最終話 東雲

 東雲に導かれ、若人(わこうど)たちは新たなる高見を目指して歩き始める。



 春惜月(はるおしみづき)――。
 真神学園を学び舎として過ごした生徒達は、今日の良き日に新しき人生の門出を迎える。
 卒業生の前途を祝福するかのように空は晴れ渡り、新芽の緑は目にしみ入るくらい鮮やかであった。

 校庭の片隅にある桜の樹の下。まだ硬い蕾の残る幹を背に、小蒔は待ち人の来訪に小さく手を振った。
「ごめんひーちゃん、こんなところに呼び出したりして」
 いつもは闊達な少女が、珍しくしおらしい。
「かまわないよ。話って何かな?」
「うん……」
と、言ったっきり、卒業証書の入った筒をしきりと手で弄んでいる。
 小蒔は実のところ、どう切り出そうかと思い悩んでいたのだ。
 式の前に教室で親友から告げられた言葉が反芻される。

―――卒業して道は分かれても、私達はずっと仲間でしょう。

 お互いにとって一番いい距離を選んだのだと美里は言い、ふっきれた顔で笑っていた。

(葵が納得してるなら、いいけどサ……)
 小蒔は美里と龍麻の仲を、ずっと応援しつづけてきた。お似合いだと思っていたし、事実、二人が並んでいる姿は妙に絵になっていたから。
 自分の想いは届かない、と諦めていたせいもある。
(でも、ボクは……)
 始めて出逢ったときから、心にやどる灯火。
 小さな燻りがもたらす切なさは、日を増すごとに大きくなっていった。
 心が沸き立つような。甘く疼くようなこの熱を、龍麻に伝えたい。
 通じない想いでも。叶わないとわかっていても。
 自分の気持ちに、決着をつけておきたかった。
「このまま卒業しちゃったら、ボク一生後悔すると思ったんだ」
 口するのはとても勇気がいるけれど。前に進むために必要なこと。

「ボクは、ひーちゃんが……好きです」

 笑うつもりで動かした頬の筋肉が、泣き顔に歪んだ。およそ似合わないことをしている自覚はある。いっそ冗談として笑い飛ばしてくれたらいいのにと自虐的な考えが頭を過ぎった。
「俺は桜井の欲しいものはあげられないんだ」
 龍麻は笑わなかった。予想通りの応えに、それでも胸の奥に痛みが走る。
「うん、わかってる。だけど、ひーちゃんにボクの気持ちを聞いてもらいたかった。……知っておいて欲しかったんだ」
 ゴメンッ。迷惑だったよね。
 零れそうになる涙を誤魔化すために、俯いたままくるりと背を向けた。
「俺も、桜井のこと好きだよ」
 このまま立ち去っちゃえ、とばかりに駆け出そうとしていた小蒔の背中がぴくりと震える。
「この1年間いろいろなことがあったけど、俺達が昏い考えに捕らわれることなくこれたのは、桜井がいてくれたからだと思う」
「ボク?ボクが皆の……ひーちゃんの役に立ってたの?」
 小蒔はひどく驚いた。いつでも、皆についていくだけで精一杯だった。美里や醍醐みたいな特別な《力》もなければ、京一のように優れた武術の才能があるわけでもない。
 せめて足手纏いにだけはなりたくないと、歯を食いしばって立っていることしかできなかったのに。
「いつも桜井の明るさに救われていたよ」
 振り向いた少女の瞳に、頭上を彩る花よりも淡くやわらかな微笑が映る。
「俺にとって、桜井は大事な仲間で……友人だよ。だから、桜井の気持ちは凄く嬉しい……こういう言い方って卑怯かな?」
「ううん。そんなことないッ!ボク、ボク嬉しいよ」
 強張っていた頬が緩み、少女本来の明朗な調子が戻ってきた。同じ想いではないけれど、龍麻が小蒔を大切に想っていてくれていることが、とても、とても嬉しかった。勇気を出してよかったと思う。
「ありがとうひーちゃん。大好きだよ」
 はにかんだ顔でもう一度繰り返した。

  

「あーあ、フッちまいやんの。小蒔ってあれで結構人気あるんだぜ?」
 葵が待っているからと、今度こそ――けれど先程とは異なる曇りのない表情で――走り去る少女から目を転じ、龍麻はゆっくりと振り向いた。
「京一、どうしたんだ?こんなところまで」
「ひーちゃんを探しにきたに決まってんだろ」
「俺を?まさか、京一も俺に告白するなんて言いだすんじゃないだろうな」
 ……似たようなものかもしれない。
 京一は語尾を濁すと、龍麻を誘った。
「まあ、ここじゃなんだしよ。悪りィけど、ちょっとそこまで付き合ってくれねェか?」

 半ば強引に腕を取られ、連れてこられたのは体育館裏の一角だった。
「なァ。ひーちゃん、覚えてるか?俺とお前がはじめて一緒に戦ったのがここだったよな」
 万朶(ばんじょう)の桜花を懐かしそうに見上げる。いまだ五部咲きのほかの木々に比べ、ここだけはすでに満開となっていた。
 京一が昼寝の場所として3年間愛用した樹木は、毎年、真神学園の中で最も早く隆盛を迎える。去年も3月の終盤にはすでに瑞々しい若葉を冠に戴いていたから、龍麻がここの桜を見るのは初めてのことだろう。
 散りそうで散らない花弁を、龍麻は放心したように眺めている。京一もしばし無言で桜を観賞したが、以前ほどに心奪われることはなかった。
 今の京一には、桜よりも魅せられるものがある。
「ひーちゃん……」
 京一は意を決すると、龍麻に向き直り両肩に手を置いた。そうして真剣な面持ちをしていると、普段はおちゃらけた態度の裏に隠された精悍な風貌が顕著となる。
 柄にもなく緊張で掌が汗ばんだ。勇気を振り絞って告白していた小蒔を、はからずも尊敬してしまう。
「ひーちゃん、前にも言ったけど俺は卒業したら中国に行く。もっと強くなりてェんだ。拳武館の館長に聞いたとこによると、どうやら俺の師匠も向こうにいるみてェだしよ」
 だから、大陸で修行を積んでくる。
「ああ。さっき桜井にパンダをお土産にするって約束してたな」
「するかッ!ったくアイツは俺を犯罪者にするつもりか――ってそうじゃなくてだな……」
 京一だってわかっているのだ。あれが皆に中国行きを黙っていたことへのささやかな意趣返しだということは。醍醐にも水臭いとさんざん言われたことだし。
 だがしかし、当面問題にすべきなのはそこではない。
「来週早々には、日本を発つつもりだ。見送りとかされてしめっぽくなっちまうのは御免だから、誰にもいってねェけどよ」
 龍麻の両肩を掴む手に力が篭る。
「それでだな、ひーちゃん、俺と、一緒に――」
「いかない」
 即答。
―――だよなァ。
 京一の心が萎えた。それでも一縷の望みをかけて、上目遣いに想い人を窺う。
「ちょっとぐらい、心が揺らいだりなんてことは……」
「ない。もちろん待つつもりもないから」
「ひーちゃぁぁぁん~~~~」
 京一は情けない声を上げて、龍麻にしがみついた。そう言われるだろうとは思っていたが、ここまで取り付く島がないと哀しくなってくる。躊躇する素振りぐらい見せてくれたって罰はあたらないだろうに。
「京一」
 己の肩に顔を埋めて嘆く男の名を呼び、龍麻はしなやかな指で明るい色の髪を優しく梳き上げた。
「京一、俺は消えるよ」
「ひーちゃん?」
 顔を上げる京一の頬を両手で包み、間近で視線を絡める。
「ここでの俺の役目は終わったけど、俺にはまだすべきことが残っている……帰りを待っている人がいるからな」
 龍麻はここからいなくなる。痕跡も残さず、皆の前から姿を消すだろう。
 それが、真神学園に転校する際の約束だった。
「それって…………ッ!!」
 問いかけのために動かされた唇を、自らのそれで塞ぐ。突然のことに唖然としている京一に、触れているのかいないのか解らないほどの距離で囁いた。
「会いにこいよ京一」
「たつ……ま?」
「俺を探し出して、会いに来て」
 自信、あるんだろう?――と。
 おもねるように小首を傾げながらも、挑発的に輝く漆黒の瞳。
 青年はニッと口角を吊り上げた。至極らしい表情を浮かべて、相棒の挑戦を受け取る。
「当然!どんな場所に行こうと、必ずひッ捕まえて連れ戻してやるぜ」
 標榜は示した。それに追いついてくるかは、京一次第だ。
(けど、必要以上に足跡を残してしまったのは、やっぱり俺が京一に甘い所為だろうな)

 今よりもっと強くなって。きっと自分を探し出して。
 願うのは奇跡ではい。人が人にできる力で作り出す未来だ。
 待つことはしないけれど。覚えていることはできる。
 信じ続けることはできるから。だから。

「楽しみにしてるよ」
 艶やかに笑う龍麻の指を絡めとリ、京一は制約の代わりにと腰を引き寄せた――。

「ここにいたのか緋勇」
 背後からかぶさるいやーな声。天敵の気配に、京一は顔を顰めた。
「犬神先生。どうしたんですか?」
 生物教師の出現と同時に京一から充分な距離をとっていた龍麻は、凍り付いている相棒を無視し、既に何事も無かったかのような顔をしている。
「いまお前の知り合いとか言う奴等が校門前にやってきていてな。そのうちのひとりがなんとかいうアイドルだとかで、凄い騒ぎになっている」
 諌めても諌めても収集がつかないので、渋々元凶である龍麻を探しにやってきたというわけだ。
 京一と龍麻は顔を見合わせた。
 彼等の知り合いのアイドルといえば、ひとりしかいない。
 いまをときめくトップアイドルスター、舞園さやかだ。
「そりゃ、騒ぎにもなるな」
 京一は溜息をついた。せっかくいいところだったのに、お預けらしい。
「わかりました、すぐ行きます」
 龍麻は優等生の返事で、名残惜しんでいる京一を急きたてた。相棒の背中を押しやりながら、首だけで振り返る。
「あ、そうだ。犬神先生、短い間でしたけどお世話になりました」
 簡潔な、けれど様々な感慨の篭った言葉に、犬神の目が僅かに柔らかくなった。
「俺はいつでもここにいる」
 だからいつでも会いにこい、と片手を上げて巣立ち行く生徒への贈る言葉にかえる。何度も繰り返された光景であるにも関わらず、今年はいやに寂寥感を覚えるのは……。
「……俺もヤキが回ったか」
 苦く笑いながら、煙草に火をつけた。

  

 正門前は、なるほどすごい人だかりだった。
 これを押し分けていくのか、と京一はげんなりする。
 できればこのまま龍麻のマンションへ直行してしまいたかった。
「そういえば、ひーちゃんはいつまでここにいるつもりなんだ?」
「できれば、すぐにでもと思っていたんだけど……」
 ちらり、と傍らの青年に視線を送る。
「京一の見送りぐらいはしてもいいかな」
 さっきの続きもあるし、と付け加えると京一の顔に喜色が浮かんだ。
「その言葉、忘れんなよ。盛大にお見送りしてもらうからな」
 それはもう、京一を忘れられなくなるくらいには。
 俄然張り切り出した青年に、龍麻は呆れた。
「おまえって……そればっかりだよな」
 睨もうかと思ったが、つい、笑いが込み上げてしまう。
 まあ、しばらくは会えなくなるのだから、別れを惜しむのもいいかもしれない。

「あーっ!!龍麻ってば、やっと来た!」
 輪の中心から大音声があがる。見れば、アン子がカメラを片手に二人を手招きしていた。
 元新聞部長、未来のルポライターの声に、周囲のものたちが一斉にこちらを振り返る。
 そこに居並ぶ、見知った面々に京一はどっと疲労を覚えた。ほぼ全員の顔が揃っている。彼らだけでもひとクラスの半分ぐらいの人数はいるのだから、混雑するのも当然だった。
「なんだァ。あいつら、自分トコの卒業式はどうしたんだよ」
「うふふふふふふ~。それはね~。皆ひーちゃんに、会いたいからなのよ~」
「うおッ!う、裏密」
 オカルト研究会随一の実力を誇っていた魔女に背後をつかれ、京一が飛び上がった。
「さあ~、ひーちゃん、いきましょう~。皆待ってるわ~」
(さっきの話、聞かれちゃいねェよな……)
 どうにも心臓に悪い。犬神といい、裏密といい、人に近づくときに気配を殺すのはやめてくれないだろうか。せめて人間らしく足音ぐらいは立てて欲しいと切実に願う。
「あっダーリーン~。舞子ォずっと待ってんだから~」
 高見沢が満面の笑顔で龍麻を迎え入れる。
「どこにいたんだ?随分探したんだぞ」
「ごめん醍醐。ちょっと京一と話し込んでたんだ」
 うふふっと美里が笑った。
「やっぱり京一君も一緒だったのね」
「あんた達のセットってすでに学園(うち)の名物よね。そのわりには京一の成長がなかったみたいだけど」
 龍麻と一緒にいれば、少しは利口になるかと思ったのに……。
「無茶なことを言うものではないよ遠野君。むしろ龍麻に悪影響が出なかったことを感謝すべきだ」
「オレも如月サンの意見に一票入れるぜ。ところで京一って卒業できたのか?」
 槍を担いだ雨紋の台詞に、同じように薙刀を手にした雪乃が眼をむく。
「なんだよ、京一ってそんなに頭悪かったのか?!」
「姉様、そのようにはっきり申されては……」
「あっ雛乃、気にしなくていいのいいの。本当のことなんだからサ」
 ひらひらと小蒔が手を振った。
「なんや、京一はん、留年するんか?情けないやっちゃなァ」
「キョーチ、まだ学生生活を楽しむ気ネっ!」
「京一オニイチャン、カワイソウ……」
「フッ……心を痛めることはありせんよ。本人の不徳からきているのですからね。そう思いませんか芙蓉」
「御意」
「まあ、なんだ。教科書の内容がかわるわけではないからな。来年は無事に卒業できるさ」
「甘いですよ紫暮さん。同じ内容を繰り返すにしても、覚えていないのでは意味がないでしょう」
「…………」
 俯いて震え出した京一を、藤咲が宥めにかかる。
「京一、そんな落ち込まないで。暇なときはアタシが遊んであげるからさ」
「あ~、いいな~。舞子も一緒にあそぶぅ~」
 はしゃぐ高見沢を諭すのはコスモピンクこと本郷だ。
「ふたりとも待って。蓬莱寺君のことを考えるなら、ここは黙って見守ってあげるべきだわ」
「遊びすぎて勉学が疎かになっては、本末転倒だしな」
 眼鏡を押し上げる黒崎を、落ち込んでる人間にかわいそうだろ、と紅井が肘で小突く。
「心配するな。勉強に疲れたら、俺達と正義のために戦えばストレスも吹き飛ぶさ。なっ、コスモオレンジ!」
 オ、オレンジですか……?
「おめーら……」
 低いひくーぅい声で、京一が呻く。
「ちょっと待ってください皆さん。まだ京一先輩が留年したって決まったわけじゃ……ッ!違いますよね京一先輩ッ!京一先輩に限って留年なんてっ!!」
「現実というものは厳粛に受け止めなければならない、と私は思います」
「ふふ、芙蓉も言うようになりましたね」
「晴明様……」
 ぷっつんっと、どこかで糸の切れる音がした。
「いい加減にしやがれっ!!この卒業証書が見えねェのかッ!!!」
「ああ、悪ぃ。誰かの預かりものかと思ったぜ」
「村雨……てめぇ……」
 木刀を包む袱紗の組緒(くみお)に手を掛けた京一に、さすがに不味いと龍麻が割って入った。
「よかったじゃないか京一。皆心配してくれてたんだからさ」
 そォッかぁぁぁぁ?不審を露わにする京一である。
「あの……龍麻さん……」
 おずおずとさやかが進み出た。紗夜と手を繋いでいる。
「制服のボタンをいただけませんか?」
 頬を染め、憧れの先輩の第二ボタンをねだるアイドル……。ここにカメラマンがいれば、明日発売の週刊誌のトップは決まったようなものだ。
「あれ?アン子。写真とらないの?」
 ひそひそと囁いた小蒔に、アン子は憮然とした。
「あたしは芸能記者になりたいわけじゃないのよ小蒔ちゃん。それに、こういうのは、本人の大切な思い出でしょ」
 心の中だけで、美しくとっておいてあげたい。
「ほう、意外にいいところがあるじゃないか遠野」
「ちょっと醍醐君。どういう意味よ」
 好き勝手なことを言っている外野をよそに、龍麻は困惑を浮かべて自らの制服を見下ろした。そこにボタンはひとつも残っていない――先程下級生に襲われ、袖どころか制服の裏につけてあった替えボタンにいたるまで持って行かれてしまったのだ。
「ごめん。ボタンは、いまちょっと見当たらないんだけど……」
 さやかもすぐにそのことに気付き、目の淵を赤くして俯いた。
「そうですよね、龍麻さんだったら当然ですよね」
 いまにも泣き出しそうなさやかに、龍麻はますます戸惑う。
「どうして、制服のボタンなんか欲しかるんだ?」
「なにを言ってるんだ、龍麻。下級生が卒業生の制服のボタンを欲しがるといえば、理由はひとつしかないじゃないか」
 さやかちゃんの頼みなんだぞ、どうにかならんのか!
 密かに(?)舞園さやかファン倶楽部会員証まで持っている紫暮が、形相をかえて龍麻に詰め寄った。
「えーっと……」
「いやだ龍麻。アンタもしかしてほんとに知らないの?」
 意味もわからず、いきなりボタンを毟り取られたのでは、さぞかし恐怖を覚えたことだろう。藤咲は想像して笑ってしまった。
「普段から身近に身に付けるものは~。その人のオーラが染み付いているの~。呪いをかけるのに最適な材料なのよ~」
「おまえは黙ってろ裏密」
 話をややこしくしそうな裏密を京一は醍醐に押し付けた。醍醐は真っ青になりながらも、裏密の口を塞ぐ。近づけるようになっただけ成長したということか。裏密はそれなりに愉しそうだ。
「在校生が、卒業生に制服のボタンをもらうのはどこにでもある風習なんですよ。大好きな先輩がいなくなると寂しいから、何か記念になるものを下さいって意味なんです。本当は、第二ボタンが一番いいんですけど」
 それは、先輩のほうも想い返してくれているという意味になるからだと、紗夜は説明する。
 第二ボタンねえと、龍麻は記憶をまさぐった。
「さっき団体にいきなり囲まれて、後はよくわからなかったからな」
 誰が持っていったのか、見当もつかない。
 目撃していた遠野が、龍麻に同情してしまうほどの凄まじさだった。
「真神ではイベントと化しちゃってるわよね。バレンタインと一緒でしょ」
 とりあえず気になっている人のものは、獲得に走るのだ。後日には誰それのボタンを手に入れたと自慢しあう少女達の姿が、学校内の至る所で見受けられるようになる。
「それってボタンじゃなきゃいけないのか?」
 龍麻はボタンのなくなってしまった制服を脱ぐと、さやかに差し出した。
 何気に受け取ってしまった上着を、アイドルである少女はきょとんとして見つめる。
「他に持ってるものがないから。これじゃ、駄目かな?」
 それとも卒業証書のほうがいいかと訊かれ、慌てて辞退した。さすがに卒業証書をもらうわけにはいかないだろう。
「ありがとうございます!」
 さやかは顔を輝かせ、制服の上着を愛しげに抱きしめた。ボタンはたくさんあるけれど、制服の上着はひとつだけだ。名前すら覚えられていない下級生たちに優越感を抱いてしまう。
「かっこいいねぇ先生」
 ひゅーっと村雨が口笛を吹いた。
「でもそれじゃ、紗夜ちゃんの分がなくなっちゃうんじゃないのかい?」
 藤咲が横から水をさす。
「下も脱ぎゃいいんじゃねェか?」
 からかう京一に、しかし紗夜は首を振った。
「わたしはいいんです。龍麻と出逢えただけで充分ですから」
 なによりも、そのことに感謝している。
「あ、それあたしも言いたい。龍麻に会わなかったら今頃どうなってたんだろう、って思うことがあるんだ」
 弟のことで、世間を斜に構えて見ていた。傷つけることしか出来なかったあの時間がどれほど歪んでいたか、藤咲は龍麻と会って初めて気づいたのだ。
「マリィモッ!オ兄チャンノコト大好キダヨ!!」
「舞子もォ~ダーリンのこと~大好き~~」
「お、俺も、その龍麻くんの……こと……」
「わたくしも姉様も、あなたには大切なことを教えていただきました」
「色男、何か応えてやれよ」
 京一に背中を押され、龍麻は少しだけ困ったように俯くとゆっくりと髪を掻き上げた。
 普段は隠れている双眸が露になる。
「ありがとう。俺も皆に会えてよかったよ」
 ふわりと、綻ぶ口元。
 整いすぎたきらいのある顔が、大輪の華を開かせるがごとき彩りを表した。
「……………………」
 あたりが水を打ったように静まりかえる。
 京一は心中で「げっ!」とうめいた。藪をつつきすぎてしまったと、遅蒔きながら焦りを覚える。
 恐らくは無意識に浮かべたであろう笑顔。京一でさえ、めったにお目にかかれない極上の表情を、しかもご丁寧に前髪までどかして披露してくださったのだ。
 それがどんな効果を及ぼすかなんて、本人はきっと自覚していないのだろう。
「えっと、あれ?俺なにか変なこと言ったかな?」
 沈黙してしまった仲間達に、龍麻は眼を瞬く。
「……………………先生」
 珍しく厳粛な面持ちを浮かべた村雨が、龍麻の肩を抱き寄せた。
「俺と世界を回らねえか?先生一人ぐらい、俺が食べさせてやるぜ」
 それは、プロポーズの言葉では?
「おやめなさい、龍麻。そのような自堕落な男と付き合っては不幸になりますよ」
 御門が手にした扇子でその手を叩き落とした。
「Oh!アミーゴ!ボクとブラジルにいきませんか?ブラジルはいいところデース」
「それより、わいと中国へ帰らへんか?アニキの第二の故郷や」
「何を言ってる。ひーちゃんの国籍は日本だろう。ひーちゃん、俺とヨーロッパへ渡って、インターナショナルなニューヒーローを目指そう!」
 サッカー留学を決めた黒崎に、本郷が反発する。
「あら、正義の味方なら日本でだってできるわよ」
「うふふふふ~。ひーちゃんとなら~。もうひとつの世界を支配することも可能ね~~」
「ひっ、裏密ッ」
 うふふふふふふ~~と笑いつづける裏密に、醍醐が大きく仰け反った。
 あとはもう、バイクを飛ばして晴海へ行こうだの、いや、あたしとオールでクラブを回ろうだのと、喧々轟々の大騒ぎだ。互いに譲らない勢いで、龍麻そっちのけで言い合いを始めてしまっている。
 紗夜はいつもなら、真っ先に怒鳴り散らしているはずの人物を目で探した。京一は苦々しげに周囲を見渡しながら、龍麻に何事か囁きかけている。
「あ、逃げた」
 同じところを見ていたのだろうさやかの呟きを、アン子の叫びが掻き消した。
「あーっ!!あんた達ちょっと待ちなさいよッ!まだ全員で記念撮影してないんだからね」
 言い争いしていた者たちが、倣ったように首を巡らせる。
「馬鹿野郎ッ!大声出すんじゃねェって。ほら見ろ、気付かれちまったじゃねーか」
「卑怯な真似はやめてもらえるかな、蓬莱寺」
 壬生に続き、アランと如月も抗議の言葉を口にする。
「そうデース。キョーチがいなくなるのはかまいまセンが……」
「龍麻は置いてってもらおう」
「うるせーッ!おめえらなんかに俺の大事なひーちゃんを渡してたまるかッ!」
 喚いている間に、集団の輪に包囲されてしまった。
 吊し上げを喰らっている京一を横目に、美里が龍麻に話し掛ける。
「こうして見ると、いろいろな人たちが集まっているわね」
 アイドルに武道家に正義のヒーロー、陰陽師に看護婦に賭博師と、忍者に暗殺者まで揃っている。
 誰もが宿星に導かれ、運命に翻弄されて。時には反発し、敵対しながらいくつもの闘いを切り抜けてきた。
 それは、辛く厳しいものであったが、かけがえのない何かを自分達にもたらしてもくれたのだ。
 心を許せる友や、優しい家族の手。信頼できる仲間達との絆。
 そして、一生忘れ得ぬような想いを――。
「私たち、龍麻がいなければ話すことさえなかったでしょう。そう考えると、とても不思議な気持ちがするわ」
 爽やかな風に髪をなびかせ、龍麻が目を細めた。
「皆を巡り合わせたのは俺じゃないと思うよ」
 えっと首を傾げる美里に、すっと指で示したものは。
 蒼穹に聳え立つ、すこしくたびれかけた白亜の校舎。
「俺たちは皆、この街とこの学園に呼ばれて集まったんだ」
 東京魔人学園。この学び舎はこれからも、魔人を生み育てる苗床となるのだろう。
「いつか私たちが大人になったときに、またここに集まれるかしら。皆でお花見をしたいわね」
「そうだね、いつかきっと――」
「龍麻、美里ちゃん、早く早く、シャッターを押しちゃうわよッ!」
 居並ぶ者達の笑顔を抱き留め、紺碧の空にシャッターの音が吸い込まれていく。

 夜の学園に忍び込んで、皆で酒を酌み交わそう。
 肩を並べて語り合い、共に暁を迎えよう。
 多くの苦しみと悲しみをもたらした日々が、鮮やかな思い出と変わる頃に。
 いつか、皆で―――。


東京魔人学園剣風帖 |||| 曉 ||||

―――― 終 劇 ――――

2001/10/21 UP
菩薩様強し!一同がバタバタしている間に、トリを持っていかれておしまいになりました。
ひーちゃん達もおかげさまで無事に曉を迎えられたようでございます。
ただ、ひーは京一とは一緒に中国へは行きません。
その辺りの事情が出てくるかどうかは、今後の朝霧のやる気次第……かもしれないということで(笑)
お読み頂きました皆様には、長らくのお付き合い有り難うございました。