第拾壱話 薄氷/弐

 朱よりも深く、緋よりも昏き色。

―――スベテヲ忘レ、ヌルマ湯ニ浸レバイイ。

 悦びも哀しみもない閉塞された場所。
 寂静(せきせい)を支配者とする虚脱と虚無の空間。
 ひとりの男が、妄執の鎖で編み上げた封印の殻の中。
 何を感じることもなく。己が生きているのかもわからずに。
 その色の来訪をひたすらに待ち続けていた。

―――ソコハ居心地ガヨイダロウ?



 時逆(ときさか)の迷宮で。
 龍麻はなんの《力》も持たぬ者だった。
 事故により声帯を痛めていることを除けば、その他大勢の生徒となんら変わるところはない。もともと寡黙な質であったため、喋れないことを特別不自由と感じたこともなかった。
 穏やかな生活。
 雨紋の同級生は姿を消すことなく、醍醐の親友は更正して新たな道を模索していた。
 路地裏で嫌がらせを受けていた嵯峨野を藤咲が庇っている。
 病院の前には、兄と仲良く散策している紗夜が、いた。
 喪ってしまってものが。
 毀れてしまったものが。
 舞灯籠のごとく緩やかに龍麻の視界を掠めては過ぎ去っていく。

 京一は、変わらず龍麻の隣にいた。仲は良いほうだから、親友と呼べるかもしれない。
 ただ相棒とはなり得なかった。荒事に巻き込まれることもなく、命を懸けて何かを成し遂げる必要もない。
 たまたま気が合ったから共にある。馴れ合ったから一緒にいる。それだけの、関係。

―――ソレコソガ、オ前ノ望ミダッタノダロウ?

 望み?これが?
 そうなのかもしれない。
 龍麻の『生』には、いつも誰かの犠牲がつきまとう。
 鉄の臭気を含む禍々しくも鮮やかな色に、常に手を染め上げる浅ましさを。
 己の『世界』を貪欲に求めるが故に、他者の『世界』を崩落させる卑しさを。
 味わうことなく暮らしていけるのだから。

 けれど――。

「緋勇、待たせちまって悪かったな。ラーメン食って帰ろうぜ」
 京一が龍麻を苗字で呼ぶ。
「犬神の野郎、ダチを待たせてるって言ってんのに、いつまでも引き止めやがってよォ」
 龍麻を気にしていなかったということはないだろうが、理由の大半は早く帰りたいがための言い訳だろう。ぶちぶちと垂れ流す不平の端々からも、そのことが汲み取れた。
「緋勇?なんだよ、怒ってんのか?」
 窓の外に向けていた視線を戻すと、懸念を浮かべた表情とぶつかる。
 言葉などなくとも、京一は龍麻の些細な変化を見逃すことはなかった。
(こんなところは、まったく同じなのにな)
「しゃーねェ。今日は俺が奢ってやるよ」
 龍麻は首を横に振った。待たされたことに腹を立てていたわけではない。
 教室には既に二人以外の姿はなく、部活動に励む生徒のざわめきが校庭から上ってくる。
 射し込む夕日に銅色(あかがねいろ)に染まる机。教卓の周囲ではチョークの粉が光と戯れながらきらきらと踊っていた。
 深呼吸をひとつ、する。喉に意識を集中させた。
 声は出るはずだと己に言い聞かせる。龍麻は事故になどあったことはない。
 ……少なくともここにいる『自分』は。
「京一」
 滑らかな声が口を突いた。久しぶりに発したにも関わらず、掠れもひび割れもしていない。
「なんだ?……って、え……ッ???」
 胸を打つ清音に、京一がぽかんと口を開けた。
「緋……勇……お前……声が……?」
 長い前髪を掻き揚げる。
「今日は用事があるんだ」
 隔たりの無くなった双眸で、京一をひたと見つめた。婉然と微笑めば、相手は音を立てて唾を嚥下する。
(少しは悩め、この馬鹿)
 自分はここからいなくなるけれど。少なくとも京一だけには簡単に忘れて欲しくない。
 消えゆく水泡よりも淡く。水面に拡がる波紋よりも深く拡がる想いをその胸に残していこう。

 落ち着かなくなってそわそわする京一を気の済むまで見物した龍麻は、厳かに瞼を下ろした。再び顕れた瞳に宿るは修羅の光輝。戦いを知らぬ者には持ち得ぬ気魄が天井を睨み据えた。
 常に感じていた気配に向かい、決然と言い放つ。

「茶番は終わりだ宗崇!」

 薄い氷の表面に亀裂が走るように。脆き迷宮は剥がれ落ちた――。

―――何故コバム?

「ここは俺の『世界』じゃない」
 ただひとつの色を『世界』としていたあの頃とは違う。

―――夢ニ身ヲ委ネテイレバイイモノヲ……

「虚構に満ちた夢など欲しくはない」
 望むのは、現実。あるべき場所でまごうことなく地に足をつける己の意志だ。
 出逢った偶然。出会えた運命。そして、龍麻を『動かす』者達。それらの全てが、いまの龍麻にとっての『世界』。龍麻に『生』を与えてくれる場所。

―――愚カナ……。ナラバ無理ニデモ、夢ニ溺レテモラウマデダ!

「龍麻さんっ!」
 はっと見開いた龍麻の腕に、栗色の髪の少女が飛び込んでくる。
「ハッハッハッ。夢の中で死を迎えるがいい!」
 狂妄の炎に身を浸すのは、彼女の兄。白衣を纏いて死を運ぶ医者、死蝋影司。
 龍麻は少女を深く抱きこむと、空いた掌で拳を固めた。
「愚かなのはお前だ。俺は二度と同じ過ちを犯すつもりはない」
 過去に手放してしまった少女は、今もまた龍麻を庇おうと身を投げ出してくれる。
「今度こそ護ってみせる」
 例え、泡沫(うたかた)の世界の出来事だとしても。
(君に伝えていない言葉があるから)
 今度こそ、躊躇うことなく伝えたい。

 龍麻の瞳孔が黄金色に煌めく。
 唸りを上げる拳から皓々と輝く炎が生み出された。
 伝説の鳥。四神さえ超える《力》を有する、焔の支配者が陽炎の中から具象する。
『秘拳・鳳凰――』

 死蝋の操る紅蓮の獄を白銀の焔が嘗め尽くした。

「ばっ、馬鹿な、《力》は封じられていたはずだ……何故……」
「いつまでも、暗闇で膝を抱えていた子供じゃないってことだよ……宗崇」
 偽りの殻を被った男の本質を、龍麻の怜悧な眼差しが捉える。
 死蝋影司を模した柳生宗崇の『残影』が、嗤った。
「さすがに《黄龍の器》なことだけはある。よかろう。無事元の世界へ戻り、己が半身と雌雄を決するため、我の元へ辿り着いてみせるがいい」
 したが、お前にそれが可能か?
「余計なお世話だよ。宗崇がどう出ようと、俺はやるべき事をやるだけだ。さっさとその見苦しい姿を消したら?」
 龍麻の意志に呼応し、炎がさらに強くなる。劫火に包まれてもがく姿は、いまだ死蝋影司のままだ。
「龍麻……」
 腕の中の少女が身じろいだ。事情を知らない彼女にとって、あれは兄以外の何者とも映らないだろう。
「比良坂……」
 どう説明すべきかと言葉を模索する龍麻の唇に、紗夜はそっと人差し指をあてる。
「何も言わないで。わかってます。あれは兄さんじゃなかった……」
 灰になっていく白衣に一度だけ視線を転じると、再び龍麻を振り仰ぐ。
「そして貴方も。……元の世界へ帰るのでしょう?」
「ちゃんと戻れるか不安だけどね」
 少しおどけて見せると、紗夜はにっこりと微笑んだ。
「大丈夫です。貴方を呼んでいる声が聴こえますから」
 遠くから、近くから、微かに、けれど確かに聞こえてくる声。耳に馴染んだそれは、龍麻の『名前』を呼ぶ、たったひとりの相棒のもの。
 紗夜は龍麻の躰を軽く両手で押した。足元が消えうせ、浮遊感が身を包む。
「……っ?!比良坂?」
 堪えようと足に力を込めたが、留まることは出来なかった。
「きっとまた会えます。私は貴方に助けてもらったんだもの」
 翳りのない表情で少女が笑う。
「比良坂……」
「わたし気づいたんです。自分にも《力》があることを。貴方のために出来ることがあるってことを」
 遠ざかる微笑み。
「俺が……」
 伸ばした手の先は、虚空以外を掴むことはなく。

―――貴方がわたしに光の暖かさを教えてくれたように。今度はわたしがあなたの光になる。
―――貴方が暗闇に迷っていたら、わたしが道を照らしてあげる。

―――きっと、照らしてあげるから。

 声だけが、耳の奥に残り。
 龍麻の全身は、闇に包まれた。

  

「あっ気が付いたみたいですね」
 浮上した意識が最初に認めたのは、先ほどまで腕に抱きしめていた少女の仄かな笑みだった。
 夢の続き、なのだろうか。
「龍麻?」
 意識の定まらない龍麻に、紗夜が手を伸ばす。
「比良坂……?」
 額にかかる髪を梳く細い指の感触に、ようやくこれが現実であると知った。
「どうしたの、変な顔をして。幽霊にでも会ったみたい」
 まさにそのとおり。
(どういうことだ。まさか戻るのに失敗したとか?)
「たか子先生を呼んできますから、それまでもう少し眠るといいですよ」
 困惑する龍麻を余所に、紗夜は必要なことだけ伝えるとすっと離れていった。白い床と壁に赤いチェックのスカートが翻る。

―――龍麻、ありがとう……。

 部屋を出る彼女がそう囁いたように聴こえたのは、都合のいい幻聴だろうか。

 たか子に簡単な問診を受けた後、龍麻はさっさと病院を後にした。
 龍麻を取り巻く状況も、六道の《力》に倒れたことも、意識を失う前――3日たっていた――に持っていた記憶となんら変わりない。
 紗夜のあり方だけが、違っていた。
 龍麻を除く全員が、『比良坂は兄と一度は炎に巻かれたが、龍麻によって救け出された』のだと認識している。
 異空間での行動が影響していることは、疑うべくもなかった。
(さて、どうしたものかな……)
 あれから紗夜とゆっくり話す機会を持つことが出来なかった。帰り支度を済ませる間に次々と仲間達が押し寄せ、纏わりついてきたのだ。立て続けに死にかけたり、異界に飛ばされたりしたせいで、身も心も疲れきっている龍麻は、早々に退散を決め込むことにした。
 その後ろを当然のように京一がついてきた。龍麻が何も言わなかったのは、単なる習慣の問題だ。なにせこの男は、普段から3日と空けず龍麻家に入り浸っているのだから。
「なあ、ひーちゃん、さっきからずっと黙ってっけど。やっぱどっか悪いのか?」
 帰り着いたとたんフローリングに座り込み、電気をつけるでもなくほんやりとしている龍麻に京一は痺れを切らした。
「……ああ、京一がついてきてたんだっけ」
 忘れ去られていたのか……。京一は情けない顔で龍麻の肩にのしかかる。
「重い。どけよ京一」
 邪険に押しのけようとしたが、ずっしりと体重をかけられてしまった。疲弊している身にこれはきつい。
「京一」
 龍麻が首を巡らせると、京一はやおら龍麻の両腕をつかみ取った。
「ひーちゃん……」
「えっ……うわっ」
 冷たいフローリングの床の上で、二人の躰が折り重なる。
 頭だけは京一が庇ってくれたが、打ち付けた背中が痛かった。
「いきなり何をするんだよ」
「いいからっ!ちょっと黙ってろ!」
 苦情を口にしかけたところを反対に怒鳴り返され、龍麻は口を閉ざす。
 京一は龍麻の躰に腕を回すと、骨がきしむほどに強く抱きしめた。
(……前にもこんなことがあったな。あの時も比良坂絡みだったっけ)
 脱力しながら思う。疲れているせいで、抵抗する気力も起きない。
「お前が死んだら、俺も後を追うからな」
「……は?」
 泣きそうな声色だった。
「俺はお前が死ぬのは嫌だ……」
「京一?」
「お前、俺達のこと役に立つから傍に置いてるんだって言ったよな。死のうがいなくなろうが泣くつもりはないって。なら、そのとおりに振舞えよ。俺達を庇ったりするな」
 肩が震えているのは、激情を無理に抑えているためか。
 龍麻は困惑した。
「誤解があるようだけど……俺は『泣かない』とはいったけど、『気にしない』といった覚えはないよ」
 利用しているのは事実。状況如何では見捨てることさえあるだろう。とはいえ、龍麻は彼等を捨て駒と見なしているわけではない。

 仲間の死体を踏み越えようとも、成し遂げたいことがある。
 だがそれは、仲間を見殺しにするのと同義語ではない。

「助けられる命ならば、拾っておくに越したことはないだろ。それが俺の義務だと思うし」
 彼等に何かあればそれは龍麻の所為だ。自分が殺した者を前に涙するほど傲慢にはできていない。だから、泣くことはないけれど。
「そんでお前が死んじまったら、なんにもなんねーじゃねェか」
「死なないよ」
「たまたまだろ。どっちのときも一時は危なかったじゃねェか」
「偶然じゃない。俺には確信があった」
 柳生に斬りかかられた時は確かにそうだろう。しかし、六道の時は違う。彼女の《力》がどんな性質か、また、どれほどの威力を秘めているのかも判らない状況だったのだから。
 性格とか思惑とか、そんな上辺のものを取っ払ってしまった本質の部分で。
 生死を分かつ刹那の狭間で。
 龍麻は、無意識に自分以外の者を護ろうとする。救おうと動いてしまうのだ。
 そういう奴だからこそ、皆が安心して命を預けられるのだと知ってはいても。龍麻だけが傷つくことに、やるせなさを覚える。己の技量不足を痛感させられる。
 京一は一歩も譲る気配のない龍麻の言葉を塞ぐために、実力行使にでた。
 羽毛のように何度か軽く啄むと、顎を辿り首筋へと唇を滑らせる。
「ん……っ、ちょっ、と、京一」
 耳のすぐ下に唇を押し当てると、命が流れているのを感じられた。
「お前が死んだら俺も後を追う。お前が誰かを庇って死んだら、そいつを殺してからやっぱり後を追ってやる」
「な……んだよ、それ」
 直接肌を伝う響き。龍麻はゆっくりと瞬きした。
「犬死になるぜ?死体がひとつ増えるんだからな、無駄どろこか余分な行為ってわけだ」
 ……それは脅迫と言うのでは?
「庇う相手は京一かもしれない」
 それはねェよ。と京一は断言した。
「お前に庇われなきゃいけねェ状況になったら、俺が自分で自分を切り捨ててやる。けどよ、俺はもっともっと強くなってみせるぜ。俺はお前に護られたいんじゃねェ。お前と同じ場所に立って戦いたいんだ」
 龍麻は呆気にとられて、まじまじと京一を見つめ――盛大に吹き出した。腹を抱えてひとしきり笑いの衝動を発散させる。
「人の決意を笑うか?」
「ごっごめん、いや、前向きだなと思ってさ。感心するよ」
 そう。これが京一だ。何処の世界いても変わることのない真っ直ぐな気性。
 仲間とは認めていないのだと、ただの道具なのだと告げた時から、まだ半年も経っていないというのに。いつのまにか、隣にいることが……相棒と呼ばれることが当たり前になってしまっている。
「……そうやって笑っていられんのも、今のうちだけだぜ」
 不満げに眺めていた京一は、何をたくらんだのか、ふふんっと鼻を鳴らした。
 嫌な予感に逃げを打つ隙を与えず、顎を掴んで再び唇を奪う。
 歯列を割り口腔内に侵入してきた舌が、執拗に龍麻を追い求めた。
 もう片方の手がシャツの裾から忍び込み、つっと脇腹を撫で上げる。
「んっ!」
 抵抗しようにも躰はしっかり敷き込まれてしまっていた。
 永遠にも感じられるほどの空白。上半身を這う掌と、呼吸すら奪い尽くす長い接吻づけに、京一の肩を掴む力が徐々に抜けていく。龍麻の息がすっかり上がった頃になって、ようやく京一が躰を起こした。
 目容に満足げな色を浮かべている。
 龍麻は血色の良くなった顔で、京一を軽く睨んだ。
「いいな。その目つき。すっげー色っぽい」
 こいつ……さっきまで泣きそうだったくせにっ!どうしてこの男はこうも手が早いのだろう。本当に油断がならない。
 握りしめた拳を震わせ腹を立てている間にも、京一の手の動きはさらに大胆になってくる。
 ボタンを全て外され、鎖骨を舐められて龍麻は身を捩った。
「こらっ、調子に、乗るなって……っ」
 顔を背ければ、桜色の耳朶が京一のすぐ目の前にくる。
「なァ龍麻……」
 低い声で囁かれ、ついでに甘噛されて。
 ぞくりと悪寒が背筋を滑り落ちた。龍麻は唇を噛んで込み上げてくる感覚をやり過ごす。
「この続き、していいか?」
「きょう……い、ち?」
「お前がちゃんと生きてるって、もっと近くで確かめたいんだ」
 ダメか?
「…………お前、嫌だっていったら、やめられるのか?」
 この状況で。
 両者の下半身はぴったりと密着している。京一がすっかりその気になっているのは、龍麻に伝わっていた。
「うっ……そりゃ、嫌われたくねェからよ。どうしても、絶対にっ!嫌だってんなら……しょうがねェ今日のところは我慢する」
「我慢……似合わない言葉だな」
「茶化すな!このまま襲うぞっ」
 龍麻は視線を外した。
(他の女の子との仲を取り持とうとしてたくせに、俺にこんなこと仕掛けるか普通)
 どうしてこう突拍子もないことばかりしでかすのか。京一には振り回されてばかりいる。
(でも一番わからないのは、俺自身かも……)
 小蒔や杏子にさんざん『京一に甘い』と言われてきたが、本当にそのとおりかもしれない。
 長い沈黙に京一が「やっぱ駄目か」と諦めかけた頃、ぽつりと呟いた。
「寝室は上だ……ここでは嫌だからな」
「えっ、ひ、ひーちゃん?」
 自分から言い出したくせに、慌てふためく京一が可笑しい。真っ赤になった頬を両手で挟み、これだけはと釘を刺した。
「ちゃんと手加減しろよ?」
「…………了解」
 京一は面映ゆそうに破顔すると、いままで一番柔らかな抱擁で応えた。

 熱っぽい眼差しが龍麻を見下ろす。
 狂おしげに求めてくる指先も、慈しむように触れてくる掌も、『向こう側の京一』にはなかったものだ。
 注ぎ込まれる熱に浮かされ、繰り返し紡がれる睦言に翻弄されながら、とりとめのない想いが浮かんでは散っていく。
 『世界』は、龍麻に新たな彩(いろえ)を示してくれた。命を奪う色しか知らなかった瞳に様々な色相を映し出してくれた。
 ……未知なるものは、いつも外側から訪れてきたのだ。
 なのに、京一と出逢ってから、龍麻の内側から新しい色彩が生まれるようになった。知らなかった感情が深い眠りから醒めていく。
 心の奥底、明鏡たる湖を染め上げるほどに。
 唯一無二と決めた志を、揺るがすほどに。

 ともすると、京一こそが龍麻にとっての――。

(やめた。馬鹿馬鹿しい)
 龍麻は思考を停止した。これ以上続けると、とんでもないことに思い至りそうで怖い。
 湧き上がる情のまま、指先を絡め鼓動を重ねる。男の重みに、吐息を乱す。

 紗夜の存在よりも、《力》がないことの喪失感よりも。
 単なる友人として節度ある距離を保っていた『京一』に覚えた苛立ちの方が大きかったなんて、言えば調子に乗るだろうから絶対に教えないけれど。
 ……たぶん、そういうことなのだろう。

  

 翌朝。
 丸まった毛布に向かい、平謝りに拝み倒す青年の姿が、陽光に照らし出された。
「俺、手加減しろって、言ったよな……」
 低く気怠げな声は、持ち主の怒りを如実に表している。
「ごめん。ひーちゃん。本当に悪かったって」
 理性を銀河系の果ての果てまで飛ばしてしまっていた自覚のある京一は、ひたすらに頭を下げた。
 下げてはいるが……自分だけが悪いわけじゃないと、密かに思う。
 波打つしなやかな肌。すがり付いてくる腕。あえやかな甘い声。切なげに寄せられた眉。
 あとじさる仕草さえもが、艶かしくて。
 京一は誘惑され、全身で溺れた。あれは反則だ。

 いろいろ悩んだり、弱気になったりしたが。
 どこにも行かせたくないのなら、誰にも渡したくないのなら、思い切って行動することも必要なのだとやっと悟った。
 手を伸ばせば届く位置から愛しい影が消えてしまわぬうちに。相手を慮るばかりに、臆病になってしまわないように。
 達観したというよりは、開き直りの境地である。
 あるいは、思考回路を使いすぎてショートした――つまりはキレた――と、評するのがもっとも的確なのかもしれない。

「あんなひーちゃんを見せられたら、誰だって理性くらい吹っ飛ぶぜ」
 もちろん見せるつもりなどないが。
「京一っ!」
 龍麻が勢いよく身を起こした。上半身からはらりと毛布が滑り落ち、象牙色の肌が露になる。
 そこかしこに散らされた赤い印は、昨夜の情事の名残。
「…………っ!」
「うわっ、ひーちゃんっ」
 つい見とれてしまっていた京一は、傾いだ身体に慌てて手を伸ばした。
「馬鹿、急に動くなって」
 胸に倒れこんできた想い人を優しく抱きしめる。
 誰のせいだと言いたげな目元に唇とひとつ落とすと、優しく躰を横たえてやった。
 覆い被さった格好になった京一は、目にとまった左肩にそっと触れる。
 そこから右脇腹まで一直線に走る、醜く引き攣れた痕跡。夜の闇では触覚としてしか感じ取れなかったものが、朝日の中で痛々しく映し出されていた。
「コレ、残っちまうかな」
 指先で丁寧に傷の跡をなぞる。痛みが消えていることは、昨夜のうちに確認済みだ。
「……っ。大丈夫、だろ。じきに消えるよ」
「そっか、よかった」
 右の脇腹にたどり着いた掌を腕に這わされ、龍麻は我知らず身を震わせた。
「べっ……つに、女の子じゃ、ないんだから、傷ぐらい残ったって……」
 漏れそうになる喘ぎを抑えながら、努めて平静な声を装う。
 京一は強く首を振った。
「冗談じゃねェよ。勿体ねェだろ!せっかくこんな綺麗なのに」
 右肩に到達した手が首筋をつたう。頬のラインを包み込むようにして、唇の形を親指で確かめた。指先に感じた生暖かい風を、自分のそれで直接受け止める。
 朝にしてはいささか濃厚な挨拶。
「……んっ……ふっ……」
 喉から零れる吐息に、京一の奥底で熱が蠢いた。
 もどかしげに指を動かす。覚えたばかりの場所を的確についていく。
「きょ……い……ち……」
 下肢を辿ろうとする頭を、龍麻は引き寄せた。情欲に浮かされた瞳が、京一を映し出す。
「龍麻……」
「そろそろ、待ち合わせの時間、なんじゃないのか?皆と旧校舎で鍛錬をする約束だったろ」
 へっと、京一の動きが固まった。
「ひーちゃん……俺にここでやめろっていってる?」
「絶対に嫌だっていったら、諦めるんだろ?」
 濡れた瞳でそんなこと言われても……引けるわけがないではないか。
 昨夜は昨夜。今朝は今朝だ。このまま押し切ってしまおうと思った京一の目前に、華やかな笑顔が拡がった。
 ふわりと花開く、純白の牡丹。
 瑞々しい清純さの奥深く秘められた艶に、魂ごと吸い寄せられそうになる。
「皆が待ってるんだ。遅刻は許さないからな」
 惚けた京一に浴びせられたのは、しかして、すげない科白だった。
「……ひーちゃんの、いけず……」
 誰がいけずだ!
 気力も体力も底をついてる今、この時に!不埒な行為に走ろうとするのが悪い。
 往生際悪く触れてくる指をはずし、両手で握り込んで、龍麻はにこやかにのたまわった。
「体力があり余ってんなら、旧校舎で思う存分発散してこい。中身の方は俺がしっかりと面倒をみてやるから」
 英語の課題、まだ未提出だったんだろ?
「ひーちゃん、それは……ほら、ひーちゃんもやっぱ疲れているだろうし」
 京一の額を冷汗がつたった。
「俺が疲れていると知ってて、京一はこういうことをしてるんだ?」
「う……、それは、その……」
 どうせ送り出しても、京一はここへ戻ってくるだろう。ならば、追い出そうとしてへたに労力を消費するよりは、勉強の監督でもしていた方が体力的に楽であろうと考える。
「京一、返事は?」
「…………はい」
 今夜はスパルタ式のお勉強会だ。昨日とは違う意味で眠れないかもしれない。
「あれ?ひーちゃんは行かねェのか?」
 確か昨日の時点では、龍麻も一緒に約束した筈。
「行けると、思うのか?」
 じとりと、龍麻が横目で睨んだ。
「思いませんです、はい」
「俺は寝るから」
 緩慢な動作で肌蹴てしまった毛布を引き寄せる。
「皆には適当に言いつくろっておいてくれ。……くれぐれも、余計なことは言わないように」
 最後の一言だけ、強く念を押した。
 京一はびくびくしながら、背を向ける龍麻に愛想笑いを取り繕う。

 窓辺ではつがいの小鳥が、可愛らしい囀りを響かせていた。

2001/06/24 UP
対処に悩んだこの話。
表にはとてもおけない、でも、ないと話が通じない……(ダメじゃん)
いっそのこと、問題の箇所をすべて削除してしまおうかとも思ったのですが、それではあまりに色気がないし。京一が報われないまま(笑)というのも哀れなので。
考えた末にこうなりました。文章と同じくやることが中途半端です(^^;;

2005.04.24追記:そんなわけで、ずっと秘密の頁に置いていたのですが、サイト改装に伴い駄文は全て秘密頁へ持ってきてしまったので、無事合流することと相成りました。

【次号予告(偽)】

体調のすぐれない龍麻(半分以上は京一の所為)のために、裏密が特別な薬を調合してくれた。
裏密:「うふふふふ~~、ひーちゃん、わたしの薬飲んでくれる~~?」
龍麻:「わざわざありがとう裏密」
京一:「わ~~っ!!ひーちゃん、早まるんじゃねェ!!……って、飲んじゃったよオイ」
龍麻:「……うっ!」
急に胸を押さえて苦しがる龍麻。周囲の者達が慌てて取り囲む。
京一:「大丈夫か?ひーちゃんっ!!」
裏密:「へんね~、調合を間違えたのかしら~?」
御門:「この場合、王道パターンだと女性に変化したりするのですが」
如月:「そ、そうか……確かによくあるパターンだな」
壬生:「女性になった龍麻……(この間のウェディングドレス姿を思い出している)」
京一:「それ、ホ、ホントか?」
惚れた相手が野郎だろうが女性になろうが、気にする奴なんかこの中にいるのか?という疑問はさておき、ともかくも一同は興味深く成り行きを見守った。
如月:「ん?どうやらおさまったようだな」
壬生:「特に変わったとは思えませんね」
龍麻:「裏密……」
裏密:「なあに~~?」
龍麻:「(頬を染めて上目遣いに)俺、前からずっと裏密のこと……」
京一:「なにィ~~!!!?ひーちゃん、どうしたんだ?しっかりしろッ!!!」
御門:「これはどうやら、もうひとつの王道パターンだったようですね」
如月:「媚薬の効果が現れるというアレか……」
京一:「ふ、ふざけんなッ!!解毒剤!裏密ッ、解毒剤はどこだ!!?」
裏密:「うふふふふ~、そんなものあるわけないでしょ~」