胸を貫く痛みに神経を侵される。
肺が収縮し息が詰まった。
許容を超える苦しみに精神が現状の把握を放棄する。
意識が途絶える寸前――。
繰り返し己の名を呼ぶ想い人の辛そうな顔だけが瞼の奥に残った。
正方形のタイルが並んだ白い天井が、京一を見下ろしている。
くすんだ色合いは、青年の自室にはないものだった。しかし、ここはどこだろうという疑問は形となる前に氷解される。
「あはッ。京一君、目が覚めたんだァ。どこか痛いところはありませんかァ~?」
「た、高見沢ッ?!」
微睡んでいた意識が一気に現実へと引き戻された。
ベッドに横たわる京一を真上から覗き込んできたのは薫風が緑樹を渡る頃、仲間となった少女。
ピンクの看護服を身につけているのは、彼女が看護婦見習いだからである。
高見沢がいるということは、もしかしなくとも……。
「イヒッ。なんとか生きているみたいだね京一」
や、やっぱりーっ!
恐る恐る目を転じた先に想像どおりの人物を発見し、京一の顔から血の気が引いた。
ここにだけは、来たくなかったってのに……。
「京一く~ん。顔色が悪いみた~い。お熱を測りましょうね~」
青ざめているのは、決して体調不良の所為だけでありません。などとは、口が裂けても言えず。京一は唯々諾々として差し出された体温計を手に取った。
口に銜えようとして、己の躰を巡る違和感に改めて気づく。
体温計を握る右腕の刀痕は消えていた。なのに、その時受けたのであろう毒の影響は失せてはいない。
美里か高見沢の《治癒》か、某骨董店で取り扱う怪しげな薬を使用すれば、とうの昔に回復していて然るべきだというのに。
「京一、あんたのそれは毒じゃない。呪詛を受けているのさ」
怪訝な表情を浮かべた青年に、たか子が簡単な説明を行った。
呪詛とは、怨む相手の災いを祈願する術法である。人が行う際は呪術の為の準備が必要だったり、様々な制約があったりと手間暇の掛かるものだが、妖の場合はもっと単純で己の怨念を直接相手に憑依させることで詛呪と為す。
「だから妖の呪いは、憑依した念さえ剥がしてしまえば効果も消える。けど、あんたには形代が使われてるみたいだね」
「形代?」
「呪う相手の躰の一部――髪の毛や爪の先なんかを植え付けた呪具に《念》を込めるやり方さ。これだと京一の身に直接どうこうしているわけじゃないから、高見沢や美里の手には負えないね」
呪詛を受けた相手は瘴疫に患い、ついには死に到る。祓うには形代を浄化するか、専門家に『念返し』をしてもらうしかない。
「2、3人そういったことを請け負ってくれる陰陽師に心当たりがある。連絡を取るのに数日を要するからそれまでおとなしくここで寝てるんだね」
病院内にいれば、結界の恩恵によりいくらか苦痛を和らげることもできる。普段が健康すぎるほどに健康であり、気力も体力も有り余っている京一なら死ぬこともないだろう。
「……ついてねェぜ」
まだ青春を謳歌してないというのに、大切な夏休みが下らないことでどんどんと削られていく。
先の闘いが返す返すも口惜しく感じられた。
もはや恒例と化している鬼道衆の襲撃を受けたのは、旧校舎での鍛錬を終えた帰り道でのことだった。中忍と下忍で構成された食後の運動程度の相手。不覚を取ったのは、暑さでだれていたからだとしか言いようがない。
二の腕を走った傷は、美里の《癒し》を受けるほど深刻なものではなく。それから暫くして具合が悪くなったときも刃に毒でも仕込んであったのだろうと軽く見ていた。激痛に襲われ昏倒したのは、解毒剤を探して荷物を漁っていた矢先である。
そういえば連中は、いやにあっさりと退いていった。あの時、刀に付着した皮膚だか血液だかが呪詛に用いられたに違いない。
戦闘中の行動を反芻していた京一は、突如として跳ね起きた。躰に急激な負荷をかけたために、眩暈と吐き気が襲ってきたが、かまっている余裕はない。
「ひーちゃん……、ひーちゃんはどうしたんだ?」
「ダーリンならァ、さっき醍醐君達と帰ったわよ~。美里さん達を送っていくんだって~」
「ここに張り付かれてても状況は変わるわけじゃない。緋勇だけなら歓迎するところなんだが、余計な奴等が一緒だったからね。事情を告げて追い返したよ」
それがどうかしたのか、と問われ京一は言い淀んだ。
「ひーちゃん、その形代とかいうのを持つ奴を捜しにいったかもしんねェ……」
それも、ひとりで。
「少し待てば解呪できるんだ。緋勇がわざわざ危険を冒すとも思えないがね」
「確証があるわけじゃねーけどよ」
龍麻が京一の怪我に責任を感じているとしたら。あの性格からして、黙って待っているなどということはあり得ない。
「もし仮にそうだとしても、緋勇なら心配いらないさ。あいつはお前達とは《氣》の質からして違う。生半可な呪いじゃ近寄ることさえできないね」
(そういう問題じゃねーんだよ)
声を荒げそうになるのを、かろうじて呑み込んだ。たか子達に当たり散らしたところでどうなるわけでもない。不用意に怪我などした己が悪いのだから。
むっつりと黙り込んだ青年にたか子は溜息を吐いた。
「納得いかないからって、病院内で携帯電話なんか使うんじゃないよ。いまのところは小康を保っているけど、いつまた呪詛が再開されるとも限らないんだ。余計なことは考えず安静にしてな」
あたしも時々は様子を見に来ようかね。
ひひひッと恰幅の良い躰を揺らす女医に、冗談じゃねェぜと――口には出せないので心密かに――毒づく。
たか子におもちゃにされるのも真っ平なら、ベッドに縛り付けられるのもごめん被りたかった。
他の患者の様子を診に桜ヶ丘病院の院長が退室したところで、行動を開始する。
「高見沢、喉が渇いちまったんだけどよ。水くれねーか?」
体温計の数値を調べていた看護婦見習いの少女は、快く引き受けてくれた。
「すぐに持ってきますから、いい子で待ってるんですよォ~?」
(すまん、高見沢!)
足音が遠ざかるのを待ち、ベッド脇に立て掛けてあった刀の包みを手に取る。
内臓がムカムカするような不快感は相変わらずだったが、幸いにも病院へ運び込まれた際の灼熱のごとき痛みはない。これならなんとか動けそうだと判断を下す。
「うふふふふ~、京一く~ん。ひーちゃんを探しにいくの~」
得物を支えにやっとのことで立ち上がった青年の体勢が崩れた。
「裏密ッ!い、いつからそこにッ???!」
「や~ね~、さっきからいたじゃないの~」
さっきっていつだとは、怖くて聞けない京一である。
「京一君の~呪いを解除するのに協力して欲しいって~、ひーちゃんに呼ばれたのよ~」
「ひーちゃんに……」
ならば、やはり龍麻は自分で事を収めるつもりなのだ。
「頼む裏密。後生だから見逃してくれッ!」
自尊心をかなぐり捨てて頼み込む。
たか子の言うとおり、相棒は呪詛などに影響されることはないのだろう。鬼道衆の雑魚共にやられるほど弱くもない。
そう、いつもの龍麻であるならば。
「艮(うしとら)の方角より汚れし水の流れを感じるわ~。麒麟は深淵より生ずる闇に光輝を鈍らせている~。皓き衣を被りし昏き念の柩が彼に手を伸ばす前に迎えに行ってあげた方がいいわよ~」
艮は確か北東を指し示す言葉だったはず。
あいかわらず何を喋っているのやらさっぱりだが――そもそもこれは日本語なのか?――京一が向かうべき方角だけは理解できた。
「裏密――感謝ッ!」
珍しく素直に礼を述べ青年は窓枠に手を掛ける。病室が一階でよかったとしみじみと思った。これほど躰が重くては2階の高さでも、無事に降りられたかどうか怪しい。
病院の敷地外へ出たとたん、蝉の鳴き声が一斉に降ってきた。照りつける日差しに滲む視界を気力で繋ぎとめる。
(ひーちゃん、無茶すんじゃねェぞ)
強く念じると、ともすれば萎えそうになる脚を懸命に動かし始めた。
どのくらい歩いただろうか。
小さな社の境内から微かに響いた剣戟の音に、京一は意識を研ぎ澄ませた。
汚泥の濁りを感じさせる怨霊達の気配にも揺るぐことのない清冽な《氣》。
足を早めた青年の瞳に累々と倒れ伏す鬼道衆の姿と、その中央に立つ凛とした青年の芳容が映った。
呼び掛けようと口を開きかけ――もうひとつ障害が残っていることに気づく。
「攻撃してこぬのか?そうであろうの。迂闊にも大切な仲間の形代を壊してしまったら取り返しがつかぬからのう」
蒼い忍服を纏う鬼がくくくッと喉を鳴らした。京一の胸にふつふつと怒りが湧き上がる。
(俺を呪いやがったのはこいつか!)
「京一の呪詛に使った道具をこちらへ渡してもらおうか」
敵の背中越しに現れた相方に、龍麻は反応を返さなかった。京一は乱れる呼吸を懸命に殺し、そろそろと場所を移動する。
「できぬ相談よ。これは水角様が手ずから御製作あそばされ、我に下し賜れたものであるからの」
中忍は悦に入り、呪具となった形代が蝋に毒を練り込んで作られる課程を蕩々と述べていた。
(すっげェ、頭悪そう……)
こんなのに遅れを取ったのかと思うと、情けなくて涙が出てくる。
龍麻は目を眇めてしばらく相手を見つめていたが、左足を引くと静かに構えを取った。
「な……ッ。どういうつもりだ。仲間を見捨てるつもりかッ?!」
破魔の力を秘めた《氣》が漲る拳に、鬼道衆の中忍は後退る。
「言に惑わされおとなしく殺されるつもりはない。お前ごときが呪法を任されていると信ずるに足る根拠もないしな」
「愚弄するか?!我を斃せば、お主の仲間は確実に死ぬぞ」
「……それが嘘か本当か、試してみればわかる」
さらに《氣》を練る青年に、外法に身を堕とした男は慌てた。懐から小さな包みを取り出して高く掲げる。
「しかと見よッ!お主の仲間の形代は、間違いなく我が手にある!!」
刹那。龍麻が嬌艶に微笑んだ。
「――愚か者」
凄絶な美貌を紅が彩る。
それが己の流す血潮であると認識したときには、中忍の腕は掴んでいる人形ごと京一の振り下ろした剣尖によって切り離されていた。
「ぐッ!おのれ、よくも……ッ」
憤怒に染まった敵将が、残った手にくないを握りしめる。今の一閃に体力を費やした京一は、がくりと膝をついた。
その頭上を飛び翔る一陣の風。
『八雲ッ!』
逆手に握られた金属は、無防備な首筋へ届くことはなかった。
龍麻の一撃が、男の怨気を吹き飛ばしてしまったからである。
肉体を持たぬ怨霊の死は消滅を意味する。後には、怨霊の依り代であった符の切れ端と、地表に転がる小さな蝋人形だけが残された。
「京一ッ!」
龍麻は倒れ込む相棒の躰に手を伸ばす。
「ひーちゃん、あいかわらず人使い荒いな」
地面との激突を免れた京一はにやりと口角を歪めた。龍麻が《氣》を高めたのは相方の存在を気取られないため。その一方で中忍を挑発し呪具を提示させるよう誘導したのだ。己の優位を過信し、背後が隙だらけとなっていた水鬼の忍はまんまと罠に填められたのである。
「馬鹿ッ!なんだってこんな所に来たんだよ」
ずぶずぶと沈んでいきそうになる意識を叱咤し、京一は自分を支えてくれる腕を頼りに仰向けになる。
下から見上げた龍麻の顔は、どこか泣きそうに見えた。
「そりゃ、お前の具合が悪そうだったから……」
「死にそうなのはお前だろ!」
憎まれ口を叩きながらも、京一が少しでも楽な姿勢を取れるよう柔らかく肩を抱え込む。
「……悪い。お前が苦しんでるの、俺の所為だよな」
京一を傷つけた中忍は、龍麻が斃すべき相手だった。自分が仕留めると信じていたからこそ、青年はあの男に注意を向けていなかったのだ。
「だからせめて、呪具ぐらいは俺の手で取り戻したかったんだけど……。結局、京一の手を煩わせてしまったな」
「お前は悪くねェよ。俺がミスったんだ」
龍麻が本調子でないことに気づいていながら、いつもと同じつもりで負担を押しつけてしまった自分の。
その理由にさえ思い至っていながら、何もすることなく黙っていた京一の責任である。
「龍麻……おまえさ、まだあの娘のこと……」
「ダーリン、見ィ~つけたッ!」
京一を追って来たのだろう。高見沢が大きく手を振りながら駆け寄ってきた。少女の動きにあわせて、ふんわりとカールした髪が軽やかに跳ねる。少し遅れて裏密も姿を見せた。
「あ~~ッ、いいな~、京一君ってば、ダーリンに膝枕してもらってるぅ~」
京一の心臓がしばし活動を忘れた。
(そ、そそそう言われてみれば……)
この体勢は端から見ると確かにそんな風にも取れる……かもしれない。
「高見沢、くだらないこと言ってないで、京一を病院に運ぶのを手伝ってくれないか」
冗談につき合う気分ではなかった龍麻は――高見沢は限りなく本気だったが――呆れとも疲れともつかない声を上げた。
「なあ、形代は取り戻したってのに、なんで俺は気持ち悪りィままなんだよ?」
「それは~まだ浄化が済んでいないからよ~。この形代は特殊な作り方をしているわ~。直接手を下さなくても、呪う相手の体力を徐々に奪うようにできているみたいね~」
蝋人形を拾い上げた裏密は、興味深そうにためつすがめつ見ている。今にも頬擦りしそうな雰囲気に、京一の背中を冷たいものが流れ落ちた。
「おい、裏密……お前ちゃんとそれ始末してくれるんだろうな」
敵の手に掛かって死ぬのも嫌だが、仲間の実験材料にされるのはもっと遠慮したい。
「まかせておいて~。でも~、ちょっと時間がかかるかもね~」
「どのくらいかかるんだ?」
龍麻の質問に、裏密は嬉しそうに答える。新しいおもちゃがよほど気に入ったのだろう。
「1両日中にはなんとかなると思うけど~」
「わかった頼む。じゃあ、高見沢悪いけど京一のこと……」
「あ、俺その間ひーちゃんの所で世話になるから」
相棒の科白を遮り、京一が口を挟む。
「京一、なに言って……」
だってよぉ……と朱い髪の青年は言い募った。
「病院にいたって裏密達がなんとかしてくれんのを待ってるだけなんだろ?だったら、ひーちゃん家で寝てたって変わらねーよな?」
1日ぐらいのことなんだし、別に病気ってわけでもねェしよ。
「病院だったらちゃんと看病してもらえるだろ」
「ひーちゃんは?俺の看病はしてくんねェの?」
「……あのな……」
「そうね~、そのほうがいいかもォ」
問答無用と青年を看護婦の手に渡してしまおうとしていた龍麻の動きが固まる。
「……高見沢?」
「だってェ~、ダーリンってば顔色がァ~あんまりよくないんだも~ん」
看護婦を天職とする少女は、悪意の欠片もない微笑みを浮かべた。
「病は気からっていうしィ、元気のない時は好きな人に傍にいてもらうと早く元気になれるでしょ~。京一君だってダーリンについててもらった方が嬉しいんだよね~」
……なにやら無邪気にとてつもない問題発言をされた気がする……。
京一は恐る恐る龍麻を伺った。佳人は溜息をひとつ吐くと、苦笑混じりに言う。
「かなわないな高見沢には。……わかった『これ』は俺が責任を持って連れて帰るよ」
「えへッ。じゃ~あ、たか子先生には、わたしから伝えておくね~」
「呪いは~なるべく早く祓うわね~。この蝋人形、浄化が終わったら貰ってもいいんでしょう~?」
かまわない、と答えた龍麻に、裏密は実に満足気な表情をした。
猫に鰹節。裏密に呪いの道具。
使用済みの呪具がどうなるのか。もしかすると最も与えてはいけない人物の手に渡してしまったのかもしれない。
そろそろ限界を訴える意識の隅で思ったが、京一はあえて口を拭うことにした。
タクシーを捕まえて帰り着いた頃には、すっかり日も落ちてしまっていた。
「京一、2階の寝室まであがれそうか?無理ならここに布団を敷くけど」
半二階へと続く階段は狭い。龍麻が青年を支えて上がることはできそうになかった。
「あとは寝るだけだからな、体力を振り絞るわ」
ふらふらとしながら手摺りに掴まる。
「着替えになるものを探してくるから、ちゃんと寝てろよ」
青年が階段を這い上がっていくのを確認して、龍麻は別の部屋へ入っていった。
ベッドに倒れ込んでから、少しの間気を失っていたらしい。
額の汗を拭う冷たい布の感触に、京一は覚醒を促された。
「目が覚めたか?」
ほの暗い月明かりの元、心地よく耳に届く音色。
京一は目を細めると、額に当てられた手を握った。
「疲れただけだからな。いまはそれほど調子は悪くねェよ」
「なら、何か食べるか?お粥を作ってみたんだけど」
「………………ひーちゃんがか?」
そんなもの作れたのか?と聞きたい。
始めて泊めてもらった翌日の朝、朝食代わりにと渡された栄養バランス食品が思い出される。
以来、遊びに来たときはなるべく京一が料理をすることにしていたのだが。いまだかつて龍麻がお茶を沸かす以外の目的で台所に立つ姿を見たことはなかった。
「しょうがないだろ。病人に消化の悪いもの食べさせるわけにいかないんだから。ちゃんと本見て作ったし、味見したけどそれほど酷くはなかったと……なに笑ってるんだよ」
「いや、ちょっと感動してな」
「……別に、嫌なら無理に食べなくてもいいんだぞ」
「へへッ。食うにきまってんだろ。ひーちゃんが、俺のために作ってくれたものなんだからよ」
血色の悪い顔でへらへらしている青年を薄気味悪そうに眺め、龍麻は小さなゆきひらの乗った盆を差し出した。料理の本だの調理器具だのと、龍麻の家には使いもしないものがやたらと揃っている。
前に一度何故かと聞いたら、どうも「住居の用意を頼んだ人」とやらが気を遣ってあれこれ揃えてくれたらしい。その割にテレビがなかったのは、龍麻が必要ないと答えたためであるようだった。
重い頭を持ち上げて枕に背中を預ける。盆を受け取ろうと手を伸ばしかけ、ちょっとした悪戯心が湧き上がった。
「どうせならひーちゃんが食べさせてくれよ」
「……………」
なにを甘ったれたことを、と叱られると信じ込んでいた京一は、だから龍麻がベッドの端に腰掛けたことに気づくのが遅れた。
「あ?ひーちゃん……?」
「ほら、……熱いから気をつけろよ」
柔らかいご飯を掬ったレンゲを目の前に差し出され、頭の中が真っ白になる。
「えっ……え?」
(マ、マジか?夢じゃねェだろうな?だだだ大丈夫なのか俺?呪いでおかしくなってるとか。実は死期が近いとか……)
京一は激しく動揺した。
「どうした、食べないのか?」
「…………」
上目遣いに佳人を伺いつつ、半信半疑に口を開け……。煮込んだ白米を口元に運んでもらう。
「京一?やっぱりうまくなかったか?」
もぐもぐと動く口を押さえ横を向く青年に、龍麻が首を傾げた。
「いや。んなことはねーけど。まさかひーちゃんがホントに食べさせてくれなんて思わなかったからよ」
これは……かなり照れくさい。はっきり言って味わう余裕などなかった。
「お前が自分で言い出したんだろ」
それはそうなのだが。
「……今回は俺に非があるからな」
相棒に凝視され、龍麻が微妙に視線をずらした。僅かに染まる頬に仄かな色気が漂う。
(俺、しばらくこのまんまでもいいかもッ!!)
恐らく一生に一度あるかないかの待遇だ。京一の脳裏につい、そんな不謹慎な考えが過ぎってしまったのも当然の成り行きといえよう。
「あ、ひーちゃんちょっと」
カラになった食器を手に、立ち上がろうとした龍麻を京一が呼び止めた。何事かと盆をサイドテーブルに置き、再び寝台に近寄った青年は腕を引かれシーツの上に倒れ込む。
「うわっ!?な、なに?」
「今日はもう寝ちまおーぜ、ひーちゃん」
逃げられないように全身でのし掛かられ、龍麻は相棒を睨んだ。
「寝るならひとりで寝ろッ。俺はこれから片づけをするんだよッ!!」
「明日でいいだろ」
なあ、と低く耳元で囁かれ、躰がびくりと震えた。
「お前、最近ちゃんと眠ってるか?」
栗色の髪の少女が炎の向こうへと消えてから、まだ一月と経っていない。
あの日から龍麻の笑顔に陰りが差していることを、仲間内の誰もが気づいていた。
知っていながら、見て見ぬ振りをすることしかできなかったのだ。
青年の哀しみを癒す術を知らず。
傷口を拡げることを懸念し、掛ける言葉さえ見つけることができなかった。
心の衰弱に躰が引きずられ、肉のそげ落ちてしまった肢体を強く抱き締める。
「しんどかったらちゃんと言えつったろ。ひとりで抱え込んでんじゃねェよ」
「別に俺はどこも悪くなんて……」
ただ、ちょっと夢見が悪いだけだと消え入りそうな声で付け加えた。
「だったらお前が悪夢に魘されないよう、俺が見ててやるよ」
だから、安心して寝ろよ龍麻。
「……立場が違うだろ。病人はお前であって、俺じゃない」
「じゃあ、お前が俺の看護のために添い寝してくれるってんでもいいぜ?」
少し熱があるのか、いつもより体温の高い京一の腕が龍麻をしっかりと包み込んでいる。病人の我が儘に勝てるはずもなく龍麻は観念して力を抜いた。
京一の体調不良の原因は自分なのだし、今夜ぐらいは特別でも良いだろうと。
そう思うことにした。
耳元を掠める規則正しい寝息が、龍麻を深い眠りへと誘っていく。
栗色の髪の少女が呑み込まれた紅蓮の色は、太陽の眩しい朱色に遮られた。
呪詛を受けようと、病に伏せようと。弱まりこそすれ決して濁ることのない《氣》が、伝えてくる温もり。
他人の心音を聞いているだけで気持ちが安らぐことがあることを龍麻は始めて知った。相手が京一だからかもしれない、などとは認めたくないけれど。
翌朝、京一はすごぶる爽快に目覚めを迎えた。裏密達が気合いを入れてくれたのか、呪詛の影響は遠のき昨夜までの不快感が嘘のようになくなっている。
布団の中で大きく伸びをすると、隣で眠っていた相方が身じろぎをした。
「京一……具合はいいのか?」
いつもより少し低い声。深みのある双眸は常の鋭さを持たず、淡く霞がかかっている。
「悪ィ。起こしたか?」
「いや、自然と目が覚めた」
京一の熱を計ろうと緩慢に伸ばしてくる指先を絡め取り、啄むように吐息を重ねた。
「ほら、もう下がってるだろ」
「……こんなんでわかるわけないだろ」
起き抜けのせいか、どうも反応が鈍い。滅多にない龍麻の様子におもしろくなってしまった青年は、さらに深い交流を求めた。
「……ッ。…は…あっ……」
「これなら、わかったか?」
唇を触れ合わせたままに問いかける。龍麻は掌で相棒の顔面を押し返した。
「こんな馬鹿なことができるくらい元気になったことは、よくわかった!」
完全に覚醒してしまったらしい。少々残念に思いながら、京一は想い人を解放した。
「ひーちゃんの看病がよかったんだろ。サンキュな」
「礼を言うなら裏密達にだ」
「あいつらにも後でちゃんと伝えとくって。ひーちゃんもちょっとは顔色が良くなったみてーだな」
前髪を梳き上げ、顔を覗き込む。
「俺の添い寝のお陰でよく眠れたか?」
調子に乗っているとしか思えない青年に、しかし龍麻は「そうかもな」とだけ答えた。久しぶりに夢も見ずに眠れたことは事実なのだから、否定しても始まらない。
腕を張って上体を浮かせると、京一の肩を押してもう一度一緒に倒れ込んだ。
「ひひひ、ひーちゃん?」
「お前だって完全に体力が戻ったわけじゃないんだろ?俺はもう少し寝るからつき合え。病院には午後から顔を出しても間に合うだろ」
欠伸混じりに告げ、相棒の腕を枕にさっさと夢の世界へ旅立ってしまう。
安心して身を委ねてくる龍麻に愛しさを募らせながらも、ほぼいつもの調子が戻ってしまった京一は深く溜息をつかざるを得なかった。
(ヤベェ……理性が持つかな、俺……)
もっともタガが外れてしまった日には、間違いなく三途の川を渡らされる羽目になるのだろうけど。
京一は自分の中にある理性の糸に一縷の望み託し、龍麻の髪に顔を埋めて目を閉じた。