第拾六話 瞑想

 目を閉じて、眠りし者達に想いを馳せる。
 陰と陽の交差する空に向かい黙祷を捧げよう。



 ふたりで一緒に、時空の扉を潜った。
 久遠にも感じられた空白は、しかし実際は5分とは刻んでおらず。
 龍穴内では時間の流れが少し違っているのだと後で龍麻が教えてくれた。
 その僅かな間になにがあったのかを、仲間達が推測する術はない。美里と紗夜だけは龍麻を見て怪訝な顔をしたが、口に出して何かを言うことはなかった。
 いつの間にか、長い夜は終わりを告げている。
 目覚めの早い小鳥の囀りを耳にしながら、京一はさらなる修行の必要性を痛切に感じていた。

 そうして、長きに渡る戦いに終止符を打った魔人達は日常へと還っていく――。

  

 新宿駅1番線ホーム。
 人混みから外れた柱の一つに寄りかかり文庫本を開いていた紅葉は、近づいてくる気配に顔を上げた。どれほどの雑踏に紛れようとも、決して埋もれることのない姿を前に、ふと瞳を和ませる。常に鋭利な気配を纏う青年の雰囲気が、この時だけは柔らくなった。
「ごめん紅葉。待たせたみたいだな」
「君は時間どおりだったよ。僕が少し早く着いたんだ」
 読みかけの本をコートのポケットにしまい、龍麻の肩に手を置く。
「ちょーっと待てッ壬生!!」
 とたんに鳴り響いた騒音に、冷めた視線を送った。
「……なんだ蓬莱寺。君もいたのかい?」
「見りゃわかんだろッ!てめッいつまでひーちゃんにひっついてやがる!」
 ぎゃあぎゃあと喚き立てる京一の口を塞ぎ、龍麻が申し訳なさそうに苦笑を浮かべた。
「ごめん。ついて来ちゃったんだ。コレも一緒でいいかな?」
 京一は冬休みの間、ほぼ連日龍麻の家に泊まりこんでいた。今日とて龍麻が用事があるからと出かけようとしたところ、強引についてきてしまったのだ。
 うっかり紅葉と会うと漏らしてしまったのが敗因であったかもしれない。
「しかたがないね。ここで捨てていっても、ストーキングされるだけだろう」
 京一の同伴をなんとなく予想していた壬生の反応は、軽く肩を竦めるのみに留まった。
「だれがストーカーだ!」
 あんまりな言われように京一もさすがにムッとなったが、
「じゃあ。おとなしくここで帰るか?」
「…………お供させていただきます」
 情けないと言うなかれ、惚れた相手を自分以外の男――それも強力な恋敵――と二人きりにさせるわけにはいかないのだ。

 その後すぐにホームに入ってきた電車に乗り込んだ。朝は地獄の釜のごとき混雑をみせる登り列車は、夕方も五時過ぎとあって所々に空席が目立つ。
 とはいえ、男が3人で座れるほどのスペースはなく、15分程度のことだからと龍麻達は入り口近くに立っていた。
「しっかしよォ、席が空いているなら空いているで、むやみやたらと幅とってるおやじが必ずいるよな」
 京一が苦々し気に視線を送る先には、不必要に肩肘を張り、両手一杯に新聞を広げてふんぞり返っている中年のサラリーマンの姿がある。いくら空いているとはいえ、京一達のように立っている者だっているのだ。彼ひとりが行儀よく座るだけでゆうに2、3人分の席が確保できるだろう。
「お金を払って乗っているのだから何をしてもいいのだと勘違いしている愚か者の典型的な例だね。運賃を払っているのは彼だけに限ったことではないし、働いているのも疲れているのも彼だけではないのだけどね。大方、世の中で自分だけが偉いと思い込んでいるんだろう」
 酷評を下す紅葉を嗜めたのは、意外にも龍麻だった。
「京一も紅葉も、そんなにいきりたつなよ。会社でも家庭でも疎まれ居場所がないからこそ、こうした場所で自己顕示欲を満足させているのだとすれば哀れじゃないか」
 ……何気に一番酷いことを言っている。
「案外、どっかの大企業の重役だったりしてな」
 京一が混ぜっ返した。
「それなら、人間が卑しく出来てるだけのことだ。もっとも、大企業の重役はこんな早い時間に帰宅しないだろうけどね」

 などと話しているうちに、電車は終着駅――といっても新宿駅から二駅だけだったが――に到着した。
 ふたりは紅葉に連れられるままに、アーケードを抜けフランス料理店へと足を向ける。
 入り口に立っただけでボーイがドアの開閉をしてくれたことに、京一は意味もなく驚いた。
 普段着姿の自分を見下ろし少々物怖じするも、あえて気にしないことにする。門前払いを受けなかったのだから大丈夫だろう。
 それよりも、龍麻と紅葉がここで誰かと待ち合わせをしているらしいことに興味を抱く。こんな場所を待ち合わせに指定する人物に心当たりはないが、あっさりと同行が許されたことからして、このままついていっても差し支えないのだろう。
 壬生が予約の名前を告げると、階上にある個室に案内された。テーブルには先客がすでに席につき食前酒を手にしている。
「久しぶりだ龍麻君。こうして顔を合わせるのは一年ぶりだな」
 軽くグラスを掲げる壮年の男に、龍麻がぺこりと頭を下げた。
「お久しぶりです。――京一、こちらは鳴瀧冬吾氏。拳武館高校の館長で、俺に古武術を教えてくれた人だよ」
 前半は鳴瀧に、後半は事情を知らない京一へ話しかける。
「ひーちゃんのお師匠さんだって?!しかも拳武館の館長ってことは……」
「表門と裏門という違いはあるけれど、龍麻と僕は兄弟弟子ってことになるね」
 なるほど。龍麻と紅葉の技が似ている理由がやっと理解できた。
「けど、ひーちゃんと壬生は知り合いじゃなかったよな?」
「うん。俺は前の学校の近く……神奈川の道場で訓練してたから。それに、俺が鳴瀧氏について教わっていたのは真神学園に転校してくる前の半年間ぐらいのことだったし」
 ふんふんと頷きかけて……京一の思考がはたと止まる。ちょっと待て。
「半年……?ひーちゃん、俺と会ったとき、武道を始めてまだ半年だったのか……?」
 嘘だろう、と思いたい。龍麻が並外れた才能の持ち主であることは認めるが、たった半年やそこらで、あれほどの動きができるようになるものなのだろうか。
「護身術を齧ってたから、多少の基礎はできてたんだよ」

「それだけではないだろう」
 落ち着いた響きが、静かに割って入った。
「緋勇家は古武術の宗家を務めていたほどの家柄。表門の奥義を究めた家系の血が龍麻君には流れている。神秘主義、と笑われるかもしれないがね。龍麻君を見ていると確かに受け継がれているものがあると感じずにはいられないのだよ」
 噛み締めるようにひと言ひと言紡ぎ、さて、と口調を改めた。
「いつまでも立ったままでは、なんだろう。座ったらどうかね」
 乱入者である京一は、まだ自己紹介すらしていなかったことに気づく。
「あ、俺は……」
「蓬莱寺京一君だろう。君達の話は紅葉からよく聞かされているよ」
 鳴瀧は笑ってそれを遮った。
 いったいどんな噂を耳に入れていることやらと紅葉を睨みつけるが、当人は知らん顔して着席し、ナプキンを広げている。鳴瀧は鷹揚に彼等のやり取りを眺めていたが、各自が席につくと急に真面目な面持ちとなり、京一に深々と頭を下げた。
「いつぞやは、拳武館の者が大変失礼をした。心からお詫び申し上げる」
「えっ、いや、別に……」
 大の大人、それも自分の相棒が師匠と仰ぐ人物に頭を下げられて京一は慌てる。あの一件が鳴瀧の関知せぬものであったことは聞き及んでいた。そう責めるわけにもいくまい。
「気になさらないで下さい。俺達にとっても自分を見直すいい機会となりましたから」
 龍麻は優雅な動作でスープを口に運ぶ。当時、龍麻を始めとする仲間達にさんざん心配をかけた京一は、肩身が狭かった。
「副館長はあの後、どうなったんですか?」
「長年の激務に精神的な疲れを感じられたらしくてね。引退して空気のよいところで静養しているよ」
 同じく銀のスプーンを手にした壬生が、鳴瀧に代わって答える。
 彼を慕っていた他の理事達も、時期を同じくして役を退いた。
「そのほか、素行に問題があった生徒数名に退学を勧告した。どちらにせよ、今後、君達が彼等の姿を目にすることはないだろう」
 表向き、そういうことで落ち着いたらしい。裏でどんな細工がなされたのかはわからないが、副理事長派は一網打尽にされたようだ。
 八剣の行方については聞くまでもなかった。事件より数日後、無惨な骸を晒していたことがニュースになっていたからだ。柳生に助けを求めたところ、逆に口封じをされてしまったのだろう。八剣だけは拳武館の手から完全に逃れられたのだといえないこともない。
「八剣は人間としては最低の部類に入る男だったが、暗殺者としては抜きん出ていた。あれを退けるとは、さすがは神夷京士郎の弟子というべきかな」
「師匠を知ってんのか?」
 京一がぎょっとする。神夷の名は、紅葉はおろか龍麻にも告げたことはなかった。
「私と神夷はかつて、弦麻……龍麻君の父親とともに戦った仲間なのだよ」
「師匠が、龍麻の親父さんと一緒に戦たって……っ?!」
 衝撃の事実に、京一があんぐりと口を開ける。口にしかけていた前菜がぼとりと落ち、行儀が悪いと龍麻に叱られた。
「ひーちゃんは知ってたか?」
「知るわけないだろ。俺は京一の師匠の名前も知らなかったんだぞ」
 そりゃそうだ。京一は、大きく息を吐き出した。
 師匠と自分と。二代に渉って惹きつけた『緋勇』の血。
 京一だけではない、鳴瀧と紅葉、そして龍山と醍醐もまた然り。
 代を経てなお、自分達は『緋勇』の何に魅せられるのか。
(いや、違うか)
 出会いは必然に近い偶然。宿星のもたらした運命という名の作為。けれど、その後行動をともにするかどうかは京一達の胸ひとつだ。
 自分も醍醐も紅葉も、龍麻だからこそ惹かれ、ともに戦っていくことを誓った。恐らく、鳴瀧達も龍麻の父親である弦麻に同じ想いを抱いたのだろう。
(まあ、惹かれるの意味合いは違うかも知んねーけどよ)
「ときに蓬莱寺君。君と神夷はもう何年も会っていないと聞いているが、どうしてかね」
 思考の淵に沈んでいた京一は、だから質問の意味を理解するまでにしばしの時間を必要とした。
「……は?えー、それはその……」
 言葉が続かず、どもってしまう。
「いや、すまない。余計なことだったな」
 京一の戸惑いをどう受け取ったのか、鳴瀧はすぐに質問を引っ込めてくれたが。
(いっ、言えねェ……)
 まさか、子供のような――事実そのとき京一はまだ小学生だったのだが――口論とも呼べぬ口喧嘩の果てに殴り合いとなったのが原因で、袂を別ったなんて。
(発端はなんだったっけな。夕飯の焼き魚……いや、あれは煮魚だったけか?)
 どちらが大きい方を取るかで揉めたのだ。……本当に、どうでもいい内容である。
「君達も既知の通り、私はこの1年間、欧州の方へ視察に出かけていた」
 京一の苦悩を余所に、鳴瀧は話題を変えると白ワインをゆっくりと口に含んだ。強い酸味のある白は、脂の乗った魚にとても良く合う。
「……緋勇龍麻、生まれて間もなく両親と死別。叔父夫婦の家に預けられる。明日香学園高校の2年に在学、成績は普通、健康状態は良好。交友関係、素行ともに特筆すべき点はなし。どちらかというと大人しく目立たない、極めて一般的な高校生だ」
 何度も読み返し、覚えてしまった経歴をすらすらと並べ立てる。
「幼少の頃は叔父の転勤に伴い日本各地を転居、高校の入学を機にカナダ支部へ移動が決まった叔父夫婦と別居し、一人暮らしを始めた……」
 ぴくりっと京一の眉が跳ねた。京一は龍麻から養父母は大分前に亡くなったと聞かされていたのだ。
 鳴瀧は「わかっている」という風に頷いた。
「これは私が彼を探しているときに、配下に命じて集めさせた情報だ。君達も知っているとおり、拳武館は特殊な役目を背負っている。この国の最も昏い部分と接触する危険性を鑑み、情報収集には特に力を注いできた。私たちがその気になれば、総理大臣の私生活ですら赤裸々に暴かれるだろう」
 自尊ではなく、単なる事実。
「そうした拳武館の情報収集能力に加え、本人から直接聞いた経歴が調査とほぼ一致していたこともあって、私はすっかり信じ込んでしまっていた。欧州視察のついでにとカナダに在住しているはずの龍麻君の養父母の元へご挨拶に伺うまでは、ね」
 ヨーロッパへ行ったついでにカナダに渡るか?と思ったが、京一は口には出さなかった。金持ちのやることを深く追求してはいけない、と龍麻を見て学んでいたからである。
「驚いたよ。セスナをチャーターして、やっとの思いで辿り着いてみれば、表記の番地は一面のトウモロコシ畑だったのだからね」
 鳴瀧の茫然自失ぶりが目に浮かぶようで、龍麻はくすくすと笑った。
「す、すいません。まさか本当に出向かれるとは思ってなかったので……」
 しきりと肩を震わせている。京一は鳴瀧に同情した。紅葉はどちらの味方をするわけにもいかず、沈黙を守っている。
「その様子では、紅葉から報告を受けたほうが真実なのだろうね?」
 龍麻は3分の2ほど食べた肉料理の皿にナイフとフォークを丁寧に並べると、ナプキンで口元を拭った。
「ええ。白蛾翁が俺を預けたという緋勇の分家は、宗……柳生によって滅ぼされています」
 白蛾翁は赤子に普通の暮らしをと願い、預けた後の接触を意図的に回避した。占星術界にその人有りと知られる自分が傍にいることで、龍麻に注目が集まることを怖れたのだ。赤子が《黄龍の器》だと知られれば、どんな邪念を抱くものが寄ってくるやもしれない。だが、そうした配慮は裏目にでた。分家とはいえ、一般人ほどの《力》しか持たなかった叔父夫婦は宗崇に殺され、龍麻はその後長らく監禁生活を余儀なくされることとなる。
「そのくだりは紅葉からおよその経緯を聞いている。柳生の支配から逃れた後はどうしたのかね?」
「保護されて、別の家に養子に入りましたよ。その保護者も亡くなっているので現在は義妹がひとりいるだけですが」
「何故、と聞いてもいいかね」
 戸籍を偽り、素性を装ったのか。
 欲しいものがあったんです。と龍麻は答えた。
 そのために弦麻と行動をともにした者達を探していたところ、逆に龍麻を探している者がいること――鳴瀧の存在を知ったのだ。
「そちらが探してくれているなら、俺は動かずに待っていたほうがいいと思ったんです。ですが、ただ待っているだけといつになるかわからないので、そちらが俺を見つけやすいように、ちょっと細工をさせてもらいました」
 なにせ、緋勇龍麻の戸籍が、この世に残っているかどうかさえ疑わしくなってしまっている。
 龍麻としては、柳生との係わりを知られることで変な勘ぐりをされることも避けたかった。随時監視を受け、行動を規制されるのではたまったものではない。
 そのための偽装であり、方便だったのだ。
 新たに戸籍を用意して、行ったことのなかった学校に通いだし。幼い頃の経歴があやふやなのは、養父母の都合で各地を転々としていたことにして誤魔化した。
「学校にいったことがなかったって、なんでだ?」
 京一が疑問を差し挟む。
「俺はずっとまともな教育を受けてこなかったからな。宗崇の結界を出た後もしばらくの間は……まあ、ちょっと精神的に不安定な状態が続いていたし。義妹も学校に通えない事情があったから、一緒に家庭教師に教わっていたんだ」
「実に見事だったよ」
 チーズの盛られた皿を押しやり、テーブルに肘をついた鳴瀧は、組んだ手の上に顎を乗せた。
「君が用意した戸籍も素性も完璧なものだった。……もちろん、君だけの力ではないだろうが」
 意味ありげに片眉を上げると、龍麻からやんわりとした笑みが返される。
「買いかぶりすぎですよ。つつけばすぐにボロがでてしまうようなものだったでしょう」
「それは君が最初から、この件が終わるまで持てばいい、と考えていたからじゃないのかね?」
 経済大国と呼ばれる日本のこと。不況の波に晒されているとはいえ、金持ちは探せばいくらでもいる。しかし、人ひとりの人生を創り上げるコネと手段をもつ者はそう多くはないだろう。欺く相手が裏社会を網羅する拳武館の情報部ともなれば尚更だ。
「君の養子先というのは、大層な実力を有するところのようだな」
 鳴瀧の眼光が鋭くなる。京一と紅葉は、固唾を呑んで龍麻を凝視した。
「あえて君に聞こう。一体、君の目的はなんなんだ?」
「言ったでしょう。欲しいものがあった、と」
 龍麻は適度に冷めた紅茶を飲み干す。
「今回の件は俺の希望によるものです。実家には多少の協力を頼みましたが、それ以上のものはありませんよ」
「あくまでも、君個人の意志に基づくものだと?」
「信じていただけなければそれまでですが」
 龍麻は膝のナプキンを取り上げると席を立った。
「これだけの情報を出したんですから、拳武館であれば俺の実家を探し当てることはそれほど難しくはないでしょう。――手を出せるかどうかは別として」
 すっと細められた瞳に、鳴瀧の背筋がゾクリと泡立つ。鳴瀧の記憶にある龍麻は、いつも従順で大人しい青年だった。氏素性よりも何よりも、もっとも偽りを多く含んでいたのは龍麻自身だったのかもしれないとの考えに始めて到る。
「だからこれは助言です。俺の言ったことを素直に信じたほうが倖せですよ」
 嘘はついていませんしね。
「……ひとつだけ、聞かせてくれ」
 鳴瀧は腰を浮かせた。
「君の欲しいものはなんだった……いや、君は望むものを手に入れたのかね?」
「……ご想像にお任せしますよ」
 呆然とする拳武館の館長に一礼すると、満足げに腹をさすっていた京一を促す。鳴瀧には申し訳ないが、知らない方が倖せなこともあるのだ。
「待ってくれ龍麻!」
 入り口へ向かう二人を紅葉が呼び止めた。龍麻は少しだけ困ったような笑みを浮かべる。
「お腹も一杯になったし、今日はこれでお暇するよ。またな紅葉。鳴瀧さんによろしく伝えておいて」
 ずいぶんとショックを受けただろう鳴瀧を頼むと小声で告げて、青年は店を後にした。ひとり残った紅葉はやれやれと溜息をつく。
「随分な厄介ごとを押し付けてくれたものだね」
 面倒くさげにひとりごちる紅葉の目は、しかしどこか嬉しそうな色を宿していた。結果的に騙すことになったが、龍麻は決して鳴瀧を軽んじていたわけではない。むしろ事情が許す限り、最大限の敬意を払ってくれていたのだ。拳武館の情報部を欺くほどの手管を持つ龍麻のこと。その気になれば黙って消えてしまうことも可能だったろうに。
 そうはせず、真実の一端を明かしてくれた。

 けれど何よりも一番嬉しいと感じたのは、
「『またな』か。そういうからには、僕はまた君と会うことができるのだろうね」
 龍麻にとっては何気ないひと言だったとしても、いや、何気ないひと言だからこそ。青年の意識下で自分は受け入れられているのだと感じることができる。
 紅葉は照れくさそうな笑みをひっそりと浮かべると、龍麻の信頼に応えるために、鳴瀧の待つ部屋へと戻っていった。

  

 すっかり日の落ちてしまった道を、並んで歩く。夜風が身を切るように冷たい。
「なあ、ひーちゃん」
 京一は、傍らの相棒に呼び掛けた。
「《龍脈の力》なんか手に入れてどーするんだ?」
 夜陰に紛れた表情は見えずとも、気配で龍麻が視線を上げたのがわかった。
 朱、青、白、玄の色をもつ宝珠がそれぞれ四神の力を宿していたように。あの黄金色の宝珠は、《黄龍の力》を秘めていたのではないだろうか。
 戦いが終わり落ち着いてものが考えられるようになってから、京一が思いついたのはそういうことだった。
 龍脈の過剰な《力》を取り除く方法とは、溢れ出ているそれを在るべき場所――《器》の裡へと納めてしまうことだったのだ。
「俺は《黄龍の器》なんだよ」
 龍麻の歩みが止まる。京一は前に回り込むと正面から向き合った。
「それは、知ってっけどよ……」
「《黄龍の器》を狙っていたのは宗崇だけじゃない。俺が『実家』と呼んでいるところも、そのうちのひとつだった」
「………………」
 秋月や御門に並び立つ系譜を誇る一族が偶然手にした《黄龍の器》は。
 彼等の裡に隠されていた醜い欲望を引きずり出し、一族のその後を大きく狂わせる要因となった。
「あの人達はね、俺を人柱にしようとしたんだよ」
 龍麻がまともに喋ることもできず、正気さえ危うかった状態だったことも、彼等にとっては歓迎すべき事態だった。器は《力》を伝える媒体であればよい。
 そういった意味では、彼らと宗崇の意見は一致していた。
「人柱って、あの橋の根元に括りつけたりするやつか?」
 京一の目にあからさまな嫌悪が浮かぶ。
 人は昔から神に供物を捧げることで、恩恵を受けることができると信じてきた。宗教や習慣によって、最も効果的な供物は人だと信じられている土地も少なくない。京一が挙げた例は、川の氾濫等で橋が落ちぬよう、人を生きたまま水中に埋め土台の一部とする儀式のことだ。ロンドン橋の歌がこの生贄のことを歌ったものであることは有名である。
「俺の場合は、命を奪われるわけじゃなかったけど。彼等の目的は人工的に龍穴を造り、俺をその礎にして自在に力を引き出すことだったから」
 意識もなく、ただ人の命令に従うだけの呪具となるように。
「渦王須の野郎と同じってことか?」
「厳密に言えば、渦王須にはまだ意識が残っていたよ。世界を破滅させるという意識がね」
 精神制御の結果であったとしても、滅亡の願望は渦王須自身が抱くものであった。
 宗崇も最終的には、渦王須の意識を完全に取り去るつもりではあったのだろうが。
 両者の違いはひとつ。宗崇は時流を詠み、龍脈を無理に揺り起こそうとはしなかったが、欲望を抱く一族は己の力を過信し、龍脈さえ制御できると驕っていた。
「それってよぉ……」
「言うまでもなく、失敗したよ。《黄龍》はいまだ目覚めるまでにしばしの時間を必要としていた。半端な、それも意識を奪われている《器》が呼びかけたぐらいではどうにもならない。……代わりに現れたのは別のものだった」
 《力》を制御する術を知らぬ幼き子供が、施された術のままに呼び寄せたモノは。
 深遠なる闇より生まれいでし、底なき虚無とでも呼ぶべき異形の怪物。
 龍麻という媒体を得たソレにとっては、呪術師達が安全のためにと敷いていた結界も、守護の札も塵芥に等しく。
 白い檜で板張りされた部屋は狂気の色に染め上げられた。彼等は死ぬまで、自分の身に何が起きたのかわからなかったろう。周囲に散華する臓腑と、虚ろに天上を見上げる眼窩。鼻を突く生臭い――匂い。
「新しい養父母の寿命も親戚達の余生も、俺は力尽くで奪い去ってしまった。……皆、俺が殺したんだ。いまでも目を閉じるとその時の光景が浮かんでくる。でも、災禍はそれだけではおわらなかった」
 それは大いなる破滅の力。存在そのものが混沌を表すモノ。
 奈落の底に眠らせたまま、呼び覚ましてはならなぬモノだったのだ。
「京一。世界はそのとき滅びかけたんだよ」
 もし、龍麻でなければ。ソレを受け入れるだけの《器》を持っていなければ、あれほどの惨禍は起こらなかっただろう。
「もし、なんて過ぎ去った後のことを仮定しても虚しいだけだけれど」
 いずれにせよ。悲劇は起こってしまった。その場で生き残っていたのは、龍麻といまひとり。
「俺を止めてくれたのは幼ない義妹だ。どうやってやったのかは知らないし、どうして出来たのかも解らないけど。彼女は俺の意識を呼び覚ましてくれた」
―――それは奇跡。幼いが故に、己の望みに貪欲だった少女が引きよせた未来。
 《陰》と《闇》は似而非なるもの。森羅万象の一端をなす《陰》は、負の力であろうとも『有』を構成するうえで欠かせない要素となっている。一方、《闇》がもたらすものは遼遠の『無』でしかない。
 それでも、両者の性質はあまりにも近く。宗崇の呪いによって《陽の氣》しかもたなかった龍麻は、義妹の救けを借りて《闇》を己の《陰の氣》とすることで押さえ込むことができた。
 歪んだ形であろうとも、精神の均衡を取り戻すことに成功したのだ。
 少女の祈りが、この国を崩壊の危機から救い、龍麻に『世界』を与えた。
 しかし、その代償は決して小さなものではない。
 少女は肉体より時の流れを奪われ。
 龍麻はいつ《闇》に《器》を乗っ取られるかわからない日々に、心の平安を失うこととなった。
「俺はね、本当に化け物なんだよ」
 かすかに震える声は、自嘲の笑みからきているのか。あるいは……。
「俺を支配しようとする《闇の力》に対抗するためには、完全なる《黄龍の力》が必要だった。それには《陰の器》である渦王須が――宗崇が邪魔だったんだ」
 森羅万象を司どる――すなわち生命の根源となる――《黄龍》だけが虚無を退ける力を持っている。
(黄龍に並び立つぐらいの闇を有するモノ?)
 どこかで、そんな話を聴いたような気がする。
 京一の記憶をふっと、なにかが掠めたがそれはすぐに消失してしまった。
「恨んでくれていい。俺は自分の都合のためだけに、お前達を利用したんだ……」
 一歩足を踏み出し龍麻に近づく。腕を伸ばし佳人の躰に回すと堅く抱きしめた。
「俺達って信用ないよな」
 龍麻の肩越しに、星の林を漕ぎ行く月の船を見上げる。
「戦う理由は人それぞれだって言ったのは、ひーちゃんだろ。だいたい、俺達がこの街を護ることができたのは、ひーちゃんがいたからなんだぜ」
 龍麻がいたからこそ、仲間達全員が生きて戻ってこれたのだ。
「ひーちゃんが普通じゃないことぐらい最初からわかってたことだしよ」
 強張る背中を撫でると、緊張が解け自然と身が委ねられる。京一は愛しげに柔らかな髪に頬を埋めた。
「お前が暴走しそうなときは俺が止めてやる」
「……簡単にいうなよ。お前それがどれほど危険なことがわかってるのか?」
「世界を滅ぼすくらいの《力》だってんだろ?心配ねえって。それまでには、もっともっと強くなってみせるからよ」
 実のところ京一はちょっと安堵していた。この戦いが終わったら龍麻がどこかへ行ってしまうような気がして、不安だったのだ。いなくなるだけならかまわない。どこへいっても探し出す自信はある。けれどもし、龍麻が旅立つ先が九泉の向こう、常世の国にあるのだとしたら……。
 それでも京一は追わずにはいられないだろうけど。
 龍麻が自身を護るために《力》を欲したのなら。少なくとも今はまだ、青年に生きる意志があるということだ。
「……楽天的だな。ほんと、お前は偉いよ」
 くすりっと小さな笑いが零れる。龍穴の中で、黄龍に飲み込まれそうになっていた龍麻の意識を最後の最後で繋ぎ止めたのは自分だと判っているのだろうか。
「俺の相棒はお前だけだ……龍麻」
 耳元で紡がれる甘い響き。
「お前、それ口説き文句みたいだぞ」
「……くどいてるんだよ」
 相手の前髪が額に掛かるほどの距離で交わされる鳶色と漆黒の視線。紫紺や金色も綺麗だが、やっぱり龍麻にはこの色が一番似合うと思う。
 龍麻は僅かに口角を上げ、京一の首に腕を絡めた。
「いいよ、今だけは口説かれても……」
 見つめてくる瞳に宿る情思に、京一の躰が熱を帯びる。
 続く言葉は、蒼い闇の中に沈んで消えていった。

2001/10/08 UP
最後の謎解き編(なんだか新たな謎が増えている気がしないでもないですが/汗)です。
今回の予告は、長くなったのでページ分けしました(←ついにそうきたか)。
この内容はとある御方とのメールで盛り上がった話題だったりします。
妄想を巡らせた朝霧は、最終回をこちらの内容に変えてしまいたいという誘惑にかなり本気で心がぐらつきました(笑)
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