虎爪が空間ごと少年の皮膚を切り裂く。
「ぐ…ッ……アッ!!」
左肩の肉を骨に到達するほどに刮ぎ取られ、京一は噛み締めた唇の隙間から悲鳴を漏らした。
獣の尾である蛇が、紅い舌をちろちろと動かし大きく口を開ける。
毒液の滴る牙を前に、木刀の腹を突き出すのが精一杯だった。
木片と牙がガチリと噛み合わさり、衝撃が怪我をした肩に伝わる。筆舌に尽くしがたい痛みに、力の抜けた指先から得物が転がり落ちた。
拾い上げようと屈んだ膝が、言うことを聞かずがくりと折れる。
気力は尽き、視界は朦朧としていた。
あの化け物に喰われてしまえば、これ以上苦しまずに済むのだろうか……。
「……いけない!」
頭の片隅に浮かんだ死の誘惑を振り払うように。
鼓膜を振るわせた天上の調(しらべ)。
血の気を失い凍える全身が白きかいなにふわりと包まれる。
額に掛かる黒髪が誰のものであるか気付いた途端、京一の意識は一気に引き戻された。
自分達を根の堅洲国へ導こうと妖しの獣が舌舐(したなめずり)をしている。
獲物を狙う三日月の瞳孔。地を蹴って飛び上がる異形の躯。
あんなものに天人を汚されるわけにはいかないと。一心不乱に念じて堅く目を瞑る。
瞼の奥で光が弾けた。
二人まであと一寸と迫っていた鵺が見えない壁に弾かれる。不意を打たれた化生は背後の幹にしたたかに躯を打ちつけた。二つに折れた幹と重なり合って重々しい震動を響かせる。
「な、なんだァ?!」
視界を白く染め変えた閃輝に京一は呆然とした。
「《氣》が共鳴した?……どうして……」
当惑を浮かべ天人が眉を顰める。
妖が襲いかかってくる寸前、彼と自分の《氣》が綺麗に調和するのが感じられた。
《器》の有する膨大な《氣》が、少年のそれと同調することによって方向性を定められたのだ。
彼にこんなことが出来るとは思わなかった。そもそも少年は自分に合わせられるほどの《氣》など有してはいなかったのだ。
危機に応じて能力を開花させたというのだろうか。
「……今は考えている場合じゃないか」
倒れ伏した鵺の口から瘴気が吐き出される。致命傷には到らなかったようだ。
仕掛けるなら弱っている今しかない。
「まだ、動けそうか?」
急激な《氣》の使用は、体力と精神を著しく消耗させる。懸念しながら様子を窺うと、少年は意外にもしっかりと頷いた。
どうやら《力》を放出した余韻が、一時的な興奮作用をもたらしているらしい。ここで無茶を強いれば、後に辛い思いをさせることになるだろう。だが、化け物を斃すためには彼の協力がどうしても必要だった。
「もう一度だけ、力を貸して欲しい」
天人は真剣な眼差しで怪我をしていない方の手を取り、指先に唇を押しあてる。
「えっ?お、おい!?」
京一は顔を赤らめた。触れあったところから、優しい《力》が流れ込んでくる。
しばらくそうしていると、貧血で体温を失った全身がじんわりと暖まってきた。頬に血の気が戻ったことを見て取った天人は、指を解き木刀を拾い上げる。
「鵺を引き付けておくから、お前はその間に得物に意識を集中させるんだ。さっきの感じを忘れなければ必ずできる。《氣》が限界まで高まったら、思いっきり化け物に向かって放て」
てきぱきと指示され、京一は狼狽した。
「ま、まてっ。動きを止めるってどうやって……それに、お前のことは俺が護るし……」
「護られてるだけというのは趣味じゃないんだ」
「…………へ?」
少年はぽかんとして、麗人を見る。
「ひとりより二人のほうが、効率がいいんだろ?」
先程の京一の科白をさらりと繰り返す天人は、どこか面白そうに瞳を輝かせていた。
自分を認め映しだしてくれる一対の黒曜石。
虚ろで、なにものをも跳ね返していた冷たさはそこにない。少年の心に悦びが湧き上がった。
(大切なモンを護って強くなるってのも悪くねェけど……)
大切な奴と一緒に闘う方がもっとわくわくするかもしれない。
自分が出逢ったのは護り、慈しむだけの観賞物ではなく。互いに研磨し合い成長していける相手なのだと。背中を預けることのできる者なのだと感じた。
「よっしゃッ!こっちは任せろ」
左腕は力が入らずだらりと垂れ下がっているが、利き腕はまだ動く。片手で中段の構えをとった京一の脇を擦り抜け、天人は走り出した。よろめき立ち上がろうと藻掻く妖魔の脇へと回り込み、首に腕を回して全身で押さえ込む。
至上の美貌が、獣ごと紅蓮の華に包まれた。
魔物達が狙う天人の《器》は、もともと《土氣》に属している。だが、様々な要因が絡んだ結果、身のうちに巣くわせることとなった闇は《火氣》を支配するモノであった。よって現在、天人が《氣》を一番使いやすい形に変換すると自然と『焔』が生まれてくる。制御のきかない部分は《氣》を凝縮し、対象を自分の周囲のみに限定することで被害の抑制を図った。
問題は自身も火に巻かれ動きを制限されてしまうことだが、独りの時と違いいまなら敵の動きを封じることだけに専念できる。
猛り狂う炎の渦に京一は唇を噛み締めた。
文句だとか制止だとか、言いたいことはたくさんある。けれど《力》の足りない自分達にはこの方法しかないのだと、覚っていた。
綺麗事や理想論だけでは敵は倒せない。いま自分に出来るのは、己の役割を最大限に果たすこと。
苦しがり暴れ出した鵺を脇目に、師匠に教え込まれた呼吸法を繰り返して神経を研ぎ澄ませる。
天の息吹に触れた指先は、痛みとは違う熱に痺れていた。
「――いくぜッ!!」
己の内から、外から。高まり寄り集まる熱を切っ先にすべて練り込む。
「でやぁぁぁぁぁッ!!」
紫電一閃。後に神速の使い手と呼ばれる才能の片鱗を伺わせた鋭い打ち込みが放たれた。
一直線に叩き込まれた京一の《氣》が、天人の《氣》に触れ交じり合う。
勢いを増した紅蓮が浄化の白銀へと色を変じた。
固唾を呑む少年の目の前に、巨大な火柱が出現する。
焔は、あまねくものを焼き尽くす劫火となり、化け物を灰燼に帰し天を貫いた。
鵺の持つトラツグミの啼き声を道連れに、異界の空へと吸い込まれていく。
後には半径2メートルほどの焦土と、その中央に蹲まる華奢な躰だけが残った。
「大丈夫か?」
京一は慌てふためいて駆け寄る。
必死の形相で詰め寄れば、相手は放心した表情のまま頷いた。
「平気……」
茫洋とした声が、それでもなんとか答えを返す。
「俺達、アイツを斃したんだよな?」
信じがたくて恐る恐る問いかけると、天人が始めて気付いたかのように少年を見上げた。
「斃した。――お前、すごいな」
純粋な賛辞を瞳に宿して、麗しき天上の佳人が顔を綻ばせる。
京一は息を呑んだ。
柔らかな陽射しに氷が溶けていくほどに淡く。
雪の下から芽を出す小さな春の気配よりも可憐に。
柔らかくふわりと解けた、その表情に。少年の頭に血が駆け上った。頬だけではなく耳までが朱に染まる。
何か言わねばと懸命に思考を巡らせると、ぐにゃりと視界が歪んだ。何事かと思う間もなく、躰が傾ぐ。
「おいっ!?しっかりしろっ!!」
焦りを滲ませ、天人が呼び掛けてくる。
骨まで達する肩の傷といい、全身に走る裂傷といい、少年の躰はとっくに限界を超えていたのだ。
薄らいでいく意識に届くのは、懸命に何かを言い募る涼やかな音色。生死の境を共にし乗り越えた――ただひとりの相棒の声。
羽衣を隠した漁夫はやっぱり馬鹿だったんだなァとあらためて思う。
奪うのではなく。一方的に押しつけるのではなく。
大切に想っていたのなら、想い返してもらう努力をすればよかったのだ。
目を奪われたのは麗しき容貌。意識を絡め取るのは清雅な声音。
けれど、何よりも心を満たしてくれたのは、自分だけを映してくれる深い情に満ちた瞳の色だ。
(俺はあいつとは違う。ちゃんと天人は俺のことを見てくれたんだからな)
目が覚めたら一番に、ずっと一緒にいてくれるよう頼んでみよう。
伯竜が一生目にすることの叶わなかったであろう天人の心からの微笑みを胸に刻み、少年は幸福感に酔いしれながら静かに目を閉じた。
板張りの天井からぶら下がる蛍光灯の明かりに、小さな蛾が纏わりついている。
意識を浮上させた京一は、二度三度と目を瞬いた。
「よぉ、目が覚めたか馬鹿弟子」
頭から降ってきた皮肉な口調に少年は慌てて飛び起きる。
「か、神夷ッ!?なんでここにいるんだ?」
「師匠と呼べ、未熟者」
神夷京士郎は幼い弟子の頭を軽く叩いた。少年が目を開けるまで、心配で枕元から離れられなかったなどということを教えるつもりはもちろんない。照れているのか意地っ張りなのか、妙なところで依怙地な侠(おとこ)であった。
「俺が借りている宿なんだから、俺がここにいるのはあたりめえだろーが」
言われた京一は、自分が寝ているのがここ数日間寝泊まりしていた宿屋であることにようやく気づく。
「あれ?なんで……俺たしか、宿を飛び出して……」
道に迷って、変な場所に入り込んでしまって、それで。
「そ、そうだッ!あいつはッ!?天人は無事なのかッ?」
「天人~?なんだァ、そりゃ?」
「俺と一緒にいた奴がいただろ?」
師匠である侠は口をへの字に歪めた。
「何言ってやがる。俺が見つけたときはお前だけだったぜ」
いつまでも帰ってこない弟子を捜しまわってみれば、当人は京都御所にほど近い橋のたもとで暢気に眠りこけていたのだ。
「俺が連れて帰ってやらなきゃ風邪を引いてたところだ。まったく、世話のやける餓鬼だぜ。お陰で綺麗所と遊ぶ予定が台無しになっちまったじゃねえか」
「……んだとォ。やっぱりそれが毎日出歩いてた目的だったんだなッ!弟子を置いて遊びにいく師匠がどこの世界にいやがるッ!!」
顔を真っ赤にして怒り狂うと、侠は余裕の笑みで応じた。
「お前も遊興に耽ってみてぇってか?口惜しかったら、はやくでかくなるんだな。それに俺は、やるこたァちゃんとやってるぜ。《龍脈》の調査やら《場》の歪みの矯正やらですっかり肩がこっちまった」
「いい加減なこと言うなよ。『りゅーみゃく』の暴走はもう収まったから心配ないらしいじゃねェか」
「……京一、誰にそれを聞いた」
ふと、神夷が真顔になった。瞳がすうっと細くなる。
「てんに……だから、さっきまで俺と一緒にいた奴がそう言ってたんだよ」
鋭い眼光に怯みつつおずおずと口にすると、神夷はすぐにまたもとの調子に戻った。
「そうか。俺の側(はた)で《龍脈》がどうとか《場》がどうとか言ってるのを聞いちまったから、夢に見たんだろうよ」
「夢なんかじゃねー」
京一は喚いた。
「俺はあいつと本当に会ったし、化け物とだって闘って……」
大怪我を負ったのだ。なのに、あれほど全身を呵んでいた傷はひとつとして残っていなかった。躰がひどくだるいのが気になるが、あちこちを彷徨い歩いて疲れているのだと言われればそんな気もしてくる。
「な、なあ師匠。俺、怪我してたはずなんだけど……」
「なんともねえだろうが。まだ寝ぼけてやがんのか?」
けど、となおも言い募る弟子の頭を神夷は乱暴に掻き回した。
「いいからもう少し寝てろ。餓鬼の起きてる時間じゃねえんだよ」
話があんなら明日また聞いてやるから。
「……俺、さ」
布団に押さえ込まれた京一は、引き上げた掛け布団から顔の上半分だけを出して己の師匠を見上げた。
「もっと、強くなりたい。あいつ、化け物から俺のこと助けるためにひとりで囮になろうとしたんだ。それって、俺が弱かったからだよな。次に会ったときには……最初から一緒に戦えるように、頑張らないと……」
つらつらと語る口調は徐々に緩慢になり、口の中へと消えていく。
やがて、少年の胸が規則正しく上下し始めると、神夷は普段からは想像できないほど優しい仕草で弟子の頭を撫でた。
「眠ったか……ま、あれだけ血を失ってりゃあ、疲れるのは当然だろうよ」
京一は気付かなかったが神夷の後ろ、部屋の隅に放り出された襤褸布は先程まで少年が身につけていた物だ。無惨に裂け、大量の泥と血痕のついた衣服は着用していた者がどんな状態であったかを如実に物語っている。欄干の脇に転がっているのを見つけたときには、死んでいるのかと肝を冷やした。少年を保護したのがおあつらえ向きにも、一条戻り橋――この世とあの世を繋ぐことで知られた場所――であったこともある。
注視すれば布団からはみ出した腕には、紅い筋の痕がいくつも残っている。何者かが《力》を使い、少年に《治癒》を施したのは間違いなかった。ただし、傷は塞がっても失った血まで戻るわけではない。たっぷりと休養を取らせる必要があった。
「お前を助けたのは、どんな奴なんだろうな」
少なくとも、神夷が調べていた一族に関わりある人物ではないだろう。
この千年王都の《場》が乱れたのは、何者かにより《龍脈》に無理な干渉が為されたためだ。神夷はそこに、とある一族が関与していることまでを突き止めたのだが。
それ以上が進まない。かの一族はたやすく手を出せる相手ではなく。簡単に尻尾を掴ませるほど生優しい相手でもなかった。血の濃さと系譜の古さにしがみつき、時代の波に乗ることさえできずに膿んでいく……そんな連中なのだ。
彼等は道に迷った子供など助ける価値もないと判断するだろう。
しかも、不肖の弟子に残された気配は、まごうことなき《龍》の馨を纏っている。
この国に土着する神を祀る一族と関わりがあるとは思えなかった。
「どこかに俺の知らねぇ眷属がいたってえのか?」
あるいは、《龍》当人が……。
「ふっ、まさかな」
侠は苦笑して首を振った。湯飲み茶碗に注いだ日本酒をぐいっと呷る。
脳裏に甦るのは、己を惹きつけて止まなかったひとりの男。そして、その逞しい腕に抱かれていた赤子のあどけない寝顔だ。
順調に育っていれば、京一と同じぐらいになるだろうその赤子こそ、《龍》の本質を抱いてこの世に生を受けた者だった。
だが、赤子は男の死とともに、白蛾翁によって居場所を隠されてしまっている。その行方はかの老人以外は誰も知らず、我が子に平凡な人生をと望んだ男の気持ちが解るだけに、仲間達は彼の人の忘れ形見を追うことができなかった。
彼――赤子は雄だったと記憶している――はいまごろ、なんの《力》も持たない普通の家庭でのびのびと生活していることだろう。やがて訪れる激しい嵐を知ることもなく、ただ健やかに。
「それに、こいつの口調からすっと、どうもその恩人とやらに一目惚れしたらしいからな」
京一はこれでなかなかに面食いなのだ。
「だがよ、女の方がずっと現実的にできてるからな。もう少し立つと、一緒に冒険しようなんて誘いは歯牙にもひっかけられなくなっちまうぜ」
苦笑いを浮かべながら、深い眠りを貪る弟子を見やる。
「けどまあ、俺だって『あの人』に会えたんだ。お前もやがては己の運命と出逢うことになるんだろうよ」
少年は、きっと《星》に選ばれる。かつての自分がそうであったように。
酒をもう一口含むと手入れの途中だった抜き身を手に取り、刀身にまんべんなく吹きかけた。
京一が目覚めるまで手持ちぶさたに行っていたのだ。
懐紙を取り出し、手入れを再開する。輝きを増す刀の表面に映し出されるのは、決まって未熟な過去の己の姿だった。
結局のところ自分は傍観者にしかなれなかった。二度と戻らない日々を、懐かしく思うにはまだ経た年月があまりにも浅すぎて。一生分の時を過ごしたところで、胸に開いた空虚が埋まることはないだろう。
「お前は後悔するような真似はするんじゃねぇぞ。手放したくねえものは躰を張っても守り抜け」
本人に告げるつもりはないが、京一ならば自分のできなかったことを成し遂げてくれるかも知れないと侠は密かに期待していた。
二度と悲劇を繰り返さないために。大切な誰かを喪わないように。
どんな時も傍にいて。最後まで行動を共にするためにも。
「その時までにせいぜい強くなっておけよ、馬鹿弟子」
曇りのなくなった刃を矯めつ眇めつ確かめ、軽く鍔を鳴らして鞘にしまう。
神夷が昔馴染みから請け負ったのは《場》の乱れの原因を追及し、可能であれば回復手段を講じることだった。あの腐った一族がどんな手法を用いたのかは今ひとつ判然としなかったが、京一の言葉通り《氣》の乱れは落ち着きつつある。あと2、3日様子をみて問題がなさそうなら自分はお役ご免にさせてもらおうと心に決めた。
数日後にはいつも通り人里から少し離れた山小屋に居を移すことにしよう。
侠は、寝相の悪い少年の布団を直してやると部屋の灯りを消した。
明かり取りの窓から差し込む月の光は、ぼんやりと霞がかってる。
「もどってきたのね」
音もなく障子戸を開き、童女は空を眺めている人影に呼び掛けた。
「御当主」
部屋の中央で格子窓の外へと目を向けていた部屋の主が静かに振り返る。古き系譜の継承者たる少女は、微笑みを浮かべた。髪は蚕より生まれたばかりの絹の色、瞳は滲む月の紅。寝間着として袖を通された緋色の長襦袢が鮮やかに闇の中、浮かび上がる。
「その呼び方は嫌だと言ったでしょう」
童女は拗ねた口調で言い、戸の内側へと身を滑り込ませた。
畳につきそうな大振袖が、蝶の羽のようにひらりと舞う。
この部屋を通り抜けることができるのは、少女といまひとりだけ。少なくとも周囲の者達はそう信じ込んでいる。
四方の壁を埋め尽くす朱書きの呪符。蛇のごとく這い、蜘蛛の巣よりも細かく張り渡された縄。
外から見る分には何の変哲もない部屋は、ひとたび足を踏み入れれば術者の意志なくしては出ることの叶わぬ牢獄だった。引き戸に手を掛けることを許されたのは、屋敷の当主たる少女と呪を結んだ者だけ。
だが、封じられるべき部屋の主にとっては、どれだけ符や呪を重ねようとなんら意味を為さないことを少女は知っていた。その証拠に、今もこの部屋には入り込むはずのない外の《氣》が紛れ込んでいる。
それは必要なことだった。広大な海のごとき《氣》を溜め込むにはこの部屋は小さすぎ、《器》の内に押さえ込むには持ち主の経験が未熟にすぎる。平穏を保つために、部屋の主はしばしば己の《氣》を発散させに出かけねばならなかったのだ。
「今日も異空回廊を散歩してきたの?」
問いかけながら部屋を横切る。薄暗い畳の上を滑るつま先が、なにかに当たった。何気なく拾い上げ、月明かりに翳すと中程から二つに折れた小さな道具であることが判明する。
「魯班尺?」
「……響(ゆら)」
首を傾げていると、声変わり前特有の滑らかな声音が彼女の名を呼んだ。
彼女――響は壊れてしまっているそれを手に、戸籍上は『兄』となっている人物の傍らに腰を下ろす。
よくよく見れば着物の袂は破け、そこかしこに焦げたような跡が残っていた。
「御柱(みはしら)?」
対して彼女が口にしたのは、屋敷の者達が少年を呼ぶときに仕方なく用いる俗称であった。
この家で彼の『名』を呼ぶ者は誰ひとりとしていない。
少年は、少女の一族がかつての隆盛を取り戻す手段として選び出された『道具』であり。
手にした者の望みを思いのままに叶える《龍脈》の《力》を汲み取るための『器』だった。
一族の者達は彼を『御柱』――生贄の人柱となるべきモノ――と称する。
愚の者の極みだ、と思う。
彼をただの『入れ物』であると誤認し、便利な道具に仕立ておおせると信じていた彼女の両親達も。
児戯にも等しい結界で、彼を閉じこめられると信じている親戚連中も。
彼こそは《龍》の性(さが)を持つモノ。《龍脈》の末葉にあらず。中核にして《龍脈》を行使するモノなのだと、何故気づかないのだろうか。
前者は、己の認識の甘さを黄泉平坂を下ることで補った。後者も、じきに何らかの形で代価を支払うことになるだろう。
どれほど過去の栄華に縋ろうと同じこと。一族の命運などとうに尽きているのだ。
系譜を尊ぶ余り外からの風を拒んだ結果、血は濁り魂は狂気に冒された。自分が色彩を持たずに生まれてきたことも、一族の行く末が呪われたものであることを示しているではないか。
何よりも愛おしく感じる目の前の存在の為には、いっそのことさっさと滅んでしまえばいいのだとさえ思う。大切なのは血の繋がりではない。童女にとっては彼こそがすべてなのだ。
故に、響は彼の『名』を呼ばない。
呼んではならないと己を戒めている。
「誰かと一緒だったの?」
彼ひとりであるならば、魯班尺を使う必要はない。少年がこれを用いるのは他人を《治癒》するときに限られる。
「おもしろいものを見つけた」
いつもは冷たい貌の、口元が微かに緩んでいるのを見て響は驚く。彼が何かに強要されることなく自然に表情を出すことは滅多になかった。表現する術を知らない、といったほうが正しいだろう。
彼が『人』としての意識を持ったのは、つい最近のことなのだ。
「絶対勝てるはずのない相手だった。あの場で目覚めるはずのない《力》だった。なのに、あいつは宣言したとおりに危機を脱してしまったんだ」
響はおっとりと手の中の魯班尺をもてあそんだ。
「あいつ、というのはあなたがこれを用いた相手ね。その人が『奇跡』を起こしたということ?」
「違う。あれは『奇跡』じゃない」
例えるなら、それは想いの《力》。代償を必要とするものではなく、自らの意志の強さだけで、朱色の髪の少年は鵺を斃した。
自分が化生を押さえ込むために発した禍々しき炎は、彼の《氣》によって妖を滅する浄化の白に変じた。いまは『おおいなる闇』よりもさらに深き場所で眠っている『黄麟』の光が、あの子供によって呼び覚まされたのだ。呪術者の多く、一族の誰ひとりとして触れることのできなかった《力》を導き出した少年。興味を覚えない方が不思議だった。
「その子供は、その後どうしたの?」
「ここに連れて帰るわけにもいかないしな。怪我だけ治して空間の出口の所に寝かせてきた」
すぐ傍に、彼を案じ捜索している気配を感じた。今頃は無事保護されていることだろう。
童女は手を伸ばし、自分より少しだけ年上の少年にそっと触れた。他者に触れられることを激しく厭う彼は、響にだけは拒否反応を示さない。信用ではない。彼女になら何をされてもかまわないと考えているためだ。
そのことに少しの優越感と、一抹の侘びしさを感じる。少年の気持ちが、彼女の望んだ形となることはこの先も決してない。
胸を刺す哀しみを押し隠し、髪を梳いてくれる優しい動きに導かれて胸に頬を寄せる。
背中に回される腕に心地よさを感じて目を閉じると、僅かながらに伝わってくる異質なる気配があった。
いまだ未熟でありながら、明るい太陽の輝きを思わせる《氣》に響は深く息を吐き出す。
「そう、ついに出逢ってしまったのね……」
彼と道を共にする運命を背負いし《剣聖》の宿星を持つ者。
「でも、駄目よ。いまはまだ駄目……」
大切な少年を失ってしまう喪失感に思わず縋りつく。
「ゆ……ら……?」
「あなたは嵐の中心となる人。わたしの《力》を持ってしても引きとめることはできない。いずれは飛び立っていってしまうのでしょう……」
でも……と、童女は唇を震わせた。
「どこにもいかない。響が願いを言葉にしてもしなくても、望まれる限りは傍にいる。俺に『世界』をくれたのは響だから」
響は無言で頭を振る。彼女もまた、その内に人とは異なる『性(しょう)』を抱えていた。
口にしたことを現実のものとする《声》。悪事(まがごと)であろうと善事(よごと)であろうと。彼女が紡ぎ出す一言一言には言霊が宿り、運命さえも強制する《力》となる。
間違った呪法により深淵に眠っていた異形の王に《器》を乗っ取られた彼の意識を呼びもどしたのは、響の《力》だ。けれど、彼女が望み願った『奇跡』は別の場所にあった。
だからこそ、彼の『名』は呼ばない――呼べない。彼に対して際限なく拡がっていく執着心が、これ以上少年を縛り付けてしまうことのないようにと。己の矜持にかけて誓う。
「いずれ時はくる。『世界』は《太素の器》を必要としている」
多くの者達が彼を《黄龍の器》と称する中、彼女だけが《太素》と表現する。
そこに、どんな意味が込められているのか、何が秘められているというのか。知るのは当のふたりだけだった。童女の罪も、少年の真実もいまだ混迷の中に隠されている。
「欠けたる月はやがて満ちる時がくるけれど。もう少しだけ、わたしの傍にいて……」
いまだけでいいからと、真実の望みとは違う。けれど偽らざる本音を言の葉に乗せる。
静謐な結界の中、唯一分け合うことのできる少しの温もりを求めて幼い兄妹はそっと身を寄せ合った。
世界は杳として闇に包まれている。
夜明けは、まだ遠い。