朝靄の冷たい空気が残る中を、並んで歩く。
顔前でひらりと舞った薄紅に、スレインが感嘆の息を吐いた。春空に溶けるような金髪が、陽光を反映し淡く煌めく。
「何度目にしても、幻想的な光景です」
幼き頃に父親と見た花霞も大層、美しいものであったが。大人になった今の方が胸に迫るものを感じるのは何故だろう。
「この辺りの桜は、色が少し濃いのでしょうか。花弁はもっと白っぽかったイメージがあるのですが」
「品種の差だよ」と、重箱の入った風呂敷包みを手に提げた伊奈帆が告げた。
「花見の代表格は、ソメイヨシノ。ルイジアナ州の療養所にあったのもそれだ。此処にあるのは、イチヨウと呼ばれる八重咲きで、ソメイヨシノに比べ、開花時期が少し遅い」
「だから今、満開なのですね。今年の桜はそろそろ終わりと聞いていたので少し残念に思っていましたが。これならレムリナ姫やエデルリッゾさんも喜ばれることでしょう」
やたらと大きなトートバッグを担ぎ直し、満足げに頷く火星の伯爵。
青年将校の表情が、どんよりと曇った。
「…………そうだね」
久方ぶりの休暇。二人だけの外出のはずが、ヴァース帝国第二皇女と侍女……のみならず。ハークライトとかいう副官も、果ては韻子達までもがついてくる。
これについては、完全に軍神の落ち度であった。
仕事中に卵の特売情報なんて検索を掛けていたから、罰が当たったのだ。そこを糸口に計画が漏れ、あれよあれよという間に方々から募ってもいない参加表明が上がり――気が付いたときには、花見ツアー団体ご一行様が出来上がっていた。
伊奈帆とスレインだけだったら、どこへなりとも行けたのに。
皇女が混ざったことで警護の手配が必要不可欠となり、連合軍への報告義務が生じた。
こうなると会場候補は軍事基地内にある桜の樹(ソメイヨシノにつき現在はほぼ葉桜)の下ぐらいしかなくなる。がっくりと肩を落とした青年将校を、しかし、天は見放さなかった。
彼の前に現れた救いの主。その名をダルザナ・マグバレッジという。
彼女は、とてもイイ笑顔で「最適な場所がある」と、軍神の肩を抱き寄せ囁いた。
この時点で、ちょっと嫌な予感はしていたのだ。さはさりながら他に選択肢があるわけでもなく。
警護の手配も引き受けてくれるという上司に勧められるまま、都心のオフィス街に隣接する公園を開催地とした。
暫し桜並木に見惚れるスレインの横で、伊奈帆は入り口の立て看板に目をやる。そこには夜間の花見や、備え付けのベンチ以外での飲食を禁止する旨が記載されていた。
とはいえビジネスマンのランチぐらいは施設側も大目に見てくれるのだろう、芝生の敷き詰められた一角には、そこかしこで軽食を楽しむ者たちの姿がある。
……いや、現実逃避はよくない。はっきり言おう。
ビニールシートの持ち込みや宴会行為の許可は、艦長が施設管理局を半ば脅しつけるようにして――当然、使用後は軍が責任を持って園内清掃を行うとの約束のもと――もぎ取ってきたものだ。
平日午前、多くの企業は仕事中の時間帯。民間人は入り口と外周を守り固める警備員に制され、今日一日は中に入れない。
つまり、この場にいるのは、全てが連合軍関係者であった。
「レムリナ姫が気を遣われないよう、一般人に扮して下さっているのでしょうか」
少し奥まったところで、仕出し弁当を摘まんでいるデューカリオン乗組員に気付いたのだろう、スレインが首を傾げた。
軍神は、きっぱりと首を横に振る。
「違う。僕達はダシにされたんだ」
すごぶる優秀な青年将校の左目には、上司及び年上の同僚が手にするアルコール飲料の缶がしっかりくっきりと映っていた。
彼等は火星第二皇女の警護を口実に、花見を楽しんでいる。
絡まれると面倒だ。近寄らないようにしよう。
あ、ユキ姉までいる。うん、合流はしないから。
伊奈帆は、姉の手招きを全力で見なかったことにした。
「確かに、あれでは仕事になりそうもないですね」
既に出来上がっているのか、異様な盛り上がりをみせる集団に、ザーツバルムの青年が呆れる。
「護衛担当官は別にいるし、あの人達もいざというときは動いてくれるだろうけど」
「伊奈帆は、今日の布陣を知っていたのですか?」
まさか、と軍神が肩を竦めた。
「何人か飛び入り参加がありそうだな、とは思っていたけれど」
よもや、連合軍専用の花見会場にされているとは、予想だにしなかった。
ダルザナ達もここ最近、禄に休みを取れていなかったので息抜きをしたかったのだろうが。準備期間半日の手配内容に執念を感じる。
「これなら、皆で一緒に来ても良かったですね」
伊奈帆とスレインは皇女のセキュリティ確保のため、一足先に出た。彼女やその侍女は、護衛を兼ねた韻子達と共にこの後合流予定だ。
先行組の二人は現地到着までに、不審者の排除、逃走路の点検、対戦車ミサイル及びロケット弾への対策確認等を含めた護衛との打ち合わせを済ませてきている。
ダルザナの采配は完璧で、二人が抱いていた懸念事項にもしっかりと対策がなされていた。
さすがは我らが艦長。現状は、ただの酔っ払いに過ぎないとしても。
「一度は自分達の目で見ておいた方が、安心できる。なにより僕は、少しの間だけでも、君と二人で花見をしたかった」
ちなみに伊奈帆の手にある重箱の中身は、己とスレインの分のみだ。他者分の作成は拒否したところ、火星の姫君達は、近隣の三つ星ホテルにシェフの派遣を依頼していた。目の前で肉とか焼かせるらしい。ブルジョアめ。
「一年前は、本当に来ることになるなんて、思いもしませんでした」
日本から遠く離れた地で交わされた、一方的な約束。あの頃のスレインは、生きることも死ぬことも諦めていた。
「僕は、あの時から絶対に実現しようと決めていた」
対峙するのでも、憎み合うのでもなく。こんな風に穏やかな会話を楽しめる日の到来を待ち望んでいた。
重箱を反対側に持ち直し、伊奈帆は空いた指をスレインの手に絡める。
「伊奈帆、他の人が見てますから」
ぎゅっと握ると、慌てた様子の伯爵が少し身じろぐ。
「大丈夫。皆、桜に気を取られているから」
もしくは昼寝をしているか、酒で人事不省に陥っているかだ。
「キスしていい?」
「人前では、嫌だって言いましたよね」
引き寄せる力に抗い、スレインが足を踏ん張る。
「それに、僕だって男なんですよ。……我慢できなくなったら、どうしてくれるんですか」
仄かな桜色に染まる目元に、ぐらりと軍神の理性が揺れた。
「護衛の数は足りているし、僕等は別の場所に行こうか」
「駄目です。皆さん、今日のお花見を楽しみにされているんですから。もちろん僕も」
伊奈帆手製の弁当だって、まだ堪能していない。
大勢で遊ぶといった経験がなかったスレインは、参加者が増えたことを素直に歓迎していた。
同年代と接する機会の少ないレムリナやエデルリッゾにとっても、良い経験になるだろうと考えている。
「ですが、その……、今日一杯はお休みですから……」
繋いだままの指先を僅かに握り返し、伯爵が小声で付け加えた。
「レムリナ姫を送り届けた後、時間が残っていたらもう一度、伊奈帆に会いに行ってもいいですか?」
「……っ!」
速攻で、お持ち帰りしたい!
「なに、馬鹿なこと言ってるんですか」
衝動に絶えたつもりが、声に出ていたようだ。スレインに半眼を向けられた。
頭を冷やせとでも言いたげに、ひんやりとした風が二人の間を吹き抜ける。煽られた花弁が、ふわりと舞い上がった。
釣られて顎を上げたスレインが、空と薄紅のコントラストに目を細める。
―――本当に、美しい星。
青き星に憧憬の念を抱いていた無邪気な少女の声が、ふと脳裏を過ぎった。
「大量の水と大気と豊かな資源。アルドノアなどなくても、この星には自然のもたらす恵みがある。いえ、寧ろそれはアルドノアがないからこそ、保つことが出来たものだったのかもしれません」
ひとつ、伊奈帆に言わなかったことがある。
アルドノアの凍結能力は、火星皇族の因子を得たことによって生じたもの――皆にはそう説明したが、父であるトロイヤード博士はいまひとつ別の仮説も立てていた。
地球の各地で遺跡の発掘に携わっていた父と、作業現場を遊び場に育った息子。
親子が積極的に関わったのは、年代にそぐわぬ技術を内包する建造物ばかりだった。
丁度、オーパーツたる御守りを手に入れた場所のように。父は、火星より持ち込まれた叡智の痕跡を探していた。
もし、親子が足を運んだ中に『本物』が混じっていたとしたら。
そうして、息子が自覚無きまま、その神秘に触れていたとしたら。
そこに透けてくるのは二つに分かたれた、とある種族の歴史である。
起動因子を手にアルドノアへの依存を深めていった火星の行く末は、クランカインとの決着前に述べた通りだ。
しかし他方で、群れを離れた一団があった。
月にハイパーゲートを持ちながら、超古代文明の影響を殆ど受けていなかった地球。それは、地球に降り立った面子が、意図してアルドノアを封じた所以ではないだろうか。
思想の違いか、権力闘争の果てによるものか。彼等は凍結因子を携えて母星を後にし、新天地を定めるなりアルドノアの影響下から抜け出した。
以降、生活の基盤となるエネルギーを封じた彼等が、どのように暮らしたのかはわからない。母星の消滅に殉じたか、ひっそりと生き延びて現地民と混ざり合ったのか。あるいか彼等こそが地球人類の祖となったのか。ともあれ彼等はいくつかの存在証明を今日に残し、トロイヤード親子はその一片に触れる機会を幾度となく持った。
しかし起動も凍結もアルドノアがあってこその能力だ。息子の因子発覚が、ヴァース帝国渡航後となったのは当然の帰結であり。新たに得たデータに対する調査と検証は、次に地球へ戻った時の課題だと、父は語っていた。
地球に残されていたかもしれない超古代文明の遺産――などという話題をスレインは口の端にも上らせるつもりはない。
曖昧な情報は混乱を招く。欲に塗れた連中が、世界中の遺跡を荒らし回る事態に発展しないとも限らないからだ。それは父の望みからも外れている。
「第二次惑星間戦争を機に、アルドノアは地球へ降り立ちました。この先、火星との親和が進めば、更に多くの知識と力がもたらされます」
人智を越えた力。人の欲望を刺激する技術は、この星にどの様な変化をもたらすのであろうか。
「僕は、アルドノアが入ってきたのが『現在(いま)』で良かったと思っているよ」
愁いを帯びた恋人の手を引き、伊奈帆は公園の中央に移動した。警護しやすく景観の良い芝生の一角が、これ見よがしに空けられている。皆が気を遣って譲ってくれたのだと思えば、まあ……それなりに有り難くはあった。
「石油もまた、需要と供給のバランスが危ぶまれている資源だ。けれど僕達は使い切ってしまう前に、アルドノアという可能性を得た」
後は、新たなエネルギーの使い方を学びつつ、双方と上手に付き合っていけば良い。
重箱を芝生の上に置き、風呂敷の底に入れてきたビニールシートを黙々と広げ始めた軍神に、伯爵は眉尻を下げた。
「ヴァース帝国と同じ轍を踏むかも知れない、とは考えないのですか?」
アルドノアを用いた技術革新によって、受け皿以上に人口を増やしてしまった帝国。
かの国の人々は、地球への優位面を得てしまったが故に阿るを良しとせず。民は常に飢えと貧困に苛まれていた。
「すぐ傍に前例があるんだから、教訓にできるだろ……って。何それ。君そんなもの、持ってきていたの?」
やけに大きな荷物だと思っていたら。伯爵様がビニールシートの上に広げたのは、真っ赤な色をした厚手の毛織物だった。ご丁寧に、人数分の座布団まで用意してある。
「女性が多いですから、身体を冷やさないように。あと、日本の花見には、緋色の敷物が不可欠だと聞きましたので」
もしや茶会などで使われる緋毛氈のことだろうか。
絶妙に勘違いしていると思われるが、寒さが凌げるのは伊奈帆としても大歓迎だ。あえて間違いを指摘せず、恩恵にあやかることにする。
準備を終えて靴を脱ぎ、斜めに膝を突き合わせるようにして座った。
道の向かいにある桜並木が、視界一杯に拡がる。
「先人の失敗を繰り返さないために、皆を導き調整していくのも、僕等の役割だ」
多くの犠牲の上に、成り立った平和だ。生き残った伊奈帆達は心して、未来に繋いでいかねばならない。
「……責任重大です」
「悲観することはないと思うよ。君の言う通り、いざとなれば文明に頼らなくても生きていけるだけの土壌が、地球にはある」
そうして、総てが零に還ったとしても。生きていれば、また一から始めることができるだろう。
「その結果、どんな環境で暮らすことになろうとも、君となら退屈はしないだろうしね」
だから、スレイン――。
「最後まで諦めずに、僕と共に生きて欲しい」
真っ直ぐな言葉と視線に射貫かれ、火星の伯爵がたじろいだ。
「ええっと、プロポーズのように聞こえるのですが」
「そのつもりで、言ったからね」
まあ、形式や戸籍には拘りがないので、決意表明みたいなものだ。
「ま、周りの人が、聞いて……」
「この距離と音量なら届かない。スレイン、返事は?」
敷物の上に置いた左手を上からぎゅっと握り込む。
じっと見つめてくる虹彩に、絶えきれなくなったスレインが頬を毛布の色と同じに染めて俯いた。
「と、とりあえず、保留で……お願いします」
「いつまで?」
「え、っと……、その、……一生……に、なるかも?」
自分でも、最低な答えであるのは分かっている。
理解してはいるが、誠実であろうとすればするほど、これ以上、答えようがなかった。
「保留にしている間に、別の女性と結婚したりなんてことは」
「しませんよ! そんな不誠実なこと」
他の相手を選ぶのであれば、スレインだってちゃんと断りを入れる。
「だったら、いいよ」
軍神が破顔した。
「保留の間は他に目もくれず、僕に向き合ってくれるってことでしょう。それが一生続くなら、OKしたのと同義だ」
「物好きですね」
泣きそうな笑みを浮かべた青年が、「伊奈帆」と唇に名を登らせる。
「ライエさんに『故郷なんて生まれや育ちに関係なく、自分が居たい場所にすれば良いだけだ』と言ったそうですね」
「あったね、そんなこと」
「僕は、故郷というのは定められた所在を指すのだとずっと思っていました」
生まれた土地。あるいは定住する家。見知った人達に囲まれ、迎えてくれる人が居て、温かな笑顔と安らぎに満ちた時間が約束されている。そんな処のことなのだと。
「でも、僕の望みに場所は関係ありませんでした。地球でも、月でも火星でも。いっそ、知らない星でも構わない。そこに伊奈帆がいるのなら。僕は――僕も、君の隣にいたい」
明いている右手を伸ばし、己の左手を握る袖口をそっと掴む。途端に、軍神が情けない表情になった。
「やっぱり、今すぐお持ち帰りしちゃだめかな」
はじけるように笑い出すスレイン。笑いの発作が治まるのを待った伊奈帆が、身を乗り出して耳元で囁く。
「好きだよスレイン。ずっと、僕の目の届くところにいて」
それが、厳しい願いであることは解っていた。
伊奈帆とスレインは、未だ対立関係にある。
利害も立場も正反対。互いに秘密を抱え、衝突は避けられず、時には欺し欺されることさえ生じるであろう。
再び、命を奪い合う未来だって訪れるかもしれなかった。
それでも。
どんなにすれ違っても、遠く離れてしまっても。
呼び合う心がある限り。想いの欠片が残る限り。
二人だけで作る小さな世界こそがスレインのホームであると。故郷と呼ぶべき場所であると、信じることができるから。
例え何があろうとも、必ず『ここ』へ帰ってこよう。