吹喜

 野に咲く花を健気と感じる心を忘れては為らぬ、と――。

 麗らかな日差しが降り注ぐ中、天戒は屋敷の裏手にある山道を草履で踏みしめていた。
 季節は初夏。萌ゆる若葉が目に痛いほど。風は未だ涼気を漂わせておりながら、歩き続けていると背中にじっとりと汗が滲んでくる。
 こうして日に一度、時間を見繕っては山腹にある両親の墓標を訪れるのが男の日課であった。
 手に提げてきた桶から勺で水を汲み取り、碑石の上に注ぐ。職人が作り上げた草木よりも野辺に咲く花を父は好んでいた、と耳にしてから供花を携えてくることはしなくなった。変わりに懐に入れてきたまんじゅうを二つほど置く。

 嵐王に連れられてこの地に腰を据えたのは、物心がついたばかりの頃。父の事は正直よく覚えていない。ただ、嵐王や天戒と行動を共にしたかつての家臣達の言葉から、このような人物であったのだろうと推測するのみだ。
 それでもこうして堅い岩肌に刻まれた名を見つめていると、己が権勢欲の為に父を虐げし幕府のありように憤りが込み上げてくる。血の繋がりとは不思議なものだ。
「実際に父母がこの場に眠っているというわけでもないのだがな……」
 墓石に掌を添え独白を零す。
 焔に巻かれた九角家当主の遺体はついに見つかることはなかった。彼の人が胸に抱いていた奥方の位牌もまた同様に。
 石碑は、天戒が九角家の抱いた無念を忘れぬ為の戒めであった。
 幕府を打ち倒し、悲願を達成するその時までこの岩は標榜としてあり続ける。
 せめて苔生す前に本懐を成し遂げたいものだと考え自嘲した。倒幕計画が思うように捗らず、少々気弱になっているのか。
「我等の行動をことごとく邪魔する隠密組織、龍閃組。不穏の種は早々に摘み取らねばならぬが――」
 切り捨てるにはなんとも惜しい人材である。これからの時代を担うに相応しいのは彼等のような若者達であろう。権力に捕らわれず、組織に縛られることもなく。情に脆く、義に厚い。敵味方に分かれていなければ、一献酌み交わすのも楽しかろうと以前、尚雲が漏らしていた。汚濁にまみれた幕府に吹き込んだ清涼なる一陣の風。彼等の命を奪うことは容易くはないにせよ、不可能ではない。だが、彼等という新たな風が幕府に何をもたらすのか、もう少しだけ様子をみてみたかった。

 喩えその為に、多少悲願の達成が遅れることになろうとも……。

「ふっ、以前はこのようなこと考えもしなかったのだがな」
 復讐こそが我の歩むべき道。雑念が入り込む余地などないのだと頑なに信じ込んでいた。事実その通りであったというのに。一体何が己を変えたのであろう。
 しばし、思考の淵に沈んでいた天戒は、背後で草むらを踏みしだく気配に顔を上げた。
 村の者達は滅多なことでは裏山に入らない。
 幕府の放った刺客であるならば、もっと気配を押し殺しているはずだ。
 鬼哭村――ひいては鬼道衆の頭目たる己に必要以上に気を遣うこともなく、含みをもつこともない者。と、なれば結ぶ像はひとつしかなかった。
 木立の合間から顕れたのは思い描いたとおりの姿。
 闇になお映える漆黒の髪、雪花石膏の肌。若竹のようにしなやかで清妙な肢体。
「龍斗――」
 己を認める澄んだ眼差しを見返し、天戒は微笑みを浮かべた。



「天戒、こんなところで何をしている?」
 龍斗は思いがけない人物を見たとでも言いたげな表情をしていた。この様子からすると、嵐王あたりに頼まれて自分を捜しに来たわけではなさそうだ。
「父母の墓前に報告をな」
 半身をずらし来訪者に向き直る。
「墓標……」
 初めて気づいたというふうに龍斗が石碑に目を向けた。
「もしかして邪魔をしたか?」
「構わぬ。大事ない。お前こそこのようなところに何用だ?」
「少し時間ができたから、今の内に村の様子を見ておこうと思って……」
 さして考えもせず歩き回っていたら、このようなところまで迷い込んでしまったのだと言う。
 龍斗が鬼哭村に迎え入れられたのは春雷の閃く夜。それからすぐに鬼道衆の要員として駆り出され、忙しない日々を過ごしてきた。数ヶ月を経た今となっても村の中にはまだ知らぬ場所がある。そのため作戦の合間、僅かにできた時間を使い少しずつ周囲の様子を見て回ることにしていた。
「客人に躰を休める暇(いとま)もあたえていなかったか。すまぬな」
 まずは草鞋を解いて骨休をめしていけ、と自分は告げたはずではなかったか。思い返して天戒は苦笑する。
 鬼道衆が倒幕に向けて本格的に活動を始めた時期と重なったこともあるが、少々龍斗を当てにし過ぎていたようだ。
「今更言われてもな」
 くすりと青年が笑みを零す。戦いの最中、鮮烈な技を操る者と同一人物とは思えない穏やかな表情。おそらくは、今の風情こそが彼本来の姿なのだろう。自分達《鬼》と係わったが故に、龍斗は羅刹の中に身を置くことになったのだ。
 所詮は余所者。これまで同様、利用できるだけ利用し尽くして用が済めば口を封じればよい。出逢った当初はそう考えていた。事実多くの者達をそうやって捨て駒にしながら良心の呵責さえ覚えなかったというのに。
 龍斗の柔らかな笑みを見ていると、何故か胸に痛みが走った。
「では、今後暫くは戦いを離れ村の者と畑でも耕して過ごしてみるか?」
 想いを振り切るように提案する。鬼道衆でも、桔梗や澳継のように四六時中偵察や作戦に駆り出されている者は稀だ。他の者達は必要とされるとき以外は野山に交じり、あるいは屋敷に閉じこもってひっそりと生活している。類い希なる戦力を有する青年が抜けるのは厳しいが、この辺で小休止を取らせるのもよいだろう。
「俺はひとつのところに留まって平穏に暮らすよりも、こうした生活の方が性にあってるよ」
 気にするなと軽くいなす青年の瞳を天戒はひたりと見据える。
「だが、お前は幕府に恨みを抱いているわけではない」
 そうであろう?と目で問うと、龍斗ははっきりと頷いた。

 ここは嘆きの村。
 葵の紋の下に虐げられ、怨嗟のうちに鬼と変じた者達が集まる地。
 老いも若きも。男も女も。
 癒されることのない慟哭を胸に抱いている。
 潤されることのない渇きに絶えず喘ぎ続けている。

 ただ一人、目の前の青年だけを異にして――。

 自分達と行動を共にし、権力者達の残虐非道な振る舞いを目の当たりにしてきたにも係わらず、龍斗の眼が憎みに曇ることはなかった。
 清澄な双眸に宿るのは、やはり透明な悲哀の色。
 多くの《鬼》に囲まれながら、彼だけが人でありつづける。
 そうして、人の温もりに触れた鬼達の心にもまた、漣のごとき微かな変化が訪れていることを頭目たる男は感じ取っていた。
「龍斗、お前は何のために闘っているのだ?」
 青年の有りようは、どこか敵対する組織の若者達に通ずるものがある。それもまた龍閃組に手を掛けることを躊躇させる遠因となっていることに、いまだ天戒は気付いていなかったが。
「珍しいな、天戒がそんなことを訊いてくるなんて。鬼道衆にとって有益ならば俺の闘う理由などなんでもよかったんじゃなかったのか?」
「うむ。確かにそう思っていたのだがな……」
 口を突いてでた科白に、一番驚いているのは己自身だ。
「どうやら、俺は己で思っていた以上に、お前に興味を抱いているようだ」
「口説き文句じゃないんだから」
 軽やかに龍斗が笑う。《鬼》の心に沈みし泥土を洗い流すような潔朗さで。
「龍……」
 そうして、どこか途方に暮れたような顔を浮かべた天戒にまたひとしきり笑い。
「大切なものを護るために」
 至極あっさりと答えを述べた。
「大切なもの、か……お前にとっての大切なものとは何だ」
「深まりゆく若葉の色、花の匂い、木立を渡る爽やかな風――」
 唄のように紡がれる、心地よい言の葉の数々。
 木々に透ける日差しを受けて、艶やかな黒髪が紅に染まる。目にも鮮やかな変化に天戒は目を細めた。
「小川のせせらぎ、小鳥の囀り、巡りゆく四季折々の妙なる彩」
 このまま大気にとけ込んでしまいそうな、あまりにも清景にすぎる《氣》。吾知らず男は手を伸ばした。
「龍っ!」
 掴んだ手首より伝わる質感と温もり。皮膚の下を流れる命脈が、手にした存在が幻ではないことを教えてくれる。
 唐突な行動に出た天戒を咎めもせず、龍斗は視線を上げた。
「それらを慈しむ者の心を……」

 名もなき小さな花を愛おしむ気持ちを忘れることなきように――。

 青年の言葉に重なり、脳裏に響いたもう一つの韻律に天戒は目を見開いた。
 もう、ほとんど忘れかけていた人の声が、どうしていま浮かんできたのか。
 目の前にいるのは、姿も形も似ても似つかぬ人物だというのに。
「天戒?」
 己を凝視したまま固まってしまった九角家の若き当主を龍斗は訝しげに見る。
「あ、ああ、すまない。少々昔のことを思い出してな」
 握りしめていた手首を解放し、天戒は顎に手をやりつつ反芻した。

 あれは、徳川に攻め入られる前日であったろうか。
 戦の準備に忙しく、数ヶ月に及んでまったく相手をしてくれなかった鬼修が珍しく天戒を部屋に呼び、遊び相手になってくれたのだ。
 大きな父の手に抱き上げられ、庭を散策して過ごした穏やかなひととき。
 はしゃぐ我が子に九角家当主は終始穏やかな笑みを浮かべていた。
 今思えば、鬼修は既に死を覚悟していたのかも知れない。

―――ちちうえ、あそこに見たことのない花が咲いてます!
―――ふっ、戦を近しくして庭師も気が漫ろになっていたか。

 己が指差したのは、庭師が抜くのを忘れてしまったのであろう、野辺に咲く花のひとつであった。
 幼い天戒は屋敷より外を知らずに過ごした。それが、幕府の魔手より静姫の子である自分と妹を護るための手段であることは、ずっと後になってから聞かされたのだが。
 その時は、只ゝ見慣れぬ小さな花に喜んでいた。

―――気に入ったのか?
―――はい、すごくかわいらしいですね。

 生まれたての妹の掌のように愛らしいと、応じたような記憶がある。

―――……我が子、天戒よ。お前にはこれから幾多の困難が待ち受けていることだろう。だが、今の気持ちを忘れてはならぬぞ。

 我が子に落人としての道を歩ませる。それは、幕府に対し無謀な戦を挑んだ九角家が当主の罪。自身に限ってのことであるならば後悔はない。寧ろ、権力に屈することなく愛する女を護り添い遂げることの出来た己を誇りに思っている。だがこの先、幼い子等が辿るであろう《道》を考えると鬼修の気持ちは暗くなった。逃げ隠れれば幕府より追われ。捕らわれ飼われれば、道具のように扱われる。
 決して平坦ではあり得ぬであろう人生。それでも我が子に生き延びて欲しい、と願うのは親の傲慢であろうか。
 そして出来ることならば、道行きがどんなに暗いものであっても花を愛でる心を失わずにいて欲しい。
 いつか、誰の目も憚ることなく自由に生活できる日が必ず来ると信じて。

―――家柄や身分に関わりなく皆が笑って暮らせるようになる、その時がくるまでな。

 鬼修は確かにそう告げたのだ。

「そうであった……」

(父は必ずしも復讐を望んでいたわけではなかったのだ)

 無論、それを知ったからといって始めた計画を頓挫させることなど出来ようはずもない。天戒自身にも、これまでの人生で培ってきた様々な感情がある。なにより、復讐を糧にすることでしか未来(さき)を見いだすことが出来なくなってしまっている村人達を見捨てるわけにはいかなかった。
 だが……。
「天戒、俺そんなに変なことを言ったか?」
 淵黙(えんもく)する男を龍斗が僅かに案じつつ覗き込む。天戒は静かに首を振ると、滑らかな絹の質感を持つ白い頬にそっと指で触れた。
「では、俺はそんなお前を護れるように強くあろう」
 龍閃組が幕府に吹き込んだ一陣の風ならば、彼こそが鬼哭村に現れた変化の兆し。己の――否、《鬼》達の凍り付いた心を溶かした春の息吹。
 復讐の念のみに囚われずとも許されるのであるならば、目の前に現れた春風を抱き留めることも許されるであろうか。
「違うよ、天戒」
 温もりを追うように、龍斗が頬をすり寄せる。
「俺がお前を護りたいんだ」
 哀しみに暮れる《鬼》達を護ろうとする情が。村を案じ続けるその優しさが。
 何より大切なものだと思えるから。
 何よりも愛おしいと思えるからこそ護りたいのだ。
 迷いなき口調に誘われ、天戒はしなやかな肢体を引きよせる。

(父上、どうやら俺は野辺の花よりもそれを散らす風に惹かれてしまったようです)

 背中に廻される温もりに思慕が募り、柔らかな髪に顔を埋めて天戒は目を閉じた。
 そこには善も悪もない。胸を満たすのは慈しみの心。腕の中の存在を愛おしいと感じる気持ち。
 風がひとつの場所に留まることはない。いずれはこの腕から逃れていってしまうのだとしても。今だけは、全身を浸すこの風を感じていたかった。

 初夏の風は、神鳴を呼び飄(つむじ)を巻き起こす。
 淀みを押し流す強き嵐の予感に心奪われ、足下の花は見えなくなっていた。

2002/10/01 UP
時代小説調を目指して見事に失敗した話……(涙)
リクエスト主である旦那様に草稿(笑)をお見せたところ、御屋形様が父親に花嫁を紹介する話だといわれてしまいました(爆笑)
そうみえますか?
題名は吹喜と書いて『すいき』と読みます。吹喜月とは五月を示す言葉です。
送りつける寸前になっていい加減につけたことが丸わかりな題名ですね(^^A;;