The sight of cherry blossoms at night
闇の中ふと眼を醒ました。
視界の助けとなるのは、窓から差し込む淡い月の光だけで。
隣にあったはずの温もりは名残すらなく、指先が辿るのは冷たいシーツの感触ばかり。
「セラウィスさん……?」
求めて止まず行方を尋ねて。背中を追いかけ影を踏み。幾星霜も重ねた旅路の果てにやっと手に入れた愛しい人の名を呟く。
首を巡らし朧気な視界に瞳を凝らせば、部屋の片隅には彼の人の愛用する棍が置かれたときのままに壁に微かな陰影を落としていた。
その傍の椅子に服が掛けてあることからして遠くへ行ったわけではなさそうだ。僕は、ほっとして肩の力を抜いた。どれほどこの腕に抱いても、何度温もりを確かめようとも。次の瞬間には淡雪のように儚く溶けてしまいそうな危うさを感じさせる人。近くにいることで不安はいや増し、遠く離れれば気も狂わんばかりに逢瀬が望まれる。
「一度味を知ると逃れることの叶わない麻薬みたいだよね。ああ、でも毒と呼ぶにはあまりにも清冽に過ぎるかな?」
ひとりごちてくすりと笑う。たおやかな肢体の奥底に。穏やかな笑みの裏側に。なにものにも侵されぬ聖域を彼が内包していることもまた事実だったから。
「それにしても何処行っちゃったんだろうなー。服が残ってるってことは夜着のまま外に出たってことだよね」
彼の姿が見えないかと窓際へ歩み寄り少しだけ開く。季節は春。盛りを迎えし花は柔らかな銀光に包まれ、舞い散る花弁までもが仄かな輝きを放っていた。陽光の下では人々の心を和ませる可憐な桜樹は、生暖かい宵闇に包まれると心騒がす妖うさが加わる。
「あれ……?」
空を彩る月よりも玲瓏とした声が微かに聞こえてきたのは、僕がその光景に目を細めた時だった。
―――朝(あした)ニ落花ヲ踏ンデ相俟ッテ出ヅ
夕ベニハ飛鳥(ひちょう)ニ随ッテ 一時ニ帰ル
九重ニ咲ケドモ花ノ八重ザクラ イク世ノ春ヲカサヌラン
「この声って……セラウィスさん、だよね?」
おそらくは唄……なんだろう。高く低く。耳慣れない独特の節回しを持って紡がれる韻律は、僕の心に不可思議な感慨を抱かせた。
誘われるままに窓枠を乗り越え、音源を目指して花繁る木立の間を抜ける。
―――名残ヲシノ夜遊ヤナ、惜シムベシ惜シムベシ
闇に混じるように、闇に交わるように。
―――得ガタキハ時、逢ヒガタキハ友ナルベシ
花に戯れるように。花に埋もれるように。
―――春宵一刻價千金、花ニ清香(せいきょう)月ニ影春ノ夜ノ
切々と語りかけるかのようなその響きに。桜の根元に佇み軽く目を伏せて口ずさむ佳人の姿に。
この世ならざる苑に迷い込んでしまったかのような錯覚が起こった。
―――花ノ影ヨリ、明ケソメテ
鐘ヲモマタヌ別レコソアレ……
篝火に惑う羽虫みたいにふらりと進み出た僕の足下で、小枝がパキリッと爆ぜる。
「……カイネ?」
途端に謡は止み、幽玄なる旋律は大気に散っていってしまった。
「ご、ごめんなさい。邪魔するつもりはなかったんですけど……」
気分を害させてしまったかも知れないと思い、おずおずと謝罪を述べる。麗しき唄い手は桜の幹に預けていた背を起こし、緩やかに首を傾げた。
「もしかして探しに来てくれたの?悪いことをしたね」
「いいんです。僕も眼が冴えちゃったから」
声の調子から怒ってないことを感じ取り、彼との距離を縮める。ふんわりとした笑みを向けてくれる頬に指で触れると、そこは肌の色の印象そのものの感触を伝えてきた。おそらく身体全体も冷え切っているに違いない。宵ともなれば身を切る風の吹く今時分。夜着一枚でうろついていれば当然のことだった。
「こんな薄着で、だめじゃないですか。風邪曳きますよ?」
包み込むように抱き締めると、腕の中に収まった花車な肩がくすくすと零れる笑みに細かく震えた。
「頑強に出来ているから大丈夫だよ」
でも、カイネは暖かいね……と、僅かに身を擦り寄せてくる仕草に愛しさが募る。
首の後ろから回した手をおとがいに掛け、上向かせて唇を重ねた。伏せられる睫毛の儚さに焼けつく胸の熱を余すところなく伝えるようにして深く口接ける。
「……少しは暖かくなりましたか?」
僕の胸に縋り付き、呼吸を乱す佳人に微笑みながら訊ねた。彼は少しだけ拗ねたようにこちらを睨んできたけれど。それでも小さく頷いてくれる。
「さっきの唄……どんな意味なんですか?」
身を離そうとするのを許さず、頭を肩に凭れかけさせて背中を撫でた。
「ん……異国に伝わる物語だよ。隠棲している男の住まいに立派な桜の樹があってね。春になるとたくさんの人が訪れ浮かれ騒いでいくんだ。喧噪を嫌う男はそれを桜のせいとして恨めしく思うんだけど、ある晩、桜の精が現れて『罪咎は桜にはあらず』と言って男を諭すんだ」
それはまあ確かに。桜にとっては逆恨みも良いところだよね。騒ぐのは人の勝手であって、花はただ咲いているに過ぎないだし。第一、そんな立派な樹なら男が居を構える前からそこに生えていたんだろうから、尚のこと後から来た奴に文句を言われる筋合いじゃない。
「それでどうなったんですか?」
「納得した男に、桜の精は一差しの舞を披露して夜明け前に帰っていくんだ」
「へえー、そんな身勝手な男に舞まで見せてくれるなんて桜の精って随分と寛容にできてるんですね」
僕が感心すると、セラウィスさんが小さく吹き出した。
「そうなのかもね。カイネも会ってみたい?」
「もう会えました」
僕の答えにきょとんとして小首を傾げる愛しい人の髪を梳き、毛先を指に絡め取る。
「舞じゃないですけどね、綺麗な唄を聴かせてもらえました」
花霞よりも清澄で、月影よりも艶冶に響く旋律に巡り会えた。
「夢みたいな光景でした」
思い返してうっとりとなった僕の腕からするりと抜けだし、セラウィスさんが月を仰ぐ。
「夢か現(うつつ)か幻か……桜の精は男に淡い情感のみを残して消えた。僕もそんな風にあれたらいいなと思うんだけどね……」
春の夜が見せた一睡の夢のごとく。誰も傷つけることなくして、現にあったことさえ定かとせず。いずれは記憶の中に埋もれていく幻のように痕跡も残さず消えることができればいいのに――と。
「セラウィスさんは駄目ですよ」
降りしきる落花に埋もれそうになる姿に手を伸ばした。手首を掴んで引き寄せ、間近から覗き込む。
「僕には、あなたを忘れることなんて絶対にできませんし、目の前からいなくなるなんてこと絶対に許しませんからね」
「カイネ……」
視線を絡め、何事かを言いかける唇に指を押し当てて制した。
「あなたはもう僕のものです。どうしてもと仰るなら、この息の根を止めてからにしていってください」
そうでもしない限り、僕は決してこの手を離さないだろう。
「君は以前死ぬのが一番怖い、と言っていたような気がするんだけど」
きっぱりと口にした僕を見上げ、セラウィスさんが不思議そうな顔をした。
「あ、覚えていてくださったんですね。光栄です」
ずうっと昔、まだ僕が湖畔の城に住み軍を率いていた頃。ちょっとだけそんなことを話した記憶が残っている。まさか、会話の合間に織り込んだささやかな一言を覚えてくれているなんて思ってもみなかった。
相好を崩して悦びを露わする僕を訝しげに見遣り、元隣国の英雄は言葉を続ける。
「なのに、僕に殺してくれと頼むの?」
「だってセラウィスさん、僕を殺すために一緒にいてくれているんでしょう?」
首を傾げ問い返す僕に、セラウィスさんがはっと息を呑んだ。
「カイネ……っ」
「知ってました。あなたがあの都市同盟の統一戦争で要請に応えてくれたのは僕が『真の紋章』を持つ者だったからだってこと」
ずうっと見つめ続けてきたから。遠く離れても想いはいつもこの人の元にあったから。
セラウィスさんがある目的を持って動いていることにいつの頃からか気づいていた。そのためにレックナートさんが彼を怖れていることや、真なる風の紋章をもつ魔法使いが密かに手を貸していることも。
もっとも、ルックはルックでセラウィスさんとは違う目的があるみたいだから、おそらく途中までの道のりが同じってところなんだろう。
「わかっているなら何故……」
そんなこと決まってる。
「あなたになら殺されるのも悪くないなーって考えてるからです」
闇に浮かぶ赤き月を思わせる虹彩を覗き込んで迷いのない口調で告げた。
「死ぬのは怖いです。誰にも顧みられることなく追いやられ捨てられて意味なく死んでいくことだけはしたくない」
親とはぐれた生まれたばかりの子犬が、子供達の無邪気な嗜虐心に弄ばれて生を閉じてしまうように。何も残すことなく、何も成し遂げることもせずに生命を終えるのは嫌だった。
「老衰とかならしょうがないとも思ってたんですけどね。いまとなっては、それはないですから。僕は自分の幕引きぐらいは自分で決めたいです」
「決めた結論がこれなの?」
しばたたかれるセラウィスさんの瞳が浮かぶ感情に揺らいでいる。
「そうですよ。どうせなら潔く鮮やかに散るのがいいです。この夜を惑わせる桜みたいに、誰かの心にいつまでも映える色彩を残して逝けたら。そうしたら、僕がここに生まれてきたことも無駄じゃなかったと信じられますし。けど、相手は誰でもいいってわけじゃないんです。僕のことを良く知り、僕が覚えていて欲しいと思える相手じゃないと意味がない」
その誰かが、あなたであればいいとずっと思ってました。
「この命を奪うことで、セラウィスさんが僕という存在を胸に刻みつけてくれるのなら。あなたを永久に捕らえ続けることができるなら、生命のひとつやふたつ投げ出す価値は充分にあるでしょう?」
それはこのうえもなく甘美な誘惑。僕が陶然として薄く微笑むと、白い指が僕に向かってすっと伸ばされた。
「君の言うとおり、僕はいつか君を黄泉路に導くことになるのかも知れない。喰らった者の魂を忘れたりはしないけれどね。僕が興味を引かれるのは──傍にいて見ていたいと思えるのはいま生きてここにいるカイネなんだよ」
「わかってます。ただ監視するだけなら、あの戦争で壊れかけていた僕の内面にまで気を遣ってくれる必要なんてなかった。いまだって他にも『真の紋章』の主はいるのに、あなたが傍にいることを許しているのは僕ひとりだけ。特別だからだって自惚れてもいいんですよね?」
セラウィスさんの指を握り込んでそこにキスを落としながら伺うと、僕を見つめる目元がふっと和んだ。
「……夜桜も綺麗だけどね。花弁が春の陽射に透けているのも好きだから。散る間際まで眺めていられたらと思うよ」
そう言って、珍しく自分から腕を回してくれる。体重を預けてくれる身体を支えて、僕は言の葉を重ねた。
「風に梢が揺れるところや、雨に濡れているところなんかも趣がありますよ」
一時も目が離せないくらいに、あなたの興味を引き寄せ続けてみせるから。
「だから、離れず傍にいてくださいね。──あなたがその手で花を散らすその時まで」
朝陽が上っても消えたりせずに。黄昏が闇を伴ってきても姿を隠したりしないようにと。
希う(こいねがう)僕を抱く腕の力を強め、セラウィスさんがふわりと口元を綻ばせた。
「うん、そうだね。一緒にいるよ……ずっと、ずっとね」
小さくはにかむその表情は、春を謳歌するどの花よりも可憐に麗しく。
僕は、決して散ることも枯れることもない常盤の花を、空が明るくなるまで抱き締め続けた。
2002/06/15 UP