鳥が、漆黒の闇に向け一斉に飛び立った。
木々はざわめき、風はか細く啼きながら、来るべき時の予感に震え戦いている。
荒ぶる神は《墓》の奥底で、じりじりと機が熟するのを待っていた。
生徒達は何が起こっているのかも解らずに、得体の知れぬ不安に苛まれ寮の一室で身を寄せ合う。
指導する立場にある者としての気概を忘れていなかった幾人かの教師は、教え子達の身を案じつつ赤く染まった天を振り仰いだ。
破滅の刻は近い。
それは、《生徒会》の名を借りた墓守達によって護られ隠され続けてきた《秘宝(しんじつ)》が、ただ一人の《宝探し屋(トレジャーハンター)》によって暴かれた瞬間だった──。
九龍は人気の絶えた校舎の中を、悠然とした足取りで歩く。
夜の闇も、時折訪れる大地の揺らぎも、彼の歩みを鈍らせるには至らなかった。
天香學園で生活する多くの者達と異なり、異変に対する困惑もない。
それもそのはず。両親の都合により私立の全寮制学校へ編入してきた《転校生》というのは世を忍ぶ仮の姿。その実体は、宇宙の平和を司る愛の戦士コスモミラクル!!……などではなく。ロゼッタ協会に属する駆け出しの《宝探し屋》であった。
有り体にいってしまえば、この状態を引き起こした張本人こそ九龍に他ならないわけで。異変が起きたからと逃げ帰ったのでは、ハンターランキングの金字塔、憧れのロックフォードも草葉の陰で泣こうというものである。
彼の抱く思惑は単純にして明快。
───荒波吐神と呼ばれる化人を斃し、《九龍の秘宝》を手に入れる。
の、一言に尽きた。
謎解きがない分楽で良いよな、と曰う青年の身上書には『よく言えば前向きな性格です』との特記事項が記されているとかいないとか。
とまれ、勇敢なのだか楽天的なのだかわからない青年の呟きを除けば、一階の廊下は静まりかえっていた。
地の底から時折届く振動だけが時が流れていることを知らせてくれる。
青年は殆ど足音を立てず、滑らかな床を踏破した。
非常灯に照らされたプレートに『保健室』の文字がぼんやりと浮かび上がる。
扉の隙間から零れる僅かな灯りに、九龍は目を細めた。
思った通り彼女はこんな時でも──否、こんな時だからこそ、己の職務に忠実に行動している。
深呼吸をひとつ。扉を軽くノックした。
誰何の声はない。保健室の主は《氣》を読む。それでなくとも夜間の、しかも天変地異の前触れともいうべき異変が起きている中での来訪者など限られていた。
扉を開けた九龍の目に、スチール椅子に腰掛ける劉 瑞麗の神秘的な笑みが飛び込んでくる。
「よくきたな」
青年に向き直った女性は、口に運んでいた煙管を煙草盆に伏せ置くと優雅に足を組んだ。
「凄まじい怨念が渦巻いている、下手をすれば命を落とすかもしれないぞ。恐ろしくはないのか?」
端的な問い。対する九龍の答えもまた、ひどくあっさりとしたものだった。
「怖いよ」
校医兼カウンセラーを務める女性の瞳が僅かに翳る。
「──それでも、行くと?」
「仕事だからな」
迷いのない真っ直ぐな視線を受け、瑞麗は小さく嘆息した。
「……5年前にも同じようなことがあったと聴く。新宿はこうした《氣》の集まりやすい場所なのだろうね」
語る口調は独白のようだった。煙管の代わりに手にしたボールペンの背で、誰の者とも知れないカルテを意味もなく叩いている。
「前に弟のことを話したことがあったろう、お前を見ているとあいつを思い出す。5年前の時には弟……当時丁度、今のお前と同い年ぐらいだった弦月が関わっていた。村を滅ぼした男に復讐するため勝ち目のない闘いに挑み、そして──」
緩やかに面を伏せる校医。暫し口を閉ざす彼女に、九龍は掛ける言葉を持たなかった。
誰しも身近な人間を喪うのは辛い。
ましてや、それが溺愛していた弟ともなれば尚のこと。思い出が多ければ多いだけ、記憶が鮮明であればあるだけ、哀しみも深くなる。
「あの時、私が傍についていれば、弟は、弦月はあんな変わり果てた姿にならずに済んだものを……」
校医の細い肩が小刻みに震えた。
艶やかな黒髪に、九龍はそっと手を伸ばす。
机の上で、何かが不自然な音を立てた。
「………………(ベキリ?)」
思わず動きを止め視線を投げかければ、彼女の手の中にあったプラスチック製の筆記具が中程から折れている。
「ルイ先……?」
「そう、あの時以来、私の弦月は変わってしまったのだ」
眉を顰める九龍の耳朶を、地獄から吹き上げる風のごとき囁きが掠めた。
「…………はい?」
つい、間抜けな声を上げてしまった青年は校医に睨まれ後退る。
「なんだ、その反応は?」
「イ、イエ。ナンデモアリマセン」
まさか、話の運びからすっかり『弟』は亡くなったものだと思い込んでいただなんて、口が裂けても言えない。
九龍はカウンセラーの追求をジャパニーズスマイルで躱しつつ、話の先を促した。瑞麗は訝しげに青年を見つめていたが、己の追憶に浸る方が重要であると判断したのか、外した視線を再び遠くへと彷徨わせた。
「……それは、まさに東京の明日を占う争いであったと聞く。弟は今でも多くを語らないが、辛く激しい闘いであったことは想像に難くない。無事を案じていた私の元へ手紙が届いたのは、事態が終結してより数週間程後のことだった。復讐は無事果たし、元気でやっているという」
密かに胸を撫で下ろす青年は、顔に曖昧な笑みを貼り付かせたまま耳を傾ける。
個人的な事情もあって、今は彼女のご機嫌を損ねたくはなかった。校医の気が済んだ後、自分の用件を切り出す時間が少しでも残っていたらいいな~なんてちょっぴり悲観的な希望を抱く。
「また、弟はこうも書いてきた『東京で運命の人に出逢った』、と……」
九龍の思惑など何処吹く風と、校医は言の葉を紡ぎ続けた。
「手紙に書かれている人物のことは私も知っていた。赤子の頃、父親に連れられて村に来たことがある。愛らしい赤子でな、短い間だったが弦月の乳兄弟として育てられた」
瑞麗は喜んだ。その者が希望となってくれるなら。陽(ひかり)となって照らしてくれるなら、弟も二度と昏き恩讐に捕らわれることなく生きていけるはず。倖せになって欲しいと、心から願っていたのだ。
「だが、それは大きな間違いだった──」
苦悩する校医は額を掌で覆い、嘆きを押し殺すように細く息を吐き出す。
青年は息を呑み、厳粛な面持ちで続きを待った。下手な反応を示せば螺旋掌が飛んでくるに違いない。
「弦月はその者を嬉しそうに、こう呼んだのだ『アニキ』と──。わかるか?!『アニキ』だぞ!!」
「………………」
わかるか?などと聴かれましても。
九龍は戸惑う。兄貴、というからには男なのだろう。口振りからして恋人でも出来たのかと思っていたが、友人を作ったというならばそれはそれでいいことではないか。
「当時、日本の文化にあまり詳しくなかった私は、弟の言葉を額面通りに受け取った。アニキと呼ぶのは、かつて二人が乳兄弟であったことに由縁するのだろうと脳天気にも信じ込んでいたのだ」
「違うんですか?」
うっかり口を滑らせた代償は、悪鬼のごとき形相。
「お前だって日本人の端くれなら知っているはずだ!!」
端くれって……つか、一体何を?
折れたペンを床に叩きつけた校医は、勢いの収まらない拳を机に打ち付けた。
「私は何と愚かだったのだっ!日本の『アニキ』という言葉に、あのような意味が隠されていようとはっ!インターネットで調べてみるまで思いもよらなかったっ!!!」
……………………嫌な予感。
「あの、先生。一体何を……」
見たんですか?
「口に出すのもおぞましいっ!!」
吐き捨てるカウンセラーの顔に、嫌悪が過ぎる。
迸る汗。鍛え上げられた肉体美。
ささやかな探求心から日本のサイトを『兄貴』で検索した瑞麗を待っていたものは、雄々しくも逞しい男達の繰り広げる愛と官能の世界だった──。
「よもや弦月が、あんなむさ苦しい……いや、それよりもあの愛らしかった赤子が、筋骨隆々の二重顎になっていようとはっ!」
「先生、最近その……弟さんの相手に会ったことは……?」
「ないっ!だが、アニキたるもの、そうでなくてはならないとサイトには書いてあった」
瑞麗はすっかり弟の乳兄弟がボディービルダーのごとき体型に成長してしまったのだと信じ込んでいる。
「もう、イイデス……」
彼女が目にしたものが何であったのか、想像のついた九龍は目眩を覚えた。
荒波吐神を斃したら、ロゼッタ協会に有給休暇を申請してでも誤解を解くことに努めようと心に誓う。
誤解……のはずだ。いや、是非とも誤解であって欲しい。
そういえば、墨木も一時期自分のことを『アニキ』と呼んでいたっけ……いや、まさかな。って、しっかりしろ葉佩九龍!己が錯乱してどうするよ。
精神力の高さが売りの《宝探し屋》は、軽い状態異常に陥っていた。
己の放ったクリティカルヒットの威力も知らず、校医は高ぶった感情のまま九龍の両肩を掴む。
「龍、お前は、お前だけはっ!!あのようになってくれるな!!!」
瑞麗の目は真剣そのもの。可愛い生徒を薔薇の花開く園へ連れて行かせまいと必至だった。
……有り難迷惑である。
「いや、あのね、先生……」
九龍は女の子が好きだ。
元気な八千穂も、可憐な雛川も、謎めいた美少女、白岐も捨てがたいが、一番好きなタイプは誰かと問われたら迷わず『大人の女性』と答えるだろう。
つまり、ここへは決戦を前に想いを寄せる女人(ひと)から、激励のひとつも貰えないかな~などという淡い期待を抱いて来たわけであって……。
断じてあらぬ誤解を受けるために訪れたわけではない。
身体を揺さぶられ続ける九龍は、舌を噛まぬよう慎重に声を出そう試みた。しかし曇った校医の目には、それが迷う仕草と映る。
「駄目だっ!しっかり己を持つんだ龍!お前ならどんな女性でも引く手あまただろうに!!」
いつも冷静な彼女からは、想像もつかない激しい態度。
そうして、続いた言葉に青年は今度こそ気を失いそうになった。
「確かに皆守は顔がいいかもしれん。お前となら並んでも絵になろう。世間だって許してくれるかもしれない。だが、5年後、10年後のことを考えてみろ!どうだ、恐ろしくはならないかっ?!」
せんせい。
こーたろー君は『しんゆう』です。
たしかに、ときどき抱きついたり肩を組んだりしていますが、それはスキンシップというものです。それ以上でも以下でもありません。ぼくは女の子が好きです。大好きなんです。
筋肉よりも豊満な胸を、すね毛よりも細い足首を愛する青年は、心で涙した。
ロゼッタ協会の調査によれば、ID-0999が意中の女性に告白することを決意したのは、このときだったという。
九龍の持つ小さな端末が、画面に『Quest Complete』の文字をそっと映し出したのは、それから3分ほど後のことであった。