物語の中にしか存在しないと思っていた剣と魔法の世界、リィンバウム。
深崎藤矢は、この地を取り巻く4つの界よりもさらに外の時空より来訪を果たした異邦人である。それも自らの望みではなく、召喚術の事故によって強引に。
何もかもが知らないことだらけで、意味もない争いが起きては巻き込まれていく。泣き言を言う暇も相手もなく、どうすれば帰れるのかさえ判然としない。
ひょんなことから世話になることになった孤児院の屋根は、そんな日々に疲れた藤矢がしばしの休息を得るために最適の場所であった。
満天の星を眺め、自らの行動を振り返り、これからのことを考える。時には、故郷を懐かしみ侘びしさを感じることもあったが、この場所であれば落ち込む姿を誰かに見咎められることもなかった。
いつものように屋根裏部屋の窓から身を乗り出す。今宵は満月。皓々と闇を照らす銀光を見上げると、視界の端を掠める影があった。
どうやら先客がいたようだ。
月を見上げ背筋を伸ばして立つ、一本の張りつめた糸のような雰囲気をまとう――少年。
「ソル……」
藤矢は自分をこの地に呼び寄せた召喚師の生き残りであるという少年の名を口にした。
声に反応したソルが、無言で手を差し伸べてくる。藤矢は笑みを浮かべてありがたく手を取った。
「こんなところで何か考え事かい?」
軋む足下を気にしつつ傾斜に腰を下ろす。ソルは立ったまま視線を月へと戻していた。
「……アイツが言ったことを考えてたんだ」
「アイツって、バノッサのこと?」
―――俺の望むすべてを持っているお前が憎くてたまらねぇんだよ!
激しく吼えたて、藤矢を嫉視した北スラム街の首魁バノッサ。オプテュスのリーダーとして君臨する彼はさらなる力を求めて召喚術を欲し、己が望むものを有する藤矢を妬害している。召喚術師の家に生まれながら、才能がないために捨てられたという彼の生い立ちが、力さえあれば何でも叶うのだという頑なな思いこみを創り出しているのだろう。
「アイツの気持ちはなんとなくわかるんだ。俺だって自分を認めて欲しくて召喚の術を磨いたようなものだしな」
藤矢は少しだけ驚いて目をしばたたく。ソルが自分のことを話すのはこれが始めてだった。
「やり方は確かに間違っているのかも知れないが、アイツはアイツなりに必死なんだ。逆境に負けず生きようとするバノッサの姿勢は評価すべきだと、俺は思う」
バノッサの望みは自らの居場所。存在を許されるところ。活かされる場。在るべき地位。彼はそれを力尽くで手に入れようとしているのだ。
「……うん。僕もバノッサは嫌いじゃない。けど、彼はきっと勘違いしている」
「勘違い?」
ソルが藤矢を振り返る。見下ろしてくる瞳に頷きを返し、座るように促した。
「居場所っていうのは、自分がいてもいいと思える場所のことだよ。立派な家とか高い地位なんて必要ない。彼を必要とする人、彼を信頼して大切に思ってくれる人がいればそれで充分なんじゃないかな」
「……カノンか」
バノッサを護るために、忌まわしき血を呼び覚ましてまで戦い抜こうとした少年。「僕はどこまでもバノッサさんについていきます」とはっきりと語った彼の真摯な顔が今も胸に焼き付いている。
「カノンは惰性や義務でバノッサと一緒にいるわけじゃない。自分でバノッサの隣を自分の居場所と決めているんだ」
ただ一歩、踏みとどまって振り返るだけでバノッサは気づくことができる。望んだ幸せは思いもかけないほど近くにあったことを。彼の渇きを癒してくれる泉がそこにあることを。
「……羨ましいな、あいつが」
ソルがぽつりと呟いた。
「俺にはもう居場所はなくなってしまったからな」
「そんなことない。ソルにだってちゃんとあるよ」
同じ目線に降りてきた、自嘲気味に笑う少年を正面から覗き込む。
「さっき、リプレが『おかえり』って言ったとき、ソルはちゃんと『ただいま』って答えてたじゃないか」
帰りを待ってくれている人がいて、迎えてくれる家がある。
共に困難に立ち向かってくれる仲間達だっているのだ。
「ここには無理矢理押し掛けたようなものだ。あいつらだって本当は迷惑しているだろう」
「リプレはそんなこと考える子じゃない。他のみんなだってソルのことちゃんと認めてる」
あとはバノッサと同じく、受け手側の気持ち次第だというのに。
「けど、俺はあいつらに何一つ自分のことを話してない。……話せないんだ。こんなんで信頼関係なんて築けるはずがないだろ」
「だったら僕が言うよ。この先どうなるかわからないし、僕だってずっとここに世話になっているわけにはいかないけど。君とは一緒にいられたらって……この世界に居る限りはずっと君の隣にいられたらいいなって思うんだ」
異端であるのは藤矢とて同じ。それなら、互いが相手の帰る場所になればいい。
いつまでも同じ道を歩いていけばいい。
「だから、僕は君に『おかえり』って言いたいし、言って貰えたら嬉しい……ダメかな?」
「……つくづくおめでたくできているなお前。自分をこんな状況に巻き込んだ奴に対してよくそんな人の好いことが言える」
いかにも呆れきった溜息を吐き、ソルが屋根を降りていく。
「やっぱり、僕じゃ不満だったかな……」
予想はしていたが思った通りの答えに、藤矢は嘆息した。
「別に……お前なら、いい」
屋根裏部屋の窓に足をかけた少年が、去り際にぼそりと呟く。
帰る場所にいるのが藤矢なら。自分の立つべき位置がその隣にあるのなら。
それならいいと告げる少年の声は、そっけないものであったけれど。
その耳が朱色に染まっていることに気づき、藤矢は苦笑を本当の笑みに変えた。