生死の境を一晩はたっぷり彷徨った龍麻だったが、持ち直してからの回復は早かった。
肋骨を切断され、内臓まで傷つくほどの大怪我。あと数ミリ深ければ心臓にも達していただろう。本来なら、起き上がれるようになるだけでも2~3ヶ月はかかるところを、龍麻は3日で傷を塞いでしまった。
たか子は感心を通り越して呆れ、体裁が悪いからと、2日ほど入院を伸ばした。
それ以上引き止められなかったのは、真神のメンバーをはじめとする仲間達がひっきりなしに訪れ、病院を放課後の溜まり場にしてしまったせいである。
桜ヶ丘病院は表向きは産婦人科として営業しているため、普通の患者も大勢訪れる。高校生などにたむろされては外聞がよろしくなかった。
そうして、合計で5日の入院生活の終え。
気づいてみれば、世間はクリスマス一色に染まっていた。
「よぉ、ひーちゃん、調子はどうだ」
京一がノックもせずに入ってくる。
龍麻はいつものこととさして気にもせず、鷹揚にベッドから上体を起こした。
「もうなんともないよ。これ以上寝ていると躰がなまりそうだ」
今は授業中の時間帯なのでは、という問いはあえて口にしない。
「そっか、よかったな。ところでよ」
ずずいっと身を乗り出してくる京一。片手には、なにやら丸めた模造紙を握っていた。
「今日、クリスマスイブだろ。だからよ、退院祝いも兼ねて俺からひーちゃんにプレゼントをやるよ」
「プレゼント?」
龍麻は首を傾げる。救世主の聖誕祭には、さほど関心がない。キリスト教徒でもなし、実家でも特にこれといったことをした覚えはなかった。
「わかってねェな。ひーちゃん。クリスマスといえば、恋人達のビックイベントだぜ!この夜をひとりで過ごしたくないためだけに、慌てて恋人を作る奴等だっていんのによ」
そんなものなのだろうか。
釈然としなかったが、京一は妙に浮かれた様子で模造紙をごそごそと広げだした。
「そこで、俺がひーちゃんのために用意した品がこれだ!」
効果音の演出付きで掲げられた紙には、仲間の女の子達の名前がずらりと並んだ紙が3枚ほど。
「………?」
「授業中、内職して作ったんだ。人数が多いから大変だったぜ」
「………………」
こいつ、次の試験も追試だな。
そうなると、追試対策の面倒見やらなんやらでこっちに負担が掛かってくるのだ。龍麻は密かに嘆息する。
頭の回転は悪くない。勘も働く。なのに一向に成績が上がらないのは、このやる気のなさが原因だ。やればそれなりに出来るはずなのに、当人がこれでは、龍麻としても如何ともしがたかった。
「俺に、これをどうしろと?」
「決まってんだろ。この中から、好きな奴をひとり選べよ。俺が呼び出してやっからさ。あ、でも呼び出すだけだぜ。あとは自分でやれよ?」
うまくいけば、聖夜のデートができっからさ。
龍麻は今度こそ溜息が漏れるのを隠せなかった。
「京一……おまえ、碌なこと考えないな」
「なんだよ。んな呆れた声をださなくてもいいだろ」
拗ねたように口を尖らせる。
「そりゃ、気が進まねぇ、ってんなら、無理にと言わねェどけさァ」
龍麻は思案した。せっかくの好意なのだから、利用させてもらうことにする。
「じゃあ、彼女に連絡してくれるかな」
と、言って指差した先は……。
「なにィ。おま……っ。エリちゃんだとぉ!」
「ここに名前が書いてある人なら誰でもいいんだろ」
「そりゃー、いいけどよ……エリちゃん……そっか、ひーちゃんの好みはエリちゃんなのか……」
てっきり、美里あたりを指さすと思っていたのに。
京一は口の中でごにょごにょと呟いてから、
「しゃーねえ。ひーちゃんのために一肌脱ぐか」
胸を叩いて請け負った。
「退院は夕方になるんだろ?そんときまでに話しつけて、待ち合わせ場所とか連絡すっから。ついでに荷物持ちも引き受けてやるよ」
さっさと決めて、立ち上がる。ドアノブに手をかけたところで、龍麻が呼び止めた。
「京一」
「ん?」
「俺は大丈夫だから」
動きを止めた京一に、ふわりと笑いかける。
「京一が気にすることはないよ」
「……おまえさ」
京一が、ふと真顔になった。
「なに?」
「…………あー。いいや。やっぱなんでもない。じゃ、また後でな」
病室を1歩出たとたん、京一は額に手をやった。扉の向かいに背中を預け、ずるずると座り込む。
(しっかり、バレてんじゃねーか)
傍にいながら、怪我を負わせてしまった大切な人。目の前で真紅の飛沫を散らせながら傾いでいった躰が、いまも脳裏に焼き付いている。あの時ほど、自分に腹を立てたことはなかった。自己嫌悪と後悔と、喪失への不安に精神が悲鳴をあげる。海よりも深い落ち込みから、京一は情緒不安定に陥っていた。
龍麻の前では、無理をしてはしゃぎまわっていたのだが。
怪我人に心配されてどーするよ、と京一は慨嘆した。
「しっかし、ひーちゃんもアレだよなァ、自分のことはまるっきしわかってねェくせに、どーして、ああ他人のことになると気が回るんだか」
『怪我は?』
抱きとめた京一に向かって、龍麻はそう聞いた。
ざっくりと裂けた制服の上着の間から、とめどなく溢れる深緋色。
―――怪我してんのは、お前の方じゃねェか。
叩こうとした軽口が喉に絡みついた。
あの全身を紅く染め上げた男――柳生宗嵩が白刃を振り翳すより僅かに早く、龍麻が反応するのを京一は見ていた。逃げようと思えば、逃げられたのだ。
なのにわざと逃げなかった。背後に京一達がいたために。
龍麻が身をもって奴の攻撃を受け止めてくれなければ、京一達真神の4人と劉――ひょっとすると道心も――は、三途の川を渡りきっていたことだろう。龍麻だからこそ、かろうじて一命を取り留めることができたのだ。
最悪なのは、龍麻がそれを確信して行ったことである。
一歩足を踏み外せば奈落に落ちると判っていて、平気で生と死の境界線上に足を踏み入れてしまうのだ。
長生きできない見本である。危なっかしいことこの上ない。
人を利用することも策に陥れることも平気でやるくせに、こんなところばかり無償奉仕でどうするんだか。
京一はいま一度、深く頭を抱え込むと、勢いをつけて起き上がった。
いつまでもこうしてのめり込んでいてもしょうがない。
「ひーちゃんは、大切な相棒だからな。……簡単には死なせねェ」
龍麻は自分に対する危機感が薄すぎる。真っ先に死地に赴きそうな彼の首根っこを捕まえ、引き戻すのが相棒たる自分の役目だと再認識を固めた。
「とりあえずは、エリちゃんに電話だな。いいかげん学校にも戻らねェと、ヤベエしよ」
人気のない廊下は静まり返り、なんとなく陰惨とした雰囲気を備えている。この場所が苦手な京一は、今後しばらくは近づかなくて済むようにと二重の意味をこめて祈った。
約束に遅れまいと走ってきたのだろう。天野絵利は途切がちになる息を、何度も深呼吸して落ち着ける。
「わざわざ、こんな日に呼び出したって事は、デートのお誘いなのかしら」
「それでもいいんですけれどね。ちょっとお願いがあるので」
予想通りの返答に、絵利は「あら、残念ね」と顎に手を当てた。
「せっかく化粧を直して、仕事を抜けてきたのに」
言下に、無粋な頼みごとなら許さないわよとねめつける。
「俺に出来ることなら、埋め合わせはしますよ」
龍麻が柔らかく微笑んだ。
(なに、話してるんだ。あの二人)
サングラスにトレンチコート。真神学園は新聞部長の偵察スタイルと同じような格好で、京一はビルの壁に背中を貼り付けていた。
我ながら不毛なことをしていると思う。想い人の恋の橋渡しを買って出た挙句、気になって様子を見に来てしまうあたり、哀れを通り越して滑稽だ。
(でもよ、ひーちゃんはもうちょっと、他人と深い係わりを持ったほうがいいからな)
自分自身にもっと関心をもって欲しい。誰もが龍麻に惹かれ、好意を寄せているのだということに気づいて欲しい。
皆が龍麻を心の支えとしていることを。残される者達の絶望の深さを。龍麻に知って欲しいのだ。
せめて、白刃の前に身を晒す前に躊躇いを覚える程度には。
京一のいる場所からは二人の会話は聞こえないが、絵利の表情がだんだん険しくなっていくのがわかった。
龍麻はそっぽを向く絵利に、しきりと何事か話し掛けている。
遮光硝子を通して見守る京一は、だんだんと焦れったくなってきた。
(う~。もうちっと近づければなァ。でも、そーすっとひーちゃんに気づかれちまうだろうしなァ)
あたりまえだが、夜の闇に濃い色のレンズは邪魔にしかならない。京一はサングラスをむしりとった。
(……って、ああぁぁぁ~!!!?)
すっきりした視界に、龍麻の首に腕を回す絵利の姿が飛び込んでくる。
朱唇(しゅしん)の色が軽く移された。
龍麻は微笑を深くすると、するりと解かれていく腰に手を伸ばし、いま一度引き寄せる。
今度は龍麻の方から、唇に触れるか触れないかの位置に同じ行為を返した。
(ひひひ、ひーちゃん、いやに手馴れてんじゃねーか)
あんぐりと口を開けている京一を他所に、二人は躰を沿わせたまま見つめ合う。絵利の機嫌は直ったようだ。
龍麻の頬を軽く叩き、絵利は青年から離れた。仕事に戻るのかもしれない。
彼女の背中が雑踏の向こうに消えると、龍麻がくるりとこちらを振り返った。どうやら京一が盗み見ていたことに気づいていたらしい。
誤魔化そうかという考えがちらりと頭を掠めたが、しっかりと目が合ってしまった。京一は覚悟を決める。
「よ、よォ、ひーちゃん」
笑顔がぎこちないのは、寒い場所に立っていたせいばかりではないだろう。
「京一、その格好怪しいよ。警官が通りかかってたら、職務質問されるところだ」
「へ、へへっ、ちょっと心配だったもんでよ……その、悪りィ」
素直に謝る。龍麻は肩を竦めた。
「別にいいけど。ああ、俺の方が謝らないと駄目かな。せっかく呼んでもらったのにフラレちゃったからね」
今のをフラレたというのだろうか。どう見ても、龍麻が絵利を袖にしたようにしか見えなかった。
(しかもキスなんてしてやがったしよ)
「京一?」
黙りこんでしまった京一に、龍麻が顔を近づける。
心臓が大きく躍り上がった。先ほどの二人の親密そうな雰囲気が思い起こされる。
(ひーちゃん意識してねェんだろうな)
京一は心で泣いた。龍麻に微妙な男心をわかって欲しいと願うのは贅沢だろうか。
病院の白いシーツからはみ出ていた色素の薄い腕を見て思った。
誰でもいい、何でもいい。龍麻を繋ぎ留めてくれるものがあるのなら。
龍麻さえここにいてくれるのならば、自分の気持ちなど永遠に日の目を見ることがなくてもかまわないから、と。
しかし京一の切なる願いもむなしく、単なる連絡係として扱われたようだ。
哀しいような嬉しいような。
「よっしゃッ!だったら、可哀相なひーちゃんのために俺がラーメンを奢ってやるよ」
複雑な気持ちを抱え、京一は自棄になって叫んだ。その後はナンパツアーの敢行を決意する。龍麻がいれば、成功率はさぞかし高かろう。
「万年金欠病の京一が奢ってくれるなんて、雪でも降るんじゃないのか?」
「なんだとォ!せっかく俺が好意から申し出てやってんのに」
「はいはい。ありがたく受け取りますけどね」
くすくすと龍麻は笑う。京一はその頬に指で触れた。ひやりとした感触に片目を閉じた貌に、素早く覆い被さる。
伝わる温もり。
「…………京一」
往来でいきなりなにをする、と龍麻は京一の胸を押し返した。
「いいじゃねェか。ラーメンの礼ってことで」
殊勝な決意の割には、行動の伴わない男である。
(ひーちゃん特にエリちゃんが好きってわけでもなさそうだしよ)
だったら、自分にもまだ好機はあるはずだ……あるといいな、などと京一は考えていた。
龍麻の気持ちが誰の上にあっても、京一の想いがそこで途切れるわけではない。
心の奥深くに根を張り、全身を浸食していくこの疼きを少しでも伝えたいから。
京一は龍麻に触れるのだ。
「ただで奢ってくれるんじゃなかったのか?しかもまだ食べさせてもらってないし」
「ま、ま、一番高いやつ奢ってやるからよ」
へらへらと笑う京一を、龍麻は半眼で見つめた。
「一番高い……ね。いつもの所に行くんだろ?たしかあそこには、2千5百円の海の幸ラーメンっていうのがあったよな……」
聞こえよがしに呟くと、京一が硬直した。
「もちろん、奢ってくれるんだよね?」
トドメとばかりに、にっこりと微笑む。
「……奢らせていただきます」
がっくりと京一の肩が落ちた。
とりあえず溜飲を下げた龍麻は、ところで、と調子を改める。
「京一は何時からあそこにいたんだ?」
「へっ?絵利ちゃんが来る少し前だけど」
待ち合わせ時刻ぴったり。こんなときばっかり遅刻しない自分が、情けなくも頼もしい。
「だったら、俺が戦闘に巻き込まれたのは見てないよな」
「まさかまた変なのに襲われたのか?!」
「女の子が不良に絡まれてるのを助けただけだよ」
緊張を走らせた京一は、眉宇を明るくした。
「なんだ。ひーちゃんのことだから、そんな奴等軽く一掃しちまったんだろ」
そいつらはね。と龍麻が頷く。
「問題は女の子の方だ。《力》を持ってるみたいだった。どんなものなのかは確かめられなかったけど」
「……偶然じゃねえな」
京一が渋い顔をした。《力》を持っているから仲間であるとは限らない。逆に敵である公算が大きかった。
「うん。俺のこと知ってた。『柳生』って人に聞いたって」
「おい、それって……っ」
完璧、敵じゃねェか。
「たぶんね。解せないのは、その女の子……六道世羅って名乗ってたけど、その子に悪気や悪意が存在してなかったことなんだ。『柳生』という人物のことも、俺達の仲間だと思っていた節がある」
京一は腕を組むと、吐き捨てるように言った。
「んなわけあるか!きっと嘘ついて俺達を騙そうとしてるんだぜ」
「話した限りでは、そんな感じじゃなかったよ。第一、俺を騙すつもりだったら『柳生』なんて名前はださないだろ」
彼女自身は、あくまでも己の《力》に悩み、相談相手を欲していた普通の女の子だった。
「わかんねェ。一体どういうことだよ」
京一はバリバリと頭を掻き毟る。
「考えられるのは、『柳生』があの子を使って何かするつもりだっていう線だ。俺に近づいてきたことからして、目的がこちらにあることは間違いないだろうけど」
「その子は利用されているだけってか?」
だとすれば、簡単に切り捨ててしまうわけにもいかない。それもまた柳生の奸計の内なのだろう。
「気をつけろよ。敵も本腰を入れてきてるみてェだからよ。危なくなったら絶対に俺を呼べよな」
「……努力するよ」
どーだか。と京一は疑いの眼を向ける。しばらくは引っ付いて回ったほうがいいかもしれない。
「あ……」
手を差し出し、龍麻が頭上を仰いだ。京一もつられて顔を上げる。
深々(しんしん)と降りてくる、六花の結晶。
「雪だ」
手の平の上で溶けていく、純白の華。
「さすが京一。まさか本当に降ってくるとはね」
龍麻が口元に笑みを佩いた。
「俺のせいか!?」
「他になにがあるっていうんだ?」
さらりと切り替えされ、京一はぐっと詰まる。
龍麻は京一の正面に回り込むと、黒曜の瞳を愉しげに煌めかせた。
「いいんじゃないか?クリスマスに雪は歓迎されているんだからさ」
毒々しいネオンを幻想的に染め替え、喧噪を静かに包み込んで降り積もっていく、雪。
「じゃ、俺に感謝してもらわねェとな」
立ち直りの早い京一は龍麻の髪を絡め取ると、顳に唇を落とす。
今宵は一年に一度の奇跡の日。これくらいの役得はあってもいいだろう。
「メリークリスマス、ひーちゃん」
あくる日。
いつものごとく街をそぞろ歩いていた一行は、『柳生』の放った刺客に強襲を受ける。
敵将の名は、六道世羅。
邪悪な笑いを浮かべる彼女は、昨日、龍麻が会った時とはまるで違う人間となっていた。
……事実、別人だったのだ。
「助けて、私の中で、別の誰かが叫んでるの。貴方達を殺せって。すべてを破壊してしまえって」
人にない《力》を持つことに苦しんでいた彼女の心の隙に、流し込まれた『毒』。
誰にでもある『負』の感情を『柳生』によって増幅させられた六道は、必死に抑えようとする心と、欲望のまま動こうとする心の軋轢に、精神の分裂を起こしかけている。
苦しみ藻掻く少女を、京一と醍醐が二人掛かりで押さえ込んだ。
「いかん。このままでは彼女の心が崩壊してしまうぞ」
激しく痙攣する躰を醍醐はいささか乱暴に支えている。
「そんな。ねぇ葵。なんとか助けてあげられないの?」
「ええ、やれるだけやってみましょう」
美里は六道の前に膝まづくと、《氣》を練りながら彼女の額に手を伸ばした。
包み込む暖かな光に、六道の動きが徐々に落ち着いてくる。
弛緩し、こうべを垂れた肢体に、醍醐も力を緩めた。
「うまく、いったのか?」
「お、おい、醍醐ッ!」
緊迫した京一の声に、醍醐が慌てて六道に意識を戻した。
掴んだ腕がブルブルと小刻みに震えている。
「ア……ア、アア……」
「な、なんだ?!」
「おいっ、どうした?」
「ちょっとォ、ね、大丈夫なの?」
「……っ!美里っ!!」
それぞれの声が交錯する中、後ろから伸びた手が美里の肩を掴んだ。
「……きゃ!?」
後ろへ引き倒される美里。視界を塞ぎ割り込む背中。
「ア……アアァァァァァァァッ」
六道の口から、絶叫がほとばしった。
ゆらりっ、と空間が歪む。不可視の圧力がずしりとのし掛かってくるようだった。目眩にも似た感触に、京一は額を抑える。
眼を凝らしてみれば、六道の輪郭がぼやけてきていた。錯覚ではない、精神の崩壊に伴い肉体が崩れてきているのだ。
外道に足を踏み入れた者は死体が残らない。どろどろに溶けるか、風の前の塵となるかだ。
六道はとうに人ではなくなってしまっていたのだろう。本人の意思とは関係のない方法によって。
(柳生のヤロウ。えげつないことしやがるぜ)
京一の胸に憤りが込み上げる。
六道を構成していたものが、ざっと音を立てて地面に流れ落ちた。風に攫われていく命は二度と戻ることはない。
「皆、怪我はないか?」
尻餅をついていた醍醐が、埃を叩いて立ち上がった。
「おどかしやがって……」
「うん、平気だよ」
醍醐の呼びかけに次々と応える。残り二人の声が聞こえてこなかったことに、京一は胸騒ぎを覚えた。
「……龍麻、龍麻しっかりしてっ!」
か細く消え入りそうな声音。見てはならないと、頭の中で警鐘が鳴る。
恐々として視線を巡らせた先で。
意識のない躰に覆い被さり、美里が龍麻を何度も揺さぶっていった。
「葵!ひーちゃんどうしたの?!」
「美里、下手に動かすな。頭を打っているのかもしれん」
「龍麻、龍麻……私をかばって……」
美里には醍醐の声が届いていないようだった。何度も青年の名前を呼び、必死に縋りつく。
「美里よすんだ」
「嫌ァ!龍麻……ッ!!!」
醍醐は美里を引き剥がすと、小蒔に預けた。
「意識を失っているだけのようだ。この間の後遺症が出たのかも知れん、とりあえず桜ヶ丘病院に運ぶぞ。京一手伝え!」
手早く龍麻の様子をあらためる。醍醐は、この間まったく動けなかったことを気に病んでいた。次こそは少しでも龍麻の役に立とうと決意していたのだが、まさかこんなに早く実行に移す機会が来ようとは。
「京一?……おい、京一!」
返事がなかったことを訝しんで振り向く。京一は呆然と龍麻を見下ろしていた。
「京一、立ったまま寝るな!京一!!」
「あ……ああ」
何度も呼びかけると、ようやく鈍い反応を返す。
「ぼやっとするな、いくぞ!」
京一を急き立てて龍麻の躰を抱えあげた。醍醐とて、さすがに京一の内面にまで気を回す余裕はない。
小蒔は親友の世話で手一杯だ。
目立った外傷は何処にもなかった。
意識がどこかへ飛ばされているのだと、たか子は言った。
状態的には、美里が夢に閉じ込められたときと酷似している。違うのは、龍麻が己の内側ではなく、文字通り、別の場所へ意識だけを運ばれてしまっているということだ。
そうなるとたか子には為す術がない。霊的治療は躰の傷にしか作用しないのだ。
高見沢や美里がいくつもの回復呪文を試し、劉や御門も力を添えた。
「すまん、わいにはなんもできへん。《氣》の乱れを正そうにも、その《氣》のもとである肝心の魂魄がないっちゅーのは……」
口惜しそうに、唇を噛み締める。
「羅針盤で飛ばされた魂魄の行方を追ってみましたが、みつかりませんでした。どうやら異空間に迷い込んでしまっているようですね」
「美里のときみたいに、追いかけていくことはできないのか?」
無理だね、と断言したのはたか子だ。
「異空間ってのは夢の中よりずっと厄介な場所だ。仮に行けたとしても、緋勇を探し出すことはおろか、お前達まで戻って来れなくなるだろうさ」
「どこにいるのかもわからない相手を、無闇と探し回るのは、得策とはいえませんね」
口調に案じる響きがある。鉄面皮の陰陽師も、こと龍麻のことになると冷静ではいられないようだ。
「ねェ。ひーちゃんはどうなるの?もう、眼を覚まさないの?」
「いや~。ダーリン~」
「桜井、高見沢も落ち着け。御門、なにか方法は無いのか」
残念ながら、と稀代の陰陽師の末裔は答えた。
「龍麻が自分から戻ってこないことにはどうにもなりません」
「ボクたち、なんにもできないの?」
「何度も呼びかけてみるんですね。気休めにしかならないかもしれませんが、彼が戻ってくるための道標程度にはなるでしょう」
周囲の騒ぎを上の空で流し、京一は泥土に沈む眼差しを龍麻に注いだ。
まだ告げていない気持ちがある。
聞いてもらいたい言葉がある。
―――伝えるべき想いがあるのに。
語りかけるべき相手は、昏々と眠り続けていた。