after snowfall
いつも僕達を見守っていてくれていたのは、優しい月の光――。
夕刻から降り始めた雪は夜半には止み、薄らいだ雲の切れ目から丸い月が顔を覗かせている。
冷たく澄んだ大気に冴え渡る銀の輝きに、ふと思い出される顔があった。
明るく賑やかで……どこか憎めない僕の親友。
本人のイメージからいうと青空の方が似合うのだけれど。彼に纏わることで印象に残るものはいつも蒼い月明かりに照らされた光景ばかりだった。
僕とアトレイドの父は血が繋がっていない。その事実を知ったのはいつのことだったろう?
小さい頃の僕は、あの人を本当の親なのだと信じていた。
どうして父親が僕を避けようとするのか、弟と自分との扱いに差があるのかわからなくて。隠れてよく泣いていたっけ。
そう、彼と始めて会ったときも僕は泣いていた。
皇都ルルノイエへ政務で出掛けていた父親が帰ってきた日。
おみやげは弟だけに用意されていた。
膝に乗せた幼子にねだられて、華やかな都の様子を語る父と。
慎ましく気弱な笑顔でそれを見守る母。
―――そこに僕の居場所は用意されていなかった。
寂しくて、どうして自分が疎まれているのかも解らなくて、こっそりと屋敷を抜け出した。俯き涙を零しながら向かった先は、村はずれにある小さな丘。
そこでなら、誰にも見咎められることなく思いっきり泣ける。それだけを心に足を動かし続けた僕の期待は、しかし見事に裏切られてしまった。
目指した木の根元には先客がいたんだ。
歳は僕と同じかちょっと下ぐらい。こんな時間にこんな場所にいるってことは、村の人間なんだろうけど。ほとんど屋敷外の人間と話す機会のなかった僕には、村の子供達の顔がよくわからない。
『どうして泣いているの?』
僕に気づいた彼は、いきなりそういった。
『道に迷ったの?それともお腹がすいた?あ……僕お菓子持ってるよ。よかったら食べる?』
僕は目をぱちぱちとさせた。夜遅い時間に子供が独りで出歩いていたら――これは僕だけじゃなくて彼にも言えることだけど――迷子と間違われるのはしょうがないと思う。けど、お腹がすいた、はないんじゃないかな。いくらなんだって空腹ぐらいじゃ泣かないよ。
でも、ここへ来た理由は答えたくなかったから、曖昧に頷いて渡されたお菓子を受け取った。
『そういう君はこんなところでなにしてるの?』
素朴な味の焼き菓子を口に運び、僕は問い返す。
『いまお家に帰るとナナミが心配するから。ここはね、僕の秘密の場所なんだ』
よくわからない返事。僕は隣の少年を窺い見た。
仄かな月明かりに目を凝らし、僕はようやく彼の目の縁も紅くなっていることに気づく。
彼もここへ哀しみを癒しにきてたんだ。
辛いのも、誰かの傍で泣けないのも僕だけじゃない……。
『僕もここを知ってるのは僕だけかと思ってた。僕にとってもね、ここはお気に入りの場所なんだよ』
そう考えたら親近感が湧いて。ずっとうち解けた口調で話しかけてた。
『じゃあ、僕がここにいたの怒った?』
少しだけ不安を滲ませる子供に、首を振って笑いかける。
『ううん、ぜんぜん。それに今日は僕の方が後からきたんだから、優先順位は君にあるよ』
『それって、僕が君と一緒にいるかどうか決めて良いって事?』
ゆうせんじゅんい、の意味がわからなかったのか、彼はちょっと首を傾げた。
僕がうんって頷くと、少し考えてから、
『だったら、今日からは僕達二人の秘密の場所だね』
って、無邪気な笑顔で答えてくれた。
―――僕はジョウイ。君はなんていうの?
『よろしくジョウイ。僕の名前はね……』
あの時から、僕達はずっと友達だった。
彼が森で迷子になったとき。
ゲンカク老師が亡くなったとき。
ナナミの手料理から逃げ出して、二人で納屋に隠れていたとき。
ユニコーン隊で仲間はずれにされて、他の子供達と大げんかしたとき。
―――祖国を追われ、逃亡先で牢に閉じこめられた時さえも。
僕達はずっと一緒にいたし、頭上からは優しい女神が柔らかな眼差しをそそいでくれていた。
「こんなところにいたんですか?」
背後から呼ばれて。中庭を見下ろすバルコニーの手摺りに寄りかかっていた僕はゆっくりと身体を反転させた。
「シード何かあったのかい?」
「戦況に変化はありません。お姿が見えないのでどうされたのかと思いまして」
隣の青年よりは格段に流麗な言葉遣いでクルガンが僕に告げる。
「すまない。心配をかけてしまったかな」
いいえ、そんなことは……と恐縮する二人から目を離し、空へと視線を戻した。
「……今日は、僕の親友の誕生日なんだ」
「それは、あの都市同盟軍の……」
言いかける青年をクルガンが軽く制する。
「後悔なさっておいでですか?」
「後悔?どれについて聞いているんだい?ミューズ市長を殺めたこと?親友を置いてひとりだけ祖国に戻ってきてしまったこと?奸計を謀って皇太子を弑し、ブライト王家を簒奪したこと?だとしたら、答えはノーだ」
最善であったとはいわないけれど。僕にはあれしか方法がなかったから。
「貴方の親友と闘わなければならないことをですよ」
僕の肩が、あからさまに強張った。
「おい、そんな言い方って……っ」
意外と情に脆いところのある青年が、声を荒げる。
「いいんだシード」
「しかし……っ」
「大丈夫だ、ありがとう」
僕は微笑みを浮かべて、二人を交互に見つめた。
「確かに彼は僕個人にとって大切な親友だ。だけど僕にはアトレイド家の人間としての……支配階級に生まれた者としての責務がある。そしていまや僕はこの国の皇王だ。他の誰が見放しても、僕だけはハイランドを棄ててはいけない」
それが、僕の矜持。生まれを知らないことである意味自由な彼と僕とが唯一違うところ。
父親に愛されてなくても。血が繋がっていなかったとしても。僕が貴族の生まれであることに変わりはない。
クルガンとシードは背筋を伸ばし、騎士としての礼を取った。
「貴方がこの国をお守りしてくださる限り、我々は貴方をお守りいたします」
「……最後まで、よろしく頼むよ」
あれほど優位に立っていた戦局は押し返され、いまではほぼ逆転されている。
この国が落陽の時を迎えようとしているのは誰の目にも明らかだった。
ねえ、僕を愚かだと思うかい?
僕はきっと君には勝てない。
僕には君を殺せない。
一番大好きだった人を裏切ってまで手に入れた地位と共に、僕は沈んでいくのだろう。
もうじき全てに決着がつく。
その時、僕は何を想うのかな。
君を知らなければ、こんなに苦しい思いはしなくて済んだのかも知れないけれど、君と出会ったことを後悔したくはない。
愛しく思える記憶には、いつでも君の姿があった。
君と過ごした幼き日々は、いまも僕の胸を暖かくしてくれている。
遠く離れた場所にあっても。たとえ君が僕を嫌いになってしまっているとしても。
僕の心には変わらずに残っている気持ちがあるから。
胸を疼かせる小さな灯火を抱いて、月だけに聞こえるようにそっと伝える。
「お誕生日おめでとう――カイネ」
君が生きてここにいることに感謝を込めて。
2001/08/26 UP