Silent Night
聖なる夜に、彼の人の堕天を願う。
都市同盟がひとつの国となってから、幾度の冬を数えたろう。
グラスランドの騒動さえも、昔語りとなって久しき頃。
僕達はデュナンの王城を一望できる場所に、今宵の宿を求めていた。
窓の外はあいにくの曇天。今にも降り出しそうな、ほの暗い景色を憂鬱な気持ちで眺める。
吐く息が白い。夜には雪となるだろう。
窓の下を行き交う人々が期待を込めて空を仰いでいる。
「ろくに意味も知らないくせに……」
皮肉な気持ちになって、ぼそりと呟いた。
明日は、遠い異国の神の聖誕祭。何処にあるのか解らない国の、名前も知らない神の誕生日を、何の日なのか知らないままに、異なる神を信仰するデュナンの民が祝っている。
「実際、デュナンでは祝日の指定すらされてないのに……。理由もなくご馳走を食べたり、プレゼントの交換をすることに疑問を持ったりしないのかなあ」
溜息と共に吐き出すと、部屋の奥から柔らかな声が返ってきた。
「海を越え、陸地を渡って祝う気持ちだけが伝わってきたのだろうね。時を隔て、土地を隔て。信仰が薄れるにつれて形骸化され、単なるイベントとして認識されるようになった……。これほどに広まったのは、この季節に行われる行事が他になかったことと、プレゼントを交換するという風習に目をつけた企業が、販売促進のためにこぞって広報活動に努めた結果だろうね」
でもって、それに踊らされた民が浮かれ騒いでいる、と。
「デュナン政府もこんなに国民を遊ばせておいていいんですかね~。民は生かさず殺さず──が、国を長く持続させるお約束なのに~」
「けれど、それだけではいつまで経っても発展は望めないでしょう。デュナンの民がイベントを楽しめるのは、生活に余裕があるからだよね。独自の文化も育ってきているようだし、それだけ国が豊かになったと言えるのじゃないかな」
「それだけ国の運営が難しい時期に差し掛かっている証拠とも言えます~。ゆとりは堕落や腐敗を招きますから~。これからは一層、官吏の不正や民の怠惰に目を光らせなければならなくなるでしょうねえ」
とはいえ、シュウ……シルバーバーグの薫陶を受けた者の血筋も中央から去って久しいし、難しいかもしれないなと思う。
どちらにせよ僕達は、行き着く先を見守るだけだけど。
デュナンがこの先大きくなろうと、斜陽の時を迎えようと。伝説という名の過去に追いやられた僕達が、関与することは二度とない。
一国の命運なんて些末事に構っている暇もないしね。
僕は重みを増した空を再び見上げると、話題に蓋をするように窓に鍵を掛けカーテンを閉めた。
灰色の雲を透かして僅かに差し込んでいた光が、裏地の付いた麻の幕によって完全に遮られる。
部屋の中に闇が拡がった。
「カイネ?まだ、カーテンを閉めるには少し早いんじゃないかな?」
ベッドに腰掛け、荷物の整理をしていたセラウィスさんが顔を上げる。
僕は取り繕うように笑みを浮かべた。
「開けていると寒いですし。セラウィスさんだって長旅でお疲れでしょう?たまには早く休みませんか?」
今日明日に降る雪が尊ばれるのは、神様が生まれたときの天気がそうだったから。
瑞花は、大地を汚す血を隠し、行き倒れし者の骸を覆い。嘆きの声を静寂で包んで、世界を浄化の色で飾ってしまう。
汚れの一切を祓われた夜に生まれた子供。それこそが救いの主(ぬし)たる証である──と。
神の生誕を祝福するために現れた、賢者のひとりは告げたという。
そんなことをいったら雪国に生まれた子供は皆、神様だってことになると思うけど。その辺誰も突っ込みを入れないあたり、聖典というものは都合良くできている。
「せっかく街中が奇麗に飾り付けられているのに、もったいないでしょう?」
僕の方へと歩み寄り、セラウィスさんがカーテンに手を伸ばした。再び開かれた視界に映るのは、石畳の敷き詰められた街道と広場。そして中央にそびえ立つ、無数の灯りを宿した大きな樅の木。
……うう、神様仏様。この際レックナート様でも良いから、さっきちらりと目の端を掠めた白い物体が、どうかどうか気のせいでありますように。
大気を舞う六出花は、僕の大切な人の心を奪ってしまうから。
僕は雪が降らないことを、信じてもいない神仏にこっそりと祈る。
「すごいね。あの城が同盟軍の本拠地として使われていた頃は、この辺一帯、草原だったのに。……ほら、カイネも一緒に見よう?」
頬を膨らませて横を向く僕の袖を、過去の英雄が軽く引いた。その指先を絡め取り、引き寄せた身体を腕の中へ閉じこめる。
「どうせ見るなら僕にして下さいよ~。今夜から明日に掛けては恋人達の時間でもあるんですよ~」
拗ねた口調で告げて、すぐ下にある肩に顔を埋めた。佳人が自由な方の手で僕の髪に触れる。宥めるように髪を梳かれると、ささくれていた気持ちが少しだけほぐれた。
「不思議だよね。本来は神の降臨祭、聖誕祭であったものが、どうして『恋人達のイベント』と呼ばれるようになったのかな」
耳元へ届けられる声が心地良い。首筋に髪を擦り付けると、くすぐったいのか腕の中の人が少しだけ身を捩った。
「それはやっぱり、過去の神様の誕生日を祝っているばかりだと芸がないからじゃないですか?」
滑らかな肌の感触を思う存分味わってから、少しだけ腕を緩める。
「どういう意味?」
セラウィスさんが怪訝な顔をした。
「子供は一人じゃ産めないぞ~ってことです。聖典によれば聖母は一人で神を産み落としたことになってますけど、それって絶対嘘ですよね」
神は『人の子として』この世に降臨した。『人間の営みを近くで感じ、人々が求めていることをより正しく理解するため』に。だったら、人の理(ことわり)を曲げるようなことは、するべきではないし、出来ない筈だ。
事実が歪んで伝えられたのは、『神』という存在の聖性を高めるべく後世の者が脚色を施したため。
実際、神が生まれるために必要とされているのは聖性や信仰などではなく、神の器を作る者、二親となるべき者だろう。
「つまり、これは過去の神の生誕を祝うと同時に、新たな神を招くための儀式でもあるということ?」
「僕はそう考えています。デュナンは次なる神を呼ぶための土壌の一部とされているのでしょう。それが、神の意図なのか、信仰を持つ者達の策略なのかは知りませんけど」
神が器を決めるための選択肢を少しでも多くするために。
異国の神を知らないデュナンの民が今宵の降雪を待ち望んでいるのは、それが気分を盛り上げるものであるため。気温の低下は互いの体温をより一層近くに感じさせ、静かなる夜は二人だけの世界を紡ぎ出す。
雰囲気に溺れ、慈しみ合う心を深めて。
自分達が神を生み出す道具とされていることさえ知らずに、恋人達はイベントを楽しむ。
セラウィスさんが微かに目を伏せた。
「だとしたら、僕達がこうしていることは間違っているのだろうね……後継を残すことなどかなわないのだし」
「そんなことは、ありません!」
儚く震える睫に誘われ、頬にキスを落とす。
異国の神も教典も興味ないくせに、こんな他愛のないことで揺れちゃうなんてセラウィスさんってば、ほんっっとうにっ!!可愛よね。
僕は本人に知られれば、確実に抗議されるだろうことを考えながら言を継いだ。
「セラウィスさんは異国の教典に書かれている、天の国についての項目を読んだことあります?」
神の教えを守り善行を積んだ者が、死して後に住まう国。
飢えも苦しみもなく。働く必要もなければ、病に罹る怖れもない。
そこは、望むものは何でも与えられ、ありとあらゆる快楽を享受することが出来る、至上の楽園なのだという。
「……うん、僕は初めてそれを読んだとき、天界というのは随分と退屈そうな世界だなって感じた」
どんなときでも、この人は話をちゃんと聴いてくれる。小さいながらも応じてくれる声に、僕は笑みを深くした。
「ですよね。誰もが裕福で、誰もが同じように生活している世界なんて、僕なら3日で飽きちゃいそうです。きっと皆、同じような表情してて、何を問い掛けても同じような反応しか返ってこないんでしょうねー」
働く必要がないから才能があっても意味がない。努力して学問を修めても、活用できる場所はない。
空腹を覚えなければ食べ物など口にする理由はないのだし、疲れることを知らないから睡眠を取る必要もない。
目標もなければ目的もなく。ただ、与えられるものを受け入れ、尽きることのない時間を持て余し。為すべきこともなく、無意味に日々を消費していくだけの世界。
「救いを求める人なんていうのも当然いないでしょうから、神様だって退屈でしょう。平和で安寧で、仕事もなくてやることもなくて……そんな神様の目に、地上は一体どんな風に映ると思います?」
人が幸せを感じることが出来るのは、それが不幸と背中合わせにあるからだ。
空腹だからこそ満腹感を味わうことが出来るのだし、病や事故で容易く喪われてしまう命だから、健康に生きることが尊いものだと感じられる。
地上は不幸が満ちている。
そして、同じだけの幸せで溢れている。
「それは、さぞや刺激的だろうね。生と死と、悦びと哀しみ。限りある時の中、一日一日を這うように懸命に生きる者達の姿は、幾ら見ていても飽きないものだよ」
なんだか実感の篭もった言葉ですね。って、言おうとしてやめた。
その代わりと両頬に手を添えて、澄んだ双眸をうっとりしながら覗き込む。
「神様も星見のおばさんみたいにしょっちゅう覗き見して、日々の無聊を慰めているんでしょうね。ましてやそれが地上の者達が自分の誕生日を祝ってくれる日だったりなんかしたら、見逃すはずがありません」
そうして、見下ろした地上にいるのは。
雪を蕩かす程に甘い、数多の恋人達の姿。
「誰も彼もがいちゃいちゃしていて、幸せ~なところを見せつけられたら、神様だってひとりでいるのが寂しくなるかもしれないでしょう?自分も地上に降りて混ざりたいな~とか、うっかり考えちゃうかもしれません」
地上にどれほど器が溢れようとも、当の神様がその気にならなければ降臨の儀は叶わない。
だから、器を創る一方で、地上の者達は呼びかけるのだ。
たくさんの飾り付けと、無数に灯した蝋燭の明かりで精一杯に気を惹いて。
自分達の生き様が、神の目に星々と同じくらい煌めいて見えることを願って。
羽虫を誘う花のように。
ねえ、神様。天の国は退屈でしょう?
貴方を本当に愛してくれる人なんて、いないでしょう?
ここへ来て。地に足をつけて。
儚き時間と短き寿命に縛られた人生を、自分達と一緒に楽しみましょう──と。
「……僕達は、神に堕天を進める為の餌だといいたいの?」
セラウィスさんが呆れたように僕を見た。
「僕が神様だったら、セラウィスさんが僕以外の誰かといちゃいちゃしている場面とか目撃しちゃったら、速攻で降りてきてそいつを殴り飛ばしちゃいますよ!」
この人にちょっかいをだす奴なんて、紋章で燃やして肥料にして、二度と戻ってこられないよう蒼き門で異界の畑に捲いてやる!!
例え話のつもりだったのに、喋っているうちに頭に血が上ってしまった僕は拳を振りかざして力説をした。
腕の中の佳人が吹き出す。
「そんな物好きは、カイネぐらいでしょう」
わかってないし。相変わらずこの人、自分がどれだけ奇麗で可愛くて儚くて美人さんで人目を惹く存在なのか自覚がないんだなあ。
僕がどんなに涙ぐましい努力を持って邪魔者を排除してきたかなんて想像もつかないんでしょうね。
まあ、知らなくていいんだけど。何やったかバレたら怒られそうだし。
「んー、それじゃあ、神様が僕と同じことを考えてしまうぐらい好みに思う子だって、何処かにいるかもしれませんよってことで。それと、もうひとつ……」
未だ笑いの発作に震えている肩を手の平で包み込み、柔らかな髪に頬を寄せる。
「異国の教えでは神様はひとりしかいませんけど、この大陸にはもっとたくさんの神様がいます。もしかしたら、そのうちの何人かは既に人知れず降りてきているかもしれませんよね?」
ちらりと上がる視線に微笑みかけて、今度は唇の端に小さくキスをした。
「晴れて恋人同士になった相手が実は天界の住人だった、なんてこともあるかもしれません。うっかり目を離したすきにお空の国へ帰られちゃうかも……そんなことになったらすっごく困りますよね」
だから、ことある事に機会を作って、絆を深めておくのだ。
地上に降りた神様が少しでも長く滞在してくれるように。
異国の神の聖誕祭も、年末年始の行事も。暑い盛りのお休みも、実りの季節の収穫祭も。どれもこれも全ては、己の傍にいる神様かも知れないただ一人のひとへのご機嫌を取るための口実。
「僕はこの大陸の人間ですから、異国の神なんてどうでもいいですけど。そのたった一人のためには頑張りたいです」
「……例えそれが、災いをなす神かもしれなくても?」
少し迷う素振りを見せてから、セラウィスさんが問い掛けてくる。
答えはとうに決まっていた。
「もちろんです!それが死を呼び、魂を喰らい、破滅を招く神だとしても。僕にはかけがえのない人ですから」
「……明日の予定を聞いてもいい?」
ふっ、と佳人が口元を緩める。僕は大きく頷いた。
「はい!明日はお昼頃までベッドの中でごろごろして、温かいスープとパンで朝食兼昼食を済ませて、それから二人で手を繋いで広場をお散歩しましょうね」
夜ご飯は材料を買ってきて久しぶりに僕が作ってもいいですし。
「それって、どこかで宿を取るたびにしているような気がするのだけど……」
楽しく打ち明けた計画に、セラウィスさんが異を唱えた。
「機会はことある事に作らないと、ですよ!でもセラウィスさんがいつも同じだとつまらないと仰るなら、いっそのこと明日は夜まで起きられないぐらい、いちゃいちゃしてみます?」
つい、口を滑らせたら頬を染めた想い人に軽く頭を叩かれた。僕はその手を握り締めると、恭しく口付ける。
「地上は楽しいところでしょう。だから、もう少しだけここにいて?」
乞うように囁けば、トランで神と呼ばれている人は花が綻ぶように微笑む。
「どこにもいかないよ…………僕が在るべき場所はここだから──」
誰よりも奇麗で哀しい、僕だけの神様が。
何処にも行かず、いつまでも僕の隣にいてくれるように。
聖なる夜に祈る時間さえ惜しんで、傍らの存在を胸に抱く。
窓の外は白い雪。本格的に降り出した玉屑に、下の街道を行き交う者達の間から喚声が上がった。
僕は背に回された腕の感触に目を細めながら、今一度カーテンに手を掛ける。
制する声は、もう上がらなかった。
2004/12/25 UP