『京一』と、自分を呼んだあの声が忘れられない。
深海の色にも似た、底のない瞳が脳裏に焼き付いて離れない。
あの日から、あいつのことばかり考えている。
3日が過ぎた。
緋勇はまだ、学校に現れない。
1日、2日は「めずらしいこともあるね」と笑っていた面々も、さすがに不安を覚えてくる。
「緋勇クン。今日も学校に来ないのかなあ」
小蒔が現れない友人の姿を求めて、ぐるりと教室を見渡した。
「風邪が流行っているからな。長引いているのかも知れん」
腕を組む醍醐の声にも気遣いの色が見え隠れしている。美里は憂色を深めた。
「大丈夫かしら、緋勇君は一人暮らしだそうだから……」
頭上で交わされる会話を聞き流し、蓬莱寺は机に突っ伏していた。ひどく眠い。気を抜くと混濁する意識をはっきりさせるため、拳で顳を軽く叩いた。それでも眠気はなくならない。寝心地の良い体育館裏の樹枝が頭を掠めたが、首を振って誘惑を追い払った。
サボる気にはとてもなれない。『しない』のではなく、『できない』のだ。
寝ても覚めても。想い描くのは放課後の教室にひとり残っていた佳人の姿。
窓の外を眺める、透き通るような白い頬。
銅(あかがね)色の日脚を受けて尚一層、艶めいて見えた射干玉色の絹糸に心を揺さぶられ。
こちらを振り返った一対の宝石が宿した、果てなく拡がる夜の空に呼吸を奪われた。
そして、用を為さぬはずの喉から紡がれた妙なる音色が――。
「緋勇の場合、電話を掛けるわけにもいかんしな」
「普段はあんまり気になんなかったけどさ、こういうとき声が出ないっていうのはやっぱり不便だよね」
転校前の事故で緋勇は言葉を失っている。だが、普段の彼は身振りや目つきで己の意志を上手に伝えてくれたため、小蒔達が不自由を感じることはなかった。
柔らかな唇が編み出す旋律を耳にしたのは、あの時、あの場所にいた蓬莱寺ただひとりだけ……。
「それだけあいつが努力してたってことなんだろうな。どうだ、今日あたり見舞いに行ってみるか?」
醍醐の提案に美里と小蒔が揃って頷いた。
「そうね。後で、マリア先生に緋勇君の住所を聞いておくわ」
「京一もそれでいいよね」
返事がない。
「京一、目を開けたまま寝てるのか?」
「京一くん?」
俯いて動かない蓬莱寺に、他の3人の視線が集まった。
「……なんだよ」
何度も呼ばれ、やっと返事をする。
「みんなで緋勇君の家へ行きましょうって話してたのよ」
「京一も当然行くよね?」
誘いをかける小蒔から視線を逸らし、蓬莱寺は唇を噛み締めた。
見舞いに行ったところで目的の人物には会えない。
緋勇は自分の目の前で人外の《力》を宿した『何者か』に攫われてしまったのだから。
あれから、彼の家へ何度も足を運んだ。暇があれば電話も入れた。
それでも緋勇が戻ってきた気配はない。待てど暮らせど教室にも現れない。
胸の奥がちりちりと灼けて痛む。二度と会えないのだとは思いたくなかった。
質量を失っていく友の姿をみすみす見送ってしまった罪悪感から――だけではない。
あの、淡く色づいた唇がもたらす響きを、もう一度耳にすることができたなら……。
想いが募るほどに躰の芯から熱が生まれ。波立つ気持ちに安らかなる眠りは妨げられた。
得体の知れない不安を持て余し、寝不足からくる苛立ちが焦燥感に拍車をかける。
探し出す術を知らず、手繰りよせる糸さえ持たずに。待つことしか能のない自分が歯痒くてしかたがなかった。
僅かに自嘲を浮かべた蓬莱寺に小蒔が怪訝な顔をする。
「京一、どうかしたの?もしかして、緋勇クンと喧嘩でもした?」
そんなんじゃねーよ。と声には出さずに毒づいた。緋勇の欠席事由を友人達に知らせるわけにはいかない。自分でも正気を疑っているくらいなのだ。話したところで信じてはもらえないだろう。
「まさか京一、お前が乱暴したせいで、緋勇が休んでいるなんて事はないだろうな」
冗談半分に、醍醐が穿ったことを言い出した。
「京一君……」
真面目で洒落の通じない生徒会長の呼び声に不審が篭もる。
妙な誤解を受けてはまずいと、弁明のためにしぶしぶ身を起こした。上げた視線が教室の入り口付近を彷徨い――その場で固まる。
蓬莱寺の不審な挙動につられ、他のメンバー達も首を巡らせた。その先に話題となっていた人物の姿を認め皆の顔が一斉に明るくなる。
「おはよう緋勇君。随分と長い間お休みしていたけれど、もう大丈夫なの?」
緋勇に淡い恋心を抱いているらしい真神の聖女が、いそいそと近づいていった。
「ボク達、今日にでもお見舞い行こうかって相談してたんだよ」
親友に続いて小蒔が元気いっぱいに朝の挨拶をする。
「……おはよう皆。心配掛けてごめん」
穏やかな笑みと共に返されたのは、優しげでありながらも、どこか凛とした『声韻』。
「えっ!?」
小蒔が目を瞬き、美里が両手で口元を押さえた。
「緋勇、お前喋れるようになったのか?」
醍醐も瞠目して級友を見やる。
「お陰様で。今までいろいろと悪かったな」
あと、これからもよろしく――と、語る青年に女生徒達が涙ぐんだ。
「緋勇クン、すっごくイイ声だったんだね。ボクなんか感動しちゃったよ……」
「よかった。本当によかったわ」
「まったくだ」
安堵の息を吐き、醍醐は何度も頷いている。
緋勇は友人達ひとりひとりに改めて礼を述べると、固まったまま動けないでいる蓬莱寺へ始めて顔を向けた。
「おはよう――蓬莱寺」
「……緋勇」
「俺が休んでいる間、何度も家の方へ来てくれたみたいだな。留守電にもメッセージを残してもらってたみたいだし」
「そうなの?」
小蒔がぽかんと口を開けた。
「風邪が酷くてね。体調が戻るまで、後見人の家に厄介になってたんだ。そのせいで蓬莱寺には無駄足を踏ませてしまったみたいで……」
幼い頃、両親を亡くしたという緋勇が何かあったときに後見人を頼るのはおかしな事ではない。醍醐は緋勇の説明に苦笑を浮かべた。
「なるほど、それで機嫌が悪かったのか。しょうのない奴だな」
小蒔と美里も蓬莱寺が友人を心配するあまり不機嫌になっていたのだと納得し、肩から力を抜く。
「私達にも声を掛けてくれればよかったのに」
「そうだよ水臭いなあ」
蓬莱寺は椅子を蹴って立ち上がった。
「俺は……ッ!!」
違うと口を開きかけたところで、緋勇が蓬莱寺の腕にそっと触れる。長い前髪の間から真っ直ぐに見つめてくる瞳にギクリと顔が強張った。
この眼差しを前にすると、妙に落ちつかなくなる……。
「今朝も寄ってくれたんだろ?そのせいで朝飯食べれなかったんじゃないのか?俺、パン買ってきたんだ。一緒に食べよう」
微笑みを絶やさず皆に聞こえるように告げ、
『悪い。けどここじゃマズイだろ。屋上に行こう』
蓬莱寺だけに聞こえる声でひっそりと囁いた。
「緋勇君もうじき1限目が始まるわよ」
「復学早々サボるつもりか?」
「1時間だけ見逃してくれないかな?俺も今朝、自分のマンションに戻ったばかりで、何も食べていないんだ」
咎めだてをする美里と呆れ顔の醍醐に、おもねるように小首を傾げてみせる。二人は通常では考えられないほどあっさりと懐柔された。
「……そうね、緋勇君はまだ本調子ではないのですもの。ちゃんと栄養をとらなければならないわね」
顔を赤らめて美里が言えば、何故か微妙に視線を逸らし、醍醐が咳払いする。
「ま、まあ……そうだな。緋勇なら少しぐらい授業を抜けたところですぐに追いつけるだろうしな」
「えーっ、朝ご飯食べてないなんて、大変じゃない。そんなんじゃ午前中もたないよッ」
食事こそ一日の活力の源と考えている小蒔に到っては、最初から緋勇の味方だ。
「ありがとう。蓬莱寺の勉強が遅れてしまった分は俺が責任をもつよ」
美里と学年トップの座を争う緋勇が請け負うのなら、口を酸っぱくして諫めるほどのこともないだろう。醍醐達は「どうせなら京一の成績がもう少しよくなるよう見てやってくれ」などと軽口を叩き、二人を送り出した。
湖の底から、揺らめく水面を見上げるがごとく。
真神に転入してからの緋勇の意識は、朧気なものであった。
躰を動かし行動していたのは、緋勇であって緋勇でない者。
緋勇に成り得たかも知れない、しかし異なる《道》を進んだ、鏡面の向こう側に住まうもうひとりの己であったのだ。
「……よくわかんねェ」
蓬莱寺はぽりぽりと頭を掻いた。緋勇とてすべてを理解できたわけではない。屋上へ向かう道すがら簡単に行った説明は必然、抽象的なものとなった。
「そうだろうね。信じなくてもいいよ」
「そうは、いってもよォ。俺はお前が目の前で消えるところを見てるしな」
狂気。と呼ぶに相応しい男の笑声も耳にしている。
「で、その、お前の中にいた奴ってのは、無事に元の世界へ帰れたのか?」
「みたいだよ。もっとも『彼』をこちらへ飛ばした奴も一緒に戻ったみたいだから、今頃は苦労しているかもしれないけど」
緋勇が目覚めたとき、あの狂妄に己を歪めた男の姿はどこにもなく。
栗色の髪の少女が、意識を失くしていた躰をそっと護ってくれていた。
「時逆の迷宮に無数に存在する平行世界で、どれほど界を隔てようとも変わらないもの。それが時の流れなんだと思います。どの世界にあっても誕生と死の瞬間だけは等しく存在する。もうひとりの貴方が記憶していたとおり、兄さんとわたしはここで死ぬべき運命でした」
そんなことは……と口にしかけて二の句が継げなくなった。緋勇の運命に巻き込まれただけなのだとしても、彼女の兄がこの世を去ってしまった事実は変わらない。
「貴方が気にすることはありません。龍麻のせいじゃない……ううん。龍麻が助けてくれたからこそ、わたしは運命を乗り越えて、こうして生きていられるんだもの」
「これから、どうするつもりなんだ?『向こうの世界』へ渡るのか?」
紗夜は緩やかに首を振った。
「わかりません。向こうの記憶もあるけれど、わたし自身はやっぱり『この世界』で生まれたわたしだから」
『向こう側』と緋勇達が呼ぶ場所には、やはりその世界の紗夜が『いた』。命を落としてしまった『紗夜』と、この場所で命を繋いだ紗夜と。互いの存在がどのような架け橋を結ぶのか、いまは想像することさえできないが。
「でも、きっとどこにいてもわたしは貴方を想ってます。向こうの世界の『龍麻』でも、此方側の龍麻でも。貴方はわたしの往く道を照らしてくれた光だから」
そう言って、はんなりと微笑む彼女こそが光のようだと緋勇は感じた。あの後、別れた彼女がどこへ向かったのかは知らない。
なんの《力》も持たない自分には追求できる真実にも限界があるのだということを緋勇は痛切に感じていた。
(どこの世界にいても、か――。比良坂、俺にはそんな強さはないよ……)
大切な人には側にいて欲しい。同じ律の裡にあるけれど別の存在たる者に何人出逢おうと、求めるのはただひとりだけでありたいと願うし――自分だけを求めて欲しい。
彼だって、そう思ったからこそ――。
「緋勇?なんだよ、急に黙りこくって」
数段上にいた蓬莱寺が、不意に顔を覗き込んできた。緋勇は危うく階段を踏み外しそうになる。
「あ……?ああ、悪い蓬莱寺。考え事をしてたんだ」
なんとか取り繕って笑みを浮かべると、朱色の髪の青年は不服そうな表情を浮かべた。
「蓬莱寺?どうかしたか?」
「……なんでもねェよ」
顔を逸らし、屋上へと続くドアに手を掛ける。
開け放つと、ふわりと熱風が吹き上げてきた。初夏の風がコンクリートの熱を孕み、耐え難いほどになっている。
緋勇と蓬莱寺は申し合わせるでもなく、自然と日陰を求めて足を進めた。入り口と反対側へぐるりと回り込み、給水塔の落とした影を拾いにいく。
目的の場所には先客がいた。
「誰かと思えば、軟弱な転校生じゃねェか。優等生がおサボりかよ」
こちらに気づいたらしい男が取り巻き連の中心から立ち上がる。蓬莱寺は眉間に皺を寄せた。
「佐久間、お前性懲りもなく、また緋勇に絡むつもりか」
さりげなく両者の間に割って入り緋勇を背中に庇う。佐久間は鼻白んだが、すぐに野卑な笑いを顔に貼り付かせた。
「へっ、相変わらず緋勇にべったりだな。確かに緋勇はそこいらの女より綺麗なツラしてるもんなァ」
周囲の者達が揃ってにたにたと嫌らしく口元を歪める。
「……何が言いたい」
口調に怒気が籠もった。
「その可愛らしい顔に、どうやってお前が誑かされたのかと思ってよ……」
「てっめぇ……」
「蓬莱寺ッ!」
低い恫喝と共に足を踏み出した蓬莱寺を、緋勇が押しとどめる。
「離せ緋勇っ!お前、自分が何言われたのかわかってんのかよ!!」
わかってるよ。と緋勇が呟いた。
「佐久間」
大気を震わせて奏でられる天上の楽(がく)に。佐久間の肌がぞわりと総毛立った。
ゆうるりと向けられる、視線。
澄み渡る黒曜石の輝きに指先まで痺れが走る。
「悪いけど俺達、少し話したいことがあるんだ。用があるなら今度にしてもらえないかな」
その、人にあらざる彩。捕まれば二度と逃げることの適わぬだろう色。
破滅を呼び込む、妖しの美貌。
欲望を刺激して止まぬ艶と、邪な想いに後ろめたさを抱かせる清冽な《氣》が、征服欲と庇護欲を同時に掻き立てる。二律背反する精神は惑いの隙に、狂気を交わらせようとしていた。
本能的な恐怖を感じた佐久間は声もなくがくがくと頷くと、急き立てられるように屋上から退散していく。佐久間と同様に緋勇の一挙一足を間近にしてしまった取り巻き連も、自分達のボスに倣った。
「なんだァ、ありゃ……?」
肩すかしを食らった京一が頭を掻く。
「緋勇、お前催眠術でも使ったのか?」
「まさか、俺にそんな《力》はないよ。ただ、佐久間はお山のボス猿だけあって、自分のちっぽけなプライドを大切にしているからな」
彼にとっては耐え難かったことだろう。格下だと思っていた男に意識を絡め取られそうになることなど。例え、緋勇が女であったとしても。自分が一番偉いと信じている者にとっては、跪き懇願してでも手に入れたくなる存在などというものには近づきたくないに違いない。
《力》などなくとも危険を回避する術はいくらでもあるのだ。
佐久間の心情など想像すべくもない蓬莱寺が、心配げに問いかけてきた。
「大丈夫なのか?佐久間のことだからまた、ちょっかい掛けてくるかもしんねェぞ」
あいつ粘着質だからな、と溜息をつく友人に案ずる必要はないと答える。
「佐久間とは1月も経たないうちに会わなくなるからな」
生と死の刻だけは、どこの世界にいても変わらない……。向こうの『龍麻』の記憶によれば、佐久間の命脈は秋を待たずに尽きる。さすがに醍醐の手に掛かってということはないだろうが、事故にせよ病気にせよ彼の辿る《道筋》はひとつしか用意されていなかった。ここにはもう、奇跡を起こす要素は何ひとつとして残されてはいないのだから。
「どういう意味だよ」
緋勇は答えず、うっすらと微笑んだ。
「……まァ、お前が気にならないってんならいいけどよ。しっかし、追っ払えるんなら最初からそうすりゃよかったのに」
転校してきた初日、緋勇が佐久間に袋叩きにされていたのを思い出しているらしい。緋勇は半眼を伏せた。
「……『彼』には、そんな必要はなかったからな」
正面から立ち向かい打破できるほどの《力》に溢れていたあの『彼』には。
「ああ、あれはお前じゃなかったんだっけな……」
納得しかねるのか、蓬莱寺はしきりと首を傾げていた。
緋勇は先客のいなくなった日陰に入り、壁に背中を預ける。
「――蓬莱寺。無理に解ろうとしてくれなくてもいいんだ。俺は風邪で休んでいただけだし、お前は事故でおかしくなった転校生に同情してつき合ってやっていた。それで充分だろ」
声を取り戻し記憶の混乱も収まった緋勇を補佐する必要はもうどこにもない。青年が緋勇を薄気味悪いと考えているなら、今後は互いに距離を置き関わり合いにならなければいいのだ。
「同情なんかじゃねェよ……」
蓬莱寺は低く唸ると、緋勇の正面に移動した。両頬脇の壁に肘をつき覆い被さるようにして動きを封じ込める。
触れそうなほどに近く、けれどギリギリのところで触れない――距離。
「蓬莱寺……?」
「京一だ」
自分をじっと見つめる瞳の宿す光に、緋勇は息を呑んだ。
明らかにこれまでとは違う色合い。
今までの蓬莱寺にはなかった、けれど己ではない記憶の中に確かに残っている、それは。
「京一って、呼んでみろよ」
「……きょう……いち……」
緊張からか掠れる声に蓬莱寺の全身がぞくりと粟立った。腹の奥底で蠢く情に呼吸が熱を帯びる。
「もっかい、呼んで?」
「……京一」
心細げに揺れる双眸が。不安げに戦慄く唇が。蓬莱寺の心を煽りたて。
思考が形を結ぶ前に躰が動いた。
「……………な、……に考えてんだ、この馬鹿猿ーっ!!」
「いってェッ!!そっちこそいきなり蹴っ飛ばすんじゃねェよ」
突き飛ばされた挙げ句、向こう脛をしたたかに蹴られた蓬莱寺は蹲って顔を顰める。
「妙なことするからだろう」
唇を押さえ、わなわなと肩を震わせる緋勇の頬は紅潮していた。
「お前、わかってるのか!?俺は男で、お前も男なんだぞ!」
「んなこと言ったって、気持ちが動いちまったんだからしょーがねェだろ」
「動かすな。というか動いても行動に移すなっ。不意打ちなんて卑怯だろう。人間は理性の動物なんだぞ」
よほど動揺したらしい。喋っていることがだんだん支離滅裂になってきている。
緋勇はぐしゃぐしゃと前髪をかき回すと、蓬莱寺の正面に膝をついた。ひとつ深呼吸してから再び口を開いて言う。
「お前、ちょっとは悩もうとか考えないか?全然状況を理解してないだろ」
「悩むことなら、お前がいなくなった3日間でさんざんやったぜ」
手を伸ばし乱れてしまった友人の前髪を整えてやる。
緋勇は抗わなかった。
「これまでお前の隣にいた『緋勇龍麻』は俺じゃない。お前は思い違いをしているだけなんだよ」
あの鮮烈な光を放つ存在の残していった幻影に踊らされているに過ぎないのだと。説明する緋勇に青年は不服を表す。
「けど、お前だって同じ緋勇龍麻じゃねェか」
「彼と俺とではぜんぜん違うよ」
蓬莱寺が沈黙した。
伏せると意外に長いとわかる睫毛や、陽に透ける朱色の髪を緋勇はぼんやりと見つめる。
真面目な顔をしていれば、精悍であると称して差し支えない面立ち。
いまは前髪の蔭になっている鳶色の瞳が優しく見つめてくれることを緋勇は知っている。
引き締まった腕が自分を引き寄せるときの力強さを覚えている。
不敵に笑う唇が触れてくる寸前、少しだけ躊躇する様をもまざまざと描き出せるのに――。
記憶は緋勇の持つべきものではなかった。
そして、持ち主が真実求めていたのは、目の前の青年ではなく。
取り残された自分はどちらのものともつかない感情に振り回されている。
あのどこか常識の抜けた『彼』と違い、緋勇にはその想いがなんと呼ばれる類のものであるのか解ってしまうだけに余計、質が悪かった。
「なら、俺が違いを探せばいいのか?」
考え込んでいた青年が顔を上げる。
「ここにいるお前とあの『緋勇』とどこが異なっているのかを俺が知って、それでも俺がお前を求めたときは……」
意外な申し出に緋勇は驚いた。記憶にある青年も常に前向きだったことを思い出す。怖じけることなくいつでも顔を上げて進んでいく姿勢は、どこの世界においても変わらない彼の性質なのだろうか。
胸を締め付ける痛みは、ここにいる青年に対するものなのか、記憶の中の『京一』に対するものなのか。それさえもわからないというのに。
「そうだな……その時は、俺も考える」
気がついたときには頷いてしまっていた。
「約束だぜ?」
にやりと口角を歪め、蓬莱寺が緋勇の首の後ろに腕を回す。
「ちょ……っ、なにを……京一!」
油断していたためあっさりと相手の胸に倒れ込んでしまった緋勇は、青年を強く睨みつけた。
蓬莱寺は悪びれた様子もなく友人の耳元へと唇を寄せる。
「そう怒んなって。近くにいた方が、お前のこと理解しやすいだろ」
なァ――龍麻。
調子のいいことを……と怒鳴りつけようとした声が、喉に絡まった。
『龍麻』と、甘い水を含んだかのように、大切に大切に口にされたその響きは。
あの世界の『龍麻』が、自らに掛けられた呪縛を解き放つほどに渇望していたものと同じ――。
「お前、卑怯」
口惜しくなってぽつりと呟く。こんな声で呼ばれたら抵抗なんてできるわけがないではないか。
蓬莱寺は力の抜けた躰をさらに強く腕に閉じこめ破顔した。
顎に手を掛けられ、上向かされて緋勇は静かに目を閉じる。
時が経てば、この熱も薄れていくに違いない。彼も――自分も。
これは自分の気持ちではない。
彼が望むのは、ここにいる緋勇龍麻ではない。
単なる勘違いであったのだと、もうじき二人が共に思い知ることになるのだろう。
ならばせめてそれまでの間は、身のうちを焦がす想いに心を委ねるのも悪くはないかと思った。