笑顔の似合う少女だった。
愛され、護られるために生まれてきた火星の貴石。
彼女を惑わせる全ての事柄から遠ざけたかった。
彼女を煩わせる全ての事柄を取り除きたかった。
醜いものなどとは無縁の人生を貴女に。
哀しみを知らず、苦しみを感じることもなく。
豊かさを享受し、富を当たり前のごとく受け容れ。
唯々、微笑み続けてくれればいいと。
綺麗なままで有り続けて欲しいと。
願い、祈りを捧げて。
この想いを真にするためにこそ戦っていこうと、心を決めていた。
1.
三人だけの空間。
彼等は同じ結末を目指しながら、違うものを見続けていた。
ひたむきに理想を追い求め、反戦を唱え続けたアセイラム。
自分と周囲を生かすため、目先の闘いを制することに腐心した伊奈帆。
スレインは姫君の生還を待ちながら、火星市民の地位向上に邁進した。
求める過程が異なっていたが為に。
決して交わることのなかった三者が一堂に会したのは、これが初めてのことである。
幸いにも、女王の容体は少し休めば回復する類いのものだった。謁見の間にいたメンバーは診断を聞くと、体調を気遣う言葉を残し医務室を後にしている。
アセイラムは皆に続こうとしたスレインを引き留め、伊奈帆を交えた三人での話し合いを望んだ。青年達は他に患者が居ないことを確かめた上で、耶賀頼にも暫しの退出を願う。
デューカリオンは本戦へ向け、最後のメンテナンスに入っていた。カタフラクトへの燃料補給と簡単な整備が終わる迄。パイロットが得た短い休息の合間が彼等に許された刻限となる。
簡素なベッドに横たわった女王は、膨らみの目立つ腹部を労るように擦った。
「ずっと一緒に居てくれると信じていたのに。お父様が亡くなられた後、日を置かずクルーテオ伯爵の揚陸城に行くことになったと告げられて。禄にお別れも出来ぬまま、気がついたら出立した後でした」
抒情的な口調で語られる、アセイラム視点での幼き日々。
トロイヤード博士の乗った宇宙船が火星に不時着してからの3年間。
朝も、昼も、夜も。子供達は渋い顔をする大人達の目を掻い潜り、逢瀬を重ねた。
『セラム』というのは、少年が愛らしい年下の友人にねだられ付けた愛称だ。それは、双方にだけ通じる、特別な符牒。
スレインとの間で使っていた名前だったから。同じ地球人である伊奈帆に名乗るとき、自然と口を突いて出たのだとアセイラムは言う。
「お手紙を出しても返事はよそよそしいし、名前も呼んでくれなくなってしまって。二人きりの時でも畏まった態度しか見せてくれなくなった貴方に、私がどれだけ寂しかったか解りますか」
女王の批難は留まるところを知らなかった。
スレインの手紙が型に嵌まったものでしかなかったのは、クルーテオの検閲を受けていた所為だ。身寄りを失った少年の進退が、大人達の身勝手な都合に左右されたものであることを、今のアセイラムは了知している。
それでも、拗ねたり責めたりしてみせるのは、許されると知っているからこその我が儘だ。
現に。女王が枕とするのはスレインの膝だった。せがまれた方は「少しだけですからね」と釘を刺しながらも、いそいそと応じている。
僕もまだやって貰ったことないのに。とは、さっきから胸焼けしそうな程に甘い空気をベッドの脇で浴び続けている軍神の感想だ。疎外感が半端ない。
セラムという呼び名が、自分だけのものでなかったことを残念に思う気持ちはある。
しかしそれ以上に、膝枕される彼女をやっかむ気持ちの方が大きかった。パイプ椅子の背を跨ぐようにして腰掛けた青年は、後で絶対に同じ……否、同等以上の事をして貰おうと心に留め置く。
「何度もお願いしたのに、一緒に眠ってくれたのは最初の頃だけだったし、お風呂だって……」
「一緒に入っていたの?」
「入っていません!」
伊奈帆の突っ込みを、元伯爵は食い気味に否定した。
「陛下。貴女も人の妻となったのですから、入浴や就寝を異性と共にしてはいけないことぐらい理解できたでしょう?」
「私が願った相手はスレインだけです。いけないことなんて何もありません」
ああ、セラムさんの中のカテゴライズは、男・女・スレインなのか。
「……そこ。僕に憐れみの視線を向けるのは止めて下さい」
図らずも可哀相なものを見る目になってしまった青年将校を、スレインが咎めた。
二人の関係を表すなら『甘えたがりの妹と溺愛する兄』といったところか。恋情云々はさておき、周囲が危機感を覚えたのも納得の仲睦まじさではある。
これまで伊奈帆は、スレインの女王に対する感情を神を崇める信徒と同一に捉まえていた。
命を助けられた経緯や、心の拠り所が彼女しかなかった火星の日々を斟酌すれば、多少はそういった面もあろう。しかし乍ら幼馴染みとして過ごしてきた二人の距離は、もっと気心の知れたもののようだった。考えてみれば、尊崇を捧げてくるだけの相手をアセイラムが友人と称するはずもない。
それよりは、自分と姉の関係に例えた方が近いのだと知れば、彼があれだけ必死になっていた理由も頷けた。
ユキに降りかかる危難を排するためなら、伊奈帆とてどんなことでもするのだから。
「陛下、お体に触りますから、ちゃんとお休み下さい」
「呼び方!また戻っています」
頬を膨らませる少女に、元伯爵が苦笑を零した。
「申し訳ありません、セラム」
宥めるように髪を梳く指に、女王は自分の手を重ねる。
「……クルーテオ公、いえ、クランカインが止まることはないのでしょうね」
ぽつりと呟いたアセイラムに、スレインは一度口を閉ざし。慎重に言葉を選んだ。
「僕が知る限り、クランカインさんはセラムに対し、常に誠実であろうとしていました」
口調は、昔日に皇城で交わしていた時のもの。地球の来訪者たるスレインに柵や階級の縛りはなかった。貴族の子弟を気軽に『さん』付けするのはその名残。相手にされずとも、処断されることもなかった時代のことである。
「その信条を押しやってまでも目指したいものが、彼にはあったということなのだと思います」
「目指したいものですか?それは一体……」
「彼の真意を確かめるのは貴女の役割です」
クラインカインさんとは、きちんと話をされた方がいいですよ。
「そんな機会など、もう……」
眼を伏せる女王を青年将校が力づけた。
「この騒動が終われば、時間なんていくらでも作れるようになります」
公爵の死が目的なのではない。彼が戦争を生き延びる余地は、充分に残されている。
「相変わらず伊奈帆さんは、優しいですね」
アセイラムが微かに頬を緩めた。
「その言い方だと、僕は優しくないみたいじゃないですか」
元伯爵のやんわりとした抗議は、不服というよりも戯れに近い。
「君は、どちらかというと『甘い』の方。嘘つきだし」
「話の流れ的に、嘘吐きかどうかは関係ありませんよね?基本的に姫様には真実を話すようにしていますし」
黙っていたことなら山とあるが。
「レイリー散乱。忘れたとは言わさない」
「あれは……っ!!」
途端に、顔を真っ赤にして俯く青年。
「あら?私はてっきりスレインが勘違いしていただけかと。意図的な偽りだったのですか?」
女王が目線を上げた。
「わ、笑わないで下さいね」
大気に触れて屈折した陽が空を蒼く染め上げる。高く拡がる天の色を映して海は碧く光り輝く。
瞼の母は感性豊かな人だった。彼女の間違いは父の反証によって正されたが、理論尽くの弁舌は相手の臍を曲げさせるのに充分な威力も伴う。
父には浪漫が足りないと怒り出して……との発言に以前、流氷が色付く成因を説いたことで韻子から似たような苦情を受けた青年は少し遠い目をした。
釈然としない伊奈帆に「女性に必要なのは正論ではなく共感だよ」と訳知り顔で肩を叩いてきたのは、カームだったか起助だったか。
「僕は子供の頃、両親が諍いを始めたときは良否に関わらず、母親の側につくことにしていました」
その方が後々尾を引かないという、子供らしくない打算半分。残りの半分は、母にはやっぱり笑顔が似合うと子供らしく親を慕う気持ちがあった。
「姫様より質問を受けたとき、当時のことが急に思い出されて。記憶に引き摺られる形で、うっかり口を滑らせてしまいました」
地球への期待を膨らませる少女を前に、訂正する機会を失ったと知った時は、顔から火の出る思いだった。
レムリナに至っては皇女の言動をなぞらせるため、宇宙規模の放送で嘘の情報を喋ってもらっている。汗顔の至りである。
まあ、ともうじき母になる少女が破顔した。
「素敵なお話ですね。スレインのお母様が羨ましいです」
アセイラムは育った我が子が、両手を拡げて己を庇ってくれる姿を空想する。喜びと誇らしさで、それまでの諍いなんて吹き飛んでしまいそうだと思った。
「その節は、申し訳ありませんでした」
恥じ入る青年の表情は、クルーテオ伯爵の揚陸城で空の色について語ってくれた時と同じ。知っているのは女王だけだ。
変わらぬ幼馴染みの愛らしさに、胸の奥が温かくなる。
「案外、公爵も同じなのかも」
「伊奈帆?」
「何をしても、どんなことになっても。最終的にセラムさんなら許してくれると決め込んでいるのでは?」
子が母に加担するように。妻が夫の過ちを許すように。やがてはアセイラムも受け容れてくれると信じて、男は行動を起こした。
「そのようなこと……」
戸惑うアセイラムを余所に、スレインは得心のいった顔で頷く。
「ある一面、当たっているのかもしれませんね」
目指す先が血塗られたものでも、唯一の存在が傍らにあってくれるのなら他は必要ないのだ。
男は単純ですから、と元伯爵は肩を竦める。
「スレインは。貴方はどうだったのです?」
それは、女王が『アセイラム』として初めて発した問いだった。スレインは緩やかに首を振る。
月面基地へ第一皇女が乗り込んできた際、元伯爵は姉妹の入れ替わりを知っていた。
皇女の療養地ともなれば、厳重な警備が配してある。保護対象の行動は制限するなと命じてあった為に城を抜け出されてしまったが、報告は即座に入った。
前もって彼女達の身柄を押さえる兵が布置してあったのは、それが理由だ。
告げた答えにも嘘はない。
一門の姫たる『レムリナ』への回申として、ザーツバルムの総司令官は第三勢力が一丸となって戦う上での理念を述べた。
もし、問われた相手が『友人』であったなら。模範解答ではない、スレイン個人の想いを引き出せていただろうに。
アセイラムは自覚なしに女王として敵将の向こうを張る道を選び、スレインは正しく彼女の果断を受け止めた。
「……僕は、誰かの赦しが欲しかったわけではないので。ただ、自らが願うところのためだけに」
身分階級の撤廃も、貧困への取り組みも、戦っていく中で生じた欲に過ぎない。
ノヴォスタリスクで火星に属すると腹を括ったとき、頭にあったのは、ただひとつ。
大切な少女の命を救いたい――それだけだった。
誰もが大切な誰かのために闘っている。
今は敵対するクランカインでさえも。きっと祈りの在処は同じなのだ。
「その願いが何だったのかは、教えてくださらないのですか?」
月にて眠り続けていた少女は無邪気に、されど残酷な問いを口にする。
「そうですね。いつか機会があれば、お話しします」
何とも言い難い表情を浮かべた伊奈帆に、アセイラムは彼がスレインの事情を把持していることを察した。
エデルリッゾもレムリナも。スレインに軟禁されていたときでさえ、彼を責める語句は発していない。彼女達は、元伯爵の胸懐に気付いていた。
スレインを信じ切れなかったのは、アセイラムだけだ。
誰よりも大切な人だったから。
彼の変節を受け入れたくなかった。
遠くへ行かれてしまうことが怖くて。離れて欲しくなくて。
禄に会話も重ねぬままに、目を塞ぎ、耳を塞いで。結局は自分から手を離してしまった。
誰よりも大切な人だったのに。
「女王として、公爵の行為を是認することはできません」
けれど、と少女は唇を動かした。
「妻としては、理解はできずとも気持ちにより添い、共に罪を背負っていきたい」
今度こそ、間違えないように。
青年将校が立ち上がり、椅子を畳んで壁際へ寄せた。タイムリミットだ。
「さあ、本当にお休み下さい。気にするなというのは無理かもしれませんが、今は身体をよく休めることが貴女のお仕事です」
スレインは女王の頭を支えると、膝の代わりにエステルパイプの入った枕を宛がう。
「お二人の貴重な休憩時間を、潰してしまい申し訳ありませんでした」
済まなさそうに、眉を下げる女王。
「そこは、気にしなくてもいいですよ」
「僕もセラムさんと話をしたいと思っていたので。貴女が僕の信じていた通りの人で良かった」
戦後の囚人の取り扱いに、伊奈帆は当事者よりも強い蟠りを残していた。
火星人がスレインの人生を蹂躙し、使い捨てたという沿革に変わりはなくとも。アセイラムが心から彼の倖せと更生を望んでいたことに、青年将校は少しだけ心を軽くする。
辞去の挨拶を残した二人が戸口の向こうへ消えると、女王は口元から笑みを消した。
この様な事態になってまで、戦場へ赴く友人達の背を見送ることしか出来ない己の不甲斐なさに涙が込み上げる。
自責の念に苛まれながら上体を起こし、ベッドに両手をついた。
「伊奈帆さん、スレイン、ご武運を」
今のアセイラムに出来るのは、せめてもと二人の無事を願って、シーツに額を擦りつけることだけだった。
2.
マリネロス基地に本陣を置くクランカインは、先刻の放送より風向きが変わったことを肌身に感じていた。
地球の周辺に残る揚陸城の多くがレムリナの掩護を表明し、ある者は伯爵自らカタフラクトを駆り、またある者は配下の軍用機を差し向け参戦してきている。
こちらに助力を申し入れてきた家門も皆無ではなかったが、全体から見ればごく僅か。元からクルーテオの軍閥にあった勢力と合わせても、地球・ザーツバルム混成軍の火力には到底及ばなかった。
第二皇女のスピーチと女王の所信表明もさることながら、一番の要因は。
「スレイン・トロイヤード。劣等人種が小賢しい真似をしてくれたものだ」
あの男の呼号さえなければ、火星騎士達は終始拱手に徹していただろうに。
世紀の大罪人、スレイン・トロイヤード。
父のタルシスを乗り回し。
皇女との婚姻を金科玉条に、火星領主を支配下に置き。
下層市民を唆して、あたかも己が時代の先導者であるかのごとく振る舞った。
どれひとつ取っても許し難く、命を持って償うべき所業であるが、それより何よりも。
婚儀後、女王の懐妊に半年のインターバルを設けなければならなかったことが、王婿に比類無き屈辱を与えた。
レムリナの存在を包み隠した都合上、一部の者達の間には、偽物の行状をアセイラム当人のものとする既成観念が生まれている。彼女を心ない中傷や邪推から守る為。有り体に述べるなら、女王の宿す継嗣がクルーテオの血筋であるという根拠を成すのに、時を費やす必要があった。真実はどうあれ、アセイラムが手垢つきであったと疑われたことが、公爵には我慢ならない。
「新たな火星カタフラクト一体の介入を検知しました。いかが致しますか閣下」
「我らと志を同じくする連合軍高官へ通信を。直ちに配下の兵を撤退させるか、こちらの扶助へ入るよう要請を出すのです。素知らぬふりを通すなら、刻限前に彼らのいる地域へ落石させると通牒してやりなさい」
公式回線から暗号化もせずメッセージを流せば、名指された者達の幾人かは言われるままに従った。
上層部が敵と通じていたことを知った連合の下士官兵が混乱に陥っていく様を、クランカインは嗤笑を持って眺める。
女王陛下の心を掴んで離さない青の星が憎かった。
アセイラムは年を重ねる毎に、地球への執心を深めていく。
幼馴染みの少年が傍を離れてからは顕著に。少女は彼に会えない寂しさを、かの星へ向ける憧れで埋めていった。
珍しい宝石やドレスを贈っても歓心が傾くのは、ほんの一時。行儀見習いの名目で宛がった年の近い侍女さえも、彼女の目を余所へ向けることは適わない。
然らば。アセイラムを惑わす蒼き宝石を手に入れよう。
豊富な資源を無駄遣いし、貪り、奪い合うだけの下等人種から全てを召し上げて。小さな箱庭に仕立上げ、彼女への供物としよう。
アルドノアは有限の力?それがどうしたというのだ。
使いすぎれば枯渇するというのなら、支出の範囲を定めれば良い。
起動権を普遍化し広く解放しよう等という、そもそもの考えが間違っていたのだ。幸いにも、連合軍は地球生来のエネルギー資源で動いている。多めに残してやることで、民の生活も賄える。
公爵の直轄となる兵馬さえ整えば、37家門は最早不要。中央集権制を成立させる上での邪魔者でしかなかった。火星領主とその一党の覆滅が済んだら、次は新編された組織から連合軍上層部という膿を取り除く。劣等人種と肝胆相照らす仲となる気など、始めからクランカインにはなかった。便利に使える所にあったから、利用していたというだけだ。
神の力は帝室が占有すべきもの。貸し与えた特恵を取り戻し、厳粛な管理にて運営を行えば、アルドノアは永久不滅の力のまま。人々は変わらぬ信仰を女王の上に抱き続ける。
隕石爆撃の残す爪痕は始めの頃こそ女王を悲しませるかも知れないが、彼女も直ぐに気付くだろう。
正しい支配者によって統一された世界の中にこそ、真の平和はあるのだと。
「閣下、現れました。タルシスと旧型の地球カタフラクトです」
部下の声に、はっと我に返る。
「やっとですか。悠長なご到着ですね。私も出撃します。女王陛下と第二皇女は、ザーツバルムの城にいるとみて間違いないでしょう。私が彼らの相手をしている間に、救出部隊を向かわせなさい」
雌雄を決する時が来た。
ヴァース寄りの命を受けた者、受けていない者。
友軍としての繋がりが薄れていく中で崩れかけた陣容を立て直したのは、後から駆け付けた地球唯一のアルドノア空母の艦長だった。
「緊急措置として現時点より、この戦域の総指揮は私、ダルザナ・マグバレッジが行います」
手始めに状況判断を各々に任せ、直属の上長命令に従わんとする者に速やかなる帰投を伝える。離脱者は約2割。8割もの兵が残ったのは重畳といえた。
「正確な人数を把握した後、分隊編制を行います。隊長以下は頭割りで構わないでしょう、不見咲君準備を」
副官に指示を与えていると、スレイプニールを中継してタルシスから連絡が入る。
内容は班編成を連合と火星の混在にする申し出。ダルザナは渋面を作った。
「少し前までは敵同士だった間柄です。上手くいくとは思えません」
「地球人同士でさえ信頼が揺らいでいるのに?同じ事ですよ」
帝国兵の殆どは第三階層出身。命令されることにも従うことにも慣れている。
個人主義の火星領主に主導権を与えたり、指揮官経験の無い兵卒同士を組ませたりする方が危険であると、元伯爵は述べた。
「緊急参戦してきた軌道騎士の運用については、どのように考えていますか?」
バルークルスの説得に応じ、出立時から参加した火星貴族は針路を月に取っている。第二次惑星間戦争で月面基地の隕石爆撃用システムは復旧困難な状態に陥ったが、もしもの時を考えた。個々に高い戦闘能力を持ち、燃料切れの心配がないアルドノア機の騎手は、遠方の拠点を視察する役目を担うのに打って付けだ。
「直接マリネロス基地に当たらせます」
レムリナ姫と陛下の号令に馳せ参じた者達だ。要請が拒まれることはない。
「セラムさん達というより、君に従ったんだと思うけど」
伊奈帆が、ぼそっと言った。スレイプニール越しの遣り取りであることから、彼にも会話の内容は伝わっている。
「私に遵奉したところで、益などありませんよ。あくまで姫様方の代理です」
「……いいけどね。そういうことにしておいても」
自覚がないのは当人ばかりなり。ごく自然に指令を発する元伯爵と、ごく当たり前に準ずる火星貴族の相関に青年将校は両肩を上げた。
「提案を受け入れましょう。不見咲君、調整して下さい」
「よろしいのですか、艦長?」
隊内で起きる軋轢を心配する副官に、ダルザナが重たい息を吐く。
「この戦況、全体で当たらねば、とても乗り切れるものではありません」
出自程度の理由で連携すら取れないのであれば、両惑星に未来はない。艦長はレーダーに現れた一際大きな光点をじっと見つめた。
「――来ましたね。界塚弟、スレイン・ザーツバルム・トロイヤード、敵も総力を挙げてきたようです。『彼』の対応は貴方達に任せます」
「公爵クランカイン」
目前に迫る漆黒のカタフラクトを、スレインは駁雑な思いで迎える。ザーツバルムの後継たるスレインがクルーテオのタルシスを駆り、クルーテオ家当主となったクランカインがザーツバルムの愛機を乗り回している。運命と呼ぶのも皮肉な組み合わせだった。
『スレイン・トロイヤード。界塚伊奈帆と共に今度こそ迷わず黄泉路を行きなさい』
通信越しに届く居丈高な宣告。元伯爵はスイッチを切り替え、スレイプニールに音声を同期させた。
「スレイン・ザーツバルム・トロイヤードです。ザーツバルムの名を忘れて貰っては困ります公爵」
戦意を漲らせるタルシスに、オレンジ色のカタフラクトが並ぶ。
『二人掛かりとは卑怯ですね』
「反則の塊みたいなカタフラクトに乗っておいて良く言う」
クランカインの揶揄を、伊奈帆は平然と受け流した。地球側の送信範囲はタルシス迄。暗号を組み替えるこで、ディオスクリアが持つ傍受機能への対策も施した。青年将校には王配の声が聞こえているが、王配に青年将校の声は通らない。伊奈帆にとって、公爵はアセイラムの配偶者であるというだけの興味も関心もない相手。幾度となく接触を試みたスレインとは異なり、会話など成り立たなくとも構わなかった。
モニターの片隅では、マスタング小隊も戦闘に突入している。
「こちらマスタング1-1。伊奈帆、ディオスクリアの外部端末らしきものが近くにある。必要ならこっちで全部探し出して撃ち墜としておくけど」
ライフルを構える韻子をスレインが留めた。タルシスの流す情報は、周波数を間違えるとクランカインにも伝わってしまうので操作には慎重を期する。
「ディオスクリアは、ステイギスや基地からも映像を集めています。破壊したところで一時的に視界を狭める程度の効果しか得られません」
「えぇー、それだとやるだけ無駄かあ」
弾の無駄遣いにしかならないじゃない、とアレイオンからぼやきが零れた。
「こっちは大丈夫。韻子は自分の闘いに戻って」
幼馴染みの心遣いに礼を述べた伊奈帆が、通話をタルシスに限定する。
「まずは、次元バリアを無効化しよう」
軍神の頭に、次元バリア同士ニロケラスをぶつければ早かったかも知れないとの試みが浮かんだ。あいにくと彼の機体はクライスデール隊と共に、ザーツバルム城の守備固めに残ってもらっている。まあ、連れてきていたところで、効果の不詳な賭になど乗れないが。
「………これは……」
量子アンテナから吸い上げた情報を分析していたスレインが、怪訝な声を出す。
「どうかした?」
「いえ、初手は失敗するかも知れません」
「理由は?」
「はっきりとは。とにかくやってみましょう。伊奈帆は得物をナイフから銃器へ切り替えておいて下さい」
不発に終わるなら、次元バリアに呑み込まれ兼ねない近接武器は命取りだ。
手にした格闘ナイフを格納するスレイプニーを横目に、タルシスは不可思議な形状の兵器を持ち出す。
銃身の下部に取り付けられた大きなカップに塗料を蓄えたそれは、巨大なスプレーガン。
コンプレッサーと一体型で、グリップより後ろにある筒型のボックスが圧縮機になっていた。
使用する機会は巡ってこなかったが、元は北米戦措置の一環としてニロケラス用に準備されていたものだ。宇宙空間で使用するにあたり中の塗料を蓄光材に変更した。
引き金に指を掛ければ、霧状のペンキがディオスクリアへ向けて散布される。キラキラと瞬く粒子が、バリアに呑み込まれ次元の狭間へと消えていった。
付着するのは、ただ一箇所。
「見つけた。右肩関節部」
スレイプニールがアンカーを打ち出し、振り子の要領でディオスクリアへ肉薄した。
急上昇する公爵。バリアの効能をフル活用して、デブリの流れが激しい一帯に機体を置く。
「スレイン」
青年の物問いに応じ、元伯爵がアルドノアの導きを通信に乗せた。
「2分後には収まります」
「なら、慌てて前進する理由もないか」
サテライトベルトには『風』がある。
大気ではなく磁気による流れ。ここで言う風とは、月の欠片達の有する微弱な重力が、地球を巡る動きの中で形作る特殊な磁場のことだ。接近と離脱を繰り返す隕石によって描き出される複雑怪奇な文様は、デブリの雨を宇宙に降らせ、カタフラクトから安定を奪う。
タルシスは未来予測によってこの風を読むことにより、宇宙塵流内で誰よりも迅速な行動を可能としていた。
伊奈帆はタイミングを計り、嵐が弱まるのを待って漆黒の機体と差を詰める。スレインが退路を防ぎに回った。
スレイプニールのライフルが火を噴く刹那、ディオスクリアに付着していた塗料が色味を失う。狙い過たず放たれたはずの曳光弾を不可視の壁が阻んだ。
「バリアの穴が消えた……いや、移動したのか」
アナリティカルエンジンがカシャリと音を立てて、記録したばかりのシーンを考査する。
「機体の複数箇所に外部情報用のアンテナを置き、何らかの手段を用いて受信の配置を変えているといったあたりが、種明かしかな」
反転攻勢に出た公爵がオレンジ色の機体に体当たりを仕掛けた。方向を変じることで辛くも回避する青年将校。
「手動と時限式。君は、どっちだと思う?」
攻め寄せる敵に先制したタルシスが、地球機の胴に抱きついた。そのままスレイプニールを抱え、ステイギス隊と友軍が入り乱れて戦う中へ飛び込む。
「現時点ではどちらとも。あと3、4回試せば予知が働くでしょうが、公爵はタルシスの能力に精通していますから」
未来予測は無から有を産み出す魔法の力ではない。集積したデータを素にアルドノアが弾き出す確率論だ。
「そこまでは付き合ってくれない、か」
真白の機体が針の穴に糸を通すかのごとく、光の砲弾が途切れた間隙を縫って乱戦地帯を横断する。公爵から大きく水をあけたところで、スレイプニールを解放した。
躯体の大きいディオスクリアが後に続けば、敵も味方も次元バリアの餌食と化す。クランカインは無理を押すことなく、混戦区域の手前でカタフラクトを制止させた。
『撃墜王と名高い連合の英雄。どれほどの秘策を用意しているのかと期待してみれば。軍神などと持て囃されたところで所詮はこの程度ですか』
ご丁寧にも嘲弄を寄越してきたクランカインに、スレインのこめかみがピキリと引き攣る。
「こんなことなら、カームさんのお薦めに従ってTATPに着色した染料を使っておけばよかった」
正式名称・過酸化アセトンは、高性能爆薬の材料として知られる有機過酸化物の一種である。
「馬鹿言わないで。バリアの裂け目に付着したぐらいの量では爆轟は起こせないし、まかり間違って拡散した霧が爆燃なんてしたら巻き込まれるのは僕達の方だ」
「わかっています。単なる愚痴なので聞き流してくださって結構ですよ」
いちいち取り合ってくれるなど、元伯爵は嘆息する。
「とにかく!チャンスはあと1回というところでしょう」
タルシスが指の関節を器用に動かし、塗料カップを予備と入れ替えた。
「なら、今ある情報でなんとかするしかない。行くよ」
「はい」
弱点の露出後に、公爵は回避行動を挟んでいる。つまり、任意にせよ自動にせよバリアの穴は瞬時に切り替わる類いのものではないということだ。ならば、採るべき方策はひとつ。
充分なスペースを確保できる場所を捜し区画を変えれば、迂回したディオスクリアが二機を待ち受けていた。
白銀の機体が銃を相方へ投げ渡す。自身は、巨大な裁ち鋏を思わせる剣を手に取った。
公爵が口角を僅かに持ち上げる。
「バリアの仕掛けに気付きましたか。大方、外部接点箇所が移動する前に小回りの利くタルシスで突こうという腹積もりなのでしょうが、そうはいきません」
ディオスクリアの攻撃を、躱せるかというギリギリの迫間へ入るタルシス。
スレインを警戒する公爵は、背後から放たれた煙霧を甘んじて受けた。
何の害もない塗料を1度や2度、被ったところで然程のこともない――と、この時は考えたのだ。
左の脇腹が色付いたのを外部カメラで確かめ、後方へ機体をずらす。
データの集積率によって能力を伸ばすタルシスの、一般的な戦闘行為に於ける未来予測正答率は9割超。平準な武器を用いた攻撃や回避であれば、ディオスクリアも予知から逃れる術はなかった。クランカインは次行程を知られた上で尚、スレインが対処できないアクションを起こさねばならない。
真白の機体に意識を置いたまま、焦点を当てたのはスレイプニール。
動きの鈍い地球製のカタフラクトが相手であれば、アクセルを全開にするだけで脇を摺り抜けられると踏んでいた。
第二次惑星間戦争に参列することのなかった公爵は、敵国の技術を軽んじて致命的な後れを取る。
反転しかけたところを軍神が奇襲した。脇腹をシースナイフで抉られ、クランカインは愕然とする。
「な……馬鹿なっ!」
オレンジ色の機体が、足元のキッカーユニットから空の固形燃料を排出した。
「スレイプニールの反射速度を見誤りましたね」
元伯爵の唇が弧を描く。
短距離、短期間であれば地球カタフラクトのポテンシャルは火星機とそう変わらない。
そして伊奈帆は、機体の能力を最大限に引き出す伎倆に長けていた。
バリアが消失した漆黒の機体に、タルシスが白刃を振り下ろす。
頭上に挙がる右腕。辺りに激しい火花が散った。
「そちらこそ、この機体の性能を侮っていますね」
複数のアルドノアを束ねる力を持つディオスクリアの腕は、ヘラスと同等の硬さを持つ。ザーツバルムが所有していた頃は、合体した上での射出と手動制御を行わなければ高分子化はしなかったのだが。これも改良の賜物ということか。
「硬化するのが、腕だけなら……っ!」
伊奈帆がハンドガンを引き抜いた。
スレインを弾き飛ばした公爵が高分子化を解くと、掌からビームサーベルを出現させる。
タルシスとの相性は今ひとつだったものの、次期火星領主として幼い頃より英才教育を受けていたクランカインの操縦技術は卓越していた。
「伊奈帆、無事ですか!?」
スレイプニールが得物を手放し、固形燃料を消費してバックステップを取る。
「問題ない。得物が撫で切られただけだ。前に見たときより、サーベルの出現速度が早くなっている。全ての能力に於いてパワーアップ済みとか、気合い入れすぎだ」
「ですが、一度に出現させられる能力はひとつだけ。勝機はあります」
いかな更改を重ねようと、基となるアルドノアの前提は覆せない。能力の切り替えはできても、ディオスクリアは一斉に、または合わせ技としてアルドノアを使用することは不可能なのだ。
「面倒でも、端から潰していくしかないか」
漆黒の巨躯を中心として、対角に配置を取った両機にクランカインが鼻を鳴らす。
「やはり2対1は不公平ですね。こちらも応援を呼びましょうか」
公爵の声を皮切りに、地球を周回していた隕石群が、ぴたりと動きを止めた。
ふらりと不自然に揺れた後、引き合う磁石さながらに一箇所へ吸い寄せられていく。
「スレインっ!!」
タルシスを覆い隠した岩石の向こうから、黄褐色のカタフラクトが姿を現した。
3.
ザーツバルム揚陸城の司令室には、一心不乱に戦の局勢を見定めるレムリナの姿があった。
彼女の瞳はサブモニターに中継された主戦場に釘付けで、タルシスの姿をひたすらに探し回っている。
両脇を固めるバルークルスとハークライトは、メインモニターが報じる揚陸城周辺の争いに眉を顰めていた。
四半刻前、外壁沿いに勃発した王婿配下との小競り合い。
鞠戸が先陣を切るクライスデール隊と交戦しているのは、彼等に馴染みの深い機体、オクタンティスとハーシェルだった。
「雑な操縦だ」
「そうですね」
淡々と、映像から受けた印象を述べるバルークルスに、ザーツバルムの副官が相槌を打つ。
「まさか、己の愛馬が量産機並みに扱われるのを、目の当たりにする日が来ようとは」
火星騎士のカタフラクトは騎士叙任の際、皇帝より下賜される一人につきひとつだけの専用機だ。
簡単に乗り捨てられるものではないからこそ、愛着も湧けば執着もある。我が物とするため、幾度となく搭乗し鍛錬を重ねた日々を思えば、バルークルスが嘆くのも頷けた。
ハークライトは隣の騎士ほど長くハーシェルと付き合いを重ねたわけではなかったが、彼の機体は大切な主スレインより譲り受けたもの。未熟な騎兵の手に委ねるのは我慢がならなかった。
「早く潰されてしまえば良いのに」
珍しく感情の籠もった副官の呟きに、深く頷くバルークルス。
「誠に。練度からして、搭乗者は騎士ではないな」
あるいは、起用されたばかりの俄か。
「直ぐに希望通りになりますわ。応戦する地球のカタフラクトには、月面決戦時の――お二方が撃破された折の戦術データがインストールしてあるそうですから」
護衛達の会話を小耳に挟んだ第二皇女が、メインパネルをちらりと検める。
第二次惑星間戦争開幕当初は、カタフラクトのコックピットに身を置くことさえままならなかった鞠戸だが、トラウマを克服してからは従来持っていた才能を遺憾なく発揮していた。
王婿側が何とか戦局を保っていられるのは、カタフラクトの性能に頼ったものでしかない。
後方部隊を叩いているニロケラスが戻れば、すぐにも決着は付くだろう。
「お姉様は何を考えて、あのような半端な者達に起動権を与えたのかしら」
「騎士として取り立てたのではありません。彼等には火星と地球のアルドノアドライブを定期的に見回る役目を任せていたのです」
アセイラムがゆったりとした足取りで管制室に姿を現した。隣には青年達の出撃後、女王に付き添っていたエデルリッゾが従う。
「お休みになっておられずとも大丈夫なのですか?」
「お気遣い頂きありがとうございます。体調は大分落ち着きました」
バルークルスの労りに目を細める。
「私はヴァース帝国の貴族や皇族が、起動権を壟断する現状を変えたかった」
両惑星の確執は、アルドノアの権利を巡って生じたもの。
その原因が取り除かれれば。誰もが自由にアルドノアを使い、豊かに暮らせるようになれば。きっと平和な世が訪れるはずだとアセイラムは信じていた。
「普遍化技術の研究は、一朝一夕には成就しません。それまでの繋ぎとして、一般人より選出した数名にアルドノアの福音を与えてはどうかという意見がでたのです」
もっと幅広く。便利に。民の側に立ってアルドノアを使用してくれる者を作り出そうという主張は、女王の耳に心地好く響いた。
「己が手駒を増やすお題目として、いかにも公爵が使いそうな進言ですわね」
妹姫が小馬鹿にしたように唇を歪める。
ええ、とアセイラムが頷いた。
「今にして思えばそうなのでしょう。人選もあの人が薦めるままに……。本当に愚かでした」
少し調べれば、選出された者達が軍部の出身であることぐらい、直ぐに解ったはずなのに。アセイラムは任命者として至当にすべき検証を怠った。
「それで?ここにいらしても、お姉様に出来ることはございませんわ。医務室へ戻られてはいかが?」
揚陸城内のアルドノア運用はレムリナで事足りる。
一帯の統括管理はバルークルスが担っているし、実務レベルでの指示やサポートはハークライトが請け負っていた。
ここで倒れられても迷惑ですわ。との物言いが、異母妹の気遣いであることはアセイラムにも解っている。しかし、彼女にも譲れぬ信条があった。
「貴女に指摘されるまでもなく、私の出る幕などないのでしょう。だからといって目まで背けてしまっては、この身には本当に何ひとつ残らなくなってしまいます」
ハーシェルのスピードに慣れてきたのか、回避に余裕の出てきた鞠戸から意識を逸らしたハークライトがアセイラムに向き直る。
「以前、スレイン様が仰っていました。初代皇帝は深い見識で、二代目は高い指導力でヴァース帝国を発展させましたが、アセイラム殿下は、その理念を持って人々に道を示されていく御方なのだと」
民に愛される無垢なる女王。輝かしい未来の象徴となるもの。
「スレインがそのようなことを?ですが、志は語るだけでは実現しません」
新しい侍女や近侍が女王ではなく王配の指示にこそ従うように、地位のみにて人は動かせない。指導力や牽引力といった相応の『力』が必要なのだ。
「だからこそ、レイレガリア陛下は政務を執り行う人材を集めておられたのでは。公爵やその父君のクルーテオ伯爵。ザーツバルム卿にも、お声が掛かっていたと伺っています」
美しい君主のため、手を汚すことも厭わぬ者達。アセイラムの理想を現実の形に落とし込む体現者。
初代皇帝は孫娘の倖せと身の安全を秤に掛け、彼女が統治者ではなく象徴として機能する舞台装置を整えていた。
「私はお飾りの人形になりたかったわけではありません。夢見たことを唱えるだけで良いなどと。いくら御祖父様のお言葉でも、それだけは受け容れられません」
「では、どうなさるおつもり?」
異母妹に問われ、言葉に詰まる。
皇族としての立ち振る舞いや理念、考え方等。幼い頃から学んできたことは、具体策を何ひとつ浮かび上がらせてはくれなかった。
「陛下、本調子ではないのですから。一旦、お身体を休められてはいかがですか」
ここで無理に答えを出そうとなさらずとも、とエデルリッゾが気遣う。
「ですが……」
いくら時間を掛けても、引き出しがないのではどうしようもなかった。
揚陸城外の戦闘はニロケラスの合流を受け、ほぼ決着がついている。オクタンティスの潰滅を見届けたバルークルスが僅かに瞑目した。
「レイレガリア陛下、ギルゼリア陛下、そしてトロイヤード卿。アセイラム陛下のお側にあるのはカリスマ性に優れ、機知に富んだ方々ばかり。つい、ご自身に重ね合わせてしまわれるのも、無理からぬことかもしれません」
明確な道筋を描き体現してしまえる時代の寵児。不世出の才能が奇跡的な偶然を経て一所に集ってしまった為に、アセイラムはそれこそが王の才であると錯覚してしまった。
「しかし、国を治める流儀はひとつとは限りません。知恵が足りぬというなら他から補えばいい。そうやって人をうまく使うこともまた、君主としての能力です。助力なら我等も惜しみません」
武と策略で人を従える覇道と、徳を持って人を導く王道。両者は手法が違うだけで、どちらがより優れているという話でもない。
寧ろ平和な世にあっては、臣下の意見を汲み取れる王こそが好まれるだろう。
「調和を尊ばれる御身なれば、先達とは異なる政治の形を探されるのも一興かと、卒爾ながら具申致しました」
「そう、ですね。それが、正しき解なのかも知れません」
人心を集め、火星に帝国を打ち立てた祖父のようになりたかった。技術革新を行い、ヴァースを強国に仕立てた父に憧れていた。
だが、そろそろ目標とすり替わってしまうような理想は諦めて、現実に即した対応を講じる時が来ているのかもしれない。
夢の世界に留まることを良しとしなかったのは、アセイラム自身であるのだから。
良き女王となるため。そしていずれは、ヴァース帝国全体を遍く光で照らす帝位へと至るために。
己が目で見て、頭で考え、取捨選択をなし、自らの足で立つ。
成果を期して待つだけの自己を改革していかなければならない。
「皆さんにお願いがあります。あの戦争で貴方達とスレインが何を思い、何を求めて行動していたのか。亡くなったザーツバルム卿が何を目指そうとしていたのかを、私に教えて下さい。話を聞かせて頂きたいのです」
差し当たり、月面基地で眠り続けていた2年間を埋めることから始めよう。例え、それがどんなに辛く、耳に痛い真実を伴っていたとしても。
気持ちを新たに、アセイラムは一歩を踏み出した。
4.
岩石で固められた繭は一角を弾き飛ばされ、あっけなく核としたタルシスを逃した。
増援に現れた公爵側のカタフラクト・シレーンは、先の戦争を乗り越え残存した機体。数週間前までマズゥールカの手元にあったこともあり、改良などは加えられていない。
「どうやって抜け出したの?」
シレーンの両肩に展開された6つの球体が互い違いの方向へ回転を始める様に神経を尖らせつつ、青年将校が借問した。
くすりと悪戯な笑みを零すスレイン。
「すぐに解りますよ」
重力波を司るシレーンのアルドノアは、地上にあれば竜巻を、軌道上に於いては隕石を自在に操った。更には、周辺の磁場を扱うことで『風』すらも配下に置く。
潮汐力で砕かれた巨石が礫となって気流に乗った。二人を打つ横殴りの石雹。視界と動きが鈍ったところを、ディオスクリアのビームサーベルが襲い来る。
ターゲットに選ばれたスレイプニールがワイヤーを走らせた。いち早く一足一刀の間合いから抜け出る。
方向転換の基点として使えそうな隕石情報を、常に捕捉していたことが急場凌ぎに役立った。
離れ行くオレンジ色のカタフラクトへ向け、漆黒の機体が左腕を出猟させる。
伊奈帆はスレイプニールをワイヤースイングバイから自力飛行へ移した。凶暴な拳の追尾を受けながら、相方の様子をアナリティカルエンジンに収める。タルシスのシールドなら余裕で防げると判断し、残してきたのだが。案に反して石の粒は盾に触れることなく弾かれていた。青年将校は数分前の投げ掛けに対する答えを得る。
「そうか、反重力装置」
公爵がタルシスへ付与した地上での長距離飛行用システム。眼前に張り出した腕はシールドを使うためのものではなかった。防御の要は、万有斥力によって造られた防壁。
「正解です。公爵は自ら行ったアップグレードに首を絞められましたね」
スレインは礫が品切れるのを待ち、側面のパネルへ指を滑らせた。
「伊奈帆、ランデブーは211秒後に」
真白の機体がスレイプニールの反対方面へ舵を切る。
「了解」
数キロごとに空の固形燃料を排出しつつ、軍神は巨大分子の拳から逃れ続けた。能力的な制約を受けるのか、ディオスクリア本体は後方で動きを止めている。
スレインはシレーンと水平対峙になる座標を外し、角度を変えての発砲を繰り返す。タルシスの反重力では石屑を弾くのが関の山。潮汐力には打ち克てない。
射程に据わらない標的に食い下がり、王配の部下は忙しなくポジションを入れ替えた。前後左右に高低を加えた3次元フィールドはスレインの性質に合っている。正面から真横までが有効範囲となる黄褐色のカタフラクトにとって、タルシスの相手は荷が重かった。
シレーンはアルドノアの出力を限界値まで上げ、夢中で岩石を飛ばして囲い込みを狙う。元伯爵の足止めに専心する余り、ガラ空きとなった後頭部の隙目にアンカーが差し込まれるまで、他機の存在さえ意識外に置いていた。注意力散漫を悔やんだところで後の祭りだ。
待ち合わせ時刻をきっかり守った伊奈帆は、逆側のユニットからもう一本のワイヤーを放つ。何もない空間へ向けて描かれたラインは、敵機の真下へ潜り込んだスレインの手に渡った。
力強く綱引けば、ほぼ直角に降下するスレイプニール。釣られて背面より斜め下方向へ負荷を受けた敵の増援機が仰向けに倒れ込んだ。足と頭の位置が、縦方向にくるりと入れ替わる。
反転した視界を埋め尽くしたのは、スレイプニールに喰らいつく直前だった漆黒の拳。
冷静さを欠いたシレーンが、重力場を形成した。ロッシュ限界域を疾うに踏み越えていたディオスクリアの腕が、内部から潰され無力化する。
自らが成した事に硬直する黄褐色のカタフラクトを、飛び上がったタルシスの巨大な鋏が屠った。
『予想以上に、役に立ちませんでしたね』
部下の死も、左腕ユニットの損失も、公爵は意に介さない。
残された手にビームサーベルを閃かせ、スレインへ挑む。太刀筋を読み、機銃で迎え撃つタルシス。
双者の激突を間近に受けながら、青年将校は彼等の境涯に考えを巡らせた。
スレインとクランカイン。背中合わせの鏡のような二人。
第二次惑星間戦争では女王を救った立役者である公爵が、諸悪の権現たる第三勢力の首魁と立場を入れ替えここに居る。
「青い薔薇がどうやって生まれたのか、伊奈帆はご存じですか?」
意識が闘いから逸れるのは、疲れてきている証拠。緊張を取り戻そうとした軍神の鼓膜を、通信機から漏れた音声が震わせた。
「交配育種法または遺伝子組み替えを使った品種改良による成果。君はアルドノアを使った特殊光を照射して咲かせると言っていたけれど」
鍔迫り合いは止まらない。死角へ回った青年将校が、ディオスクリアの肘関節へ剣を叩きつけた。刀身が中程から折れ曲がるのは、タルシスとの決戦時に体験済み。使えなくなったそれを投げ捨て、間髪を入れずに新たな一刀を浴びせた。
二度目の斬撃でやっと通るダメージ。食い込んだ刃を振り落とし、ディオスクリアが腕を水平に薙ぐ。直撃を免れるも、サーベルの熱を浴びたオレンジ色の塗装が僅かに焼け焦げた。
「アルドノアの光はシアニジンの構造体を変貌させ、青を表現する錯体を作り出します。要は、薔薇の色素を狂わせているんです」
相方の補助に回った元伯爵が、牽制弾を撃つ。
息もつかせぬ攻防を繰り返しながら、スレインと青年将校は戦場に似つかわしくない会話を続けた。
「父は超古代文明が衰退した理由にエネルギー源の枯渇を挙げていましたが、僕は別の要因もあったのではないかと考えています」
アルドノアの輝きが植物を―――人を狂わせる。
惑わし、眩ませ、欲望をさらけ出させて。生きとし生ける者達を闘争へと駆り立てていく。
「それが真実なのだとしたら。ここで公爵を抑えても、アセイラム陛下の望む平和な世は……」
人はアルドノアになど頼ってはいけなかった。そう、叫んだザーツバルムの声が、スレインの耳奥で谺している。
「だとしても」
伊奈帆はカタフラクトのレバーを力強く押し、スレイプニールを急旋回させた。無反動銃の筒先を漆黒の表装に接触させる。的にしたのは、先に剣でダメージを与えていた箇所。0距離から放たれる射撃に、ディオスクリアの右腕が肘から千切れ飛んだ。
「そんなものに、僕達は簡単に呑まれたりはしない。君はあの時、泥沼に沈むことなく戦争を終わらせたし、今だって止めようとしている」
スレインの戦いは、常に自分以外の誰かの為のものだった。決して狂気に侵されたものではない。
その証拠に。彼の拾った命が、心を救われた者達が。助けとなって二人をこの場へ導いてくれた。
だから。
「僕達は手を取り合える。生まれや民族に関係なく、同じ人として尊重し合える日が必ず来る」
敵同士だった伊奈帆とスレインだって、同じ目的のためにこうして協力できたのだ。時間は掛かっても拓ける道はあると軍神は確言する。
「……はい。ありがとうございます伊奈帆」
無線機としても稼働するパーツを警戒し、タルシスが本体から外れた腕部に止めを刺した。
『まだです!』
両腕のユニットを失った公爵がオレンジ色の機体へ回し蹴りを放つ。地球機よりも可動域の高い関節を持つ、火星カタフラクトだからこその動き。
「……っ!」
予知していたスレインが、強引に両者の間へ割り込んだ。タルシスの倍はあろうかという巨体の作り出すインパクトに、スレイプニールごと弾き飛ばされる。
「くっ…スレイン!」
「だい……じょうぶ、です」
白銀の躯体は守備よりスピードを重視した造りとなっているが、頑強さは地球機を上回った。シールドの表面こそ陥没したものの、続投可能な状態で踏み留まる。
距離を空けることなく膝を打ち出す王婿の騎馬。タルシスの保護下から抜け出た軍神がありったけのワイヤーを放出した。
欠けたる月を背景に繰り広げられた闘いは、戦場兵が後々まで語り継ぐ程に凄絶だった。
卓越したディオスクリアの動きと、その多彩な能力に人々は息を呑む。
戦陣を巡る曳光弾の輝き。耀う白刃。オレンジ色と真白の機体が織りなす連携が、目にする者達の心を奪う。
どちらか片方でも、漆黒のカタフラクトを撃破することは可能だったかも知れない。しかし、生きたまま拿捕することは困難を極めたろう。
ワイヤーに搦め捕られたディオスクリアを、タルシスとスレイプニールが二体掛かりで隕石の岩盤へ打ち付けた。
小さなクレーターを作り出す迄に躯体をめり込ませる。敵の動きが遂に止まった。
伊奈帆が拘束を補強する間、スレインは公爵へ呼び掛けを行う。脳震盪を起こしたのか、応じる声はなかった。
「一段落ですね」
ほっと肩から力を抜き、元伯爵は時計に目をやる。指定の刻限まで、あと1時間といったところだ。
将の敗北を知った敵兵が、投降を始める。
「こちらデューカリオン。二人ともご苦労様でした」
マグバレッジから通信が入った。
「第二皇女側の騒ぎも鎮静したと、バルークルス伯爵から連絡を受けました。それと、月面基地の隕石爆撃用装置は破壊された時のまま手付かずだったそうです」
連合側で火星機の声を拾えるのは、タルシスとスレイプニールのみ。サテライトベルトと月の距離ではカタフラクト同士の通信は届かないことから、伝達はザーツバルムの揚陸城を経由したものとなった。
「後は本丸に潜入した軌道騎士から、装置停止の一報が入るのを座して待つだけか」
燃料の残りを確かめながら、伊奈帆が珍しく甘い見通しを立てる。
「いえ。どうやら、そう簡単にはいかないみたいです」
タルシスのコックピットでは、スレインが困惑を浮かべていた。指先が触れるのは、伯爵専用の回線が使われたことを示す赤いランプだ。
「マリネロス基地に潜入した騎士の報せです。目標地点に管制装置は見当たらず、機材を動かした痕跡のみが残っていたと」
艦長の顔が険しくなる。
「厄介ですね。移設先に心当たりは?」
「可能性があるとしたら、クルーテオ卿かマリルシャン卿の揚陸城のどちらかでしょう」
慎重な性格のクランカインが、他者に作戦の要となる装置を委ねるとは考えにくい。
「猶予がありません。界塚弟、スレイン・ザーツバルム・トロイヤードの両名は、クルーテオの揚陸城へ向かってください。マリルシャンの揚陸城にはクライスデール隊を派遣します」
抵抗する者があれば容赦なく排除を。と、いつになく厳しい指令が下った。
二人は声を揃えて応諾する。助力を申し出たマスタング小隊と共に、クルーテオの居城を目指した。
5.
父亡き後の三年を過ごした古巣の内部を、スレインは駆け巡る。
ザーツバルムが破壊した箇所は、綺麗に修繕されていた。
残された人員は、要塞の管理を受け持つ最低限のみ。食客は全員が前線に借り出され、懸念された攻防戦は発生しなかった。到底、重要な設備があるように見えない。
「僕が担当した階には、それらしきものはありませんでした」
「同じく」
「こっちにもなかった」
数を頼みに行った捜索は、不首尾に終わった。
「もう一回、隅々まで探して。ここが一番、可能性が高いんだから!」
ユキの檄が飛ぶ。王婿以下の関係者を尋問している暇はない。
「あと40分しかないよ!どうしよう伊奈帆」
韻子が半泣きで幼馴染みに縋った。
デューカリオンに経過報告していた青年が、ストローマイクから手を離す。
「マリルシャンの揚陸城でも成果は上がってない」
「火星が飛ばしている無人衛星とかは?」
「考えられません」
ライエの着想をスレインが打ち消した。
装置は大きさもさることながら、演算時に掛かるメモリ負荷が半端ない。揚陸城のメインエンジンサイズであっても補助動力を積まなければフリーズすると聞いていた。衛星サイズでは起動さえ怪しく、抑も遠隔操作ができるような代物でもない。
「どこかに秘密基地があるとか」
「それもあり得ないわ。サテライトベルト上で大掛かりな工事なんてしていたら、連合軍だって気づかないはずがないもの」
韻子とユキも意見を出し合った。
「基地……」
反芻した伊奈帆の瞳に、煌めきが走る。
「……トライデントだ!」
あ、とスレインが声を上げた。
「公爵が度々出入りをしているとハークライトが言っていましたが。そういうことですか!」
元伯爵は連合軍の拠点を己の足場固めに利用したが、無用な破壊行為を目的としていたわけではない。地球軍の撤退後は放置され、奥は無傷で残っていた。
装置の移設とアルドノアドライブの持ち込み程度なら、1年もの期間あれば充分。
「丁度、カームに頼んでおいた燃料補給も終わった頃だ。僕達はこのままトライデントへ向かおう」
公爵との戦闘で大半の固形燃料を消費してしまった伊奈帆は、多様な局面を切り回すべく整備士を呼び寄せていた。
準備が良すぎるでしょ。と、ユキが呆れとも感心ともつかない顔をする。
「見落としがあっても困るから、私達はもう一回りしておくわ。なお君、スレイン君。気をつけて」
足元に地球の拡がるフロアでマスタング小隊に、ドッグでカームに見送られて揚陸城を後にした。
「目的地までは約15分。総面積はパルナッソス基地の半分以下。大規模な改装もできないとなれば、機材を置けるスペースは限られてくる。捜索対象となるのは精々が1、2箇所だ」
「ネックは警備にどれだけの厚みがあるか、でしょうか」
隕石を避け、タルシスはサテライトベルトの縁を飛ぶ。
「公爵はあの場で僕達を押さえ込めると過信していた。マリルシャンの揚陸城にも人員を割いているし、余剰の駒を残しているとは思えない」
並走する青年は、勝算は十二分にあると見越していた。
もう数百メートル地球に近ければ、重力に引きずられるギリギリの場所。内周を選んだのは、少しでも距離を稼ぐためだった。風の煽りを受けるだけでも機体の制御は軽々に失われる。
アナリティカルエンジンを持つ伊奈帆と、未来予測のあるタルシスだからこそ取れる行路だ。
スレインはアルドノアの動力をスピードに回すため、演算機能を走行経路の割り出しに限定する。
もしこの時、予知能力を絞っていなければ。この先の展開は違ったものとなっていただろう。
「見えてきたな。あと少しだ」
トライデント基地の特徴である巨大な射出口が、スレイプニールのメインモニターに形作られた。
『そう簡単にいくとは、思わないことです』
タルシスの通信に割り込む第三者の宣告。オレンジ色の機体がバランスを崩した。サテライトベルトの中程から撃ち抜かれた右足が、キッカーユニットごと吹き飛ばされる。
「……っ、伊奈帆!」
白銀のカタフラクトが、スレイプニールの腕を取った。其の間に、声の主が頭上を越える。
「驚嘆に値する粘り強さだ」
再登板の敵将に、体勢を立て直した軍神が舌打ちした。
「感心しないでください」
「してないよ。うんざりはしているけどね」
マリネロスより戻った軌道騎士達が、連行のため隕石から躯体を掬い上げたタイミングで、クランカインは目を覚ましている。合体を解除し、脚部ユニットを陽動に使うことで包囲網をすり抜けた。
胸部パーツはコアロボットを運搬する機能を併せ持つ。飛行形態時の移動速度は人型カタフラクトを凌駕した。クルーテオ揚陸城でのロスタイムを含めれば、二人に追いつき追い抜くことなど、いとも容易い。
「僕達の足取りをつけてきたということは、トライデントで正解のようですね」
行く手を阻んだ敵機をスレインは睨めつけた。
『ご明察。ですが後20分、貴方達の足止めをすれば私の勝ちです』
カタフラクトなら着地動作を含め5分と掛からない距離が、今は遠い。
コアロボットは合体時の損傷で右腕の先をなくしていた。無傷で残る左手には散弾銃を握る。装填は、スレイプニールの足を撃ち抜いたスラッグ弾からフレシェットに切り替わっていた。
広範囲に飛び散る軽量な弾丸は致命傷とならずも、回避が難しい。両肩に積まれたミサイルコンテナと、胸部ユニットの機銃が、前に進もうと逸る気持ちに抑圧を掛けた。
「まずいですね」
リミットまであと15分。スレインは唸った。
このままでは隕石が地上に墜とされてしまう。
「こうなったら君の力で隕石爆撃装置のアルドノアを止めるしかない」
伊奈帆の提案に、元伯爵が叫んだ。
「無理です!距離があり過ぎますし、何処に設置されているかだって判明していません」
しかも、基地はサテライトベルトに乗り、常に流動している。これまでスレインは動く的に力を使ったことがなかった。
接岸していたデューカリオンから、アルビールの中央管制室を鎮めた時とは何もかもが異なる。
「でも、もうそれしか方法がない」
「…………」
わかっているのだ、スレインにも。
時間稼ぎに特化したクランカインは自分から仕掛けてこようとはせず、挑発にも乗ってこない。右足を奪われたスレイプニールの推進力は半減し、ワイヤーも使い果たしていた。
後続する騎士か、マスタング隊を待てば形成は逆転するが、それからでは間に合わないとタルシスは告げている。
打開策を持つのは、スレインだけなのだ。
「……意識を集中させるのに、少し時間を要します」
「公爵は君の力を知らない。動きを止めたことに不審を抱いても、攻勢に転じることはないはずだ。相手が何か行動を起こした場合は、僕が防ぐ」
失敗しても地上の何割かが焼け野原になるだけだから。と述べる青年将校に、がっくりと肩を落とす。
欠片も気休めになっていない。
「友軍に属するアルドノア搭載機のパイロットに、この一帯から緊急退避するよう通達を送ります」
深呼吸をひとつ。通信機のスイッチを入れた。
在処が特定出来ない以上、力の及ぶ限りに存在する全てのアルドノアを停止させるしかない。
「伊奈帆は、ユキさん達にコアロボットと胸部パーツの確保をお願いしてください。あの二体も止まるでしょうから」
ガスタービンエンジンで動く連合機は、スレインの力の影響外にあった。
「タルシスはどうなる?」
「恐らく、いえ。確実にタルシスも止まります」
長らく親しんだ愛馬を撫で、騎士は心の中でそっと感謝と別れを告げる。
「ライエさんに協力を要請した。タルシスのコックピット内の空気がなくなる前に、君を連れて帰還する。ディオスクリアはユキ姉と韻子に任せよう」
「はい、お願いします」
交信を終えた元伯爵は、背もたれに体重を預けると静かに目を閉じた。
瞼の裏で瞬く星は、超古代文明がもたらした叡智の輝き。
タルシスの微かな振動を受けながら、絹糸よりも細い感覚を辿ってモニター越しに正面を見据えた。
凜然とした一声を、全霊を込めて言い放つ。
《消失せよ、アルドノア》
脳裏で弾けた光が、視界と意識を埋め尽くした。
三体のアルドノア機が、糸の切れた人形と化して崩れ落ちる。
スレイプニールは白い機体を、しっかりと引き寄せた。
流されるコアロボットに追いついた韻子とユキが、ワイヤーを飛ばす。
手が足りないので胸部パーツは放置した。
「なお君、装置はどうなったの?!」
ライエのアレイオンが近づいてくるのを待ちながら、伊奈帆は「わからない」と答える。
「嘘!?急いで確かめないとっ!」
「無駄だよ、韻子。今からじゃ間に合わない。成果はあと3分で判明する」
全員が動きを止め、辺りの様子を窺った。
「残り10秒」
カウント開始。
9・8・7・6・5
「………やっ…」
ぎゅっと眼を瞑る韻子。
4・3・2・1……
操縦桿を握るユキの指に力が籠もった。
スレイプニールの反対側からタルシスの腕を取ったライエが唇を引き結ぶ。
――――ゼロ。
眼を瞑ったまま30も多く数を数えていた韻子は、いつまで経っても訪れない変動に恐る恐る目を開けた。
「え、っと、大丈夫、みたい?」
「ええ。任務は完了ね」
くつろいだ表情で、ユキが大きく伸びをする。
「お疲れ様、なお君。スレイン君……には、聞こえないみたいだから、後で直接お礼を言わなくちゃね」
「やった、やったよ!伊奈帆!!」
声を弾ませる幼馴染みの少女。
「早く戻らないと、タルシスの空気がなくなる」
冷静に告げるライエの声にも喜びが滲んでいた。
誰もが戦の終局に気を緩める中、王配最後の陥穽が発動する。
ディオスクリアの各パーツは、それぞれがアルドノアエンジンを有する自立思考型無人機だった。
領域外にいた脚部ユニットは主が残した命に従って、猛スピードでスレイプニールに特攻を仕掛ける。
ステルス機能によりレーダーは反応しなかった。青年将校は接近する敵機から間一髪のところでライエを遠ざける。タルシスを庇い背面からもろ被りした一撃は、シールドユニットの恩恵により大きな損傷こそ免れたものの、躯体を大気圏側へ押し出した。
「この……っ!」
無反動銃を手に抗戦の構えに入るライエ。二体一対の無人機は人型となり、彼女とユキ達に対敵した。
片足のキッカーユニットでは出力が足りず、スレイプニールの復帰は適わない。
「なお君!」
「伊奈帆!!」
ディオスクリアを捕虜とするユキと韻子は、脚部パーツの妨害を受け身動きが取れずにいた。
「今、助ける」
銃撃戦の隙を突こうとするライエを、青年将校が制する。
「ダメだ。これ以上高度を下げると君まで地球の引力に巻き込まれる」
スレインの伝達により追跡を中断した騎士達の役目を継ぐ連合の軍用機が、じきに到着する。IFF(敵味方識別装置)の位置情報的に自分達の救護には間に合いそうもないが、彼等と協力すれば残党の始末は労せず終わるだろう。
「後を任せる形になってごめん。こっちは何とかするから」
「なお君ってば、またそんな―――」
小言は最後まで聞かず、通信を切った。
地球の青が、近づいてくる。
コックピット内に取り残されたスレインは、タルシスを揺るがす振動に肩を跳ね上げた。
残されたのはアルドノアに頼らない小さな非常灯のみ。状況が全く掴めない。
ただ、何かに引っ張られるような機体の動きには既視感があった。
重力に引かれ、タルシスが成層圏に落ちようとしている。
「また、このパターン」
少しげんなりするも、すぐにこれで良かったのかも知れないと思い直した。
衝突が落下途中の隕石に巻き込まれたものなのだとしたら、自分は大事な場面で取り返しの付かない失態を犯したことになる。
力を尽くしてくれたレムリナやハークライト達に合わせる顔がなかった。
前回は、敵の施しによってうっかりと生き延びてしまったが……と、そこまで考えて、はたと気づく。
伊奈帆は、どうしている?
「まさか……」
石英ガラス製の小さな窓に顔を寄せると、僅かながら自分を抱えるオレンジ色が目視できた。
「伊奈帆、離れて下さい。貴方だけなら片足の固形燃料でも離脱できるはずだ」
断熱圧縮によって外殻を失った右足損傷部が発火する可能性は高い。前のように砂浜に落ちるとも限らないのだ。岩肌に激突でもしたら、スレイプニールとて一溜まりもないだろう。
「お願いですから、伊奈帆!」
連絡手段は断たれている。アクセルを踏んでも、操縦桿を揺すっても、真白の機体が反応することはなかった。
「伊奈帆!!」
スレインは届かない声を必死に張り上げる。
「今頃、怒っているかな」
タルシスに同道した軍神は、顔を覆うヘルメットの下でひっそりと笑った。
敵対していた時でさえ、伊奈帆を墜落に巻き込むまいと自らワイヤーを斬った青年だ。きっと今回も、自分のことはそっちのけで相手の心配ばかりしているに違いない。
「だけどごめん。例え君が望まなくとも、僕は君を死なせるつもりはない」
全身にのしかかる重力加速度に目を眇める。
「伊奈帆、タルシスを離せ!」
火星機の中では、スレインが伊奈帆の名を連呼していた。
「スレイン、僕はね――」
互いには通らない、けれど確かに繋がる言の葉を交わして。
「最後に掴んだこの手だけは、絶対に離さないと決めているんだ」
伊奈帆は、恋人を抱く腕にしっかりと力を込めた。
地上で隕石爆撃の脅威にさらされていた人々は、遙か上空を渡る一条の光を見る。
終焉の先触れかと戦慄を覚えるも、続く破滅は訪れなかった。
それが、第二次惑星間戦争の終わりを告げた輝きに酷似していると言い出したのは、果たして誰であったのか。
望みは、命の危機に怯えることのない生活。家族や友人、隣人達と過ごす穏やかなる日々。
幾度、戦渦に見舞われようとも、家や土地を焼かれようとも。平和な世の訪れを待つ心だけは捨て去れないから。
長く尾を引く星が希望であることを願い、大切な人と迎える明日を想って静かに天を仰いだ。
同じ刻。
ザーツバルム揚陸城で皆の帰りを待つ皇女と侍女が。火星の騎士と地球の兵が。
そして、帝国を統べる女王の座にある少女が。
青年達の無事を祈って、胸に手を当てていた。
徐々に減っていく酸素に朦朧としていた元伯爵は、近くで届いた破砕音にぼんやりと目を開けた。
「耐えきれなかったか……」
伊奈帆には悪いことをした、と詫びる間もなく急激な重力変化がおきる。
「な、何?!」
真逆の方向へと引っ張り上げられる身体。
以前は、水平飛行から大気抵抗を利用して徐々に高度を下げるエアロブレーキと呼ばれる手法が取られていたのだが。軍神は一体、何をしたというのか。
内臓がひっくり返るような反動に、胃液が込み上げる。
吐き気を堪えつつ小窓に目をやれば、外は黒く塗り潰されていた。大気圏の突入はとうに終えている頃合いだ。落下した地域が夜なのだろう。
横へ横へと流れていった機体が、やがて些か乱暴な着陸を果たした。
全身を打ち付け、重力のもたらす痛みに呻くスレイン。それでもコックピットから放り出され、内臓にまで損傷を負った前回に比べれば、羽毛のような優しさだった。
完全に動きが止まるのを待って、手探りで通気口のコックを拈る。肺を満たす量の酸素が流れ込んでくるまでの間が、やけに長く感じられた。
気圧計が外と変わらぬ数値になるのを待ち、非常脱出用のレバーを引く。
地表を渡る本物の風が頬を撫でた。
不時着した先は、やはり世界の何処かにある砂浜。夜明けが近いのか、水平線の向こうが僅かな色味を帯びていた。コックピットから這い出た身体が、無茶を通したツケにより力なく砂浜へ落ちる。
地を這う視界に、白い宇宙服の足先が映った。
「一体、どんな手妻を使ったんですか」
突っ伏しそうになる腕を叱咤して、なんとか座位へ持って行く。
促された方向へ顔を向けると、明るくなっていく景色の中、ぺしゃりと潰れた化学繊維の布が砂地に拡がっていた。
エアロシェル、と無意識に声が出る。
「もしかして、スレイプニールの両肩にあった箱体の中身はこれですか?」
スレインは驚愕を隠せなかった。
「そう。うまく開いてくれて良かったよ」
「じゃあ、さっきの爆発は……」
「バランスを取りやすくするのと機体を軽量化するために、余計な装備を捨てて左脚を吹き飛ばした」
接地が荒々しかったのは両足がなくなっていた所為かと、元伯爵は合点する。
「ユキさんじゃないですが、貴方の準備の良さには脱帽します。タルシスより未来が見えているんじゃないですか?」
「過大評価だ。けど、次はもっと安全に着地できると思う」
柔軟エアロシェルを使ってみるのも面白そうだ、などと嘯く青年将校に元伯爵は頭痛を覚えた。
「カタフラクトでの大気圏突入は人生で二度も体験すれば充分です」
三度目は断固として拒否したい。
「スレイン」
差し出された手に刹那、嫌悪に満ちた眼差しで銃口を突きつけてきた少年の姿がオーバーラップした。
ここにあるのは、何も持たず。純粋な気遣いによって開かれた掌。
顎を上げれば、優しさに満ちた瞳がこちらを見つめていた。
額に掛かる髪を掻き上げ、スレインは柔らかに微笑む。
「まあ、生きていて良かったですよ。貴方も―――僕も」
伊奈帆が大きく目を見開いた。
「うん。……ずっと。ずっと、その言葉が聞きたかった」
死ぬことばかり望んできた彼が、生を寿ぐただ一言が。
赦しを得た咎人のように、長く息を吐き出し青年将校が目を伏せる。右の頬を涙が伝った。
伊奈帆の手を借り、目線を同じくしたスレインは手の甲で、雫の跡を円やかに撫でる。
水平線の向こうから朝日が姿を覗かせた。
金色に染まる海。穏やかに寄せては返す潮騒の音。
虹彩が映し出す互いの姿に歓びを感じ、そっと指を絡め合う。
どちらからともなく、唇が重なった。
Epilogue
それからの数ヶ月は、飛ぶように過ぎていった。
無事に高校卒業の認定を得たデューカリオンの学生兵達は、秋から大学に通い始めている。
進学を機に韻子は、軍から正式に離れることにした。将来、なりたいものは他にある。
第二次惑星間戦争の時は胸中の蟠りが消えず、だらだらと軍に籍を残してしまった。
それが今回のことで、すっきりと片付きなくなっている。
伊奈帆に対する想いや、急激に終わりを迎えた紛争に感じる違和感等々。自分の中で色々な物事に、決着がついたということなのだろう。
祭陽と詰城も、民間企業への就職を希望していると聞いた。
ニーナはデューカリオンの操舵手が殊の外、合っていたらしく少し迷っているという。
カタフラクト好きのカームは迷わず工学部へと進んだ。卒業後は軍の整備士となり、将来的には火星型カタフラクトの製作に携わるのが夢だと語っている。
連合軍の大掃除は他に適任者がいなかったことから、渋々ダルザナ・マグバレッジが請け負った。
女の身で佐官にまで上り詰めた彼女は、現場を愛する質でありながら政治力にも長けている。世論と一般兵は、最終決戦の総指揮を執ったデューカリオンの艦長を高く評価していた。女性職員の8割方は元から彼女の信奉者である。女傑が大胆に振るう改革の大鉈がいつ自分達の頭に落ちるとも知れず、上層部のお歴々は戦々恐々としながら仕事をこなしているらしい。
公爵は国事犯用の収監施設で裁判を待つ身となった。火星要人に対する配慮から、待遇は悪くない。
彼が取り調べの中で上げた名は、ヴァースと地球各国の政界および軍部に激震をもたらした。
連日連夜、テレビで記者会見が催され、多くの者達が地位と職を失う仕儀となっている。
エーリス・ハッキネンもその一人。彼は狡猾にも司法取引を持ちかけ、自主退職という扱いを得て連合軍を去っていった。流石は狸、面の皮が厚いですね。とは不見咲の感想だ。
新たに明らかとなった事実もある。
第二次惑星間戦争時のクランカインは、皇帝陛下の命により月面基地を訪れたのではなかった。
スレインやアセイラムに述べた口上は偽り。本懐は、会議派の意を汲んでザーツバルム陣営の力を削ぎ落とすことにあった。
要請したのは地球連合上層部。彼等は日々勢いを増していく第三勢力に危機感を抱き、自分達が通じる火星会議派の議員に対応を迫っていた。
地球側より予め概要を知らされていたオペレーション・ルナゲートを利用することで、クランカインはまんまと皇女の奪取に成功する。
レイレガリアの生命維持装置の停止を、議会の手先となっていた側近に命じたのは彼の独断によるものだ。
和平を望むアセイラムと、王婿となることを了承した自分。双方の差し障りとなる老害は、早期の排除が無難との判断からだった。
この話を聞いた女王は、祖父の死を招いた軽はずみな自己の言動を深く嘆き、悲嘆に暮れている。
ヴァース帝国側では、エデルリッゾの父親が中心となって事態の収束に当たっていた。
先代皇帝レイレガリアの暗殺経緯が詳らかにされたことで、皇城で長らく実権を握っていた者達は放逐処分。議会も半分以上が空席となった。
議員の補充は、ヴァース帝国初の選挙にて行われる。
従前の根回しが功を奏し、アセイラムが地球の火星化計画に関わっていなかったことは事実として浸透した。それでも非難する者はいたが、処分を求める声はどこからも上がっていない。
遺伝子バンクが失われた現在、ヴァース帝国内の起動因子保有者は彼女と誕生したばかりの太子だけとなった。火星ではアルドノアの恩恵無しには生きていけない。二人の地位と安全は、少なくとも皇族に余剰人員が生じるまでは保障されるだろう。以降は、女王の頑張り次第といったところだ。
レムリナは地球に残った。残らざるを得なかった、というのが正しい。
戦後一年と経たぬうちに、再びヴァース帝国側の火種によって争いが起こったのだ。しかも、此度の旗振り役は生粋の火星貴族。地球側の関与を差し引いても、賠償は避けられぬものとなった。
帝国の貨幣は地上では価値を持たない。地球はこれから発掘されるアルドノア鉱石の使用権と、全研究資料の引き渡しを求めた。アルドノアは未だ旨味の残る資源。寧ろ、限りあるからこそ何処が占有するかが重要視されてくる。
ヴァース帝国側はこれに対し、背水の陣の構えで挑んだ。要求を呑めば、火星は今度こそ植民地化されるか、死の星となるかの二択しかなくなってしまう。
最終的にみた着地点は、第二皇女の地球残留と平和利用目的の両星合同のアルドノア開発研究所の設立というもの。処分が大分甘い物となったのは、地球経済界の大物が数名、影でフォローに回った為だと言われている。
スレインは供述する。
「火星領主の多くは元々、地球で素封家として過ごしてきた者達。多少の興亡はあっても名の知られた家ばかりなので、血脈は簡単に辿れます。特に影響力の強そうな一族の当主数名に面会を申し入れ、ビジネス提案を織り交ぜつつ情に縋ってみたところ、全員が快く助力を引き受けてくれたのです」――と。
伊奈帆はそれ以上の経緯は聞かず、「夜道には気をつけなよ」と忠告するに留めたのだとか。
体の良い人質とされたレムリナは、己の役割を十分に理解した上で「スレインの生まれ育った星で一生を過ごせるなど夢のようですわ」と朗らかに笑った。
ダルザナや伊奈帆に出来たのは、第二皇女を大使として扱うよう各国に掛け合うことだけ。お陰である程度の自由と権利が得られたと彼女からは感謝されたが、制限された生活を強いられることに変わりはない。
彼女の騎士として、スレインもまた地球で暮らすこととなった。副官であるハークライトは言わずもがな、主の傍を離れる気などない。
エデルリッゾも父親から滞在許可をもぎ取ってきた。暫くは第二皇女の侍女を続けながら地球で様々なことを学ぶ。
初恋相手の側に居たいだけでしょう?とレムリナに揶揄され、真っ赤になりながらも「そういう理由もあります」と言い切ったのはいっそ天晴れだった。
世間のスレインに対する目は、少しずつ改善されてきている。なんといっても、サテライトベルトの戦いにおける最大の功労者だ。今になって次々と明かされる裏事情に、第二次惑星間戦争とは何であったのかを考え直す風潮が生まれたことも追い風となっている。
女王は帰星次第、青年の永久追放処分を撤廃すると約束した。
彼の身分を再設定するにあたり、レムリナとアセイラムは公爵でも侯爵でも好きなように、なんなら皇太子を名乗っても良いとまで薦めている。アルドノア因子を持っているのだから、当然の権利だとも。
スレインは起動権の譲渡能力こそ持たないが、凍結権は持っている。人間相手に使えば、皇族が与えた起動権すら剥奪できることも先日判明した。
アセイラムに請われ、極秘でクランカイン相手に試した結果だ。
但し、こちらは完全に沈黙したアルドノアドライブとは異なり、再度の権限付与も可能。女王はそこまで確かめた上で、王婿の権利を一生涯封じることにした。
火星貴族たる条件はアルドノア起動権の保持。公爵はその地位を失った。クランカインがヴァース帝国への帰還を許されたのは、これより15年以上も後のこと。以降、彼は一般市民として影ながら女王とその子を支え続けたが、それはまた別の話となる。
起動権と凍結権は二つでひとつ。最初に権利を得た一族が起動権、次に触れた者が凍結権といった風に、権限を得た順番によって種別が変わるプログラミングが因子に施されてたのではないかと、アルドノア研究第一人者の息子は見解した。因子の流出を怖れた初代皇帝が、遺跡に他者が立ち入ることを禁じたために、発覚が遅れてしまったのではないかとも。
どちらもシステム管理者であるために、アセイラムはスレインのアドミン権限の下に一般権限としての起動権を付与できたし、青年は女王が第三者に行ったユーザー設定が変更できる。
面白がって自分の起動権も凍結するよう迫っていたレムリナは、因子持ち同士では使えない――使ったところで意味がない――と聞いて少し拗ねていた。
もし、彼と女王が婚姻を結べば、ヴァースではより柔軟な起動権の運用が可能となる。
しかし、二人にその気はなく、スレインに至っては力が公にされることを極端に嫌がった。ダルザナやエデルリッゾの父親と相談し、一先ず情勢が落ち着くまでは真実を伏せる方向で話が纏まっている。サテライトベルトで派手に動いたので勘付いた者も少なからずいるようだが、姫付きの騎士として再起を果たした彼に軽率な真似をする輩はいない。恋人の向背にやきもきしていた青年将校としては一安心といったところだ。
そして伊奈帆は。
相変わらず、軍に籍を置きながら学生を続けている。
微妙だった階級は、正規のものと置き換えられ少佐となった。
上層部が大勢抜けたことにより、マグバレッジも昇進している。
将官となったことで身動きが取り辛くなった彼女に代わり、この先、ヴァース帝国との交渉テーブルには青年が着くことになった。
火星皇女の騎士であるスレインとは、再び相対する関係となる。
これについては、二人で何度も話し合ったのだという。
過度な令名は、不特定多数に恐怖をもたらす。
両雄並び立たず、出る杭は打たれる。二人は共にあることで、世界から排除されることを怖れた。
互いを抑制し合うぐらいの関係が自分達には丁度良い。それが彼等の出した結論だ。
仔細を幼馴染みから聞かされた韻子は、好きな人と自由に会うこともままならないなんて!と世の在り方に憤慨したのだが。「障害がある方が燃える」などと宣う声まで耳にしてしまい、一気に阿呆臭くなってしまった。
犬も食わない、いや馬に蹴られる?……うん、どちらもちょっと違う気がするが、とにかく関わり合うだけ馬鹿をみるに違いない。
季節が巡り、争いのない暮らしを日常と実感できるようになった頃。
東京近郊の軍事基地より、ひっそりと火星へ旅立つ一行があった。
韻子とニーナ、それにカームが軍関係の施設に足を踏み入れるのも進学以来となる。他の面子は既に揃っていた。
送り手は韻子達三人の他、伊奈帆とスレイン、レムリナにエデルリッゾとハークライトの総勢8名。
マズゥールカは電波の届かない地域にいるのか、連絡が取れなかった。地球の様々な文化や特産品を調査してヴァースの発展に寄与したいと長広舌を振るっていたが、単に旅好きなだけだろうと一同は看做している。
送られる側のアセイラムは、腕に生まれて半年弱の赤子を抱いていた。首も据わりある程度の長旅でも問題ないと、医師からは太鼓判を押されている。
尤も、航宙船での移動はサテライトベルトまで。そこからは、揚陸城の貴賓室で過ごしながらの道行きだ。専門医や乳母も同行する。出立を遅らせていたのは、女王の心身の安定を図っていたに過ぎなかった。
護衛には火星で婚約者が待つというバルークルスが付く。
反対隣にはライエの姿があった。
韻子とニーナが友人より帰省を知らされたのは、一ヶ月ほど前。進学から一人暮らしを始めたニーナの部屋でいつものようにお喋りに興じているときだった。
故郷で女王の補佐をするという。
寝耳に水の発言に、韻子は食べかけだったタルトの生地でスカートを粉だらけにしてしまった。ニーナは「なんで」「どうして?!」「寂しいよ、嫌だよ」をエンドレスで繰り返して、火星から来た友人の腕にしがみつく。
第二次惑星間戦争から続いた一連の流れの中、スレインやアセイラムの覚悟と接したことで、ライエは漸く己を顧みる勇気が持てた。
貧困から抜け出すために、犯罪行為に手を染めた父。
皇女を開戦の起爆剤とするならば、着火し炸裂させたのは自分達親子とその仲間だ。
ヴァース帝国を父の仇とライエは憎んだが、多くの者にとっては彼女と父こそが空前の大惨事を引き起こした張本人である。
沢山の命が喪われた。大勢の人が悲劇に見舞われた。
スレインが幽閉の身分を甘んじて受け入れていたように。公爵が罪業を裁かれようとしているように。
ライエもまた、自らの過ちを背負わなくてはならない。
「それが、女王様のお手伝いをすることなの?」
ぎゅっとライエを抱きしめたままのニーナが、上目遣いに友人を窺った。
「あの人、言ってた。この先の人生は帝国の歪みを正し、火星を豊かにする事に費やすつもりだって」
そして、地球との和平を恒久のものとしていきたい。それが、稚拙な振る舞いで戦争を引き寄せてしまった己の贖罪なのですと。
ヴァースの窮状が父を凶行に走らせたのだとしたら、それを無くすことこそが真なる復讐。アセイラムの志に共感したライエは、償いに代えて彼女の支えとなることを誓った。
少しぐらい距離が離れたからって、友情がなくなるわけじゃない。
韻子とニーナは散々に泣いた後で、友人の選択を受け入れた。彼女が故郷への憎しみを昇華できたのは、素直に喜ばしい。ネットに繋げば毎日でも顔を見て話せるし、両星の交流が深まれば会いにだっていけるようになる。三人はそう信じた。
「湿っぽいのは嫌」
などと文句を零しながらも、額を寄せ合えば照れくさそうな笑みを返してくれる。
繋いだ掌の温かさをニーナと韻子はしっかりと胸に刻んだ。
別れを惜しむ少女達をにこやかに見守っていた女王は、彼女に地球のことを教えてくれた青年に視線を移す。
「まあ、スレイン。とてもよく似合っていますよ」
「は、はあ……有り難うございます」
褒められたスレインは、居心地が悪そうに新しい軍服の裾を引っ張った。
公爵だの皇太子だのという名称は頑なに拒否したが、ハークライトの『ザーツバルム家再興』というフレーズに押し切られ、伯爵位へは返り咲いている。
「サイズが合わなかったかしら?」
補助器具の助けを借りれば歩けるようになったレムリナが、エスコート役の騎士を振り仰いだ。
「いえ、そんなことは。ただ、ちょっと、派手過ぎやしないかと……」
ザーツバルム家当主の威厳は何処へやら。
ごにょごにょと口籠もる青年は、頻りと人目を引く格好を気にしていた。
淡いプラチナブロンドと白皙の容に良く映える、漆黒を基調とした騎士服。
詰め襟や袖の折り返し部分は黒と見紛う濃赤で、肩章は服と同色のストラップタイプになっている。縁を縫い取るのは、髪の色に似せた銀に近い金。前を留めるダブルボタンも同色。肩から胸の前に優美なループを描く飾緒には色味の強い黄金色があしらわれていた。
紐と反対の肩から斜めに下がるサッシュのみが、ヴァース帝国の象徴である鮮やかな緋色に染め上げられている。
「素敵です!スレイン様」
エデルリッゾが、うっとりと両の指を組み合わせた。細身のトレーンドレスに身を包んだ第二皇女と並び立つ姿は、一枚の絵画のごとく麗しい。
王子様然としたこの衣装はレムリナとエデルリッゾが、時に横から口を出すハークライトを交えつつ決定したものだ。
臙脂の伯爵服も似合うが、自分の騎士としてお披露目する時は特別な装束を着用して欲しい。
そんな第二皇女の願いに、安易に頷いた結果がこれだった。
「いいんじゃないの。似合っているよ、君」
言うほど派手な色味と形でもないし、と涼しい顔で評価を下す伊奈帆にふて腐れ、元伯爵改め現伯爵は顔を背ける。
軍神はいつもの通り、連合軍が支給する制服に身を包んでいた。違いは胸元にぶら下がる勲章の数々と、スレインと同じく大綬章の帯が襷掛けにされていることぐらいか。
「その内、伊奈帆もこんな服を用意されたりしてな。聞いたぞ、マグバレッジ艦長から元帥に推されているんだって?」
カームが茶化す。
「あれは単なる冗談だよ」
実のところ、次の元帥と目されているのはダルザナの方だった。更なる面倒ごとを嫌がった彼女が、いっそ界塚弟にやらせてはどうです?などと腹立ち紛れに吐いたのが噂の発端となっている。
「本当にそんな事態が起きたら、その場で軍を辞めて専業主夫になる」
伊奈帆は常々、己は大将の器ではないと考えていた。身近な人達を守れればそれで良く、大勢の安全と命など面倒見切れないし、見たいとも思っていないからだ。
「あー、スレイン君は、お姫様の騎士辞めそうにないもんねえ」
どっちかが退職して家庭に入るなら、伊奈帆君の方だよねえ。
「え?!そこで僕の名前が挙がるんですか?」
ニーナの台詞に、スレインがびくりと肩を揺らした。
「僕が専業主夫やる相手なんて他にいないでしょ」
贅沢しなければ食べていけるだけの稼ぎは得たし、いつ離職届を提出しようとも構わない。
「働かない男など、ただのヒモです!」
「ちょ……?!エデルリッゾさんそれ暴言過ぎ!全国の真面目な専業主夫に喧嘩売っちゃだめ」
付き合いの長い韻子には解っていた。伊奈帆の発語が限りなく実意であることが。
「元帥役も嵌まるのでは?適任だと思いますよ。情け容赦のない人事異動とか、無駄な経費削減の敢行とか得意そうですし」
大局を見極め、大胆に。繊細に。時には冷酷非情な判断さえ下すことになる総司令役は、青年が持つ明晰な頭脳を活用するのにぴったりだ。
「まったく褒めてないよね、それ」
二人の青年を中心に湧き上がる若人達に、女王は少しの寂しさを持つ。
彼等の輪に加わる資格はもう、アセイラムにはなかった。
引き替えるようにして手に入れた、何よりも愛おしく大切な存在である我が子を抱え直す。
レムリナ達と合流してから子を産み、母子ともに体調が安定するまでを、女王は地球の完全医療体制が敷かれたホテルのVIPルームで過ごした。マリルシャンの揚陸城で療養していた期間を含めれば、実に1年近く帝国から離れていたことになる。
その間、定期報告はあれども、彼女が特に何かをすることはなかった。それでも火星の政務は滞らない。
名前ばかりの女王など、いてもいなくても変わらなかった。
アセイラムが精力的に取り組んだのは、他国を不法占拠する軌道騎士達の説得や親善外交。それらは長期的に見れば意味のあることでも、帝国民の生活には直結しない。
玉座が入れ替わったばかりのこの時、基盤の確立と国内の立て直しこそが急務であったというのに。女王は優先順位を履き違えた。
自らの瑕疵を悟ったアセイラムは、滞在先のホテルで様々な者達の言い分に耳を傾ける。
突き刺さるような意見や、厳しい批判、労りの言葉。為になる話。
スレインやレムリナ、伊奈帆達デューカリオンのメンバーのみならず、地球の一般兵や市民、軌道騎士達にも頭を下げ胸中を明かしてもらっている。
体調の良い時を選び、産まれた子を連れてクランカインの元へも何度か足を運んだ。
解ったのは、価値観や幸福は人によってそれぞれ違うこと。為政者は、独り善がりの正義ではなく大多数にとっての最良こそを方策とすべきだということ。
物事はきちんと検証し、思い込みだけで進めてはいけないということ。
クルーテオの揚陸城に勤めていた兵の持つ記憶は、アセイラムに大きなショックを与えた。
常に穏やかだった地球の友人が、決して語らなかった一事が暴かれる。
スレインと顔を合わせる度に険のある瞳を向けていた侍女や侍従達。少年の名を決して呼ばない伯爵。
彼等の姿を知りながらアセイラムは調整に乗り出すことなく、それらを放置した。ヴァース帝国民の地球人に対する悪感情を軽んじていたのだ。
人として認められぬ者が、どれほど悲惨な目に遭うのかを想像することさえせずに。
それは、青年の身柄を地球に移してからも同じ。人権を剥奪し、故郷も寄る辺も取り上げて。生命すら無いものとして扱うよう指示を出した。
謝っても謝りきれない。許しを請うことなどできるはずもない。
誰よりも深い業に浸かっていたのは、アセイラムの方だったのだ。
ライエにも改めて頭を下げた。
彼女に殺され掛けた時のアセイラムは、被害者である自分に酔っていた。
少女の激高する理由も、戦争の原因が正真正銘自身にあったことにも理解が及ばず。形だけの謝罪を口に上らせるばかりだった。
ザーツバルムが婚約者を喪ったヘブンズ・フォールの悲劇も、ライエに道を踏み外させた帝国民の困窮も、アセイラムにとっては教本の中だけの出来事。
可哀相と声に出せば慈悲深い姫だと称讃され、戦死者の冥福を祈れば皇族の義務を良く果たしていると褒められる。
スレインの時と同じく、思い遣るだけで何かをした気になっていたのだ。
己が国民を蔑ろにしておきながら、女王の命令は絶対であると。敬われて当然だと、どうして思い込んでいられたのか。
ライエは泣き崩れたアセイラムが落ち着くまで、ずっと背中を撫でていてくれた。
厳しくも率直な意見を聞かせてくれる少女に、女王もまた多くのことを語る。アセイラムが話を聞くだけではなく『対話』を行った相手は、ライエだけである。
ヴァース帝国へ帰参する日取りが決まったとき、アセイラムは彼女に懇請した。
飾り気のない態度で、言葉で。統治者たる女王の行動を見極め、正してくれる貴女が私には必要なのです、と。
「そろそろ時間」
地球に居た方が、遙かに楽しく豊かな生活を送れる。
そうと知りながら、アセイラムの頼みを聞き届けてくれた優しい少女に頷きを返した。
「皆さん、お世話になりました」
女王は深々とお辞儀をする。
親しい人だけに見送られ、ひっそりと。国主としては考えられないほど寂しい旅立ちは、アセイラムの希望によるものだ。
「クランカインのことをくれぐれもよろしくお願いします」
頻繁に様子伺いはするが、遠く離れた祖国からでは駆けつけられない。
アセイラムは国元で夫が戻ってくるのを待つ気でいた。
「ご自分の夫の面倒見ぐらい、ご自分でなさいませ。あちらの情勢が落ち着けば、またこちらへいらっしゃることだってできますでしょう」
「ですが……私は……」
異母妹の指摘に、女王は視線を落とす。
ただ純粋に、夢や憧れは叶うと信じていた幼い自分。
青く輝く美しい星へ抱いた憧憬が、争いの種となり惨劇を産み出した。
レムリナが居るなら、地球はアルドノアの運用に困らない。アセイラムは戒めとして、二度と緑の大地は踏まないつもりだった
「……地球が嫌になりましたか?」
女王の心中を察したスレインが問う。
「いいえ、そんなことはありません。ないからこそ……っ!」
「陛下が平和に対する願いを捨てずにいて下さったから、二つの惑星は膠着状態から抜け出すことが出来たのです。例え、貴女が望んだ顛末ではなかったとしても」
親善訪問前に講義をしてくれたときのような、ゆっくりした声がアセイラムを宥めた。
「セラムさん、両惑星設立の研究所がハイパーゲートの修復作業に着手しました。開通すれば、小さな子供がいても快適な行き来が可能になります」
火星からの移民受け入れや、物資のやりとりも楽になる。
「ハイパーゲートを?しかし、伊奈帆さん、アルドノアは限りある資源と……」
スレインの補佐を行う傍ら、研究所の運営や事務処理にも携わることになったハークライトが報告を挟んだ。
「運用を誤らなければ良いのです。併行してアルドノアの残容量を計測する装置の開発も進められています。理論はスレイン様のお父上によって確立されておりますから、そう遠くないうちに形となるでしょう」
北米戦役の対価として、スレインが連合軍に提出したペンダントから得た情報だ。トロイヤードの遺産は、開発中止となった普遍化技術の完成には用を為さなかったが、方向性を変え存在価値を示した。
「道具は使ってこそ、ですわ。お姉様」
「次に陛下がいらっしゃる時までに、色々な所を案内できるよう準備しておきます」
エデルリッゾがやる気に満ちた顔で、拳を握り固めた。
「人に任せきりにはしないと、定められたのでしょう。ご自分の口上には責任を持って頂かないと」
少し意地悪な言詞に込められた、レムリナの優しさ。
アセイラムの不幸は、彼女の幸福を願う者達によって、悪意なき鳥籠に閉じ込められてきたことだ。
しかし、此度の闘いにより、彼女は己が無知であることを知った。
他者と話をすることの重要性に気づいた。
ヴァース帝国の現状と問題点、未来へ向けた命題を把握した。
多くの意見を取り入れ、経験を積み重ねながら、彼女はこれから女王として大きく躍進を遂げるだろう。
「いい加減にしないと、本当に時間ないから。そっちだってもう始まるころ」
涙ぐむ女王の肩を軽く叩き、ライエが青年達を急かした。
この後、伊奈帆達は記者会見に出席し、火星と地球の共同声明を発表することになっている。紆余曲折を経た和解条項が、先日やっとのことで本決まりしたのだ。正装していたのはこの為だった。
「会見場は、基地内にあるからそこまで焦らなくても大丈夫だけど。確かにそろそろ行かないと不味いね」
伊奈帆がタブレットを取り出して時間を確認する。
「バルークルス卿、陛下のことを頼みます」
護衛任務を全うするため、会話に参加していなかったバルークルスへスレインが頭を下げた。
「承りました」
最後まで青年に従った唯一の軌道騎士は、ゆっくりと進み出ると復権した伯爵の前に膝を折る。
「スレイン・ザーツバルム・トロイヤード卿。貴殿こそが誠の騎士。帝室に仕える身なれど、我が忠誠は終生、貴殿の下にあることを誓います」
服の裾を手に取り、そっと口づけた。
「……身に余るお言葉です、バルークルス卿」
目を瞠った伯爵が、静かに応じる。
ハークライトが憮然とした表情になった。
「先を超されました」
「暫くは簡単に会うことも適わなくなるのだから、このぐらいはな」
そう悔しがらずとも、お前にはこの先いくらでも機会があるだろうハークライト。
「必ず連絡ちょうだい、ライエ」
「元気でね」
瞳を潤ませ、ライエに抱きつく少女達。
「女っていくらでも泣けるんだな」
余計なひと言を発してしまったカームは、エデルリッゾに肘鉄されていた。
鳩尾に予想以上の重たい一撃を喰らって、崩れ落ちる青年。
「セラムさん、また会いましょう」
「陛下、何れまた」
笑顔で告げる青年達にアセイラムも泣き笑いの表情で返した。
「はい。有り難うございますスレイン、伊奈帆さん。お元気で」
スレイン。いつかヴァースの空に羽ばたく鳥を、貴方と見上げたい。
伊奈帆さん。火星の大地に沈む夕日は、地球に負けないぐらい郷愁を誘う光景なのです。一緒に眺めることができたらどんなに素敵でしょう。
だから、約束しましょう。
いつの日か、必ず―――と。
見送る者達が、航宙船のタラップを踏む帰郷者達に手を振る。
彼等が飛び立つ瞬間を名残惜しむ余裕はなかった。閉まり掛けたハッチを前に、揃って踵を返す。
「伊奈帆、急ぎましょう。走らなければ間に合いません」
隣へ呼び掛けると、手にした端末で青年将校は卵の特売情報を検索していた。
「……って何をしているんですか貴方は?!」
「お弁当のおかずに欠かせないから」
伊奈帆にとっては、記者会見よりもこちらの方が大事だ。
「後にして下さい」
「無理。タイムセールを逃すと困る」
足だけは会場へ向けて動かし、応酬する。
「何かあるのですか?」
こちらの方が早いからと皇女を乗せた車椅子を押すエデルリッゾが、首を傾げた。
二人の青年は、そっと顔を見合わせると小さな笑みを浮かべる。
季節は春。
風は厳しさを潜め、空は高く澄み渡り、砲撃の音は何処からも響いてこなかった。
残された課題は多く、地球と火星はこれからも揉め事を繰り返すだろう。
道のりに果てはない。争いの種はどこからでも湧き出てくる。
危うい均衡の上に保たれた平和は脆く、今にも崩れ落ちそうではあるけれど。
無理することも、焦りを覚える必要もない。
手を携え、共に歩める相手がいるから。
掴み取った日常の中で時間を掛け、言葉を重ねて。少しずつでも、堅実に光射す未来へと進んでいける。
戦後、働き詰めだった二人は、翌朝より久方ぶりの休暇を取得した。
一年越しの約束が、果たされる。
明日は、桜を見に行くのだ。