心の隙間を風が吹き抜けていく。
滅んでいく仇敵を前に感じたやりきれなさが精神を苛む。
胸の奥にぽっかりとあいた空洞が、活力を吸い込んでいく。
虚しい、と感じるのは後悔……しているから、なのだろうか――。
その電話が掛かってきたのは、弦月が中国への帰省を考え始めたある午後のことだった。
電波を通して伝わる実の兄とも慕う人の声に、一も二もなく肯きを返して。指定された場所へと韋駄天走りに飛んでいった。
「アニキー、おまっとさんッ!」
桜ヶ丘病院のロビーに佇んでいた麗人が、呼びかけに顔を上げる。簡素な病院の空気さえ暖かみのあるものへと変えてしまう微笑みに、弦月の気持ちは浮き立った。
「急に呼び出したりして悪かったな」
「謝る必要なんてないって。アニキがわいを頼ってくれて嬉しいわ」
「助かるよ。とりあえず一緒に来て貰えるか?向こうで藤咲達が待ってるんだ。詳しい話はそこでするから」
案内されるまま、病棟の個室へと足を向ける。
掲げられたプレートには、嵯峨野麗司という名前が記されていた。
「龍麻ッ!劉も来てくれたんだね」
扉を開けると、沈痛な面持ちで椅子に腰掛けていた藤咲が即座に反応する。すぐ傍には御門と式神の芙蓉、この病院の院長であるたか子といった顔ぶれが並んでいた。
珍しい取り合わせである。詳細に触れていない弦月には、何が始まるのか見当もつかない。
「よく来たね。待ってたよ」
腰を浮かせた藤咲の肩を押さえて再び座らせ、たか子が前に進み出た。
「彼の様子はどうですか?」
龍麻の視線の先には、紙のように白い顔で横たわる小柄な少年の姿がある。恐らくは彼が嵯峨野なのだろう。
「よくないね。このままじゃ長くはもたないよ」
霊的施術の第一人者が、硬い表情を隠そうともしない。弦月は龍麻の袖を軽く引いた。
「アニキ?このお人は誰なんや?アニキの知り合いか?」
「……麗司はあたしの友達(ダチ)だよ」
そして、かつては龍麻の敵だった奴なのだと、藤咲は俯き加減に語る。
己の夢に他人を取り込む能力を持っていた嵯峨野はその《力》を、自分を虐げた者達への復讐に用いていた。同じく虐めによって弟を自殺に追い込まれた藤咲は、弟の供養代わりにと彼に力を貸し与えていたのだ。
「復讐……」
弦月の唇が微かに戦慄く。過去に想いを馳せる藤咲は、小さな呟きに気づかなかった。
「なにも自分が死ぬことはない。それくらいなら相手を殺してやればいいって、あたしが麗司を焚きつけたんだ」
人にない《力》を得たことで強くなったのだと勘違いして。自分達の心を満たすために、平気で他者を踏みつけにした。
「暴力で相手をねじ伏せるなんてさ。結局、あたしらも虐めをしていた奴等と同じ事をしてただけなんだよね。龍麻達と闘ってそれがよく解ったんだ。けど麗司は……」
敗北を受け入れられずに、夢の世界に逃げ込んでしまった。自分が弱いことを認めてしまったら、屈辱的な生活に戻るしかないのだと思い込み、眠り続けることを選んでしまった。
「あたしさ。麗司が目覚めたら今度こそ、役に立てるようなことがしたいんだ。本当の強さがどんなものなのかを、きちんと伝えてあげられたらって考えてる」
復讐なんて歪んだ形ではない勇気を教えてあげたい。
「しかしその願いも、彼が死んでしまっては露と消えてしまいます」
藤咲がびくりと肩を震わせた。冷淡な陰陽師の言葉に弦月もどきりとする。
「どういうことや御門はん」
「わかりませんか?」
優美な指先に挟まれた扇が、すっと眠る少年の胸を指した。弦月は初めて話題の主をじっくりと見分する。
「えらく《氣》が弱っとるようやな。しかも、時々呼吸に混じって漂ってくる、この嫌な感じは……」
「そう、妖の気配さ。嵯峨野の弱っている精神の隙をついて入り込んじまったみたいだね」
たか子が嘆息した。
「え?せやかてこの病院は霊的な防犯措置は万全なんじゃ……」
「どんなに優秀な装置を使おうと、個人の夢にまでは干渉できないよ」
「妖魔の中には人の夢を渡り歩いては寄生し、思念を養分として成長する種のものがおります。この方に取り憑いたのもその手合いかと」
芙蓉が慎ましやかに意見を述べる。
「放っておけば、魂魄までも吸い尽くされてしまうことでしょう」
「じゃあ、わいはこのお人を助ける手伝いをするために呼び出されたっちゅーことか?」
確認のために問いかけると、龍麻が頷いた。
「協力してくれるか?」
「そら、かまへんが……」
縋るような眼差しを向けてくる藤咲を無視できるほど人非人でもなし。
「具体的には、どうすればいいんや?」
「私達も彼の夢に入り込み、直接妖を取り除くしかありませんね」
そのために私が呼ばれたのですよ。
では自分は何のために呼ばれたのだろうか、と弦月は考えた。陰陽の術ならば御門だけで充分である。たか子がいるなら『活剄』もさほど必要とはならないだろう。補助、回復能力なら美里や高見沢の方が適しているし、戦闘能力においては龍麻を相棒と呼ぶ青年に遠く及ばない。
疑問を抱きつつ自分を呼びだした人物を窺う。返された視線は仄かに優しい色を灯していた。
自分も連れて行けと言い張る藤咲を説き伏せ。夢の世界へは龍麻、弦月、御門の三人で降り立った。芙蓉の焚く眠りの香に導かれ、精神の奈落をどこまでも下っていく。
「何があっても私からはぐれないようにしてください。帰れなくなりますからね」
芙蓉と意識を繋げることで現世への帰り道を確保している御門が忠告した。
「真っ暗やな……」
弦月はあたりを見渡す。躰にまとわりついてくる黒い霧以外なにひとつない。人の夢というものはこんなにも空疎なものなのだろうか。
―――……シ……テ。
(なんや?)
ふわりと耳元を掠めた声に、弦月は目をしばたたく。幻聴かと思ったか、声はまたすぐに聞こえた。
―――ドウシテ、僕バカリガ……コンナ目ニ遭ウンダ。
首筋を撫で上げてくる風に溶けた嘆き。心の奥底を寒からしめる空気に何故か既視感を覚えた。
「……この声、嵯峨野はんのか?」
込み上げてくる不快感を、口元を引き結び振り払う。
「声ですか?私は何も感じませんが?」
神経を研ぎ澄ませ辺りを探った御門が、龍麻を振り返った。青年は首を振る。
「俺にもわからない。劉、どっちから聞こえてくるんだ?」
「あっちの方からや」
感性の導くまま指を上げた弦月は、己の指し示した方向に目を凝らして、あっと息を呑んだ。
「アニキっ、御門はん。あれ……」
濃霧の彼方にぼんやりと浮かび上がる陰影。
虚無に根を張りしそれは1本の巨木であった。
どす黒い瘤の突き出した細い蔦が、絡み合うようにしてできた幹。四方に伸びた細い枝先には、花のかわりに禍々しくも紅い光を放つ果実がたわわに群生している。
しかし、なによりも弦月達を驚かせたのは――。
梢を打ち鳴らし、枝が震える。
幹が脈打ち、大きくうねった。
結びついた蔦が解け、隠されていた洞(うろ)が露わになる。暴かれた光景の醜悪さに、弦月は吐き気を覚えた。
刮げ落ちた頬、窪んだ眼窩、虚ろな瞳。粘着質のある樹液に全身を侵された少年の姿がそこにはあった。
「―――嵯峨野」
龍麻が柳眉を顰める。御門の秀麗な顔に憂いが過ぎった。
「まずいことになりましたね。これでは迂闊に手が出せません」
へたにあの妖樹を傷つけると、嵯峨野にまで害が及んでしまう。
「ええッ!?どないするんや?!」
声を張り上げた弦月を陰陽師が嗜めた。
「あまり大きな声を出すと敵に気づかれますよ」
「もう遅いみたいだ」
龍麻の警告に被さり、頭上から気配が迫る。弦月はとっさに飛び退いた。その残像を鞭のごとく伸びてきた細い枝が貫く。鋭利な先端は木の棘というよりはフェンシングの切っ先を連想させた。
奥から手前へと数センチ刻みに突き刺さってくる枝を、三人は互いに邪魔にならない距離を測りながら、右へ左へと躱していく。
「うぉッ!?すまん、お二人さん」
「しょうがないですね」
「遅かれ早かれこうなっていたろうから、劉が責任を感じることはないよ」
何度も死線を切り抜けてきたのは伊達ではない。3人はさほど息を乱すこともなく最小の動作で敵をあしらう。
粗暴な動きに耐えきれず、枝を飾っていた果実がぱらぱらと剥がれ落ちた。
地に跳ね返り、爆ぜた中から幼児ほどの大きさをした木の人形が現れる。荒削りな木目の全身をぎこちなく動かして起きあがる様は、安っぽい操り人形のようだった。カタカタと乾いた音を立てて開閉する口は、自由になった悦びと居心地のいい楽園を追われたことへの不満のどちらを表現しようとしているのか。
「これはまた、随分と可愛らしい歓迎を受けたものですね」
一気に倍増した敵を、年若い陰陽師は涼しい顔で見渡す。
「あんさん……本気で言うとるか?」
不自然な動きで首だけを巡らし、一斉にこちらを向く人形達に弦月は鳥肌を立てた。どこをどうすればあれを『可愛い』などと形容できるのか伺いたいものだ。
「まさか、そこまで趣味は悪くありませんよ」
御門はすました顔で答え、懐から細長い符を取り出した。
「少しは楽しませてもらいましょうか。式招来・法城ッ!」
真言を唱えながら符を放つ。陰陽師の《念》が込められた和紙は、人形のもっとも密集した場に飛来すると剣を持つ小さな童子の姿に変じた。芙蓉と同じく呪符を依代として召喚した式神、護法天童である。
龍麻は上空から絶え間なく降りそそぐ棘を躱し、側面に緩く拳を当てることで力を上手に外へと逃がしていた。まとめて吹き飛ばすことも可能だが、本体が残っている以上は甦生を繰り返されるだけである。無駄に体力を削りたくなかった。
―――僕ハアイツラニ思イ知ラセテヤリタカッタダケダ。復讐シテ何ガイケナインダ……
鼓膜を震わせた『復讐』という単語に、青竜刀を構えていた少年が躰を強張らせる。
「劉ッ!!」
隙をつき、かぱりと開いた口から鋭い牙を覗かせて敵が襲いかかってきた。反応が遅れた弦月の正面に滑り込む人影。木細工にしてはそこだけ生々しく紅い口内に向かって拳が突き出された。華奢な躰からは考えられない圧倒的な《力》が、人形の頭部を破裂させる。
「アニキっ!!」
続く第二弾、第三弾の襲来には、いまや四方から攻撃してくる木梢と合わせて回し蹴りを喰らわせることで応えた。《氣》の充分に篭もったそれは、昇龍の勢いをもって妖の尖兵達を弾き飛ばす。
「こっちは大丈夫だ、劉は後方の敵にあたれ!」
闘いの最中に気を散じることは死を意味する。弦月は気を引き締め直した。反り返る刃に光を散らし、人形の節目を狙って振り下ろす。
龍麻の技とは対照的に、龍が尾を打ち下ろすがごとき鋭さを持ったそれは、異形の絡繰り達を粉々に打ち砕いた。
「いつまでもこうしていては埒があきませんね。なにか対策を立てなくては」
小さな仏法の守護者を操る御門は、木片へと変わった人形に霊水を振り掛ける。原型を失って尚、蠢いていたモノ達が白い煙を吹き上げた。本体に直結していない傀儡(ぐくつ)は、再生を阻まれ跡形もなく消えていく。
「……樹木の部分だけを石化することはできないかな?」
思索に更けりながら龍麻が言った。
「樹木だけですか?やってみないことにはわかりませんが」
「わいと御門はんが力を合わせればなんとかなるんやないか?」
「頼む。ちょっと荒療治だけど、うまくいけば妖魔と嵯峨野を剥離できるかもしれない」
最悪、嵯峨野まで石化させてしまっても御門の術で呪を解くことができる。結果を気にせずに済むのだから試す価値はあるだろう。
「小物は俺が惹き付ける。二人はその間に本体に接近してくれ」
あの分では、嵯峨野は長くは持たない。この世界の創造者が魔に取り込まれるということは、龍麻達が出口を失い永久に閉じこめられることをも意味する。早期に決着をつける必要があった。
深呼吸ひとつ。体内に《氣》を満たすと、龍麻は敵のただ中にひとり身を躍らせる。一斉に迫ってきた妖魔達を充分に引き付け、溜め込んだ《力》を開放した。
『――円空破』
青年を中心に半円状に広がる《氣》が、それを突き破ろうとした梢の槍を消し炭に変える。続く連携で生み出された浄化の炎が地を這い、人形達を嘗め尽くした。
弦月と御門は紅蓮に巻かれた雑魚を避け、傷口から樹液を撒き散らす枝を潜って、一息に本体と間合いを詰める。
幹を中心に据え、対角線上に向き合う形で足を踏みしめた。
「よっしゃあッ、ほないくで、陰陽師の兄ちゃん」
青龍刀を左手に投げ渡し、弦月は空いた手で制服のポケットをまさぐる。
「しょうがないですね」
舞でも披露するかのように、御門が扇を広げた。
「いっくでー」
二つ折りにされていた呪符を手早く拡げ、中指と人差し指の間に挟んで額の前に掲げる。
「日中合同の符術やッ、ありがたく喰らっとき!!」
御門の扇から緋色の光が、弦月の符から青い光が生まれ、交錯した。
『秘占魔方陣!!!!』
鳳龍が戯れる姿を彷彿させる二筋の光が、弧を描いて妖樹の周囲を巡る。
絡み合い、擦れ違い合いながら天を目指す《力》が、樹皮を灰色に塗り替えた。
軋みながら質を変じていく幹が、甲高い雄叫びを上げる。同じ苦しみを味わっているのか、嵯峨野が掠れた悲鳴を絞り出した。気の毒だが、少しの間我慢してもらうしかない。
人の5倍はあろうかという妖木が、枝先まで硬質化するのにさほどの時間は要しなかった。
「なんとか、うまくいったみたいやな」
妖の絶叫は途絶えたが、少年の啜り泣きはいまだ続いている。
「ふたりともご苦労様」
木傀(もくぐう)の残党を片づけ終えた龍麻が、泰然と歩み寄ってきた。
「この後はどうします?」
御門の問いに笑みを浮かべ、青年は軽く構えを取る。肩の高さから妖樹の残骸に突き出されたのは、拳ではなく掌だった。
龍麻の《氣》に触れ、石化した幹の部分が砕片となって飛び散る。
相手の武器や防具だけを破壊する『各務』と呼ばれる技だ。生身のものに危害を加えない性質を活かして応用したのだろう。
「なるほど、考えたものですね」
「さっすがアニキやッ!」
惜しみない賞賛を送りつつ、弦月は倒れ込んできた嵯峨野を支えた。年齢は龍麻と同じだと聞いたが、貧弱な体つきをしているせいかまだ少年といった印象が強い。
「しっかりしいや」
肩を揺さぶられ嵯峨野が正気づいた。
「お前は……また、僕を虐めに来たのか?」
弦月と御門は初対面であったから、言葉は主に龍麻に向けらたものであろう。
「俺達は助けにきただけだ」
「嘘をつくなァ!前にも僕の復讐の邪魔をしたくせにッ!!」
好意の手をはね除け、少年が地面にがくりと膝をつく。弦月の耳元を再び冷たい風が掠めていった。
(そうや、この感じは……)
思い出した感触に、ぞくりと肌が粟立つ。
「復讐なんかして、どなりするつもりや?」
心に吹き込むそれは虚無。
妖ではなく人によって生みだされた感傷の織りなす風。
自分の中にも同じものが流れているからこそ、弦月は嵯峨野の声なき叫びを聞き取れた。健常な者には感じ取れない、滅びの気配を察知することができたのだ。
「決まってる!僕が受けた苦しみをあいつ等に思い知らせてやるんだッ!」
「後悔するかもしれへんで」
大願成就の後に訪れたいいしれぬ気持ちを、なんと表現したらよいのだろう。
それだけが目的だった。
命を投げ打っても果たしたかった。
元凶さえいなくなれば、荒れ狂う情念は昇華されるに違いないと、頑なに信じ込んでいたのだけれど。
何故か、今になって胸が痛む。
生きる目的としていたものを失ったことへの虚脱感からではない。仇敵の命を奪ってしまったことに対する罪悪感とも違う。
ただ、とにかく心の中がもやもやとしている。言いしれぬ感情がどろどろと渦を巻き弦月の気持ちを塞がせる。
「後悔なんてするわけない。あいつらさえいなくなれば、僕は誰からも虐められなくなるんだ」
「そうでしょうか?」
御門が異議を唱えた。
嵯峨野の《力》が及ぶのは夢の中のみ。現世における少年の脆弱な本質が、虐待する側の目に恰好の獲物として映り続けることに代わりはない。
「その者達を排除したところで、また別の誰かが絡んでくるだけではないのですか」
「知ったような口を利くなッ!」
窪んだ眼窩をぎょろりと動かし、嵯峨野が声を荒げた。
虐げられ続ける苦しみは、受けた当人にしか分からない。他者を平気で踏みにじり、昏い愉悦で心を満たす輩の世になんと多いことか。
虐待に走るのは、なにも特別な者達ではない。親の前では従順であり、教師の前では折目正しい普通の生徒達だ。むしろ陰気で内に籠もりやすり嵯峨野の方が扱いづらい子供であるといえる。
しかしだからといって、天が、社会が、法律が、倫理が。彼等を許してしまうなら、一体誰が哀れな犠牲(いけにえ)を救ってくれるというのだろう。
時には、死という別天地を目指さねばならぬほどに、世間は弱者に対して無情だった。『一言周囲に相談していれば』と誰もが言う。『安直な選択をした』と皆が後ろ指をさす。けれど、弱き者達は本当に一度も助けを求めなかったのだろうか?被害者ひとりさえ涙を呑んで我慢すればことは丸く収まるのだ、と捻れた『正論』を平気で吐く大人さえいる。
縋った手を振り払った誰かがいるからこそ、子羊は絶望したのだと何故気づいてはくれない?
「被害者である僕が、あいつ等を裁いて何が悪い?現実で馬鹿な真似をすれば警察に捕まるだろう。けど、ここでなら誰にも咎められることなく報復することだってできるんだ」
地面の上で握りしめられた拳を、陰陽師は冷徹に見下ろした。
「見苦しいですね」
「なんだと!?」
「自らの保身を第一と考えているような人間に、復讐など為せるはずがありません。仮にも誰かの生命を脅かそうというのなら、抵抗に合うのは当前のこと。なのに貴方は少し邪魔が入っただけで、殻の内に逃げ込んでしまった。とても覚悟が足りていたとは思えませんね」
御門は何もかもを投げ打って復讐に執念を燃やした人物を知っている。夢は紡ぎ手の願望を表す世界。少年に彼と同じくらいの意気地があれば、龍麻達が勝つことは叶わなかっただろうに。
心の奥底で自分を信じ切れなかったからこそ、少年は敗北したのだ。
「御門はん。そないきついこと言わんでも……」
どうやら、当人は嵯峨野に同情を寄せているらしいが。
「貴方こそ少しは怒ったらどうです。自分が馬鹿にされたことがわからないのですか?」
「わいが?なんでや?」
弦月は驚いた。
「劉はもし、俺達が手を貸さなかったら復讐を諦めたか?」
陰陽師の後を引き取り、龍麻が言を継ぐ。
「わいはもともとアニキ達の手は借りるつもりはなかったんや。あ、誤解せえへんといてや。皆には感謝してるんやで。どっちかっていうと、その……アニキを私怨に巻き込みたくなかっただけで……」
嵯峨野が無言で弦月を見上げた。
「じゃあ、失敗していたら?俺達が宗崇に負けていたらどうしてた?」
「どう……って、修行し直して再度挑戦するだけや。仇を討たないことには一族に顔向けできへんしなあ」
それは柳生と弦月、どちらかの命が尽きるまで続けられたことだろう。
……いや、正確に言えば一度だけ諦めてもいいと考えたことがある。あれは龍麻の命が失われようとしていたときだった。
(アニキを犠牲にするくらいなら、 仇討ちなんて投げ打ってもいいって思うたけど。やっぱあかんかったな。アニキが助かることが分かったとたん、気持ちが走り出しよった)
「それが、劉と嵯峨野の違うところだよ。嵯峨野にとって『復讐』は目的ではなく、己の《力》を誇示するための『手段』だった。だから、一度の敗北だけで二度と《力》を使う気になれなくなった。その程度のものだったんだ」
少年のしたことは稚拙な感情で『復讐』という言葉を弄び、弦月の決意をも貶める行為であった。
蔑みですらない、事実だけを述べる淡々とした響きに嵯峨野の身が大きく震える。
「それやったら、どうして……」
自分と彼の間に同じ風が吹いているかと言いかけて、弦月は口を噤んだ。
復讐を生きる目的としていた弦月と、遊びとして捉えていた嵯峨野。
仇討ちを終えた者と、半ばにして挫かれた者。
同じ志を軸にしていながら両極に位置する自分達の、では何が共通しているというのだろう。
「まったく幸せな人達ですね。自分の悲劇に酔うのに夢中で、周囲の者が心配していることにさえ気づかないのですから」
「心配って……」
『人達』と言うからには、弦月も含まれているに違いない。顔を上げると、僅かに瞳を伏せた龍麻の姿が目に映る。
(アニキ、まさかわいを心配してくれていたんか?けど、アニキは……)
「いい加減なことをいうなッ!僕のことを本気で心配してる奴なんているもんかッ!」
再び感情を高ぶらせた嵯峨野に、年若き陰陽師は肩を竦めた。
「救いようがありませんね。何故私達がここにいるのかわからないのですか?」
「えっ?」
ぽかんと少年が口を開ける。
「あの妖魔は本来、人の悪夢に取り憑いて少々精気を吸う程度の《力》しかもたぬもの。あれだけ成長していたのは貴方が自ら呼び込み、身を捧げていたからでしょう」
図星を指された少年は、唇を噛んで顔を背けた。
夢の中でさえ、なにひとつ出来なかった己を恥じていた。自己の消滅を図りたかった。
けれど、その一方で自らの命を絶つ勇気がどうしても持てず、絶望する心が妖魔を招き入れた。他者の手による緩慢な死を嵯峨野は願ったのだ。
「自虐に走る人間など救う価値もないと思うのですがね。頼まれたからしょうがなく力添えしたのですよ」
「頼まれた……?」
龍麻が嵯峨野の目の前にしゃがみ込んだ。
「藤咲は心配していたよ」
その名を耳にしたとたん、少年の顔に形容しがたい感情の波が現れる。
「俺達は彼女に頼まれて、嵯峨野を助けに来たんだ」
「亜里沙、が?」
怯えたように身を竦ませる相手に向かい、龍麻は柔らかな微笑みで同じ言葉を繰り返す。
「すごく心配していた。彼女、目が覚めたら謝りたいって、いろいろな話がしたいって言っていた」
「そ、そんなはず……だって、僕は……亜里沙を……」
置き去りにして独りで逃げてしまったというのに。
「亜里沙は僕を怒ってたんじゃないのか?不甲斐ない奴だって軽蔑したんじゃ……」
「嵯峨野が殻に閉じこもってしまったのは、自分の力量が足りなかったからだって気にしていたよ」
少年の面に血色がのぼる。
(もしかして……)
顔を覆う嵯峨野の様子に、すとんと胸に落ちてくるものがあった。
現実世界で虐めを受けることよりも。復讐を遂げられなかった無念さよりも。少年はひとりの少女に嫌われることに強い危惧を抱いていたのかもしれない。
侮蔑を受けるのが怖くて。見捨てられることが哀しくて。相手の気持ちを確認する勇気が持てなかったからこそ少年は逃げ続けていたのではないだろうか。
「違う……亜里沙は悪くない……悪くないんだ」
「ならば、自分の口からそう告げるのですね」
(嵯峨野はんの虚無の原因がそれっちゅーことは、わいも同じってことか?)
自分が決して正義ではないことを弦月は知っている。いずれ報いを受けることになろうともかまわない、とずっと思ってきたのだけれど。
憎しみを宿すのが、優しい光を宿していた一対の射干玉色の宝玉だったとしたら。
己の全てを賭けた願いを覆しても良いと思えるほど、心を傾けた人物だとしたら。
(そうやな、それだけは耐えられへんよな)
どこか心を通わせていた龍麻と柳生の様子が、頭から離れなかった。
柳生を殺した弦月を龍麻は恨んでいるかも知れないと無意識に疑念を抱いていた。否、意識はしていたのだろう。認めるのが怖くて気づかない振りをしていただけだ。
沈殿する負の感情から眼を背けたところで、気持ちが晴れないのは当然のことである。
「俺達のことは信じられなくても、藤咲のことは信じてあげて欲しいんだ。心の整理がついたら、耳を傾けてみるといい。藤咲が嵯峨野を呼ぶ声が聞こえるはずだから」
魔は追い払ったが、少年が目を覚ますよう強要する力は龍麻達にはない。後は本人次第だ。
茫然としている少年をそのままに、三人は夢路を現実へと辿っていく。途中一度だけ振り返った弦月は、嵯峨野が微かに頷いて見せてくれたように感じた。
「ずいぶんとすっきりした顔をなさってますね。龍麻の配慮も無駄ではなかったということですか」
たか子達に状況説明をしている龍麻を横目に、御門が弦月へ話しかけた。
何を言われているのか解らず、弦月はきょとんとする。
「あの程度の相手でしたら、私と龍麻だけで充分だったのですよ。貴方を呼んだのは龍麻がどうしてもと言ったからです」
「アニキが?」
確かに。精神世界という戸惑いはあったものの、二人ならばさほど手こずる相手でもなかったろう。
「龍麻は貴方を気に掛けていたのですよ」
弦月が悩んでいる様子を見て。立場や覚悟の差はあれど、同じ状況にあった嵯峨野に接すれば気持ちの整理にも役立つのではないかと考えた。
「柳生を討つことは龍麻の意志でもありました。貴方の復讐を手助けしたのは、いわばそのついで。自ら進んで行ったことの責任を彼が他者に押しつけるような者だとお思いでしたか?ましてや筋違いの恨みをぶつけるなどということがあるとでも?」
弦月の苦悶など、とっくにお見通しだった稀代の陰陽師は皮肉な口調を隠そうともしない。少年が龍麻の気持ちに負担を掛けたことに少なからず腹を立てているのだ。
事実ゆえに反論することもできず、弦月は頭を掻いた。
「すまん、堪忍や!もうこんなことはないようにするからッ」
「ぜひともそうであって欲しいものですね」
「御門、劉、お疲れさま」
用事を終えた龍麻が、藤咲と芙蓉を伴って二人の元へ近づいてくる。
「面倒を掛けたね。皆、ほんとにありがとう」
礼を言うのが照れくさいのか、藤咲はしきりと毛先を指に絡めた。
「皆様、お疲れさまでございました。晴明様、ご無事でなによりです」
使用済みの香炉を胸に、芙蓉が労いを口に乗せる。
「まったくですね。では、私はそろそろ失礼させて頂きます。芙蓉、参りますよ」
「御意」
典雅に髪を靡かせて立ち去っていく後ろ姿に、弦月が苦笑した。
「相変わらずクールっちゅうか、愛想がないっちゅうか……」
「忙しいんだよ。新年のひと月は、家の行事やなんかで寝る間もないって言ってたのを、無理を押して頼み込んだからな」
本来ならこんなところで油を売っている暇などなかったのだ。
「そっか、じゃあ御門には改めてお礼をしなくちゃだねぇ」
寝不足で赤くなった目を擦り、藤咲は伸びをする。
「さてと。あたしはもう少し麗司の傍についててあげようかな。龍麻が教えてくれたことも試してみないとね」
「アニキに教わったことって?」
藤咲は片目を瞑り「内緒」とだけ言った。疲れは見えるものの気落ちした様子はそこにはなく、弦月は安心する。
充実感を胸に抱きながら出入り口まで見送ってくれた少女と別れ、龍麻と連れ立って桜ヶ丘病院を後にした。
「なあ、アニキ。アキニはわいのこと嫌いになってへんか?」
何度か躊躇った後、弦月は思い切って口火を切る。
「劉こそ俺に失望したんじゃないのか?」
切り替えされた科白に、目を見開いた。
「わいがアニキに?そんなわけあらへんやろ」
「劉が気に病んでいたのは俺の所為だよね。俺が宗崇を憎んでいたら悩んだりはしなかったろう?」
「そんなことは……」
ない、とは言い切れない。一途に『何か』を求めていた柳生の孤独を、哀れむ龍麻の視線を。知らなければ胸が痛むことはなかった。龍麻に嫌われたかも知れないと思い悩むこともなかったのだ。
「劉からすれば、両親を殺した男に飼い慣らされていた俺を不甲斐ないと感じるのは仕方のないことだよ」
「アニキ?」
(それって、アニキもわいに嫌われてるかもしれんって気にしてくれてたってことやろか……)
誰もが不安を抱えている。
嫌われたくないから。何より大事な人だから。
想いを確かめるのが恐くて耳を塞ぎ、拒絶されるのが怖くて口を閉ざす。
弱い心はすぐにでも逃げ出してしまいたくなるけれど。
自分が殻に閉じこもってしまうことで、護りたい人にまで哀しみを背負わせてしまわぬように。
傷つくことを怖れずに。与えてもらうことばかりを考えずに。大事なことこそ形に変えて。行動に表して伝えよう。
「わいは、アニキのこと大好きやで」
息を吸い込み一気に告げる。言霊に宿る熱が、鬱々とした胸の奥を暖めていった。
―――ダカラ僕ノコトヲ嫌ワナイデ。少シデイイカラ好キデイテ……
口にすれば、たったひと言。馬鹿らしくなってくるほどに単純で素直な――真理。
(これだけのことが言えなくて悶々と悩んどったなんてなあ。わい、阿呆みたいや)
込み上げる笑いの衝動を抑えきれず、龍麻に抱きついた。いつもなら彼の相棒に即座に引き剥がされてしまうところだが、幸いにも今日はいない。
龍麻は急に機嫌のよくなった少年に少々戸惑ったようだったが、ふっと瞳を和ませるとしがみつく腕に軽く手を添えた。
「……ありがとう、劉。俺も劉のことが好きだよ」
「アニキいぃぃ~ッ。わい嬉しくて涙がでてきそうや~」
弦月は腕に力を込める。舞い上がる気持ちに調子づき、もうこんな機会はないかもしれないのだからと想いの丈を余さず喋ってしまうことにした。
「なあ、アニキ。一度わいの故郷に遊びに来てくれへんか?姉ちゃん達にも紹介したいし、見せたいものがいっぱいあるんや」
爽風に波打つ草原。水面輝く小川のせせらぎ。大きくて紅い夕日。緑深き山々。
都会では喪われてしまった様々なものが残されたその場所で。彼が自分の隣を歩む光景を何度も夢に見た。誰にも教えたことのないとっておきの場所や秘密の洞窟へも案内しよう。子供っぽいと青年は笑うかも知れないけれど。それすら心躍らせる甘やかな日々の一片となる。
満面の笑みで誘いを掛ける少年を、龍麻が眩しそうに見つめた。
「うん。劉を見ていると景色が目に浮かぶようだな」
歪みのない真っ直ぐな少年の笑顔に似た、青い大空とどこまでも続く肥沃な大地が――。
くすくすと笑う青年の手を取り、弦月は強引に指切りをする。
「絶対に約束やで」
念を押すと、世界中で一番綺麗だと思う微笑みが「いつかな」と頷いてくれた。
仄かに匂い立つ花の香が、玄き風を淡く色付かせる。
心を覆っていた暗雲が、力強く吹いてくる東風に押し流されていく。
氷に閉ざされた季節の中に、春の兆しが現れ始めていた。