静謐の満ちる夜。
鼓膜を擽るのは、密やかな衣擦れの音と、熱を孕んだ互いの息づかいだけ。
京一の掌が、龍麻の首筋から肩を辿る。
腕を撫で上げ、頬の輪郭を指で辿り、浮かび上がる汗で湿り気を帯びた前髪をさらりと払った。
華奢でありながら、しっかりとした質感のある肌の弾力を、舌で丹念に味わう。
「ん……京一……」
微かな囁きが、京一の耳朶を掠めた。
高ぶる想いは、すでに耐え難いほどに熱く。
理性を押し流しそうな熱情を、京一は唇を噛んでやり過ごした。
「龍麻」
甘く蕩ける響きに、龍麻の躰がぴくんと跳ねる。
閨房の中で、京一は必ず龍麻の名を呼ぶ。
まるで、声に宿した色を龍麻に注ぎ込むかのように何度も、何度も。
そのたびに、ぞくりと肌が泡立つ。心が漣のごとくざわめき、知らず吐息が乱される。
龍麻は広い背中に手を回し、己を染め変えようとしている男の名を唇にのぼらせた。
それが、いつもの合図。龍麻が京一のすべてを受け入れるときの――。
「龍麻。ちゃんと言えよ」
けれど今日は。京一は動きを止めると、想い人の瞳を正面から覗き込む。
「きょう……いち?」
「俺が欲しいって、龍麻の口から聞きたい」
接吻づけを与えながら伝えると、龍麻の全身がさっと朱に染まった。
口元を引き結び、けぶる瞳に険をのぼらせて睨みつけてくる。
その視線が、どれほど扇情的なのか本人は気づいていないのだろう。
京一は煮詰まりそうになる意識を、浅い呼吸を繰り返すことで散じる。
「そんな顔したって、ダメだぜ?お前が言うまで、絶対に譲らないからな」
言い含めるようにゆっくりと告げると、龍麻はふっと顔を逸らした。
あくまでも抵抗するつもりらしい。
素直じゃない態度に、京一は少しだけむっとした。そっちがそのつもりなら、こっちにだって考えがある。
龍麻の顎を掴み強引に自分の方を向かせると、目を開いたまま顔を近づけた。
舌を絡め、強く吸い上げながら、空いている方の手を下肢へと滑らせる。
「……いっ……つッ……ッ!?」
龍麻が躰を大きく震わせ、驚きも露わに目を見開いた。押しのけようと藻掻く肢体に、京一は体重をかけてのし掛かる。深遠なる虹彩を視界に映しつつ、思うさま柔らかな感触を堪能した。
「ちょ……、きょうい……なに、考えて……」
限界を訴える欲情が、それを与える相手によって押さえ込まれている。濡れた口元を拭う龍麻の手を取り上げ、甲に舌を這わせながら、京一はにやりと笑った。
「俺が我慢しているのに、お前だけ……ってのはつれないだろ」
視線は外さぬままに指先を甘噛みする。
「ふざけ、んな……おまえが…勝って…に……ん、んーーッ」
抗議の声は綺麗に無視した。
繰り返される営みの中で、覚えた箇所、覚え込ませた部位を執拗に責め立てる。
龍麻の喉を突いて漏れる喘ぎを心地よく浴びながら、徐々に頭を下腹部へとずらしていった。
「あっ……ふっ……」
膝頭を震わせ、龍麻が首を仰け反らせる。押しのけようと動いた手は、しかし朱色の髪を掻き乱すに留まり。やるせない溜息が、京一の胸を焦がした。
「龍麻。いい子だから言うこと聞けって」
そしたら、ちゃんと可愛がってやっからよ。
神経を冒していく悪魔の囁き。促されるままに身を委ねたら、楽になれるのだろうか?
縋りつく意志が端からさらさらと音を立てて流れ落ちる。繋ぎとめている意地が身を焼く炎に爛れて溶ける。
「もっ……やっ…め…きょ……いちぃ……」
上擦る声が涙に滲んだ。
ヤベェ、やりすぎた。
京一は慌てて身を起こした。
他者の意に染まることを龍麻は極端に嫌っている。……怯えているといっても過言ではない。
龍麻の深奥に潜む異形の闇が。黄金色に煌めく輝きが。二度と荒れ狂うことのないように。
誰の手にも渡ることのないように律することを、己の存在理由としているから。
知っていながら、追いつめてしまったのは自分の未熟さ故。そして、求めても求めても止まない渇望がもたらす貪欲さ故だ。
「わ、悪りィ。大丈夫か?」
返事はなかった。悔悛の念に捕らわれながら、顔を覆う両腕をそっと外してやる。
瞬きを忘れた瞳が、京一をじっと見上げた。
潤んだ漆黒は清耀の星を浮かべ底なしに深く。
震える睫毛の儚さに、庇護欲をそそられる。
染まる頬は桜の色。
いつかの月を染めにし麗容。
躰も魂も絡め取る薄緋色の、なんと甘美なることか。
動悸が激しくなる。喉がからからに干上がる。
「たつ……」
前触れもなく、シーツに皺を作っていた指が、褥から離れた。
梳き上げるようにして京一の後ろの髪を撫でてから、首に腕を回す。
上体を浮かせ己の名を呼ぶ声を、時間をかけて遮った龍麻は。
重なりを解いた口角に、傾国の微笑をのぼらせた。
一国の主をもひれ伏せる、淫靡にして気高き花弁が。
京一の顎を掠め、鎖骨の上にふわりと落ちる。
軽い刺激とともに写される色。
薄く開いたそこからちらりと覗く、更なる深みを秘めし彩。
仄かな温もりが骨格を湿らせた。
宵闇に咲き誇る常磐の華。
春の情に酔い、桜の闇に魅せられて、人は心を惑わせる。
羞花閉月―――
佳人の美貌に打たれて花は恥じらい、月はその身を陰に隠す。
可憐にして嬋媛(おそよか)なる色香に誘われ、踏み入れし先は幽遠か。
導かれし先が心乱す深き淵でも、この華に狂わされるならば悪くはない。
「あっ……きょうい……?」
京一は自分よりひとまわりは細い躰を寝台の上に押しつけた。
膝を割り、躰を滑り込ませると一気に押し進める。
「――――――ッ!!!」
大きくしなり、反り返る象牙の肌。
柳生によって負わされた痛ましい疵はとうに失せ、内側から浮かされる熱にのみ、淡紅の軌跡を浮かび上がらせる。
それを美しいと感じると同時に、沸き上がる別の感情。
自分以外の男が刻み込んだ痕を、龍麻は永遠に忘れることはないだろう。
愛しさ、嫉妬、独占欲――希求。
それぞれの想いの境界線は、曖昧かつ複雑に絡み合い。大きな奔流となって身の裡を巡る。
性急な求めに対し、反射的に逃げを打つ腰を強く引き寄せ。
京一は己を喰い破る激情のままに。
麗しき華を散らし。舞い上がらせて、嵐に巻き込んでいった。
また、負けてしまった。
力無く四肢を投げ出した想い人の躰を腕に抱き留め、京一は自己嫌悪に陥っていた。
いつもいつも自分ばかりが想いを募らせているから。たまには龍麻が京一を望む声が聞いてみたかった。
言葉が欲しかったのだけれど……。
「余裕ねーよなァ、俺……」
呟く嘆息が、笑みの形に歪む。
「ま、そんなモンなくてもいいいんだけどよ」
掴んだ次の瞬間には、するりと躱されている。腕に捕らえたかと思えば、逆に瞳に捕らわれている。
はらはらと降りそそぐ花弁に、蝶がひらひらと戯れるがごとく。
篝に爆ぜる火の花に、鱗翅を向ける蛾のごとく。
あるいは、太陽が月に焦がれ、永遠に追い求め続けるように。
気を抜けば逃げられる。迂闊に近づけば奪い尽くされる。
この刺激こそが何にも勝る媚薬。一度覚えた悦楽の前には、馴れ合いの優しさなど退屈としか感じない。
いかほどの代償を払おうとも、手に入れたいただひとつの華。
「今日のところは、珍しく積極的になったお前を見せてもらったからな。よしとするか」
頬に残る涙の跡を拭い、細心の注意を払って横たえる。目を閉じると幼くなる瞼にそっと触れるだけの接吻づけを落とした。
「覚悟しろよ。誰にも渡さねェ。どこへ逃げようと追いかけて絶対に捕まえてやる。お前は俺の――俺だけのものだ、龍麻」
睦言のように囁き。京一は愛しい人を腕の中に閉じこめて、くすくすと笑い続けた。
空がほのかに白くなる頃。
霧の中を揺蕩っていた意識を取り戻した龍麻は。
己を抱き締め、隣で眠る男の顔を見て首を絞めたくなった。
龍麻を翻弄する男にも、それを許してしまう自分にも無性に腹が立つ。
どうして、いつもいつも――と思う。
どれほど強固な意志で唇を噛み締めようとも。爪を立て、拳を固く握りしめようとも。
見た目よりずっと逞しい腕が、熱い吐息が、狂おしく求めてくる眼差しが。
龍麻から理性を剥ぎ取っていく。硬い結び目を解かれる。
甘い痺れに籠絡されて、無防備な姿を晒してしまう。
一欠片の余裕さえ失われてしまうのだ。
なんだか口惜しいし、納得がいかない。もてあましてしまう感情をどうすることもできずに、自分ばかりが振り回されている。
不機嫌に前髪を掻き上げ、音もなく寝台の上に身を起こす。
京一が着せてくれたのだろうパジャマの釦は、掛け違えられていた。
「……あいかわらず、変なところで不器用な奴」
小さな笑みが零れる。波立つ気持ちが、別の想いに静められていった。こんな些細なことに心を動かされてしまう自分は、かなり京一に入れ込んでしまっているのだろう。
釦を留め直すと、心地よさげに寝息を立てている相棒の顔を見下ろす。
「わかってるのか、京一?俺がこんな風に好き勝手されて許しているのはお前だけなんだぞ」
日向の匂いのする髪を一房、絡め取る。なにもかも京一の思い通りになるは癪だから、自分からは絶対に教えないけれど。
「ん……龍麻……どうかしたか?」
それは優しい動きだったが、京一は覚醒を促されたようだった。寝ぼけ眼で龍麻の頬に掌を添える。
「なんでもないよ。朝までもう少し時間があるから寝てろよ」
目容に宿る柔らかな光に。京一は頬を緩め、夜の化身を思わせる肢体を引き寄せた。
互いを追い求め、すれ違い合う月と太陽。
昇る朝陽は新たなる戦への序曲を奏で。
夜の訪れと共に始まる秘やかな攻防を、朧に霞む月が照らしだす。
なれど、狭間に位置するこの刻だけは。
互いの鼓動を感じ、温もりを寄せ合って。
安らかなる眠りに身を浸そう。
曉を迎えるまでの、このひとときを―――。