緋勇龍麻は、それはそれは麗しい笑顔でにっこりとのたまわった。
その瞬間、醍醐の手からやきそばパンが滑り落ち、京一はコーヒーの紙パックを握り潰していた。
遠野杏子、真神新聞の突撃レポーターとなって早三年。新聞部長を兼ねてからは2年とちょっと。取材の途中で二の句が継げなくなったのは、初めての経験であった。
周囲にいた無関係な者達までもが、唖然として口を開いている。
時刻は昼休み。厳寒の頃に屋上で昼食もないだろうと、教室を選んだのが間違いの元だった。
噂は風のごとく千里の道を駆け抜け、憶測、推測、邪推を交えて膨らみを帯びていく。
京一の受難は、ここから始まったのだ。
放課後、久しぶりに新宿へ買い物に出てきた亜里沙は、駅の地下で4時の方向から鬼気迫る形相で駆け抜けてくる人物に目をしばたたいた。
「京一じゃない。どうしたの?そんな急いで」
「ふ、藤咲!?」
何故か狼狽した表情を浮かべる京一。
「なに?変な顔して」
「あ、ああ……お前はまだ知らねェのか……」
切れ切れになる呼吸に、僅かな安堵が混じる。
「京一……?」
要領を得ない言動に口をついて出ようとした問いかけは、しかしやはり唐突な青年の叫びによって封じ込まれた。
「うわっ、ヤベェ。もう追いついてきやがった……ッ」
悪ィ、一生の頼みだ、匿ってくれ!!
背中で言い置いて、適当な店に飛び込み陳列品の隙間に身を隠してしまう。
「一体なにが……」
「藤咲君ッ!!」
「ッ!!」
言い終わらないうちに、がしっと両肩を捕まれた。心臓が飛び出るほど吃驚した亜里沙は、反射的にムチに手を伸ばし……脇から伸びた手にやんわりと制される。
「僕達だよ、藤咲さん」
「壬生ッ!?……と如月じゃないか。いきなりなにすんだいッ」
亜里沙の両肩を掴んだのは、馴染み深い骨董店の若旦那だった。常にない余裕のなさだ。
「驚かせてすまなかった。ちょっと急いでいたものだからね。ときに蓬莱寺君を見なかったかい?」
「ああ、京一なら……」
応じかけて口を閉ざす。どうやら京一が匿って欲しい相手とは、この二人のことだったらしいと察しがついたのだ。
「知ってるのかい!?」
色をなして勢い込む二人に、あらぬ方向を指さす。
「あ、あっちの方へ駆けてったけど」
笑顔が強張っていたが、幸いにも二人は気づかなかった。
「おのれ、逃げ足の早い猿め!」
「急ぎましょう如月さん。一刻も早く彼の口から真相を突き止めねば」
「無論だ。藤咲君。教えてくれて感謝する」
……台風一過。
来たときと同様、疾風よろしく去っていく二人組を亜里沙は、ぽかんと見送った。
「助かったぜ藤咲」
額の汗を拭いつつ這いだしてきた京一に、先ほど言いかけたのとは違う、しかし至極当然な疑問を発する。
「……京一、あんた一体なにしたのさ?」
「いや、まあ、ちょっと……な」
渇いた笑いが、虚ろに響いた。
「あー、ひでェ目にあったぜ」
テーブルにぐったりとつっぷして、京一は深く息を吐いた。
ここは、女性に人気の高いフルーツパーラの店内。亜里沙が一緒でなければ、足を向けそうにもない場所だ。連中もよもや京一がこんな所にいるとは思わないだろう。階上にあるため、外から見咎められる心配もなく、まずは安全圏といえた。
「そろそろ、理由を話してくれるんでしょう?」
あれから亜里沙は、雨紋とアラン、霧島と劉からも同様に青年を庇う羽目になった。他の者達はともかく、京一に心酔している霧島まで、というのは異常だ。
「感謝してるぜ、藤咲。ここは俺の奢りだ。なんでも好きなモン食ってくれ」
「あたしには言えないことなのかい?」
へらへらと媚びる京一を睨みつけてやる。青年は渋々事ここに至る経緯を説明し始めた。
「昼休みにアン子がきたんだよ」
ネタがないと叫びながら。
龍脈を巡る戦いも一応の収束をみている昨今、平穏な日常を取り戻していた京一達に提供できる話題はなかった。厳密に言えば事件がなかったわけではないのだが、おいそれと教えられる内容ではなく。早々のお引き取りを願ったが、よほど行き詰まっていたのか遠野は引かなかった。
話題ないなら、せめて龍麻の好みのタイプぐらいは教えてくれ、と言い出したのだ。
そろそろ街中のディスプレイもバレンタインを意識し始めている。やたらと人気は高いが、周囲にいる人種やら整いすぎた容貌やらで、近寄りがたい龍麻の情報を求める声が新聞部に多く寄せられているらしい。
「そんときに、ひーちゃんが口にしたことで、周りが誤解したんだよな」
―――龍麻に彼女ができたのではないか……と。
「へえ」と亜里沙は髪を掻き上げた。珍しいこともあるものだ。質問しても、穏和な微笑みで真綿にくるんだように躱される、と遠野は常々嘆いていたというのに。
「龍麻は、そんな具体的なことを口にしたのかい?」
「具体的つーか、どっちかっていうと、嫌いなタイプ……を上げただけなんだけどよ……」
歯切れ悪く、ごにょごにょと口の中で言う。
「……そんで皆、確かめたくても、ひーちゃんには直に訊きずらいってんで……」
京一にお鉢が回ってきたのだという。
「なるほどねぇ……」
だから誰もがあんなに血相を変えていたのかと、亜里沙は納得した。
「けどそれ、ガセなんでしょ。否定してあげればいいだけじゃないのかい?」
逃げ回るから、余計に追われるのだ。
亜里沙はウェイトレスの運んできたワッフルにナイフを入れた。京一は注文したオレンジジュースを、音を立てて飲む。
「それもちょっと、都合が悪ィっつーか……」
「なによ、はっきりしないわねぇ」
連中に嘘だと告げるのは簡単だ。だが、そうすると今度は『では何故、そんな噂が出てきたのか』との問題に行き当たる。……そこを突っ込まれるのはちょっと、……いやかなりマズかったりするのだ。
就職活動やら進学準備やらで小蒔と美里が学校を休んでいて、本当によかったと思う。
特に美里の耳などに入った日には……考えるだに、恐ろしい。
「あ?そういや、藤咲はなんだってガセネタだって分かったんだ?」
「そりゃ、京一の様子を見てればね」
わかるよ、と言ってフルーツと一緒にワッフルを口に運ぶ。優しい甘さが舌の上に広がった。
「だって、龍麻に彼女が出来て一番に大騒ぎするはずの京一がこれだけ平然としてるんだからさ」
青年がオレンジジュースに噎せた。
「何?まさか、気づかれてないなんて思ってた訳じゃないでしょ!?」
あれだけあからさまに態度に出しておいて。
口元を乱暴に拭い、京一がそっぽを向く。
「それは、まあ……でもよ、他の連中だって……」
「そうだね。あたしだって、龍麻の事は好きだよ」
男だとか女だとかに関係なく、龍麻には人を惹き付ける力がある。かくいう亜里沙も、龍麻に彼女などできようものなら――暗殺を企てたり、脅しをかけたりしそうなその他の連中ほど、物騒ではないにしても――嫉妬のあまり、いびり倒すぐらいのことはしてしまうかもしれない。
「でも、あたしたちと違ってさ、京一の場合は一方通行ってわけじゃない――でしょう?」
目で問いかけると、京一は苦い笑みを浮かべた。
「だといいんだけどな」
ふと、漏らされる吐息。どこか遠くへと流された眼差しが、いやに男臭くて亜里沙はどきりとした。
「らしくなく、弱気じゃないのさ。なんか悩みでもあるのかい?あたしでよかったら聞くけど?」
大した助言はできないかもしれないが、口にすれば楽になることだってある。
京一は手の甲に顎を乗せ、暫し考えを巡らせた後、ぼそりと小さく呟いた。
「悩みってわけじゃねーけどよ、ただ、ひーちゃんは俺の事をどう思ってんのかなァって……」
強靱な肉体や精神力に誤魔化されがちだが、あれで龍麻はけっこう流されやすいところがある。
自分で、『こう』と決めた意志だけは覆さないが、それ以外のことなら強く言い聞かせれば、ほぼ首を縦に振ってくれるのだ。物事に対してあまり拘りや好き嫌いを持っていないことや、頼み事をされても大概のことはこなせてしまう器用さも要因しているのだろうが。
京一が手を伸ばせば、答えてくれる。
求めれば応じてくれる。
けれど、それは情に絆され流されているだけなのかも知れないと感じ事がある。
嫌ってはいないから。嫌ではないから。
京一の我が儘につき合ってくれているだけなのかもしれないと――。
「あんた……バッカじゃないの?」
思い切り力の篭もった声音に、青年の顎が支えていた手からずり落ちた。危うくテーブルと衝突しそうになって、恨みがましげに亜里沙を眺める。
「藤咲~~ッ」
「だってそうじゃないか。龍麻にあれだけ特別に扱われてるくせに、本気で同情されているだけだなんて信じ込んでいるのかい?」
拳武館の事件の時。
京一の龍麻を見つめる眼差しを見て、青年の想いに気づいた。
そして、龍麻が京一の肩に額を寄せた時の表情に、亜里沙は自分の想いが決して届かないことを知る。
『仲間』という言葉が自然と出てくるくらいには縁の深くなった者達すべてにとって、龍麻は特別な存在だった。亜里沙にとっては、復讐と人を恨む事でしか己を保てなかった自分に、別の生き方があることを示してくれた恩人でもある。
胸が痛まなかったといえば、嘘になるけれど。同時にこの二人ならばと、頷けるものがあった。仲間達は皆、龍麻を信頼し命を預けることさえ厭わないが、龍麻自身が安心して背中を預けることができるのはきっと、この朱色の髪の青年だけだから。二人の間にある強い絆に他者が入り込む余地がないことなど――本当はとうに分かり切っていたのだ。
「不安になる気持ちもわからないわけじゃないけどね。あんたが頭から疑ってかかってたんじゃ、龍麻の想いの行き場がなくなっちゃうんじゃないのかい?」
手を伸ばし、前屈みになっている肩をとんっと押し返してやる。
「しっかりしなよ。あんたがそんなんじゃ、あたしらの立場がないじゃないのさ」
想いばかりは募るのに、佳人の気持ちを推し量るほども近くに行けない者達にとっては。青年の悩みは贅沢だとしか言いようがない。
「こーんなにイイ女が傍にいるっていうのに目に入らないほど、大切な相手なんでしょう」
他に攫われないように、しっかりと捕まえておかなくちゃね。片目を瞑ってとびっきり婀娜な表情で告げると、つられて京一が小さく笑んだ。
「……だな。悪ィ」
確かに少し傲慢になっていたのかも知れない。
受け入れてくれたのが嬉しくて、許してくれたのが愛しくて、さらにその先までもと求め過ぎてしまっていた。
「欲が深すぎるってのも、問題だよなァ」
「いいんじゃないの?それだけ真剣だってことなんだからさ」
餓えるほどに。渇くほどに。求めるただひとりの人。けれど、己の気持ちに溺れる余り、相手の気持ちを無碍にするような真似だけはして欲しくない。
「サンキュな、藤咲。なんかちょっと楽になったぜ」
「礼なんていいからさ。これからあたしにつき合ってよ。……また、誰かが京一を捕まえに来たときは、庇ってあげるからさ」
たまにはいいでしょう?
「当然。俺は美人なおネェちゃんと、イイ女の誘いは断らないことにしているからな」
破顔した京一が、席を立って恭しく手を差し出す。亜里沙は女王様の貫禄を伺わせる仕草でそれに腕を絡めた。
気の向くままにそぞろ歩き、デパートを巡ってウィンドウショッピングをする。
面倒くさがるかと思っていたが、京一は意外にもつき合いがよかった。亜里沙が服を並べ、どちらがいいかと意見を求めれば、至極真面目に悩んでくれたりする。
歩調を合わせてくれたり、荷物を持ってくれたりとさりげなく気を配ってくれている様は……どう考えても女の子との買い物に慣れているとしか思えなかった。
「ねえ、京一ってさ、お姉さんがいるんだよね。よくこうやって買い物とかに行くのかい?」
けっと京一が顔を顰めた。
「冗談じゃねェよ。あの女、俺のこと荷物持ちぐらいにしか考えてねェんだぜ。頼まれたってごめんだぜ」
……ということは、他の女の子の荷物持ちをしていたということか。
(まあ、しょうがないかもしれないけどね)
ルックスだって悪くない。おちゃらけているようで頼りになるし、乱暴なように見えてその実優しい。
これだけの好物件を、世の女の子達が放っておくわけはないのだ。龍麻が転校してくるまでは、とっかえひっかえ彼女を作っていたのだという噂を、小蒔あたりからちらりと聞いたことがある。
亜里沙は京一と肩を並べて歩きながら、先ほど言い忘れていた忠告を付け加えた。
「京一。龍麻を泣かしたら承知しないからね。あたしももちろんだけど、他の仲間達だって黙っちゃいないよ」
まあ、あの龍麻がそうそうのことで心を乱すとも思えないが。
「わかってるんだけどよォ……」
ぽりぽりと髪を掻く。
「一度ぐらいは、俺のために泣いてくんねェかなって気もすんだよなァ……」
……この男。心底、惚れ込んでしまっているらしい。
亜里沙は呆れるよりも先に笑ってしまった。
「んな、笑うこたァねーだろ。……それよりこれからどうするんだ?買い物はもうすんだんだろ?」
「ああ、ごめんごめん。そうだねェ、せっかくここまで来たんだからさ、新都庁の方へ行ってみない?」
出来たばかりの都庁には、展望台がある。今からいけば夜景が綺麗に見えることだろう。
「おう、いいぜ。俺もまだ行ったことはねェしな」
陽も暮れたことだし、他の連中も諦めたろうと、考えたのが甘かったのか。
「へっ、ついてるねぇ。こんなところであんたに行き会うなんてよ」
まったくもってついていないことに、新宿を庭とする男と正面からばったりと鉢合わせしてしまった。
「む、村雨。なんでこんなところにッ。歌舞伎町は方面が違うだろうが!」
逃げ場のない状況に、京一が青ざめた。
「そりゃ、あんたを探しに来たにきまってるじゃねぇか」
「よくあたしらの居場所がわかったねぇ」
亜里沙が感心する。執念もここまでくると立派だ。
「ツキだけじゃねぇぜ。強力な助っ人に頼んだんだよ」
「強力な助っ人?」
「エロイムエッサイム、エロイムエッサイム。うふふふふふふ~。それはわたしよ~~。京一く~ん。亜里沙ちゃ~ん。こんばんは~」
紹介と共に暗がりから現れ出たのは真神きっての魔女。なぜ気配を殺して近づいてくるのかはいまもって不明である。
「あ、う、裏密さん。こんばんは」
「てめェ、裏密ッ!余計なことしやがって……っ!!」
亜里沙の声に押し被さる京一の怒鳴り声に、周囲を取り巻く気配が増えた。
「ヤット、追いついたねキョーチ!」
「ったく、あっちこっち逃げ回ってくれちゃってよ。えらい苦労したぜ」
アランと雨紋が息を切らせて言えば、
「僕を捲くなんてひどいですよ、京一先輩っ!」
「せや。わいら京一はんに質問があっただけやのに」
霧島と劉が頬を紅潮させる。
「もう逃げられないよ蓬莱寺」
「観念して、白状したまえ」
さらに壬生と如月まで加わって、京一の四面楚歌は決定した。
「う……おめえら、なんだってしつこく追いかけてくるんだよ。あんなもん本気で信じてるわけじゃねーんだろッ!」
じりじりと後退り、ビルの塀に背中を押しつけた京一の様子を、飛水の継承者は冷静に観察する。
「噂に根拠のないことは百も承知だ」
「うふふふ~、求めるのは~、形のない虚構ではなく~、その迷宮を形作る原理となりし真理の方~」
「その根も葉もない噂に、なんであんたが逃げ回らなくちゃいけねぇのかが問題なんだよ」
にやにやと人の悪い笑みを浮かべる勝負師は、完全に面白がっていた。
(だから言ったのに……)
逃げるのは逆効果だって。
気の毒ではあるが、助けてあげられそうにはない。
亜里沙の憐憫の眼差しを受けて、京一が唸った。
「うるせえ。いい加減にしろおめーらッ!そんなに知りたきゃひーちゃんに直接聞けばいいだろうがッ!!」
「俺から言ってもいいけど?」
場を打つ、涼やかな響き。
はっと、一同が息を呑んで声のした方を振り返った。
藍から蒼に変わる闇の中に、浮かび上がるしなやかな容貌。
「ひーちゃん、いつからそこに……」
「たった今だよ。遠野が連絡をくれてね」
目線を転じれば、トレンチコートにサングラスの遠野が息も絶え絶えといった様子で、龍麻の肩に寄りかかっていた。
「あ、あんたねぇ、あたしが後つけているのぜんぜん気づいてなかったでしょ」
……つけていたのか?
というか、並み居る魔人達をも振り切った京一の動きについてこられたのか!?
京一は思わず亜里沙を振り返る。まったく気づいていなかった亜里沙は、首を振った。
おそるべし、新聞部長。
「まったく、龍麻の頼みじゃなかったら途中で投げ出してるところよ」
ぜいぜいと荒い息をついて愚痴を垂れ流す遠野を、龍麻がやんわりとねぎらう。
「助かったよ遠野。約束通り報酬は弾むから」
「絶対よっ!アン子さんのこの活躍をかって、ちょっとは色くらいつけてよね」
「善処するよ」
二人の間で遣り取りされる会話に、亜里沙は眉宇を顰めた。この様子では……。
「龍麻……京一が追いかけ回されてるのを黙って見物してたのかい?」
「悪かったな藤咲。京一につき合わせて」
否定もせず、龍麻は穏やかな笑みを浮かべた。
「なんだってまたそんな真似を?」
龍麻は目を愉しげに細めると、京一に向き直る。
「俺になにか言うことはない?京一」
宵闇よりも深い瞳から、京一は憮然として顔を逸した。
「……ったよ」
「聞こえない」
「――俺が悪かったッ!もうしねェから、こいつ等をなんとかしてくれッ!!!」
絶叫する京一。亜里沙は「おいおい」と思った。
(ちょっとそれってまさか……)
「心から反省してるか?」
「してるッ!後悔しまくりだ……頼むからひーちゃん、そろそろご機嫌を直してくれよォ」
最後の方は、情けなくも懇願が混じっている。
龍麻は満足気な表情で頷くと、周囲の連中をぐるりと見回した。
「そういうわけだから。ここらへんで解散してくれるかな」
「つまり俺達はだしに使われたってぇわけだ」
村雨が唇を歪めた。
「えっ、どういうことですか?」
まだ解っていない霧島に、壬生が肩を竦める。
「龍麻は僕達の耳にはいるように、わざと噂をばら撒いたんだ。そうすれば、泡を食った僕達が蓬莱寺に詰め寄るだろうことを見越してね」
すべては京一を困らせるために仕組まれたこと。
「えー、ひでぇぜ龍麻サン」
雨紋がぼやく。
「ボク達、当て馬にされたネ」
アランは、自分達の立場をこの上なく的確に表現した。
「ごめん、皆がここまで過剰な反応をするとは思わなかったんだ。そんなに俺に彼女が出来るのが意外かな」
「そういうわけや、ないんやけど……」
劉が誤魔化すように手をひらひらと振る。
「人の心は~、ささいな切欠に反して、思わぬ行動を取るものよ~~」
裏密が含み笑いをし、他の者達は気まずそうに咳払いをした。
彼女が出来ることが『意外』なのではなく『問題』なのだとは、さすがに口幅ったくて言えない。
「半分以上は俺達が勝手に騒いでたことだしよ。しょうがねぇな。……これはひとつ貸しにしておくぜ先生」
「極力、覚えておくことにするよ。――帰るぞ京一」
さらりと受け流し、龍麻は京一を促した。
「へへッ、了解。……じゃあな、藤咲。今日は世話になったな」
京一は藤咲のみに挨拶を残し、嬉々として龍麻の後に続く。
村雨の言葉を皮切りに、他のメンバー達も帰宅の途についた。
「ライト!これから駅前でヤマトナデーシコをナンパしにいきまセンか?」
「またかよ。この間もやったばかりだろ」
アランの誘いに雨紋が渋い顔をする。
「村雨、丁度良い機会だ。この間の決着をつけないか」
「いいねぇ。今日の俺は絶好調だぜ」
「僕も負けませんよ」
「麻雀やろ!?わいも混ぜてや。そや、霧島もどうや?」
「いえ、僕はこれからさやかちゃんを迎えに行かないといけませんから」
「うふふふふ~じゃ~ね~」
方々で交わされる遣り取りが、雑踏に埋もれていく。
「あたしもそろそろ帰ろうかな」
なんだか今日はとても疲れた。亜里沙も他の者達に倣おうとして、ふと気になることを思い出した。いまだ、コンクリートにしゃがみ込んでへばっている真神新聞部長の元へ近づく。
「ねえ、遠野さん。龍麻のひと言ってどんなのだったんだい?」
「え、ああ、あれね。あたしも変だとは思ったのよ。龍麻があんなこと言うなんて」
せっかく特ダネの気配だったのに……でも周囲への波及を考えると記事にするには問題があったわね。
ぶつぶつと言いながらも教えてくれた言葉に、亜里沙は沈黙した。
―――ベッドの中で昔つき合ってた女性のことを訊いてくるような奴は遠慮したいな。
それは本当に、京一を懲らしめるためだけに使われた科白だったのであろうか?
二人の喧嘩の原因が、定かではなかったのが気になるが……。
(か、考えないようにしよう……)
亜里沙は背筋を伝う冷や汗に、浮かんだ怖ろしい想像を消し去った。
なんにせよ、確実に言えることはひとつ。
自分達は、あの二人の痴話喧嘩に巻き込まれただけなのだ。
(ホンットにかなわないよねぇ)
たかだが喧嘩ひとつで、上へ下への大騒ぎ。
街に平和が訪れても、使う必要のない《力》を持て余す日々が続くのだとしても。
あの二人がともにいる限り、自分達は退屈とは無縁でいられるのだろう。
(がんばんなよ京一。この亜里沙さんが応援してるんだからね)
この先も、あの二人の往く道が同じ線上にあるようにと。亜里沙は心の中で秘かに声援を送った。
子犬座の一等星が冴え冴えとした輝きを放つ夜道を、二つの影が静かに進んでいる。
「なあ、ひーちゃん。まだ怒ってるのか?」
二人きりになってから、ひと言も口を利かない龍麻を、京一は上目遣いに伺った。
「別に。……京一がどうしてあんなこと知りたがったのか、考えてたんだ」
「そりゃ、気になるだろ」
麗人の腕を引きよせて、胸の中に閉じこめる。
「――おまえが、俺以外の誰かにこんなこと許していたのかと思うよ」
「俺は……男とつき合ったことはなかったぞ」
「そりゃ、男はな」
だが、相手が女性ならばまったく経験がないわけではないことが京一には解ってしまった。人から触られることを好まない龍麻が、それを押してまで近くに置いた相手がいたのだ。
意識しない方がどうかしている。
「だからって、あんな時に訊くか!?」
いくらなんだって無神経すぎる。
「だってよ、ひーちゃん普通の時だったら絶対、教えてくれなさそうだからよ」
こ、こいつ……っ!龍麻は京一を引きはがそうと腕を突っ張った。
「この馬鹿ッ!!どうしてお前はそう……んっ……」
抗議の声を封じ込め、京一は柔らかな感触を存分に堪能する。
「だから、悪かったって。もうあんな無粋な真似はしねェからよ」
肩に置かれた手から力が抜けるのを見計らって、耳元に低く囁いた。
「……っ、……え、だって」
何かに耐えるように一瞬目を閉じると、龍麻が小さく言葉を継いだ。
「へ?」
「お前だって、俺が初めてってわけじゃないだろ」
お互い様だ、馬鹿。
目元を染め、京一の戒めを振りほどいて。
言うだけ言って、夜の中へさっさと歩き出してしまう。
「えー……っと……」
今のは。
「もしかして……ひーちゃんもちょっとは気にしていてくれてた、とか?」
だとしたら、かなり嬉しいかも知れない。
京一の頬がだらしなく緩んだ。
「……へへッ、藤咲のいうとおりだよな。おい、ひーちゃん。俺をおいていくなってッ」
随分と先へ行ってしまった愛しい人の影を慌てて追いかける。
疑うより信じることを大切にしよう。
自分が想いを掛ける人のために。自分を想ってくれる人のために。
京一の大切な相棒は、いつも強気で感情を表に出すことは滅多にないけれど。
こうして、たまに素直な一面を見せてくれるときもあるから。
三日月に映し出された細い二つの影は。
やがて隣り合い、そっと寄り添うように長く伸びた。