花信風/京主編

 玄関を開けると、仄かな珈琲の香りが漂ってきた。
「おかえり、ひーちゃん。そろそろ帰ってくる頃だと思ったぜ」
 床に直置きした小さなコーヒーミルをがりがりと動かし、押し掛け同居人と化している青年がにぱっと笑う。
「京一、お前まだいたのか」
「ひでえ言われようだな。せっかくひーちゃんのためにうまい珈琲を用意して待っててやったっていうのによォ」
「いい加減帰らないと、家のひとが心配するだろ」
「へーきへーき、ひーちゃんトコにいるって言ってあるしよ。時々は着替えを取りに帰ってるしな」
 一向に気に留める様子のない京一に、龍麻は小言を諦めた。部屋は余っているのだし、居着かれたところで邪魔になるわけではない。本人がいいというのだから放っておこうと心に決める。
 コートを脱ぎ、ハンガーに掛けるとサイフォンをセットしている青年の隣に腰を下ろした。
「首尾はどうだったんだ…なんて聞くまでもねぇか。劉のヤローはちゃんと立ち直ったんだろうな」
「ああ、心配ない。嵯峨野に関しては目を覚ますまで、もう少しかかりそうだけどな」
 落ちていく琥珀の液体を眺め、京一は溜息を吐く。
「嵯峨野が起きる気にならなきゃ、このまま目覚ねぇってこともあるんだろ」
「大丈夫だと思うよ」
 確信ありげに龍麻が頷いた。
「いやに自信あるじゃねェか。なんか根拠でもあんのか?」
「うん。まあ……ね」
 何度も呼び掛けてあげるといい、と藤咲には助言してある。

 大切に想う人が呼んでくれるなら。心を寄せる人が手を伸ばしてくれるなら。
 時空を、界を、迷宮を抜けて、声は必ず届くだろう。
 奇跡ほど強い力ではないけれど。偶然よりは確かな力が往く道を照らす灯火となる。
 暖かくも優しい音色は、迷いの森を抜けるための道標となってくれるはずだから。

「……少なくとも、俺はそれで戻ってこれたしね」
「あ?なんか言ったか、ひーちゃん?」
 食器棚からカップを取り出してきた京一が、注いだ飲み物を差し出した。
 受け取る佳人は、妍艶(けんえん)なる微笑みを口元に上らせる。
「なんでもないよ――ありがとう、京一」

 龍麻を呼ぶ声はここにある。

2001/07/29 UP