地下から発生した火は、いまやビル全体を覆っていた。
「こんな……こんなのってないよォ……」
すすり泣く小蒔の言葉が、全員の心情を代弁する。
ひとりの少女を救えなかった事実が全員の心に重くのし掛かっていた。廃ビルの前でただ呆然と佇み、崩れ落ちていく様を見ていることしかできない。自分たちの力不足を今ほど痛感したことはなかった。
「……醍醐、手を離してくれるか?」
先ほどの激情が嘘のような静謐な声だった。
「龍麻……龍麻すまんッ。俺を恨んでくれていい」
掴んでいた腕を漸く放し、醍醐が頭を下げた。白い腕にはくっきりと指の形の痣が残ってしまっている。
龍麻は反対の手で軽くそれを押さえた。
「醍醐のせいじゃない」
気遣う微笑みが胸に痛い。いっそ、泣きわめき責めてくれた方が、どれほど楽だったことだろう。
「ふたりともあまり思い詰めないで」
いつのまに見つけたものか、美里が龍麻の上着を差し出した。
「比良坂さんは、彼女自身の意志でお兄さんのもとへいったのよ。彼女を助けられなかったのは哀しいことだけれど、醍醐君が止めなければ龍麻まで炎に巻かれてしまっていたわ。誰にもどうしようもなかったのよ」
受け取る龍麻の腕に、そっと掌を這わせる。暖かな光があふれ、痛々しい痣がみるみるうちに薄くなった。
龍麻は上着に袖を通した。ワイシャツがないのでなんとなく間が抜けていたが、ボタンを止めてしまえばわからなくなる。
「ありがとう美里」
美里は微かに微笑んだ。
「いいえ……あなたが無事でよかった」
「みんなも迷惑かけて悪かったな。藤咲、雨紋も助かったよ」
「このぐらい、なんてこと、ねえけどよ……」
雨紋が言い淀む。視線を逸らし、槍の穂先で手持ちぶさたに地面を掘り返した。
「龍麻ゴメン。アタシ、あの娘のこと頼まれてたのに……ッ」
藤咲は、こらえきれなくなった嗚咽を漏らす。
「違うよ」
低く、けれどきっぱりと龍麻が言った。
「――あれは、俺のせいだ」
俯く表情は見えない。
疲れたから帰って休むという龍麻を、京一は強引に送り届けた。
少しそっとしておいてやろう、という醍醐達の心積もりもわかるが、京一にはどうしても話しておきたいことがあったのだ。
ところが、実際に切り出すとなると、どう言ったらいいのかわからない。悩むうちに距離を稼いでしまい、気がつけば龍麻の住むマンションの前に来ていた。新宿からは電車で15分弱の場所だ。
「お茶ぐらい飲んでいけば?」
オートロックを解除しながら、龍麻が誘いをかける。
正直いって心が揺れた。ろくな話もしていないし、龍麻の住居にも興味がある。
しかし、小蒔の台詞ではないが、真面目な龍麻が無断で3日も家を空けたとなれば家族はさぞかし心配していることだろう。団欒を邪魔したくはなかった。
「いや、迷惑だろ?きっと家の人が待ってるぜ」
今日のところはしょうがないかと諦める。踵を返しかけた京一を留めたのは、龍麻の意外な一言だった。
「大丈夫だよ。俺一人暮らしだから」
「……へ?そうなのか?」
「うん。だから遠慮することはないよ」
なるほど。道理でいくら美里が電話を掛けても誰もでなかったはずだ。それならばいいかと、京一はずうずうしく言葉に甘えることにした。
通された部屋はとてつもなく広かった。
(マンションのくせに2階がありやがる……)
玄関から入ってすぐのフローリングの床など、かるく20畳はある。その半分ほどを覆うようにして半二階があり、大きな窓に映る夕焼け雲が階下の床をも朱色に染めていた。
奥の壁には扉が付いており、その向こうにまだ部屋があることを知らせている。これが俗に言う億ションというものなのだろう。
(一人暮らしって……このだだっぴろい家にかァ!?)
腰を下ろそうとして、傷ひとつない床に気後れする。せめてもと座布団を探したが、ざっと見渡した限りではおいていなかった。勝手に戸棚を開ける気にもなれず、あきらめて中央に腰を降ろす。制服についた埃が落ちるのではとびくびくした。
落ち着かずに何度も辺りを見回し、京一は部屋に入った時から感じていた違和感の正体に気づく。
部屋には物が一切無かった。テレビやゲーム機どころか、雑誌ひとつ落ちていない。広く感じるのは、部屋の大きさのせいばかりではなく、生活感がないためでもあるようだった。
「悪いな、待たせて。いまお茶をいれるから」
適当な場所で待っているように言い置いて奥に消えた龍麻は、白のワイシャツにジーンズといったラフな服装に着替えてきた。
手にコーヒーポットとカップの乗ったトレーを持っている。
慣れた仕草でカップにコーヒーを注ぎ込む手元を、京一はまじまじと見つめた。
金のスプーンの添えられたカップ&ソーサーは、食器のことなどさっぱりわからない京一からしてもお高そうに見える。……たとえ、床にじかに置かれていたとしても。
龍麻の家って一体……。
カップを見下ろしたまま固まってしまった京一に、龍麻はちょっと困ったように笑った。
「ごめん、うち座布団とかソファーとか用意してないんだ。キッチンならテーブルと椅子があるから、もしよかったらそっちへ移動するか?」
京一が不満を感じていると誤解したらしい。立ち上がりかけた腕を掴かみ、引き留めた。
「ここで充分だ。悪りィ。お前んちがあんまり立派だったから、驚いただけだ。俺の部屋なんか6畳しかねえからさ」
ははは、と渇いた笑いをたてる。龍麻はしばし逡巡したのち、あらためて京一の向かいに腰を下ろした。
「うん。俺もこんな広い部屋は必要なかったんだけどね。用意してもらって、文句を言う筋合いでもないんだけど」
してもらった、というからには、この部屋を探したのは家族なのだろう。それにしては、随分と他人行儀な言い方をするのが気になった。
「俺は養子なんだ」
京一の疑問が聞こえたように、龍麻が言葉を続けた。
「といっても、保護者となった人たちは、ずいぶん前に亡くなっているんだけどね」
「…………」
「遺産があるから生活は困らないし、ここも顧問弁護士が手はずを整えてくれたんだ」
「……なんで、急にそんな話をするんだ?」
これまで、ほとんど自分の話をしなかったというのに。
「京一が聞きたがっているから」
くすりっと口の端が酷薄に歪む。いつもの笑みとは違うどこか退廃的な雰囲気に、京一は眉間に皺を寄せた。
「ひーちゃん?」
「俺のこと疑ってるんじゃないのか?本当は、化け物の仲間かも知れないって」
頭が煮えた。
意識する前に躰が動き、気がついたときには、両腕を掴んで床に引き倒していた。
したたかに後頭部を打ち付けた龍麻が、少しだけ顔を顰める。
「……信用、してないのは、お前のほう、なんじゃないのか?」
一言一句くぎるように京一が声を絞り出した。
馬乗りになり、闘いの時にしか見せない苛烈な瞳で龍麻を射抜く。
「俺達はお前を信じて、一緒に戦ってきたつもりだった。でも、お前は違う」
旧校舎の時からずっと気になっていた。桜の舞う宵からずっと瞳を奪われ続けてきた。
そうして気づいたこと。
「お前、俺に――誰かにこうやって触られるのが嫌いだろう」
ふざけ合いやじゃれ合いの合間。人と接触する一瞬、龍麻は微かに身を強張らせる。
「けどよ、お前は『嫌だ』って言ったことは一度もなかったよな。いつも真綿にくるんだみたく、するりと躱しちまうんだ」
異なる反応を引き出したくて、過剰なスキンシップをしても、龍麻は嫌な顔一つ見せたことはなかった。
「お前が甘受しているのは、遠慮してるからからだと思ってた。俺達に気を使ってるんだと。だけどそうじゃなかったんだな。お前は、俺達に弱みを見せたくないんだ」
気を遣ってるのではなく、気を許していないのだ。
龍麻は僅かに目を見張ると、間近で覗き込む瞳から視線をはずす。
「……わかってるなら手を放せ、京一」
「嫌だね」
龍麻の拒絶を京一はにべもなく跳ね返した。純粋な力比べなら京一の方が強い。加えて3日間にわたる監禁生活で、龍麻の躰は弱っていた。
「京一!」
「答えろよ龍麻。俺達は――俺は、お前にとって背中を預けるに足らない人間か?一片の弱みも見せられないほど、頼りないかよ!」
誤魔化しや逃げを許さない、真剣な表情。
ここまでだな、と龍麻は心の中で嘆息した。一度ゆっくりと瞬きをし、心を決めて京一に視線をあてる。
「……信用する、しないの問題じゃない」
声音は冷え切っていた。こんなときまで動揺を表に出さない己の自制心に自虐的な笑みが零れる。
「俺はお前達を仲間だなんて思ってない。使えそうだったから、利用していただけだ」
「だったら、最後まで利用しろよ!!」
京一が激高して龍麻の胸ぐらを掴んだ。
大声で怒鳴りつけ、容赦ない力で再び床にたたきつける。
息が詰まり声の出ない龍麻にたたみかけた。
「中途半端なことするんじゃねーよ。俺達を騙しきって、いいようにこき使って、盾にでも矢面にでもすりゃいいじゃねーか!」
「きょう、いち、なにいって……?」
咳き込みながら、なんとか身を起こそうとする。
「俺達はお前の足手まといになるために一緒にいるわけじゃねーっつってんだよッ!お前ひとりが戦ってるわけじゃねェだろッ!」
京一は龍麻の頭を抱え込んだ。
「俺達ばかりがお前を頼って、寄りかかって……最終的には、いつもお前がひとりでなんとかしちまう……お前ばかりが傷ついてるじゃねェか」
ひたすら強くあるために、龍麻は泣くことすら自分に許さない。張りつめた糸が脆く切れやすいことにも気づかずに。
「ここままじゃお前、壊れちまうだろ……俺はそんなの嫌だからな……」
つらいなら泣けばいい。苦しいなら癇癪を起こして八つ当たりしたっていいんだ。自分の薄い胸でよければ、いつだって貸してやる。
「どうして……そんな、こと」
京一は絶対に怒ると思っていた。真っ直ぐすぎるほどの気性を持つ青年は、なによりも汚い考えを嫌ってるから。
きっと軽蔑して、部屋を出ていって……二度と龍麻とは関わらないようにするだろうと、龍麻は彼の協力を失うことになるのだろうと思っていたのに。
「龍麻、俺はおまえが思っているより、ずっと頑丈にできてるんだぜ。ちょっとやそっとのことじゃやられたりしねーし、お前の側からいなくなったりもしねェ」
腕の力を緩め、京一はそっと龍麻の前髪を掻き上げた。
「だから、ひとりで背負い込もうとするなよ……な」
深く、深く――底の見えない双眸が、京一を不思議そうに見上げている。その虹彩が深い紫紺に見えるのは、錯覚だろうか。
「わかって、言ってる……のか?俺は、お前達を道具にしてるんだぞ」
龍麻は困惑していた。京一がどうしてこんなことを言うのか……どうしてこんなに優しいのか、理解できない。
「いいぜ。思う存分活用しろよ」
「危険な状況で、あっさり見捨てるかも知れない」
腕の中の龍麻が、居心地悪そうに身じろぎする。
逃がすつもりのない京一は、体重をかけてのしかかり肩を押さえた。
「かまわねえよ。俺は別にお前に護ってもらおうなんて考えちゃいねェ。邪魔になったら、容赦なく切り捨ててくれていい」
だが、龍麻は最後の最後まで仲間を救うために尽力するだろう。京一にはそれが信じられた。
(わかってんのかよ、ひーちゃん、人は道具を護るために心を砕いたりはしないもんだぜ)
龍麻がそれを利用と思っているのならそれでもいい。使えるうちは側に置くというのなら、一生、役に立つと思わせればいいのだから。
「俺は頼りになるぜ。もったいなくて捨てられないくらいにはな」
睦言のように甘く囁いた。
「馬鹿な奴……」
吐息とともに龍麻の身体の力が抜ける。
京一は、抱き締める腕に力を込めた。
「泣いてもいいぜ?ここには俺しかいねーんだからよ」
「泣かないよ」
ふっと微笑む気配が伝わる。
「ひーちゃん……」
まだ強がっているのだろうか。京一は龍麻と顔を合わせるために肘を床につく。
「俺は、泣かない」
押し止めるように、龍麻の腕が京一の背にまわされた。
背中に伝わるやさしい温もりに、京一は思わず感動する。
「この先、誰が死んでも……おまえがいなくなっても、俺は泣かない」
言葉とは裏腹にくぐもる声。
「俺は薄情だから。……一緒にいてもお前にいいことなんかないよ……」
伸ばされた手が、明るい色の髪を何度も撫でる。京一は心地よさげに目を細めた。
「確かになァ。嘘つきだし、人は悪いし、性格も根性も歪んでるくせに、詐欺みたいに外面ばっかよくてよ。そんで、周囲を騙しまくっていいようにあしらってるくせに、肝心なことはぜんぶ胸に溜めこんで、ひとりで突っ走っていっちまうし……」
思い浮かぶ限りに並べ立ててやる。
「……本人を目の前にして、よくそこまで言えるよな」
龍麻は少し憮然として、悔し紛れにか髪を引っ張った。
「だから、危なっかしくって目が離せねェんだよ」
力のこもっていない指先は、京一の手にあっさりと握り込まれてしまう。そのまま口元にもっていき、触れるだけのキスを落としても龍麻は抗わなかった。幼子のように無防備に京一の行為を受け入れている。
「なァ、ひーちゃん、俺達がお前と共にあるのは、俺達がそれを望んでいるからなんだぜ」
誰かに強要されたわけではない。
京一達が望み選び取ったからこその現状だ。
敵対するもの、仲間となるもの。生きること、戦うこと、逃げること……斃れることさえ。
自らが選択し行動した結果に過ぎない。
誰もが自分だけの理由を持っている。
ただ利用され、犠牲にされる人形ではありえない。
「間違えるなよ、俺がお前と共にあることを選んだんだ」
京一も他の仲間達も――紗夜でさえ。
だから、龍麻が負い目を感じる必要はどこにもないのだ。
「お前ってわけがわからないよな。普段は馬鹿なくせに、時々そうやって人の心を見透かすような真似して、俺が予測もつかない行動をとるんだ」
胸に染み込んでいく言の葉。
龍麻は顔を隠すように、両腕を顔の前で交差させた。
降り注ぐ太陽のような《氣》が、目を眩ませる。
強い光に、視界がぶれる。
「俺はお前の相棒だからよ、お前の考えていることぐらいちゃんとわかるんだぜ」
怖がらせないよう細心の注意を払って腕を外す。冷えた指先を暖めてやりたくて指を絡めた。
夜を宿す瞳から、透明な雫が音もなく落ちた。
震える眦に頬を寄せる。
静かに流れ出るそれを舌で舐めとると、閉じられる瞼に誘われるまま、ゆっくりと唇を重ねた。
共にあること。
肩を並べて立つこと。
どちらかがもう片方に寄りかかるのではなく、互いが背中を預けられるように。
二人でいつでも同じ高さからものを見続けていきたい。
それが、京一の戦う理由。
最後の最後で龍麻の隣に立っているのが、自分であるようにと願う。
「ずっとお前の側にいる。約束する。誓うから……龍麻」
何度も繰り返し告げ、重なり会う吐息に制約の証を乗せる。
つうっと流れ落ちた水滴が、朧に霞む月を淡く映しては消えた。
「京一、いい加減起きろ!」
呆れた声とともに、毛布が引き剥がされる。
制服のまま寝入っていた京一は寝返りを打った。
「何度呼ばせれば気が済むんだよ」
しなやかな指先が、額に触れる。涼やかに耳をくすぐる声。薄目をあけると、朝日に照らされた漆黒の髪が虹色の光をはじいて煌めいている。
すごくいい夢だ。できるなら覚めて欲しくないと思う。
「制服、皺になってるな。横になるなら脱げばよかったのに……。しょうがない、アイロンかけるから、その間にシャワー浴びてきたら」
じゃないと、学校に遅刻するぞ?
なんだか所帯じみた夢だ。しかし、これはこれで悪くない。
「京一、聞いてるか?……寝起き悪いのかな。もうちょっと乱暴な手段に出た方がいいか?」
八雲でいいか、などと小声で呟くのを耳にするに至り、京一の意識は一気に覚醒した。
「いや、しっかり覚めた!もうばっちり!」
文字通り飛び起きて、ぶるんぶるんと勢いよく首を振る。
八雲といえば、腐童をふっとばした技ではないか。あんなものを喰らった日には……永久に目覚めぬ眠りへとまっしぐらだ。
昨夜――。
どのくらいあの体制でいたのだろうか。気づくと、龍麻は腕の中で眠っていた。
気力も体力もとっくに限界を超えていたのだろう。
瞳を閉じるとあどけなくなる顔が、心を開いてくれた証明のようで、京一はすこし嬉かった。
躰を休める場所を探し、中二階にベッドをみつける。
蔦の模様がついた手摺りが片側についた螺旋階段は、瀟洒だが人を抱えて登るのには向いていない。
意識のない躰は存外に重かった。京一より一回りは細いとはいえ、身長はほぼ同じくらいある。落とさぬよう細心の注意を払いながら、なんとかベッドまで引き上げたものの、京一もそこで力つきた。
ベッドがセミダブルであるのを幸いと隣に潜り込ませてもらう。制服を脱ぐという考えが浮かぶより前に、意識が眠りへと引きずられていった。
「びっくりしたよ、目がさめたらいきなり京一の顔がアップであったから」
くすくすと龍麻が笑う。なんとなく自分を見る眼が優しくなったような気がして京一は柄にもなく照れた。
「わりーな、勝手に泊っちまってよ」
「謝るのは俺の方だよ」
急かす言葉とは裏腹に、龍麻は寝台の端に腰をおろす。
「……俺は、東京に変異が起こることを知ってた」
怪訝な顔をする京一にかまわず、前を見たまま語り始めた。
「だけど『何が』起こるのかまでは知らなかったし、真神に来たのは……ある人に勧められたからで……」
至極、珍しいものを見た気がする。言葉を探して躊躇う龍麻など滅多にあるものではない。
「美里達とも会うとは思ってなかった。俺に真神を推した人は、知ってたかもしれないけど……だから、全てが必然ってわけでもなくて……もちろん偶然とも言い切れないんだけど……」
「ひーちゃん???」
「……俺、何言ってるんだろ」
深く息をつき、肩を落とす。
「京一があんまり人を詐欺師みたいにいうから。……言っておくけど、俺は京一達に嘘をついたことはないよ」
―――隠していることならあるが。
「……ひーちゃん」
それだけだから。と立ち上がる龍麻の腕を掴んで強引に引き戻す。
「えっ!?ちょっときょうい、……んっ……」
京一は勢いのまま、胸に倒れ込んできた躰を腕に閉じこめ、覆い被さった。
「…………っ……」
深く貪り尽くすように重なってくる唇に、龍麻の思考が白濁する。
昨夜とは異なる『欲』をともなった口づけ。口腔を蹂躙する舌の動きに、力が抜けそうになる。
「ちょっ……と、朝っぱらから、何、考えてんだよ」
残った理性を総動員し、やっとのことで京一を引き剥がすのに成功した龍麻は、息を乱れさせながら京一を睨んだ。
「いやー、ひーちゃんがあんまり可愛いこと言うんでさあ」
闇色をした瞳の深遠に落ちていきそうになりながら、京一は満足げに笑う。
「……お前、朝食抜き」
しまりのない顔を嫌そうに眺め、龍麻はぼそりと宣告した。
「え~、ひでェぜひーちゃん」
今度こそ立ち上がった龍麻は、「知るか」とそっぽを向いたまま階段を降りていってしまう。
初めて見せる、拗ねた様子が可愛くて、京一はくつくつと喉をならした。
(ひーちゃん、言い訳ってのは、相手に嫌われたくないからするんだぜ)
どうやら思ったよりも、自分は龍麻に大切に想われているらしい。
こみ上げる愛しさを噛みしめつつ、京一はベッドを抜け出した。
その後、京一が朝食にありつけたのかは定かではない。