その日、京一は朝から上機嫌だった。
「京一ってば、何、にやけてんのよ」
薄気味悪そうに杏子が視線を注ぐ。
スクープ探して南へ北へ。胡乱な事件に手を染めているせいで豊富なネタを抱える『困った時の打ち出の小槌(杏子命名)――もちろん本人達には内緒――』たる友人達のもとへ遊びにきてみれば、主要メンバーのひとりである京一は、前述のような状態だった。
心ここにあらずといった風情で机に頬杖をつき、思い出し笑いなんぞされていては、杏子でなくとも不気味と感じる。
「ちょっと龍麻。京一に難しい公式を詰め込みすぎたんじゃないの?」
成績優秀の龍麻が、追試を必須科目としている京一の面倒見を押しつけられているのは周知の事実だ。龍麻のレベルに合わせて教え込まれたら、京一など許容量オーバーで間違いなくパンクしてしまう。
「ここ2、3日勉強会はしてないよ。1週間前なら徹夜で課題をやらせたけど」
龍麻はいつも通りの穏やかな笑みを浮かべた。
この友人達の関与する事柄は、お世辞にも牧歌的とは言い難い。にもかかわらず、彼等から明るさが失われないのは、この笑顔があるからだろう。血生臭い場所にあっても、龍麻の周囲は常に清澄な《氣》で満ちている。
「京一が喜んでるのはねぇ、かわい~い後輩が出来たからだよ」
小蒔が口を挟んだ。
「このバカとは比べもんにならないくらい素直な子でさぁ。『僕、京一先輩のようになりたいんです!』とか言っちゃって、目をキラキラさせて京一のこと見てんだもん。ボク吃驚しちゃったよ」
「はあ、そりゃ驚くわね……」
杏子は目をまるくした。
「世の中には奇特な人間がいるのね。いったい何処の誰なの?」
「鳳銘高校の霧島諸羽クン。高校1年生だよ」
比較的育ちのいい生徒が通う、おっとりした校風の学校だ。近隣で名にし負う京一の悪行も、さすがにそこまでは届いていなかったということだろうか。
「京一なんか見習って、悪影響がでなきゃいいけど」
「ホントだよ」
うふふっと軽やかな笑い声が上がった。
「二人ともそんな風に言っては駄目よ。霧島君はとても真面目なんですもの」
側で聞いていた醍醐も大きく頷く。
「うむ。京一を見習うのはどうかと思うが、あいつは真摯に強くなることを望んでいるからな。志は尊重すべきだ」
「おめえら、黙って聞いてれば好き放題言いやがって……」
がたりっと椅子が鳴る。話題の主が、ようやくトランス状態から抜け出したようだ。
「あら、京一。正気に戻ったの」
よかったわね、と杏子が心にもないことを言う。
「俺はもとから正気だ!諸羽はなぁ、この俺の偉大さに傾倒して弟子入りさせて下さいって頭を下げてきたんだよ!」
「……そこまではしてなかったような気がするけど」
いや、近いものはあったか。
龍麻がぼそりと呟く。がっくりと、京一の首が垂れた。
「ひーちゃん、水を差すなよ」
「で、アンタ、可愛い年下の男の子に懐かれて浮かれてるわけ?」
「んなわけあるかッ!うすっ気味悪いこというんじゃねーアン子!俺はなぁ。諸羽がボディーガードしている『さやかちゃん』とお知り合いになれた悦びを噛みしめてんの!」
霧島のクラスメートである舞園さやかは、近頃、妙な男に付け狙われていた。心配した霧島が護衛を請け負っていたのだが、男の行為は日増しにエスカレートしていく。京一達と出会ったのはそんな矢先のことだ。袖振り合った多生の縁で京一達も舞園の警護に一役買うことになった。
知り合いのルポライターが、獣の霊に憑かれて危機に陥ったこともある。
似非関西弁を話す妙な中国人が現れ、龍麻に馴れ馴れしく振る舞って気分を害したこともある。
舞園を狙っていたのが、実はただのストーカーなどではなく、蛇の本性を持つ化け物だと知って仰天した覚えもある。
しかしながら、それらを差し引いてなお余りある幸運な出来事がひとつあった。あの舞園さやか嬢とお知り合いになれたことである。
神は頑張る者を見捨てなかった、ありがとう!な気持ちだ。
「えっ、『さやかちゃん』って、まさかあの『舞園さやか』ちゃん!?」
杏子があんぐりと口を開けた。
現役高校生歌手の舞園さやかは癒し系の歌声でファンを魅了する、今が旬のアイドルだ。
「紹介!アタシに紹介して!!!」
鬼気迫る形相で龍麻に詰め寄る。
「う、うん。いいけど……」
「やったぁ!次回は真神新聞特別増刊号『舞園さやか特集』で決まり!これは売れるわ!!」
いやぁ、ホンットあんたたちの友達やっててよかったわぁ~。
ひとりで盛り上がる杏子に、京一が憮然として言った。
「おい、アン子。なんで俺じゃなくてひーちゃんに頼むんだよ」
「なに言ってんのよ。アンタじゃさやかちゃんが警戒して、来てくれないかも知れないでしょ」
すっぱりと切り捨てられる。小蒔が追い討ちをかけた。
「そーだよねぇ。霧島クンならともかくさぁ、相手はさやかちゃんだもん」
だから、野郎に懐かれたって嬉しくねェって。京一はやさぐれる。
「京一も一緒にくればいいだろ。舞園と会うときは声をかけるようにするから」
少しだけ同情を覚えた龍麻が、適当なところでフォローを入れた。
「やっぱ俺のこと解ってくれるのは、ひーちゃんだけだぜ」
直後に、復活した京一に背後から抱きつかれてしまう。……もう少し放っておけばよかったかもしれない。
「本当に仲がいいのね」
美里は、にこやかに二人を見つめていた。
龍麻はちょっと恨めしげな視線を送る。
「じゃあ、とりあえず連絡はしてみるけど……遠野はいつがいい?」
インタビューの件は、相手の意向もあるだろうから直接交渉して欲しいと言われ、杏子は了承した。
あれやこれやで『謎の転校生・緋勇龍麻特集』を一度逃している身としては、二度の失態は演じられない。
本人は気づいていないし、そんな余裕もないのだろうが、龍麻は男女を問わず素晴らしくもてる。穏やかな物腰に優しい性格、加えて端正な顔立ちとくれば、周囲が放っておかないのも当然のことだ。
しかし、彼の側には常に、真神総番の醍醐や悪名高い(?)京一、才色兼備の生徒会長美里がいる。彼等の中に分け入る勇気のあるものなど、そうはいないだろう。転校してきてより数ヶ月を経た今でも、龍麻のプロフィールを求める声は、新聞部に多く寄せられていた。
何度交渉しても、器用にはぐらかされてしまうので、さすがの杏子も泣く泣く諦めたのだが。
せっかくのこの機会、せめて舞園だけでも!と意気込む杏子を誰も責められないだろう。
「さっそく今日っ!ていいたいところだけど、あいにく予定が入ってるのよね」
残念だけどこっちのネタも逃せないのよ、との言葉に醍醐が興味を示した。
「なんだ遠野。また何か新しいネタを掴んだのか?」
杏子の持ってくる話題には、様々な局面で助けられている。
「そう、そうなのよ!今日はそれを伝えに来たんだった」
特ダネなんだから、と鼻息を荒くする。
前置きはいいから早く喋れという京一を睨み付けて黙らせ、コホンと咳払いをひとつした。
「いい、心して聞きなさいよ。実はね、都内のある高校に暗殺部隊があるって噂を掴んだの」
それも学校ぐるみの大がかりな組織であるという。
「……あァ?」
どう考えても、与太話としか思えない。京一が間の抜けた声を出した。
「現代の藤枝梅安というわけか?」
醍醐の反応もいまいち鈍い。
「あーっ、京一も醍醐君も信じてないわね!言っとくけど、ほぼ確認はとれてるんですからね。あとは証拠をあげるだけよ」
「……遠野、その学校の名前聞いていい?」
問いかける声は何気ないが、龍麻の躰が僅かに緊張している。背中に張り付いていた京一は、周りに気づかれないようそっと青年を窺った。
秀麗な眼差しを注ぎ込まれ、杏子はたじろぐ。顔もこれだけ造りが丁寧だと、正面から向き合うのはあまり心臓に宜しいことではない。心を落ち着けるため、眼鏡を外して拭き始めた。
「本当は秘密にしておきたいところなんだけど、龍麻のお願いじゃ断れないわね……拳武館高校よ」
―――拳武館。
京一は龍麻の唇が音もなく復唱するのを認めた。
小蒔が声を張り上げる。
「えーっ、あのスポーツで有名な!?」
「ちょっと、桜井ちゃん声が大きい」
しぃっ、と杏子が人差し指を唇に当てた。小蒔はぺろりと舌を出して謝る。
「絶対に内緒だからね。政治家や資産家だって関与していることなんだから。へたに騒ぐと大変なことになるわよ」
「アン子ちゃん、そんなことに関わって大丈夫なの?」
美里が愁眉を深くした。
「秘密を知った者の口を塞ぐのは、小説でもよくあることだしな」
杏子の自信に反比例して、醍醐もだんだん不安になってくる。
「大丈夫、心配ないわ。暗殺は暗殺でも拳武館が関わるのは、権力や財産に守られて専横する巨悪に対してのみなのよ。いわば必要悪、いいえ正義の味方といえるわね」
「殺し屋は所詮、殺し屋だろ。犯罪者の集団に代わりはねーじゃねェか」
どこぞの正義かぶれのレンジャー隊員から抗議が出るぞ、と京一は思う。
「わかってないわね。相手は法で裁けない連中なのよ。こっちだって、正攻法じゃ立ち向かえないでしょ」
ま、あんたに言っても理解できないか。
「遠野、あんまり無茶なことは……」
珍しく憂慮を面に出す龍麻に、杏子は焦って手を振った。
「い、いやあねぇ。龍麻まで……心配性なんだから。本当に大丈夫だって。ちょっと乗り込んで取材してくるだけだもん」
「乗り込んでって……」
「アン子ちゃん……」
小蒔と美里が声を揃える。
「おい、遠野」
醍醐も頬を引き攣らせた。
「平気、平気。あっと、予鈴が鳴っちゃったわ。じゃあ、また後でね。ちゃんと取材できたら教えてあげるから!」
説教めいた忠告を煩わしく感じたのか、杏子は止める間もなく3-Cの教室を飛び出していく。
予鈴の鳴り終わったいまから追いかけるわけにも行かず、一同は杏子を案じつつ席に着いた。
杏子の科白に引っかかりを覚えていた京一達は、彼女を捜して校門前に来ていた。
教室にも部室にもいないところを見ると、すでに取材に出てしまったのかもしれない。
追いかけるべきかと思案していると、いかにもキャリアウーマンといった雰囲気の女性が近づいてきた。
天野絵利。オカルト雑誌のルポライターである。龍麻達とは東京に起こる怪奇事件を追ううちに、面識を得た。
仕事熱心で、鴉の群れに襲われたり、動物の霊に躰を乗っ取られたりと、随分危険な目も見ているというのに一向に懲りる様子はない。
取材のために東奔西走する姿は、なにやら未来の遠野を見ているようでもあった。
「あーっ、エリちゃん」
京一が喜色満面で竹刀袋を大きく振る。
「ふふっ、こんにちは。あいかわらず元気そうね」
黒いボブの髪がさらりと揺れた。
「どうかなさったんですか?」
事件現場で顔を合わせるのはよくあることだが、ここは真神学園前だ。もしや何事かあったのではと美里は杞憂する。
天野は笑って否定した。
「友達がここで教師をしているのよ。今日は食事の約束をしているから迎えに来たってわけ」
「エリちゃん、まさか男じゃねーだろうな」
京一の問いは「ご想像にお任せするわ」と軽くあしらわれてしまう。
「それと、アン子ちゃんのことがちょっと心配だったから」
「拳武館のことですね」
問いではない龍麻の確認に、天野は顔を曇らせた。
「なるほど。遠野に教えたのは天野さんだったのか」
「いいえ醍醐君。それは違うわ。どこでネタを仕入れたのか、彼女、私の所へ相談に来たのよ。一応は止めたのだけれど、貴方達の様子からして聞き入れてはくれなかったみたいね」
「それじゃあ、アン子の言ってたことは本当だったんだ」
小蒔は興奮して、頬を紅潮させる。
「ええ、拳武館の話題は私たち記者の間では禁忌とされているわ。公然の秘密というわけね」
「アン子大丈夫かなあ。直接取材するって、今日にも乗り込むような素振りだったけど……」
「そうね。一般の学生相手にめったなことはしないと思うけど……」
天野が考え込む素振りをした。
「ちょっと気になることもあるし、いいわ。私がそれとなく様子を見てきてあげる。立場上、拳武館に顔を出すわけにはいかないけど、うまくいけば学校の周りで会えるでしょうから」
「だって、食事の約束してるんでしょう?」
「また今度にするわ。レストランは逃げないもの」
「でも、それじゃ悪いわ……」
「桜井さんも美里さんも気にしないで頂戴。私がきちんと制止出来なかったことにも責任があるのだもの」
「まったく、遠野もしょうがないな」
醍醐が息を吐き出す。
「……天野さん、その拳武館ですけど……」
躊躇いがちに口を開いた龍麻を、はからずも京一の叫びがうち消した。
「おいっ、藤咲じゃねーか。どうしたってんだよ!」
「龍麻、京一……」
ここまで走ってきたのか、息が乱れている。顔色も悪かった。声は常になく悄然として、肩が小刻みに震えている。
「藤咲、何かあったのか?」
包み込むような龍麻の声に、瞳が潤んだ。
「エルが、エルがいなくなったんだ」