Under empty
見上げた空は哀しいほどに澄んでいて。
この広い大陸で自分だけが独りでいるような錯覚を受けた。
ジョウイとナナミと、海の傍の小さな村に腰を落ち着けて。3人で過ごした日々はこれまでにないほど穏やかで優しい時間だった。鉄錆の匂いも、剣戟の音もない、潮騒の子守歌に抱かれて眠る静かな夜。朝日が昇れば中央に立つ市から陽気な声があがり、午後には幼子達の笑いさざめく声で通りが溢れかえる。
都市同盟から来たと告げた僕たちに村の人は皆親切だった。戦災孤児だと思われていたに違いない。デュナン統一戦争の騒ぎもここまでは届かず、時折通りかかる旅人によってもたらされる、嘘とも真実ともつかない噂話が彼等の持つ情報の全てだったから。
ここに僕たちを知る者は誰もいない。
ここでなら僕たちの道は二度と分たれることなくずっと一緒に歩いていける。
だけど……。
ナナミの笑顔も。ジョウイと語らう時間も。僕にはどこか遠い場所の出来事のように感じてならなかった。
彼等の望む生活と、僕の欲する未来の形は同じじゃない。
僕が還りたいと願う場所は、もう彼女達の隣にはない。
欲しいのは、夜の水面に映る赤き月。あるいは、光をも切り裂く鋭さを備えた白金の輝き。
闇より昏き狂気を隠し持つ柔らかな微笑みの英雄の傍らだけが、僕が気負うことなく呼吸のできるただひとつの場所だった。
逢いたい気持ちを抑えられず。あの人を近くに感じたくて。その他のすべてを後にした。
ナナミが泣いても。ジョウイを裏切ることになろうとも。
最後にあの人が残るならそれでいい。
いかなる犠牲を払おうとも構わないとさえ思っていた。
あれから、どれだけの刻が過ぎたのだろうか。
目の前を流れていく景色の中、家々の軒先に新しき年を祝うささやかな飾りをみつけ、またひとつ年が流れたことを知る。どこかで魚でも焦がしたのだろう、香ばしいと評するにはいささか強すぎる匂いに、久しぶりに義姉の顔を思い出した。
「今頃、どうしているのかな……」
元気でやっているのだろう。ナナミも──ジョウイも。
顔を見せれば、きっと暖かく迎え入れてくれるに違いない。
懐かしい笑顔。暖かな人達。幸せの象徴たるすべてがそこにはあった。
「今さら戻ろうとも、戻りたいとも思ってないけどね」
見上げる空は何処までも広く続いていて。
大地に縛り付けられたこの身は、未だ愛しき人の影さえ見ることが出来ないでいるけれど。
「絶対に探し出してみせる……どんなことをしても」
今一度この腕に抱くために。もう二度と手放さないために。
ナナミやジョウイの面影を脳裏に映せば温もりさえ感じるのに、あの人のことに想いを馳せると胸が苦しい。
彼の人の存在を自分の総てで確かめたいと心が悲鳴を上げる。身体が飢餓を訴えている。
隣にいない喪失感に足元が崩れ落ちそうで。底の見えない絶望に悲鳴が咽からほとばしりそうだった。
堅く目を瞑り、血の滲むほどに唇を噛みしめて狂気を堪える。
僕はあの人を過去の幻影なんかで終わらせるつもりはない。一時の寂寥感に負けて夢の世界に逃げ出してしまうつもりもなかった。
再び開いた視界に映る虚空は朧に霞んでいて。
乱暴に袖で目を拭うと、気を取り直すためにわざと明るい声を上げた。
「確かこの先は分れ道になってるんだよね。どっちに行こうかな」
前の町で手に入れた地図を拡げ──始めて分かれし道の片方が何処に繋がっているのかに気付く。
予定としてはハルモニア方面に向かうつもりだった。あの人はいつもあの国の動向を気にしていたから。近くに行けばなにか手掛かりが掴めるだろうと思っていた。
計画通り進むなら右の道を北上すればいい。だけど僕の目はそれとは正反対の道筋を辿っていた。
運命なんて言葉は信じてないけど。
ここでこの地名に出くわしたことに、止まっていた歯車が動き出したような感触を受ける。
「……探し出す事ばかり考えてたけど、来てくれるのを待つっていう方法もあるんだよね」
死神を従えるかの人は、望むと望まぬに関わらず争いの気配に引き寄せられる。ましてやそれが馴染み深い土地の出来事ともなれば尚更だ。自ら足を運んで様子を見に来ようとするだろう。
脳裏をよぎるのは紅蓮の色。大地に降り注ぐ戦禍の焔。
いったいどれだけの贄を捧げたら、あの人を呼び寄せられるだろう。
僕は朱に染まる大地に立つ生と死の支配者の姿を想い描き、うっとりと目を細めた。
執着と呼ばれようとも狂妄と言われようとも。
望むのはあの人ただひとりだけ──。
荷物を担ぎ直し、意を決すると僕は予定していたのとは逆の道へ足を踏み出した。
彼がいなければなんの意味もなさないこの世界を、彼を閉じこめるための鳥籠に変える為に。
「待ってて下さいね、セラウィスさん。今度こそあなたを捕まえてみせます」
風が新しき時代を目指し僕を追い越していく。その流れに背中を押されるようにして駆けだした。
かつて僕たちが歴史を作った場所。今は亡き皇国の首都であったルルノイエへ向かって──。
雲ひとつない蒼穹は高く広がり、あの人のいる場所へと繋がっている。
彼もまた何処かで同じ空を見上げているのなら。遠くない未来、きっと僕たちは出会えるだろうと信じることができた。
2003/01/13 UP