遠ざかる若者達の背中を苦々しげに見つめるひとつの影があった。
風角と呼ばれるその鬼は、侮蔑の篭もった視線を朽ち逝くかつての同僚へ投げ掛ける。
「斥候にも使えぬか。役に立たぬ奴ばらよ。……やはり、九角様の御身をお守りできるのは我しかおらぬ」
吐き捨てる声は淡々としていた。
「そりゃ、大変やなあ」
出し抜けに、耳元で応ずる声が上がる。
間を置かず首の後ろに押し当てられた鋭利な感触に、怨霊たる鬼はぎくりと身を強張らせた。
「ちょーっといいか?聞きたいことがあるんやけどな」
人懐っこい口調とは裏腹に、声の主は全身から殺気を放っている。接触するまで完璧に気配を殺していたところから、かなりの使い手であると察せられた。
「……儂に何用だ」
慎重に首を巡らせ、相手の姿を確かめる。見たことのない顔だった。年齢は龍麻達と同じか少し下というところ。
だが、鬼にはこの少年が、あの者達の新たな仲間であるとは思えなかった。
少年の内部に巣くう感情が、義憤などではないことに気付いたためである。
「わいは人を探しているんや。柳生っちゅう男なんやけど、あんさん何か知ってへんか?」
憤りと、宿怨。
彼の心情は、どちらかといえば自分達鬼に近かった。偽善と大義名分に酔いしれている真神の連中とはそりが合わぬだろう。
「知らぬな。他に用がないのなら、その物騒なモノをしまってもらおう」
「あんさんの主さんだったらどうや?柳生に《力》を借りてるんやないのか?」
「さて……。仮にそうだとして、儂がそなたに話すと思うか?」
嘲ると、少年の《氣》に苛立ちが混ざる。
「月並みな脅しですまんけど、あんさんの命はわいが握っているんやで?」
風角は、くつくつと喉を鳴らした。
「この身は既に黄泉路を渡りきっておる。ありもしない命を惜しむ必要が何処にある?」
大した忠義心や。と、少年が口笛を吹く。
「そういうの結構好きやけどな。わいもここで引くわけにはいかんのや。怨霊が昼日中の街中をほっつき歩いとるのも感心せんし、教えてもらえんのなら悪いけどここで眠ってもらおうか」
殺気が一段と強まった。風角は矢庭に駆けだす。
姿勢を低くし、両腕を広げて怪鳥のごとく疾行した。
充分な距離を稼いだと感じたところで躯を反転する。その胸を幅広の刃が貫いた。
「なに……ッ?!」
まさか、己の動きについてこられる人間がいようとは。鬼は少年の身体能力の高さに瞠目する。
とはいえ、心の臓を捕らえる刃は風角にとって致命傷とはなり得ず、感心こそすれ畏怖の対象までには至らなかった。
「この程度で我を斃せると思うたか……」
言の終わらぬうちに、鬼の骨が軋みだす。両肩が異様に盛り上がり、長く伸びた腕を覆うように羽毛が伸びていった。
顔を覆っていた面を突き破り、下から鋭い嘴が覗く。
「ククク……、己が相手にしているモノがなんであるのかを知って恐怖するがいい……」
少年は冷めた目で鬼の変化を眺めた。
「ほな、これならどうや?」
剣を握る彼の手元が仄かに光り出す。光は柄から刃に伝わり、風角の中へと注ぎ込まれた。
「ぬ………ッ?!グ……ォ……?」
己の絶対的な優位を信じていた鬼の躯が激しく痙攣する。
変生が止まった。
視線を下ろせば、少年はうっすらと笑みを浮かべている。
「どうや、わいの『活勁』は。よォ効くやろ」
『勁』とは、蓄積された力のことであり、またその力を用いる技法を指し示す言葉でもある。一般的には相手の『勁』を封じ防御と為す『化勁』や、己の『勁』を発して攻撃とする『発勁』などがよく知られているだろう。
少年の《技》はこれらの『勁』を使って《憑き物》を落とし、あるいは《陰氣》を祓って体内の異常を回復するものであった。
怨念の塊である風角にとって、それは何よりも強い《毒》である。
「しまいにしよか」
一度、刀を引いた少年が大きく振りかぶった得物を袈裟掛けに振り下ろした。
青白いプラズマが迸る。
「まさかッ……ア…ギャアァァァァァ……ッ!!!」
既にほとんどの《陰氣》を祓われていた風角は、身動きひとつ取れぬまま豪剣の餌食となった。
砂の城が波に攫われるように。輪郭を崩し滅んでいく鬼の躯を少年は無言で見つめる。
これで、少しは『あの人』の役に立てたのだろうか――と、ぼんやりと思った。
瞼を閉じれば、いつでもあのしなやかな麗姿が映し出される。
ずっと逢いたいと願っていた人。誰よりも特別に感じていた存在。
少年は彼を護るためだけに、幼き頃から鍛錬し己を磨き続けてきたのだ。
それなのに。
どうしてこんなにも遠く《道》は、隔たってしまったのだろう。
「あの頃とは違う。ここにいるわいは復讐者や。あの人に近づくことなど許されるはずあらへん……」
自分の目指す結末は、彼等が求めるものとは違う。
復讐こそが我が人生。血で刀を濡らした数こそが、己の生きた証。
光の中にいる彼の人と、肩を並べて笑み交わす日が訪れることは、永遠にない。
「……けどな、あの鬼を斃す時ちょっとだけ、あんさんの『仲間』になれたような気がして嬉しかったんや。そないなはずないんやけどなァ」
自己満足とは知りながら、少年は秘やかな笑みを浮かべる。
昔の夢の余韻が、少年の心を温かくしていた。
少年はまだ知らない。若さ故に。一途であるが故に。
道はひとつとは限らないことを。目的の地は同じでも、その行路は無数に存在するということを。
ひとつの目標のにみにて人生が埋まることは少なく、悲願を達成したからといってそれが人生の終幕に繋がるわけでもない。
人は生まれ落ちた瞬間から『死』という終着点へ向かって旅を始める。
道を捜し、苦難を乗り越え。時には道連れを得、時には別れを経験しながら、自分だけの人生を歩み続けていく。
脇目も振らず一心に進んでいく者もあれば、景色を楽しみ寄り道をしてのんびりと歩いていく者もいる。
志半ばで斃れることもあろう。挫折して違う道を探すこともあるだろう。
道なき道の草を刈り土を踏み固め、遅々として進まぬ者もいれば、大した努力もせずに旅を進めていける者もいる。
己が信じている道が最も良き道とは限らず、誰かの言葉に唆されて間違った道へ入り込んでしまうことも少なくない。
だが、大切なのはどれだけ早く進めるかでも、己が定めた目標に辿り着けたかということでもない。
旅の途中で、何を見、何を得、そして何を考えて進んできたのかということにこそ意味があるのだ。
やがて少年も気付く日がくるであろうか。
選択すること、迷うこと、決断すること、立ち向かうこと。
行く道、帰る道。誰もが通る道、誰一人通らぬ道。
いつか振り返ったときに、浮かび上がってくるであろうその過程こそが、人の生きた証となるのだと──。