出会わなければよかった。
「あの、わたしとデートしてくれませんか?」
校門で待ち伏せた紗夜の唐突な願いを、彼――緋勇龍麻は聞き入れてくれた。
「よかった!わたし、行きたいところがあるんです」
歓びに顔を輝かせ、するりと腕を絡める。
ちらりと上目遣いに見ると、緋勇は優しい瞳で微笑み返してくれた。
不覚にも涙がこぼれそうになって、慌てて俯く。
数時間後には、同じ瞳が自分を蔑むことになるのだと思うと、ひどく胸が痛んだ。
品川にある水族館は平日ということもあって、比較的空いていた。
紗夜は海豚やペンギンによるショーよりも、水槽の中をゆったりと泳ぐ魚たちを見てまわる方を好んだ。せまい箱庭で飼い慣らされ、命令に従う海獣達の姿は自分に重なるから。見ているのが辛かったのだ。
「比良坂は魚が好きなんだ」
大きな水槽の硝子に両手をあて、熱帯魚の動きをじっと追っていた紗夜は、はっとして振り返える。
「ご、ごめんなさい、わたしったら一人ではしゃいじゃって」
傍目にはおとなしく水槽を眺めていただけに過ぎない。けれど紗夜はいつの間にか、自分がすっかり緊張を解いてしまっていることに気づいた。
緋勇といると、心がくつろいでしまい、我知らず素をさらけだしている己がいる。
これも死蝋影司の言う、彼の特殊な《力》の成せる業なのだろうか?
「あの、つまらなかったですか?」
内心、臍を噛みながら、表面上は申し訳なさそうに取り繕う。
そんなことの出来てしまう自分に、吐き気を覚えた。
「そんなことないよ。ここは静かで落ち着くし……楽しそうな比良坂は見られたしね」
「ありがとうございます。そういってもらえると、うれしいです」
頬にうっすらと朱がのぼる――これも演技のうちなのか。もう、紗夜自身にもわからない。
「でも、魚にとっては不幸なことなのかもしれませんね。こんな狭いところに閉じこめられて、衆人の目にさらされて」
緋勇はちょっと考え込んだ。
「少なくとも、餌の心配はしなくていいよね、捕食されることもない」
紗夜と並び同じように水槽に片手を置く。自分より大きい、白く細長い指に紗夜はドキリとする。
「自由だけれど危険な外海か、安全だけど限られた水槽の中か。どちらを望んでいるのかは……当事者に聞かないとわからないだろうけど」
個々によっても意見が分かれるだろうしね。
「聞くって、魚に直接、ですか?」
硝子越しに魚に向かって話しかける緋勇の姿を想像してしまい、紗夜はくすくすと笑った。
「変かな。でも、人も魚も考えていることにそれほど違いはないと思うよ。種別は違っても同じ生き物なんだし」
平和に、安全に、楽に、幸せに――雑多な感情に支配されながらも、根底にあるのは『生きたい』という本能。
「……博愛主義、なんですね」
同じ生き物だから、同じように慈しむべきだというのか。
紗夜はそれほど優しくなれない。
本当に大切なものは、ほんの一握りだけだから。手放したくなかったし、護りたかった。愛されたいから、嫌われたくないから――そばにいたいから。なんでもできたし、まわりを欺いてきた。
罪に濡れた手。
……本当は、この綺麗な人の隣に立つ資格さえないのに。
紗夜の言葉を皮肉と受け取ったのか、緋勇は苦笑して「違うよ」と言った。
「どちらも同じように殺せるってことだよ」
口元に佩かれた薄い笑み。まわりの空気が昏く翳ったような錯覚に、紗夜の肌がざわりと泡立った。
「緋勇……さん?」
「出口だ。少し疲れたね、休もうか」
そういって振り向いた顔は、いつもどおりの穏やかなもの。紗夜はただ、小さく頷いた。
ほの暗い建物から出ると、傾きかけた初夏の日差しが一斉に降り注いでくる。
紗夜はまぶしさに目を細めた。
やわらかい潮風の中、目に痛いほど輝く若緑の芝生の上を並んで歩く。飲み物を買ってこようという申し出を断り、水飲み場に走った。ただの水がすごく美味しく感じられる。
海を見渡す白い柵に寄りかかり、近づいてくる緋勇の姿を見守った。
出会いは作為。
仕組まれた偶然の中で目にした彼の姿は、ひどく優しげで。紗夜は本当にこの人物が、死蝋影司が求めるほどの人物なのかと訝しんだものだ。
死蝋の要請に応じ、能力データを取るために不良達をけしかけたこともある。
彼等の強さは圧倒的だった。蓬莱寺など普段のおちゃらけぶりはどこへいったのかと疑うほど鋭利な気を放ち、緋勇と絶妙のコンビネーションを発揮していた。
それでも、いままではどこか信じ切れていななかったのだ。
彼を包む空気はあまりにも澄んでいたから。
血や死臭などといったものとは無縁の場所にいる人なのだと感じていた。
決して手の届かないところにいる、陽光の下を歩いている人なのだと思っていた。
先ほどの表情を眼にするまでは。
(この人は、心の奥底に深い闇を抱えているのかもしれない……わたしと同じように)
だから、なのだろうか。彼に聞いてみたくなったのは。彼がなんと答えるのか興味があった。あるいは彼ならば、紗夜の苦しみを癒してくれるかもしれないと……。
「ねえ、緋勇さん。『奇跡』って信じます?」
緋勇はあっさりと頷いた。
「信じるよ」
「何故ですか?」
たたみかけるように問うと、緋勇はさすがにちょっと戸惑ったようだった。
「……比良坂は信じてないの?」
紗夜は緋勇に背を向けると、柵の上で頬杖をつく。
「わたしは信じません。……わたしね、小さい頃両親を亡くしてるんです」
楽しかったはずの一家団欒が、悪夢に変わった一瞬。
「家族旅行のときに乗った飛行機が墜落して、わたしと兄だけが生き残りました」
墜落した時点では、生存者は他にもいた。父はすでに事切れていたが、母はまだ少し息があったのだ。破損した機体の一部の下敷きになった彼女を救うべく、紗夜たち兄妹は手が血まみれになるまで努力した。でも、努力だけではままならないこともあるのだ。
幼子の力では障害物は微動すらせず、二人は泣きながら母が冷たくなっていくのを見守るしかなかった。
他から助けの手はなかった。
母だけではない。大怪我を負った者達は、碌な手当ても受けられず、ひとりふたりと息を引き取っていった。比較的元気な者は、己の身を襲った不幸に対するやりきれなさを幼い紗夜達にぶつけはじめた。
少ない食べ物を争って奪い合い、挙げ句殺し合いまで始め……、やっと救助がきたときには、紗夜と兄だけになっていた。
彼らを愚か者と謗る権利は紗夜にはない。兄もまた、彼女を護るために人を手に掛けていたことを知っていたから。
「みんながわたしたちが助かったことを奇跡だって言いました。でも、わたし思うんです。本当に奇跡だったなら、どうして父母も助けてくれなかったんだろうって。……どうして兄と、離れなきゃならないんだろうって」
保護された兄妹を待っていたのは、マスコミの猛攻勢だった。病室にまで記者が入り込んできては、体調の回復しきっていない二人に不躾な質問を投げかけてくる。ベッドの周りは、すれ違ったことさえない人たちからのプレゼントの山でいっぱいになった。
そして、騒ぎが一段落したときには、紗夜達を気に留めるものは誰もいなくなっていた。兄とも引き離され、親戚の家をたらい回しにされて。何処へ行っても厄介者として扱われたのだ。
信じられるのは、死蝋影司ただひとりだけ。
彼のためにならなんでもできる。
死体でも生きた人間でも。彼が望むだけ手に入れて見せよう。
たとえそれが、緋勇龍麻だとしても――。
「『奇跡』には代償がいるんだよ」
指が白くなるほど強く手すりを握り締めた紗夜の背中に、静淑な声が掛けられた。
「『奇跡』を起こすのは、運命を歪め星の運行を妨げるほどの強い想い。ならば、願いをかけた者が、そのためにできたひずみを受け止めるのは当然のことだ」
「わたしたちが幸せになれないのは、生き延びたことの代償だっていうんですか!?」
だったら紗夜は生き延びたくなどなかった。事故の時、両親と兄と一緒に眠りについていたら、楽しい夢を見続けていられたのにと何度思ったことか。
振り向いた紗夜の眼に、どこか悲哀を含んだ緋勇の顔が映る。
「比良坂のご両親は、君とお兄さんがこの先、苦労することを解っていたんじゃないかな。……それでも生きていて欲しかった」
それが、紗夜達の望みにそうものではなかったとしても。
『奇跡』を起こしたのは、彼女達の両親なのだから。
風になびく紗夜の髪が緋勇の頬に掛かる。緋勇の指先が、栗色の髪を軽く絡めた。
「どんなに辛いことが待っていたとしても、生きていればいつかは幸せになれる。比良坂達ならそれまでがんぱれるってご両親は信じてたんじゃないかな」
「あ……わたし……」
考えたこともなかった。死に行く両親が、どんな気持ちでいたかなんて。
あの人達は、紗夜が真っ直ぐに生きていくことを願ったのだろうか。ちゃんと顔を上げて歩いていける人生を望んでくれていたのだろうか。
だとしたら、今の自分は――。
震え出した紗夜の肩を、緋勇がそっと抱き寄せた。
落ち着くまでそうやってじっとしてぬくもりを与えてくれる。
滲んだ紗夜の視界に、赤く焼ける水平線が映った。
もうじき日が暮れる。
緋勇を連れて行かなければならない。
あの人の待つ場所へ――。
(簡単なことだわ。『もう少しだけつき合ってください』って言えばいいんだもの)
優しいこの人は、きっと頷いてくれるだろう。
夕日に映え不可思議な色合いを湛える虹彩が、顔を上げた紗夜を見つめ返している。
両親の願いとは大きくかけ離れてしまった紗夜の醜い姿を。
「……っ!わたし……」
紗夜は口元を手で抑えた。
「ごめんなさい。わたし……わたし、失礼します!」
返事も待たずに駈けだす。
緋勇はきっと変に思っただろう。
それでもいい、と紗夜は思った。
これ以上、彼の瞳が自分の姿で穢れるのを見たくはなかったから。
紗夜は振り返らなかった。
だから、スカートのポケットから一枚の写真が滑り落ち、緋勇がそれを拾いあげたことなど知るよしもなかった。
半ば朽ちかけた廃ビルの地下に、死蝋影司の研究室はあった。
乱暴に扉を開けて飛び込んだ紗夜は、スチール椅子に腰掛ける白衣の背中を認め、慌てて目尻の涙を拭う。
「どうしたんだい紗夜。なにかあったのかい?」
くるりと椅子を回した死蝋に、無理矢理笑顔を作ってみせた。
「ううん。なんでもない。ごめんさない、もっと帰りが遅いのかと思ってた」
今日は大切な人に会う日だったんでしょ?
「あんな奴等、なにが大切なものか。僕の崇高な研究の10分の1も理解できない愚か者どもが!」
侮蔑も露に吐き捨てる。
どうやら、泣いていたことには気づかれなかったようだ。紗夜はほっと胸をなで下ろした。
「そんな言い方……お金を出してもらってるのに……」
死蝋はことあるごとにパトロンを見下す。紗夜は直接会ったことがないが、非合法の研究を推奨する以上まともな連中でないことは確かだ。しかし、自分たちの生活は彼らに支えられている。彼らを貶めることが、ひいては自分たちを辱める行為に繋がると死蝋は気づかないのだろうか。
「かまわないさ。この研究が完成すれば、各国はこぞって欲しがるだろう。そうしたら、一番高く買い取ってくれる国に売りつけてやる。僕たちは一躍、大金持ちだ」
紗夜にも好きなだけ、贅沢させてやれるぞ。
「そんなもの、欲しくない。わたしはただ、あなたと静かに暮らせれば、それでいいの」
「ああ、紗夜。僕のかわいい紗夜。もちろん、僕も君だけがいればいいさ。だけどね、金はあるにこしたことはない」
昔みたいな貧窮を味わいたくはないだろう?
「二人で暮らすのに、そんなにたくさんのお金なんて必要ないわ」
「それは違うよ紗夜。金はいくらあっても困るものじゃないからね。いや、あればあるほどいいのさ」
「昔はそんなこと、言わなかった。……どうして……」
死蝋が手招く。
「気づいたのさ。金という偉大な魔物の持つ力にね」
紗夜は求められるままに身を委ねた。死蝋は足の間に紗夜を座らせると、横から深く抱き込む。
「そういえば紗夜。『彼』はどうしたんだい?」
つきんッと紗夜の胸を針が突き刺す。声が震えてしまわないよう細心の注意を払った。
「ごめんなさい。失敗してしまったの」
「失敗?紗夜が?」
死蝋がさも意外そうに目を見開く。
彼は思いも寄らないのだろう。紗夜が躊躇いを感じていることなど。
「……さすがだね」
ふうっと死蝋が息を吐き出した。
「え?」
紗夜の栗色の髪を何度も梳き、指で弄ぶ。
「上野、代々木、目黒……東京に起きているさまざまな怪異事件は、マスメディアに大きく取り上げられたものもそうでないものも、すべてが彼を中心とする高校生達によって収束している」
死蝋は紗夜を抱く手に力を込めた。
「直近では、緋勇君の友人である醍醐雄矢に恨みをもった、凶津煉児による通り魔的犯行だ。現代のメデューサとも言うべき生き物を石に変える彼の《力》はさぞかし脅威であっただろう。しかし緋勇龍麻はいともたやすくそれをはねのけた」
紗夜は密かに唇を噛んだ。
「彼の仲間達の《力》も素晴らしいが、なんといっても一番は彼だ。彼さえいれば、僕の研究は飛躍的に進むに違いない」
もし、緋勇が死蝋の手に掛かれば。
柔らかい微笑みを二度と見ることが出来なくなってしまう。
吸い込まれそうな瞳も、優雅な仕草も、時折見せる儚ささえもが作り替えられて。彼は死蝋の人形と化すのだろう。
殺戮を繰り返すだけの、意志のない兵器と成り果ててしまう。
「ごめんなさい。わたし、彼を連れてこられる自信がない……」
紗夜が死蝋の命令に対して否定的な言葉を発するのはこれが初めてだった。しかし意外にも死蝋は満足げな肯きを返す。
「ああ、そうだね紗夜。わかってるよ」
髪に唇が落とされた。
顔を埋められたのが、緋勇の触れた場所だと気づき、紗夜は身じろぐ。
「お前にはちょっと荷が重かったようだ。もちろん紗夜が悪いわけじゃない。彼がそれだけ、優秀だということの証明だ」
唇を耳元へと移動させ、死蝋が囁く。
「ときに紗夜。彼には正体がばれてしまったのかい?」
「……う、ううん。そ…んな、はずは、ない、わ」
躰の線をたどっていく指に、紗夜は息を詰めながら言葉を紡いだ。
神経質そうな指先が制服の上着にかかる。
「……ならば問題ない」
解かれたリボンが、ぱさりと床に落ちた。
細波のように押し寄せる快楽に身を委ねながら、紗夜は静かに涙をこぼす。
『生きていれば幸せにもなれるよ』
繰り返し心の奥で谺する緋勇の言葉。
出会わなければよかった――。
そうすれば、自分がどれほど罪深いか知らずにすんだ。
緋勇の傍らで笑う彼らに嫉妬することもなければ、自分が光あふれるその場所にふさわしくないことを思い知ることもなかったのに。
偽りはじき暴かれる。
そのとき、彼が紗夜に向けるのは蔑みか哀れみか。
(緋勇さん――龍麻――それでも、わたしは、あなたを――)
翌日、緋勇の手元に一通の手紙が届いた。
差出人は、Dr.ファウスト。
緋勇にとっては空疎でしかない内容を書き連ねたその手紙は、しかし次の一文のみにて彼を動かした。
曰く。
『君を招待するために、ある人に協力してもらった』と――。