自宅、学校、桜ヶ丘病院へと続く道――。
龍麻と京一は、美里の立ち寄りそうな場所を片っ端から訪ね歩いていた。
道行く人を呼び止め、小さな路地裏にまで眼を凝らし。心当たりはすべて立ち寄り、足が棒になるまで通学路を往復したが、求める姿はおろか手掛かりひとつ得ることはできなかった。
体力自慢の二人もさすがに疲労を覚え、目に付いた小さな児童公園で小休止を入れる。
平日の、それも昼食時であるためか二人の他に人影はなかった。
「まさか美里の奴、どっかで行き倒れて別の病院に運ばれちまってるんじゃねェだろうな」
木陰に入れば僅かながらも涼を感じる。京一は背中に張り付いたシャツを引き剥がすと、ばさばさと振って風を送り込んだ。
「この辺りに救急車が来たという話は聴かなかった。可能性は低いな」
自販機で買った冷たいお茶の缶を片手に、龍麻が吐息を漏らす。
「認めたくはないがここまで探して見つからないとなると、九角の元へ行ったと考えたほうがよさそうだ」
いっそ他の病院に運ばれてくれていた方がどれほどましだったことか。
面倒なことになっちまったぜ、と京一は髪の毛を掻き毟った。
額に滲んだ雫を右肩に擦りつけるようにしてシャツで拭う。背中を預けた低い鉄棒からは微かな錆の匂いがした。
うだるような暑さに焦燥を覚え。
降り注ぐ蝉の声に苛立ちが募る。
煮詰まりそうになる思考を散らすため頭を左右に振る。バーの上で腕を組んだ龍麻の姿が、ぶれた視界の隅を過ぎった。
緩やかに目を伏せる佳人は、夏の暑さも何処吹く風と涼やかである。
温度を感じさせない雪の肌に誘われた京一は、半ば無意識のうちに手を伸ばしていた。
「……ひーちゃんって全然汗掻かないよな」
半袖から覗く二の腕にぴたりと掌を押し当てれば、滑らかな肌の表面はしっとりと湿り気を帯びている。
龍麻が怪訝そうに顔を上げた。
「何をしているんだお前は?」
「いや、ひーちゃんばっかり涼しそうに見えたもんでつい、な」
「馬鹿か!」
容赦なく速攻で叩き落とされた手の甲をさすり、京一はへらりと笑う。見た目では分からなかった汗の感触と、想像以上に温かかった体温に奇妙な安堵を覚えていた。
不機嫌にそれを睨め付けていた佳人の顔が、不意に麗しい微笑みに彩られる。
「そんなに涼しくなりたいのなら後で翡翠に頼んでおいてあげるよ。思う存分水遊びができるぞ?ああ、アランの方がいいかな。水より氷の方が冷たくて気持ちがいいだろうし……」
……ヤベェ。本気で怒ってる。
京一の背中を冷たい汗が滑り落ちた。
「い、いやッ、遠慮しておくぜ!!」
ただでさえ暑いところへきて、更に暑苦しい仕打ちを受けたのだから腹を立てるのも当然なのだが。真夏に凍傷で悩まされるのは、さすがに勘弁願いたい。
ここは、さっさと話題を逸らしてしまうに限ると、強引に話の流れを引き戻した。
「みッ、美里ッ!んなことより美里のことに話を戻そうぜ!!」
血の気の引いた顔で必死に捲し立てる。
「……まあ、そうだな。今は美里のことが先だ」
相方の媚びるような愛想笑いを暫し眺めていた龍麻は、呆れたように眼を逸らすとお茶の缶に口を付けた。
どうやらお許しが出たらしい。
ほっと息を吐いた京一は、手にしていたコーラを一気に半分ほど飲み干した。喉を刺激する炭酸に眼を細め、胃まで滑り落ちる冷たい感触に人心地をつける。
「なァ、美里の奴はどうやって敵の居所を突き止めたんだろうな……」
それは京一がずっと疑問に思っていたことだった。徳川幕府を影ながら支え続けてきたという忍者の末裔ですら掴み損ねていた情報を一介の女子高生──《力》の有無はともかく──にしか過ぎない美里が入手できたというのはどう考えてもおかしい。
「招待されたんじゃないのか」
龍麻がこともなげに答えた。
「ローゼンクロイツの時みてェにか?けどよ、書き置きの感じじゃ誘拐された風にゃ見えなかったぜ?」
「美里が自分から動くよう仕向ければいいんだ。わざわざ攫う必要もない。さしずめ餌は、『仲間の命』か『一般人への安全配慮』……」
「んな、嘘くせェ条件で美里が頷くかよ?」
「鵜呑みにするほど愚かじゃないだろうな」
だが、間断なく続く闘いに仲間達も疲弊し始めてきている。ここらで一瞬でも敵の攻勢が止むならば──とは、美里の考えそうなことだった。
「これだけ長く付き合っていれば、多少なりとも相手のことが見えてくるだろう?敵だって美里のそういった性質は見抜いていたはずだ」
「なるほどなァ。さっすが、ひーちゃん!悪知恵が働くぜ」
感嘆すると嫌な顔をされた。一応、誉めたつもりだったのだが。
「なんにせよ、これ以上の捜索は無意味みたいだ。早めに切り上げて翡翠と合流しよう。何か新しい事実が浮かび上がっているかもしれないしね」
「如月の野郎、今度はもうちっと役に立つ情報を仕入れてるんだろうな」
携帯電話を取り出した相棒の傍らで、京一は握りつぶした空缶を軽く放った。綺麗な弧を描いたアルミ缶は狙い違わず屑籠の中へと吸い込まれていく。
通話相手に状況を説明しながら、龍麻はその軌跡を目で追った。
京一にはああ告げたが、実のところ龍麻には美里失踪の原因に心当たりがある。
恐らく彼女は知ってしまったのだろう。
己が《力》の背負う宿業を。九角との間に横たわる因縁を。
そうして、思い出してしまったのだろう。
過去に起こった惨劇を。忘却の海に埋もれてしまった悲劇を。
この闘い、心して掛からねば美里を失う結果になりかねない。
《菩薩眼》の喪失は、龍麻にとっても大きな痛手となる。
「ひーちゃん……?」
通話を終えた携帯を片手に相棒が何やら考え込んでいる。不審そうに首を傾げた京一は、耳の奥に届いた微かな葉擦れの音につっと顔を上げた。
眼光に鋭さをのぼらせ隣人を窺えば、龍麻が眼だけで返事を寄越す。
公園を取り巻く《氣》が変容していた。
煩いほどに降り注いでいた蝉の声は遠のき、肌に纏わりつく湿気に混じり不快な臭気が漂ってくる。
カサリと繁みのひとつが揺れた。
竹刀袋の紐に手を掛けた京一は鉄棒より躰を起こすと鯉口を切った。掌に伝わる鋼の重みは、鬼丸国綱2尺六寸強――まごうことなき真剣のものである。
「いやぁッ!!助けてッ!!」
居合いの一撃を留めたのは、うら若き女性の悲鳴だった。
慌てて刃を引き、得物を背中の後ろに隠す。
「どうしたッ?!」
小枝を掻き分け飛び出してきた人物が、二人の姿を見咎めて硬直した。
「大丈夫、俺達は怪しい者じゃない」
恐怖に震え、顔を引き攣らせた相手を安心させるべく、龍麻が穏やな笑みを向ける。
「あ……あぁ……た、助け……」
藁にも縋る思いなのか、女性が大きく喘いだ。
「た、……すけ、て……ばけも……が……」
それ以上の説明は必要なかった。
髪を振り乱す女性の背後から、凄まじい熱気が近づいてくる。龍麻と京一は左右に分かれると素早く彼女を庇える位置へと回り込んだ。
女は気力が尽きたのか、ぺたりと地面に座り込んでいる。
「……鬼道衆なのか?」
注意深く見守る先で、濛々と黒煙が立ち上った。繁みの葉が一瞬にして変色し、ぱらぱらと崩れ落ちていく。
周囲の温度が一気に上昇した。
土が灼熱の色へと塗り替えられていく。
そうして、姿を現した敵は二人の想像を遙かに超えていた。
「なんだ、ありゃァ?」
例えるならそれは、朱い肉の塊。
自らの発する焔に半ば熔け、半ば腐り落ちながら地面を這い摺り回っている。
「……炎角……」
吐き気を覚える青年の耳に、相方の漏らした低い呟きが届いた。
「な──ッ?!」
愕然として、肉塊を凝視する。
言われてみれば、産毛を逆立てる禍々しい《氣》に覚えがあった。
「どういうことだよ。鬼道衆幹部は二度と復活しない筈じゃなかったのか?」
「白蛾翁は空海の《呪》を解かなければ、《摩尼の珠》の封印を解くことは出来ないだろうって言ったんだよ。それには一瞬で東京の街を壊滅させるほどの《力》を行使する必要がある。故に『《摩尼の珠》を使った鬼道衆の復活はあり得ない』とね」
「──ってェことは……」
「《摩尼の珠》を使わない復活ならばあり得るということだ。代わりとなる呪具を用意すればいい」
珠ほどの《力》を秘めた呪具はまずないだろうが、怨念を依り憑かせるだけの道具ならその辺にたくさん転がっている。これまでの闘いで消耗した分や、浄化されたことによって弱まった《力》は外法で補えばいい。
グロテスクな姿をしているのも、自我が弱そうなのも、《力》の弱い呪具に無理矢理憑かされた由縁だろう、と龍麻は言った。
「えげつねェことしやがって……ッ!」
京一は吐き捨てた。肉塊が距離を縮めてきたのを見て、女性を立ち上がらせる。
どこか、安全に逃がせる道はないかと首を巡らせた。
「無駄だ京一。結界が張られている」
「ちっ……ご丁寧なことで」
化け物に気を取られている間に公園の周囲を薄い靄が覆っていた。これでは、彼女を外へ連れ出すことが出来ない。
「京一はその人を連れて下がっていてくれ」
龍麻が手甲を装備した。
「ひとりで大丈夫かよ、ひーちゃん」
どちらか一方が女の護衛に付く必要性を理解しながら、あえて訊ねる。
「あいつには借りがある。前回は醍醐にいいところを持って行かれてしまったからな。返せる機会が得られてよかったよ」
「……仇討ち、か?」
京一の胸が、どきりと高鳴った。
───今度、どこかに遊びに行きませんか?
煤けた廃屋で耳にした、可憐な声音が甦る。
健気に咲いていた一輪の花を散らしたのは、紅蓮の劫火を纏う赤き鬼。
忘れていたわけではない。
普段は感情の乱れを表に出さない龍麻が、珍しく打ち拉がれていたあの日々。
京一もまた何度も夢に魘され飛び起きては、眠れぬ夜を過ごしてきたのだ。
痛ましげな顔をする相棒に、しかし龍麻は意外にも穏やかな表情で首を振ってみせた。
「いや、単なる私怨──というのも違うかな。ただ、これで区切りがつけられるかもしれないと思っただけだ」
彼女を追いつめてしまったのは自分だ。仇討つ資格などあろうはずもなく、これが単なる八つ当たりに過ぎないことは充分すぎるほどに承知している。
それでも、龍麻にはやり場のない気持ちを発散させる場所が必要だったのだ。
「……そっか。あんま無茶すんなよ」
相棒の気持ちをそれとなく察した京一が、小さく頷いた。
仲間達の慰めは、佳人の感情を封じ込めるものでしかなかったのだろう。互いに気を遣い、遣われるうちに龍麻は泣き叫ぶ機会を失ってしまったのだ。
答える代わりに微笑を浮かべた相棒を残し、京一は女性を促して背を向ける。
「俺が必要になったら、いつでも呼べよな!」
背中越しに軽く挙げた手に、言葉にならない思いを篭めた。
足元の覚束ない女を伴って、木立の狭間に身を隠す。
「すぐ終わっからよ。もうちょっとの辛抱だぜ」
できるだけ明るい声で告げると、頭を低くしているよう指示を与えた。
女性が身を伏せている間に、素早く辺りの様子を探る。
他に敵の潜んでいる気配はなかった。あの肉塊に結界を張る知能があるとは考えられず、てっきり鬼道衆・中忍が端の方でこそこそと術を施しているに違いないと踏んでいたのだが……。
どうやら術は公園の外側から張り巡らされているようだ。中忍達はこの闘いに参加する意志がないらしい。
連中がどんな思惑を抱いているかは知らないが、少なくとも主格を斃すまでは雑魚の存在に煩わされなくて済みそうだった。
手近な樹木に背中を預け残してきた相棒を伺い見ると、龍麻はごくごく自然な体勢で佇立(ちょりつ)している。
徐々に距離を縮めていた炎角は、龍麻の間合いまで後一歩というところで動きを止めた。
たぷたぷと肉が波打ち、襞が揺れる。
瘴氣が一段と濃くなった。
赤銅色に変わった地面から吹き上がる煙が眼に染みる。
肉塊の内部で何か別の生き物が暴れているようだ──と、感じたのは一瞬だった。
赤黒い肉の表殻が、内側からの圧力に耐えきれず弾け飛ぶ。
「…………ッ?!ひーちゃんッ!!」
青年が叫ぶよりも僅かに早く反応していた龍麻が流れるように後ろに下がった。
細かく千切れ、爆ぜた肉片が火の雨となって降り注ぐ。京一は刀を抜くと女性に被害が及ばぬよう、比較的大きな火の玉を狙って叩き落とした。
「……《道》を外れ、身も心も異形と成り果てたか……」
いっそ、惻隠(そくいん)の情さえ感じさせる佳人の声。
肉塊のあった場所に踞るのは、奇怪な生物だった。それは、腐肉の卵から孵った巨大な火石竜子(ひとかげ)。鋭いキバと長い鈎爪が古代の肉食恐竜を彷彿とさせる。口からちろちろと覗く舌は細く、先が二つに分かたれていた。吐き出される息は火気と瘴氣が混ざり合い、辺りの空気を汚染している。
化け物が血色の唾液を吐き散らしながら火を噴いた。
「──巫炎ッ!!」
京一達の盾となる位置に足場を定めた龍麻が、突きだした腕を交差させる。
清々しい輝きを放つ白銀の炎が拡がり、壁となって炎角より放たれた黒い焔を阻んだ。
激しい焔を消し去るためには大量の水を必要とするが、勢いを殺すだけならば己の護りとなる少しの炎があれば事足りる。
「ひーちゃん、考えたな……」
相棒の背中を見つめ、京一は小声で賛(さん)した。
問題は辺りに立ち籠める耐え難いほどの熱気である。
息をするだけで胸が灼け付き、体力が殺がれる。早めに次の手を打たなければ龍麻の躰が持たないだろう。
「あの……あの人を助けに行かなくてもいいのですか……?」
幾ばくか心が落ち着いたのか、女性が震える声で問い掛けてきた。
「いいって、いいって。俺の相手はおネェちゃんだからよ」
安心して大船に乗ったつもりでいてくれよ!と、胸を叩く。
女は顔を綻ばせると頭を下げた。
「危ないところを助けてくださって有難うございました」
掻き上げた髪の下から覗く傾城の美貌に、京一は瞠目する。寂しげに見えた目元さえ華やいでいた。
「本当に、なんといって御礼をしたらいいか……」
男が己の美しさに見惚れていることを感じ取り、女が笑みを深くする。三日月に吊り上がった朱唇がひどく妖艶だった。
立ち尽くす青年の正面に回り躰を投げ掛ける──。
鍛え上げられた胴に回されるために拡げられた両腕が、あと少しというところで小さく痙攣した。
「な、なに……を……」
瘧のように震えだした女性の口から、ごぼりと黒い血が零れ落ちる。
若者の右手に握られた白刃が、女の脇腹を抉っていた。
「いくら見た目が綺麗なおネェちゃんでもよ、中身が化け物じゃ百年の恋も冷めるってもんだぜ?」
京一達ですら周囲を包む熱気を息苦しく感じているというのに、何の《力》も持たぬ女性が平然と立っていられるはずがない。
なにより彼女の全身からは、炎角と同じ耐え難いほどの腐臭が漂っていた。
「……口惜しや……この姿であれば、油断を誘えると思うたが……」
偽りの仮面をかなぐり捨てた女──水角の目に、激しい憎悪が浮かぶ。
京一は腕を引くと、返す刀を袈裟掛けに振り下ろした。
人に在らざる動きで飛び退いた女は、長い四肢を張ると頭を下にして手近な幹にしがみつく。
追って踏み込もうとした青年は握りしめた得物の質量が変わったことに、ぎくりと身を強張らせた。見れば、鋭利だった切っ先が水飴のように溶けかかっている。女の体液に毒素が含まれていたのだ。
「あぶねー、あぶねー」
すけべ心を出してうっかり接触を許していたら、こうなっていたのは自分の方だったと、京一は胸を撫で下ろした。
───おのれッ、このわらわが人間ごときにィィ……ッ!!
女が怨嗟の声を絞り出す。振り乱した髪が意志を持った触手のごとく四方に伸びた。
その躯が歪に膨張するのを認めた京一は、得物を峰に返して手近な幹に打ち付ける。腐食した先端から中程までの部分が折れ、細かな破片が散らばった。
これならば、まだ充分に闘える。
折れた白刃を構え、頭部を狙う。
女の躯は今や、炎角に匹敵するほどに膨れあがっていた。重みに堪えきれなくなった幹が軋みを上げて大きく撓む。したたり落ちる体液を吸い込んだ根本が腐った泥土と化していた。
「でやああッ」
うねり来る毛髪の間隙を縫って、右足を踏み込み八双から打ち下ろす。
唸るような豪剣だったが、左右から覆い被さってきた黒糸の束に跳ね返された。
弾き飛ばされた躰を立て直そうとした青年が何かに気付いたように身を伏せる。
その頭上、紙一重の場所を太い幹が飛び過ぎた。いつの間にか女の腹から生えていた足が手近な若木を引き抜いたのだ。
「ここじゃ、やべェな」
水角の髪は四方の樹木や繁みに絡み付き、独自の陣営を創り出している。
自身の不利を感じた京一は、背後に回り込んでいた糸を切り裂くと比較的広さのある中央へと踊りでた。
距離を取り、眼界を広げたことで相手の全容が見えてくる。
白く滑らかだった女の肌には、赤茶色の細かな毛がびっしりと生えていた。
美しかった風貌は見る影もない。
滑らかに見えた毛髪はべっとりと濡れそぼり、粘りのある糸を引いている。
節を持つ八本の足。膨張した腹。黒光りする体液を垂れ流すそれは、著大(ちょだい)な絡新婦(じょろうぐも)だった。
───掌底・発勁ッ!
裂帛の気合いと共に繰り出された龍麻の拳に、眩い光が宿る。
一直線に敵に向かっていった《氣》の塊は、しかし、分厚い鱗を前に為す術もなく霧散した。
火石竜子が長い尾を振り回す度に、ブランコが拉げ鉄棒が分断される。
龍麻は躰を傾けると、跳ね飛ばされてきたバーを避けた。
比較的装甲の薄そうな腕の継ぎ目を狙い再び掌底を放つ。戦果はやはり同じだった。
一箇所を狙って集中攻撃を浴びせようにも、遠距離から放つ発勁では意図した場所から狙いが逸れやすい。
直接拳を当てることができればいいのだが、標的を守っているのは堅牢無比なる装甲だけではなかった。躯を包む高熱の焔が龍麻から直接攻撃の手段を奪っている。
触れたその瞬間にも全身が燃え上がってしまうのでは、何発も拳を打ち込むどころの話ではない。
(目を狙うか……。しかし、闇雲に暴れられても厄介だしな……)
様子見程度に技の応酬をしながら対応策に頭を悩ませる。
炎角とは異なる瘴氣が膨れあがったのは、真っ赤に焼けたブランコの鎖を手甲で叩き落とした時だった。
背中に伝わる軽い衝撃。
「よォ、ひーちゃん。いつになく苦戦してるみてーじゃねェか」
龍麻は首を巡らせると、肩越しに半分ほどの長さとなった相棒の武器に目線を注ぐ。
「お前の方がよほど手こずっているように見えるけど?」
「へへッ。何言ってやがる。闘いはまだまだこれからだぜ……っとッ!!」
軽い調子で嘯き、京一は獲物を捕らえんと伸びてきた黒糸を、振りかぶった刀で上から叩き伏せた。
蜘蛛が口から水を噴き上げる。青年は手早く脱いだ上衣を敵の頭上へ投げつけた。水鉄砲の盾にされた綿布が瞬く間に溶け、襤褸雑巾のごとく地に落ちる。
水角が操る水には体液と同じ、毒の成分が含まれていたのだ。
どれほど軽捷な動きをしようと頭上から降り注ぐ水を避けきることは難しい。ランニングシャツ一枚となった青年の皮膚には、そこかしこに火傷の痕が出来ていた。
「冷たい……」
京一と共に飛沫を浴びた龍麻の顔色が変わった。
「京一ッ!そいつをこっちに近づけるな!!」
叫ぶなり拳を固めて炎角へ怒濤の一撃を放つ。《氣》に押し出された巨体が、地を滑るようにして後ろへと下がった。
「一体どうしたってんだよ?」
京一は呆然とする。
「極端に温度の違う液体二つを混ぜ合わせると何が起こるか知っているか京一?」
佳人が続く動作で左足を軸に躰を反転させ、背面へ向けて蹴りを放った。衝撃に均衡を失った水角が腹をみせて転がる。
「へ?いや。何かヤバイことでもあんのかよ?」
答える声色は重かった。
「……水蒸気爆発が起こる可能性がある」
水蒸気爆発とは、温度差の激しい二つの液体が触れ合うことによって、温度の低い方が急激に蒸発・体積膨張を起こして爆発する現象をいう。
龍麻が浴びた水飛沫は、氷水かと思うほどに冷え切っていた。その後すぐに皮膚を焼く感覚に取って代わられたが、それは毒の徴(しるし)によるものであって液体自体の温度とは何の関連性もない。事実、水角の操る水は辺りを包む熱気によって先程からひっきりなしに蒸気を吹き上げていた。
もし、絡新婦の水が火石竜子の作り出したマグマに流し込まれたら。大惨事が引き起こされるだろうことは想像に難くない。
「けどよ。そんなことになればあいつ等だって只じゃ済まねーんじゃ……」
現状を把握した青年が頬を引き攣らせた。
「連中がそれを認識するだけの知性を残していると思うか?」
「…………思わねェ」
だから鬼道衆・中忍は外から結界を張ったのか。爆発に巻き込まれぬよう自分達だけ安全なところに身を置くために。
合点のいったところで、京一は相方に意見を求めた。
「どうする、ひーちゃん」
水角は躯を起こそうと藻掻き、必死に八本の足をばたつかせている。
龍麻は思案しながら言を紡いだ。
「まずは、炎角を仕留める。それまで水角の抑えを頼めるか?」
「抑えってなんだよ。まさかと思うが、ひーちゃんがひとりで両方仕留めるとか言い出すつもりじゃねーだろうな?!」
「その刀は、もう使い物にならないだろう?」
「……………ッ!」
図星を指されて息を呑む。
最前、蜘蛛の糸を切断できなかったときに気付かれたかもしれないとは思っていたが。
京一の得物は腐蝕部分を取り除いたにも関わらず、絡新婦と渡り合う内にその輝きを失ってしまっていた。毒水を浴び、糸が粘着した刃の切れ味は皆無に等しい。
「その有様では足止めさえも難しいのはわかってる。無理にとは言わない。出来る範囲で頑張ってくれ」
「ひーちゃん……」
京一は、役に立たなくなった刀を固く握りしめた。
剣がなければ。
京一に為し得ることは何一つないのだろうか。
鍔を鳴らし、切っ先を振り上げ。敵を斬り下げることだけが己の持つ闘いの全てではあれど。
道具に頼らなければ、武器に寄り掛からなければ。護られ庇われるだけの存在に成り下がるしかないのだろうか。
(ひーちゃんや醍醐は空身でも戦ってるってのに……ッ)
「……楽しみを独り占めしちまおうだなんて、ずるいぜ、ひーちゃん」
決まった条件下でしか闘えないというのであれば、道場試合と変わらない。いずれは龍麻に見捨てられ、置いて行かれてしまうだろう。
「水角の方は、俺に任しちゃくれねーか?」
あるのは意地のみ。これといった策もなければ、勝機も見えない。
それでも、誰よりも龍麻に近い位置を望み、並び立つことを求めるならば。この程度のことで躓いているわけにはいかないのだ。
「京一?」
訝る二つの黒曜石を正視する。視線が交わったのは、一時だった。
「――わかった。お前に任せる」
返される頷きに胸が熱くなる。短い諒承は、京一を信頼してくれたという証。もしものときは共に死を迎えることさえ辞さないという、覚悟の表れだった。
「サンキューな。ひーちゃん」
期待を裏切るわけにはいかない。龍麻のためにも、己の為にも。
青年は改めて気合いを入れ直すと、腹に力を篭めた。
二人同時に地を蹴る。
京一は漸く身を起こした水角の目前に躍り出ると、火石竜子とは反対の方向へ誘導を始めた。
頭上より迫る鎗の穂先のような前足を、躰を捻ってやり過ごす。前屈みになった勢いは殺さず敵の懐へ飛び込んだ。上体を低くして腹の下を潜り、後足の間から抜け出る。
追跡してきた糸が刃に絡まった。
引き千切ろうとした青年は、掌に伝わる何とも言えない感触に顔を顰める。毒に侵された鋼は、ゴムのように柔らかくなっていた。指先で軽く触れただけでくたりと折れ曲がる。
(どうする……?)
せめて予備の刀があれば……と考え、すぐにそれを否定した。
何本替えがあろうとも、現状では同じ事の繰り返しとなるだけ。
だからといって、龍麻と対戦相手を交代してもらうわけにもいかなかった。
灼熱の邪竜の持つ炎は、容易く鋼を溶かしてしまうから。
輝きを失い、刃を欠き。
剣はその役を果たさなくなり、攻撃力は地に落ちた。
為す術のない京一は木偶のごとく立ち尽くし、幼子のように途方に暮れている。
だが――。
少し離れた場所で爆発音が轟いた。
咄嗟に目を走らせてみれば、龍麻が右へ左へと移動しつつ敵を翻弄している。
京一の相棒は炎角の鼻先に付き、一定の距離から離れようとしなかった。
佳人の拳が唸るたびに、そこかしこで光が弾ける。
炎の下を掻い潜り、鋭い爪を逃れて。龍麻は何らかの意図を持って敵を挑発しているようだった。
───そういや、ひーちゃんって間合いの外からでも攻撃してるよな。
京一は今し方炎角と水角を退けた相棒の動きを反芻した。それは、腕力ではなく《氣》の力によって敵を討つ『技』。
形なき拳。
形なき──刃。
「……ひーちゃんに出来て、俺にできねーってことはねェよな」
ふ、と京一の口角に不敵な笑みが浮かんだ。
糸の絡みついた得物を力任せに引っ張ると、柄の部分から刃がずるりと抜け落ちる。
手の中に残ったものを水角の顔面に投げつけ、相手の気が逸れたところを狙って走り出した。途中、落ちていた鉄棒のバーを拾い、充分に距離を取ったところで改めて向き直る。
周囲を埋め尽くす強烈な熱気と毒に朦朧とする意識を鼓舞して、手にした得物を地擦りに構えた。
足を配り、荒ぶる呼吸を鎮め。これまではただ高めるだけであった《氣》に明確なイメージを送り込む。
打つ手がないからといって、簡単に諦めてしまうつもりはない。
術がないのなら作ればいい。
望むのは至高の場所。求めるのは絶対の位置。
譲れないものを護るために。自分の決意を見失わないために。
己の進む《道》に、まだ終わりがないことを信じて。壁を乗り越え、障害を突き破る。
《氣》によって生まれた小さな風が、青年の髪をふわりと煽った。
間合いを詰めてきた水角が、穢れた水を吐き散らす。
京一は下から跳ね上げた鉄棒のバーで、真正面からの濁流を両断した。
(まだだ。まだ足りねェ……)
更に《氣》を練りながら素早く手首を返すと、得物を肩の上に水平に寝かせる。
左右から京一の躰を串刺しにせんと水角が前足二本を振り上げた。覆い被さってくる妖怪の丸々とした腹を、青年は身動ぎもせずに見据える。
「いくぜッ!!」
車輪に振るわれた切っ先が、旋風を巻き起こした。
絡新婦を押し包むように渦を巻いた風が、刃となって敵を切り刻む。
妖が叫喚した。
―――こ、九角さまぁぁぁぁぁぁぁ………………ッ!!!!
風の螺旋は狭まるほどに威力を増し、最後に鬼の首を撫でてするりと消えた。胴を離れた女の首が、飛沫を跳ね上げて泥水の中に落ちる。
地響きを立てて崩れ落ちる巨躯の向こうに、滑り台の階段を駆け上がる龍麻の後ろ姿があった。
後を追う火石竜子が、黄色く濁った牙を剥く。
限界まで《氣》を高められた拳が、今まさに焔を吐きださんとする口腔の中へ突き出された。
しなやかな躰が炎の滝に打たれ、紅蓮の裡に姿を隠す。
「ひーちゃんッ!!」
大呼する京一の双眸が、滝を昇る影のようなものを捕らえた。鳥のようにも見えたが定かではない。
その影に導かれるように、焔の滝が逆流を始めた。緩やかな動きはすぐさま奔流となり、怪異の後頭部を突き破り巨大な火柱となる。
反り返った炎角が、恨めしげに天を仰いだ。
躯が黒く変色していく。火石竜子は、内側から蝕まれるように燃え尽きていった。
「よォ、おつかれさん……」
龍麻に大きな怪我はなさそうだった。安堵した京一は、階段を下りてきた佳人と軽く掌を打ち合わせる。
「あぁ……そっちも終わったみたいだな」
「一瞬やられちまったんじゃねェかと、ひやひやしたぜ。最後のあれは新しい『技』か?」
青年の問いに、佳人は軽い苦笑を浮かべた。
「炎角の焔に押し負かされないよう、『発勁』に『巫炎』を併用してみただけなんだけどな」
技同士の相性が思いの外良かったことから、想像以上の効果が顕れた。もう少し修練を積めば使える形になるだろう。
「俺のことより、新しい芸を覚えたのはお前の方だろう」
激闘の最中ではあったが、龍麻は京一が水角を斃す場面をしっかりと目に焼き付けていた。
これまで直接攻撃しかできなかった青年が、間合いの外から敵を討つ術を手に入れたのだ。この功績は大きい。
「芸ってひーちゃん、猿じゃねェんだから……」
「似たようなだろう」
「あのな……ッ」
京一が、がっくりと肩を落とした。
「いいじゃないか、誉めてるんだから。それより京一、学校に着替えは置いてあるか?」
互いの姿を見比べれば、汗と泥、炎と毒の水によって惨憺たる状況を呈している。この格好で街中を彷徨けば警官から職務質問を受けることは間違いなかった。
「ここからなら家へ着替えに帰るよりも学校へ寄った方が早いだろ。シャワールームへ行けば汗を流すこともできるしな」
旧校舎の鍛錬で汚したときのために、龍麻達はなるべく学校に着替えを置くことにしている。京一は曖昧に頷いた。
「制服は部室の方に置いてあんだけどよ、得物がなァ……」
「そっちは翡翠に頼んでみよう。持ち合わせがないならツケにしてもらえ。俺達、約束の時間には間に合いそうもないしな。待たせる間に店で見繕ってきてもらおう」
さすがは相棒、京一の懐具合をよく承知している。
つい先日、小遣いを叩いて国綱を購入したばかりの青年は、握っていた鉄棒のバーを憂鬱そうに見下ろした。
今月も赤字確定である。
龍麻は耳元に届くぼやきを聞き流し、携帯電話の短縮ボタンに指を掛けた。闘いで壊れてしまったかもしれないと危ぶんでいたが、どうやら問題なく使えそうだ。
「そういや、中忍共はどうなったんだ?」
相棒の通話中、公園内を一望していた京一がぽつりと呟く。
騒動に紛れてすっかり忘れ去っていたが、自分達は閉じこめられていた筈だ。
「気配は残ってないな。結界も解けているし、逃げたんだろう」
龍麻は使い終わった携帯電話をズボンのポケットに仕舞い込む。
「放っておけばいいんじゃないのか?敵の本陣に乗り込めば、嫌でも顔を合わせることになるんだし」
そりゃそーだ。と、京一は頷いた。面倒事は少ないに越したことはない。
「……で、如月のヤローはなんか言ってたか?」
奴のことだから『武器が壊れたのは使用者が未熟なせいだ』だの、『店に戻るなど時間の無駄だ』だのと、ここぞとばかりに嫌味を連発したに違いないのだ。
新しい得物を手渡されるときの恩着せがましい口調まで想像できてしまった青年はげんなりとする。
しかし、幸か不幸か予想は裏切られた。
「特には何も言ってなかったよ。まだ店からさほど離れていなかったらしい――あちらも襲われたそうだ」
「へェ……」
なるほど。他の幹部連中はどうなったのかと疑問に思っていたのだが。
「鬼道衆の奴等も必死だってことか。当然、醍醐達のところにも行ってんだろーな。連絡を取った方がよくねェか?」
「平気じゃないかな。醍醐はお前と違って慎重だし」
おネェちゃんの色香に惑わされることもないだろうしね。との一言に、青年は呻く。
「ひでェぜ、ひーちゃん」
「感心しているんだよ。お前があれだけの美女を目の前にして、よくぞ鼻の下を伸ばさなかったものだ、ってさ」
褒められているのか貶されているのか。
判別しがたい物言いをした龍麻は、汗で額にべったりと張り付いた前髪を掻き上げた。普段は隠された麗質が露わになる。水角の美しさが霞んで見える程の、圧倒的な美貌。
その白い額を眺めつつ、京一は些か大仰に胸を逸らした。
「俺は最近、男の友情ってやつに目覚めたんだ。俺を待ってる全国のおネェちゃん達には悪いが、そう簡単には落ちないぜ?」
龍麻が胡散臭そうに相方を見遣る。
「……お前、紫暮や醍醐の拳で語り合う友情とやらに付き合うつもりか?止めはしないが、俺には声を掛けるなよ」
「冗談言うなッ!俺だってあんな暑苦しい奴等とつるむのはごめんだぜ!」
特にこの季節はごめん被りたいと、青年は本気で身震いした。
京一が見たいと望むもの。惹かれて止まぬものは、もっと別の場所にある。
それは炎を纏い、水のごとき流るる動作で敵を打ち倒していく怜悧な佳人。
何よりも艶やかに。
誰よりも鮮烈に。
目にした者の心を躍らせ、血を沸き立たせるような刺激を与えてくれる至上の華。
ここには、ぬるま湯のような女の子達との付き合いの中では、決して得られぬ充足感があった。
闘いを前にして湧き上がる高揚感。敵を斃したときに得られる達成感。
己の力を遺憾なく発揮できる悦び。
そして、この奇蹟の存在に並び立つことの出来る優越感が──。
炎角と水角の屍骸が溶け崩れ、土に還っていく。
両者の核を形成していた小さな木片を拾い上げ、細かく砕いた龍麻が口を開いた。
「そろそろ退散しよう京一。通りがかった人に見咎められると拙い」
結界が失われた今、児童公園内の惨状は誰の目にも明らかだった。遊び場を失ってしまった子供達には申し訳ないが、弁明している暇はない。
「そうだな。さっさとずらかろうぜひーちゃんッ!!」
「ああ……と、その前に……」
足早に公園を出ようとする相棒の後に続こうとした龍麻は、踵を返すと今一度『巫炎』を放った。園内に凝っていた瘴氣を浄化しながら炎が静かに拡がっていく。
入り口に待機した青年は、浄化の光に包まれた公園を見て目を細めた。
この光景を美しいと感じる自分は、どこか狂っているのかも知れない。
それでも。京一の中に立ち止まろうという考えは浮かばなかった。
過ちでもいい。後悔してもいい。
やがては闘いに倦み疲れ、柔らかな温もりを求める日もくるのだとしても。
それまでは龍麻と共に、どこまで己を高めていくことが出来るのか確かめてみたかった。
二人が去った後の公園は、夏の午後の静寂を取り戻そうとしている。