Chapter 02

 はあ~、遅いですねえ、坊ちゃん。
 まさか事故にでも遭われたのでは?!
 いえいえ、そんなわけはありませんよね。なんたって坊ちゃんがお出かけになったのは、この国で一番警護の厳しい所――赤月帝国の皇城なんですから。
 あああ~、それにしても心配です~。皇帝陛下との謁見の儀なんて大丈夫なんでしょうか。もちろんこのグレミオ自慢の坊ちゃんが、いくら偉大なる皇帝陛下の御前とはいえ、粗相をしたり物怖じしたりなんてことをするはずがありませんけれども。
「でも、本当に遅いですね~」
 坊ちゃんがお家を出られてから、何度見たか分からない柱時計をまた確かめてしまいます。晩餐の時間まで、あと1刻ほどでした。待っているときって、どうしてこんなに刻が進むのが遅いんでしょうかねー。
「グレミオ、そんなに心配しなくても坊ちゃんに限って問題があるはずがないだろう。テオ様だってご一緒なんだぞ」
 廊下を行ったり来たりしているわたしを見かねて、クレオさんが声を掛けてくださいました。
「わかってるんですけれど~」
 先ほどから手持ちぶさたに握り締め揉んでしまったために、エプロンの裾がすっかり皺になってしまいました。レースをあしらった清潔な白い布地が台無しです。あとでアイロンをかけ直さなくてはいけませんね。それから廊下の隅に少し埃が溜まっているのを見つけました。ちゃんとお掃除をし直さなくては……。
 気を紛らわせるために、日常のあれやこれやを考えていると、玄関の方から物音が聞こえてきました。
 微かに耳に届いてきた声音を、わたしが聞き間違うはずはありません。
「はっ、坊ちゃんっ!!」
「あ、ちょっとグレミオ?」
 クレオさんすいません~。お話はあとにしてください。
 坊ちゃん待っていてくださいね、ただいまグレミオが参りますから~。

「ぼぼぼ、坊ちゃ~ん。おかえりなさいませ。謁見はどうでした?皇帝陛下はなんと仰ってましたか?も~グレミオは心配で心配で~」
 涙を浮かべながら、待ちに待った幼い主の帰宅お迎えいたしました。
 お尋ねしたいことがたくさんありすぎて、言葉が追いつきません~。
「グレミオ。ちょっと落ち着け」
「あ、テオ様。いたんですか?」
 肩を叩かれて、やっと坊ちゃんの父君の存在を思い出しました。
「い、いたんですかとは何事だ」
 まったくお前はセラウィスのこととなると夢中だな、と苦笑される五大将軍がひとりテオ様。けれど、目を細めて坊ちゃんを見つめる彼の姿は厳格な将軍ではなく、一人息子を溺愛する父親そのものです。
「大丈夫だよグレミオ」
 グレミオが心配することなどなにもありはしなかったのだと、坊ちゃんがわたしにお話ししてくださいました。いつもと変わらない穏やかな微笑みにわたしもほっと胸を撫で下ろします。
「よ、セラウィス。待ってたんだぜ」
 タイミングを見計らったように、遊びに来ていたテッド君が二階から降りてきました。そのまま坊ちゃんと連れ立ってお部屋に篭もられてしまわれます。
 はあ~、やはりお年頃になると母親よりお友達の方が大切になってしまわれるんですかね~。
 そりゃあグレミオはお腹を痛めて坊ちゃんを産んだ本当の母君ではありませんけど。坊ちゃんが幼い頃から陰になり日向になり、それはそれは慈しんでお育てして参りましたのに。
 ちょっと寂しい気がいたしますねー。ですが、テッド君と仲良くなってから、坊ちゃんは随分と年相応の表情を見せてくださるようになりました。屋敷でひとり寂しく留守番することの多かった坊ちゃんは、周囲の大人達に対して、少し聞き分けが良すぎるようなところがありましたから、良い傾向といえるのでしょうね。



 テオ様が晩餐の時間までソニア様のお宅を訪問されるとおっしゃったので、お見送りに出ました。ソニア様はつい最近、引退されたお母様の後を継いで将軍職につかれた御方です。テオ様とはなんといいますかその……ですので、彼女は先々坊ちゃんの新しいご家族になられるかも知れません。
 年若い継母なんてと最初は思いましたが、もともとソニア様は幼い頃から坊ちゃんを実の弟のように可愛がっておられました。坊ちゃんも彼女の存在を屈託なく受け止めておられるようですからグレミオが心配するほどのこともないのでしょう。
「グレミオ、息子は近衛隊に配属されることが決まった」
 皇帝陛下の御前に出るために身につけられていた装飾品を受け取り、代わりにとお渡ししかけていた普段着用のマントを掴んだ手が震えました。
「坊ちゃんがですか?!」
 驚きです。坊ちゃんはまだ13歳でいらっしゃるのに。普通は15歳で軍事学校に入り1年間の学習を終えた後、見習いとして軍に配属されることになっています。なのに途中の経緯を飛ばしていきなり近衛に配属されてしまうなんて。確かに坊ちゃんはそれはそれは優秀な方でいらっしゃいますけれど……。
「バルバロッサ様は、あれに後を継がせることをまだ諦めていらっしゃらないのかもしれん」
 苦い顔で告げられたテオ様のお言葉に、わたしの気持ちも重くなりました。皇帝陛下が坊ちゃんに譲ろうとなさっている地位はこれ以上望むべくもない高見ではありますけれど。わたしとしては坊ちゃんにはささやかながら平凡な幸せというものを味わってほしいと思っていましたから。

 赤月帝国皇帝バルバロッサ陛下には、世継ぎの君がいらっしゃいません。
 第二継承権を持つのは陛下の甥御さんに当たられる方ですが、この御方は7年前の継承戦争で陛下に敵対した叔父君のご子息でいらっしゃいます。当然の事ながらあの戦争の折には父君の側に付かれて闘っておりました。現在は亡き父君を偲んで中央から離れた場所でひっそりと暮らされている――つまりは幽閉されているということですね――ので実質は権利を剥奪されているといって差し支えありません。
 その他も、ほとんどが先の戦争において敵方を支援された方達ばかりで。
 唯一、バルバロッサ陛下にお力添えしたのは末の妹君ただおひとりのみ。といっても、彼女の夫君が陛下を支援されたので必然的にそうなったというだけのことなのですけれども。
 しかも、妹姫は皇室の一員としてすら認められていない庶出の身の上。その出自を知るものはバルバロッサ陛下と彼女の夫君だけでした。
 そう、いまは亡き坊ちゃんのお母上のことです。

「多少皇室の血が流れていようと、あれに王位継承権などありはせん。だが、陛下は王妃様を亡くされてからめっきりとお気が弱くなられていらっしゃる。一向に新たな伴侶を迎え入れられようとなさらんのだ」
「陛下だってまだまだお若いのですから。時が経ち哀しみが癒えれば考え直されるに違いありません。新しいお后様を娶られて御子が誕生されないとも限りませんでしょう」
 溜息を吐くテオ様に気休めを申し上げるのが精一杯でした。
「そう願うしかあるまいな。しかし当面の問題は、息子の上司がグレイズになってしまったということにある」
「グレイズですか?」
 ……いけない。つい顔をしかめてしまいました。
 グレイズは評判の良くない人物です。弱者に厳しく強者に媚びへつらう……はっきり言ってしまうと人間の屑のような奴なのです。まさか、そんなのが坊ちゃんの上につく日がこようとはっ。
「あああ~わたしの坊ちゃんがあんな奴に顎でこき使われることになるなんて~。グレミオはグレミオは口惜しくて仕方がありません~」
 エプロンの裾を噛んで身もだえすると、テオ様がちょっとだけ身体をお引きになりました。
「う、うむ。そこでお前に後を頼みたいのだ」
「と、申しますと?」
「私は陛下の命により明日にも北方へ向けて出立しなければならなくなった。都市同盟との小競り合いが激しくなってきているようでな」
 そこで、クレオさんとパーンさん、それにわたしに坊ちゃんの補佐を任せたいのだとテオ様は申されました。もともとお家のご用をする使用人として仕えていた私はともかく、軍人としても実績のあるクレオさんとパーンさんを残して行かれるとは、テオ様の坊ちゃんに対する心配の度合いが窺えます。
 私はテオ様の期待にお応えすべく、胸を張りました。
「わかりました、おまかせください!このグレミオ、一命を賭けても坊ちゃんをお守りいたします!」
 握り拳を固めると、テオ様は「まあ、ほどほどにな」と苦笑を浮かべて労いの言葉をかけてくださいました。



 その後の晩餐の光景は、今でも忘れられません。

 暖かな色で揺らめく蝋燭の炎。
 悠揚としたテオ様の乾杯の声。
 グレミオのシチューはいつになくいい出来映えで。
 テッド君と坊ちゃんが歓談し笑いさざめく声がたゆたい。
 豪快に料理を平らげるパーンさんをクレオさんが嗜めて。
 これほど楽しく心和んだひとときは後にも先にもありませんでした。
 あの時は、日常の一幕とたいして気にも留めていませんでしたけれど。

 大切なことはいつも後になってから気付くものですね。

 ねえ、坊ちゃん。それでもグレミオには今も昔も変わらないことがひとつだけあるんですよ。
 それは、どんなことがあっても坊ちゃんをお守りしようということ。

 だから坊ちゃん。もしグレミオに何かあったとしても決して哀しまないでくださいね。
 グレミオの幸せは坊ちゃんがいつまでも幸せでいてくれることなんですから。
2002/02/04 UP
予想以上に変な人になってしまったグレミオ(汗)
これじゃ、親ばかなただのお母さんですよね。
もし、ソニアとテオパパが結婚していた場合、一番五月蠅い小姑となったのはこの人だったことでしょう。家事と坊ちゃんのことになると細かそうですからね、グレミオは(笑)