敵の御大である九角を倒し、やっと穏やかな日々が戻ってきた。
寝坊して修学旅行で置いてけぼりをくらいそうになったとか、女風呂を覗きに行って生物教師に咎められたとか、夜中に無断外出して地上げ暴力団と揉め事を起こしたりとかいったことはあったにせよ、そんなものは些末事に過ぎないのだし、退屈な日常を潤す小さな刺激は必要だ。
事件らしい事件もなく、京一達は概ねつつがない1日を送っていた。
変事が起こったのは、虫たちの音色がもの哀しく響く、秋の夜のこと。
二度目に対峙した『それ』は、志半ばで潰えた男の形骸に過ぎなかった。
己の意志に反した黄泉返りは、男から覇気というものを根刮ぎ奪い去っている。
生きて思惑を利用され。
死してなお、魂を絡め取られる。
他者のたなごころの上で踊らされていたに過ぎなかったのだと、そのときになって漸く男──九角は悟った。
京一達に忠告を残すことだけが、唯一男にできた抵抗だったのだ。
―――おめェらの闘いは、まだ終わった訳じゃねえ。
―――緋勇よ、この女を……美里葵を守ってやれ……。
残された者達の胸に波紋を投げかけ、男は一握の塵となった。
男の言葉は、平和の終演を告げるもの。
新たな闘いの幕開けと、さらなる強敵の存在を知らしめるものであった。
それぞれが不安の滲む顔を見合わせる中、龍麻だけが虚空に浮かぶ紅き月をじっと見上げていた。
高校生の一人暮らしにしては、破格に広いフローリングの床に寝ころび、京一はテレビに見入っていた。
二つ並べたブルーのクッションを下敷きに肘をつき、懸命にコントローラーを操っている。
龍麻がテレビを買ったというので、遊びに来たときは驚いた。
20畳はあるフロアーに新品の38インチワイド型テレビが、重厚な存在感を主張していたのだから。
テレビを買うよう勧めたのは京一だったが――ニュースソースは必要だというのが建前で、龍麻の家へ遊びにきたときも、アイドル舞園さやかちゃんを拝みたいというのが本音だ――まさか、ここまで立派なのを見つけてくるとは思わなかった。
京一としては、せいぜい14インチの中古品でも買ってくれないかな、程度の気持ちだったのに。
緋勇龍麻という青年は、金銭感覚がズレてるのを通り越して突き抜けてしまっている。もとい、金銭に関わらず、わけのわからない知識は豊富なくせに、妙なところで世俗に疎かった。
以来、京一は不用意に龍麻に物を勧めるのはよそうと心に誓っている。
ともあれ、せっかくの大画面を堪能しない手はなく、京一はゲーム機やらソフトやらを持ち込んでは遊びほうけていた。
最初の頃こそ、あまりの立派さにビクビクしていた龍麻邸だったが、通い慣れてしまった今では勝手知ったる他人の家とすっかり緊張を解いている。
「京一、勉強しに来たんじゃなかったのか?」
お茶の支度を整えて戻ってきた龍麻が、だらけきった背中に問いかけた。
京一のみに出題されたスペシャル問題集――別名、授業中に惰眠をむさぼった者へのお仕置きともいう――を終わらせるのに協力して欲しいと、泣きついて来たのはどこの誰だというのか。
「んーっ。もうちょい……」
子どものような言い訳をする背中を踏みつけてやる。蛙を潰したような悲鳴が上がった。
「ぐえっ、ひーちゃん何すんだよ」
「うわっ、急に起きあがるなよ。お茶が零れるだろ」
人を踏みつけにしておいていう台詞ではない。
しかし、その手にある銀色のトレーが、安物のメッキではないことが容易に想像できてしまった京一は、とりあえずおとなしく謝っておいた。
「悪りィ、でもよ、いいトコだったのに、ひーちゃんが邪魔するから……」
画面に浮かび上がる『GAME OVER』の文字。
「これで諦めがついたろ。ほら、お茶を飲んでさっさと課題に取り組めよ」
「へいへい」
これ以上駄々をこねるとお叱りを受けてしまう。出入り禁止を言い渡されては洒落にならないと、京一はしぶしぶ体を起こした。
下に引いていたクッション――これも京一が持ち込んだ物だ――のうち、ひとつを龍麻に提供し残った方のうえに胡座をかく。
インスタントでは味わえない芳香が、鼻孔をくすぐった。
京一はカップを傾けつつ、湯気の向こうに座る佳人の様子を窺う。
視線に気づいた龍麻が目を上げると、京一は指を伸ばした。
絹の手触りを持つ漆黒の髪を掻き上げる。と、その下から現れた煌めく黒曜石の瞳が、整いすぎたきらいのある美貌に、鮮やかな命を吹き込んでいた。
「……何してるんだ?京一」
「前から思ってたんだけどよ、ひーちゃん何で前髪伸ばしてるんだ」
せっかくこんなに綺麗なのにもったいない。
「いきなり何を言い出すのかと思えば。学校にサングラスをしていくわけにはいかないだろ」
あいかわらず脈絡のない言動をしでかす青年に、それでも律儀に答えてやる。今度は京一が首を傾げた。
「何でサングラス?」
「急に瞳の色が変わったりしたら、やっぱりまずいだろ。変に悪目立ちしたくない」
お前は一度見てるだろうと言われ、京一は記憶の引出しをまさぐった。
「もしかして、……あん時のか?暗かったし、見間違いかと思ってたけど」
思い当たるのは、初めて龍麻の家へ足を踏み入れた夜。紗夜が炎の向こうへと姿を消した時のことだ。さすがに彼女の名前を口にすることは憚られたが、龍麻にはちゃんと伝わったようだった。
「そう、《氣》が高まると色が変わるらしいよ」
自分じゃよくわからないんだけどね。
「感情が乱れると、マズイってェことか?」
「それもあるけど、周囲の《氣》に感化されてってことのほうが多いかな」
大気に満ちる《氣》は常に一定とは限らない。月の満ち欠けや、地脈の胎動などによって絶えず変動している。龍麻はそういった周囲の変化に、我知らず呼応してしまうことがあった。
「へえ、でもよ。あの程度なら光の加減、ってんで誤魔化せねェか?」
脳裏に浮かぶのは黄昏を映す紫紺色の瞳。間近でのぞき込んでいた京一をして、いつもの闇の色を見誤っているのかと錯覚を生じさせた。さほど神経質になるほどのものでもないだろう。
そう述べると、龍麻は渋面を作った。
「京一が見たときは紫だったんだ?それなら、暗いところなら大丈夫かもしれないけど……」
「へっ?もしかして、他の色にもなるのか?」
見てみたい、と騒いで正面から瞳を覗き込む。龍麻はすっと顔を逸らした。額に軽く添えられていた京一の手が外れ、指の隙間から癖のない髪がさらさらと流れ落ちる。
「……どうかな、自分で意識して変えてるわけじゃないから。周囲の《氣》に同調すれば変わると思うけど、いまこのあたりは龍脈の《氣》で満ちているから、あんまり実践したくはないな」
龍脈とは、地脈のなかでも特に強いエネルギーを抱えている部分を指していう。人体の血管を地脈にたとえるなら、龍脈は生命を育むために最も重要な部位、動脈というところだ。
この星に立つあまねく命は、大地の恵み……つまり地脈の働きによって生かされている。龍脈を制するは、この星の命運を握るに等しきこと。
《菩薩眼》が覇者を導く《力》を持つと謂われるのは、この龍脈の流れを汲み取れるが所以である。
「それって、なんか関係があんのか?」
白蛾翁・龍山が、世紀末も近い今年から来年にかけ、龍脈の活動がもっとも活発になるのがここ東京だと言っていたのを思い出す。
「うん。俺は龍脈と波長の合いやすい体質だから。へたをすると龍脈の《氣》に引きずれる怖れがある」
「…………そっか」
引きずられると、どうなるんだと聞いてみたかったが、とてつもなく恐ろしい答えが返ってきそうな気がしたので、あえて口を噤む。
代わりに宙に浮いたままだった手を龍麻の後頭部へ回し、軽く力を込めて引き寄せた。
京一の顔が至近距離になっても、龍麻は逃げない。
そうしてふと気づく。美里と龍麻で方陣技が組めたのは、龍脈の影響を受けやすいという共通項目があったためなのか。
(ひーちゃんって、紗夜ちゃんと美里のどっちが好きなのかな……)
栗色の髪の少女とクラスメートの顔を続けざまに思い出したことで、常々抱いていた疑問がぶり返す。龍麻はこの二人の少女――ひとりは故人だが――に対して他より気を配っていた。
(……って他人の心配してる場合じゃねェじゃねーか、俺)
恋敵の行く末を見守ってどうする蓬莱寺京一。
彼女達だけじゃない、小蒔も雨紋も藤咲も如月も……男も女も出会った者達全てが龍麻に惹かれている。いまは友人以上の感情を抱いていない醍醐や紫暮だって、いつ想いの方向が変わるか知れたものではないのだ。
(ひーちゃんは俺のこと、どう思ってんのかな)
うっすらと目を開けると、漆黒の前髪から覗く白い額が見える。ほんのり染まった目元が、凶悪なまでの色香を醸し出していて京一はさらに行為を深くした。
少なくとも嫌われてはいない……筈だ。
抱きついても逃げなくなったし、求める行為も、こうしておとなしく受け止めてくれている。
しかし、だから好かれているのかと言えば、京一は自信を持って頷くことはできなかった。
半ば力業で特別な場所をせしめた自覚があるだけに、いつ他の仲間にもって行かれるかわからない。なんといっても、強敵、難敵、曲者が勢揃いしているのだ。
「……京一?」
重なり合った唇を解いても一向に離れる気配のない京一に、龍麻は不審な表情をする。
「あ、悪りィ」
京一は慌てて龍麻から手を外した。
「何をぼーっとしてるんだ?紅茶が冷めちゃっただろ」
さほど怒ってない口調で問いただす。
二人を隔てる銀のトレーにのった白磁のカップは、中身の液体ごとすっかり冷たくなっていた。
「いや、なんだ、その……やっぱ、ひーちゃんって別嬪だよな、なんて思ってたりとかしたかな……へへへっ」
笑って誤魔化す。
面と向かって気持ちを聞く勇気は、さすがにまだない。「別に」などと答えられたら――可能性大だ――立ち直れないではないか。
「……馬鹿なこと言ってないで、いいかげん課題に取り組んだ方がいいんじゃないのか?」
龍麻はあからさまに呆れた顔をした。
「とりあえず、10ページ終わったら晩飯にするから。さっさと始めろよ」
基本的に龍麻は不言実行の人だが、有言したら何があっても遂行する。
課題テキスト全30ページ。
少なくともその3分の1は終わらせなければ晩飯にもありつけない事態に、京一は愕然とした。
「おい、ちょっと待て。龍麻!」
「何、京一?」
完璧に作り物とわかる、麗しい笑顔で答える。
「心配しなくても、『間違って』問題を飛ばしたり、適当な回答で誤魔化したりしなくて済むように、しっかり見てやるから、安心しろよ」
手抜きも許してはくれないらしい。
当然、全部終わるまでは寝かせてくれないだろう。
(今夜も徹夜か……)
京一は遠い目をした。
カリカリカリカリカリ。
どのくらいそうやって真面目に鉛筆を動かしていただろうか。おもむろに京一が口を開いた。
「……なあ、ひーちゃん」
「んー?」
側でのんびりと読書を楽しんでいた龍麻は、視線を伏せたまま声だけ返す。
「九角の最期の言葉、どう思った?」
「どうっていわれても……」
特にこれといった感慨を抱いた覚えはなかった。美里など哀れんで目を潤ませていたが、龍麻はもともと他人に対して、想い入れるような性格はしていない。ましてや、九角の場合は自ら望んで破滅したのだ。
「力を借りた奴に、最後の最後で利用されたっていうんだろ?それまでは好き勝手出来てたみたいだし、つけを払ったようなもんじゃないのか?」
「そーだけどよ……いや、そのことじゃなくて」
容赦ない龍麻の言葉は、正論なだけに余計、厳しく感じられる。普段あれだけ愛想の良い態度の裏で、こいつはこんなことを考えてやがるのかと思うとちょっと怖い。
「ひーちゃん、あのあと何か様子がへんだったからよ」
他人がいるときは、決して隙を見せない龍麻が、めずらしく何を話しかけても上の空だったことが印象に残っていた。
龍麻が本から顔を上げる。
「あの時は……月を、見ていたんだよ」
紅く濁る下つ弓張りを。
生まれて初めて覚えた色は、紅だった。
紅は、命の色。渇望の色。執念の色――狂気の色。
禍々しく霞む宵闇が、遠い過去を呼び覚ます。
記憶の縁に沈めた、面影を映し出す……。
「で、月を見ながら、何を考えてたんだ?」
京一の声に、龍麻は追憶の彼方に漂っていた意識を引き戻された。
夢から覚めた瞳に「そうだね」と、いたずらっぽい光を浮かべる。
「新しく増えた仲間のこととかかな」
「………………コスモレンジャーか」
愛と勇気と友情を胸に、ご近所の平和を守る正義の味方を思い出し、京一は一気に脱力した。
皆で遊びに行った縁日で行われていた催し物、コスモレンジャーは3人組の戦隊ヒーローである。隊員のレッド、ブラック、ピンクはそれぞれを紅井猛、黒崎隼人、本郷桃香と名乗った。大宇宙高校の3年生だそうだ。
子供相手のボランティアかと感心していた京一達の認識が一変したのは、帰りがけのこと。
消滅したはずの鬼道衆忍軍の襲撃を受けている自分たちの前に、彼等が颯爽と現れたのである。
それも、戦隊ものの衣装で。
イベント終了時に言葉を交わした時には制服姿だったから、京一達が戦ってるのを横目にして、わざわざ着用し直したのだろう。
登場の決めポーズまでやってみせる彼等は、まぎれもなくただの正義かぶれの戦隊マニアだった。
「まったくよォ、あいつらを追い返すのは一苦労だったぜ」
忍軍は、龍麻達の抹殺に来たのではない。九角の元へ、案内するために現れたのだ。
彼等を九角との戦いに巻き込むわけにもいかず、京一達は大汗を掻きつつお引き取りを願った。
途中、やむなく自分たちの立場を話したところ、何故かいたく感動され、協力を申し出られてしまったのは……成り行きと諦めるほかない。
「いいじゃないか、楽しくて」
龍麻は気楽に言うが、京一としては相棒があの衣装に身を包み、コスモグリーンなどという名乗りを上げないよう、断固阻止しなければと決意を固めている。
「京一はどう思ったんだ?」
「あ?コスモレンジャーのことか?」
違うよ、と龍麻は笑った。
「九角の言葉だよ。あんまり驚いてなかったみたいだけど?」
京一は指先でもてあそんでいた鉛筆を放り出した。
「……まあ、予想はついてたからよ」
頭の後ろで腕を組み、どさりと後方に倒れ込む。
「まだなにも終わってないんじゃねェかって。ひーちゃん見てて、なんとなくそう思った」
もっとも、京一はさほど悲観していなかった。
退屈に耐えられる者だけが、平和を満喫できるという。
だとしたら、京一はやはり争乱を愛する人間なのだろう。
怠惰に繰り返される平穏な日常より、龍麻とふたり、艱難辛苦を乗り越えて果てなき道を突き進む日々をこそ望んでいるのだから。
「……勘は働くくせに、どうして成績は上がらないんだろうな」
「知るか」
憮然として反対方向に寝返りを打つ。龍麻は本を脇に置いた。
身を乗り出して真上から覗き込み、そっと髪に手を添える。
「ひーちゃん?」
朱の色は、太陽の色。希望と生命の躍動を感じさせる、京一の色だ。
龍麻はふっと瞳を細めた。
「京一、さぼってないで、課題を続けろよ」
「…………」
次にテキストに眼を走らせ、盛大な溜息を吐く。
「おまえ、あれだけ長い時間やって、3ページしか進んでないじゃないか。夕飯抜くつもりなのか?」
お前の課題が終わらなくても、俺はお腹が空いたらさっさと食べるからな。
「………………………………」
あまりにも心ない言葉に、京一は悲嘆に暮れた。
自業自得ではあるのだが。
(なァんかうまく誤魔化されたような気ィすっけど……)
結局、龍麻が心の扉の奥に隠したものを聞き出すことはできなかった。
言いたくないものを無理強いするわけにもいかず、京一は次の機会に望みをつなげる。少し前なら感じていたであろう、何が何でも聞き出さねばといった焦りは浮かんでこなかった。
それだけお互いの距離が近づいた、ということなのかもしれない。
時折、ここではない場所を見つめている龍麻の瞳に不安を覚えることもあるけれど。
京一が信頼を寄せるほどに、龍麻も応えてくれているのだろうか。
時を重ねるのと同じように、心も重ねていければいいのに。
ライバルは多いし、敵は手強いし、問題は山と積まれている。
龍麻の隣に常にあるためには、並大抵以上の努力が必要となろう。
それでも、と望む自分がいる。ひとつを手に入れたら、その先を求めてしまう貪欲な気持ちを抑えることが出来ない。
(とりあえずは、目先のことから片づけていくか)
……龍麻も睨んでいることであるし。
京一は気を取り直すと、うんざりするほど厚いレポートを手に取った。