流氷が青味を帯びて見えるのはどうして?
教室でニーナと韻子が、そんな話をしていたことがあった。
机の上にはペンギンの写真集。朝から女生徒達が『可愛い』を連発していた理由はこれだったのかと得心する。
赤い光は水に吸収されやすく青が残るからだと教えたら、情緒がないと理不尽な怒られ方をした。
少しは感動を学べ、と突きつけられたページを前にして息を呑む。
蒼とも碧ともつかない清澄な色調は、確かに科学では言い表せない感銘をもたらした。
彼の双眸は、あの日、目にした流氷の色に似ている。
凍える色でありながら、何処か柔らかさを合わせ持つその光彩は。
不条理な火星の赤を消し去った後に残された、唯一の可視光線。
伊奈帆が伸ばし続けた手で最後の最後に掴み取ることのできた、たったひとつのものだった。
1.
Losers are always in the wrong.
それが、いつの時代も変わらぬ理。
兵器を手に命を奪い合い、敵味方を問わず屍の山を築いた。
大望、理念、大義、志――どれほどに麗々しい言葉で飾り立てようとも、行為は単なる殺戮に過ぎず。
事の善悪を定めるのは、ただ勝負の行く末のみ。
人々の嘆きや怨嗟、両陣営の生み出した悲劇の全ては敗者が背負うべき罪科へと変わる。
贖罪の日々が明けることはなく。赦しの日が与えられることもない。
今も、これからも。生命が失われた後でさえ。
人の歴史が続く限り永遠に。
日本列島に属する無人の島。
中央にある建物は、表向き気象観測所を装っていたが内実は軍の専用設備として使用されていた。
現在は厳重な警備の中、一人の罪人が収容されている。
「未だに食事のほとんどを残しているらしいね?」
コツン、とポーンがチェス盤の上で跳ねた。
虚ろな視線でそれを追いつつ、スレインは次に打つべき手を考える。
実際に駒を動かすことはない。
「生命維持に必要なだけの栄養は補給している。問題ない」
「君の番だけれど」と、いう問いには答えなかった。
沈黙を挟むこと暫し。相手がスレイン側の駒を動かす。
先ほど思い描いたのと同じ手だった。
「体力維持には足りない。囚人の食事は、きちんと栄養管理がなされている。残さず食べなければ必要摂取量には満たないよ」
頭の上を通り過ぎていく声。黒い手袋に覆われた指先によって変わっていく盤上の戦局を見るとはなしに見つめながら、今日も青年は口を閉ざし続ける。
殆ど成立しない会話。成り立たない遊戯。
不愉快極まりない時間。
相手にとっても同じであるはずなのに、何故この男は数日と明けずに通い続けてくるのだろうか。
界塚伊奈帆。操る機体の塗装から『オレンジ色』と呼んでいた彼の名前をスレインに教えたのは、皇女付きの侍女だった。
地球連合軍の英雄。スレインの敵対者。数え切れないぐらい殺意を交わらせ、銃口を向け合って。
ノヴォスタリスクでは彼の左目を撃ち抜き、失わせることさえした。
恨まれて然るべき相手。最初は、怨敵が囚われ打ち拉がれた姿を眺めることで溜飲を下げているのかと考えたが、青年将校にそんな兆候は見受けられなかった。
火星の姫から直々に助命嘆願されたことに対する義理だとしても、度が過ぎている。
死んだはずの人間などに会いに来て、一体、何が楽しいというのだろう。
「アセイラム姫殿下のお望みである以上、自死などしない。逃げ出すつもりもない」
死ぬつもりだった。死にたいと思った。命を持って購うしかない行いをした。
それでも己の生命を捧げた御方が『生きよ』と仰せになるならば。姫の騎士たることを誓った自分は従わなくてはならない。
「もう、ここには来るな」
たった一人でおこなっていたチェスの勝敗が決まり、満足したのか立ち上がった青年の背に向かって吐き捨てた。
「いまは女王陛下だよ……また、来る」
それは、彼の退出間際に繰り返し投げかけている常套句。返戻もまた、いつもと同じだった。
外に出た伊奈帆は、建物を振り返ると囚人が戻ったであろう部屋の辺りに視線を這わせる。
当然のごとく、白い壁をいくら見つめたところで中の様子を伺い知ることはできなかった。
巷では極刑に付されたことになっている彼――スレイン・ザーツバルム・トロイヤードが生きているのは、火星の女王となったアセイラムたっての嘆願による。
国を治めるのは王の役割であり、皇帝は王を封じて天下を治める。
アセイラムは終戦直前の会見放送にて、己が火星の民を統治する存在となったことを宣布した。
レイレガリア亡き今、唯一のアルドノア起動因子保有者であり、地球への技術提供を約した彼女の機嫌を連合軍は損ねたくない。
女王の気が済むまで、彼はあの場所に囚われ続けるのだろう。
通常、囚人は起床から就寝まで1日のスケジュールが細かく定められているが、青年には労役もなければ健康管理のための運動時間も設けられていなかった。彼の収容は社会復帰のための準備でも、罪を償うためのものでもないからだ。
スレインの辿る結末は、世間の公表通りの処刑か、獄中で病死。または不慮の事故死の何れかでしかない。
必死になって掴んだ手は徒に苦しみを長引かせ、敗軍の戦争責任者であることを加味しても余りある不条理な状況に、彼の身を放り込んだだけだった。
罪悪感に胸が塞がれる。
第二次惑星間戦争後、功績が認められた伊奈帆は殉職に因らない二階級特進を果たしていた。
処刑された筈の重罪人の元へ頻繁に足を運んでも、表だって咎め立てされない程度の融通は利く。巡回員クラスの一般兵相手であれば、施設の人事に関与することも可能だ。
世間から隔離されたこんな場所では中央の目も届きにくい。つい羽目を外したくなる者が現れるのも道理というもの。
淡い金色の髪と、北の海を映す流氷のような色の瞳。年若く整った容貌である彼が、施設職員の劣情に晒されている場面に、伊奈帆は一度ならず遭遇していた。
また、性欲には駆られずとも、鬱屈した感情を暴力や陰惨な嫌がらせとして自分より立場の弱い者に向けようとする輩も一定数存在する。
彼らにとってスレインは格好の餌食だった。
大きな問題となる前に事を治める為、尽力と奔走を重ねた回数は片手の指に余る。
されるがまま受け入れる青年に苛立ち、せめて抵抗ぐらいしろと怒鳴りつけたことがあった。
戻ってきた答えに、直ぐさま前言を後悔することになったのだけれど。
青年は不思議そうに首を傾げ「そんなことをして何になる」と言い洩らしたのだ。
反抗しても苦痛が長引くだけ。無理に逃れれば、次はもっと苛烈な手段を用いられる。救いなどありはしないのだと、彼の態度は物語っていた。
火星では地球人は劣等民族として、迫害の対象にされるのだという。
身体検査の時に判明した、いくつもの傷。拷問の後。
報告書に目を通したときは皇女の友人という立場さえ、彼を守ってはくれなかったのかと呆然とした。
女王は遠い火星で新たな王朝を築いており、青年は己のことを何も語らない。
彼にも人並みに幸せな時間はあったのだろうか。
スレインの境遇に思いを馳せる度に湧き上がる胸のざわめきは焦燥感にも似て。
伊奈帆をなんともいえない気持ちにさせた。
想定以上の関与を続けているのは、その感情の正体を知るため――なのかもしれない。
「まあ、軍規を乱す輩を放っておくわけにもいかないしね」
緩やかに頭を振り、独白する。
伊奈帆が施設に通うのを辞めれば、すぐにまたスレインの扱いはぞんざいなものになってしまうのだ。
会話らしい会話をしていないことも心残りだし、もう少し青年の気持ちが解れるのを待ってみようかと考える。
せめてチェスの対戦をしてもらえる程度には、心を開いて欲しかった。
2.
スレインが幽閉されてから1年近くたったある日。
アセイラムが新型エンジン起動のため地球を訪問することとなった。
女王と顔見知りであるためか、伊奈帆にも起動式典への招待状が届いている。
戦後、デューカリオンのメンバー達は別々の部署へと配属されていた。
マグバレッジ艦長や副長である不見咲は、修復された強襲揚陸艦わだつみへと足場を戻している。
伊奈帆にしか動かせないアルドノア動力炉を持つ機体は、都内にある軍用飛行場に留め置かれた。
韻子達は普段は学生として過ごしており、デューカリオンを持ち出さねばならないような有事の際のみ招集を受ける。日頃から軍人として任務を帯びているのは青年将校だけだ。
軍は警備計画書作成の仕事を回して寄越し、そのまま式典へ参加するよう促してきた。
地球の若き英雄と女王の対面シーンをマスメディアに流し、両惑星の仲良しアピールに使う腹積もりだったらしい。個人的な友人関係を外交に利用する気のなかった伊奈帆は、仕事のみ受け式典についてはあっさりと欠席の意向を伝えた。
会場は太平洋に浮かぶ諸島のひとつ。
伊奈帆の居住区からは民間航空機で約7時間、軍用機なら凡そ2時間半の道のりとなる。
女王を狙う過激派の大きな組織は潰したばかり。
地上に残る火星騎士達の抵抗勢力とは、小康状態を保っていた。
差し迫った危険はないと判断し、設備の最終確認を終えると実務担当の責任者に引継ぎ作業を行う。
非常時の避難誘導にやたらと重点を置く上層部から、何回か計画書の手直しを求められたことだけが少し気になった。
本当に出席しないんですかと、様々な者達から投げかけられる異口同音を躱し続けて会場を後にする。
全ての工程を終え現地を出立したのは、式典の開催まで数時間を切った頃。軍の専用機で日付変更線を超えれば、故郷の地は翌日の早朝となっていた。
頭上に広がるのは、かつて彼女と見上げたのと同じ紺碧の空。
逢えば未練がわき上がるだろうか?とも考えるが、確かめたいわけではなかった。
アセイラムに対する気持ちは穏やかなものに変化している。
ただ、彼女には幸せになって欲しかった。
初めて目にする鳥に歓声を上げていた、少女の笑顔が瞼の裏に浮かんだのも束の間。
伊奈帆の関心は、小さな島の中心にある白亜の建物で占められていた。
「ここからなら、1時間ほどで着くな」
タブレットを取り出し時間を確認する。この後の予定は丸々空いていた。
ヘリを使えば目的地は近い。休息を入れてから向かっても午前の早い時間帯から面会出来る。
このところ件の施設には、一人で立ち寄ることが多かった。
囚人との面会は二人以上が原則だが、そこは戦争功労者としての特権を活用した。軍人と学生、両方の下駄を履く伊奈帆の日々は忙しない。隙間時間の有効活用には、他者との調整が不要な単独行動が適していた。
一人チェスを行うだけのひと時。向かいの椅子に座した彼は静かに、伊奈帆の動かす駒の動きを眺めていた。ここ最近は、会話どころか声を聞くことさえ滅多にない。
窓から差し込む日差しに透ける月光色の髪。
駒に触れることこそないものの、指し手の検討は行っているのだろう。時折、潜考するように伏せられた双眸に、長い睫の影が落ちる。
チェスの対戦希望は未だ叶えられていなかったが、世俗から隔離された静謐な空間を、伊奈帆はいつしか心安らぐ場所であると認識していた。
気だるい身体を持て余したスレインは、高窓の対角にある壁際に椅子を寄せ静かに腰を下ろす。
ここからなら、座っていても青く澄んだ空が視界に入った。
収容当初のような苛烈な扱いこそなくなったが、陰湿な嫌がらせは断続的に続いている。
昨夜はシャワーの給湯が止められた。
身体を拭うタオルの類いも見当たらない。冷水を頭から浴びてしまったスレインは濡れそぼったままの髪と身体で眠りについた。
季節は初冬。
寒さが本格化する前とはいえ、夜風は冷たい。
禄な栄養も取っていなかった青年が体調を崩したのは、瞭然たる流れであった。
戦火こそ収まったが、身近な者や大切な者を喪った悲しみや憤りまでがなくなったわけではない。唐突に発せられた終戦宣言に、やり場のない怒りを覚えた者とて大勢いるだろう。ましてやその首謀者が目前にいるとなれば、鬱積した念をぶつけたくなるのは人間として自然な感情の発露だった。
スレインのしてきたことを思えば、この程度は可愛らしい悪戯といえる。
何より、火星での扱いに比べれば、ずいぶんマシな方だった。
室内に差し込む僅かな日差しで悪寒の走る身体を温めながら、壁に寄り掛かり瞼を閉じる。
火照った額に壁の冷たさが心地良かった。
どのくらいそうしていたのだろう。いつしか眠りに落ちていたスレインの髪に何かが触れた。
浮上した意識が、傍らに立つ人影を捉える。
わざわざ手袋を外したのだろう界塚伊奈帆の指が、スレインの額に触れそうで触れない距離にあった。
「………っ?!」
反射的に身を引くと、伸ばされた指先に絡んでいた己の髪がぱらりと音を立てて落ちる。
不覚であった。
「寝顔は初めて見たな」
「いつからそこに居た」
「到着したのは、ついさっき。顔色が悪いね」
今度は触れるために伸ばされてきた手を、乱暴に払いのける。
拒絶の声は不意に訪れた異変を前に、音となることはなかった。
室内全体が昏く陰る。
二人は同時に窓の外へ視線を送った。
鉄格子の嵌まったガラスの向こう側が赤黒く濁っている。
「なんだ……?」
夕刻には程遠く、朝焼けの刻限は疾うに過ぎていた。
爆撃の色とも異なる。
伊奈帆の胸ポケットで軍から支給されている携帯が振動した。素早く取り出し通話ボタンを押す。
「どうしました……新型エンジンの異常?ええ、ほぼ6500km離れたこちらからでも確認できました。被害状況は……」
電話口で交わされる断片的な遣り取りから状況を察したスレインは、椅子から立ち上がった。
新型エンジンとは、アルドノア・ドライブを用いたもののことだろう。となれば、起動には間違いなくアセイラムが関わっている。状況把握に努める伊奈帆の胸倉を掴みたくなる気持ちを必死で押さえた。
不安を呼ぶ赤。火星の空の色とも違う、けれどいつかどこかで目にしたことのある色。
アルドノア・ドライブを使った何かの実験か?
界塚伊奈帆は6500km離れた場所と口にしていた。
暴走したにせよ、それほど大規模な影響の出るシステムなど……と考え、不意に遠い昔の光景が蘇る。
幼い日に見学した稼働実験。繰り返される試みの中で、広範囲の空をあのような色に染め上げたものがあった。
「悪いけれど、急用が出来た。今日はこれで失礼するよ」
辞去の挨拶は、耳に入らなかった。
「だとすれば、あれはR型エンジンか」
何故、あんな失敗作を。そもそもあれは地球には必要のないものなのに……。
「あの空の色は暴走の前触れだ。大事になる前に停止した方が良い」
呻くような呟きを耳にして、青年将校は足を止める。
「あいにく僕は、警備計画に携わっただけだ。停止や稼働に対する権限は持っていない。暴走についても既に手遅れだ」
設置を行った地球の研究者達は、確かにエンジンをR型と呼んでいた。スレインが空の色を目にしただけで型番を言い当てたことに伊奈帆は驚く。
彼はこれまで、軍の上層部や地球の科学者達が投げかけたアルドノアに対する質問に対し、知らぬ存ぜぬを貫いていた。火星皇女やその侍女にさえ父親関連の質問には、ほとんど答えなかったと聞いている。
「どういうことだ」
「セラムさん……アセイラム女王陛下の力さえ受け付けず、停止が出来ない状態らしい」
扉へ向かっていた足先を囚人に向け直し、得たばかりの情報を伝えた。
「馬鹿な!?姫は?!アセイラム姫は無事なのか?!」
今度こそ、伊奈帆に詰め寄るスレイン。
「式典に集まっていた各国の要人は避難済みだ。火星の女王陛下ご夫妻も安全な場所に誘導されている」
「そう……か……」
ほっと息をつく囚人の前で、再び青年将校の端末が振動した。
「こちら界塚。……はい、わかりました。すぐに向かいます」
手短な応答の様子を視界の片隅に捉えながら、もう一度、窓を仰ぎ見る。
本日の訪問はこれで打ち切りだ。通話を終えた伊奈帆が、慌ただしく扉の外へと姿を消す。
なにやら壁の向こうで揉め事の起きた気配がしたが、囚人である自分には関係のないことだと意識の外へ置いた。
アセイラムの身を案じる。この件で、お立場が悪くならなければいいのだが。
「悪いけど、君にも一緒に来てもらうよ」
外の喧噪がさめやらぬ内に、再び扉から入ってきた青年将校がスレインの腕を掴んだ。
「………は?」
建物の外でヘリのエンジンが唸りを上げ始る。
事態が飲み込めないまま、強く腕を引かれ蹈鞴を踏んだ。そのまま有無を言わさず、ヘリの後部座席に押し込められる。
伊奈帆が漸く青年の腕を解放したのは、いつか見た航空母艦の中枢に連れ込まれた後でのこと。
乗船員達は、伊奈帆と彼が連れてきた人物を認めた途端、一様に動きを止めた。
誰もが、唖然とした顔付きで囚人服の青年を注視している。
もっとも、一番驚いているのはスレイン自身だったのだが。
「こんなところに連れてきて何のつもりだ!?」
困惑から抜け出したスレインが青年に怒号を浴びせた。
自分と同じように勢いに押されただけかもしれないが、看守もよく囚人の連れ出しなど認めたものだ。
「えぇぇ?!うそうそ!」
「伊奈帆?何やってるのアンタ?!」
「なお君!?」
「伊奈帆!そいつは……っ!!」
「……………」
ニーナが、韻子が、ユキが。揃って驚きの声を上げる。カームは拳を固め臨戦態勢だ。ライエは無言で、青年を睨み付けている。
先の戦争における最終局面で大気圏に突入した二つの機体を案じ、直ぐさま後を追ったデューカリオンのメンバー達はスレインが生きたまま捕縛された姿を目にしていた。そのままの流れで伊奈帆が上層部相手に彼を生かすよう説得する場面にも立ち会っている。
表向き処刑された彼が、どこかに幽閉されたのは知っていた。だが、生きているのを何となく知っているのと、本当に生きている姿を目にするのとでは受ける衝撃の度合いが違う。
「この艦は囚人の脱獄の手伝いをするためにあるわけではないのですが」
ブリッジの奥、中央の席に座した女性の言葉に、周囲の者達が一斉に頷く。
「彼が一番、状況を把握していそうだったので」
対する伊奈帆は涼しい顔で答えつつ、操縦室の中央に設置された球体へ手を翳した。
球体の中心に光が宿り、周囲の機器が稼働を始める。アルドノアの力だ。
スレインはこの艦が、種子島で発見されたものであることを想起した。
これがザーツバルム卿、復讐の源泉か。
かの人の婚約者オルレインの搭乗機から奪ったアルドノアが、この艦の動力となっている。それが、ザーツバルムの揚陸城を墜とした直接の要因となったのだから皮肉な話だ。
感傷に揺らぎそうになった意識を引き締め直す。
気を抜くと足から力が抜けそうだった。熱が上がってきたのだろう、悪寒が先ほどより強くなっている。おとなしく横になっていれば少しはマシだったろうに。
まったくもって、いい迷惑である。
「相変わらず、無茶をしますね界塚弟」
艦の責任者らしき女性は、嘆息を漏らすとスレインへ視線を移した。
界塚伊奈帆の上官だけあって、苦笑一つで気持ちを切り替えてみせる。
「改めてご挨拶しましょう、スレイン・ザーツバルム・トロイヤード。私はこのデューカリオンの艦長を勤めるダルザナ・マグバレッジです」
囚人たる青年は冷めた視線を投げ返すのみ。ダルザナは青年の黙殺に頓着することなく任務の明示を始めた。
火星に開発途中で放置されたエンジンがあると聞いた連合軍は、研究の為と称し半ば強引にそれを譲り受けた。
問題となった動力炉は、トロイヤード博士自らが設計・監修したという。資料がほとんど残っておらず、どのような用途で作られたものなのかわからない。しかし、一度、分解された状態で地球に持ち込まれた機材を注意深く組み直してみたところ、起動可能な状態ではあった。
「そこで、とにもかくにも動かしてみようという話になりました」
「未知の力を持つものを用途もわからず起動させたのか」
スレインは呆れる。軌道騎士にあれだけアルドノアの脅威を見せつけられたというのに、地球軍の連中は懲りるということを知らないのか?
「火星の軌道騎士が操るカタクラフトに与えられた力は、アルドノア・ドライブ開発時の失敗が元となっているという噂を聞きましたが」
マグバレッジが敢えて黙っていたことを、伊奈帆が口にする。
警備計画の指示を受けた際、感じた違和感はこれだったのかと思い至った。
席次表にあるのは学者・研究者とそれを補佐する学生の名ばかり。要人は殆どが代理人を立てていた。マスコミの姿もなく、取材に訪れたのは軍の広報のみ。
式典の体裁を取り繕ったのは、女王に対する義理と火星側には隠しておきたい裏事情があるから。
「軍事力転用への布石……最初から、暴走させることが目的だったということか」
スレインの目が鋭くなった。流石に察しがいい。
「万が一、手の着けられない事態が起こっても、火星女王がいれば即座に対応出来ると連合軍幹部達は考えたようですね」
当てが外れ、今頃は誰が責任を被るかで右往左往していることだろう。連中の見通しが甘いのはいつものこと。その尻拭いとしてデューカリオンが引っ張り出され、自分達が骨を折る羽目になるのも、もはや様式美である。
「デューカリオンで出立したということは、エンジンの破壊が目的ですか」
「最悪そうなります、界塚弟。いえ、アセイラム陛下がアルドノアを停止できない以上、現時点ではそれしか方法がありません」
「何か意見はある?」
伊奈帆がスレインに話を振った。
「答える義理はない」
「設置場所は面積約116平方キロメートル。NPOスタッフぐらいしか滞在していない無人島だけど、観光名所となっている島が隣接する。そちらは面積1884平方キロメートル、最大長64km、最大幅42km。セラムさんは、何かあってもすぐ駆けつけることが出来るようにと、海岸線沿いにあるホテルで待機しているらしい」
地図を表示させたタブレットの画面をスレインに示す。
「僕たちがエンジンを破壊したとき、そこはどうなる?」
「………………。半径20km。Rドライブが火星に設置されていたそのままの規模ならば、その程度は吹き飛んでもおかしくない。あれは特に広範囲に適用させる目的があったために出力の高いエンジンだ」
太平洋を遠く隔てた日本の地からも異常を確認できたくらいだ。エンジン規模の大きさは疑うべくもない。爆破時の衝撃が大きければ津波・火山の活性化等による二次被害の発生も考えられた。
脳裏に浮かんだ純白のドレスと無垢な笑顔を引き留めるように、スレインは目を閉じる。
「なら、このままではセラムさんも危険ということになる」
アルドノアを制御できるのは彼女だけ。なればこそ火星の女王は、ギリギリまで危険な場所に留まろうとするだろう。そういう人だ。
「おいっ!伊奈帆、なに言ってんだ!?コイツは姫さんを殺そうとしていた奴なんだろう!何もかも全部コイツのせいじゃないかっ!!そんな奴にっ!!!」
「カーム黙って」
いきり立つカームを伊奈帆が制した。常にない鋭さに整備士の青年は息を飲む。
マグバレッジを筆頭とした大人達は、痛ましげな表情で一切の責任を負わされた地球生まれの火星騎士を見た。彼等は子供達の知らない戦争の真実を知っている。
スレインの表情は動かなかった。
憎まれることや蔑まれることには慣れている。外野の反応など、考慮せず流してしまえばいい。
目の前に突きつけられた地図を眺めた。いざとなれば、女王は王婿となったクランカインが逃がすだろう。連合軍が火星に責任を押しつけようとしても、彼の手腕を持ってすれば撥ね除けられる。
だが……。
「エンジンシステムに直接入力するための強制停止コードがある。設置した技術者に問い合わせてみろ」
ひとつ息を吐きだす。R型は特別な物だ。あのエンジンで姫を悲しませるわけにはいかなかった。
「今回だけだ――次はない」
たとえ、アセイラムの身の安全と引き替えであろうとも。
「それで十分だ。……ありがとう」
ほとんど表情の動かない青年の目容がわずかに和らいだ。
3.
「コードがわからない?」
軍本部に問い合わせを行っていたマグバレッジが得た回答に、一同はぽかんと口を開けた。
「正確にはコードを必要とすることすら知らなかったそうです。火星からの技術提供が思ったよりも進んでいなかったため、と設営責任者は述べていました」
不見咲が眦を下げて補足する。
「連合軍のリスクヘッジはどうなっているんだ?」
こんなのに負けたとか。勘弁して欲しい。
「釈明の言葉もありませんね」
マグバレッジは、疲れたように肩を落とした。不見咲がそっとお茶を差し出す。
「振り出しに戻ったわね。やっぱり爆破しかないのかな」
口元を歪めたユキに、スレインはかぶりを振った。
「いや、システムに変更を加えていないのなら、最初に設定したコードが活きているはずだ」
ならば、自分が覚えている。
「貴方は、トロイヤード博士の研究は何も受け継いでいないと聞いていましたが」
一口お茶を飲んで、気を取り直したマグバレッジが問いかけた。
「R型エンジンは、アセイラム姫殿下11歳の生誕祭に合わせて企画されたものだ。光の波長と粒子の大きさを調整し、火星の空に地球と同じ視覚効果をもたらすことを目的としていた」
火星の空は赤い。逆に夕暮れ時になれば大気は青味を帯びるが、地上の澄んだ空とは似ても似つかないものだった。話に聞く地球の青い空を見てみたいと姫が願い、スレインがそれをレイレガリアに伝えたことから発足した計画。
監獄の窓から見た空の色が変わって見えたのは、エンジンの暴走で粒子の塊が大気中に大量放出されたことによる。地球の約半分の大きさを持つ火星全体を覆う為に作られた装置なれば、太平洋を渡ることぐらいは出来て当たり前だった。
どこまでも広がる青い空を有する地球には、必要の無いもの。
「レイリー散乱……」
青年将校が目を見開く。
「父の死により計画は頓挫したが、開発当時のアルドノア・ドライブは流用されることなく残っていたようだな」
全ては姫に内緒の計画。トロイヤード博士の研究テーマはアルドノア因子の普遍化だが、皇帝の要請を受け時折、新たなシステムの開発に携わることがあった。R型エンジンもその内のひとつ。
己が発端であり父親が担当することになった経緯から、スレインは頻繁に開発現場に足を運び完成を待ち望んでいた。
「空が青いのはレイリー散乱。雲が白いのはミー散乱……君は知っていたんだな、どうして、セラムさんに嘘を教えた?」
豊かな自然、光を屈折させるほどの大量の水と空気が、この星を蒼き色に染めているのですね。
地球の友人が教えてくれました、と舞うように、歌うようにはしゃいでいた少女の姿が蘇る。
「姫様がお気に召す物であれば――綺麗な物であればそれでいい。真実である必要などどこにもない」
夢がないなオレンジ色、と嘲りを浮かべるスレインを、青年将校が真正面から見据えた。
「彼女は実正がどんなものであれ、受け入れる強さを持っている人だ。そうやって嘘で固めて、彼女を籠の鳥にでもするつもりだったのか?」
「知らない方が幸せなこともある。おまえの価値観を押しつけるな」
一瞬即発。周囲の体感温度が3度ほど下がったところで、おずおずとニーナが手を上げた。
「あのぉ、ちょっと聞いてもいいですか?」
空気を読まないNo.1の称号は伊達じゃ無いな。ありがとうニーナ!
周りの声なき賛辞に気づくことなく、少女は向けられたスレインの目線に怯みながらも言葉を紡ぐ。
「その停止コードっていうので本当にエンジンが止まるの?お姫さまの力だって受け付けなかったのに」
そんなことかと、こともなげに青年が頷いた。
「システム面に作用する陛下のお力に対し、停止コードはハードの強制終了――端末の電源を落とすのと同義の効果をもたらすものだ。要はPCが熱暴走を起こした時と同じ事象だと考えれば良い」
アルドノア起動権を手にしているのは、火星でもごく限られた貴族のみ。だが、権利は有さずとも開発や運営に関わる者達は大勢いた。ドライブの開発には常に暴走等の危険が付きまとう。ハード側からの制御手段を用意しておくことは、彼等にとって必須事項であった。
「あぁ、なるほど~」
例えがあると分かりやすい。
「じゃあ、電源落として暴走が止まったところで、お姫様にもう一回アルドノア起動してもらえば任務は完了だね」
あれ、でも伊奈帆君がいるなら、お姫様に頼まなくてもいいのかも。
「そっか、伊奈帆も起動権を持ってるんだもんね」
話題が幼なじみへ波及するや否や、韻子は囚人に対する軽はずみな友の行動に狼狽えていたことも忘れて両手を打ち合わせた。
「不可能だ。皇族の起動したアルドノアを制御できるのは、同じ皇族だけだ」
スレインは膠も無く切り捨てる。
「どうして。デューカリオンだって最初はお姫様が起動したけど、今は伊奈帆君が動かしてるよ?」
「陛下が起動と同時に初期化を行ったからだろう。用途が違う」
「初期化?」
きょとんとした二つの顔に見つめられ、元伯爵は溜息をつく。頻繁な問い返しが煩わしかった。
中途半端に話すよりは、いちから説明してしまった方が早いだろうと判断する。さして重要な情報でもなし、開示したところで差し支えはない。
「アルドノアは巨大なネットワークシステムのようなものだ」
超古代文明の叡智とされるアルドノアは何処かに眠っている強大な力を、特殊な鉱石を核にした装置で引き出すことにより使用可能となる。アルドノアが未知の力とされているのは、大元のエネルギー源が未だ発見されていないためだ。
大元の力をホストコンピュータとするならば、それを引き出す装置はクライアントに例えられた。
皇族と火星騎士は、管理ユーザーと一般ユーザーの関係にあたる。
レイレガリアは超古代文明に後継者と認められ、このホストコンピュータに直接アクセスする権利を得た。彼から二代目皇帝へ、そして孫娘へと受け継がれた起動因子と呼ばれる力だ。
皇族は血族全体で一個体との認識らしく、起動権には互換性があった。起動者が亡くなっても血族者がいれば、運用は引き継がれ停止することはない。
対して、皇族が第三者へ譲渡する権限は一代限りのものであり、用途は限定されていた。
使用者の死亡により停止したドライブや他者が起動したドライブは、皇族の手による初期化を経ることで別の者に引き継がれる。
但し、いかな皇族といえども一度与えた起動権を『人』から剥奪する力はなかった。
伊奈帆がデューカリオンを起動できたのは、アセイラムが起動する際に以前の権利者情報を抹消した為だ。皇族がアルドノアを再起動する理由の大半は権利譲渡が目的である為、半ば習慣的に初期化を行ってしまったのだろうというのがスレインの推察だった。
もっとも、皇族の中には上書き件すら譲渡できる者も存在するのだが。そのことについては黙っておいた。
「へぇー、そうなんだぁ!」
ニーナが目を輝かせて聞き入る。韻子が何かを閃いたように頷いた。
「そういえばノヴォスタリスクにあった揚陸城とかいうのは、伊奈帆がアルドノアに触れても起動しなかったもんね。どうしてかなって思っていたけど、あっちはアルドノアを停止しただけで初期化はされていなかったってことか」
ノヴォスタリスク揚陸城の響きにスレインはぴくりと眉を動かしたが、敢えて反応することはなかった。
「詳しいね、スレイン君」
礼を述べる少女達の後ろで彼等の会話に耳を傾けていたマグバレッジも感心する。
説明が慣れている。火星皇女の教育係をしていたのは伊達ではないということなのだろう。
「火星のアルドノア研究者達の通説だ。真新しい話題でもない」
無邪気な笑顔を振りまくニーナは、天真爛漫だった火星の皇女を連想させた。スレインの表情が微かに緩む。
伊奈帆は、そんな青年の様子を見て少しだけ不機嫌になった。自分とは、殆ど目も合わせないくせに。
じっと青年を観察する。
壁にもたれかかり両腕を組むスレインの態度は、尊大に映った。
しかし、その顔色は悪く、わずかに開いた唇は浅い呼吸を繰り返している。
形ばかりの質問をした後、スレインに耶賀頼の診察を受けさせようとしていた伊奈帆の目論見は、彼が新型エンジンとの関わりを深く持っていたことで完全に外れてしまった。
あの独房で、自分の接近を許すほど調子を崩している彼を前にして、不安になった。
青年の死因が病死であれば、女王も納得する。連合軍も厄介払いが出来る。
スレインが幽閉されてから1年近く。その間、アセイラムからの接触は無かった。彼の生存を知っていながら、様子を伺ってくることも扱いについて問い合わせが為されたこともない。連合軍の中には、既にスレインは用済みであるとの認識を抱く者まで出始めていた。
もし、女王に会ったとき、彼女がスレインの存在など忘れ去っていたら。そんな女性ではないと信じてはいるが、アセイラムが居る場所はあまりにも遠く、会わない期間が長すぎた。式典の出席を断ったのは、それを確かめるが本当は怖かったからだ。
アルドノア・ドライブ暴走の件は、半ばこじつけだった。
伊奈帆としては、アセイラム及び近隣住人に対する避難誘導とエンジンの破壊で仕事は終わりだと考えていたのだ。
生活基盤を失った住人には、軍からの補償がある。命があっただけでも儲けものであるこのご時世、多少の犠牲はやむを得ない。
だが、よりよい解決方法が提示されてしまった以上、そちらの手段を講じないわけにはいかなくなった。犠牲は少ない方がいいに決まっている。懸命に何でも無いふりをしている彼には気の毒だが、もう少し我慢してもらうより他なかった。
「マグバレッジ艦長。スクリーンを見てください」
黙然と業務を遂行していた不見咲が上司の名を呼んだ。
アルドノア・ドライブを搭載したデューカリオンは、燃料の心配をする必要が無い。また、早くからアルドノアを使った乗り物の開発に着手していた火星では静粛超音速機技術の研究が進んでおり、30年前に作られた船体形状型のカタフラクトもソニックブームが地球の戦闘機に比べ10分の1以下に抑えられていた。名前と共にかの機体の形状を写し取ったデューカリオンも、意図せずかなりの静音設計となっている。
地球の航空機にはない超高速・長距離の飛行が可能だった。
軍規により緊急時のみ許可された最大速度で進めば2時間足らずで目的地へ着く。
「どうしました、不見咲君」
副官の隣に並んでモニターを見上げたダルザナが眉を顰めた。
映し出されていたのは、竜巻によって気流の乱れる小さな無人島。天地の間を幾筋もの雷の柱が渡り、雹が降り注ぐ異常気象がそこにはあった。
「これが、アルドノアの暴走というわけですか」
過去に対峙した火星騎士のカタフラクトにより、どれもが一度は目にしたことのある現象だ。違いは力に方向性がないことと、複数の現象が混在していることだけだろう。余計に質が悪いとも言うが。
「よかったじゃないか。実験を計画した連中はこれが見たかったのだろう?」
スレインが皮肉る。
「暴走規模が拡がりすぎています。これでは、安全な場所で見学・研究というわけにもいかないでしょう」
あるいは、空の変色範囲に比べ、まだ可愛らしい範疇で済んでいると受け取るべきなのかもしれなかった。
「このままでは、エンジンに近づくことが出来ません」
ニーナが叫ぶ。気流に飲まれかけ、不安定になった機体を立て直したデューカリオンが、飛行可能なギリギリのラインを旋回するべく方向を変えた。
「しばらく放っておいたら止んだりとか……」
「しないよ。動力は永久機関と言われるアルドノアだ」
韻子の希望的観測を、伊奈帆が一蹴した。
「空から行くのは無理だ。海岸線に接岸してカタクラフト……いや、もっと小回りのきく車両を使った方が良い」
問題のエンジンは二重構造になっており、カプセル型の保護壁の中に本体が納められている。設置に携わった研究者の見解では、外壁の内部にさえ入り込んでしまえば、暴走の影響は受けないだろうとのことだった。
「そうですね……」
マグバレッジは逡巡する。
戦闘が目的ではない。あえて体面積の大きなカタクラフトを用いる必要は無いが、果たしてエンジンに到達するまで車体が持つかどうか。
「僕の左目であれば、気流の乱れを避けられます」
スレインは隣に並ぶ青年をそっと伺う。自分の撃ち抜いた彼の左目が、アナリティカルエンジンと呼ばれる高度な分析能力を有する義眼となっていたことは少し前に聞かされていた。
戦争が終結し、用済みとなったため外したという話だったが。
「なお君?!それは脳に負担が掛かるって……っ!」
「警護の任についた時、サポートの為につけたんだよユキ姉。大丈夫。機能を最低限に絞っているから負担は掛かってない」
車両の運転免許も取得済みだ。軍では16歳から免許が持てた。
「また一人で危険なことしようとしてっ!」
「ひとりじゃない。彼も一緒だ」
目線でスレインを指し示す。表情こそ乏しいものの、過保護な姉へ向ける弟の声音は格段に優しかった。
「はぁ?!なんだってなお君の目を打ち抜いた屑野郎なんかと!!」
何でも何も、停止コードを知っているのはスレインだけである。
冗談じゃないわよ!と、ユキは拳を振りかざして反対した。戦場で事ある毎に殺し合った相手と二人きりなど危険極まりない。
「彼からコードを聞き出して、他の者が同道するのは?」
艦の責任者も懸念を表した。任務は二人一組が原則とはいえ、相手がスレインというのは色々な意味で賛同しかねる。
「……と、言っているけれど?」
対する渦中の二人は、特に気負った様子もなかった。
「あのシステムには幼い頃に一度、触ったきりだ。人に説明できるほど精通していない」
コードを伝えることは出来ても、それを打ち込むまでのプロセスは遠い記憶の彼方だ。通信で伝えるという手もあるが、この気流の乱れと落雷では電波が届くかも怪しい。不測の事態にも対応しづらいし、実機を前に記憶を思い起こしながら操作する方が確実だ。
「なら、決まりだ」
「あ、あたしも行く!」
身を乗り出した韻子には、車体が重くなるからと伊奈帆が断りを入れた。
「それより、隣の島の住人を避難させた方がいいでしょう」
徐々に範囲を広げている天災の影響が及ぶのも時間の問題だ。
沈黙すること暫し。ダルザナがゆっくりと頷いた。
「わかりました。許可しましょう。ひとまず隣接する島にデューカリオンを着陸させます。不見咲君、島内で物見高く見物しているだろう軍の連中に軍用ボートを用意するよう連絡を入れて下さい。二人を下ろした後、我々は住民の避難誘導を行います」
「艦長?!」
ユキと韻子が抗議の声を上げるのを制し、マグバレッジは決断を下した。現地はもうじき日没を迎える。急がねばならなかった。
先ほどから観察していたスレインは、こちらに対して警戒はしているものの敵愾心は抱いていない。協力することを約束してからは、噛みつくカームを軽く受け流しニーナの質問にも穏やかに答えていた。
丸腰であるスレインに対し、伊奈帆は銃を携帯している。いざとなれば対処することも可能だろう。
「今は、彼らに任せるしかありません」
「これ、着て」
伊奈帆はカームに頼んで持ってきてもらったフード付きのコートをスレインに投げ渡す。
青年は大人しく袖を通した。デューカリオンの降船口に足を掛ける前にフードを被り顔を隠す。
降り立った地で首を巡らせてみたが、海岸沿いに並ぶホテルのどれにアセイラムがいるのかは解らなかった。
4.
軍が用意したのは、エア・クッション型の揚陸艇だった。水陸両用だが屋根がないことに加え、悪天候に弱い。1台だけ車両を搭載できるスペースがあることから、接岸後は四輪駆動車に乗り換えることになった。
海も荒れ始めていたため操船を命じられた兵は渋っていたが、伊奈帆達を降ろした後、直ぐに戻らせる約束でなんとか説き伏せる。
デューカリオンのメンバーと、残った兵士達が市民の誘導を開始した。
目的の島までは約13km。そこからRドライブの搭載されたエンジンまでは5kmとちょっと。気流の乱れを避けつつ進んでも1時間とは掛からず、日の入り前には辿りつけると伊奈帆は試算した。
対岸に近づくにつれ、雹がぱらつき始める。用意してきた厚手の毛布を被ってなんとかやり過ごし、接岸と同時に四輪駆動車を発車させた。空気浮揚艇は慌てふためいて引き返していく。
助手席に乗り込みフードを外した青年の顔色は、益々悪くなっていた。気懸かりではあったが、何も云わずにハンドルを握る。
キュィンッと小さな音を立てて、アナリティカルエンジンが分析を始めた。
軍用車両である四輪駆動は窓ガラスが防弾仕様になっている。装甲も一般車両より厚いため、雹程度であれば防げた。無論、竜巻に巻き込まれたらひとたまりも無いわけだが、そこは伊奈帆の運転技術次第だ。
「少し、乱暴な運転になるけれど我慢して」
竜巻と雷の発生する大凡の場所は予測できても、完璧に避けきることは難しい。ハンドルを小刻みに捌きながら、伊奈帆は慎重に車を進めた。車体の屋根に雹が落下する度に大きな音が響く。
途中、ひやりとする思いをしながらもなんとか目的地へ到達した。
エンジンの入り口から最も近い位置に四輪駆動車を横付けする。
気流が安定する須臾を見計らい車体から飛び出した。雹だけは避けようがないので、腕を上げて頭を庇う。毛布は帰路につく兵のため、ホバークラフトに置いてきていた。
予め渡された予備キーで外壁扉のロックを外す。
研究者の推量通り、内部は落ち着いていた。
エンジンの外壁は上部が開放されており、見上げれば激しい風に砂埃が舞っていたが、雹が降り注ぐようなこともない。
スレインは迷いのない足取りで入り口からもっとも奥まった場所に設置された機械に歩み寄った。銀行のATMのような形をしたそれに指で触れると、画面に伊奈帆の見知らぬ言語が浮かび上がる。
「これ何語?」
「ラテン語だ。父は、エンジンシステムに使用する言語をその時々によって変えていた」
機密保持の建前半分、当人の趣味趣向半分。幼かったスレインを連れて地球の世界各地を巡り、多くの言語を習得したトロイヤード博士なればこそ有する能力だった。
なるほど。これは、説明を聞いただけでは操作は無理だな、と迷うことなく画面を送るスレインを眺めながら伊奈帆は考えた。
アナリティカルエンジンを駆使すれば翻訳しつつ作業することも出来なくはないが、長時間気の抜けない運転をした後では負担が大き過ぎる。
物珍しさに後ろから覗き込んでいた青年将校は、赤い文字列が流れていくのを捕らえた。
不意に上がるBEEP音。
驚きに視点を変えると、青年が苦々しげに画面を睨んでいる。
「コウモリ、どうかしたのか」
スレインは無言で首を横に振ったが、内面には焦りがあった。
入力コードが弾かれた。
使用言語はともかく、操作自体はそう煩雑なものではない。スレインはシステムの案内に従って指を進めていき、コードの入力画面までは簡単に到達することができていた。
だが、画面には無情にもエラーメッセージが映し出されている。
父が最期に携わった研究であり、姫への贈り物となるはずだったエンジンは、スレインにとっても特別な思い入れのあるものだった。停止コードを決めたのはスレインだ。誰よりも優しく清らかに育った火星の皇女。その名前を間違えるはずもない。
もう一度、試してみたが結果は同じ。
誰かがコードを書き換えた……否、コードそのものが削除されている。
脳裏にクルーテオ卿一子の顔が浮かんだ。
クランカイン。父親によく似た選民意識の塊であった彼は、しかし騎士道精神を重んじた父親には似ず、詭計の類いが得意であったと記憶している。
未完成品であるエンジンを所望した地球側の思惑など、彼はとっくに見越していたのだろう。
これは、ヴァース帝国を謀ろうとした地球人に対する彼からの返礼だ。
さらに画面を手繰り、この暴走が偶発的なものではなくあらかじめ仕込まれていたこと、エンジン設備そのものが耐えきれなくなるまで止まらないように設定されていることを確認する。
「何があった?」
舌打ちするスレインを、伊奈帆が至近距離から覗き込んでいた。
「……っ、なんでもない」
思わず身を引き、スレインは片手で画面の電源を落とした。
「停止コードを別の単語と勘違いしていただけだ。リトライで無事受付されている。もうじき止まるはずだ」
駆動炉の様子を見てくるから、お前はここに居ろと言い置いて身を翻す。
スレインはこの時、青年将校の宿す義眼が嘘を見抜くことを知らなかった。
10メートルほど離れた場所にある、エンジンコアの前に立つ。駆動炉といっても、原子力や火力発電所のような接触に危険性のあるものではない。両手で抱えられる程度の大きさをした結晶体は白熱電球に相似していた。
確認するふりをして、その表面に手を置く。
外部で渦巻く風と低く唸り続ける機械音に紛れ、この距離なら聞かれることもないだろうと、小さな囁きを発した。
ゆっくりと、エンジンが駆動を止める。
辺りが闇に包まれた。
アルドノアを用いていない非常灯の仄かな灯りだけが、内部を照らした。
雷鳴が遠ざかり、風が凪いだ。空を覆っていた分厚い雲が徐々に薄くなっていく。
静寂の訪れた世界の中で、スレインの身体がふらりと傾いだ。
崩れ落ちる青年を、駆け寄った伊奈帆が抱き留める。かろうじて頭を打つことだけは回避した。
「ごめん、無理をさせた」
抱え起こした彼の全身は、かなり熱かった。額に浮かぶ玉のような汗と荒い呼吸。よく、ここまで持ったものだと感心する。
「問題ない……離せっ」
伊奈帆を押し返す腕には、ほとんど力が入っていなかった。青年将校は手早く上着を脱ぎ、彼の着用するコートの上から更にくるむように着せかける。そのまま立てた足の間に細い肢体を抱き込むと背中を壁に預けた。
「やめ……ろ……」
身じろぐスレインの動きを封じ、端末でデューカリオンに連絡を取る。嵐が収まったことで電波は問題なく繋がった。
簡単な報告を済ませ、通信を切る。
「デューカリオンは空軍基地のある島へ避難民を送り届けているところらしい。こちらへ迎えに来るまでには少し時間が掛かる。それまで我慢して」
開いた方の手を頬に滑らせ、自分の胸に頭をもたれかけさせるよう促した。
「……離、……っ」
「おとなしくしてて。ただでさえ脱獄犯なんだから、抵抗すると罪状が増えるよ」
軽い脱水症状を起こしているのかもしれない。けぶる瞳を手で覆い視界を塞ぐと、青年の身体から自然と力が抜けた。
「勝手に連れ出したくせに……何を、言っているんですか……。………」
掠れて消える語尾。
口調が変わったことに気づいた伊奈帆が手を外してそっと顔をのぞき込むと、スレインは堅く目を閉じて苦しげに胸を上下させていた。
眉間に寄った皺を宥めるように唇を寄せる。触れてみても反応はなかった。
そういえば、種子島で通信越しに初めて会話を交わした時は、やたらと丁寧な言葉遣いだったことを思い出す。
―――姫を利用するつもりですか?!
突然現れたスカイキャリア。搭乗者がセラムの無事を心から喜んでいることは、声の雰囲気から察せられた。火星の兵士である彼が危険を冒して軌道騎士に攻撃を仕掛けた意味を考えれば、彼女に害をなそうとする者ではないことぐらい自明の理であったのに。
あの時、敵と断じたりしていなければ。二人を引き合わせていれば、今、この状況は違ったものになっていただろう。
彼を撃ち落としてしまったのは、子供であった自分の独占欲。無垢な少女の笑顔が、自分以外に向けられるのを見たくなかっただけだ。
伊奈帆自身気づいていなかった淡い恋心。
月面基地でアナリティカルエンジンに指摘されるまで、はっきりとした自覚がなかったのだから、自分でもかなり鈍かったと思う。
その子供じみた嫉妬が、スレインの人生を狂わせる一端になってしまった。
地球と火星と。数奇な人生を歩んできた青年が、本当はどんな人物であるのかを伊奈帆はまだよく知らない。
幾度も対峙した。油断のならない相手であった。撃ち合って、殺し合って。
強い意志を宿した瞳で、驚くほど大胆な行動を取る彼の姿は、セラムの語った純朴な少年像とはかけ離れていた。
けれど、彼女の見ていたものさえ、彼の真実とはほど遠いところにあるのかもしれない。
レイリー散乱を知っていながら、彼女に嘘をついていた彼。
先ほど、停止コードを入力するときも嘘をついていた。
動きを止めたアルドノア。
スレインの申告通り停止コードが作用したのか、それ以外の要因があったのか。
自分の義眼は彼の声に虚偽が混じっていることには気づけても、真意までは読み取れなかった。
断定するには情報が少なすぎるし、彼のことを知らなさ過ぎる。
火星の覇権、引いては地球の侵略をも企てた世紀の大罪人というのは、連合軍と火星が自分たちに都合良く捏造した発表だ。
君はあの戦争に何を見ていた?
何を目指して、何処へ行こうとしていた?
「まあ、それはおいおい知っていけばいいのか」
今後の課題だな。
汗で額に張り付いてしまった白金の髪をそっと指で払いながら、空を見上げる。
いつの間にかすっかり日は落ち、頭上には満天の星が広がっていた。
「金髪碧眼コンプレックスでもあるのか、僕は……」
誰も聞いていないのを良いことに、とんでもないことを呟く。
一人目は、黄金の髪に南海色の瞳を持つ、明朗な笑顔の火星皇女。
地球の景色に心踊らせ、瞳を輝かせるセラムを眺めているのが好きだった。
彼女とどうこうなりたい、と考えたことはない。時至れば火星の姫君は自らの場所へと戻り、二度と会うことは適わないと分かっていた。
幸せになって欲しいと願っていたが、自分が幸せにしたいと考えていたわけではなかったのだ。
けれど今、腕の中に居る彼に対しては。
月光色の髪に流氷の碧青を映し取ったような瞳をした、元火星騎士の青年。
怒った顔は見た、憎しみの宿った瞳も、涙を流す姿も。皮肉げに歪んだ顔も、全てを諦めきった表情も知っている。
しかし、本当に笑った顔はまだ目にしていなかった。
もっと色々な姿を知りたいし、もっと近くに行きたい。彼の視界を自分だけで埋め尽くしてみたかったし、触れたいとも思う。スレインに対して抱いていた蟠りが、そういう方向性に落ち着いたのは果たしていつの頃からだったのか。
「一人目よりも二人目の方が、難易度が高そうなのは気のせいじゃないな。まあ、障害が多い方が燃えるというし、僕は難問を解くのを苦に思う性格じゃない。なんとかなるか」
大丈夫。今回はしっかり自覚している。
バックアップシステムに己の気持ちを代弁させるなどという、男としてアレな失態は二度と犯さない。
白い壁に囲まれた収容施設の部屋で行き詰まっていた彼と自分の関係は、今回、無理に連れ出したことで少しだけ変化した。
これをどう今後に繋げるかだ。
そんなことを考えている内に、うつらうつらしていたらしい。
複数の気配が近づいてきたのを感じ、伊奈帆は顔を上げた。
デューカリオンの到着だ。
エンジン外壁の扉を勢いよく開け放ち、一目散に駆け寄ってきたのは確かめるまでもなく伊奈帆の姉である。彼女の手にした懐中電灯の白い光が、二人を照らし出す。
「なお君!無事!?大丈夫なの!!?……て、え、えぇ?!」
飛び込んできたユキは、眼界に飛び込んできた光景に身を強張らせた。
「な、ななな、なお君?何してるの……?」
仇敵たる二人だ。殺し合いでもしていたらどうしようと、神経をすり減らし、ひたすらに弟の無事を祈って駆けつけてみたならば。
二人仲良く寄り添っているとか、何がどうしてそうなったの?!
「ユキ姉静かにして。すいません、耶賀頼先生に至急、医務室の準備をするよう伝えてください」
姉の後を追うようにやってきて同じように動きを止めていたマグバレッジに告げる。
「怪我をしたのですか?」
周囲が騒がしくなったにもかかわらず、スレインは目を覚まさない。
「いえ、元々、体調が良くなかったところを無理に連れ出しました」
頷いた艦長が、さらに背後から駆けつけてきた韻子に急ぎ指示を出した。
「担架の用意をした方がいいでしょうか」
「そうですね……」
伊奈帆は、青年をのぞき込んだ。今や顔は土気色だ。
「コウモリ、迎えが来た」
意識の有無を確かめるため、軽く肩を揺すった。重ねて呼びかける。
「コウモリ――……スレイン起きて」
初めて、彼の名前を口にした。
スレインの瞼が震える。
「申し、訳ありません……ク…ルー……オ郷。すぐに支度を……」
高熱で記憶が混乱しているのだろう伊奈帆だけに届いた小さな声は、それでも弱音を吐かなかった。いや、吐くことを許されなかったというのが正しいのか。
「わかった」
唇を引き結んだ若き将校は、自力で立ち上がろうと中腰となった青年を引き寄せる。
彼の肩に掛けていた上衣が、はらりと落ちた。
「え―――」
いきなり視界が高くなり、一気に意識が鮮明になるスレイン。
「なお君!?」
ユキとマグバレッジが息を呑んだ。
「ユキ姉、彼を医務室に連れて行くから。悪いけど僕の上着拾っておいて」
「な、何をしているんですか……じゃなかった、何をする!!」
子供のように抱き上げられたまま歩き出されスレインは慌てる。相手の肩に手を置いて身体を強引に離そうと試みたが、思うように力が入らず期待した効果は得られなかった。
「暴れないで、危ないから。それと、無理に口調を作っていると余計に体力を削がれるよ」
「―――っ、余計なお世話だ!」
停止したエンジンの外壁を抜ければ、デューカリオンはすぐ目の前―――に、見えるが、大きな機体であるため、実際はそれなりの距離がある。
いい歳した男が衆人環視の中、同世代の男の肩に担ぎ上げられて連れ歩かれるのは、かなり恥ずかしいものがあるというか、公開処刑に他ならないというか。
乗組員達のぽかんとした顔を見るのは何度目のことだろう。込み上げる羞恥に顔を伏せ、伊奈帆の肩を拳で叩いた。
「あー、もうっ!いいから、早く降ろして下さい!何の嫌がらせですか、これはっ!」
取り繕う余裕もなくなったスレインの口調は、素に戻っている。
「だから、暴れないでって。それと耳元と喚かないでくれるかな。煩い」
動じない伊奈帆に苛立ちが募った。
「貴方が僕を降ろせばいいだけです」
「却下」
スレインは予想以上に軽かった。これなら、問題なく医務室まで運んでいけるだろう。
「どうして?!」
「降ろしても君、歩けなさそうだから」
事実であるので、スレインはぐっと言葉に詰まった。
「……背中に吐いても知りませんよ」
「構わないよ。シャツは洗えばいいだけだ」
体調の悪い病人を抱えて歩いているのだから、そのぐらいは想定の内だ。
少し考えて付け加える。
「その後は、お姫様抱っこに変えるしかなくなるけど」
吐瀉物で汚れた背中に手を置くのは君も嫌だろうし。
「馬鹿ですか、貴方は……」
力の無い声で呟きを残し、青年の上体が崩れ落ちる。伊奈帆の肩に重みが掛かった。
「お疲れ様」
いい加減に限界だったのかと、ぐったりした身体を抱え直し軽く背中を叩く。
「病人に無理をさせるのは感心しないね」
ずっと二人のやり取りを見ていたのだろう、医務室の扉を開けて待っていた耶賀頼が苦笑を浮かべた。
「すいません、反応が楽しくてつい」
さりげなく酷いことを口にしながら、伊奈帆は用意されていたベッドへ抱えてきた身体を降ろす。
スレインは完全に意識を失っていた。
5.
その後、肺炎を起こしていたことが判明した為、耶賀頼の手によって急遽、設備の整った診療所へスレインを運び込む手筈が整えられた。
主要戦争犯罪人を連れ出すなど、軍法会議に掛けられてもおかしくはない行為だ。本来なら、早急に上層部に報告を行い収容施設へ戻さなければならないのであるが。
スレインは既に、この世にいないことになっている人間だ。彼の生存は軍でも一握りの者しか知らない極秘事項。死んだはずの人間を外に出したなどということを公に出来るはずもない。
収容施設の方はどう言い含めたものか知らないが、伊奈帆によって早くも箝口令が敷かれていた。
念のため責任者と連絡を取ると「これでしばらくノンビリ出来る」との不謹慎な回答。彼らに与えられているのは、辺鄙な土地で処刑されたはずの人間ひとりを監視――場合によっては始末をするだけの仕事だ。集められた職員達は、何らかの問題を抱えているか出世街道を大きく外れた人物のどちらかに属していた。職務態度といえば、酒やたばこ又は嗜好品の差し入れと引き替えに、二つ返事で軍規から外れた取引に応じる程度の勤労ぶりである。
どうせなら日本から離れた地にしましょう。戻ると煩そうですからねと、耶賀頼はどこか楽しげだ。
マグバレッジは毒を食らわば皿までと開き直りの境地で承認した。
大きな被害もなく事件が収まったのはスレインの功績による。体調不良の中、無理を押して協力してくれた青年を放り出すのも気が引けた。
入院中の監視役は当然のように伊奈帆が買って出た。そもそも彼を連れ出したのは自分だと姉の異議を封じる。表向きの名目は、溜まりに溜まった有休消化だ。
「なお君、なんだか楽しそうね」
届け出にせっせとサインする弟を、ユキは複雑そうな表情で眺めた。
「楽しいよ」
応じるその表情は、火星の皇女にカタクラフトの説明をしていた時に重なる。
「気に入ったの、あの子のこと」
愛する弟の態度に不安を感じて、姉は溜息をついた。
「面白い、とは思っている」
伊奈帆の交友関係は、さほど広くない。
心を許した友人達以外の他人に興味を傾けることなど、滅多にないくせに。
こんな時に限って。こんな相手に、その反応って!と頭を抱えたくなる。
なんだか厄介なことになりそうだった。