風韻

 枯れた陽射しが、教室の窓から深く差し込んできている。
 次の授業が始まるまであと5分というところ。
 昼食を終えたばかりの気怠げなひとときに、午睡を貪ろうと机に肘をついていた青年の意識を引き戻したのは、誰かが換気のために開けた窓から吹き込んできた冷たい風でも、次の授業の準備を始るべきだという高校生らしい責任感からでもなかった。
「へ?ひーちゃんの誕生日?」
 真神の聖女と詠われる女生徒の口にした名が、京一がもっとも心を預けている人物のものだったからである。
「もしかして知らなかったの?」
 美里と常に行動を共にする快濶な少女が、意外そうに首を傾げた。当然知っているものと思い込んでいたのだ。
「お前らこそなんで知ってるんだ?」
 反対に問い返えすと、
「転校初日に、女の子達に質問されて答えてたじゃない」
 と、単純明快な回答が戻ってくる。
「んな、昔のことなんか覚えちゃいねェよ」
「男の子はあんまり、お友達の誕生日なんて気にしないのかしら」
 拗ねた様子でそっぽをむいた青年に、美里が口元を綻ばせた。
「私達、日頃龍麻に何かとお世話になっているでしょう。こんな時ぐらいは彼のために何かしてあげたくて、少し前から小蒔と相談していたの」
 なるほど。だから次の授業――京一にとっては最悪なことに生物だったりする――の準備で相棒が席を外すのを見計らって声を掛けてきたのか。
 京一は女生徒達の後ろに控えている巨漢に視線を送った。
「大将も美里達に一口乗せられたクチか?」
「うむ。龍麻は3年になってから転校してきたろう。少しでも多くの思い出を作ってやりたいと、こいつらが言うのでな」
 背中を会わせて闘い、力を合わせて幾度も死地を潜り抜けてきた場面なら、嫌というほどに浮かんでくるのだが。
 美里達の望む『思い出』は、それとは違うものなのだろう。
「それで、皆で集まってささやかなお祝いをしようということになったのだけれど……ごめんなさい、急なことだったので京一君の都合を訊けなくて」
「いいんだよ。こいつの場合は自業自得なんだからさッ!」
 たっぷりと棘をまぶしてある科白に、身に覚えがありすぎて反駁できない青年は気まずそうに頭を掻く。
「特に予定はねェけどよ。どこでやるんだ?」
「如月君が自分のお家を使うようにって言ってくれたの。食べ物や飲み物なんかは、皆で持ち寄ることにして、ケーキは女の子達が焼くことにしたのよ」
「あいつがか?!なんだってまた……」
 およそ『お誕生日会』という響きに似つかわしくない忍者の顔が脳裏を過ぎった。ぽかんとして口を開けた肩を小蒔に叩かれる。
「そういうわけだから。京一は飲み物の担当ってことで、よろしく!」
 突然、割り当てを押しつけられ、京一は焦った。月末近くはいつも手元不如意なのだが、ちょっとした事件の後遺症で今月はとくにピンチなのだ。
「ちょっと待て、小蒔ッ!」
「春の花見の時みたいに、手ぶらで来られちゃ困るもん。今回は最初に言っておくからね」
「他に参加してくれる皆にも、少しずつ分担して貰っているの。京一君もお願いできないかしら」
 小蒔に続き美里からも頼まれる。
「龍麻には常日頃からさんざん迷惑をかけているんだ。こんな時ぐらい恩返ししておけ」
 とまで言われては断ることもできず、京一は渋々と了承した。

  

 閑静な住宅街の合間にひっそりと居を構える如月骨董店。
 静寂をこよなく愛する店主は、臨時休業の札を片手に店の奧・襖に隔てられた住居の方角から届く騒音に渋面を作った。
 それもこれもすべては数少ない心許せる友にして、上得意客であるところの緋勇龍麻のため。
 かけがえのない人のためなのだと、如月は震える拳に向かって何度も言い聞かせる。

 事の起こりは2日前の火曜日。とある暗殺組織の権力闘争に巻き込まれる形で行方を眩ませていた蓬莱寺京一が、相棒の傍らへと戻ってきた翌日のことだった。
 龍麻の誕生日プレゼントを探して真神の女生徒二人が店先を訪ねてきたのだ。
「きちんとお祝いをしてあげたかったのだけれど、皆を呼べるような場所を探す余裕がなかったものだから」
 せめてプレゼントだけでも渡したいのだという。
「あの馬鹿がいなくなったりなんかするからだよ。だから準備どころじゃなくなっちゃったんだッ!」
 肩を怒らせ、小蒔が鼻息を荒くした。
 『馬鹿』というのは、もちろんかの『自称・真神一のイイ男』のことである。花より団子の少女が彼の身を案じ、食欲を落としていたという話は如月も小耳に挟んでいた。心配していた分だけ怒りの度合いも大きいのだろう。喧嘩ばかりしているように見えても、深いところでは互いを大切な仲間と認めているのだから。
「しかし、こういってはなんだが、僕の店で取り扱っているのは骨董品と戦闘に役立てるものばかりだ。誕生日を祝う品なら別の場所で探した方がいいんじゃないのかい?」
 彼女たちがあまりにも真剣に陳列品と顔を付き合わせていたため、つい商売気抜きで進言してしまう。
 美里は頬に手を当て、嘆息を漏らした。
「ええ。実は他の場所もいろいろと見て回ってきたのだけど……これといったものが見つからなくて」
「お洋服にしようとか、食べ物にしようとか、ボク達すっごく悩んだんだ。けどさ、ひーちゃんってどんなものが好きなのかいまいちよくわかんないんだよね」
「龍麻なら、どんなものでも喜んでくれるだろうに」
「でもさ、やっぱり心から貰えて良かったって思ってくれるものをあげたいじゃない」
 だが、彼の好みを想見し、彼が必要とするものを惟た(おもんみた)とき、何ひとつ浮んでくるものがなかった。
 出逢って半年以上も経つのに、そんなことさえ自分達は知らなかったのだ。
「それで、結局ここへきたのかい?」
「実戦に使うものだったら、少なくとも邪魔にされることだけはないでしょう。それは、闘いとは関係のないものを贈れたら一番なのだけれど」
 聖女の貌に、憂色が滲む。
「すぐに忘れられてしまうものではなくて、深く印象に残るものを贈りたかったの。いつか龍麻がそれを見たとき私を思い出してくれるように……」
 それが叶わないのなら、せめて役に立つものを――使ってもらえるものを渡そうと考えた。
「葵ってば。そんな言い方、まるでひーちゃんがボク達から離れていっちゃうみたいじゃないか」
 親友に咎め立てられ、物思いに沈んでいた美里は愁眉を開く。
「そうね、ごめんなさい小蒔。でもこれが私の偽らざる気持ちであることも確かなの」
 彼女と同種の想念は如月の中にもあった。
 拳武館の一件により、自分達は決して不死身ではないことを思い知らされた。
 自分も大切な人も。いつ死んでもおかしくはない場所に立っていることに気づかされてしまったのだ。
 いつ果てるとも知れない命。いつ尽きるとも知れない絆だからこそ、彼と分かち合う『今』を大切にしたい。

 もし、自分の命運が志半ばで閉ざされようとも。
 もし、彼が自分達の前から姿を消す日がこようとも。

 縋る縁(よすが)となるような鮮やかに甦る『今』を彼との間に築いておきたかった。
「僕の家を使うといい……」
 店主の口を突いて出たひと言に、二人の少女が目を丸くする。
「如月君?」
「龍麻の誕生日を祝いたいのは君達だけじゃない」
 寧ろ、学校が異なるために頻繁に会えない者達の方が、龍麻と接する機会を持つことを切望しているといってよい。
「僕の家は古いが広さだけはある。多少人数が集まったところで問題はないだろう」
「ホントにいいの?」
 厭世傾向のある若旦那の意外な申し出に、小蒔は重ねて確認を取った。
「かまわないよ」
 少女達の一途な想いに共感したのか。皆で騒ぐのもたまにはいいだろう――と、その時は考えたのだ。

「あーっ!その鶏肉!俺様が食おう思っていたのに」
「狙った獲物は逃さない、これが漆黒の貴公子と呼ばれるコスモブラックの実力さ。やっぱり如月さんの一番弟子となるのは俺しかいないな」
「ハハハ。ヒスーイ、ビールがもうなくなってしまったのデスが、お変わりはまだデースか?」
 ……やはり、少し早まったかも知れない。
 店仕舞いを終えて戻った如月の顳に血管が浮かび上がった。
「もう少し静かにしてくれたまえ。近所迷惑だ。君達には遠慮という言葉がないのか」
 無駄とは知りつつ忠告を試みた後、主賓の姿を求めて部屋を見渡す。
 佳人は騒がしい一団から少し離れた場所で、障子に背もたれて月を見上げていた。
「龍麻、主役がそんなところでどうかしたのかい?」
 周囲の者達の注意を引かないよう、気を配りながら近づく。
 途中、紫暮の背後に置かれていた一升瓶を音も立てずにせしめた手腕は、さすがは飛水流の末裔といったところだ。
「すまなかったね」
 隣に腰を下ろし、残り少なくなっていた青年の杯に酒を継ぎ足す。
「翡翠?」
「君の意見も聞かずにこんな催しを開いてしまって」
 龍麻は仄かに甘い命の水を口に含んだ。
「一番迷惑を被ったのは翡翠だろ?俺は皆の気持ちは嬉しかったし……」
「じゃあ、君が楽しそうに見えないのは、やはり『彼』がいないせいかな?」
 皆が集まり、宴が始まって数刻が過ぎた今となっても姿を現さない相手。

 杯を持つ手がぴくりと震えた。

「俺は別に京一なんていなくたって……」
「ああ、そういえば蓬莱寺君もいなかったか」
 たったいま気づいたとでもいう風に、如月は涼しい顔で言い退ける。龍麻は少しだけ怨みがまし気な視線を向けた。
「今日の翡翠は意地が悪いな」
「君が素直じゃないのは今日に限ってのことじゃないけどね」
 鮮やかに切り返して、口元に笑みを佩く。
 龍麻は黙って、手にした杯に視線を落とした。
 淡い影を作る睫毛の儚さに、若き店主の胸がざわめく。
 意地悪が過ぎたかも知れないという罪悪感が胸を過ぎり、しかして同時に小さな波紋に描かれる面影が自分ではないことに対する嫉妬の念が湧き上がる。
 他者に対してこんなにも執着する己の心のありように如月は苦笑した。以前では考えられなかったことだ。
「君が心配するのは当然のことだ。彼が危険な目に遭ったのは、ついこの間のことなんだからね」
「京一はあれで馬鹿じゃない。同じ過ちは繰り返さないよ」
 強さへの慢心が、八剣に対する敗北を招いたことを京一は承知している。二度と自戒を崩すことはないだろう。
「敵に対してはそうかもしれないがね」
 青年が行方知れずとなったのは彼自身の意志によるものだった。闘いを倦厭し、再び姿を消さないという保証はない。
「どこへ行こうと京一の勝手だ」
「君には関係ないことだというのかい?」
 冷めた物言いに如月は眉宇を顰めた。龍麻は相変わらず手の中の杯を弄んでいる。
「……俺には止められないからな」
「君以上に彼を止める権利がある者はいないと思うが?君は彼の相棒だろう」
 しかも、龍麻は京一の想い人でもある。青年は佳人に対する情をもはや隠そうとはしておらず。あれだけあからさまな視線を向けられていれば、いくら鈍くても気づかないわけがない。
 龍麻が強く望めば、青年は必ずやそれに応えるだろう。
「好意につけ込んで一方的に貰うばかりなのは卑怯だと思わないか?」
 告げていない言葉があり、告げてはならない想いがある。
「京一が求めるものを俺が与えることはできない以上、あいつから自由を奪うわけにはいかない」
「蓬莱寺はそんなこと百も承知だと思うけどね」
 庭先からふいに第三者の声が上がった。龍麻は首を巡らせると、仄かに目容を緩める。
「壬生……」
「それでも尚、彼は君を求めている」
 闇から抜け出すがごとく姿を現した青年に、ではこれが新しく仲間になった拳武館の生徒なのかと如月は察した。
 美里達から龍麻が随分と気に入ったらしいと聞いてはいたが。なるほど、込み入った話を聞かれても困らない程度には気を許しているらしい。
「呼び鈴を押しても返事がなかったので、勝手に上がらせてもらいました」
 家主に向かい、壬生は折り目正しく頭を下げた。如月は背後を苦々しく睨め付けながら頷く。
「かまわないよ。龍麻の仲間であるというのなら、僕にとっても友人になるからね」
 酒はそろそろ底をつくというのにどうやって酔いを重ねたものか、怪しげなメキシカンとレンジャー隊員を中心に騒ぎは大きくなる一方だ。これでは何度呼び鈴を押されようとも、気付かなかったに違いない。
 壬生は龍麻に向き直ると、噛んで含めるように言を継いだ。
「秘密のない人間なんていない。家族や仲間に対してさえ……いや、大切に思っていればこそ尚更に言えないこともある。けれどだからといって、自分の気持ちまで否定してしまうのはどうかと思うよ」
 壬生もまた、病に伏せっている母親に自分がどうやって金を稼いでいるかを告白できずにいる。いずれは知られ、断罪される時が来るのだとしても。
 青年が彼女に抱いている情に偽りはない。
「彼の言うとおりだ。僕も以前は己の役目を悟られる危険性を回避するために周囲から一線を画してきたが。近頃は秘め事は秘め事としても結んだ誼を厭うことなく大切に育てていきたいと考えている」
 友情の尊さを教えてくれたのは、真神のメンバーであり仲間達だというのに。肝心の龍麻が壁をつくってどうするというのか。
「俺は……」
「HAHAHA!ナニをしっとり話てるんデスか、アミーゴ!!」
 太く力強い腕が龍麻に回された。
「そうだぜ師匠!ここだけで世界を作ってないで、おれっちとも正義について熱く語り明かそう!」
「紅井君、別に僕達は正義について論じあっていたわけでは……」
 ないのだが。
「お邪魔しまーす。すいません、いくら呼んでもどなたもいらっしゃらなかったので、勝手に入らせて貰いました」
 壬生の背後から、爽やか好青年を地でいく霧島がひょっこりと顔をだした。
「あッ!龍麻先輩。お誕生日おめでとうございます!壬生さんもいらしてたんですね」
「おはようございます、龍麻さん。わたしからもお祝いを言わせてくださいね」
 少年と連れだって現れた少女が、テレビに映っている時よりも格段に輝く笑顔を龍麻に披露する。
「俄に、騒がしくなったね」
 酔いに任せて乱暴に肩を叩かれている龍麻に、壬生が肩を竦めてみせた。
 これではゆっくりと語り合うどころではない。
 如月は素早くアランの手から麗人を奪い返した。
「アラン、馬鹿力で龍麻に乱暴を働くんじゃない。紅井は自分で食べ散らかした分を片づけたまえ。雨紋と黒崎もだ!壬生、いつまでもそこに立っていると風邪を曳く。残りの二人も早く上がりたまえ」
 てきぱきと指図して、龍麻には何時の間にとってきたのか上着を着せ掛ける。
「ご覧の通り、人数が増えてしまったからね。飲み物が足りないんだ。悪いが調達係りを探してきてくれないか?」
 どこかで道草を食っているようなら首根っこを捕まえても連れて帰ってきてくれと頼み込み、断る隙も与えず玄関口に送り出した。
「えっ、京一先輩まだ来てないんですか?」
 それなら僕が……といいかける霧島の背中を、さやかが押す。
「ここは龍麻さんにおかませしましょう霧島君。わたしお腹空いちゃったわ」
「え、でもさやかちゃん」
「うふふ。ふたりとも、さやかちゃんの仕事場から直接来たのでしょう。疲れているのにまた寒い中を出掛けるなんて大変だわ。それに、京一君の行き先なら龍麻の方が心当たりがあるでしょうから」
「美里さん」
「美里?」
 どこまでの会話を聞いていたものか、絶妙のタイミングで現れた聖女に龍麻は目をしばたたく。
「ああ、そうですよね。なんといっても龍麻先輩と京一先輩は相棒なんですから」
「ええ、そうね。さあ、二人とも中へ入って。急がないとケーキがなくなってしまうわ」
 美里は如月にちらりと目線を送ると、霧島を促してさやかとともに居間へと戻っていった。
「どうやら君を心配していたのは、僕だけじゃないようだ」
 如月はここへきてようやく、周囲の者達が龍麻を遠巻きにしていた理由に気付いた。元気のない青年に彼等はどう接して良いか分からなかったのだ。異様な盛り上がりには、龍麻に気を遣わせまいとする配慮も含まれていたのだろう。
「観念していっておいで、龍麻」
 普段の彼を知るものからすれば想像できないほどの柔らかな表情で、壬生が青年の首にふわりとマフラーをわたした。
「外は寒い。よければこれを使ってくれ」
 龍麻は肌触りの良い編み地を指でなぞる。
「壬生、これ……」
「僕からの誕生日プレゼントだよ。急いで作ったからこんなものしか用意できなかったんだけど」
 飾り気のない真っ白なマフラーは、かえって佳人によく似合っていた。
「……君が編んだのか?」
 わずかに目を瞠った如月に、「裁縫は得意ですから」とアサシンはすました顔で告げる。
 龍麻はここへきて始めて自然な笑みを作った。
「ありがとう翡翠――紅葉」

 寒空の下、他の誰かの元へ駆けていく想い人を、複雑な気持ちで見送る。
「……もう少し早く出逢っていれば……と、いうのは負け惜しみなんでしょうね」
 仲間になったばかりの青年の溜息に、店主は首を振った。
「こればっかりは、どうにもならないだろう」
 単に過ごした時間の長さをいえば、美里や小蒔とてあの木刀男と同程度には龍麻と共にいたのだ。それでも、彼は京一を選んだ。
 問題は出逢えた時期ではない。

 人の気持ちがどこを向くのかは、本人にしかわからない。
 時には本人にさえままならいこともある。

 龍麻が口ではなんと言おうとも、京一を胸の一番奥深い場所へ受け入れてしまっているように。
 如月が、宿星の定めし運命を超えたところで『稀なる器』に惹かれているように。
 この先、彼の気持ちが自分に向くことがないと分かっていても。心に宿る火が消え去ることはないだろう。

「僕たちも中へ入ろう。……君のことは、龍麻に倣って紅葉と呼んでいいかな?」
 おそらくは、同じ切なさを内包する相手に向かい、飛水流の後継者は手を差し出す。
「光栄ですね、如月さん」
 暗殺者の青年は穏やかな瞳でこれに応えた。

  

 一升瓶とジュースのペットボトルの入った袋を手にした京一は、眠りにつこうとしている住宅街を足早に進んでいた。身を切るような風に、ぶるりと躰を震わせる。
 すっかり遅くなってしまった。
 小蒔に命じられたノルマを果たすために京一は、ここ数日を短期割高なバイト――いわゆる力仕事系――に費やさざるを得なかった。
 放課後はバイトに潰され、卒業が危ぶまれるために授業を抜け出すこともままならず。やっと手が空いたのが今日の午後のこと。
 それからこの時間になるまでずっと、あるものを求めて街中を彷徨いた。
「小蒔あたりに、怒鳴りつけられるだろうなァ」
 約束の刻限から、すでに2時間以上が経過している。
 龍麻は待っててくれるだろうか……。
「まァ、美里達もいるし、霧島達も顔を出すとかいってたから、それなりに楽しくやってるんだろうけどよ」
 もしかしたら、自分のことなんて思い出されてもいなかったりして。
 ……それは侘びし過ぎる。
 うっかりと抱いてしまった可能性に、京一は肩を落とした。
「気持ちが暗くなるのは寒いせいだよな。早いとこ骨董屋に行って暖まるか」
 飲み物とは反対側に下げていた紙袋を小脇に抱え直す。早足を駆け足に切り替えようとしたところで、馴染んだ気配が近づいてきた。
「ひーちゃんじゃねェか。何してるんだこんなところで?」
 薄墨の向こう姿を現した姿に目を見開く。
 龍麻は迷いのない足取りで目の前までくると、憮然として口を開いた。
「お前を迎えに来たに決まってるだろ」
 一瞬、明日は雨か?などと相棒に知られれば殴られること必定の感想を抱いた青年は、すぐに理由に思い至る。
 自分が仲間を置いて逃げ出したのは、つい先日のことだ。失った信用は簡単には取り戻せない。またいつ、いなくなるやもしれないと疑われてもしかたがないだろう。
「悪ィ。心配かけたみてェだな」
「別に心配なんかしてない。翡翠に飲み物が足りなくなったから調達係を呼んでこいと云われて、しょうがなく迎えに来ただけだ」
「如月のヤローが?」
 あの黄龍様贔屓の亀が、龍麻を使いに出すとは珍しいこともあるものだ。
「暴走気のある相棒の面倒ぐらいちゃんと見ておけってことらしい。ほら、いつまでも突っ立ってないでいくぞ」
「あ、待ってくれひーちゃん」
 如月の家には大勢の仲間達がいる。
 せっかく二人きりになれたのだ。邪魔の入らないこの機会を利用しない手はないと、紙袋の中身を呼び止めた相手に向かって差し出した。
「俺からの誕生日プレゼントだ」
「京一……お前、今月かなり苦しいって嘆いてたじゃないか。こんな無理して大丈夫なのか?」
 感謝と云うよりは、呆れを多分に含んだお言葉に、京一は気落ちする。
「あのな、ひーちゃん……」
 ふっ、と笑む気配が伝わった。
「まあ。気持ちはありがたくもらって置くけど。……中身、何か訊いてもいいか?」
 さすがに、こんなところで開くわけにはいかない。
「こないだひーちゃん家でコーヒーカップ割っちまったろ。その代わりだ」
 さほど高い品物ではないが、焼き物のぬくもりを感じさせる落ち着いたデザインが気に入っている。これに決めるまで随分とあっちこっちを歩き回ったのだ。
 龍麻は手渡された包みに視線を落とす。
「コーヒーカップ?それにしては包みが大きくないか?」
「ふたつ入ってるからな」
 正確には京一が買ってきたのは、マグカップだった。
 龍麻の家にある茶器はどれも瀟洒なデザインだが、気軽に飲み物を口にする雰囲気のものではない。
「これだったら量もたくさん入るしよ。色違いだから、ひーちゃんが気に入った方を使って残りは俺専用な」
「………俺の家に私物を持ち込むなっていつもいってるだろ」
 俯き龍麻が低く唸った。
「いいじゃねェか。カップの一個や二個置いておいといたって邪魔にはなんねェだろ」
「自分の分は持って帰れ」
「ひーちゃん?」
 頑なな態度に驚く。拒絶されているのだろうか。
「うちに預けておく気なら」
 ぽつりと龍麻が言う。
「ちゃんと責任持てよ。置き去りにしていくことは許さないからな」
「……へ?」
「他人の物を勝手に捨てるわけにはいかないだろう。置きっ放しにされると片づける時に困る……」
 視線を外し、桜色の唇から白い息を吐き出して。訥々と語るその内容はといえば。
「……ひーちゃん」
 ペットボトルが鈍い音を立ててコンクリートに落ちた。
 覆い被さってくる体重を受け止めた龍麻が、バランスを崩した包みを慌てて抱え直す間に吐息をかすめ取る。
 手にした包みごと懐深く抱き込んで、冷えたそこに温もりを伝えることに専念した。
 腕の中の人物はわずかなに身じろいだが、手の荷物に邪魔されているのかそれ以上の抵抗はない。
「ひーちゃん……龍麻……」
 これ幸いと京一は思う様甘やかな感触を味わった。何度も角度を変え息を継ぐ合間に名前を呼ぶ。
「……は…ッぁ…きょ…いち…」
 息苦しくなったのか抗議の声を上げる佳人の目を、これ以上ないほどの至近距離から覗き込んだ。
「ひーちゃんが悪いんだぜ?んな、可愛いこと言うからよ」
 赤く染まる眦に唇を滑らせ、耳元に低く囁きかける。
「俺がいつ!」
「だってよ、それって俺に黙っていなくなるなってことだろ。俺が消えるのが龍麻は嫌なんだよな」
「そうじゃな……っ!」
 否定しかけて息を呑んだ。いつのまにか白いマフラーの結び目が解かれている。
 首筋にかかる熱い吐息。顎のラインを朱色の髪にくすぐられる。知らず指に篭もった力が包装紙に皺を作った。
「んっ。な、なにして……」
「俺はどこへも行かない」
 肌に染み込んでくる情感。皮膚を辿っていく刺激に思わず声が上がる。
「いい加減なこと……言うな……」
 びくりっと身を竦ませる背中に掌を滑らせながら、京一ははっきりと気持ちを口にした。
「嘘じゃねェ。約束するからよ」
「……………俺は、そんな約束できない」
 包みを堅く抱きしめ、龍麻が苦しげに眉根を寄せる。
「できないよ、京一」
 真実を明かすことも、気持ちを返すことも出来ない自分には。
「かまわねェよ」
 至極あっさりとした口調で京一が答えた。
「俺はそうするってだけのことだ。お前はお前の好きにしたらいい」
 龍麻に何か事情があることはわかっている。強制するつもりは毛頭ない。
「京一……」
「お前がいなくなったときは、死に物狂いで探し出してやる。けどよ、そう簡単に俺を出し抜けると思ってもらっちゃ困るぜ?」
 離れていた間、どれだけこの人物に傾倒していたのかを嫌というほど自覚させられた。他の男に庇われている佳人をみて、その役目は自分のものであると、彼の隣に立つのは自分だけだと改めて認識したばかりである。
「……馬鹿」
 ぺしりと龍麻が京一の額を叩いた。
「いつまでくっついてるつもりだ。翡翠達が待ってるんだ、いい加減帰るぞ」
「ひーちゃん……」
 人がせっかく真面目な話を……と続けようとした京一は息を呑んだ。
 どこか照れくさそうに、浮かべられた龍麻の微笑みは。
 花が咲き零れるほどに柔らかく、優しげなもの。
「ひーちゃ……」
 目を見開く京一に、艶やかなるその彩が軽く押し当てられた。

 誰もが秘密を抱えている。
 譲れない領域を持っている。
 いずれ、すべてが白日の下に晒される時がくるのだとしても。
 いつか、偽りの上に築かれた絆に亀裂が走るのだとしても。
 今はただ、嘘と誠の狭間を曖昧に漂っていればいいのかもしれない。
 薄闇の中、底辺を流れる混沌を覆い隠して。
 青年がくれた想いの形をしっかりと腕に抱き直す。

「プレゼントをありがとう京一……うれしかった」
 幻のように淡く風に乗せられた韻律は、確かに龍麻の有する真実の音。
 身を切るような寒さは、いつの間にか気にならなくなっていた。

2001/12/31 UP
リクエストはひーちゃんの誕生日でらぶらぶでした。
短く軽くすっきりと!を目指してたはずなのに……(T-T)
違う……激しく違う。どうしてなんでしょうね(大泣)
できあがってみるとまったくオチがないものになってしまったので、別にオチの部分をつけてみました。
心の広い御方だけどうぞ。