鬱蒼とした真木の森。
太い幹から拡がる枝葉に天は覆い隠され、地下を這う根に地表はいびつなうねりを創り出している。
肌にねっとりと纏わりついていた湿気は消え失せ、薄ら寒い風が木立の狭間で瓢々と啼いていた。
ほの暗く、陰惨な空気に肺が重くなる。
「ここは、どこだァ?」
果てなく続く光景に視線を漂わせ、少年は茫然と呟いた。
京一が初めて師匠と呼べる人物に出会ったのは、8歳の夏。
ならず者に絡まれていた女性を救うべく、持ち前の義侠心を発揮した少年は、己の行動がいかに無謀であったかを嫌というほど思い知らされていた。相手は子供だからといって手心を加えてくれるような輩ではなく。弱者をいたぶることで己の嗜虐心を満足させる性根の持ち主達だ。
誰もが関わり合いになるのを怖れて見て見ぬ振りをする中、ただひとり手を差し伸べた侠(おとこ)が神夷京士郎だった。
どれほど痛めつけられようとも決して泣かなかった少年を、どこか面白がるような眼差しで見下ろした彼は、鋭利な太刀さばきで並み居る敵を蹴散らした。現代では使われなくなった『剣客』の称号がしっくりと馴染んだ姿に京一は強い憧憬を抱き。半ば押し掛けるようにして弟子入りを果たした。
あれから約2年。学校が長期の休暇に入るたびに、神夷と共に各地を巡り人里離れた山小屋で剣の修練に明け暮れる日々を過ごしている。1年で一番長い休みが取れる今回も、そうやって過ごすはずだったのだが。
神夷の古い友人だという槍を担いだ男が訊ねてきたことから、事態は急転した。行き先は一千有余年の歴史を持つ都へと変更され、神夷は調べものがあるといって毎日ふらりと出掛けていってしまう。町中の宿にひとり残され、人目があるために真剣を握ることすらままならない少年が、退屈に耐えかねて宿を飛び出すのは時間の問題であった。
少し町中をぶらつけば、気が晴れるだろうと思っていた。しかし、古い建物が並ぶばかりの町並みは味気なく、碁盤目状の道路に方向感覚を狂わされる。人に道を聞こうにも宿の名前は覚束つかず。陽はゆるやかな弧を描いてあたりを宵闇に染め変え始めていた。
焦る気持ちのまま足を動かし、少しでも見知った風景はないかと闇雲に辻を曲がり続け……。
気が付いたときにはこんな場所に紛れ込んでいた。
「どうすっかなァ。山で迷ったときは救けが来るまで動かないってェのがお約束だけどよ」
師匠に山で迷子になったときの対処は厳しく教え込まれている。京一は携帯することが習い性となってしまった木刀の袱紗を担ぎ直した。
「けどここだと、ぼけーっと待ってるうちにミイラになっちまいそうだよな」
あたりを見渡せばこれまで歩いてきた道までもが杉並木に埋没している。これでは戻ることはおろか、救助の手を待つことも難しいだろう。
「それもこれも、神夷のヤローが悪いんだ。なにが『古都の《場》が乱れているらしい』だよ。わけわかんねー理屈捏ねて人をこんな所にひっぱってきやがって……ッ」
とめどなく溢れてくる愚痴は、ともすると立っていられなくなるほどの不安の裏返しだ。気持ちを奮い立たせるために、怒りの感情を用いねばならない程に京一は子供だった。
「こんなところで、なにをしている?」
「……ッ!!」
背後から掛けられた声に、京一はびくりと背中を揺らす。
怖気ながら振り返った視線の先には、同い年ぐらいの子供が立っていた。いや、『同じ』というには語弊があろう。
生まれてこの方、これほどまでに綺麗な生き物を見たことがなかった。
生成の着物から覗く、透き通るほどに白い肌。
背中に届く黒髪はすんなりと伸びて艶やかな光沢を放ち、夜の闇を思わせる瞳は底知れぬ深みのなかに強い意志を宿している。
目を奪っておきながら触れることを許さない気位の高さを併せ持つ、どこか温度を失ったそれ。氷姿雪魄(ひょうしせっぱく)という言葉をそのまま具現したかのような容貌に、京一はぽかんと口を開けた。
「どうした?なぜ、答えない」
言葉もなく立ちつくす少年を見つめる双眸が僅かに険を帯びる。京一は急いで口を開いた。
「あ、お、俺……道に迷って……」
しどろもどろに告げると子供が頷く。射干玉色の絹糸がはらりと肩を滑り落ちた。
「迷い人か。ここには、時折そうした者が現れる。望むなら外まで案内するが?」
「ほ、ホントか?」
「お前は運がいい。ここへ迷い込んだ人間は、ほとんどが出口を見つけられずに朽ち果てるか、妖(あやかし)に喰らわれるのかのどちらかだ」
「化け物がいるのかここ……ッ」
木刀を握る掌にじんわりと汗が浮かぶ。《氣》を練り、目には見えない感覚を研ぎ澄ませる修業を積んでいる少年は、他者よりも人の世に属さぬ存在を近しく感じていた。山での修行中には時折そうしたモノ達の姿を目にすることもある。
「そういやァ、お前は何でここにいるんだ?」
道を知っているというのだから、迷い込んだわけではなさそうだ。
「散歩をしていた」
「散歩ォ?」
妖の出るというこの場所でか?
「変か?」
むしろ物好きというべきだろう。京一は唸った。
「妖魔の仲間かもしれないと疑っているのだとしたら否定しておく。信じる信じないはお前の勝手だがな」
「別に、疑っちゃいねェけどよ……」
これほど清澄な雰囲気を纏う人物が妖の眷属であるわけがない。同時に、人として世俗にまみれた姿も想像できなかった。
(そうか、こいつあの本にでてたやつと似てるんだ)
修業の旅に出ることを許す交換条件として、長期休暇の前になると母親は必ず京一に本を読ませる。じっとしていることが苦手な少年にとっては苦痛以外の何者でもなかったが、たまには役に立つこともあるらしい。
今回、京一の手に渡されたのは、麗しき天の住人のことを綴った物語だった。
三保の松原にて漁夫伯竜に羽衣を奪われ、仲間の元へ戻る術を失った薄倖の住人。有情の存在でありながら溶けることのない氷を身の裡に抱き、最後まで漁夫に心を許すことの無かった誇り高き種族。
比類無き美貌を持ち、空を自在に渡りゆく彼等を地上に住まいし者は『天人』と呼んだ。
目の前の子供が人ではないのなら、こんな場所を散歩道に選んでいてもおかしくはない。人間に見咎められることがないだけ都合がいいのだろう。
「うん、別におかしなことじゃねェよな。それじゃ悪ィけど、案内の方を頼むな。あんまり遅くなっと師匠に怒られちまうからよ」
自分の解釈に満足して手を差し出すと、怪訝な顔をされる。意図が通じなかったのかと手を取って強く握ると、少しだけ目を見張った。
「はぐれないよう、手を繋いでいった方がいいだろ。……もしかして嫌だったか?」
馴れ馴れしい態度は苦手だったかと不安を覚えて覗き込む。人にあらざる麗容の主は、しばし逡巡したあと静かに首を振った。細い指先に緩やかな力を込め京一の腕を引いて歩き出す。
許しを得たことに安堵を覚えながら、少年は手を引かれるままに天人の後についていった。
凹凸の激しい地面に足を取られるたびに、天人は京一を待ってくれていた。慣れた足取りで進んでいく細い肩が上下するのにあわせ緑の黒髪が軽やかに波を打つ。指を絡めてみたい、と自分が考えていることに気付き、少年の心臓は大きく脈を打った。
あの本を読んだときには羽衣を隠し、天人を力づくで手に入れた漁夫を愚かな男だと思っていたものだが。すぐ目の前にいる存在を見ていると気持ちがわかるような気がしてくる。
繋いだ手を離したくない。ずっと傍にいて欲しい。
手に入れることが叶うのならば、例え当の佳人の心を損なうことになろうとも――。
「どうした。さっきからおとなしいが疲れたか?」
「い、いや、なんでもねェ」
振り返りもせず話しかけてきた天人に、京一は大袈裟に首を振った。
「周りが騒がしいのが気になっただけだ」
自分が考えていたことを知られたくなくて繕った言葉は、あながち的はずれなものではない。葉擦れの隙間に隠れ。慎ましやかに群生する草叢の蔭に篭もりながら、こちらを伺う異形達の視線を先程からずっと感じていた。
害意が感じられなかったため、放っておいたのだが……。
「心配はいらない。あの程度の小鬼では近寄づいてくることさえできないからな」
少年が怯えていると考えたのか、声に案じる響きが混じる。
別に怖いわけではなかったが、寄せられた気遣いが嬉しかった京一はあえて異を唱えなかった。そっけなくはあるが、天人の心は凍っているわけではない。踏み荒らされていない新雪のような掌は、繋げば仄かな温度を伝えてくれた。鈴の音に似た響きをもっと聞きたくて質問を重ねる。
「なあ、いったいここはなんだんだ?街中の一角ってわけじゃねェんだよな?」
「ここは時空の回廊だ。お前のいた都は、現在《場》が乱れた状況にある。もともと《氣》を溜めるために様々な仕掛けが施された土地だったからな。あちこちに歪みが生まれ空間に綻びができてしまったんだ」
大人が潜れるほどのものは滅多に開かないが、子供であればやすやすと通り抜けられる程度の穴がそこかしこにできている。感受性が強く《氣》に同調しやすい者であるならば、知らないうちに引きずり込まれてしまうこともあるだろう。
幽玄なる世界へ足を踏み入れし子供は、時間の流れも空間も違う場所で出口を探し続け、時には何年も帰らぬことがある。古き時代にはこうした現象は神や天狗の仕業であると信じられていた。所謂、『神隠し』と呼ばれるものである。
「時間もってことは……俺も?」
「お前は大丈夫だ。ここは人界と時間の流れがほとんど変わらない」
迷い込んだ空間によって差があるのだと聞かされ、京一はほっと胸を撫で下ろした。浦島太郎にはなりたくない。
「じゃあよ、『《場》が乱れる』ってのは?」
神夷もそんなことを口にしていたと思い返す。
「《磁場》と称した方がわかりやすいかもしれない。あえて言葉にするなら、その土地が持つ目に見えない台座のようなもの……といったところか」
龍脈より流れ出た《氣》は、寄り集まって《場》を形成する。《場》が安定した街は天の恩恵を得、その地を治める者に栄華をもたらす。多くの《氣》を集めれば、それだけ強固な《場》を形成することが可能だ。少年が滞在していた街は地の利を生かし、人が手を加えることによって最高の《場》を得た土地のひとつであった。
「だが、《氣》というのは諸羽の刃だ。ひとたび歪みが生じれば、破滅を呼び込む災いともなる」
「今がその時ってわけかよ……なんとかなんねェのかな?」
「どうして気にする?お前には関係ないだろう?」
言葉遣いからして、少年が京の人間でないことは容易に察することが出来る。単なる旅行者に過ぎないなら、すぐにでも安全な家へ帰ることができるというのに。
「人が困ってんのに、ほっとけるわけねェだろ」
それほど人非人に見られていたのかとむっとしたが、濁りのない視線を返され早合点したことに気付いた。
俄に気恥ずかしくなり、早口で捲したてる。
「なんだよ、悪ィかよ」
「……変わっているとは思うが、悪くはないな」
ちらりと振り返った天人の目容は柔らかかった。
(あれ?いまこいつ……)
微かに笑わなかったか?
胸の高鳴りが激しくなる。人とは違うのだからと、表情が乏しいことをあまり気にしてこなかったが。普通でもこれだけ綺麗なのだから、笑ったらきっとものすごく――。
天人は少年の心情に気付かず、話を続けた。
「都の《場》が揺れているのは《龍脈》の影響によるものだ。つい最近、急激に集められた《龍脈》の《氣》が暴走する事件が起きたからな。けれど、既に事態は収束している。多少影響が残っているが、それもじきに収まるだろう」
「なんだかよくわかんねェけど、大丈夫だってことだよな」
「……お前が無事に、ここを出られるかどうかということ以外はな」
声音が急に硬くなったことに気付き、京一は顔を上げた。キーキーと小さな啼き声をあげる小鬼達の興奮と共に、木立がざわめく。
「なんだ?」
「大物が現れたようだ」
天人が唇を噛み締めた。
「見つかるとやっかいだな。走れるか?」
緊張した面持ちで頷いた少年を促し、樹木の間を駆け抜ける。
運動神経と勘に優れている京一は、最初の頃ほど木の根に足を取られなくなっていた。この分ならなんとかなるかもしれない、と見えてきた出口を前に二人が希望を見いだした時だった。
風が流れた。
梢が激しく鳴り、折れた小枝や葉が雨となって降りそそぐ。
「あぶないッ!!」
「…………ッ!?」
京一を引き倒した天人の向こうに、巨大な影が出現した。
庇われるのが後少しでも遅かったら、地響きを立てて降り立つモノの重圧に押し潰されていたところだ。下敷きにされた自分の姿を想像してしまい少年の顔から血の気が引く。
それは、奇怪な姿をした化け物だった。様々な生き物の特徴を取って付けたような不自然な体躯。甲高い鳴き声が、どこか寂しげに虚空を吹き抜けていった。
「―――鵺(ぬえ)」
京一を抱き締める腕の、掠れた呟き。
獣は首を巡らせてあたりを模索し、二人の姿を認めると猿によく似た面に愉悦の色を浮かべた。
―――ヤット、見ツケタ。……ノ器。
「しゃ、しゃべった……?」
京一は愕然とする。赤黒い瘴気を撒き散らす口から漏れたのは、いささか聞き取りにくいものの人の言語だった。
―――ナガイコト探シテイタ。イツモハ、途中デ……気配トギレルガ、今日ハ別ノ餌一緒ダッタ。
「餌ァ?お、俺達のことかよ……」
冗談ではない。こんな化け物に喰われるなんてまっぴらごめんだ。
「鵺の後ろに空間が入り口を開けているのが見えるか?」
京一の袖を引き天人が耳元へ唇を寄せる。教えられた近辺を注視すると、蛇の形をした化け物の尾が揺れる先で空間が陽炎のようになっているのがわかった。
「ああ、わかるぜ」
「この躰は稀なる《器》。小物ならば近づくことさえ叶わないが、一定以上の《力》を持つモノにとっては、この上ない贄と映る。あれの狙いはこちらにある。惹きつけている間にお前はそこから外に飛び出せ」
言い置いて立ち上がり、京一が止める暇もなく走り出す。
鵺はすぐさま華奢な背中を追いかけ始めた。
残された京一は、温もりを失った掌を握りしめる。
化生の狙いが天人であることは疑いようもなかった。空間の穴は子供ひとりがやっと通れる大きさ。鵺の躯では到底、潜ることはできまい。
いまのうちに外に出てしまえば、京一の安全は保証されるのだ。
「……冗談じゃねェよなァ?」
自嘲気味に笑う。化け物は、別の餌が一緒だったために天人の後を追うことが出来たのだと言った。アレを呼び寄せたのは京一なのだ。自分の尻拭いを他人に任せる卑怯者になるつもりはない。
なにより、自分の為に……否、誰のためであろうとも天人が傷つく姿は見たくなかった。
深呼吸をひとつ。先程、幻のごとく垣間見た微笑みを瞼に描く。散らされるのを待つような儚き麗容に、胸の奥がつきんと痛んだ。どこか寂しげな雰囲気の漂う天人の憂いを取り除く力が自分にあったなら。心ない者達の魔手から護る力を手にすることができたなら。
彼の人は、自分の傍に留まっていてくれるだろうか。……笑いかけてくれるのだろうか。
そうであって欲しいと強く願う。
それは、京一が初めて『正義感』以外の理由で闘うことを決めた瞬間だった。
自らの掌で両頬を叩き、気合いを入れる。得物を包んだ袱紗の紐が、微かな衣擦れの音とともにぱさりと地に落ちた。
鋭い爪が、着物の袂を切り裂く。これほどの強敵と対峙するのは初めてだった。
この空間においては異質な『人』の《氣》を持つ少年を連れていれば、目をつけられることなど自明の理であったのに。対策も取らず歩き回ってしまった自分の迂闊さが呪わしかった。
あるはずもない安全な場所を求めてせわしなく視線を彷徨わせる。少しでも獣から距離を取ろうと試みた。
虎の足を持つ相手から逃げ切ることは至難の業。かといって、質量だけはあるものの不安定な自分の《力》がどこまで通用するものなのかも怪しい。
斃すことだけを念頭に置くなら問題はないのだ。だが、周囲が被ることになる災厄の大きさを考えると気が重かった。自分が《氣》を使えば都の《場》はさらに乱れるだろう。下手をすれば再び崩落の危機を招きかねない。
「あいつに嘘をついたことになってしまうな……」
もうじき騒ぎが収まると聞かされ、安堵の息を漏らしていた朱色の髪の少年。
《龍脈》の均衡を崩した原因が自分にあると知ったら、彼はあれほどに無邪気な態度で接してきただろうか……。
せめて、彼だけでも無事に済ませられればいいのに、と頭の片隅で考えた。
己の優位を確信しているのか、いまだ少しの警戒を残しているのか。鵺がじりじりと間合いを詰めてくる。
躄った(いざった)踵が根に引っかかった。
ぐらりと上体が揺れる。体勢を立て直すまもなく伸び上がった化生の躯が覆い被さってきた。
仰向けに倒れ込んだ胸の上に前足を乗せられ身動きが取れなくなる。猿の顔に醜悪な笑みが刻まれた。
喉元に喰らいつかんと剥き出しにされる牙。
とっさに《氣》を開放しようとした天人の視界を小さな影が横切った。体当たりされた化生はよろめき、のし掛かっていた躰から体重を外す。
「大丈夫か。しっかりしろッ」
肘を捕まれ立つよう促してきた相手を認め、天人は驚きを露わにした。
「なんで逃げなかった?」
「お前を危険な目に遭わせてまで、生き残ろうなんて考えちゃいねェぜ」
京一の体重では獣に大したダメージを与えられない。
ふたりは、素早く身を翻して走り出した。
「稚拙な正義感では、状況を切り開くことはできない。足手まといとなるくらいなら、最初から首を突っ込まないほうがいい」
師匠に日頃から散々忠告されてきた事をもっと辛辣に言い放たれ、京一は言葉に詰まる。神夷の時は反発しか覚えなかったものが、いまとなってはまったくの正論であると理解できた。
「う……けど、ひとりよりはふたりの方が……」
「お前では無理だ」
少年の持つ《氣》からは、鵺とは渡り合えるだけの《力》は感じられない。迫り来る魔の気配に再度、二手に別れることを提案しかけた時だった。
京一がおもむろに足をとめ、木刀を構えて振り返った。
「何を考えてるんだッ!?」
焦って腕を引こうとする手を振り切り怒鳴る。
「うるせぇッ!!適わなくてもなんでも、アイツを斃さなきゃ帰れねェんだったら、やるしかないだろうがッ!!」
「お前ひとりなら……」
「嫌だッつってんだろ。俺はお前が一緒じゃなきゃここから離れねェかんなッ」
怖くないと言えば嘘になる。勝算があるなどと傲慢なことを考えているわけでもない。
だが、京一は天人を護るのは自分の役目だと、心の中で決めてしまっていた。
追いついてきた鵺が憎悪をたぎらせた瞳で睨みつけてくる。少年は怯まなかった。
飛びかかってくる獣の鼻先を狙って得物を振り下ろす。
動きを予測していたのだろう化生はなんなく避けると、周囲に連立する幹を足場にして方向を変じた。狙うは至高の《力》を内包する贄――黒い髪の子供のみ。そうはさせじと京一が、宙に浮いた巨躯を渾身の力で蹴りつける。
均衡を崩した化け物は狙いから幾分はずれた場所に着地した。
鵺にとっては小五月蠅い羽虫に纏わりつかれた程度の衝撃。それでも二度に亘り邪魔されたことで苛立ちを覚えるには充分だった。
―――先ニ、オ前カラ喰ラッテヤロウ……
「へッ。望むところだぜ」
「馬鹿っ!挑発するなッ!!」
天人は慌てる。
これまでは自分しか映っていなかった化生の視界に少年が入ってしまった。鵺は彼を始末してからこちらに取りかかる作戦に意識を切り替えたようだ。これで二手に分かれようものなら最初に彼の方が狙われてしまう。
「なんてことをしたんだ。お前、逃げられなくなったぞ」
苦々しげに吐き捨てると、少年が不敵に口角を吊り上げた。この窮状でなぜこんな顔ができるのかと天人は不思議な思いで見つめる。
「逃げるつもりはねーってさっきから言ってんだろ」
剣把を握りしめ、京一は果敢に敵に挑んでいった。妖は前足を軽く持ち上げ、大上段に構えられた木刀を造作なく振り払う。
「……ッと!!」
よろめき片膝をつきながら、返す手が水平に動いた。
腕に衝撃が伝わる。相手の胸板に入った一撃はしかし、厚い毛皮に阻まれ跳ね返されてしまった。
嘲りの表情を浮かべ、鵺は脆弱な生き物を苛んでいく。
地面に叩きつけられ、繁みに足を掬われようとも、少年は幾度となく立ち上がった。
全身は枝切れや葉にまみれ、そこかしこに泥がこびりついている。獣の牙爪に引っかけられた箇所は裂傷となって半袖のシャツに紅の染みを作っていた。
「な……なんで……、もうよせ。それ以上やると死ぬぞ」
立ち竦む麗人の声音が悲痛なものとなる。《力》の制御に自信のない天人は、少年を巻き込むことを怖れて思うように《氣》を集中させることができないでいた。
動揺がさらに《氣》を乱し、思考回路さえまともに働かなくなってくる。
―――遊ブノニモ飽イタ。ソロソロ楽ニシテヤル
その言葉は。鵺が全く本気を出していなかったことの証。
さらには、勝ち目のない闘いに身を投じた愚かな少年に対する最後通告であった。