Harmonious

 揚陸城の天井に拡がる蒼穹。
 時折、薄く佩かれた雲が流れ、数羽の白い鳥が紺碧の中をゆったりと旋回していく。

 アセイラムがこの城に連れてこられた当初、ここは青々とした木々と色鮮やかな花々に囲まれた美しい庭園だった。あれから一年。僅かばかりの間に半数以上の花が萎れ、覆い繁っていた緑は精彩を欠いた。
 枯れ果てた植物が抜き去られた跡の無機質な床面を、女王は気鬱な表情で見下ろす。
 アーキテクチャルマッピングの作り出す空だけがあの頃のまま、パターン化された画像を繰り返し流していた。
 管理を怠ったわけではない。定期的に水を与え、肥料を蒔き、室温を調節して。担当者はマニュアル通りよくやっていた。それは裏を返せば、型どおりの世話しか出来ないということ。土台、草木に触れたことのない火星人に手入れをしろと命ずる方が無理なのだ。ここはスレインがいてこそ輝いていた庭。
「陛下、そろそろお戻り下さい。お体に触ります」
 テラスのチェアに腰掛ける女王の背に声が掛かった。エデルリッゾの後任となった侍女は、ここの植物を嫌忌している。雑菌がつきそうで汚らしいというのが理由だった。
 蕾が綻ぶ度に歓声を上げ、一番にアセイラムに教えてくれた少女はもういない。急に実家に呼び戻されることになったのだとクランカイン―――クルーテオ公が教えてくれた。
「もう少し、ここに居てはいけませんか?」
「なりません」
 三人の子供を産み育てた経歴を買われた女性は、話し好きそうな外見に反して仕事中、余計なことを一切口にしない。
 慇懃に、有無を言わさぬ態度でアセイラムの腕を取った。
 自室へと誘われ、人工物に囲まれた回廊を歩く。
 そこかしこに置かれていたプランターや鉢植えも、いつの間にか姿を消していた。

 エデルリッゾがいた頃は。
 二人でよく城内探索を行った。格納庫の片隅にひっそりと咲く花や、使われていない客室の壁を這う蔓草を発見する度に、宝を捜し当てた冒険者のような心持ちになれる。写真に撮って持ち帰り報告すれば、優しい笑みを浮かべたスレインが名前や特徴を丁寧に解説してくれた。
 今は全てが片付けられて、味気ない空間が拡がるばかり。

 独りだと感じた。
 無性に寂しかった。

 人恋しい。話し相手がいない。
 クランカインはどうして私を一人にしておくの?
 エデルリッゾは、伊奈帆さんは。どうして会いに来てくれないの?
 スレイン。どうして貴方は、あんな惨たらしいことを平気で行える人間になってしまったのですか?
 種族が違っても、住む場所が異なっても。いつか分かり合える時はあると、共存できる日が来ると教えてくれたのは貴方だったのに。

 帝室は王婿の主導を受け、第二次惑星間戦争をスレイン一人の凶行として公式発表を行った。起因は地球出身者にあり、火星は陰謀に巻き込まれたのだと主張することで責任の一端を回避したのだ。多少の脚色はあるものの、スレインが軌道騎士達を牽引していたことは事実。
 アセイラムに関しては、いくつか流れていた噂の内『ザーツバルムが擁していたのは偽物で、本物は大怪我を負って意識が戻らぬまま囚われていたところを忠実な騎士に救出された』説を採用。得意の情報操作を駆使して世間に浸透させた。
 しかし、この脚本ではザーツバルムがアルドノア起動権を自在にしていた疎明が付かない。消息不明の異母妹は、アルドノア起動因子を狙う輩にとって垂涎の的。新たな戦争の起爆剤ともなりかねず、無闇に存在を明かすわけにはいかなかった。
 そこで一般人の認識はそのまま、関係者各位に『ザーツバルム滞在中に皇女は意識を取り戻していたが、怪我の後遺症で一時、記憶が混濁していた』ことと『正気に戻った際、外部に助けを求めてクランカインに救出された』ことを明示。後は脅迫説でも洗脳説でも、各々が好き勝手な憶測を立てるのに任せた。
 核心部分を曖昧にしたのは、後々、第二皇女の行方が判明した場合などに筋書きが齟齬するのを防ぐためだが、アセイラムの来し方についても大枠は実正に添ったもの。
 一人に罪過を集めることで多くの人の咎が軽減されるのなら、スレインの贖罪にも繋がるのではないか。そんな思念から、アセイラムも帝室と公爵の提案を受け容れた。
 猛反対したのは皇女付きだった小さな侍女のみ。あの時、彼女は初めてアセイラムに批難の眼差しを向けたのだ。
 だからだろうか。エデルリッゾが自分の元から去って行ってしまったのは。
 月面基地で別れて以来、伊奈帆とは言葉を交わしていない。
 スレインは平易に様子を窺えない場所にいた。再会は、彼が罪を償った何年も先の話となるのだろう。
 部屋の中で独りきり。両手で顔を覆う。
 涙が零れそうだった。



1.

「陛下、宜しいですか?」
 インターコムから控えめな音声が届く。アセイラムは、ぱっと顔を輝かせた。
 許しを与えると、程なくして開く扉。彼女は数週間ぶりに顔を見せた夫に飛びついた。
「クルーテオ公。酷いではありませんか、お見舞いにも来て下さらないなんて」
 ぎゅっと抱きつくと、大きな掌が背中を撫でてくれる。
「申し訳ありません。地球での輸出入品選別と価格調整に時間を取られてしまいました」
 仔細は報告書にて後ほど。
「お詫びに美味しいデザートを用意して参りました。陛下が前回の地球訪問時にお気に召されていた生クリームをふんだんに使ったものなのですが、食べられそうですか?」
 嬉しい、とアセイラムは無垢な笑みを浮かべた。
「最近、つわりも収まりましたし、楽しみです」
 公爵は愛おしみながら女王の腹部に手を当てる。
「また少し大きくなりましたね」
「もう6ヶ月ですもの。順調に育っています」
 アセイラムも上から手を添え、我が子の成長を言祝いだ。
 侍女の淹れたお茶を口に運び、他愛のない話に興じる。久方ぶりとなる夫婦の語らいは、穏やかに時を刻んでいった。


 それからの数日は、平穏と呼ぶに相応しいものだった。
 クランカインは多くの時間を女王の傍らで過ごし、地球各地より取り寄せた茶菓子で妻を喜ばせる。
 ガラスポットの中で美しい花の咲くお茶。可愛らしい形の焼き菓子。瑞々しいフルーツの乗ったタルトやふわふわのスポンジケーキ。
「毎日こんなに美味しいものばかり食べていたら太ってしまいそうです」
 幸せそうに口元を綻ばせる女王。
「陛下は二人分の栄養を取らねばならぬのですから、食べ過ぎるぐらいでよろしいのですよ。最近は食欲が落ちていたと聞き、案じておりました」
「申し訳ありません、クルーテオ公」
 アセイラムは目を伏せた。夫婦になって暫く経つが、二人が呼び名を改めることはない。
 公爵は女王を主として支え、敬い。女王は夫を臣下として頼みにしていた。

 彼に抱くのは親愛の情。

 伊奈帆の傍らで感じていた、胸の奥を擽る微熱やときめきはなかった。
 幼き頃、スレインと過ごす度に溢れ出ていた大好きの気持ちが身体中を満たすこともない。
 自分達の間に横たわるのは、互いを労り慈しみ合う落ち着いた絆だ。
「謝られる必要などありません、元気になられたのならなによりです」
 どこまでも優しい夫に、笑みを零す。
 体調も安定したし、近く公務に戻るつもりだと口に上らせかけた時だった。
「閣下、よろしいでしょうか?」
 慌ただしい足音と共に近侍が入室する。クランカインの耳元で何事かが囁かれた。
「わかった、すぐ行く」
「……どうかしましたか?」
 小声での伝達は殆どが聞き取れなかったが、ひとつの単語がアセイラムの鼓動を大きく跳ね上げる。

 タルシス―――。

 アルビールの戦いに前後して揚陸城へ移された女王は、夫が白い機体を駆る姿を実見していなかった。公爵の要請を受け自らアルドノアの初期化を行ったのだから、乗り手が替わったことは理解している。それでもなお網膜には、オレンジ色のカタフラクトと戦う『彼』の姿が焼き付いたままだった。
「大した用件ではありません。部下が業務上で犯したミスの確認を願い出てきました。少々席を外しますが、陛下はこのままおくつろぎ下さい」
 夫から滲み出る不穏な気配。
 足早に立ち去った背中を追うべく席を立つと、侍女が透かさず扉を塞いだ。
「公爵様は公務へ向かわれたのです。陛下はこちらでお待ちを」
「公務なら、私にも係わりあることではありませんか」
 恰幅の良い身体を揺らし、侍女が駄々っ子をあやすように首を振る。
「男の方には婦女子には解らないお仕事があるのですよ。我が儘を仰るものではありません」
 女性を。それも火星女王を見下した発言に、カッと血が上った。
「下がりなさい、無礼者!」
 一喝して侍女を退け、脇をすり抜ける。
 回廊に響いた靴音は、迷うことなく管制塔を目指していた。


 待ち望んでいたのは、こんな結末ではなかった。
 中央司令室のメインモニターを前に、クランカインは奥歯を軋ませる。
 弛めれば、迸る感情のまま部下達を罵ってしまいそうだった。
「スレイン・トロイヤード、界塚伊奈帆。やはり私の計画を邪魔するのは貴方達なのですね」

 地球の犬共を飼い慣らすツールとして囲い込みを進めていた第二皇女。
 彼女の身柄は確保でき次第、連合内の同志へ引き渡すことが定められていた。
 貴重な因子の転用さえ防げるのであれば、他は少女がどの様な扱いを受けようと知ったことではない。
 妾腹が産んだ異母妹など、純真なアセイラムの心を陰らせる存在でしかないのだから。
 そんな折、身辺を嗅ぎ回っていたマズゥールカの捕縛により、軍神と元伯爵の結びつきが明らかとなった。
 手元には二人を誘き出す餌として最適な娘。そこで一先ずレムリナを北米基地に送り、宿敵を迎え撃つ算段を付けた。

 罠は周到だった。

 地球の火星化計画賛同派は、自らを『革新派』と名乗っている。忌敵たる二人の青年と『保守派』の接触は、彼等によって上申された。主要戦争犯罪人の口車に乗せられた連中は、数日内に北米へ軍勢を差し向ける準備を進めているという。これも、そろそろ反対勢力に釘を刺しておきたかった王婿の思惑にぴたりと嵌まっていた。
 アクの強い軌道騎士達を纏め上げた第三勢力の総統と、数多の火星カタフラクトを能力の劣る地球の人型戦車で撃墜してみせた戦場の申し子。
 二人を蔑みながらも侮っていない公爵は、持てるカードを惜しみなく切った。
 主戦力に用意したカタフラクトは、能力の親和性を重視して選別した5体。
 城内には第二皇女の救出にスレイン・トロイヤードが現れることを確信して、2体を配置する。
 軌道上に待機させたステイギス隊には揚陸城内の鼠退治後、速やかなる撤退を指示しておいた。
 機体から公爵と繋がりを匂わせるものは除いたが、大量のアルドノア機運用に女王の関与を疑われても困る。敵味方共に相手の正体を知った上での茶番だが、クランカインは軍神と元伯爵の最期を広めるべく両惑星に戦闘を中継すると決めていた。形ばかりは取り繕っておかねばならない。
 また、ステイギス隊との合流前に中央管制室が制圧されるケースも睨み、許可なき者が管理システムに触れるとアルドノア・エンジンに取り付けた爆薬が点火する細工を施した。稼働中のアルドノアが破壊されたときに撒き散らす余波は広範囲に及ぶ。要塞内にいる人間など一溜まりもないだろう。
 その際はレムリナも喪われるが、時間と遺伝子バンクさえあれば代わりは用意できる。これで不倶戴天の相手を刈り取れるのなら安い投資だと割り切ることにした。

 理想的な布陣。万全な編制。

 念には念を入れ、丁寧に逃げ道を塞ぎ。
 どんなルートを辿ろうとも青年達の死は確定していた、筈だった。

「タルシスを残していったのは失敗だったか」
 再び元伯爵の手に渡った白い機体が、縦横無尽に画面を飛び回る姿に王婿は拳を握り固める。
 クランカインは父親に倣い、機体の各種設定値を常に最高レベルにおいていた。性能を絞ることは念頭にない。スレインの騎乗時に反応速度が上がるのは、演算プログラム精度の差であろうと決めつけていた。
 有能なシステム技術者を雇い入れるまではとディオスクリアに乗り換えたが、倉庫の肥やしにしておくだけなのも芸がない。
 内部要員に選出したニロケラスは、対人兵器として優秀だ。城内監視カメラと連動させれば探索機も不要。小回りの利く機体とならハイパフォーマンスが期待できる。
 タルシスは紫紺のカタフラクトと組ませるのに打って付けだった。
 広告塔に使っていた経緯からタルシスだけは王室との繋がりを誤魔化せないが、元より公爵は虐殺場とする城内の様子を電波に乗せるつもりはない。
 役目を果たしたら、軌道上でステイギス隊に回収させる段取りになっていた。
 己の勝利を信じていたからこそ、部下に起動権を譲り渡してきたというのに。

 よもや、あの男にフェルト一族の後見をも動かす交渉力があるとは思っていなかった。
 格納庫を任せたマリルシャン卿の麾下が、主の仇につくことなどあるまいと高を括っていた。

 前提条件が覆れば、導き出される答えも変わってくる。
 警備に回していた老人の部下より情報が漏れ、エンジンの仕掛けは発動前に解除された。
 手数が増えたことで難攻不落の要塞は、攻略可能なミッションと化す。

 女王も第二皇女も。兼ねては敵であった連合の若き将校でさえも。
 誰も彼もがスレイン・トロイヤードに心を砕き、力を貸し与えている。
 父の使用人に過ぎなかった劣等人種の何が、彼等の心を動かすのか。


 アセイラムは中央管制室の扉の脇にあるパネルにそっと手を翳した。
 入り口に背を向けたクランカインは、中央のスクリーンに見入っている。
 画面には火星軍と連合軍の交戦模様が映し出されていた。
 台風の目となっているのは、幾度となくアセイラムを助けてくれたオレンジ色の地球型カタフラクト。
 そうして彼に並び立つ、真白の機体。
「あれは伊奈帆さんとスレインなのですか?一体どういうことなのです、クルーテオ公」
 カツリと音を立て、細いヒールが揚陸城の硬質な床を踏み鳴らした。
 公爵は表情の読めない顔で振り返る。
「陛下。このような無粋ところにいらしてはお腹の子に触ります」
「誤魔化さないで下さい。何故、伊奈帆さんとスレインが火星カタフラクトと争っているのです」
 モニターに出ている火星機のアルドノアは、どれもアセイラムが初期化したものだ。軌道騎士の所有するカタフラクトはヴァース帝国における誉の証。次は平和の象徴にしましょうと言われたからこそ手を貸したのに。話が違うではないか。
 クランカインは身体ごと妻へ向き直ると、両肩に手を置いた。
「スレイン・トロイヤード」
 ひとつの名前を、一字一句区切るように告げて笑みを消す。
「彼は生きていたのですね」
「それは……」
 後ろめたさからアセイラムは顔を逸らした。
 彼の処刑は火星と地球の合意事項。女王はアルドノア一号炉の早急な設置とメンテナンス技術者の無償貸与を条件に、スレインを秘密裏に生かし保護してもらう密約を連合軍上層部と取り交わした。反対されることが分かっていたため、クランカイン達には告げていない。アルドノア炉の建設も国交回復への一歩だと我を通した。
 それが、彼女が幼い頃からの友人に差し出せる精一杯の温情だったのだ。
「誤解なさらないで下さい。責めているわけではありません。陛下におかれては熟慮された上でのことなのでしょう」
 公爵の口元に柔和な笑みが戻る。
「申し訳ありません。スレインを不幸の連鎖から救いたかったのです」
 アセイラムは隠していたことを素直に詫びた。
「なんとお優しい。ですが、レイレガリア皇帝陛下亡き今、ヴァース帝国を受け継ぐのは貴女様を置いて他にありません。情に捕らわれる余り、大局を見失う真似だけはなさらないで頂きたいのです」
「承知しています。スレインがまた何か不穏な動きをしていると?」
「スレイン・トロイヤードは連合軍の一部を抱き込み、我等に敵対行動を示しました。取り込まれた者の中には界塚伊奈帆も含まれる模様です」
「嘘です!」
 否定の言葉が口を衝いた。
「伊奈帆さんが、彼のお姉さんや大切なご友人を戦渦に巻き込む選択をするはずがありません」
「私は界塚伊奈帆という人物を存じません。ですが、彼がスレイン・トロイヤードと行動を共にし、レムリナ殿下を手中に収めたことまでは確認が取れています。捨て置くことは適いません」
 アセイラムは自らの両手をぎゅっと握り締める。
「レムリナが生きていたと?」
 異母妹の行方についても初耳だった。
「はい。市井にて不遇の暮らしをされていた所を見つけ出し、手厚く保護させて頂いたのですが……、陛下にお知らせするより先に、彼らの介入を受けました。力で従わされているのではと案じております」
「いいえ。レムリナはスレインのことを心から慕っておりました。無理強いなどせずとも自ら率先して協力することでしょう」
 アセイラムは何も知らされていなかった。
 レムリナの無事も、スレイン達とクランカインの間で戦端が切り開かれていたことも。
 公爵は一言の相談もなく行動を起こし、臣下は女王ではなくクランカインの命にこそ従う。

 独りだと感じた。
 空しさが心を掠めた。

 夫が。スレインほどではないにせよ、幼い頃から親しんだ相手が。得体の知れない人物と映る。
 足元が根底から崩れ去る音が聞こえた。



2.

 トロイヤード博士の論説が世に出てから凡そ3週間。
 マスコミの力も加わり、アルドノア有限説は世界中に流布された。
 ヴァース帝国関係者が受けた衝撃は大きく、火星化計画賛同派に属する者達の結束も揺らいでいる。ダルザナは来るべき決着の日に向け、世界各地を飛び回り味方勢力の拡大に奔走していた。
 艦長に従い連合軍の会合に加わることも多い伊奈帆と異なり、ザーツバルム陣営の面々は迂闊に外を出歩けない。
 元伯爵は状相に嘱目しながら、多くの時間を姫君と侍女の護衛に割いていた。
「スレイン様は、この戦いが終わったら、どうなさるおつもりなのですか」
 侍女の投げ掛けは、デューカリオンの狭い廊下を並んで歩く最中。彼女達の部屋に置く飲み物の補充に付き従っていた時のことだった。スレインが普段口にしている高級な茶葉は伊奈帆が自腹で購入したものだが、大手メーカーのティーバックやミネラルウォーターであれば配給室に申請を出せば手に入る。
「私は連合軍の虜囚です。処遇は彼らが決めるでしょう」
 問われ、スレインは始めて己の今後を意識した。
 民間レベルでは未だ都市伝説の域とはいえ、なんやかんやで自分の生存もかなり広まってしまっている。
 もと居た収容施設は、週刊誌に座標を特定されていた。戻される線は薄い。
 王婿に対当した咎で、刑の留保が解除されるといったあたりが相応か。となると一遍、世間を欺いているので次は公開処刑にでも附されるしかなかった。女性や幼子のトラウマになるような、グロテスクな方式だけは避けてもらえたらいいなと淡い希望を抱く。
 エデルリッゾがもじもじと指先を摺り合わせた。
「もし、ご自分で決めることができるとしたら……その、ヴァース帝国へ戻られるお気持ちはないのでしょうか?」
 思いもよらなかった選択肢にぽかんとなる。
 火星は戦争の首謀者たる青年を永久追放処分とし、墓標を立てることさえ拒否していた。
 但し、帝国ではアルドノア起動権の保有は爵位持ちであることと同義なので、スレインの騎士位は動かない。再会当初のマズゥールカや北米基地の研究員がスレインの敬称に『Sir』を用いたのは、そうした流れを踏まえてのことだ。
 尤も、マズゥールカはバルークルスに合わせたのか、目下は『トロイヤード卿(Load)』と呼んでいる。本来なら前者が正しく、いっそ呼び捨てでも構わないと告げたが、けじめだからと聞き入れてもらえなかった。
「父も、スレイン様の事は高く評価しています。これからのヴァースには貴方のような方こそ必要だと」
 元伯爵の思索が脱線している間にも、エデルリッゾは話を押し進める。
「ですから、もし、スレイン様さえよろしければ、わた、わたしと……っ!」
 スカートの裾を握り締め、勇気を振り絞った。
「私と一緒に、ヴァース帝国を打ち倒して新たな国の樹立を志すのはいかがかしら」
 車椅子の車輪が軋む音と共に現れた少女が、奪い去った告白を改竄する。
「…………レムリナ様。どうしてこちらに?」
 渾身のプロポーズを邪魔されたエデルリッゾは、恨みがましい気持ちを隠そうとしなかった。視線の先では、ハークライトを連れた第二皇女がしてやったりとほくそ笑んでいる。
「蒸留水の入ったボトルなどは重量もありますわ。お二方にまかせるより、昼食後に皆で取りに行った方が早いだろうという話になりましたの」
 そこで後から二人を追い掛けた。
 我ながら絶妙のタイミングでしたわね、と楽しそうなレムリナに侍女は頬を膨らませる。

 彼女もまた、エデルリッゾの大切な主だ。
 出逢った頃はどうしても『姫』と呼べず、意地悪な物言いに気圧されていたのに。
 言葉の裏に隠された孤独や優しさを感じ取れるようになり、彼女のスタンスに慣れる頃には仲良くなっていた。
 レムリナと築き上げたのは、忠誠と友情の狭間にある間柄。ひたむきに恭敬をもって接したアセイラムとは一線を画するものだった。
 だからじゃれ合いの喧嘩もするし、出鼻を挫かれれば拗ねたりだってする。恋敵として張り合うことだってしてしまうのだ。

「今し方の話ですが、想う人と手に手を取って逃避行も悪くありませんわよ、スレイン。少なくとも、断頭台の階段を上るよりはずっとマシな未来です」
「レムリナ様……」
 唆すような口調の影にあるひたむきな響きに、エデルリッゾは第二皇女もまた自分と同じ懊悩を抱えていたのだと知る。
 彼女達は、己に対する執着が薄いスレインの存在意義になりたかった。
 彼の選ぶ手ができれば自分あって欲しいと、願ってはいるけれど。
 それが、叶わなぬというのなら他の誰でも良い。彼の支えに、生きていく理由になって欲しかった。

 誰よりも辛い思いをした人だから、誰よりも倖せになって欲しい。

「連合内部も迷走している。当面はスレインに構う暇なんてないよ」
 同室者を昼食に誘いに来た伊奈帆は、廊下で繰り広げられている恋の鞘当てに溜息を吐いた。
 当の本人がいまいち気付いてないのが涙を誘う。
 敵人から労りの気配を感じ取った少女達は、当然のごとく感謝の念など持たなかった。
 エデルリッゾは毛を逆立てて青年将校を威嚇する。レムリナは不機嫌極まりない顔でそっぽを向いた。
「けど、君の処遇は早めに決めておこう」
 戦渦で何もかもが有耶無耶にできるうちに、と横暴なことを口にする。
「The win if government forces.(勝てば官軍)ですか?」
「どちらかというとAll is fair in love and war.(戦争と恋は全てを正当化する)の方」
 呆れた様子のスレインが問うと、あっさりと切り返された。
「地球の諺ですか。至言ですね」
 車椅子のサポートに立つハークライトが感心する。
「罪過が偏りすぎていたのは間違いないし、正すにも丁度良い機会だ」
「負けた方が『悪』となるのは既定事項ですよ」
 戦争に共通するルールは至ってシンプル。勝者が正義となることの一点のみだ。
「あの戦いの敗者たる第三勢力の最高責任者であった僕が、全ての責めを負うのは当たり前のことです」
 何処かの上司に恵まれないデューカリオン艦長が耳にすれば、感動に咽び泣きそうな口上である。
「ヴァース帝国の出生率が落ちているのも、オキアミの味が悪くなったのも君の所為だって?」
 青年将校が引き合いに出したのは、火星事情に通じているらしい中年男性がワイドショーで捲し立てていた内容だった。
 彼に言わせれば、火星の空が赤いのも月が欠けているのもスレインが悪いことになる。
 うん、確かにアレは笑ったが。
「極端な例を出さないで下さい」
 心情を隠すことなく表情を変えていくスレインに、エデルリッゾは怒らせていた肩から力を抜いた。
 伊奈帆に場の主導権を持って行かれたのはおもしろくないが、火星では常に息苦しそうだった彼の自然な所作を目にするのは純粋に嬉しい。
 レムリナも二人の語らいには茶々を入れず、代わりに背後に立つ男を振り仰いだ。
「ハークライト、貴方は参戦する気はありませんの?」
「私はスレイン様の忠実なる部下です。これまでもこれからも」
 彼の人生のパートナーが誰であろうと、何処へ行くことになろうと。ハークライトは今度こそ、主の傍を離れるつもりはない。
「アルドノア起動権を得た我等は、人生の幕が下りる瞬間まで騎士であることを求められます。ならばこの先、スレイン様と最も多くの時間を過ごすのは、家族でも友人でもありません。副官である私となるでしょう」
「言うようになりましたわね、貴方」
 昔は一縷の望みも口にしなかった男が。
「ザーツバルム卿とスレイン様に鍛えて頂きましたから」
 澄ました顔が憎らしい。
 嫌みのひとつも勘案していると、廊下の先から走ってくる少女と目が合った。
「レムリナさん。伊奈帆もここにいたんだ。スレイン君も皆も大変だよ!」
 血相を変えた幼馴染みに、青年将校が身体の向きを変える。
「韻子。どうかしたの?」
 一息に距離を縮めた少女は、声を張り上げ大きく手招きをした。
「早くこっちに来て。ヴァース帝国の公爵が声明発表やってる!」


 韻子に急かされ食堂に駆け込む。
 フロアでは乗組員が集まり、ディスプレーハンガーから吊された液晶を見上げていた。
 混み具合からいって、船内の大半がここにいる。姿のない一部の者―――艦長やニーナ等は、ブリッジの方で視聴しているのだろう。
 最前列ではバルークルスとマズゥールカが、渋い顔で金髪の貴公子によるスピーチに耳を傾けていた。
 スレイン達は人混みを掻き分けると、彼等に並ぶ。
《………の恵みと豊富な資源。それが、どれほどに尊いものなのか地球の方々には理解出来ないのでしょう》
 以前、スレインが軌道騎士を鼓舞した力強い演説とはまったくの別物。
 まるで幼子に言い含めるように。それこそが正義だと。唯一の真理だと刷り込むように。
 クランカインの弁舌は、真綿で首を絞めるような不気味さを秘めていた。
《真なる統治者の元、管理された世界こそが美しい未来を作る。女王アセイラムは神の力を呼び覚ます御方。彼女を於いて他に、双方を統べるに相応しい存在はありません》
「なんか、怪しい宗教みたい」
 ごく一般的な日本人の感性を持つ韻子が心証を述べる。青年将校に気付き場所を移動してきたカームとライエも同調した。
《アルドノアの威光を遍く人々に知らしめるため、裁きの鉄槌を下すことこそが己の使命であると、私は痛感致しました……》
「不毛の地となった地球に我が領地の民を移住させたところで、生活水準の改善など見込めません。火星領主としては、受け容れ難い政策です」
 戦略的に都市や一部の地域を焼くならまだしも、地球そのものにダメージを与えてしまっては意味がない。
「爆撃範囲は地球の3分の2ですか。大きく出ましたな。サテライトベルトの隕石をどれだけ使うことになるやら」
 マズゥールカとバルークルスも、それぞれの所感を洩らした。
《この告知より120時間後、天より審判の雨が降り注ぎます。新たに王の民となる皆さんの最初の試練です》
「スレイン。君には、こうなることがわかっていたのか?」
 ここは一旦退き、計画の練り直しを図るべきところだ。クランカインが勝負に打って出たことに、伊奈帆は驚いていた。
「論文の公表と同時に、ヴァース帝国内に公爵の目論見を剔抉しました」
 直接は動けずともハークライトと繋がりの深い下層市民やエデルリッゾの父親を通じれば、風評ぐらいはばら撒ける。
「火星では地球連合軍に身分を乗っ取られると知った騎士や、和平後の交易で一財産築こうと鼻息を荒くしていた古参議員が随分とご立腹されているそうですよ」
 派閥の垣根を越えて手を結び、公爵包囲網を形成する動きさえ出始めていた。
「この3週間は、王婿の謀計が火星に広まり関係者が阻止に蠢きだすまで。そして、進退の谷まった公爵が決断を下すまでの期間でもありました」
 後がないのは、こちらも同じ。時間など与えて、連合内賛同派との関係を修復強化されたら打つ手がなくなる。クランカインには何としても、この機に動いて貰わねばならなかった。
 バルークルスが顎を撫でながら、説明を付け足す。
「37家門でありながら会議派と通じるクルーテオ卿の息子を、不快に感じていた領主は多い。アセイラム姫殿下の追悼戦不参加や、実父が亡くなった時でさえ火星に引き籠もったままだった件を、臆病者と揶揄する民もいる。事あれば引きずり落とそうと、皆が機を窺っていたのだろうな」
 クランカインが王配となったことで最大勢力となった派閥も、元々は行き場のない良家の次男三男で構成されていた。当主及び嫡男は、公爵を忌避している。

 伊奈帆はマズゥールカより、クルーテオなる人物は地球人への蔑視傾向が強かったと聞いていた。それ故、スレインは手酷い扱いを受けていたのだとも。
 その息子が地球連合軍を積極的に起用していることを少し不思議に感じていたのだが。自身の信望が足らず、火星だけで必要人数を確保できなかったのが実情のようだ。

 画面の公爵は、ヴァース皇帝の『神の系譜』を蕩々と語っている。火星の歴史にも宗教観にも関心の無いカームは鼻に皺を寄せた。
「要は、もうすぐ地上に隕石を墜としてやるから首洗って待ってろってことだろ。120時間ってことは、後5日か。普通は対策を採らせないため24時間以内とかにするもんだけど、意外と猶予があるんだな」
「隕石爆撃は、調整に多大な時間を要しますので」
 ハークライトが地球にない技術の一端を解き明かす。
「無差別に墜とすなら話は別ですが、精度を求めるなら、地球の自転によるコリオリ効果や落下地点の天候を鑑みた測的は外せません」
 公爵の目的は第二のヘブンズ・フォールを巻き起こし、大陸を沈めることではなかった。
 自分達が暮らす区画や、食料・資材確保の為の土地は無傷のまま残し、平民生活の場も最低限生きていける程度にはダメージを抑えなければならない。
「それにしたって、照準設定が終わるギリギリになってから発表すれば良かったんじゃないのか?」
「賛同派と反対派は互いを監視し合っています。計画の発動前に公爵から通達を受けた者達が避難を開始すれば、直ぐに知れ渡る所となるでしょう。数日引っ張ったところで余り意味はないかと」
「アセイラム陛下は、どうされているのでしょうか」
 声言の中で王婿が繰り返し唱えている『陛下』という単語に、エデルリッゾは顔を曇らせた。彼女が公式の場に姿を現さなくなってから数ヶ月が過ぎている。
「公爵にお姉様を害する意図は感じられませんでした。子供のこともありますもの。心配はいりませんわ」
 第二皇女が手を伸ばし、侍女の頭を撫でた。
「こっちだって5日もありゃ色々な準備もできるだろ。ちゃっちゃと姫さん助けて、彼奴等を一網打尽にしてやろうぜ」
 沈んだ少女の気持ちを守り立てようとカームが拳を突き上げる。マズゥールカが協調した。
「連合の反対派も、公爵との直接対決を渋っている状況ではなくなった。妥当にいけば、パルナッソス基地で態勢を固めてから、総攻撃へ移る流れとなるだろうな」
 専用の射撃管制装置はマリネロスにある。ひと頃は月面にもっと大規模な設備があったものの、そちらはスレインが基地を放棄する際の爆発で大破していた。
「そう簡単にはいかないみたいよ」
 ライエが険しい声で、モニターを指し示す。
 映像は、軌道上に築かれた地球連合軍基地が黒煙を上げる構図に差し替わっていた。
「……ディオスクリア」
 ザーツバルムの関係者が、スレインの呟きにはっと顔を上げる。
 群がる連合機を羽虫のごとくあしらう火星カタフラクトは、漆黒の堂々した身躯をカメラに晒していた。
「では、公爵がタルシスより乗り換えた機体とは……」
 唸り声を発するザーツバルムの副官。
「月面基地を訪れたクランカインが、タルシスを目にした時の気持ちが解ってしまいました」
 スレインが苦笑いとも嘆息ともつかない息を吐き出した。
 義父の愛機を他者に―――それもクランカインごときに乗り回されるなど、許容できるはずもない。
「これ生放送なの?」
 崩落していく基地に、韻子が震える両手で口を覆った。
「いいえ、録画です。パルナッソス基地は一昨日のうちに撃滅されています」
 ここにいましたね、と不見咲を伴ったマグバレッジが伊奈帆達に声を掛ける。
 軍神が目を眇めた。続く言葉は推当するまでもない。
 デューカリオン艦長ダルザナ・マクバレッジの地道なロビー活動が実を結んだのだ。
「ヴァース帝国、王配クランカインに対する討伐命令が下されました」
 張りのある声が、食堂の壁に谺した。



3.

 公爵はアセイラムへの恭順を促す台詞で締め括り、公示を終えた。
 ダルザナと不見咲を加えた一行は、食堂の片隅に陣取る。
 聞かれて困る話もありませんからという艦長の言により、この場を使うことにしたのだ。
 船員達は、それぞれの持ち場へ戻っている。カームも仕事の進捗を気にする同僚に引きずられていった。
 興味は引かれるものの、物怖じしていた韻子は少し離れたところからライエと様子を窺う。気を遣ったスレインが二人の入るスペースを空けてくれた。
「基地の被害状況はどうなっていますか?」
 前置きなく本題に入る伊奈帆。
「ディオスクリア単騎による襲撃で、機能の89%が失われました。修繕するより一から作り直した方が速い様相です」
 不見咲が手元資料を読み上げる。まあ、とレムリナが頬に手を当てた。
「スレインに張り合っているつもりなのかしら」
「戦時中の厳戒態勢を敷いていたトライデントと、和平後に施設維持の人員を配しただけのパルナッソスでは比較対象になりませんな」
 スレインを騎士として認めることになった一件だけあって、バルークルスは王婿に辛口の評価を下す。
「公爵は頻繁にトライデント基地を訪れているらしく、部下より目撃情報が寄せられています。スレイン様の素晴らしい戦績を確認でもされていたのでしょうか」
「同じ地球軍の基地ならば、構造が似通う部分も多い。パルナッソス攻略前の下見だろうな」
 無意識に伯爵時代の言葉遣いでハークライトに応じたスレインは、不見咲の持つ報告書を注視した。
「賛同派の動きについてはいかがですか?」
「表立った妨害工作はありません。招集命令にも大人しく従い、配下の部隊を派遣してきています」
 パラパラと書類を捲る副官。ダルザナは明らかに作ったと分かる笑みを浮かべる。
「我等が上官、エーリス・ハッキネン中将も快く送り出してくれるそうです」
 韻子が頬を引き攣らせた。
「えぇ~、それって平気なんですか?!戦闘中、背後から味方に狙われたりなんてことは……」
「計画が計画だ。下士官クラスは上司の思惑なんて聞かされていない。寧ろ、通過儀礼として使われるのかも」
「伊奈帆?」
 どういうこと?
「地球連合軍が火星公爵の傘下に入るための前段階。一度、はっきりした形で敗北しておくことで、勝者に従うという名目が生まれる」
 逆に連合に軍配が上がった場合には、地球を護る為にきちんと貢献したのだという弁明材料にする。
 恐らく。彼等にとっては、どちらでも良いのだ。
「馬鹿にしてるわ」
 ライエが吐き捨てる。
「上司に恵まれぬのは何処も同じ、ですか」
 顔にこそ出さないが、マグバレッジも腹に据えかねていた。
「正直申しまして、これだけ身勝手な行動を取るクランカインに付和雷同する賛同派の気が知れませんわ」
「きっと彼等にとっては、公爵に対する不信よりも計画完遂後に得られる特典の方が重要なのですよ、レムリナ姫」
 元伯爵は新芦原市で、艦長と話し合ったときのことを思い起こす。

 他方の気持ちを無視した手法は両者に埋まらぬ溝を生じさせる。

 だが、賛同派にとってその溝とは、手にする利潤で埋めてしまえるものだったのだ。
「でも、スレイン様。アルドノアは有限、なのですよね?」
 エデルリッゾがおずおずと切り出す。
「先日も述べましたが、アルドノアは今日明日中に枯渇するものではありません。己が生きている間は保つのなら、それで良いと割り切ったのでは」
「束の間の享楽と引き替えに、母なる大地を汚そうとするなど度しがたい愚かさだ」
 マズゥールカは苛立ちを露わにした。
 ダルザナが居並ぶ顔を見渡す。
「重ねて、貴方達の意志を確認させて下さい。この戦、負ければ火星側は多大な代償を支払うことになります」
 第二次惑星間戦争で見逃された分も追求される蓋然性が高く、最悪、植民地化される怖れもあった。
 それでも、私達と一緒に闘いますか?
「この星の美しい自然や資源は後世に残していくべきものです」
「先頃の皇女のお言葉と被りますが、まずは目先の問題を片付けるのが先。後の事はその時に考えるより他ありませんな」
 即答するマズゥールカとバルークルス。
「わ、わたしも……公爵様は間違っていると……思い、ます」
 続くエデルリッゾ。レムリナは車椅子の上で悠然と胸を張った。
「皇族に復讐を誓った身としては、連中に一泡吹かせられるなら喜んで協力致しますわ」
「私はスレイン様の部下。主人に従います」
 ハークライトの回答を経て、耳目を集めた青年は、静かに半眼を伏せる。
「これが、私にとって陛下の……アセイラム姫様の騎士として動く最後の仕事となるでしょう」
 伊奈帆が目を見開いた。
「以降は、セラムさんの為に働かないってこと?」
「そういうわけではありませんが。もう全てを擲ってでも、というのはしないでしょうね」

 スレインと友人になってくれた人。仲間と認めてくれた人。主と慕ってくれる人。
 恋情を与えてくれた人。
 この先も人生が続くなら彼等と一緒に。
 一方的に護るのではなく、守られるのでもなく。支え合って生きてみたかった。

 アセイラムが大切な存在であることに変わりはなくとも。
 彼女を護る行為が縁を結んでしまった誰かの奇禍に繋がるのだとしたら。
 これまでのように躊躇わず進む道は選べなくなっていた。

「……うん。いいと思うよ」
 青年将校が口元を和らげる。
 ダルザナが脱線した話を引き戻した。
「心強い朋輩が得られたことに感謝を。会議を続けましょう。軌道上の拠点が使えなくなったことに対する代替案はありますか」
 伊奈帆の幼馴染みが首を傾げる。
「普通に地上から出向けばいいだけじゃないの?」
 格好の的にされますよ、とスレインが指摘した。
「地球機、火星機を問わず、大気圏を抜けるまでは直線的に移動するしかありませんから」
 大艦隊の整備と編成を行うことの出来る基地の数は限られる。偵察機を数体飛ばぜば特定は短簡だった。後は上空で狙い撃ちするだけの簡単なお仕事だ。
「元敵の総大将であった貴方に言われると洒落になりません」
 不見咲が顔色を無くす。艦長が腕を組んだ。
「かといって各国に分散すれば、合流前に個別撃破されるでしょう。困ったものです」
「揚陸城が使えればな。私の居城はあいにくと王室に差し押さえられているが」
 地球連合の捕虜となった際、財産を凍結されたバルークルスが隣を伺う。若き軌道騎士は首を振った。
「残念ながら。私の城にも公爵の手が入っています」
 全長約2kmからなる揚陸城は、空飛ぶ要塞の異名に相応しく大隊規模の軍備を運搬する能力と、些少の攻撃にはびくともしない堅牢さを兼ね備えている。
「利用できないモノに思いを馳せてもしかたありません。あるもので対応しなければ……あ!」
 胸の裡を掠める、雪に覆われた大地。
 スレインが顔を上げれば、同じ考えに至ったのだろう伊奈帆と視線がぶつかった。
「あれは、まだ使えますか?」
「連合軍の立ち入り検査以降、放置されたままだ」
 デューカリオンよろしく改造したところで、扱えなくては意味がない。連合軍内では伊奈帆が起動できなかったことから、使い道がないと判断されていた。
「レムリナ姫がいらっしゃれば初期化も容易。制御方法は僕達が知っています」
「何の話ですの?」
 引き合いに出された第二皇女が元伯爵を仰ぎ見る。
「義父が所有していた揚陸城のことです」
 アルドノア・ドライブはアセイラムに停止されたが、降下時点で機能に故障はなかった。
「ノヴォスタリスク……ですか?」
 複雑そうに、アセイラムが瀕死の重傷を負った土地の名を呟くエデルリッゾ。
「今は連合軍の管理下にあるんだよね。使用許可って取れるのかな?」
「無理ね」
 韻子の発問を、ライエがばっさりと切った。
「揚陸城なんて動かしたら、起動因子保持者がいますって吹聴しているのと同じ。こっちに火星のお姫様がいるって秘密なんでしょ?」
「公にしてしまえば良い。レムリナさんのことも―――スレインの生存も」
「リスクが高すぎませんか、界塚弟」
 マグバレッジが眉根を寄せる。
「ここまできたら黙っている方が、危険です」
「僕のことはともかく、レムリナ姫をこのままにはしておけません」
 皇族の一員であると認められれば帝国の庇護が得られる。安全性の高い本国の皇城でアセイラムと暮らすことだってできるのだ。
「それを踏まえた上で、『ヴァース帝国として』地球軍に共闘を申し込みます」
 連合とて正規の同盟を結んだ上での要請であるなら、邪険には扱えない。『味方』の戦力になることでもあるし、許可は下りるはずだ。
 これは、地球火星化計画は公爵の専横に過ぎず、ヴァースの総意ではないと明証するためにも必要な手順だった。
「地球の方々は、スレイン様のお話を聞いて下さるのでしょうか」
 不安を浮かべる侍女の勘違いを、スレインが正す。
「僕ではありません」
 この場で、ヴァース帝国の代表となれる人物はただ一人。公爵側の人間であったマズゥールカは言うに及ばず、元第三勢力の統率者であったスレインや副官のハークライト、側近と目されているバルークルスにその資格はなかった。
「レムリナ姫。ヴァース帝国第二皇女として、お力添え頂けませんでしょうか」
 帝室に恨みを抱く彼女に、皇族としての身状を求める。残酷な頼みであると知っていながら、それでも元伯爵はレムリナの前に膝を突いた。
「逆ですわ、スレイン」
 皇女が目を笑みの形に細める。

「私が貴方に助力をお願いする側なのです」

 月面基地では空疎なものでしかなかった自分達の関係。
 利用されるのでも構わない。ただ傍に在りたかっただけなのだと、解って欲しかったのに。
 最後まで気持ちが伝わらなかったのは、きっとこちらが受け身でしかなかった所為だ。
 だから、今度は己の意志で。自らの決めた行いで。レムリナが彼を振り回す番。

 公爵風情に、愛しい人の故郷を壊させたりはしない。

「スレイン・ザーツバルム・トロイヤード。レムリナ・ヴァース・エンヴァースが第二皇女の名において要請します。ヴァース帝国と地球の未来を繋ぐため、私たちに貴方の力をお貸し下さい」
 視線を定めて、手の甲を差し出す。
 虚を突かれたスレインは数度瞬きすると、恭しく伸ばされた指先を取った。


「どうしたの、ぼーっとして」
 どこか恍惚とした表情の友人をライエは訝る。
 ダルザナと不見咲はいくつかの打ち合わせを済ませた後、ヴァースとの共闘案を連合内部に諮るためブリッジへ引き返していった。
 火星陣営に青年将校を加えたメンバーは、当初の予定に従って昼食の支度を始めている。
 韻子だけが彼等を眺めたまま、ぼんやりと立ち尽くしていた。
「え、いや、Yes, your highness なんて台詞、現実で初めて聞いたなあって」
 まるでお伽噺の世界だ。
「言われたいの?」
「う、う~ん、機会があれば一回ぐらいは?」
 数ヶ月程前、エデルリッゾとスレインの会話を観覧していたブリッジの女性陣が、そっくりな遣り取りを行っていたことを少女達は知らなかった。
「絶対言わない以前に、あいつには似合わない」
 ライエが伊奈帆を顎で指し示す。
「え?!いやいや、伊奈帆に言って欲しいってことじゃなくって」
 胸中で結んだ姿は、テンプレート的な王子様像である。
「じゃあ、スレイン?」
「え、えぇ?!ち、違うよ」
 そう、相手は漫画や映画の登場人物みたいな金髪碧眼で洗練された所作をした……ってあれ?それってまんま、スレイン君のことじゃんっ!
 韻子はワタワタと手を振った。単純な己の思考回路に、頬が紅潮する。
「スレインは駄目」
 伊奈帆が即座に割って入った。
「い、伊奈帆?」
 今の、聞いていた?!
「心の狭い男ね」
「何とでも。とにかくスレインは駄目。これ以上、恋敵が増えると困る」
 吹き出す韻子。
「案外、余裕ないんだね」
「ないよ。多分一生、余裕なんて持てない」
「一生、かあ……」
 うん。だったら……仕方ないよね。
「情けないなあ。もっと頑張らないと。応援だけはしてあげるからさ!」
 涙が滲むのは、きっと笑い過ぎたせいだ。
 誤魔化すように指で目元を拭うと、ライエが優しく肩を叩いてくれた。
 まだ少し胸は痛むけれど。
 これから先も、伊奈帆と彼の大切な人が笑顔で日々を過ごせることを願う。
 大好きな人だから。大切な友人だから。
「早く戦争が終わって、皆が幸せになれると良いね」
 韻子は、幼馴染みへのエールと自身の気持ちの折り合いを優しい祈りへと変えた。
 気がつくと、その場にいた全員がこちらを凝視している。
「え、な、何?なにか変なこと言った?」
 静まりかえった場に、韻子が慌てふためいた。
 レムリナが胸に手を当てて首を振る。
「いいえ、私達が何のために闘うのか。思い出させて下さったことに感謝致しますわ」

 少女の想いは、平和を望む多くの人々の心の声だ。
 勝者がいれば敗者が出る。皆が利福を得られる未来など綺麗事に過ぎない。
 それでも最大多数を救うために。
 人の上に立つ地位を、立場を、系譜を。手にした者の義務として、努力を怠るわけにはいかなかった。

 己の責任を噛み締めたレムリナが、決然と顔を上げる。
「始めましょう、私達の戦いを」
 不幸の連鎖を断ち切るために。今度こそ、自分達の手で争いに終止符を打つのだ。


 公爵の布告から100時間が経とうとする頃。地球連合と第二皇女率いる帝国有志軍は進軍を開始した。
 ノヴォスタリスクにて沈黙を保っていた揚陸城が浮上を開始する。
 連合軍は皇女にアルドノア初期化後は地上基地内で待機するよう勧めたが、レムリナはこれを拒否。自身で陣頭指揮を執ることに拘った。
 半分はスレインの指示によるものだ。
 レムリナの正式な顔見せはこれから。差し当たってエデルリッゾの父親が後ろ盾に付くことで身分を取り繕っている。
 信頼関係の薄い陣営の中に一人残して行くよりは、前線で仲間達と共にある方が安全であるとの見地からだった。


 両惑星の間で約定書が交わされるのを待って、スレインはひとつの企てを開示した。
 第二皇女として旗揚げするレムリナと、苦しい立場に追いやられるアセイラム。
 戦いの最終章が、それぞれを旗頭としたヴァース帝国の内乱勃発であっては困る。姉妹双方の安全を確保するセーフティネットを掛けておきたかった。
 詳細を聴いたエデルリッゾが、震え上がる。
「神に対する冒涜です。本気なのですか、スレイン様?」
「剛胆な構想ですな」
 バルークルスも顔色を失っていた。
 場所はレムリナとエデルリッゾが寝起きする部屋。聴衆は部屋の主二人と護衛のバルークルスに伊奈帆を加えた4名だった。
 マズゥールカは女王静養先の特定調査に乗り出して不在。ハークライトは一足早く計略の下準備に入っている。
「実現可能なの、それ?」
 案としては悪くない、と伊奈帆は評定した。
「先の戦争中に仕込みだけはしてありました」
 元を辿れば、月面基地で眠っていたアセイラムの棄却を防ぐ為に用意した謀。使う機会はなかったものの、仕掛けはまだ生きていた。
「レムリナ姫のご助力があれば、犠牲も最小限に抑えられます」
 といっても、帝室侍従長以下、城の留守を預かっていた者達は馘首を免れない。
 それが職種的にか、身体的なものなのか、あるいは両方の意味合いを兼ねるのかは解らないが。
 彼等のことは昔から嫌いだったので丁度良い報復になります、と涼しい顔で宣うスレインに皇女が目をぱちくりとさせた。
「あら、そうなんですの?」
 青年が帝室について言及するのは初めてだ。
「驚くことでもないかと。無邪気に願っただけのアセイラム姫と違い、彼らは解った上で私をあの境遇に追いやったのですよ」
 いくらスレインが火星人達の境遇に同情を寄せているといっても、それと長年畜生扱いされたことへの恨みは別だ。
「そうでしたわね。……ふふ、なんだか安心しました」
 人である以上、憎悪や妬みといった負の感情はあって然るべき。それらに打ち克つ強さを持つ人だからこそ、レムリナは彼に惹かれた。
 伊奈帆は両の瞳でスレインをじっと見つめる。
 左目は青年のフォルマント周波数に異常を検知しなかった。
 スレインは嘘偽りなく帝室関係者を忌み嫌い、陥れることに躊躇いもない。
 それでも。見知った命が喪われれば、相手が誰であろうと心を痛める。彼はそういう人間だ。
 先の台詞は、復讐色を前面に押し出すことで、エデルリッゾやレムリナの罪悪感を和らげる効果を狙ったものだろう。

 嘘ではないが真実ともいえない言の葉の数々。

 逆上したライエに銃口を突きつけられたときもそうだった。
 あの時は、違和感を覚えただけだったが、今なら解る。
 忠実なる騎士が漏らした姫君を否定するような発言は、復讐心に凝り固まったライエの気持ちを解すための方便。
 事実ではあっても、青年の心情に即したものではなかったのだ。

 捉えどころがなく。掴み所がなく。本心を包み隠し。本音を明かすこともなく。
 長きに亘る不遇の日々をそうやって過ごすことで、彼は己の身と心を護ってきた。

 アナリティカルエンジンでは読み取れない心の裏側。
 硬い鎧で覆われた彼の本質にこそ触れていたいと、伊奈帆は思う。

「伊奈帆、どうかしましたか?」

 暫し回想に耽っていた青年将校を、スレインが覗き込んだ。
「なんでもない。セラムさんと直接話すのは3年ぶりだって考えていた」
 ノヴォスタリスクに乗り込んでから戦地に着くまでの合間。
 待機の時間をアナリティカルエンジンの調整に充てていた伊奈帆は、使い終わったノートパソコンの蓋を閉じる。
 勝手に入った空き室は、元は使用人部屋だったのか備え付けのベッドと机が配されているだけの小さな空間だ。
 作業に没頭する青年を、スレインは隣で見守っていた。

 ザーツバルムの揚陸城は警戒していたリュカオンの襲撃もなく、大気圏を抜けた。
 マリネロス基地を目指し出陣する、火星と地球の混成軍。
 彼等を送り出した要塞はデューカリオンだけを連れ、マリルシャン卿の持ち物であった居城へ向けて進路を取った。
 狙いは火星女王との接触。
 彼女の休養先は、事前にレムリナが公爵から言質を得ていた。
 マズゥールカの追跡調査によれば、クランカインの布達後も女王は城に留まり続けているらしい。
 夫婦の間に何らかの確執が生じたのは定かであった。
「3年?月面基地で会われているのでしょう?」
 あれは1年前のことですよ。
「……好きだよスレイン」
 少しだけ身を乗り出した伊奈帆が、青年の瞼の端に唇で触れた。
「脈絡が見えません」
 頬を薄紅色に染めた元伯爵は、縮められた距離の分だけ身体を引く。
「僕にとっては最重要項目だ」
 よし!過去の失態は取り戻せている。
 月面基地では意識を飛ばしたところを、バックアップシステムに乗っ取られた。
 自覚の薄かった気持ちを曖昧且つ微妙な表現で告げられたと知った時は、過去を塗り潰したくなったものだ。
「説明は理解できる形でして下さい。変なモノでも憑いているんじゃないですか?」
「今回は大丈夫。僕は君を自分の一部とは誤認してない」

 自身の一部のようなものだから。
 伊奈帆はユキに疑いを抱いたことはないし、遠く離れていても繋がっていると信じられた。
 元気でいてくれるなら、幸せになってくれるのなら。
 それを為す相手が自分でないことに一抹の寂しさはあっても、伊奈帆は心からの祝福を贈れる。
 アセイラムもまた、同様に。彼女達ほどではないが、韻子にも似たような感慨を持っていた。
 それは、身内に向ける情性だ。

 対して、スレインのことは。
 いつ離れたいと言い出さないか疑心暗鬼になっているし、距離を置いたら忘れ去られそうで怖い。
 自分以外の誰かの隣で倖せそうに笑う姿なんて、想像したくもなかった。
 恋情と執着。依存と独占欲。彼を知って始めて、伊奈帆は己にも人並みの感情があったのだと自覚した。

 自分とは違う存在だから。
 この先の日々もきっと、もどかしさは消えることがなく。焦燥に駆られ、束縛したい情意を抑えきれずに。
 せめても共に在れることを願って、愛しさを募らせていくのだろう。

「語る気がありませんね?もう、いいです」
 第三者、特にスレインには絶対に知られたくないアセイラムとの邂逅の顛末をはぐらかす青年に、元伯爵は長息を吐く。
 それよりも、と語調に変化を生じさせた。
「クランカインのことですが、……適うのであれば……」
「生かしたまま、捕らえたい?」
 スレインはこくりと頷く。
「彼は、僕と同じです。アセイラム陛下を想う余り暴走してしまった。けれども彼は僕と違い、これからの彼女にとって必要な人でもあります」
 なんといっても、産まれてくる子供の父親なのだ。
「そうだね。セラムさんを哀しませるのは本意では無いし、尽力してみようか」
「ありがとうございます伊奈帆」
 ノート型の端末を小脇に抱え、青年将校が立ち上がる。
 城内放送が、パイロット達にカタフラクトへの搭乗を促していた。
「行こうか、セラムさんに会いに」
 前哨戦が始まる。



4.

 互いの攻撃が届かぬ距離を置き、二つの揚陸城が睨み合う。
 ザーツバルムの要塞から、デューカリオンが姿を現した。
 元伯爵が幽閉されていた1年の間に火星の技術を受け、航空母艦の内部は大気圏外でも宇宙服が不要となっている。
 サヴァティエ反応を用いた酸素の循環装置と、重力制御。これらはアルドノア・ドライブ製カタフラクトの設計図公開を迫った地球に対し、ヴァース帝国側がお茶を濁す形で提供したものだ。
 地上と変わらぬ制服姿でブリッジから号令を発した艦長に従い、軍艦のカタパルトモジュールが戦闘形態へ移行する。
 コンテナに収容された人型戦車が回転駆動リングを伝い、機体を旋回させながら戦闘区域へ躍り出た。
 遠心力を利用して散開するこの出撃方式は、ワイヤーを放すタイミングと駆体制御により、動力を節約しつつカタフラクトを狙った場所へ移動させる。目が回ることもあり慣れない内は中々思い通りの場所へ出られないものなのだが、流石というべきかタルシスは無駄の一切無い動きで先に飛び出したオレンジ色の機体に並んだ。
 未来予測含め、使い勝手の悪くなっていたプログラミングは伊奈帆と手を加えてある。
 スレイプニールは、月面基地決戦時と同様の仕様に換装されていた。
 物々しい装備の中、両肩に見慣れない箱体を認めたスレインは回線経路を開く。
「両肩のボックスはなんですか。前回はそんなものありませんでしたよね?」
「目聡いね。転ばぬ先の杖といったところかな」
 使わなければそれに越したことはない、と軍神は答えた。
「以前に遠目にしたときから優美さに欠ける出馬の仕方だと思っていたが、実体験すると乱暴さも一入だ」
 コックピットの中で乱れた三半規管を正そうと首を振りながら、回線に割り込んでくるマズゥールカ。他の火星人が揚陸城の管制に残る中、彼だけがデューカリオンと行動を共にしていた。
 若き騎士が握る操縦桿は、タルシスと共に北米基地にあったニロケラスのものだ。
 友人の命を奪った因縁の機体を前に、作戦へ組み込むことを提唱したのは青年将校であり、カームは複雑な表情ながらもメンテナンス作業に加わった。
「この戦いの趨勢を決するのはニロケラスです。『その時』まで、くれぐれも無茶はしないで下さい」
 これが三年前だったら。伊奈帆は即座に廃棄を望んだし、整備士は速攻で解体作業に走っていたことだろう。
 大切な友人を喪った悲しみや怒りが消えることはなくとも。
 ひとつの戦争が終わり、敵を知る機会を得たことで、少しだけ落ち着いて過去を受け止められるようになった。今はもう、火星関係者というだけで嫌悪を抱くこともない。
 それだけの時間が経ったのだ。
「僅かな誤差が全体の惨禍に繋がる。危険な賭だ」
 伯爵時代の口調を滲ませ、スレインが緊張を促した。
「委細承知の上。北米での失態はここで取り戻してみせます」
 マズゥールカが決意を漲らせている間にも、デューカリオンは続々とカタフラクトを繰り出している。
 他方。マリルシャン揚陸城側でも、無数のステイギス隊による陣形が完成されつつあった。
 敵陣営のカタフラクトは復刻したソリスに、スレインも初めての機体が1体。
 背後にリュカオンが配備されているのは予測した通りだ。
 防衛の要として。いざという時に陛下を移送する手段として。王配ご自慢の戦艦は女王の傍に控えていた。
「こちらタルシス。ソリスは私が対処します。攻撃を引き付けますから、デューカリオンから見てソリスの左側には入らないよう注意して下さい。もう一体は戦後に開発された機体と思われます」
 さっと軍場を見渡したスレインが、各隊へ向け通信を送る。プロトコル変換モジュールを組み込んだスレイプニールをゲートウェイとすることで、両惑星のカタフラクトは相互会話が可能となっていた。
「マスタング0-0。そっちは僕とクライスデール隊で当たる。鞠戸大尉、敵の攻撃形態が解りません。くれぐれも慎重に行動して下さい」
 名乗りを上げた元伯爵に、伊奈帆が後続する。
「クライスデールリーダーだ。任せろ!」
 鞠戸の隊には、試験的に数体の次世代機が組み込まれていた。KG-8エーンヴァル。軌道衛生上での活動を想定し、気密性と防御力の改良が図られた機体だ。宇宙服に酸素ボンベチューブの接続を必要としなくなった代償は、大幅な質量の増加。スレイプニールと比較すれば、実に倍近い目方があった。無重力地帯ではともかく地上では使い物にならないことから、改善が図られる迄の間はアレイオンとの併用が決まっている。
 クライスデール隊のリーダーは、装甲が最も厚いエーンヴァルを盾役とした。
「こちらマスタングリーダー。私達はステイギス隊にあたるわ。なお君。いつも言っているけど無茶は駄目よ」
 ユキが応じ、ライエと韻子を連れていち早く軍勢の中に飛び込んでいく。
「私もレディ達のサポートに回ろう」
 ニロケラスが後を追った。
「ユキ姉こそ熱くなり過ぎないで。マズゥールカさん、彼女達を宜しくお願いします」
 界塚姉弟の応酬をBGMに、スレインは白銀の機体をソリスの目前へ押し出す。
 挑発に応じたソリスは、移動に適さぬボディをステイギスマスター機に作り置いた台座に固定させていた。マスター機がタルシスを追い、火星カタフラクトの頭部両脇が怪しい光を放つ。
 光の通過するコースより逃れ、充分な距離を取っていたスレインは、真横にあった小さな隕石が貫かれたことに瞠目した。
「な……っ、レーザーが曲がった?!」
「KTN結晶が照準レンズとして取り付けられている。電圧によって光の屈折率を変化させるカリウム、タンタル、ニオブからなる酸化物だ。あれが蛙頭の改良点か、厄介だな」
 軍神がアナリティカルエンジンの解析機能を走らせる。これまでの使用データを元に機能を精査したことで、僅少ながら脳への負担を増やすことなく精度の向上に成功していた。
「焦点距離の調節に要する時間は1μs。ステイギスを足場としたことで移動も自在だ。タルシスのスピードを持ってしても逃れきれないぞ」
「ですが、使っているのは人間です。ならば、追いつかせたりはしません。伊奈帆の担当はもう一体の方でしょう。鞠戸さんたちが待っています。早く行ってあげて下さい」
 嘗て一軍の総大将を務めた青年が不敵に笑う。
 交戦直後の数弾は、遮蔽物を利用しながら間一髪といった体で躱していった。
 途中、ステイギスの無人機に進路を塞がれるも、マスタング隊のサポートに救われる。横合いから撃ち抜かれた小型機の爆煙に身を投じることで、タルシスは辛くも回避を間に合わせた。
「ありがとうございます、ライエさん」
「これぐらいなんてこない。気をつけて」
 真空の中では、対象に当たるまでレーザーの光が消滅することはない。ソリスも味方への誤爆は避けたいらしく、戦域から少し離れることで両者は必然的に一騎打ちの様相を呈していった。
 数をこなし、量子アンテナに情報を集積させていくことでタルシスの未来予測は確度を増す。
「そろそろ、行けるか」
 攻撃回数が20を超えたところで、元伯爵が眦を決した。
 機体を反転させ前進を開始する。次々と放たれるレーザー曲線のシャワーを潜り抜けるタルシスの動きは、急流を流れていく木の葉を連想させた。

 スレインとの通信で一拍遅れてクライスデール隊に合流した伊奈帆は、フロントモニターの様子に唖然とする。
 敵のカタフラクトには脚部がなかった。胴体に不釣り合いなほど太い両腕と肩の間には隙間が空いている。よくよく目を凝らせば、宙に浮いているのではなく透明度の高い骨組みで接続されているのだと解った。腕の外側には、肩に向かうほど大きくなっていく鎌形の刃。
 不可思議な形をしたカタフラクトの名はクリュセといった。
 両腕を頭上高く組み合わせ超高速回転を始めれば、その姿はステップドリルともギムレットともつかないシルエットとなる。
「総員、構えろ!回避行動に……っ!!」
 専念せよという鞠戸の警告もむなしく、飛来した巨大な錐が前衛のエーンヴァル2体を穿った。
「次世代機の装甲も形無しかよ。くそっ!!」
「ヘラスと同じですね。全身が高分子と化している」
「どうすりゃ解ける?」
 通信機に向かって怒鳴るクライスデールリーダーに、青年将校は平然と応じる。いい加減付き合いも長くなっているので、声音ほど鞠戸が取り乱してないことは解っていた。
「動きを止めるしかありません。若しくはドリルの内部にある頭部を狙うかですね」
 コックピットは無論のこと、外部カメラを設置した箇所も回転からは除外される。この場合は、両腕の間に設置された頭部であるとみて間違いない。肩部分が透明なパーツで作られているのは、外部を探る窓を作り出すためだ。
「高速回転する腕の間を撃ち抜けってか?!それが出来りゃ、苦労はないだろ!」
 クリュセは攻撃力・スピード共にヘラスを上回る。銃弾は回転に弾かれ、衝撃さえも届かなかった。強いて弱点を上げるなら、高速移動の弊害として小回りが利かないことぐらいか。
「まずは奴の攻撃を逸らしましょう」
 大きく弧を描いて進路を変えた敵機に、鞠戸が隊を後退させた。
「どうやって?!」
「試してみたいことがあるので援護を頼みます」
 クライスデール隊のカタフラクトが四方に散る。彼等に紛れ、敵の視界を外れた伊奈帆は背後へ回った。
 クリュセは足の代わりに、いくつもの噴出口を持っている。伊奈帆は火を噴く部分を避け、底面の縁ギリギリを狙い澄ました。甲高い音を立て砕け散る弾丸。ギムレットは尖端を揺らし、軌道から大きく外れていった。
 損傷は与えられず、有効範囲も狭い。だが、底の平らな部分を狙えば、軸ブレを起こせるだろうとの読みは当たった。
「回転する物体は質量が大きければ、それだけ中心軸に掛かる負荷も大きくなる。荷重バランスを崩せばあるいは、と考えたけれど回転を止めるまでには至らなかったか」
 蛇行しながら大きく距離を開けたクリュセは、体勢を立て直すとオレンジ色のカタフラクトにターゲットを絞る。
 二度目は軍神の行動をなぞった鞠戸が攻撃を逸らした。
「なるほどな。こうすりゃいいのか。けどこれじゃ敵は倒せねえ。いずれジリ貧になるぞ」
 弾切れすればそれまで。それでなくとも、連合のカタフラクトには燃料に限りがある。
「いえ、これならいけます」
 伊奈帆は力強く請け負うと、マズゥールカへ連絡を送った。

 マスタング隊は、ステイギスの数を淡々と減らしていく。
 スレインも伊奈帆と鞠戸の隊も、敵カタフラクトからユキ達を上手に切り離してくれた。
 相手の攻撃の大半はマズゥールカが防いでくれる。ニロケラスはバージョンアップにより外部カメラにまでバリアの適用範囲が拡がっていた。情報を収集する役目を持つセンサー部分は剥き出しのままだが、的が小さいので接近しない限り狙えない。不用意に近づく輩は、韻子とライエが端から撃ち落としていった。
「どうやら頃合いだ。お嬢さん方、覚悟はいいかい?」
 揚陸城に壁を作っていたステイギス隊が、モーゼの十戒のごとく左右に分かたれる。
 開かれた道の終着点には、巨大な砲台へ変形したリュカオンの姿があった。
 全身を覆うカタパルトが加速器となり、原子核と電子を巡らせて中性粒子と為す。
「頼むぞ、ニロケラス!」
 一騎で飛び出した紫紺の機体が、リュカオンの穂先へ迫った。細く長い砲台を幅広のカタフラクトが覆い隠す。
 伊奈帆とスレインが最も警戒していたもの。揚陸城をも貫く破滅の光が放たれた。
 あらゆるものを吸収する次元バリアが中性粒子を呑み込んでいく。
 閃光が止んだとき、己がまだ生存していることを知ったマズゥールカは大きく息を吐いた。
 ニロケラスの次元バリア吸収量にも限界はある。ビーム砲の威力を受け止めきれる保証はどこにもなかった。
「勝機が見えたな」
 若き騎士はニロケラスをもう一歩進めると、発射口に腕を突っ込み内側から砲台を突き破る。
 崩壊寸前なのか機体を覆う薄い膜の表面には、亀裂に似たプラズマが走っていた。
「ご苦労様でした。後はこちらで引き受けます。主砲用意!」
 マグバレッジの音声と共に、デューカリオンがリュカオンへの通い路を一直線に上ってくる。慌てて離脱するニロケラス。
 三連装砲が敵艦のカタパルトモジュールを破砕した。
「次弾装填!」

『ヴァース帝国女王アセイラム・ヴァース・アリューシアの名において』

 リュカオンに引導を渡すべく発した艦長の号令と被るように、揚陸城から通達が入る。

『即時停戦を求めます。双方共に攻撃を中止して下さい』


 北米の戦いを目の当たりにした後、お腹の張りを覚えたアセイラムは直ぐさま医師の診察を受けた。
 不調はストレスから来る一時的なもの。安静にしていれば収まるとの助言を受け、以降は床に伏せって過ごしていた。
 2日前に城を開けたクランカインに同行を望まれたときも、彼女はこれを頑なに拒んでいる。
 腹痛を訴えられては無理強いもできず。これにより王婿には、マリネロスと揚陸城の2箇所に防衛線を敷く手間が生じた。大気圏移動中の連合軍をリュカオンが襲わなかったのは、単純に戦力分散からくるリソース不足が原因である。地球側にとっては僥倖だった。
 体調が回復してからも自室に籠もりがちとなっていたアセイラムは、城の警備責任者に面会を求められ、漸く連合軍との戦いが幕開けされていたことを知る。
 城の喧噪に気付いていながら、無視していた己を恥じ部屋を飛び出した。
 火星女王として、平和を再び乱す行為を許すわけにはいかない。
 制止を掛け立ち塞がった兵士が伸ばした手は、逆に掴んで足払いを掛けた。妊婦に組み伏せられるとは思っていなかったのだろう。兵達は驚き、己が投げ飛ばされることよりも女王の身体に負担が掛かることを恐れて路を譲った。
 数週間ぶりに足を踏み入れた司令室のモニターには、混迷を極める闘いの庭が映し出されている。
 アセイラムは瞼を降ろすと、大きく深呼吸をした。
 まずは争いを止め、事態の把握を行わなければならない。
 中央に歩み出てマイクを手に取り、地球との公式回線に周波数を合わせる。

 停戦の呼びかけは、デューカリオンの砲撃に掻き消された。

 黒煙に包まれたリュカオンが機能を停止する。
 間断なく熱線を放ち続けていたソリスは、肉薄したタルシスに頭と胴を切り離された。
 ユキ達はステイギス隊の駆逐を続ける。
 マズゥールカから外部カメラ1機を借り受けた伊奈帆は、クライスデール隊と連携を図っていた。
 鞠戸の狙撃に呼応して、経路の逸れたクリュセの行く手にニロケラスの子機を配置する。小型機の次元壁にカタフラクトを呑み込む力はないが、刃の一部を抉り取るぐらいであれば十二分の威力を発揮した。耐えきれず回転を止めるアルドノア機。高分子化の解けた身が、クライスデール隊の集中砲火を受けて沈んでいった。

「どうして……何故、攻撃を止めて下さらないのです!」
 硝煙の消えぬ光景に、女王は唇を戦慄かせる。
 それぞれの攻防は通信から時を移さず、ほぼ同時に起きていた。
『相手に停戦の意志がない以上、こちらも只でやられるわけにはいきません』
 アセイラムの耳に、懐かしい声が届く。
「伊奈帆さん……」
『お久しぶりです、セラムさん』
 出会った頃より少しだけ大人びた響きが、波立つ気持ちを収めてくれた。
『セラムさんに聞いて貰いたいことがあります。僕たちと一緒に来てくれませんか?』
 過ぎ去った日に、鳥を共に見た少年。丁寧ではあっても畏まらない言葉遣いは記憶にあるままだ。
「ここでは話せないことなのでしょうか?」
『お互い顔を見て話した方が良いと思います』
 レムリナとエデルリッゾも待っている。
 アセイラムは迷った。地球勢力の一部は、スレイン・トロイヤードに籠絡されてしまったのだと口にする夫の顔が甦る。
「タルシスに乗っているのはスレインですか?」
『はい、陛下』
 伊奈帆とは別個の声が電波を揺らした。短い応えから幼なじみだった少年の表情は汲み取れない。
『陛下、どうか我々の話をお聞き届け下さい。その上で、こちらへお戻りになられるというのであれば、騎士の誇りに懸けて送り届けることをお約束致しましょう』
「マズゥールカ卿、まさか貴方まで伊奈帆さん達と行動を共にされているとは……」
 先の戦争でスレインと敵対した者達が、悉く手を結んでいる意味を読み違えるほどアセイラムは愚かではなかった。自分の与り知らぬところで、何か大掛かりなものが起きている。それは、夫クランカインに起因することなのだ。
 主戦力を潰されたマリルシャン城側は、戦線を維持出来なくなっている。女王は芯を定めると兵達を下がらせた。
 横付けされたデューカリオンに乗り込む。真向かいで本丸を為す揚陸城は、2年前に停止したザーツバルム所有の城だった。



5.

「思ったより、お早いお着きでしたわね。お姉様」
 切り口上に女王を迎え入れたのは、母親の違う妹と彼女の車椅子を押す少女。背後には火星騎士らしき二人の男性が控えている。
 面するアセイラムは伊奈帆とスレイン、マズゥールカの三名を従えていた。彼等は言葉少なく、殊にスレインは顔を見てより一音も発していない。
「生きていたのですね、レムリナ。元気そうでなりよりです。エデルリッゾも、ご実家に呼び戻されたと伺いましたが」
 到着する迄の数分間を使い、マグバレッジは女王にクランカインの計策について簡単な説明を行った。
 アルドノアが永久機関でありながら有限であるという説についても。
 アセイラムは地球に醜い爪痕を残すことなど望まない。公爵の暴挙を止めるのが最優先と、まずは彼らに協力することを約束した。
「あら、公爵から子育ての経験も無い小娘など用済みだと通牒を突きつけられたと、エデルリッゾからは聞いていましたけれど違ったのかしら?」
 女王は賓客室ではなく、謁見の間へ通されたことに戸惑う。ここは遠く離れたヴァース本国の皇帝に、拝謁するための仕掛けが施された小部屋だ。客を招く設えではなく、中央と四隅の石版が邪魔をして話し合いの場としても適さない。
 フロアの反対側では、見覚えのある学生兵達が何かの機材を設置するのに勤しんでいた。手が離せないのか、目礼のみを送ってくる。
「それは誠なのですか?」
 驚くアセイラムに、侍女が小さな頷きを返した。
「公爵様は、わたしがスレイン様を庇う発言を繰り返すことに不快感を示されておいでしたから。それが原因ではないかと……」
「失望致しました。先代皇帝を弑虐してまで手にした玉座。さぞかし我が世の春を謳歌されていらっしゃるのだろうと思っていれば。まさか、婿養子の傀儡に成り下がっておられたとは」
 異母妹の辛辣な物言いに息を呑む。アセイラムは柳眉を逆立てた。
「レムリナ!口にして良いことと悪いことがあります。私が御祖父様を手に掛けることなどありえません」
 第二皇女は能面のような顔で、異母姉を見返す。
「私はお姉様の振りをして、何度か皇帝陛下にお会いしました。お年のせいか衰弱こそなされているものの、療養の経過は良好。生命維持装置を故意に停止でもしない限り、後数年はしぶとく生き延びるだろうというのが医療団の見立てでしたわ」
「それでは、まるで」
 記憶がフラッシュバックする。謁見の間から戻る際、クランカインの頷きに従い側近が祖父に近づいていった。
 あれは、皇帝の体調を視る動作などではなく。
「まさか……クルーテオ公が……?」
 虚ろに呟くアセイラムに、レムリナが冷淡な眼差しを向けた。
「いいえ。御祖父様を殺したのは貴女です、お姉様」
 混濁する意識の中、戦争の継続を望んだレイレガリア。少女の願う和平を実現するためには、反する上位の存在を抹消するより他なかった。
「いい加減、自覚なさいませ。皆、貴女の望みを形にするために動いたに過ぎないのです。公爵も――スレインも」
「お姫様~。ちょっとカメラテストしたいから、お願いできますか~?」
 部屋の中央に座す石版付近で作業していたニーナが、声を張り上げ大きく手を振る。
「ええ、もちろんですわニーナ。失礼しますお姉様。エデルリッゾ、行きましょう」
 かつて地球の少女にそう呼ばれたのは、アセイラムだった。
 今、頷きを返すのはレムリナで。エデルリッゾを連れて彼らに混じり、自然と打ち解けている。異母妹は、自分には見せることのない柔らかな表情をしていた。
「私の所為で、御祖父様が……?」
 茫然自失となるアセイラム。
「陛下、発言してもよろしいでしょうか」
 レムリナの背後にいた男の一人が、進み出て腰を折った。
「スレイン様の副官を務めておりますハークライトと申します。無礼を承知でご質問をお許し下さい。陛下は多くの伯爵達が、依然として軌道上に留まり続ける理由をご存じでしょうか?」
 突然振られた話題に、怪訝な面持ちで答える。
「侵略の野望を捨て切れず、皇帝陛下の再三の帰投命令をも無視し続けているからではないのですか」
 もう一人の騎士が苦笑を浮かべた。
「ヘブンズ・フォール直下であれば、そうした騎士も大勢居たでしょうが……。おっと、これは失礼。37家門が騎士の一人、バルークルスと申します」
 第一次惑星間戦争より18年。ハイパーゲートの崩壊により途切れた火星と地球の航路が開通されてからは15年の月日が流れている。
 故郷では愛する家族や親しい友人が待っていた。いくら鍛え上げた軌道騎士とはいえ、やむにやまれぬ事情でもなければ、これほどに長い月日を孤独な宇宙空間で過ごしたりはしない。
「我らは皇帝の臣下である前に火星の領主なのです、陛下。我々には己が領民の暮らしを護る義務がある」
 軌道騎士は規模の差こそあれ、地球との交易を行うことによって火星の足りない物資を補っていた。皇統派として知られたクルーテオ伯爵でさえ、この件については皇帝の命令に背いている。領民の生活を保つには、そうするしかなかったのだ。
 ハークライトがゆっくりと上体を起こす。
「ザーツバルム卿は、それさえも限界に近づいていると仰せでした。火星側に交易に値する品がないのです。各領主の資金が底を突くのは時間の問題でした」
「物資の調達が急務であることは理解しております。だからこその親善訪問だったのです。地球と火星、双方が恒久の平和で結ばれれば。互いに足りないものを補い合えればきっと」
「それは、いつ?」
 ぽつり、と地球の青年将校が呟いた。
「え?」
「いつ、実現するの?」
 年端もいかぬ皇女の一度や二度の訪問で、国交の回復は見込めない。
 せいぜいが、土産として多少の援助物資を渡されるぐらいだろう。
「平和的な解決方法は、多くの時間と対話を必要とします。場合によっては何十年と掛かったかも知れない。セラムさんはその間、困っているヴァースの人達をどうするつもりでしたか?」
「民に不自由を強いていることは申し訳なく思っています。されど、他の惑星の方に迷惑を掛けることなどあってはなりません。皆には今暫くの辛抱を……」
「それが陛下の本心なのでしたら、私は騎士の称号を返上せねばなりません」
 暴君であろうと、賢君であろうと。
 王たる者が、他国の優先を理由に自国民を虐げることなどあってはならない。
 月面基地で公爵と共に忠義を尽くした青年の声音から温度が失われた。
「飢えて死にゆく赤子を抱えた母親の前で、同じ台詞が吐けますか?」
 貧困の特に酷かった地区で生まれ育ったハークライトが憤りに目を細める。
「セラムさんが争いを嫌う人で良かった。そう感じるのは僕が地球人だからで、火星側の意見は違うのかも知れません」
「伊奈帆さん……」
 結論からすれば、両惑星の距離を近づけたのは戦争だった。成し遂げたのはスレインだ。
「おーい、支度が終わったぞ」
 ニーナと共に機材の調整をしていたカームから合図が上がる。中心にいるレムリナがスレインに向かって手を伸ばした。
 足を踏み出し掛けた元伯爵は、擦れ違い様にアセイラムと視線を合わせる。
「陛下は『あの時』引き金を引くべきでした。私にいえるのはそれだけです」
 月面でスレインに銃口を向けたとき。本気で戦争を止める気でいたのなら敵将の命を奪った上で、アルドノア起動権を盾に基地を乗っ取るのが一番の近道だった。

 他者の命を奪えない。
 それは、一般人には美徳となる優しさであっても、生殺与奪権を持つ火星統治者にとっては致命的な欠陥となり得る。
 アセイラムには覚悟が足りていなかった。

 女王の反応を見ることなく、元姫君の騎士はレムリナの手を取る。
 アセイラムは涙を湛えた瞳で、変わってしまった友人の背中を見つめた。
「じゃあ、いくよ~」
 ニーナがスタジオ用のカメラに手を置く。銀色の反射板を掲げているのは、祭陽といったか。詰城がボールドを鳴らした。長く伸ばしたマイクブームをカームが支える。
 エデルリッゾとスレインが、車椅子の後ろに立った。
 レムリナの全身をアルドノアの淡い光が包む。高く結い上げた黄金の髪。胸元から腹部に掛けては身体のラインを際立たせ、腰元から下はふんわりと拡がる純白のドレス。
 異母妹が光学迷彩で纏った姿は、戦時中にあった己だった。
「何が始まるのですか?」
 スタッフの後ろに移動させられた女王が眉を顰める。
「ご覧になっていれば解ります」
 通信機を片手にしたハークライトが、皆から距離を取った。
《こうして火星及び地球の皆様に、再びお会いできたことを嬉しく存じます》
 開始の合図と共に、アセイラムを装ったレムリナは優美な礼を取る。
《およそ1年前、地球侵攻の指揮を執っていたのは私です。既に多くの方がお気づきの通り、この姿は借り物。私はアセイラム・ヴァース・アリューシアではありません》
 ふわりと解かれる光学迷彩。藤色の髪と透き通る蒼い瞳を持つ少女が、電波の向こう側にいる数億の人に向かって高らかに自らの名を謳った。
《ヴァース帝国第二皇女レムリナ・ヴァース・エンヴァースと申します。以後、お見知りおきくださいませ》
 レムリナは悠然とした口調で演説を続ける。
《謀られたと怒りを覚える方もいらっしゃるかもしれません。ですが、私が偽っていたのは名前と姿のみ》
 皇族として出した命にも、ザーツバルムの方策を支持したことにも虚構は含まれていなかったのだと、少女は明言した。
「やっぱり彼女が最大の障害か」
 耳元で聞こえた小さな舌打ちに、アセイラムが小首を傾げる。
「伊奈帆さん?」
 名前と姿以外が真実であるなら、スレインとの婚約発表も誠であったことになる。意図的なのは明白で、その証拠に第二皇女は伊奈帆にちらりと視線を送って寄越した。
「なんでもありません、セラムさん」
 互いに暫し見つめ合い無言の火花を散らす。青年将校は1ミリたりとも譲るつもりはなかった。
《ふふ、もちろん言葉のみで信じてもらえるなどと驕り高ぶってはおりません。まずは私の血統を実証致しましょう》
 つっと目を逸らした少女が、スレインのエスコートを得て車椅子から立ち上がる。少許の先にある石版まで歩いてみせたのは1年前、足が動くことでレムリナとの違いを演出した異母姉への意趣晴らしであった。
 滑らかな盤面を掌で撫でると、アルドノアの光が溢れ部屋中を満たす。
「うそ、うそぉ~」
 カメラを構えていたニーナが驚愕を露わにした。流砂のごとく消えた壁の向こうに、巨大な建築物が出現している。
 さしもの伊奈帆も声を失った。
「ヴァース帝国の皇城だよ」
 謁見の間にあるのは、単なる通信機器ではない。オルテギュアの個体複製能力の応用技術なのだと、マズゥールカが小声で解説してくれた。軌道騎士達は皇帝に拝謁する間、軌道上の揚陸城にいながらにして火星にも存在する。
 車椅子に戻ったレムリナは侍女を供に、元伯爵と連れ立って皇城の門を潜った。
 機材を抱えたニーナ達が彼等を追う。装置の起動者から離れると元の場所に戻されるとの勧告を受け、見学組も建物の中に踏み込んでいった。
「こんなところでレムリナ達は一体、何を……」
 胸のざわめきを覚えたアセイラムが、両手を握り締める。
 辿りついた先は、主の居なくなった寝室。天蓋付きベッドの近くにあった色の違う床板を踏めば、隠されていた機器が現れる。
 皇族のみが扱えるアルドノア・ドライブ統括制御装置だ。
《デモンストレーションとまいりましょう》
 皇帝の私室に着くまでたっぷりと間を持たせた第二皇女が、口元に薄い笑みを佩く。
《これより10分間、私以外の皇族が起動したアルドノア・ドライブを停止させます。とは申せ、全部を止めてしまっては被害が大きくなり過ぎますわね。両惑星の方にご理解頂けるよう、対象はこの城と地球のアルドノア炉の2箇所と致します》
 結城が持ち込んだ映写機を二つ、テーブルの上に並べた。照明を落とし、解像度を絞れば寝所の壁にそれぞれ違う景色が投影される。
《左が地球のアルドノア炉1号機周辺を映したもの、右が火星の皇城―――つまりはこの部屋の外の様子を中継したものですわ。よくご覧になって下さい》
 レムリナが制御装置に手を翳した。
 地球製の発電機に繋いだ機材だけを残し、皇城から明かりが失われる。室内は勿論、廊下も闇色に染まっていた。
 左の映像を確認すれば、和平条約の第一歩としてアセイラムが起動した地球のアルドノア炉が沈黙している。
「こんな……。火星から地球のアルドノアを制御するなんて……」
 信じられないものを見る目をする女王。皇族同士の力に互換性があるとはいっても、優先順位の第一位は発動者にあった。委譲の条件は先任者の『完全なる死』。戦時中、アセイラムがライエに襲われたときデューカリオンのアルドノアが一時停止したのは、彼女にまだ蘇生の余地があったことから、プライオリティが残されていたためである。
 上位権限者が生存しているにも関わらず、火星から遠く離れた地球のシステムを操作することなどアセイラムにはできない。アルドノアに関与する力はレムリナの方が大きかった。

 稼働を止めたアルドノア炉の前で周章狼狽する地球人の様子をスレインは静観する。
 気持ちを伝えるという一点に於いて並列化される、好意と起動因子の供与。
 付与の条件たる情調は、何も愛情に限らない。友情、信頼、契約の締結、あるいは『利用価値がある』と認めるだけでも良かった。
 ただ、力の強弱は与える側の感情に左右されるのではないかと元伯爵は思量している。
 若く未発達の精神を宿していたアセイラムが思慕の情のみで、無意識の裡に伊奈帆とスレインに起動権を渡してしまったように。
 両者は皇族にとって近しく、区別の付きにくいものであった。
 そして、この推論が正しいものであるならば。
 二代目皇帝ギルゼリアがより大切に思っていたのは、正統な後継者であるアセイラムではなく。妾腹の妹姫の方だったのかもしれない。
 今となっては細部を知る術はなく、姉妹の傷を広げるだけとなるため口にはしないが。
 元伯爵は目を閉じ、耳を澄ました。人々の声が大きなうねりとなって近づいてくる。
「何事です」
 女王が辺りを見回した。右の映写機が明かりを手に城内に駆け込んでくる群衆の背中を捉えている。
《まあ、大変。皇城を守っていたアルドノアの障壁が消えたことにより、一般市民達が雪崩れ込んで来てしまいましたわね》
 含み笑いをする第二皇女は余裕に満ちていた。彼らを映し出すカメラがあることから、主導したのがレムリナであることは想像に難くない。正確にはスレインが、と言うべきか。
 部屋の隅では、通信機に向かってハークライトがしきりと指示を送っていた。スクリーンの中の荒い動画に眼を凝らせば、先頭を行く男の耳にイヤホンが装着されているのが視認できる。
 皇城にある部屋を片っ端から開け放ちながら、奥へ奥へと進んでいく市民達。彼らの殆どが第三階級出身者であることは服装から察せられた。

 ヴァース帝国民の中に、まだこれほどスレインを敬慕する者達がいる。

 その事実が、アセイラムに重くのしかかった。
「私には、私のためにこうして動いてくれる民はいるのでしょうか?」
 呟きは騒擾に掻き消され誰の耳にも届かない。
 女王になれば。帝国を統治する立場となれば、万能の力が手に入る。
 ヴァース帝国の民にアセイラムの意嚮を浸透させ、誰もが手を取り合える未来を作っていけるのだと信じていたのに。実態はどうか。
 地表に降下した軌道騎士達は女王の説得を受け容れることなく、夫は与り知らぬところで暗躍していた。
 スレインは収容施設を抜け出し、伊奈帆は便りのひとつなく彼と行動を共にしている。
 新顔の侍女にさえ軽くあしらわれていた。
 これで為政者などとは、とても名乗れない。

 私という存在は一体、何?

《いつまでも画面が真っ暗なままでは詰まりませんから。彼らに協力を要請したのは私。単なる賑やかしです。心配には及びませんわ》
 群衆は手当たり次第に、装飾品や調度を毀していく。
 やがて、城の最奥へ到達すると数名掛かりで突き当たりの壁を叩き、現れた扉を蹴破ってさらに先へと潜り込んでいった。
 ニーナのカメラが、右の映像をクローズアップする。
 それは城に勤める者達でも一部しか存在を明かされていない秘匿された部屋。遺伝子バンクの保管庫だった。
 それまでと同様に市民達は部屋の中を荒らしていき、鍵の掛かった棚からも厳重に仕舞われていたガラスの容器を取り出す。
 アセイラムは『それ』の正体を瞬時に悟った。絶叫が喉を突く。
「待って下さい、それはなりません!」
 身を乗り出した女王を伊奈帆が制する。
「静かに。アレが何であるのかをニーナ達は知りません。放送を見ている地球人も装飾品のひとつぐらいに思っているはずです」
 皇族の系譜を繋ぐ大切な遺伝子が、高価な花瓶や大皿に混じって砕け散った。
「スレイン、貴方はなんと恐ろしいことを……」
 青年将校が、膝から力の抜けた女王を支える。
 厳重に隠された部屋は偶然見付かったのではない。レムリナの隣に立つ青年の手妻によるものだ。
 レイレガリアを凌ぐアルドノア研究者であった彼の父親は、皇城のあらゆる秘密に関わり通じていた。息子も知っていておかしくはない。
「地球人にはアレが何か解らなくても、火星人それも貴族や政務に携わる者達には状相が呑み込めたはず。替えが利かないとなれば、我等はお二人しかいないアルドノア因子保有者と、これから生まれてくるお子を全力でお守りするしかありませんな」
 バルークルスの指摘に、女王がはっとしてお腹を押さえた。
 もし、クランカインの計画が阻止されたら。彼は戦犯として裁かれることになる。妻であるアセイラムや生まれてくる子にも累が及ぶかも知れないのだ。
「では、彼は私達を護ろうとして」
 あんなことをしたというのか。
「遺伝子バンクは、また作れます。セラムさんとレムリナさんさえ無事なら、どうとでもなりますから」
 伊奈帆の台詞に重なるように室内が明るくなった。10分が経過したのだ。スクリーンからは、いつのまにか市民達の姿が消え失せている。侵入から遺伝子バンクの滅損、撤退までを一連の流れとしていたのだろう。
《余興はお楽しみ頂けましたかしら》
 能力を存分に誇示したレムリナが、演説を再開する。
《ありし日に我が姉アセイラムは述べました。たったひとつの切っ掛けから争いが起こり、大きな戦争へと発展してしまった。哀しい行き違いであったのだと》
 舞台は、いつの間にか揚陸城の小部屋に戻っていた。
《私はそうは思いません。戦争は起こるべくして起こったのです》
 火星を植民地として捉え、移住者までをも奴隷として扱おうとした地球と。
 アルドノアを占有したことで物資を止められ、地球への恨みを募らせていった火星。
 解決することなく放置していた様々な闇が。軋轢が。憎しみが。
 噴出したからこそ、火種となる事件が演出されたのだ。
《処刑されたはずのトロイヤード卿が、こうしてここにいることもまた、両惑星の歪んだ関係が絡んでのこと。人権を無視した非道な行いです。十代半ばであった少年一人にどれだけの重責を負わせるつもりなのでしょう。そもそも、戦端を切り開いたのは彼ではありません。彼が指揮を採ってからは軌道騎士による無差別な殺戮が行われなくなったことに、地球の方々は気付いておられるのでしょうか?》
「あ……」
「言われてみれば、そうだな」
 カメラを抱えたニーナと音響係のカームが顔を見合わせる。思い起こせば確かにスレインの名前が聞こえてきてからは、軍の関係者や施設ばかりが攻撃対象となっていた。
《私とトロイヤード卿はヴァースから階級や身分の壁を取り除き、誰もが自由に生きられる国作りを目指しておりました。そんな我等を厭う者達によって、彼は罪を被る生贄に仕立て上げられたのです》
 過酷な環境で生きている以上、弱者にも優しい世界をなどと甘いことを言うつもりはない。才能があっても身分故に上がれぬ者、努力が報われぬ者を減らしたかっただけだ。
 身体の一部が動かぬレムリナと、地球人であるスレイン。社会より虐げられてきた二人だからこそ、深く抱いた冀求。
《その最たる者こそ、既得権益の頂点に座する者。火星の身分社会を地球に持ち込もうと目論む公爵に他なりません。よって私、レムリナ・ヴァース・エンヴァースはここに王婿の計画阻止に乗り出すことを宣言致します》
 この局面を乗り切ったところが、第一歩。
《地上を支配する軌道騎士や地球の方々とは、その後に話し合いの場を持つことを望みます。忌憚なき意見を交わし、問題点を出し尽くして。それでも相容れぬのであれば》
 レムリナが艶やかに口角を持ち上げた。
《その時は今一度、戦争を致しましょう》
「いいえ……いいえ!ヴァース帝国は、私は二度と戦争を起こす気などありません」
 戦争を悪と決めつけ、闘争に身を投じた者達の背景を斟酌することを怠り。
 スレインの助命嘆願をしておきながら、彼のその後を確認もしなかった。
「何も見ようとはせず。誰の意見も聞こうとしなかった愚かな為政者。それが私、アセイラム・ヴァース・アリューシアの姿なのかもしれません」
 ヒールの低い靴で床を踏み、異母妹の傍へと歩み出る女王。
《足下の揺らぎにも気付かず、他の惑星にばかり気を取られていた私に統治者たる資格はないのでしょう》
 髪を下ろし、腹部を締め付けないデザインのドレスを纏った本物のアセイラムの渙発が、カームの差し出すマイクに乗った。
《それでも私はヴァース帝国の女王として。皆を戦争のない平和な世界へ導く使命を全うしたい》
 迷いのない視線をカメラに向ける女王に、スレインと伊奈帆の目元が緩む。
 どれほどの苦境にあっても、苦難に遭遇しても。
 決して心折られることなく貫き通す信念にスレインは忠誠を捧げ、伊奈帆は力を貸したいと願った。
 人を惹きつけ周囲を感化させる能力は、上に立つ者として欠かせない資質である。
《ヴァース帝国女王アセイラム・ヴァース・アリューシアは、我が夫クルーテオ及び彼と行動を共にする帝国民に戦闘行為の放棄を命じます》
《そのような一方的で傲慢な命令が、聞き入れられると信じていますの?》
 イニシアチブを奪われた第二皇女が、呆れた眼差しを向ける。
《呼びかけることさえ諦めてしまっては、先に進めません》
 なおも言い募ろうとするレムリナを、元伯爵がそっと制した。
 当初の目的であった第二皇女のお披露目は済んだ。
 綺麗事として聞き捨てられることになろうと。はっきりとした布令を出したことで火星女王の立ち位置を明確にすることもできた。
 首尾としては悪くない。
 あとは。
《依然として傍観に徹する軌道上、並びに地上に居る全火星騎士に告げる。己が忠義の在処を示せ》
 地球出身でありながら、軌道騎士達の頂点にまで上り詰めた青年が、支配者の顔で宣布した。
 公爵につくか、皇族に従うのか。
 ここからの行動次第で、各々の今後が決まるのだとスレインは言外に匂わせる。
 無条件降伏を命じた女王に対し、レムリナは条件交渉の余地を残した。火星領主達の心を揺り動かすには充分だろう。
 30分に満たない海賊放送が終わり、一座は肩から力を抜く。
 青褪めたアセイラムが、額に汗を浮かべお腹を押さえて蹲った。
「お姉様?!」
「姫様!」
 エデルリッゾが色を成して、女王の両肩を抱きかかえる。
 青年将校達も泡を食って駆けつけた。妊婦に負担を与えてしまったことに男達は焦る。
「セラムさん、しっかりしてください。直ぐに耶賀頼先生を呼んできます」
 心得たハークライトが医務室へ走った。
「直接お連れした方が早いかもしれない。僭越ながら私が運ばせて頂きます。少しだけ辛抱願えますか?」
 マズゥールカが抱き上げようと差し出した手を、アセイラムは撥ね除ける。
「必要ありません。私は、女王です。ひとりでも、理解されなくても……っ!それでもっ!!」
 高ぶらせた感情を抑えることなく、両手で顔を覆った。
 下手な刺激もできず、動転するばかりの周囲を余所にスレインが女王の正面に回る。
「セラム」
 腰を落とし、白い手をやんわりと包んで顔から外させた。呼びかける名は、彼女が地球で避難生活を送っていたときに使っていたのと同じ響き。
「落ち着いて下さい、大丈夫ですから」
 優しい声音に思わず顎を上げた。アセイラムを案じる流氷色の虹彩に、心が静まっていく。
「……ここで、その呼び方をするのはずるいわ」
 くしゃりと顔を歪ませた少女が、幼馴染みの青年の胸に顔を埋めた。


2016/09/26 UP
ヨーヨーとタツマキはあるのにスピンがないとか。解せない。
などということも含めて、小ネタを回収してます。
最初、ソリスの攻撃は「頭を小刻みに動かして、新体操のリボンみたいに歪めてみよう!」とか頭の悪い仕様にするつもりでした。
途中で我に返りました。曲線描けるほどノンビリしたスピードじゃ威力出ませんよね。
ビームだったかレーザーだったか忘れてしまったので、公式ガイドブックを確認。
ビームなら磁場を発する小型端末飛ばすつもりでしたが、レーザーだったので照準レンズの装着になりました。
KTN結晶は、現実世界では平和利用目的に開発されたものです。こちらはあくまでもフィクションとなりますので、お間違えなきようお願いします。