの領土を蔑ろにする行為を我等が同志は許しません」
「参戦させることは無理でも、まあ、心の中で応援してくれる程度にはもっていけるでしょう」
 マズゥールカも承服する。
「何を気弱なことを。そうやってお主の腰が引けているから、マリルシャン卿に良いように扱われていたのだぞ」
 うっと、若き火星騎士が詰まった。
「北米の戦いを視聴した各地の軌道騎士達は、スレイン様のご無事を知って祝砲を上げられたそうですよ。きっと色よい返事を頂けます」
 エデルリッゾは我が事のように喜んでいる。
「カメラに映っていたのはタルシスだけです。単純に搭乗者を公爵と勘違いしただけでは?」
 きょとんとする元伯爵に、青年将校が断じた。
「タルシスに乗っているのが君なら、一瞥すれば分かるよ」
 寧ろ分からない方がどうかしている。白銀のカタフラクトには未来を視る力があるが、実現する力はないのだ。弾道を予測通り避けられるかは、操縦者の技量次第。
 軍の戦況報告映像を編集したネット動画がいくつも配信される中、地球圏内の若者達にすら『神回避!』と絶賛された巧みさに気付いていないのは当人だけだった。
「火星の中下層市民は元よりスレイン様を支持しております。喜んで手足となるでしょう」
 ハークライトも請け負った。
「エデルリッゾの父君の力を借りれば、会議派の一部もこちらにつきそうですわね。連合軍の方は、軍神殿の力でなんとかなりませんの?」
 レムリナが伊奈帆を窺い見る。
「火星のようにはいかない。僕は准佐に過ぎないし」
 あまり聞かない階級なのは、軍が無理矢理用意したものだからだ。敵将を討ち取った伊奈帆に論功行賞を授けないわけにはいかないが、年齢が若すぎると佐官への昇進には内部から反発が上がった。お定まりの折衷策である。
「連合内の火星化計画賛同派の動きにも注意を払わねばなりません。厄介なことに反対派よりも力を持つ者達が多く属しています」
 マグバレッジも伊奈帆も軍組織の一員である以上、際立った行動は取れない。規律違反を罰せられるだけならまだしも、謀反人と見做され、身柄を拘束されては元も子もなくなるからだ。
「賛同派は地球を作り替えた後に得られる権益を担保としてクランカインに協力している。その前提を覆せれば掌を返すだろうけど」
「難しいですね。アルドノアから得られる利がある限り、お偉方が私達の意見に耳を傾けることはないでしょう」
 ダルザナが思案に暮れる。
「超古代文明がどうして滅びたのかご存じですか、伊奈帆?」
 スレインが不意に話題を転じた。地球の青年将校は目を瞬く。
「恐竜が滅んだのと一緒。巨大隕石説、地殻変動説、疫病説と色々あるけれど、どれも定かではないとされている」
「生活に必須なエネルギー供給を失った為、とは考えられませんか?」
 皆が元伯爵を注視した。
「アルドノアは永続的な力ではないのですか?」
 エデルリッゾが喉を引き攣らせる。
「永久不滅の力だとアルドノアが信じられている根拠はなんでしょうか」
「それは……レイレガリア皇帝陛下が超古代文明より起動因子を授かった際に得た真理だと……」
 ずっと聞かされて育ってきたのだ。
 顔色を無くすマズゥールカ。バルークルスは眉間に皺を寄せている。
 レムリナは殊の外、冷静だった。
 元伯爵がエデルリッゾより受け取って以後、手元に置いていた書類の束を机の上に広げる。
「超古代文明がどうして滅んだのか。アルドノアとは何か。父の研究はそこから始まりました」
 息子が諳んじてしまえるほどに、繰り返し聞かされたテーマ。
 同時期、偶然手に入れた起動因子細胞を使っての実験は、あくまで副次的なものに過ぎなかった。それによって息子が特殊な力を身につけたことから、課題は徐々に起動因子の研究・普遍化へとシフトしていく。
「以前、伊奈帆達の前でアルドノアとは何処かに眠る強大な力だとお話ししたことがありました。その『何処か』は未だ突き止められていないのだとも。ですが見つからないのは当然なのです。アルドノアとは一箇所に留まるものではないのですから」
「クラウド型ってこと?」
 流石に軍神殿は理解が早い。スレインは首肯した。
「父の仮定はこうです。太陽系にある星々は、互いに引き合う重力をエネルギーとして知らず知らずのうちに溜め込んでいる。星自体は使うことのないその力を、引き出すシステムとして開発されたものがアルドノアだと」
 惑星、衛星係わらず太陽系にある全ての星々が、アルドノアの装置となる。
「なんだか巨大な充電池のようですわね」
 レムリナの感想には、その通りですと口元を綻ばせた。
「アルドノアが永久機関であることは間違いありません。今こうしている間も、エネルギーは蓄積され続けている。但し、需要と供給のバランスが崩れ、出て行く力の方が大きくなれば一時的には枯渇します。空になった容器が再び満たされるまでには、装置が大きいだけに途方もない時間を要するでしょう」
 蛇足ながら、元々用を為していなかった力を使っているだけなので、エネルギー蓄積量は星そのものには影響しない。
「起動権の所持に選定者を介在するのは、無駄遣いを防ぐ為であったと考えられます。そうまでして気を付けていたにも関わらず、繁栄に溺れた彼等はいつしか限度を超えてしまった」
 装置に満ち溢れていた力を使い切ってしまったとき、代替品を用意出来なかったが故に、超古代文明は滅びの道を辿るしかなかったのだ。
「そこから長い年月を経て、再び蓄積されたアルドノアを我々が使用しているのですね。スレイン様の仰る通りだとすると、普遍化技術が確立して使用者が一気に増えれば、残存量など直ぐになくなってしまうのでは?」
 受け容れがたい顔をしている軌道騎士達やエデルリッゾに比べ、ザーツバルムの臣下は柔軟性に富んでいた。
「ええ、今日明日という話ではありませんが」
 数十年後か数百年後か。必ずその時はやってくる。
「これが正解なのかは解りません。父の仮説にしか過ぎませんから。ですが、此度の戦争でトロイヤード博士の名は高まりました。今なら信じる者もいるはずです」
 論説は以前に一度発表したもの。一般に受け入れられなかったとはいえ、当時の研究者の中には記憶を残している者もいるだろう。書面が本物であることはすぐに知れ渡る。
「公爵の計画による楽園の維持には、アルドノアの継続使用が欠かせない条件。時限式では意味がありません。前提が覆りますね」
 ダルザナは通信で不見咲を呼んだ。スレインに断りを入れ、書類を引き継ぐ。
「各マスコミ、研究団体、学会。何でも構いません。使えるだけの伝を辿ってこのレポートを拡散して下さい」
 不見咲は他者の心の機微にこそ多少疎いところがあるものの、ダルザナの秀抜な片腕だ。明日には世界中が、この話題で溢れ返る。

 論文が新たな係争の火種となる危険はあった。

 アルドノアの最大価値は無限動力。有限ではその価値を減じる。もし、元伯爵がお守りのペンダントを取引に用いたのが論説の開展後であったなら、北米戦前のような成果は引き出せなかったろう。
 帝室の権勢にも陰りが生じる。スレインが極限まで論文の存在を黙っていた理由は、ここにあった。
「先のことを心配することも大事ですが、差し当たっての脅威をどうにかする方が重要ですわね。それに悪いことばかりでもありません。想起される様々な問題への対応も練らずに、アルドノア因子を普遍化するなど賛成できませんでしたもの」
 これでお姉様の翻意を促せるなら、二重の意味で有用な資料ですわ。
 第二皇女は肝が据わっている。スレインは感心しつつ、各人へ注意喚起を行った。
「優位に進めていたゲーム盤をひっくり返された公爵が、どの様な攻勢に出てくるか分かりません。くれぐれも身辺には気をつけること。特にレムリナ様とエデルリッゾさんは日中も、私達のうち誰か一人を必ず護衛として伴って下さい」
「当面の方略と状況の把握はこんなところでしょうか」
「いえ、もうひとつだけ残っています」
 締めに入ったマグバレッジに、伊奈帆が異議を唱える。
「スレイン、君の力についてまだ聞いてない」
 R型ドライブの暴走を止め、アルビールの城を沈黙させた『特殊な力』。その中身について、知らされていなかった。
「ああ。僕のは、アルドノアをゼロにする力です」
 こともなげに答える元伯爵。一同が首を捻った。
「ゼロにする力、ですか?」
「はい、レムリナ姫」
 アルドノア・ドライブは本体システムとパスを繋ぎ、エネルギーの供給を受け続けることで動いている。スレインの持つ力は両者の接続を断ち、ドライブ内に残った力をも中空に霧散させるものだ。
「私が凍結したアルドノアは、皇族が力を尽くそうと二度と動くことはありません。再利用不可にするだけの停止能力なので、さして使い道のあるものではないのですが……」
「スレイン様がその様な力をお持ちとは」
 ザーツバルム郷が存命中、耳にしていたなら、どんな無茶を通してもスレインを引き取ったに違いない。さすれば今の状況も随分と変わっていたはずだと、ハークライトは起こりえなかった過去に思いを馳せた。
「地球連合軍は、何を差し置いても貴方を勧誘しておくべきでした」
 スレインの力さえあれば、火星カタフラクトも揚陸城も敵ではない。地球側の勝利は確立していた。
 無謀な命令を受け、何度も死地に赴かされたデューカリオンの艦長はがっくりと項垂れる。
 疲れがどっと押し寄せていた。



6.

 新たに増えた搭乗者の部屋割りを行う為、ダルザナは火星人達を連れて作戦室を後にした。
 伊奈帆とスレインだけが残される。
「君、自己犠牲精神が強すぎ。もうちょっとなんとかならないの?」
「そんなつもりはありませんでした。色々考えた中で、これが一番、効率が良さそうだったというだけです」
 その色々の中に、果たしてスレインの生存が組み込まれた計画があったのかどうか。
「君が自分を大切にしない分、僕がするつもりだから均整は取れるけど」
 スレイン自身にも、もうちょっと自分を大事にして欲しい。
 腰を引き寄せ、額を合わせる。
「僕が自分を労るようになったら、貴方は大切にしてくれなくなってしまうんですか?」
 思いついて尋ねると、伊奈帆が少しばかり考え込む素振りをした。
「その時は、一緒に幸せになるっていうのはどうだろう」
 吹き出す元伯爵。
「貴方、意外と馬鹿ですね」
 心外だと応じながらも、伊奈帆は屈託のない笑声を響かせる青年の姿に、感動していた。
 その顔は眩く。青少年の理性など軽く吹き飛ばすぐらいの破壊力を持っている。
 腕に力を込め顔を近づけると、口元が掌で塞がれた。
「ここカメラついていますよ」
「じゃあ、部屋に戻ってから?」
 お伺いを立てると、戦闘が終わったばかりなのに元気ですねと呆れられる。
「……シャワーが先ですからね」
 続いて発せられた呟きに、伊奈帆の頬が緩んだ。


 客室の壁際に設置された小さなベッドの上が、伊奈帆とスレインの作戦会議の場所だった。
 二人が乗ればそれだけで一杯になってしまう狭い空間は、子供の頃に憧れた秘密基地に似ている。幼い頃、短いスパンで移動を繰り返していたスレインはついぞ仲間に入れて貰うことができなかった。
「何を笑っているの?」
 素の肌を密着させ、吐息の掛かる距離で覗き込んでくる紅みを帯びた虹彩。
 スレインは気怠さの残る指を伸ばし、瞳に影を落とす黒い前髪をそっと掻き上げた。
「随分遠くまで来たなと、考えていました。父に連れられて火星へ渡ったことも、連合軍を相手に戦争を行ったことも、月面基地で死にきれずに今、新たな戦場へ向かおうとしていることも。子供の頃には想像もつかなかった」
「だろうね」
 流転の人生とはよく聞くが、青年の場合はジェットコースター並の変節ぶりだ。
 その中で、彼は常に孤独と共にあった。
「セラムさんに、ハークライトさんに、レムリナさん。エデルリッゾさんにザーツバルムさん。君は火星で沢山の人達に囲まれていたのに、誰も信じることができなかった……」
 だから、一人で戦争を始めて、独りで終わらせようとした。
「あの頃の僕は、自分がどれだけ恵まれていたのか、気づけませんでした」
 もっと己を取り巻く環境に気を配っていたら、違う結末があったかもしれませんねと、微かな寂寥を滲ませる。
「でも、誰一人信じなかったわけではないですよ」
 伊奈帆、と音にせずスレインが名を刻んだ。
「僕は貴方を―――君だけを、信じていた」
 伊奈帆が目を見開く。
「敵だったのに?」
「敵だからこそ。味方はいつ裏切るか分かりませんが、始めから敵である相手なら疑ってかかる必要もありませんでしたから」
 サテライトベルトでオレンジ色のカタフラクトを目にしたときの高揚を、昨日のことのように覚えている。
 彼と火星皇女が辿った地球での旅路は、エデルリッゾから聞き及んでいた。
 ただ一人、地球で火星騎士に対抗する術を知る少年。
 アセイラムが心許した人。
「君は僕を絶対に許さない。必ず僕の前に現れて、戦争に幕を引いてくれる。捕らわれた姫君を救い出し、平和への架け橋になってくれるに違いないと、勝手な期待を抱いていました」

 迎えに来た。スレイン・トロイヤード

 確かに聞こえたその声。終焉の時に現れたオレンジ色のスレイプニールを、スレインがどれ程の想いを持って迎えたのか、きっと青年は知らない。
 嬉しかった。最期の瞬間に彼がいることが。

 見届けてくれるのが伊奈帆だと解って、本当に嬉しかった――。

「買いかぶりすぎだよ。僕は自分が生き延びることしか頭になかった」
 そして、大切な人達を死なせたくなかっただけ。
「もし叶うならセラムさんにもう一度会いたかった。けど、それ以上に」
 ノヴォスタリスクでまみえた少年に己の生存を知らせ、界塚伊奈帆という存在を刻みつけたいと願った。そのためのオレンジ色だ。
 前髪を梳くスレインの手を取り、指を絡める。
 命の遣り取りをしていることさえ忘れるほどに。少年は美しかった。決意を湛えた瞳が、自分の姿を映していることに胸が震えた。白い手袋に覆われた指が引き金を引く瞬間、双眸が辛そうに眇められたことさえ、まざまざと瞼の裏に描ける。
「スレインの視界を僕だけで埋め尽くしたかった。欲しいと感じたのはあの時……好きだって気付いたのはもっと後だけれど」
「それ、他人に聞かせると頭撃ち抜かれてネジが飛んだんじゃないかって心配されるレベルかと」
「言い過ぎ。けど自分でも、ちょっとそう思う」
 淡雪にも似た儚い表情で、くすくすとスレインが笑う。伊奈帆は腕の中の恋人が消えてしまわぬよう、強く抱きしめ直した。
「伊奈帆。僕は君にしたことを謝るつもりはありません」
 あれは、地球人である自分の声をザーツバルムに届かせるための、覚悟の形であり踏み絵だった。スレインはアセイラムと地球の少年兵の命を秤に掛け、皇女を選んでいる。行為が仮借されない類いのものであったことは、十全に理解していた。
「恨んでくれて構いません。君には僕に仕返しをする権利がある」
「……うん、いつか。どうしても赦せなくなる日が来たらそうするかも」
 そんな日はきっと来ない。確信を抱きつつも敢えてそう応じた。
 種子島で伊奈帆は、命を奪う行為に繋がると知っていながらスカイキャリアを撃ち落としている。
 戦後は、犯してもいない罪をも被せて死ぬことすら許さず。スレインのそれまでの人生とこれからの人生を否定して、実態のない幽霊に変えてしまった。
 全部が全部、己の責とは言わないが、何れにも伊奈帆は深く係わっている。
 どちらがより悪いという話ではない。
 だからお互い様だ、などと言う気もない。
 ただ、伊奈帆に復讐する権利があるというのなら、彼にも同じ事をする資格がある。
 自分の罪は決して許さないくせに、他者には寛容な彼は考えつきもしないのだろうけど。
 その在り方は、とても哀しく。歪で――美しい。
 可愛い人はいる。美人も大勢目にしたし、優しい人にも出逢った。
 けれども、内面が綺麗だと感じたのは彼が初めてだ。
 伝わる温もりに、自然と湧き上がってくる情動。
 好きよりももっと強く。恋よりももっと欲に塗れた、純粋ではあり得ないその気持ちを。
 スレインだけに聞こえるよう、耳元でそっと囁いた。
「スレイン――――ている」
 びくりっと震えた指先が、伊奈帆の背に縋り付く。スレインの目から抑えきれない心情が透明な雫となって溢れた。
「僕も、伊奈帆のこと………」

 余人の入らない二人だけの秘密基地で。睦言を躱し合い何もかもを忘れ淫蕩に耽る。
 それは、泣きたくなるほど幸福で、切なくなるほどに愛しい一時だった。


2016/05/09 UP
恐らくこのシリーズ最長話。無駄に長いです。
どうしても戦闘シーンを削りたくなかったので。動きのあるシーンを書くのが好きです。
雷対策で色々調べた結果、あれもこれも使いたくなってしまったので、エレクトリスだけ妙に優遇されてます。
本当は、レーザーパルスを銃型にしたかったのですが、避雷塔を用意できない以上、どう考えても自爆コースになってしまうので断念。
アルドノアの設定は、自分でも作り込み過ぎたような気がしてます。後悔はしていませんが、反省はしています。