地球に未曾有の危機をもたらした、第一次惑星間戦争より15年。
長らく冷戦状態にあった地球と火星の関係は、2014年に大きな転換期を迎えることになる。
火星第一皇女アセイラム・ヴァース・アリューシア。
和平の使者として地上に降り立った彼女は弾道ミサイルの襲撃を受け、一時は生死不明とされた。
後にヴァース帝国反政府組織の奸計であったことが判明したこの事件は、軌道上に留まっていた火星騎士達を触発。報復措置として侵攻する彼等と迎え撃つ連合軍との間で戦端が開かれた。
辛くも生き延びた皇女は戦争を止めるべく連合軍に助力を求めたが、帝国反乱軍の猛攻に遭い重傷を負ってしまう。
そのまま敵に連れ去られ、長らく意識不明の状態にあった。
アルドノア継承者の身柄を確保した敵は、好機を逃さず偽物の皇女を仕立て上げ偽りの権力を振りかざして37家門の貴族を配下に置き戦域を拡大。
そのまま全面闘争に発展するかと思われたが、皇統派として知られるクルーテオ伯爵の継嗣、忠実なる騎士クランカインが囚われの姫君を窮地より救いだした。
勇敢なる若者の手厚い看護により目覚めた皇女は争いを終結へと導き。女王となって己を支え続けてくれた青年と結婚した。
創作物語のような結末。大団円の裏で、敵将だった男は地球軍の英雄に捕らわれ処刑に付されている。
皇女の暗殺を企て戦乱の世を望んだ者の名は、スレイン・トロイヤード。
刑の執行時、18歳になったばかりだった彼は、高名な学者であった父親に連れられて火星に渡った地球人だった。
その身に余る大きな野望は爵位を得るほどの厚遇に飽き足らず、尚も己の境涯に不満を持ち、皇族に怨恨を抱いたことで培ったとされている。
Wikipediaに書かれた内容を一読した伊奈帆は、タブレットの電源を落とした。
これが一般的な地球人の知る第二次惑星間戦争の全貌である。
1.
一時は危篤状態に陥ったスレインが目を覚ましたのは、3日も経った後でのことだった。
床を離れるまでに2日。院内を歩き回れるほど回復するのに2週間を要した。
R型ドライブの設置された太平洋諸島には、事件処理に携わる軍の関係者が大勢詰め掛けている。
万が一にも青年の正体が露見するのを防ぐため、療養場所には遠く離れた地が選ばれた。
彼のいた島国とは、騒動の起きた諸島を間に挟み正反対に位置する大陸の南西部。その内陸にある小さな街の外れに耶賀頼の恩師が経営する診療所はあった。
同州にある都市、ニューオリンズは長らく火星騎士の完全統治下に置かれていたが、この辺りは奇跡的に戦渦を被ることもなく地域全体がのんびりとした雰囲気を醸し出している。
規模の割に医療設備・セキュリティ共にしっかりしているのは、時折、政治家や軍の要人が身を隠したり療養したりする目的で使用する為とのことだった。
「うん、少し栄養状態が気になるけど、風邪はすっかり抜けているね」
診察を担当する耶賀頼が、聴診器から手を離す。
「お世話をおかけしました」
渡された薄手のシャツに袖を通し、スレインは軽く頭を下げた。
「体力が落ちているから、意識的に身体を動かすよう心掛けて」
軍医からは施設内における自由行動の許可が下りている。こんな所に処刑済みの重罪人が居るはずもないのだから、他人のそら似で通してしまいなさい、という剛胆な助言付きだった。
「まあ、元気になって良かったな」
二人のやり取りを医師のすぐ後ろで見守っていた鞠戸が、ぼそりと呟く。
「ありがとうございます」
彼もまた主要戦争犯罪人たる青年につけられた監視だった。
「診察は終わった?」
シャツのボタンが留め終るのを待ち侘びたタイミングで伊奈帆が顔をのぞかせる。
スレインの表情が渋面へと変じた。
「また、貴方ですか。毎日毎日、僕の所へ来るのは止めてください」
「君の監視が僕の役割だ」
元伯爵の腕を取り、立たせる青年将校。
「だからって話しかけてこなくても良いでしょう。監視なら離れたところでして下さい」
「それだと、ストーカーみたいじゃないか」
「鞠戸殿は、そうなさっているでしょう」
診察時に立ち会う以外、鞠戸は余り姿を見せない。
「あれは、サボっているだけだから」
不満そうではあるものの、スレインはさしたる抵抗もせず手を引かれるままについて行った。
「最初はどうなることかと案じましたが。あの二人、相性は悪くなさそうですね」
若者達の背中を見送り、耶賀頼が書き終わったカルテを机の上に置く。
「なあ、あいつの身体の傷って消せないのか?」
鞠戸は診察用の簡易ベッドに腰を下ろし、ポケットからウィスキーの小瓶を取り出した。
「皮膚移植等の整形手術をすればあるいは。自然治癒では無理ですね」
飲酒は程々に。と耶賀頼が釘を刺す。
スレインの身体には、いくつもの裂傷や打撲の痕が残っていた。
「それに、身体の傷が消えたところで、心の傷までは癒やせませんから」
貴方にも心当たりがあるでしょう。
「火星と地球の確執ってのは、俺等が思っている以上に深いんだろうな」
長い幽閉生活と病で痩せ細った身体を縦横に走る傷痕は、第一次惑星間戦争以降ヴァース帝国に大きな痼りを残す鞠戸をしてそう言わしめた。
「惨いことです。こういう例えはよくないのでしょうが、生まれたときからその境遇にあれば――それ以外の世界を知らなければ、まだ耐えようもあったでしょう。ですが、彼は地球での暮らしを知っており、相応の常識も備えていた」
己を取り巻く概況が、どれだけ不合理で劣悪なものなのか、スレインには理解出来てしまった。
「私なら、絶望で自ら命を絶ってしまっていたかもしれません」
身の置き所もなく、事態の改善を図る力もないのであれば。残された逃げ道はひとつしかない。永久に訪れることの無い救済を待ち続けていられるほど人は気丈にできてはいないのだ。
「医師の言葉とは思えないな」
「医師だからこそですよ。私には彼が火星でどんな扱いを受けていたのか、容易に推測がついてしまう。身体面に限ってだけ、ですけれどね」
強い子ですね、彼は。と、耶賀頼は憂色を浮かべた。
「それだけ歪な社会情勢の中にありながら、彼は誰かを恨んだり、その責任を他者に押しつけたりする様子もない」
そして、だからこそ。
「駄目な大人達に、責任の全てをおっかぶされてしまいましたとさ」
おどけた口調で後を引き取り、鞠戸は一気にボトルの中身を呷る。
「これから、どうなるんだろうなあいつ」
軍医は無言で頭を振った。
その答えを自分達は知っている。
「……明日の朝、迎えが来るそうだ。午前中に界塚准尉から連絡が入った」
事故の後処理に従事する為、デューカリオンはスレインを診療所に送り届けたその足で引き返していった。調査員の仕事が思いの外手間取り、避難勧告の解除が遅れていたが、本日やっと他の島に身を寄せていた住民達の帰宅が完了したそうだ。
「そうですか。分かりました」
これ以上、彼をここに引き留めては置けない。ここから逃がしてやる選択肢も選べない。
本当に駄目な大人だな、自分は―――。
医師は引き出しからグラスを一つ取り出すと、鞠戸から奪い取ったウイスキーボトルの中身を注いだ。
寝込んでいた間に、季節は本格的な冬を迎えていた。
年を跨げばスレインは19歳になる。
診療所は温暖湿潤気候に属する地域にあるが、実態は亜熱帯に近く冬でも穏やかな日が多かった。しかし、この季節ともなればやはり風は冷たい。薄いシャツ1枚で中庭に連れてこられたスレインは僅かに身を震わせた。ふわりと肩に掛かる暖かな感触。
「ごめん、先にこれを渡しておけば良かった」
伊奈帆が診察室へ寄る前に病室から持ってきたスレインの上着だ。
「無用の親切です。すぐ病室に戻ります」
家事全般が苦手だという姉が居るせいか、彼は面倒見がいい。なんだかんだと甲斐甲斐しく世話を焼いてきた。
「まあ、そう言わずに。お弁当も作ってきたし、昼食はここで取ろう」
お弁当を『作って』きた?
スレインは空恐ろしげな目で、青年将校を振り返った。
伊奈帆が作ったという弁当をこの寒空の下、食べろというのか。男二人で?
「自分で言うのもなんだけど、味は悪くないと思うよ」
言いたいことは伝わったのだろう、伊奈帆が微かに眉を下げた。これは苦笑している顔だな、とスレインは推し量る。
心情が表に上ることの少ない青年だが、感性が乏しいわけではない。むしろ他者より豊かな方だろうと、ここ数日過ごす内に気づいた。
顔色をうかがわねば生きていけない環境にいたスレインにとって、慣れてしまえば伊奈帆の気持ちは汲みやすい。
やたらと自分を構いたがるのだけは理解できなかったが、スレインの体調を悪化させたことに責任を憶えたのか、気紛れのどちらかに違いないと結論づけた。
こんな穏やかな生活は今だけだ。すぐにまた、あの無機質な部屋へと戻るのだから。
促され、渋々ながら中庭の一角にあるベンチに腰を落ち着ける。わざわざ近隣の民家から設備と道具を借りて作ったというお弁当には、バゲットに様々な具材を挟んだサンドイッチと色とりどりのフルーツがつめられていた。
勧められて手に取る。
口にした。
美味しい。何故だ。
「なんで、そんなに怪訝な顔をしているの。口に合わない?」
スレインは、つと目を逸らした。
「いえ、美味しいです……変なものが入っているのではないかと思われるぐらいには」
コイツは、一体どんな顔をしてウサギ林檎やタコさんウインナーを作ったのだろう。
「…………褒められている気がしないんだけど」
「褒めてますよ、一応」
キッチンで包丁片手に無表情で林檎の皮を剥いている軍神。
うん、素晴らしく微妙だ。
姿を鮮明に思い描けてしまった己の想像力が、ちょっとだけ恨めしかった。
ひとつひとつ内容の違うサンドイッチは、監獄や病院で出される色も味も薄い食事とは比べものにならないくらい味わい深い。
一通り摘まんだ後、渡された温いお茶に、ほっと息をつくスレインを伊奈帆がじっと見つめていた。
「何ですか?」
「いや、悪くないなと思って。大分、食べられるようになったね」
口元に珍しくはっきりとした笑みが浮かぶ。
少し照れくさくなったスレインは、空になったお弁当箱を満足げに片付ける青年から顔を背けた。
一本の木が目に留まる。軍医の恩師である院長が、故郷を懐かしんで植えたものだった。
すっかり葉を落とし、乾いた枝を伸ばすだけの幹に近づき掌で触れる。
「これは、桜ですか?」
近づく気配に振り返ることなく、細い枝の先を見上げた。
「ソメイヨシノだ。咲いているのを見たことは?」
「昔、父と日本を訪れた時に一度。満開の花木が立ち並ぶ様はとても幻想的でした」
舞い散る花弁の美しさに魅せられ、時を忘れて見上げた。いつか、姫にもお見せしたかった光景だ。
「春になったら見に行こうか」
お弁当を作って、二人で。
「何を馬鹿なことを……」
振り返ると息の掛かるほど近くに伊奈帆の顔がある。
反射的に引いた身は距離を取ることが適わず、後方の樹木に背を預けるだけの結果となった。
「君には望みがないのか?行きたい場所、見たいもの。したいことでも、欲しいものでも何でもいい」
両肩を掴まれ、さらに逃げ場がなくなる。
「そんな立場でないことは理解しています。離してください」
日本人はスキンシップが苦手な人種だと聞いていたのに伊奈帆は少し過剰気味だ。
強く胸を押し返す。望みなんて持ったところでしかたがない。
「スレイン」
名を、呼ばれた。
心の底までも見透かすような瞳でのぞき込まれると、意味も無く胸がざわめいて落ち着かない気持ちになる。ここ最近は、いつもそうだ。
幹と青年の間から抜け出し、強引に間隔を空ける。
「ああ、そうでした。あの収容施設の中なら貴方と頻繁に顔を合わせなくて済みます」
波立つ気持ちはいらない。静かに終わりの日を待っていたかった。
「一刻も早く戻り、貴方と離れること。それが今の僕の望みです」
「本気で思ってる?」
「思っています」
病室へ向かって歩を運ぶ。伊奈帆は追いかけてこなかった。
2.
翌朝。帰路につく敵国の戦争首謀者を乗せたデューカリオンのメンバーは、数日前とは別種の戸惑いを持って青年を迎え入れた。
無造作に伸びていた髪を切り揃え、濃紺のセーターとベージュのチノパンといった装いのスレインは、どこからどうみても第一級犯罪者には見えない。
「よろしくお願いします」
伊奈帆と鞠戸に挟まれ俯きがちに立つ彼の姿は、就職活動で会社見学に訪れた学生だと言われれば信じてしまいそうだった。青年が通信士を勤める祭陽とレーダー手である結城のひとつ年下だったことを、改めて了得する。
殺気立っていた気配が薄れたことで、一際目に留まる整った容姿。艦内の女性陣がざわつくのも頷けた。瞳を輝かせて素直な感想を口にしたのは、我らが操舵手だ。
「うわぁ、スレイン君可愛い!その服似合っているよ」
可愛いは違うんじゃなかろうか、と思ったが、女性には礼儀正しく常に褒め称えるように!という、クルーテオ伯爵の薫陶が染みついているスレインは、とりあえず礼を口にする。
「はぁ……ありがとうございます」
先日も、物怖じしない態度で話しかけてきた操舵手はニーナといったか。隣に立つ黒髪の少女が諫めるように服の裾を引っ張るが、気にした様子もない。
「あれ?口調変えたんだ。なんか、その方がらしい感じがするけど」
「こちらの方が使い慣れていますので。……いまさら取り繕っても仕方ありませんし」
苦々しげな顔で付け加える。
男に抱え上げられて、騒ぎ立てるなどという失態を犯したのは記憶に新しい。赤面ものの光景を思い出してしまったスレインは、いらぬ恥をかかされた相手を横目で睨んだ。
「始めから、そうしていれば良かったのに」
本日、初めて伊奈帆が口を開いた。昨日のやりとり以降、互いに少しだけ気まずい。
「敵と馴れ合う必要はないでしょう」
「敵、なんだ?」
感情の読めない瞳でじっと見返してくる青年将校に、スレインは目を眇めた。
「敵ですよ。貴方がそういった」
「根に持つね」
「事実ですから」
「あーお前さん達、その辺にしておけ」
面倒臭そうに、鞠戸が嘴を挟む。
「それで、艦長。この後は、まっすぐコイツを送り届けるってことでいいんだよな」
わかりきったことを敢えて聞いたのは、場の流れを変えるためだ。
肯定されて会話は終了のはずだったのだが、マグバレッジから戻ってきた答えは予想外のものだった。
「残念ながら。早急に片付けなければならない案件が持ち上がりました」
「おいおい」
ちょっと待て。
あっけにとられた大尉の隣で、伊奈帆とスレインも瞠目した。
「事情を話せない方面からの指令だった為、断り切れなかったんですよ」
ダルザナは中間管理職の悲哀を滲ませる。
「そんなわけで、スレイン・ザーツバルム・トロイヤード。申し訳ありませんが貴方にはあと1日~2日お付き合い願います」
彼女もずいぶんと危ない橋を渡っているのだな。
どの道、自分に選択権などないのでスレインはあっさり受け入れた。
「鞠戸大尉。界塚弟、あなた方にも任務に就いて頂きます。現場到着までは凡そ5時間、詳細は追って伝えます。時に界塚弟、左目の調子はいかがですか」
言われてみれば。彼の姉はアナリティカルエンジンの使用が脳に負担を掛けると常に弟の塩梅に気を揉んでいた。
「問題ありません」
視点を隣へ移せば、同じ高さに彼の左目があった。眼帯に覆われたそこには、今も義眼が装着されている。意識を向けられていることを覚ったのか、伊奈帆が顔を傾けた。互いを見合う。
「本当に大丈夫なの、なお君?まったく、私のかわいい弟を撃った屑野郎のせいで!」
文句のひとつも突きつけてやりたいと叫んで、眦を吊り上げるユキ。彼女に屑野郎呼ばわりされるのはこれで二度目だった。
「警告はしました。愚かにも銃を向けてきたので撃ちましたが。一度、こちらの心臓を止めて下さった相手に対しては、紳士的に対応した方です」
沢山の血で手を染めた。今更、誰に恨まれたところで動じることなどない。
「こちらが先に撃つつもりだった」
青年将校は目を伏せる。
これは嘘だ。彼の目にアナリティカルエンジンが搭載されていたら、見抜かれてしまっていただろう。
撃ち抜こうと銃を構えたまでは真実。でも、あの時の伊奈帆は……。
「それより、心臓が止まったって種子島の時でのこと?」
もしかして溺れていたの?
「貴方が空けた穴から浸水したんですよ」
クルーテオ卿の命により探しに来た火星兵に蘇生措置を受けなければ、スレインは依然として水中に沈んだままだったろう。もっとも、クルーテオ卿はスレインを助けに来たのではなく、尋問するために探していたのだが。
お陰であの後、手ひどい拷問を受ける羽目になった。オレンジ色に関わると碌なことが無い。
「それこそ君の自業自得だよ。銃口を僕に向けてきたんだから」
ノヴァスタリスクの時とは逆に、伊奈帆が先制したというだけの話だ。
「そうするよう挑発したのは、貴方だったと記憶していますが」
ユキは口を噤む。
戦時下、命のやり取りをしている最中の出来事であったのなら、軍人たる自分に糾弾する資格はない。片方の生はもう一方の死を意味する。もちろん心情的には弟に生きていて欲しいと願っているが、彼もまた軍属であることを選んだ人間なのだから。
スレインは泣くのを堪える面持ちのユキに、ふっと肩から力を抜いた。
「途中の演算式を表示させているから余計な負担が増えるのでは?結果だけ映したらいかがですか」
「………どうして分かったの?」
複数の結果が得られるものに対し、伊奈帆は途中過程を表示させるよう設定を組んでいる。判断材料のひとつとするためだ。
答えのみの表示に切り替えた方が遙かに負荷が少ないことはわかっていたのだが。
「話を聞いて思いましたが、貴方の左目の仕様は少しだけタルシスに通じるものがあります」
外囲及び敵の行動パターンから短期未来予測を行うタルシスの力。その本領は、一指弾にして膨大なデータを蓄積・解析する能力だ。
それは脳の未使用領域を使い、読み取った様々な情報から答えを導き出すというアナリティカルエンジンの在り方と似ていた。もちろんタルシスと生体分子デバイスでは、比較にならないほどデータの蓄積量や解析能力に差がある。さらに伊奈帆の左目の性能は彼自身が手を加えた拡張機能と、脳の演算能力に頼るところが大きかった。同じ物をつけたとしても、別の人間ではこうはいかなかっただろう。
「タルシスの以前の持ち主が貴方と同じでした」
クルーテオは全ての情報を己自身で掌握することに固執していた。扱うデータ量が増えればそれだけシステムに負担を増やし、タイムラグを生じさせる。伯爵の駆るタルシスは、それ故に機動性を欠いていた。
ザーツバルムが「クルーテオには過ぎた機体」と語っていた所以だ。
「人間というのは意識的、無意識下を問わず予測を立てる生き物です。システムが表示するパターンのいくつかは指摘されるまでもないことが多い。それらの演算式は流すだけ無駄ですし、己の考えの及ばなかった結果についても、採用する可能性のあるものだけをピックアップして、答えから逆算していった方が効率いいでしょう」
「少しでも必需性があれば、残してしまうのが人間の性だよ」
伊奈帆は、スレインの思い切りの良さに内心舌を巻いていた。
「タルシスのプログラミングは君が?」
「伯爵位を継いでからは」
それまではザーツバルム卿に指示されるまま部下に任せていたが、指向や癖を反映させるには己でカスタマイズした方が早い。
「参考になった。さっそく試してみたい。どうせなら君も手伝って」
がっしりと腕を掴まれ、スレインは慌てる。
「やるなら一人でやって下さい」
「タルシスのプログラミングには興味があるし、可能なら取り入れてみたいから」
自室に戻れば、アナリティカルエンジンのメンテナンスに使っていたノートパソコンが残してある。
「基本のフレームワークが違います。無茶言わないで下さい」
「それも含めて話を聞きたい。時間的余裕は充分ある」
軍用機に対する規則の適用は一律である。デューカリオンであっても平常運行時に極端な速度を出すことは禁じられていた。よって現在は、軍の指定した航空路をジェット戦闘機並の速度で移動している。
目的地まで5時間ということは緊急を要する事案ではないか、民間レベルの事件なのだろう。
せっかく火星の技術に触れる機会が訪れたのだ。有効に使いたい。
「君、僕の左目のこと気にしているみたいだし」
「気にしているのは貴方のことじゃなくて……っ!」
弟を心配する姉に対してだ。
「勝手に人を引っ張り回さないで下さいと何回、言えば分かるんですか」
抗議を無視し、伊奈帆は半ば引きずるように青年を連れて行く。鞠戸や耶賀頼にとってはすっかり見慣れた光景だ。
「あの二人って意外と仲良い?」
ニーナの声に、我に返った韻子とカームが慌てて二人の後を追う。
ライエだけが、思い詰めた相形で彼らの背中を睨んでいた。
「界塚弟とスレイン・トロイヤードはどうしていますか?」
ダルザナ・マグバレッジは執務室に入ってきた耶賀頼に開口一番尋ねた。
「食堂の隅で仲良くプログラミング談義をしていますよ。ああしていると、普通の学生がじゃれ合っているみたいですね」
会話内容は大概マニアックだったが。
取り掛かりは、嫌々付き合っていたスレインも地球の最新鋭技術に好奇心が勝ったのだろう、伊奈帆と肩を寄せ合って画面をのぞき込んでいた。
級友を心配して付いてきた韻子やカームともいつの間にか打ち解け、自然に溶け込んでいる。
「不思議ですね。何度も殺し合い宿敵ともいえる間柄なのに、当人達は遺恨をまったく残していない」
さばけているというか、割り切りが良すぎるというか。対話のみを聞くと殺伐としたものもあるが、両者の間に流れる空気に険悪さはなかった。
「彼の体調はすっかり良くなったのですか?」
耶賀頼を呼び出したのは、この2週間の報告を聞くためだ。一緒に来るはずだった鞠戸の姿がないことに苛立ちを覚えたが、まともな報告を彼に期待するのも馬鹿馬鹿しいので放っておくことにする。
「ええ、栄養状態が良くなかったことと体力が落ちてしまっていることから少し長引きましたけどね。大丈夫ですよ―――例の薬の後遺症も今のところ見受けられません」
風邪よりも恐らくそちらを気にして自分を呼んだのだろうとの耶賀頼の推測は正しかった。
「とりあえずは、良かったと言うべきなのでしょうね」
マグバレッジは息を吐いて背もたれに深く身体を預ける。
黙秘を通すスレインに業を煮やした連合軍が自白剤を用いることを決めたのは、彼が大気圏突入のダメージより癒えて間もない頃だった。
火星の内部事情もさることながら、なにより彼はアルドノア研究第一人者の息子だ。引き出せるだけの情報を引き出したい。自白剤は使い方によっては心身に大きな影響を及ぼすが、対象は既に死亡したことになっている人間だ。構うことはないだろうというのが幹部らの見識だった。
「あれは、酷い光景でした」
耶賀頼は医師として、ダルザナは彼を捉えた責任者として上層部の数名と共に立ち会った。暴れる青年を押さえつけて投与したのは真実の血清と呼ばれるもので、強い毒性と副作用を誘発する。
彼の様子に変化が生じたのは、薬の効き目を確認した取調官が幾つ目の質問をしたときだったか。
使用人時代について問われたのを弾みにフラッシュバックを起こし、青年は酷い恐慌状態に陥った。
混濁した意識の中、助けを求めて必死に伸ばされる手。声にならない悲鳴。
断片的な唸りから浮かび上がった彼の半生は、筆舌に尽くしがたいほど凄惨で。
自白剤投与に何度も立ち会い、慣れているはずの取調官でさえ毒気に当てられたようだった。
さしもの幹部連も恐れをなし、こみ上げる吐き気にハンカチで口を押さえる者さえ現れる始末。
一人の人間の尊厳が、徹底的に磨り潰されていく様を見た。
人は、人に対してどこまで残酷になれるのだろう。
火星が地球に抱く想いが集約された形がアレなのだとしたら、永久にわかり合えることなど無いのかもしれない。
「あの一件があったからこそ、彼はそれ以上の酷い追求を受けなくて済むようになったわけですが……怪我の功名とはとてもいえませんね」
軍医はやり場のない念いを笑みに乗せる。
救いを諦め腕を降ろした彼が意識を失うまでの間、医療従事者であるにも係わらず耶賀頼は立ち尽くすことしかできなかった。
この件については、伊奈帆にさえ伝えていない。
「合理的な裁定を下しただけでしょう。R型ドライブの時のような特殊な事情があるならともかく、彼の年齢からして父親の研究を引き継いだということは、まずあり得ません。ヴァース帝国に関する事柄ならば、他で捉えた生粋の火星人騎士達の方が遙かに有益な情報を握っています」
とはいえそれ以後、同じ年頃の子供を持つ幹部の数名が、甚く囚人に同情を寄せるようになったのは紛れもない事実だ。成人にも満たない少年に強力な薬を用いる輩ではあるが、人としての情まで失ってはいない。
「大佐は彼の処遇について、どのようにお考えですか」
耶賀頼が踏み込んだ質問を行った。彼が軍医としての職務範囲を逸脱することは希だ。それだけ自白剤投与を気に病んでいるのだろう。
其処はマグバレッジも同じである。
「界塚弟に腹案があるようです」
スレインの診療所滞在期間中に、青年将校からは何度か相談を受けている。
「乗っかってみるのも面白いかもしれないと考えています」
軍組織にありながらリベラルな考えを持つ女性は、組み合わせた指先に顎を乗せると意味ありげに微笑んだ。
3.
これはいいのだろうか?
暖かい食事の乗ったトレーをスレインはまじまじと見つめた。
伊奈帆に押し切られるまま、アナリティカルエンジンのプログラミング構築作業に付き合ってしまったが、本来は囚人の身の上なのだ。
通常なら収容施設に到着するまで独房にでも閉じ込めておくべき対象だというのに。
「どうしたの?スレイン君食べようよ」
正面に座るニーナの明るい笑顔から視線を移すと、伊奈帆、韻子、カームに加えライエと呼ばれていた少女が共に席に着いていた。
「もしかして嫌いなものがあるとか」
「それはニーナでしょ。ピーマン嫌い、いい加減直しなよ」
韻子の突っ込みに「だって美味しくないんだもん」と少女が泣き言を入れる。
「いえ、食べ物の嗜好は特にありません」
言える身分でもなかったし。そもそもスレインに限らず、火星の食糧事情は味の善し悪しに拘りを持てる余裕などなかった。
「本当に?」
どういうわけか伊奈帆に確認する韻子。
「嘘はついていないんじゃないかな。……君も早く食べたら。問題はないよ」
スレインが戸惑う理由に察しが付いている青年将校は、何でもないことのように食事を勧める。
「伊奈帆の左目って嘘が解るんだろ。すげぇよなあ!」
感心ひとしきりのカームに、元火星騎士は目を瞬いた。
「もしかして音紋解析機能ですか?何のために搭載しているのだろうと疑問でしたが……そうでしたか」
ひとつ頷いて、スレインはフォークを手に取る。話題はすぐに食事の感想へと変わっていったが、伊奈帆は青年の語尾が微妙に堅くなったのを敏感に感じ取っていた。
警戒を強められたな、カームの奴……。
スレインは火星での生活や戦時中のことに関しては黙秘を貫く。だから彼が嘘をつくのは、自分の気持ちや考えに対してだ。
青年は決して己の本心を明かそうとはしない。
診療所に身を寄せた2週間で多少打ち解けたものの、心は変わらず頑ななままだった。
どうしたら、もっと胸襟を開いてくれるだろう。
初めて顔を合わせたのは、ノヴォスタリスク攻防戦でのことだ。
『オレンジ色』と呼ばれて、相手がコウモリであることに気付いた。
振り向きざま引き金を引くつもりだった指から力が抜け落ちたのは、刹那で彼に魅せられたから。
憎しみも、怒りもない。深い絶望だけに彩られた面貌は胸をつくほどに哀れで清冽だった。
昼食後、任務内容を聞くため伊奈帆は再び艦の中枢へと足を向けた。
途中、さぼりたがる鞠戸を拾っていくことも忘れない。
「それで、何故、私までここに………」
いい加減、振り回され慣れてきたのか、スレインが控えめに声を上げた。
伊奈帆以外を相手にするとき、スレインの言葉遣いは多少改まったものになる。本人は、ほぼ無意識にやっているらしい。
「君を一人で行動させるわけにはいかないって前にも言った」
「……………そうでしたね」
がっくりと落とした肩に、諦めが滲んでいた。
「さて、今回の指令についてですが」
あっさり説明に入ったマグバレッジに、火星がらみの事変ではないのだなとスレインは胸を撫で下ろす。
「日本にある軍事工場のひとつが無法者に占拠されました。犯人の拿捕と人質の解放が我々の任務です」
人質の数は32人。犯行グループは6名と推測される。
「テロか……また厄介だな。人質の数も多い。首謀者の目星はついているんですかい?」
鞠戸が頭を掻き毟った。
セキュリティ対策が甘いんだよ、と悪態をついている。
「テロリストの仕業ではありません。併設された学校の生徒複数名による犯行です」
第一次惑星間戦争以来、日本の高等学校の授業には兵科教練が組み込まれるようになった。カタフラクトの操縦を必須科目とし、地域または学校毎に様々な教科が取り入れられている。
伊奈帆達の高校は選択科目として大型艦の操舵法及び周辺機材の取り扱いがあった。この学校は軍事工場に併設されているだけあって、兵器の設計と製作を学ぶことができる。
実戦に投入する兵器の製造作業員としても当てにされているため、当該高校の生徒は出入り自由となっていた。
「学生運動だと、それで犯行声明は?」
1970年代に最高潮の盛り上がりをみせた学生運動は、一時期下火になったものの2014年の戦役を経て再び活性化。その活動は高校生にまで広がり、様々な社会的・政治的不満を抱えた学生が、自らの主張を全世界へ向けて発信しようと暴挙に及ぶ事件は枚挙に暇が無い。
「いえ、そうではありません。これが送られてきた犯行声明文です」
ディスプレイに殴り書きされた日本語の文章が映し出された。直筆なのは正体を誤魔化す必要も無いためか。
目的は火星との和平反対か連合軍解体かと気負う大尉に、上官である女性は非常に気まずそうだった。
「…………。なんだ、コレ」
斜め読みした鞠戸は、二の句が継げずにいる。
伊奈帆は隣の青年の唇が小さく動いたのを認めた。
「テロの方がまだマシでした」
大佐が嘆く。
そこに書かれていたのは、綴りの間違った英単語混じりで『破壊の大王』がどうの『天使の羽ばたき』がどうのという詩とも散文ともつかないものだった。内容は全く理解できないというか、無いに等しい。
強いて上げるなら『崇高なMishton(恐らくMissionの間違い)の為、我々は数多のSaculifaice(Sacrificeか?)を乗り越え邁進する』云々……という下りが、人質の安全に対しての不安を孕ませるぐらいか。
ヘブンズ・フォール以降、移民が増えたことで都市部では英語によるコミュニケーションが不可欠となっていた。しかし、地方に行けば日常に多国語を肝要としない土地も多々存在する。犯行に及んだ若人は周囲より他言語を学ぶ機会を得られず、勉学すら疎かにしてきたようだ。そうして戦火に巻き込まれなかったという己の僥倖も理解せず、平和惚けから退屈凌ぎの妄想が膨らんでしまった。
ごく稀に出没する、青春が暴走しすぎて色々なものを拗らせてしまったタイプだ。
数年後、自己を振り返った時に頭を拳銃で吹き飛ばしたくなる衝動に駆られることは間違いない。
要は―――。
「愉快犯ですね」
端的な伊奈帆の指摘に、鞠戸は思わずしゃがみ込んだ。
「はぁああああ……勘弁してくれ。軍事工場乗っ取るなんて銃殺刑ものだぞ、おい」
軍事工場には完成された兵器も保管されている。持ちだした武器で応戦されれば、犯人側・突入側共に被害は甚大となる。
「工場内には数体のKG-7 アレイオンが稼働可能な状態で置かれていました。既に正面と裏口に1体ずつ見張りとして配置がなされています」
通例の立てこもり事件で駆り出される警察の特殊急襲部隊だけでは到底、手に負えない。
また、兵器開発に係わる学校が舞台となっていることから、アレイオンにどんなカスタマイズが施されているか知れたものではなく、地元分屯地の兵も二の足を踏んでいた。
「だから俺達にお呼びが掛かったのか」
「そして何よりも厄介なのは、犯行現場が日本だということです」
日本は未成年者の犯罪に甘いのだ。
成人に達していないというだけで、大抵の場合が罪一等を減じられ手厚い保護を受ける。
確たる思想も信念もなく遊び半分の犯行であるなら尚更、当人達の罪の意識も薄かった。ちょっと叱られるだけで済むと思っている。親もまた『子供のしたこと』と擁護に走りかねなかった。
やっていることは純然たるテロリズムであったとしても、だ。
「上から極力人命を尊重するようにとのお達しが出ています」
「つまり、人質だけでなく犯人も生かして捕らえろってか。ヘタな傷でも負わせたらマスコミと保護者に大騒ぎされるな」
これを機に、学生に兵器の製造・開発をさせている事への批判が高まっても困る。学校側としても軍側としてもなるべく穏便に納めたいところだった。
「いっそのこと放っておくってのはどうですかい。飽きたら勝手に止めるんじゃないですかね?」
そうしたいのは山々なのですが、と不見咲が発言する。
「人質になっている生徒達の中に持病を抱えた子がいます。手元にある薬は予備も入れて2日分。定期接種しないと命に関わるそうです」
手元の資料に目を落としながら、続けて現地の動勢を伝えた。
「地元の警察が必死の呼び掛けを行っていますが、応ずる様子はありません。分屯地の兵も短距離ミサイルを持ち出された時のことを考えて近隣住人を避難誘導するのが精一杯といった所です」
マグバレッジがスクリーンを現場周辺の地図へと変更する。
「工場は扇形に広がった山の裾野に建っています。裏口へ回るにはこの山を越えなければなりませんが、工場側の地盤は脆くカタフラクトでの侵入は推奨できません」
「だからといって、生身で赴いたら裏口を見張っているアレイオンの餌食になっちゃいますね」
韻子が頭を悩ませた。鞠戸も難しい顔で腕を組む。
「正面側は併設された学校の演習場なのか。これだけ視界が開けていると、勘付かれず近づくってのは不可能だな」
伊奈帆が不意に傍らに立つ青年の手首を掴んだ。
「1体だけなら、輸送機を使えば山を越えられます。彼なら操縦士に最適です」
また来たっ!
「ちょっと……伊奈帆!」
「お断りします」
韻子が制するより早くスレインはそれを振り解く。
いい加減巻き込まれるのには、うんざりしていた。
「友人として協力をお願いしているんだけど」
「貴方と友人になった覚えはありません。前回だけ、と言ったはずです」
「アルドノア・ドライブについては、そう聞いた」
スレインのこめかみに血管が浮き上がる。淡々と言ってのけた青年将校は、次に手を掬い取った。
『じゃあ、恋人としてとか?』
『頭沸いてるんですか?その思考回路なら、この犯行声明文を書いた連中ともさぞかし話が合うことでしょうよ』
伊奈帆が日本語で喋ったため、反射的に同じ言語を用いたスレインにニーナが驚きの声を上げる。
『スレイン君、日本語分かるの?』
任務中は英語が主体だが、日本の学生である伊奈帆達は元より、日本が所有する強襲揚陸艦の乗船員であったデューカリオンのメンバーは全員が日本語を嗜んだ。
『簡単な読み書きと日常会話に支障が出ない程度ですが。日本には父の仕事の関係で、滞在していたことがありますから』
やはり日本語で話しかけてきたニーナに、同国語で返す。
敬語もきちんと使えているし、接続詞に間違いも無い。十分すぎるレベルだろうと、伊奈帆の反対隣で聞いていた鞠戸は感心した。
「へぇー、どのぐらいの期間居たの?」
ニーナの言語が再び英語圏に戻る。彼女の両親は米国の出身だが、連合軍の規定により業務中の発音は英国寄りになっていた。
「3ヶ月ぐらいでしょうか」
「おい、まさか日常会話と読み書きをたった3ヶ月で習得したのか?!」
「………?3ヶ月もあれば充分では?」
不思議そうな顔をするスレインに、鞠戸は絶句した。
「この間、ラテン語も使っていたね。何カ国語が話せるの?」
興味を惹いたのか、伊奈帆も質問を被せてくる。
「欧州北部と国連公用語ぐらいですよ」
地球連合軍は国連主導の下に樹立された組織だ。ヘブンズ・フォールで各国の力関係に変動はあったものの、中枢を担うのは概ね国連の常任理事国だった。
使用される公用語もそのまま流用されており、英語、フランス語、ロシア語、中国語、スペイン語、アラビア語の6カ国語からなる。
「それは『ぐらい』とは表現しない」
欧州北部が彼の産まれた地域を指しているのなら、使用言語はスウェーデン、ノルウェー、デンマーク及びフィンランド辺りだ。あとは『日常会話に支障が無い』日本語と『画面の案内に従ったシステム操作が可能』なラテン語か。歩く翻訳機並のマルチリンガルぶりである。
「この艦に搭載されている輸送機はロシア製だ。最新式であるため翻訳が間に合わず説明書が読めないとカームが嘆いていたけど君なら差し支えないね。不見咲さん、整備室にマニュアルを持ってくるよう通信をお願いします」
頼まれるまま、副官は通信を入れている。切実に止めて欲しかった。
「そこに話を戻さないで頂けませんか」
根負けしたスレインが諾と頷くまで続けるつもりだろうか、彼は。
「それと、さっきセクトって呟いていたけど、それが日本でいうところのカルト――反社会的宗教団体のことを指しているなら、彼らは違うよ。日本のゲームは様々な宗教をごちゃ混ぜにしてそれらしくしたモノを題材として扱ったりする。明らかにその影響だ」
隣から漏れてきた単語から、伊奈帆は青年が犯行声明文を理解していることを知った。唐突に日本語での会話を試みたのは、そのためだ。
「そういうことですか。それならこの統一感のなさも頷けます」
扱う題材が宗教というデリケートな問題を内包するものであることから、ゲームにはあからさまに架空の設定だと解る嘘を混ぜ込んでいるのだろう。
「彼らが参考にしたと思われるソフトは僕も持っている。興味があるなら貸すけど。今回の報酬として」
またループした!?
「遠慮します!」
「では、私が報酬を用意しましょう」
途切れることのない応酬に終止符を打ったのは、マグバレッジだ。
「そこまでして私を参加させる切要はないはずですが」
スレインの瞳が警戒を帯びたものへと変わる。
「少しでも人手が欲しいというのが一番の理由ですが。……貴方には何らかの形で謝罪をせねばならないと考えていたのですよ」
廃人と化す可能性のあった薬の投与を止めることが出来なかったこと。
精神の均衡を崩した彼を放置し、眺めているだけだったこと。
そして、大人達の身勝手な都合で全ての責任を負わせ、正当な裁判を受ける権利さえ奪ってしまったことを。
「それが報酬の話に繋がると?」
何に対しての謝罪なのか気付いたスレインは、あの時は見苦しいものをお見せしました。と、表情を消して言い添えた。
「大人というのは、理由がないと行動できないものなのです」
自嘲したダルザナが、数枚の書類を差し出してくる。
手にしたスレインの動きが止まった。
「これ……は……」
彼女が用意したのは、月面基地で連合軍の捕虜となった火星人のリストだった。
氏名と年齢、簡単な外的特徴の記された紙の束を食い入るように見つめる。
同じ項目を繰り返し目と指で追った。
「ハークライト、バルークルス卿、生きて……いたのか……」
よかった……。
緩やかに吐き出された息と共に、口元が綻ぶ。
泣きそうな、祈るかのような、淡い情意に。その場に居た者達は声を失った。
束の間、目を閉じた青年がゆっくりと面を上げる。
そこには、これまでに無い強い光が宿っていた。
「彼らの待遇改善は望めますか?」
「私の権限の及ぶ範囲であれば。たいしたことは出来ませんが」
食事を一品増やしたり、自由時間を心持ち増やしたりするぐらいが精々だ。
「構いません。感謝します」
スレインの顔が輝く。初めて目にする笑顔とは対照的に、伊奈帆の機嫌は降下していた。
他者の無事は喜び、待遇の改善を願ったりするくせに。
己のことは、何ひとつ要求しない。
スレインが押し黙った青年将校に気が付いたとき、カームが青いファイルに綴られたマニュアルを片手にブリッジへ顔を出した。
「伊奈帆!言われたとおりマニュアル持ってきたぞ」
衆目が彼に集まる。
「貸して下さい」
交渉は成立した。俄然やる気の出たスレインはファイルを受け取ると、ぱらぱらと捲り出す。
「助かったよカーム。ファイルは後で整備室の方へ返しておく」
「おう、そうしてくれ」
整備士と会話する伊奈帆の態度は至って普通だ。
怒っているように感じたのだが気の回し過ぎしだったかと、終わりまでページを送ったスレインは静かにファイルを閉じる。
「ありがとうございました。これ、お返しします」
「……へ?!」
「読み終わりましたので」
カームが手に戻されたマニュアルとスレインを交互に見た。
「読み終わったって、コレをか?!」
てっきり、ページ数でも確認しているのかと思えば。
「はい。地球製の輸送機を扱ったことはありませんが、基本操作はスカイキャリアと大差ないようですし、これなら問題なさそうです」
「速読?いくつかの手法があるけど、君はどういったやり方で?」
速読は全体像の把握には使えても、専門書系の内容理解には向いていない。伊奈帆も驚いていた。
「僕は映像として記憶する方法を取っています。それほどページ数もありませんし、この程度でしたら丸暗記も可能です」
スレインが口にしたのは中でも、最も個人の能力に依存する方法だった。
こいつ、伊奈帆と同じ万能型だ、と整備士は頭を抱えた。
頭の良い人間ばかりに囲まれていると自分が馬鹿に思えてくる。実際、カームの成績は下から数えた方が早いのだが、二人を基準と見做して比べられることだけは勘弁して欲しかった。
「凄いな、君は」
「速読なんて珍しくもないでしょう。ちょっとしたコツと訓練で出来るようになりますし。貴方ならその左目を使うだけでいい」
謙遜ではなく、本気でそう思い込んでいる。
自己評価がやたらと低いのは育った環境によるものか。
なにやら項垂れているカームが整備室へ戻るのを見送って、輸送機を加えた作戦の練り直しが行われた。
初手で正面に韻子とライエを配置し敵カットをおびき寄せる。ユキと鞠戸が装甲車で出撃し、全員が連携してこれを捕縛。
裏口を固めるカタフラクトを牽制するのは、輸送機で山を越えた伊奈帆の役割だ。
その間に、協力体制を敷いた特殊急襲部隊――通称SATが、人質を救出し隣接する校舎内へ避難させる。
生徒達の安全確保が終わった時、まだ敵が残っていれば反転攻勢し制圧。
犯人グループを地元警察に引き渡せば、任務は完了だ。
身を隠す場所がないのなら、いっそのこと正面突破してしまえとばかりに練られた計画は、作戦とも呼べないほど単純なものだった。
「なるべく多くの相手を正面に引きつけたいところね」
鞠戸と展開すべき陣形を確認しながら、ユキが口を開いた。
「残った奴らが裏口に回ったらやっかいだもの。なお君一人に、何体ものカットと応戦なんてさせられない」
「工場内部から狙撃される懸念は残るにしても、『何体も』は物理的にないよユキ姉」
山裾と工場の間は土砂崩れ防止用の高い金網で仕切られている。裏口からの距離は短く、カタフラクト2体が並べばそれだけで一杯になった。
輸送機には機銃砲が設置されているが、伊奈帆の足下ではSATが人質救出のために動く。生身の人間がいるところで高度を下げれば揚力に巻き込んでしまう為、サポートには入れなかった。
「どれだけの敵をおびき出せるか、俺たちの腕の見せ所だな」
心配性な姉を、鞠戸が宥めた。
「犯人が6名なら正面口と裏口に各1人、人質の見張りに2人は要するとして、後2体はこちら側に引っ張り出さないと駄目」
スレインの前では口を開かないライエも、この時ばかりは皆と同様に知恵を絞る。
「オレンジ色を使えばいい」
打開策を打ち出したのは、元火星騎士だった。
「え?!」
伊奈帆の顔が若干引き攣る。
「先の英雄、軍神自らが鎮圧に乗り出したと知れば、必ず食らい付いてきますよ」
診療所にいた間、スレインは幾度となく『惑星間戦争の英雄』としてマスメディアに露出する青年将校の姿を目にしていた。同じくらい自分の悪行三昧――全く身に覚えのないものも含む――が放映されているのも見たが。
「遊び半分で建物を占拠したり犯行声明を送りつけたりする輩なら、自己顕示欲の塊みたいなものでしょう。ネットや映像で自分達がどのように扱われているかチェックしているはずです」
「そこに星間戦争の英雄、界塚登場のニュースが流れれば……っ!いけるかもしれんな」
鞠戸が掌に拳を打ち付けた。普通は格上の相手が現れれば逃げ出すものだが、この手のタイプは得てして自分だけは死なないと思い込んでいる。脚光を浴びるチャンスを逃がしたりはしないはずだ。
「いや、それはちょっと……」
君だって火星の兵達に『白き守護神』とか呼ばれていたじゃないか、と言い掛けたがこの場では意味をなさない反論だった。
「なお君の配置を正面側に変更するの?」
「ユキ姉、やめて……」
ささやかな抗議は、きれいさっぱり無視される。
「操縦者は誰でも構いません。特徴のある外装を目にすれば、喜び勇んで飛び出してきますよ―――目の前を彷徨かれると無性に腹立たしい色ですし」
あ、やっぱりむかついてたんだ。
たはは、と韻子が乾いた笑声を上げた。当時、伊奈帆は練習機を使い続けることを『目印』と述べたが、多分に挑発を伴う行為であったことは疑うべくもない。
「ねえ、伊奈帆のこと憎んでる?」
際どい投げ掛けがするりと口を突いて出たのは、元火星騎士があまりにも穏やかに周囲に馴染んでいたためであろうか。
「憎む、ですか?」
スレインが小首を傾げた。思わぬことを尋ねられたという顔付き。
「そうですね、機体については大変目障り――失礼、不愉快な色だとは感じましたが」
お陰様でオレンジ色が大嫌いになりました、と付け足した。
当時、界塚伊奈帆という人間については、ついぞ理解する機会を得られなかった。エデルリッゾから聞いたフルネームと、警告色の機体が己の知る彼の全てだ。
命を救われてしまったことに対してだけは怒りを覚えたが、アセイラムの意向に従った行動だったと知れば、その感情も消え失せた。理由も分からず頻繁に尋ねてくる青年将校に苦手意識は宿しても、憎しみを味わったことはない。
「目障りより、大嫌いの方が酷いと思うよ」
割と傷ついた、と伊奈帆が呻いた。
「継続して嫌いですよ、今も。分かっていて威嚇していたくせに、なにを今更」
さらりと追い打ちを掛けているが、やっぱり悪い雰囲気は感じられない。韻子はほっとした。
敵同士であったとしても、啀み合うだけなのは悲しい。
「日本との時差は15時間。今から準備すれば、朝のニュースに間に合いますね」
マグバレッジが脱線しかけた話題を引き戻した。
「やってみる価値はあります。不見咲君は軍の広報に連絡を取ってください。物見高い野次馬が湧くことも考えられますから、地域職員には交通規制及び封鎖の依頼を。デューカリオンの到着予定時刻は現地時間の5:00。作戦決行は10:00とします。各自、準備を怠らないように」
副官が準備を進める間、出撃メンバーには待機命令が出された。
時差ぼけで操作技術が鈍っては話にならない。マグバレッジの解散宣言と共に、各自が持ち場に戻った。
スレインは伊奈帆に付き添われ、現地に到着するまでの時間を輸送機の計器点検や操作方法の確認に費やした。不特定多数との接触や長距離の移動は、先日まで病を得ていた青年の心身へ大きな負担を与える。全身に隠しきれない疲労の色を滲ませ始めたスレインに、青年将校は「そろそろ切り上げよう」と声を掛けた。
伊奈帆はスレインを連れて以前使っていた部屋に戻る。新たな部屋割りについては、輸送機の確認中に耶賀頼から連絡を受けていた。荷物をまとめて指定された場所へ移動する。
「ここは、客室に見えるのですが」
室内に通った火星騎士の青年は、きょとんとした。
「客室だからね」
伊奈帆はネクタイを緩め、二つあるベッドの内の片方に放つ。
「耶賀頼先生が病み上がりの君を独房に入れるのは医師として承服しかねると、艦長に掛け合ってくれたんだ。普通の部屋で君を一人にするわけにはいかないから、セキュリティの高いここで僕と一緒に過ごしてもらうのが妥当とされた。後、シャワールームがついているのが艦長室を除けば、ここしかないという理由もある」
「ああ、なるほど」
傷だらけの自分の身体は目にする者の気分を害する。カームや韻子達のような感受性の強い年齢の者なら殊更に。和平への歩みが進んでいる今、火星に対する不信感を募らせるのは得策に非ずと艦長達は評定したのだろう。
余談だが、シャワールームが設置されているもうひとつの部屋を使用するダルザナ・マグバレッジは、皆と同じく共用のシャワールームを使っている。
裸のつきあいは大切です。と明言する艦長は、実に男前で頼もしかった。
軽くシャワーを浴びて、お互いのベッドに横たわる。
伊奈帆に背を向けて毛布にくるまったスレインの寝息が乱れ始めたのは、部屋の明かりを落としてから、どれぐらいの沈黙が流れた後だろうか。
他者の居る気配に慣れない元火星騎士はなかなか寝付けず、浅い眠りが悪夢を招いたようだった。
知らない振りをすべきか悩んでいた伊奈帆は、魘されていた青年の上体が跳ね起きたのを機にベッドから抜け出す。
「眠れないの?」
近づく人影に身を硬くした青年が、小さく首を振った。
「問題ありません、煩くして申し訳ありませんでした」
寝ている間も付けたままのお守りを握りしめた手が、細かく震えている。
どう見ても、大丈夫な様子ではない。
伊奈帆はもう一歩近づくと、スレインの肩に手を置きベッドの奥へと押しやった。
「詰めて」
「は?……って、な、何して……?」
毛布をめくり、彼の隣へ潜り込む。
不審が抵抗に代わるより早く、華奢な身体を抱えて横たわった。
「心音を聞くとよく眠れるというし、僕も君の声で眠れないのは困るから」
困惑か驚愕か、全身を緊張させたままのスレインを抱きしめて目を瞑る。
指先に触れる、ふわふわとした髪の感触が心地好かった。
「生まれたての赤子じゃないんですから、そんなわけ……オレンジ色、聞いてますか?」
伊奈帆の腕から抜け出そうと身じろいでいた青年が動きを止め、こちらの様子を伺う気配が伝わる。
「え、もしかして、もう寝て…る?」
流石にそこまで寝付きは良くないが、言い争いを続けても不毛なだけだ。
ベッドを移動されてしまうかもしれないと懸念しつつ、伊奈帆は目を閉じ続けた。
スレインは寸刻、逡巡した気配を漂わせた後、ぽすんっとシーツの上に頭を戻す。
「変な奴」
零れ落ちた独白は普段の敬語とも伯爵の時とも違う、自然な響きを持っていた。
規則正しい鼓動と人肌に眠気を誘われたのは、スレインだけではなかったらしい。
途中から自身もしっかり眠ってしまった伊奈帆は、シェードの隙間から入る日差しに目を覚ました。時計の針は、アラームをセットした5分前を指している。
中途半端な時間に眠った割には、しっかりと休息が取れた。
腕の中の温もりに視線を落とす。
あどけない寝顔が、そこにはあった。
細く差し込む陽光を受け、白金の髪が淡く輝きを放っている。伊奈帆は暫し見惚れた。
先にアラームを止めておくべきだったと後悔したのは、きっかり5分後に鳴った電子音で彼が目を開けてしまった為だ。
「おはよう」
霞掛かった瞳を覗き込み挨拶する。
「……おはよう、ございます…」
緩慢な言承けは、寝起きでぼんやりしている為か。耶賀頼がスレインは血圧が少し低めだと言っていたから、朝は弱いのかも知れない。
無防備な表情に誘われ、髪にキスを落とす。
もう少し寝顔を堪能していたかったのだが、これはこれで悪くない。そう考えたのも束の間。
「…………?………っ!?!!」
はっと目を開けたスレインが、飛び起きて伊奈帆から距離を取った。
「ななな、何をするんですか?!」
動揺も露わに、青年将校が触れた箇所を片手で押さえる。
「何って朝の挨拶。目が覚めたのなら着替えて食堂に行こう。寝汗をかいたならシャワーを浴びる時間も少しならあるけど、どうする?」
スレインは何度か言葉を紡ぎかけ。結局は「シャワーを浴びてきます」とだけ告げて、小さなブースの中へ姿を消した。
日本人のスキンシップって一体……と、頭の中を疑問符で一杯にしながら。
4.
作戦は予定時刻に開始された。
正面口より柔軟な対応が求められる裏側は、やはり伊奈帆が担当することになり、皆に先んじて輸送機で出立している。
軍神のトレードマークとなっているオレンジ色の機体には、韻子が搭乗した。
ライエを従え校内の演習場に足を踏み入れる。
軍事工場を真正面に据えると、搬入口を潜り3体のアレイオンが姿を現した。スレインの読み通りだ。
「簡単に釣られすぎ。馬鹿みたい」
「そこは、作戦がうまくいったって喜ぶところでしょ」
久しぶりに乗る練習機の感触がうまく掴めず操作に苦慮しながら、韻子が友人の悪態を軽く窘める。
「じゃあ、始めよっか。鞠戸大尉、ユキさんお願いします。カーム!」
呼びかけに応じ、戦闘区域から少し離れたところで3発の信号弾を打ち上げたカームが、銃器を素早く持ち替えた。
韻子たちの元へ向けて加速する2台の装甲車を追いかけるように煙幕弾を射出する。
立て続けに発射された弾頭が敵カタフラクトの頭上で弾け、彼らの視界を覆い尽くした。
「よっしゃ!狙い通り!!」
整備士がガッツポーズを作る。先制攻撃を受けた彼らは、不憫なぐらい狼狽した。
特殊バリアで己の感覚もろとも閉ざしていたニロケラスとは異なる。視界が塞がれたのならレーダーを使えば良いだけなのだが、実戦経験のない少年達は意識の切り替えが追いつかなかった。
煙幕を払おうと両手をばたつかせる敵機の足下へ装甲車が接近する。砲台が天上へ向けられた。鞠戸とユキが撃ち上げたのは大量の投網だ。
超高分子量ポリエチレン繊維で織られた網がカタフラクトの足に絡みつき、自由を奪う。バランスを崩したアレイオンが次々と地面に倒れ伏した。仰臥した機体の上から、更に撃ち出した網を被せる。
全身を絡め取られたカタクラフトが地面で藻掻き、のたうつ様は中々にシュールだった。
演習場の入り口にバリケードを張った地元の機動隊員が見守る中、大胆に近づいたオレンジ色のカタフラクトが犯人達の手から武器をもぎ取る。
投網は丈夫に編まれているとはいえ、カタクラフトの力なら簡単に引き裂くことが可能だった。足場の悪い戦場もこなしてきた韻子にとっては、どうということもないものだ。
ライエは辛うじて転倒を免れた1体が引き金に手を掛けたまま武器を振り回し始めたのを認めて、ライフル型の銃器を構えた。正確な狙撃は、相手が乱射を始める前に腕の関節部位を撃ち抜く。
重心の変動により右腕の喪失を認知したアレイオンが硬直した。抵抗すれば、次は威嚇では済まないことを了したのだろう。ハッチを開けると真っ青な顔で両手を挙げ、降伏の意を示した。
戦闘開始から、15分と経っていない。
鮮やかな捕縛劇であった。
一方、伊奈帆のカタフラクトを乗せた輸送機は、大きく迂回して山の裏側へと回っていた。開始時刻に合わせて山頂付近へ到達するよう、速度を調整しながら飛行する。
離陸直後こそ少し不安定な運転をみせたスレインだったが、目標地点へ到達した折にはしっかりと乗りこなしていた。
昇降タイプの足場を有する火星機に対し、地球の機体は腹部に設置された手摺りにカタフラクト自身が片手で捕まる。運ぶ方、運ばれる方共に安定性を欠くのは論を待たなかった。最新式を謳われるFBL(Fly by light)システムを搭載しているが、直進飛行以外の制御には間に合わず、操縦者の技能が問われる。
火星騎士の称号は伊達では無いなと青年将校は讚称した。そういう彼も今回はいつもの使い慣れた機体ではなく、韻子のアレイオンを使用している。
「あまり高度を落とすと山中に潜伏する特殊部隊を揚力に巻き込んでしまいます。降下にはワイヤーを使って下さい」
工場と山を隔てる金網には人ひとり通れる程度の開き戸があった。夜の明けきらないうちから配置についたSATは、形ばかりに扉を封じる小さな南京鍵を壊して進入する手筈になっている。
「了解」
通信機を使った最低限のやり取りは、種子島での流れを彷彿とさせた。
「今度は海に落とさないで下さいよ」
あの時もワイヤーアンカーを使って機体から飛び降りている。同じ光景を描いたのだろう伊奈帆が、珍しく声に出して笑った。
「心配ないよ、帰りの予定もある」
そこなんだ。と思ったが、突っ込みを入れる暇も無く信号弾が上がる。
開戦の合図だ。
「行きます」
輸送機を上昇させる。一息に山を飛び越えると軍事工場の平らな屋上が眼下に広がった。
接近するより早く、アレイオンが手摺りに絡ませたワイヤーを伸張させる。裏口に近づくまでに飛び降りる準備を済ませなければならない。
伊奈帆は輸送機の前進する勢いに乗りワイヤーアンカーを外した。金網の上空を越えた巨体が両膝を折る。そのまま見張りの肩口に激突させると、衝撃に蹌踉めく敵機に跨がり組み伏せた。
アレイオン搭載のセンサーで素早く工場内をスキャンする。熱源反応無し。どうやら内側から銃火器で狙われる心配はなさそうだ。
韻子達がうまく残りの敵カットをおびき出してくれたらしい。
『人質の救出をお願いします』
拡声器で要請を受けたSATが突入を開始する。
青年将校が搭乗者の投降を促す時分には避難誘導が始まっていた。専門職は手際がいい。
人質を監視していた犯人グループの仲間がひとり、後ろ手に手錠を掛けられ拘引されていった。
上空をゆっくりと旋回していたスレインは、行儀良く並んだ生徒の列が校舎に吸い込まれていくのを見守る。
側面のレーダーに微かなノイズが混じったのは、敵機の搭乗者がハッチから這い出してきた時である。
「オレンジ色、山側です!」
目聡く観取した青年が、共通回線に向かって叫ぶ。
伊奈帆は反射的にスタビライザーを盾として山側へ構えた。耳を劈く金属音が上がる。
金網にいくつもの穴が開き、衝撃で工場の窓が砕け散った。
避難中の生徒達から甲高い悲鳴が湧く。耳を塞ぐよう指示する時間はなかった。何名かは鼓膜が破けてしまったかも知れない。
「75ミリハンドガン。グレネードランチャーじゃなくて良かった」
アレイオンはスレイプニールよりも装甲が厚かった。攻撃を弾き飛ばす特性を持つリアクティブアーマは周囲を爆風に巻き込んでしまうため使えないが、スタビライザーとカタフラクト本体で弾を受け止めるだけでも充分防壁の役割を果たせる。
『校舎に向かって走って。早く!それから君も。下手な行動は取らない方がいい』
見張り役の少年が、隙を突いて操縦席へ戻ろうとしていた。見咎めた伊奈帆は空いている方の手に持っていた格闘用ナイフを少年と敵アレイオンの間に突き立てる。
「ひっ?!」
大きくのけぞった少年が地面に腰を落とした。
SAT隊員が直ぐさま駆け寄り、些か乱暴に立ち上がらせると100m程離れた校舎へ引致する。
銃撃は途切れることなく続いていた。
生徒達に流れ弾が当たらないよう足場を変えつつ、アレイオンは山の斜面に探査機能を走らせる。映るものは何もなかった。
「電波ステルス機能搭載機か」
裏口の襲撃に備え、昨夜から潜んでいたのだろう。己が通う学校近くの山であるなら地盤の安定した箇所を予め探しておくこともできる。
「貴方に照準を合わせるため、レーダーで照射したのが徒となりましたね」
相手が僅かながらも電波を発したことで輸送機の逆探知に引っ掛かったのだ。伊奈帆の独り言を、回線を繋げたままのスレインが拾った。
凹凸が激しく所々松の木が生えている勾配は、肉眼での検知を困難にしている。アナリティカルエンジンで地盤の崩れやすいところを把捉しても、追いつく前に逃げられるのは必定。第一、伊奈帆がここを離れれば生徒達に被害が及んでしまう。校舎を狙わないとも限らない。
厄介な相手だった。そう―――地上にいる伊奈帆にとっては。
最後の生徒が校舎に吸い込まれていくのを確認し、輸送機が高度を下げた。
生身の人間は全て建造物の中に入った。巻き込む心配はもう無い。
伊奈帆は身を翻すと足下に倒れた敵機を踏み台に、脚部の安定翼を展開する。
緑褐色の機体が工場の屋上へ飛び上がるのを待たず、輸送機の機銃砲が火を噴いた。
狙った先は、最後の1体となったカタフラクトが身を潜めた岩場のすぐ上。
潜伏場所は空から充分視認可能な場所にあった。ひと度、知覚してしまえば見失うことはない。
地面を穿った弾丸が小規模な土砂崩れの呼び水となった。地響きが起こる。
雪崩れ落ちる土砂に巻き込まれた敵機が、工場裏口にあった猫の額ほどのスペースへと転がり落ちた。
大きく撓んだ金網に支えられてやっと動きが止まる。
相手の装甲に損傷はなかった。胸部より下が埋まってしまった為、外部の助けがない限りハッチを開くことは適わないが、搭乗者に然したる怪我はないだろう。
金網が凌いでくれたお陰で、工場にも土石による影響はない。
被害は銃弾の衝撃で窓ガラスが割れたことだけ。それも弾自体は伊奈帆が防ぎきったため、被弾したのは金網の部分のみだ。
『こちらマスタング0-0……いや、今は1-1か。作戦完了、これから帰投します』
通信を入れれば、いつもの通り姉から応答があった。
『こちらも無事終了よ。なんだか凄い地響きがしたけど大丈夫なの、なお君』
『少し山の斜面が崩れたけど問題ない。僕たちは先に戻っているから、後はよろしく』
韻子が通信に割り込んできた。
『こっちにこないの?マスコミの人たちが是非インタビューしたいって言ってるよ』
『任せるよ。スレインを人前に出すわけにはいかない』
正当な理由である。同じだけの比率でインタビューなど御免被りたいと考えていたことは、おくびにも出さなかった。
『そっか、そうよね。わかったわ、なお君。気をつけて戻ってね』
犯人の救助依頼を最後に行い、通話を終える。
軍としての仕事はここまでだ。後は地元消防署あたりの管轄だろう。
「救出作業に数時間はかかる。反省するには、いい時間だ」
電気系統がやられてしまったのか、ぴくりとも動かないカタフラクトを一瞥する。窒息の心配も無さそうだし、放置して差し支えないだろう。
銃口を天に向け引き金を引く。
種子島の時と同じシグナル。
スレインは一時収納していたバーを降ろすと、工場の屋上すれすれまで輸送機の高度を落とした。
いつもこうだった。
共闘していた時も。敵として対峙していた時も。
伝えずとも、互いが次に成す行動がわかっていた。
誰よりも警戒し、ある意味誰よりも信頼を抱いていた相手。
オレンジ色は嫌いだ。
理由もなく気持ちが乱れ、平静を失いそうになる。
けれど、いつも戦場で真っ先に探すのは、宇宙空間にも鮮やかなるその色。
あの戦争の中、心が躍ったことがあるとすれば。それはいつだって彼を正面に置いた時だったのだ。
カタフラクトの重みが加わったことを確認した元火星兵は、名残惜しむようにゆっくりと大空へ舞い上がった。
任務は終了した。今度こそ自分の場所へ戻らねばならない。
あの狭く閉ざされた空間へと。
5.
マグバレッジが帰艦するのを待ち、中枢へ集合する。
通称ブリッジと呼ばれるそこは、正式名称をCDC(Combat Direction Center)といい、戦闘指揮所とも訳された。指揮・発令から、艦を動かすためのシステムが集約された場所であり、船員でさえ立ち入り制限を受ける場所だ。
彼らは、元敵将を招き入れることに疑念を抱かないのだろうか、と今更ながらに惟う。
「任務は無事終了しました。各自、お疲れ様でした」
作戦に当たった者達をマグバレッジがねぎらった。
「貴方にも随分と助けられました」
スレインは軽い目礼のみ返す。
連合軍の制服に袖を通すことを躊躇った青年は薄青色のシャツの上にカーディガンを羽織り、ブルージーンズを穿いていた。
そういえば、と収容施設を出るときに着ていた服を診療所に置いてきてしまったことを思い出す。
まあ、戻れば替えはあるだろう。この場所からなら、さほど時間も掛かるまい。
「さて、今後の予定についてです。本来ならスレイン・ザーツバルム・トロイヤードを送り届けるという当初の目的に立ち返るべきなのですが、少々問題が発生しました」
「今度は何だってんだ!?」
スレインの気持ちを鞠戸が代弁した。
モバイルタブレットを取り出した伊奈帆が、モニタ画面を元火星騎士に提示する。
そこにあったのは、ゴシップ誌の特集記事であった。
文字を追ったスレインの顔が引き攣る。
【特報!!惑星間戦争の首謀者。世紀の犯罪人スレイン・ザーツバルム・トロイヤードが実は生きていた?!】
大きな見出しと共に掲載されているのは、収容施設の場所を示した地図や望遠カメラで撮影された外観写真。隣にはご丁寧に自分の写真まで並べられていた。
「軍所有の孤島だから一般人が上陸するのは難しいけれど、マスコミのヘリは競うように上空を行き交っているそうだ」
淡々と弁じる伊奈帆に半眼を向ける。
「これで、君の『一刻も早く戻りたい』という望みを叶えるわけにはいかなくなった」
「…………根に持ちましたね」
スレインの生存をマスコミが自力で察知することは不可能だ。となれば必然、情報をリークした誰かが存在することになる。
診療所で交わした会話を引き合いに出されたことで確信が強まった。
「軍法会議ものですよ」
「リーク元が判明したらね」
自信がおありのようで。
スレインは盛大に嘆息を漏らした。
「時折、酷く子供っぽいことをしますね貴方は。どうするつもりなんですか、これから」
「もっと怒るかと思っていた」
伊奈帆が少し意外だったという顔をする。
「だったらやらないでください。取り乱したところで状況は変わりませんから」
日本的に表するなら『まな板の上の鯉』である。
「君を外で自由にさせるわけにはいかない。施設へ戻すわけにもいかないとなると、ここにいてもらうしかない。デューカリオンはこれから当面の間、哨戒活動の任務に就く。ついでに君にも協力してもらえると助かる」
デューカリオンのメンバーは一旦、個別に配属されていた部署を離れることになる。
アルドノア・ドライブの騒動で一同が招集されたのは、その魁でもあった。
戦争が終わり、世情が少し落ち着いてきたことで、それまで埋もれていた問題が徐々に姿を現し始めている。
戦争被害による物資の不足と、大量に発生した難民による急激な治安の低下。
各地に根を下ろしたままの火星騎士残党への対策。
捕虜の扱いや、回収した軌道騎士カタフラクトの処遇を巡り、火星と地球のみならず連合国家間でも軋轢が生じ緊張感が高まっていた。
過激派テロは活動を再開し、一時停戦していた紛争地域もきな臭くなってきている。
多方面の問題に対し、柔軟に対応できる機動力と戦力を保持した安全対策本部の設置は軍の急務であった。
「俺は聞いてませんぜ、そんなこと」
「以前より要請はありましたが、決まったのはスレイン・トロイヤードが療養している期間中です。耶賀頼軍医と共に報告に訪れた時に説明するつもりでした。来なかった貴方が悪い」
鞠戸の抗議を、ダルザナが両断した。
つまり、他の乗員達は知っていたということだ。スレインがそこに混じることまで把握していたかどうかは別として。
「任務内容からして、火星と対立する機会が少なからず発生するのでは?その時、私が邪魔しないとも限りませんよ」
「もう一度、戦争を起こすつもり?」
「いいえ。その気はありません。貴方がたが信じるかどうかはわかりませんが」
あれは、結末の決まっていた戦争だった。
スレインが再び立ち上がることがあるとすれば、それは―――。
「だったら、それで十分」
伊奈帆は哨戒任務を受けるとき、スレインの身柄を引き取れるようマグバレッジを通じて連合軍高官と交渉している。
軍の力を持ってすれば記事になる前に差し止めることも可能だった。
しかし、民間に情報が漏洩してしまった事実は消せない。いずれはネットなどを通じて拡散される。所在が特定されていることから、どんな輩が現れるか解らず彼を収容施設内に留めておくのは危険であると主張した。
それならば直ぐさま刑の執行をと逸る意見は、Rドライブ事件の報告内容によって封じる。
スレインの態度に疑念を抱いた伊奈帆が、技術者にシステムプログラムの操作履歴確認依頼を出した所、明らかなる改竄の痕跡が発見された。
エンジンの暴走が故意だとすれば、それは火星側が連合の後ろ暗い思惑を感知していた証左に他ならない。アセイラムであればもっと直裁的な行動に訴えることから、仕組んだのは公爵であろうとの予測が立った。
陰湿な報復手段に出られたとはいえ彼が胸の内に治めている間は、地球側も抗議など入れられない。藪をつつけば蛇が出る身と、互いに口を噤んでいるしかなかった。
暫くの間は公爵及び女王の機嫌を損ねないよう立ち回ることこそ肝要。
特に女王には、アルドノア炉の設置を計画通り進めていくための協力を仰がなければならないのだ。
例えば、女王が自らの地位も顧みず生存を願った囚人の処遇に変更を加えた場合。己の嘆願を切り捨てられたと知れば、軽んじられていると受け取られても仕方が無い。それが一年近く放置されたままの対象であろうとも。関心があるかどうかは大した問題ではないのだ。
元敵将の生命をここで絶つのは拙策。
空の上にあるデューカリオンなら逃げ場もない。スレインを保護する場所として最適であると、彼等も理解したのだろう。実のところ、幹部の者達も彼という存在を扱いかね、持て余していた感がある。
常に独房に入れ施錠すること。24時間体勢で見張りを立てること。
何かあれば、即座に射殺すること。
その際、死体は速やかに始末し証跡を残さないこと。
上記の条件によって、許可が下りた。
聞くだけは聞いたが守るつもりなどさらさらないのは、艦長、部下共にコンセンサスを得ている。
あの収容施設にいても、スレインは長く生きられなかった。
伊奈帆はスレインを死なせたくない。アセイラムに頼まれたからではなく、己のエゴからだ。
未だ道筋が見えないのだとしても。
細い糸を縒り合わせるかのごとく、今はただ僅かな可能性に賭けるしかなかった。
無理矢理続けた物語の結末が何処へ向かうのか、伊奈帆達はまだ知らない。