店仕舞いを終えた翡翠は、軒下より降ろした暖簾を片手に苦虫を噛みつぶしていた。
「随分と支度に手間取ったんだね。一体今まで何をしていたんだい?」
龍麻から電話を受け取ってすぐ連絡を入れたというのに。辿り着く迄に一時間も要するとはどういうことなのか。
刺をたっぷりと含んだ声音で問いかけると、目の前の人物──アランはけろりとして曰(のたま)った。
「ゴメンネ!デートの約束あってオクレタネ!」
こいつ殴ってやろうか?!
刹那、乱暴な考えが翡翠の脳裏を掠める。
しかしここはむしろ、すっぽかされなかったことを感謝すべきなのだろう。
彼には東京を護るという使命があるわけでもなければ、果たさねばならぬ義務を背負っているわけでもない。
ただ、龍麻という人物に興味を抱いたから、少々首を突っ込んでみようかという気になっている。
それだけのことなのだ。
この先の闘いに四神の力は必要不可欠。
と、なれば、せっかく青龍の《力》を宿す青年が乗り気になっている今、下手な小言で機嫌を損ねるのは得策ではなかった。持ち上げるだけ持ち上げて精々利用させてもらうことにしよう。
翡翠は考えを纏めると、龍麻に似せて作った笑みで鷹揚に頷いた。
「それは申し訳ないことをした……が、どうしても君の手を借りたい事態が生じてね」
相手の自尊心を擽るように告げ、口を挟む間も与えずに状況を説明する。アランは美里を気に入っていた。彼女が奇禍に遭っていると知れば、さして文句も言わずに力を貸すだろう。
果たして。翡翠の思惑通り、アランの顔色が話の途中で変わった。
「葵が行方不明なのデスか?!だったらもっと早く言ってくれればよかったのデース!!」
・・・・・・禄に話も聞かないうちに通話を切ったくせに何をか況(いわん)や、である。
まあいい。相手が同じ人間だと思うから腹が立つのだ。蓬莱寺と同種の猿だとでも思っておけばいい。
翡翠は相手をうまく丸め込めたことに満足すると、暖簾を店の中に入れ引き戸に鍵を掛けた。
そんな青年の様子をみて、アランが微かに顔を顰めたことなど気づきもせずに。
何事にも余裕を持って行動する翡翠のこと。アランが遅れてきて尚、約束の時刻までには今少しの猶予があった。急げばなんとか間に合うだろう。
近道をすべく裏道に入り込む。家屋の塀に囲まれた路地は狭く入り組んでいたが、翡翠には馴染んだ道だった。
自然と足早になる彼の歩みを止めたのは、緊張感のない声。
「如月君みぃ~つけたッ!」
ひょっこりと顔を出した少女が、嬉しそうに目を輝かせた。淡い桃色の看護服に白いハイソックスという住宅街の中では酷く浮いた出で立ち。しかし、当人はそれを気にする風もなくカールした髪をふわふわと靡かせながら青年達の元へ駆け寄ってくる。
「舞子、今日もカワイイネッ!!」
「ありがとォアラン君~。よかったァ。行き違いになっちゃったら、ど~しようかなあって心配してたのォ」
そう言って綿菓子のような甘い笑顔を浮かべたのは不可思議な縁によって集った仲間のひとり、高見沢舞子であった。
「高見沢さん・・・・・・何かあったのか?」
翡翠は常になく厳めしい顔で問いかける。気を張っていないと、間延びした声に脱力してしまいそうになるのだ。
「ううん~、でもォ、ミサちゃんが如月君達に会いにいった方がいいっていうんだもんッ」
「うふふふ~、こんにちは~如月君~」
人形を腕に抱き、牛乳瓶の底のような眼鏡を掛けた少女が背後で声を上げた。
いつの間に忍び寄ったのか。江戸時代より続く忍の末裔にすら気取らせないとは……裏密ミサ畏るべし。
「裏密、さん……こんにちは……」
翡翠は口から飛び出しそうになる心の臓を抑え、やっとのことで挨拶を述べた。
「今朝方、凶星(ラーフ)が子の方角に入ったの~。星(セベア)の守護は弱まり、疑心が絆を弱めようとしているわ~。二人だけで行動するのは危険よ~」
占いで良くない卦でも出たのだろう。忠告しに来てくれたらしいが、あいにく何のことやらさっぱり分からない。
「ソレは一体ドーユウ・・・・・・ッ?!」
尋ねかけるアランの足を思い切り踏み付けることで黙らせた。余計なことにかかずらっている暇はない。
「ご忠告感謝する。しかし、僕達はこれから龍麻と待ち合わせをしていてね」
先を急ぐので失礼するよ、と踵を返す青年の腕に高見沢が飛びついた。押しつけられる柔らかな感触にたじろぎ、翡翠は躰を硬直させる。
「わたし達がその待ち合わせ場所まで護衛してあげる~」
たか子先生から外出許可も貰ってきたのよ~。
「Oh!デートのお申し込みデスか?もちろんOKデース!!」
翡翠が断りを入れるより早く、アランが呵々とした笑いを響かせた。
「な……っ?!」
「デ~トだなんて~、ミサちゃん恥ずかし~」
頬を染め身を捩る裏密の姿に、それ以上の言葉を失う。
早く行かねばならぬのに。何故揃いも揃って邪魔をする?!
(こいつらはどうしてこう……っ!!)
いい加減堪忍袋の緒が切れかけた時、肌に突き刺さるような監視の目を感じた。人とは違う邪念の混じった気配が、一同を押し包むように数を増やしている。
なるほど、裏密の占いが良く当たるというのは本当のことらしい。
翡翠は馬鹿騒ぎをしている三人組を取り残し、懐に手を忍ばせると気配に向かって走り出した。
決戦の時は近い。もはや、闘いを避ける術を講じる期間は過ぎていた。
「ならば、敵が陣営を整える前に切り崩すまで!」
音もなく抜き去った忍刀をブロック塀の影に向かって突き出す。
辺りに絶叫が轟き、朽葉色の忍衣に身を包んだ人影が地に沈んだ。
鬼道衆中忍。
翡翠は斃した敵の正体を見極めると、次の標的へ向かうべく体勢を整える。
その前髪を突風が嬲った。
比較的近い場所で悲鳴が上がり、割れた鬼面の片方が足元に転がってくる。アランの銃口が火を噴いたのだ。
申し分のない対応と反射速度に、飛水流忍者の口元が綻ぶ。騒ぐだけしか能のないメキシカンかと思っていたが、伊達に龍麻と行動を共にしているわけではなさそうだ。
「みんな仲良くしなきゃダメですよォ~」
高見沢が高く差し伸べた両手の間から、白い靄が拡がる。
クロロフォルムでできた気体に触れた者達が、物陰から転がり出てきた。
「今日はどんな黒魔術を試してみようかなァ」
倒れ伏す鬼達に向かい、裏密がすかさず小さな金色の杯を掲げる。
「吸い取れ~」
低い笑い声に導かれるように、鬼道衆の躯からエクトプラズムが立ち上った。
紫や灰色、褐色や薄紅色等、様々な色彩を纏った微発光体が、次々と杯の中に吸い込まれていく。
「うふふふ~、どれも怨念をた~っぷり含んで、使い勝手がよさそうね~」
……一体何に使うつもりなんですか裏密さん……。
翡翠は目を逸らすと、あえてその先は考えないようにした。
各々の活躍により、仕留めた敵の数は徐々に増え。勝利の予感が頭を擡げ始める。
調子づいた一行に水を差したのは、真神きっての魔女の呟きだった。
「おかしいわね~。どうして敵の数が一向に減らないのかしら~~」
言われてみれば。
翡翠は周囲の気配を改めて探ると、むっと眉を顰めた。
戦闘開始時と比べて鬼の数にほとんど変化が見られない。倒された分だけ新たな駒を投入してきているのだ。
だが、それだけの兵がいるなら、何故数に頼んで力押しをしてこない?
どうして一斉攻撃せずに、小出しにしてきているのだろう。
翡翠達が疲れるのを待っているとも考えられるが……。
「足止めサレテイル……?」
同じ結論に達したのだろう、アランが首を捻った。
「鬼道衆め……何が狙いだ」
仕掛けや絡繰りの類を用いた罠が張ってあるのなら、飛水流の末裔たる自分が何も気付かぬはずはない。
「案外、何かを待っているのかもよ~~」
思索に耽る翡翠の耳に、意味ありげに嘯く裏密の声が届いた。今度は問い返そうと口を開き掛けるも、唐突に泣きだした高見沢の声が間に入る。
「あァ~ん、痛いよォ~」
「どうしたんだ高見沢さんッ?!怪我でもしたのか?」
驚く青年の袖を握り、少女は首を振った。
「違うの~。辛くて苦しいのォ~」
「具合が悪くなったのか?」
こんな時に……。
舌打ちしたい気持ちを抑えて翡翠は顔色を窺う。立っているのさえ困難ならば、比較的安全な場所を選んで休ませなければならなかった。
「違う~、私じゃないの~~」
大きくしゃくり上げ、高見沢が潤んだ目を擦る。
ずしり、と空気が重みを増した。
「…………ッ?!結界か?!」
少女の肩に手を置いた翡翠が、弾かれたように顔を上げる。なんの変哲もなかった住宅街の裏路地が、重苦しい瘴気に包まれていた。
封鎖された空間の向こうに透ける景色が、魚眼レンズを通したように歪んでいる。
「三途の川(アーケロン)より引き戻されし妄執が新たなる怨念を得て、より大きな狂気へと姿を変えようとしている~~。もうじきこの地に魔王(アエシュマ)が降臨するわ~~」
「魔王だと――ッ?!」
「ヒスイ、アレを見てクダサイ!!」
全身を強張らせる翡翠の注意をアランが引いた。
路地の一番奥、己の双眸に映し出されたものを飛水の後継者は信じられない思いで見つめる。
―――我が名は雷角。尽きる事なき怨嗟の果てに、今一度甦えらん……
その衣は、暗雲に燻る雷鳴の色。鋭利な印象を宿した細い面。神経質そうな細い指に握られた長い槍。
こちらの動揺を誘うための偽物かとも疑った。だが、江戸の街を護るという使命を帯びた忍者の勘が、あれは本物であると告げてくる。
(五色不動堂の封印を破ったというのか?まさか、いまだ空海の加護が残るこの地で外法を操り、目的を遂げることのできる《力》を有する者が敵方にいるとでも……ッ?!)
翡翠は顔色を失った。もしそれが事実なら……この闘いは自分の手に余る。
「あァ~ん、苦しいよォ~」
高見沢の嗚咽が一際高く耳に谺(こだま)した。
雷角の全身が鈍い光を放つ。
「増幅された《力》に引きずられ、《器》が形を変えるわ~」
紅に染まるプラズマが鬼の幹部を中心に迸った。辺りに妖雲が立ち籠め、薄い結界を通して差し込んでいた陽光をも覆い隠してしまう。
弾け散る火花に、一同は顔を庇って身を伏せた。
頭上でミシミシと骨の軋む音が響く。雷電が多少緩やかになるのを見計らって身を起こした翡翠は、再び視界に映った雷角の姿に憐れみを覚えた。
そこに居たのは、死してなお深き淵に堕とされた亡者の成れの果て。
「身も心も化け物と成り下がったか」
高見沢が感じ取っていたのは、彼の苦しみだったのだろう。
同じ対象を見つめるアランの声が掠れる。
「アレは雷角なのデスか?」
鈍色に輝く獅子に似た鬣。禍々しい爪。取り込んだ亡霊達の姿を浮き彫りにした、筋張った四肢。
雷角はもはや、かつて人であったとは信じられぬほどに禍々しく変形していた。
「縛っちゃうぞ~~」
間延びした口調からは考えられない機敏な動作で裏密が縄を投げつける。
月刊黒ミサ通信で購入した特殊な縄は、魔女の力を得て蜘蛛の巣状に拡がった。
百獣の王を模した化け物が跳梁する。辛うじて右足を捕らえた綱が、勢いに負けぷつりと切れた。
濁った空に晒された巨体に狙いをすまし、翡翠はクナイを投げつける。
雷角は音速にも近い動きで宙返りを打つと、堅い筋肉で刃を弾き飛ばした。
落下と共に繰り出された両手の爪を避けるべく、一同は四方に転がる。
「あァん」
二の腕を掠られた看護婦見習いが悲鳴を上げた。
「舞子ッ?!大丈夫デスか?」
慌てて駆けつけたアランの力を借り、少女は震える足で立ち上がる。
雷角から聞こえてくる苦痛の声が小さくなっていることが、高見沢には哀しかった。あの鬼は徐々に人の心を失いつつある。
もうじき完全に、己を見失ってしまうだろう。
「大丈夫~。でもォ、あの爪ビリビリするの~」
「帯電しているのか……ッ?!」
アスファルトを穿って着地した化け物に翡翠は目を凝らした。長く伸びた爪の先で微かな光が点滅している。
「迂闊に近寄るのは、危険デースね」
掠っただけで、動きが封じられてしまう程なのだ。まともに受けたら只では済むまい。
牽制の意味を込め、アランは銃を連射した。
妖獣が再び宙高く舞う。
反撃の予感に身構えた一同は、しかし巨体がブロック塀に突っ込むのを目の当たりにして呆然とした。
「な……どういうことだ?!」
「《力》を制御出来ていないのよ~」
だから動き出す前に捕まえようと思ったのに~。失敗しちゃったわ~~。
悔しがっているのか、面白がっているのか。判断のつかぬ口調で裏密が答えた。
その腕に抱かれていた人形がなくなっていることに気づき、そんな場合ではないにも関わらず、翡翠は辺りを見回す。
それらしき物体は、どこにも落ちていなかった。
持ち主に訊ねてみればいいのだろうが、知らなくてもいい世界に足を踏み込んでしまいそうで――すごく怖い。
戦闘とは違う恐怖に呑み込まれそうになった忍者の意識を引き戻してくれたのは、いつもなら苛立ちを覚えるほどにのんびりとした白衣の天使だった。
「あの人、誰かに無理矢理《力》を注ぎ込まれちゃったのォ。可哀想に、自分ではどうしていいか分からないのよ~」
高見沢よ癒しの風をありがとう。ちょっぴり感謝の念を抱きつつ、翡翠は少女達に確認を取る。
「つまり、いまの雷角は闇雲に暴れ回っているに過ぎないということか?」
「虚空を漂う怨念を集めて仮の憑代を与えてみたところで~うまくいくはずがないのよ~~」
そういうことか。翡翠は得心した。
摩尼の珠の封印が解かれたわけではない。憑代が封印されることで一度は虚空に散った怨念を核に、別の怨霊を混ぜ合わせて再構築されたのが今の雷角の正体なのだ。
雑多な念の集合体は、ひとつしかない《器》を使いこなせず、与えられた《力》の強大さ故に暴走している。
道理で、鬼道衆中忍・下忍がこちらの様子を伺いつつも仕掛けてこないはずである。
彼等は自分達の将の暴走に巻き込まれることを懼れていたのだ。今の雷角に敵味方の判別は付かない。例えついたとしても、敵にだけ攻撃するなどという器用なことは到底望めないだろう。
下忍の攻撃は、雷角が変生するまでの時間稼ぎだった。中忍達は今、翡翠達を逃がさぬよう結界の維持に努めている。そうして、彼等は雷角が翡翠達を斃す時が来るのを待ち望んでいた。相討ちなれば尚良し、とさえ考えているのかもしれない。
東京の守護は未だ破られておらず、雑魚共に煩わされる心配もない。
ならばまだ、勝機はある。
翡翠は懐に忍ばせてあったまきびしを周囲にばらまくと、得物を胸の前に引き寄せた。
「後は僕がやる。君達は下がっていてくれたまえ」
本心をいえば結界の外に逃れて欲しいところだったが、それは適わぬためせめて安全な場所に避難するよう勧告する。
「な……何を言ってるデスか?!ひとりでは危ないデース!!」
愕然とするアランに腕を取られるも、青年はこれを邪険に振り払った。
今は闘いのみに専心したい。
「雷角のあのスピードに君達がついて行くことは不可能だろう。また、大勢で動けば同士討ちをしてしまう怖れもある」
「だからヒスイがひとりで闘うというのデスか?!」
色をなして声を荒げるメキシカン。翡翠は冷徹な声できっぱりと言い切った。
「これは僕の役目だ。君達には関係がない」
肉を切らせ骨を立つ。
翡翠の立てた作戦は、至ってシンプルなものだった。
あの妖獣の動きを前に、下手な小細工を行っている暇はない。ならば、こちらの行動も出来るだけ簡素にするべきだ。
少しでも補助になればとまきびしを撒いてはみたが、鋼の刃さえ弾き飛ばす妖獣相手では、ものの役にも立たないだろう。
運良くこれで動きを鈍らせてくれれば良し。それが無理ならば、己の肉体を以て敵の動きを制御する。
肉に爪を食い込ませ突き破る間は、いかな音速のスピードを持つ化け物といえども足を止めるしかないであろうから。
翡翠はその一瞬に賭けるつもりでいた。
問題が残らぬわけではなかった。雷角の爪には電流が流れている。躰が痺れ、反撃する力が損なわれれば一環の終わりだ。
仲間達を下げるのは自分が失敗したときの保険でもある。
もし自分が動けなくなった場合、敵が青年の躰を嬲っている間に彼等が手を下してくれるだろう。
他人の力を当てにするのは不本意だったが、仲間なのだからそのぐらいの役には立ってくれるだろうと翡翠は考えていた。
「…………如月君は~、舞子達のことが嫌いなの~?」
ぽつり、と高見沢が呟く。
「感情面の問題ではないよ」
ブロック塀を、アスファルトを、垣根を、植え込みを。砕き、突き破りながら雷角が飛び回る。
巨大な黒い影が巻き起こした旋風に、まきびしが飛び散った。踏みつけられた鉄片は拉(ひしゃ)げ醜い形に歪んでいる。
やはり、無駄であったかと翡翠は嘆息した。わかりきっていたことだが、目の当たりにすると流石に少々気持ちが滅入る。
「キライではなくとも、馬鹿にはしてるってことデスネ」
アランが今一度青年の腕を掴んだ。振り払われぬよう痛いほど指に力を篭める。
「ヒスイはボク達のコト、何だと思っているんデス?!役目じゃナイから関係ナイ?そんなに役目っていうのは偉いんデスか?!!」
そのまま物陰に引きずられ、狭い路地に押し込まれた。この辺りは塀を作るスペースもなかったのか、家の壁同士が並び立っている。雷角が入り込んでくるためには、家屋を破壊するしかないだろう。あまり長い間籠城すると、壁を崩され瓦礫の下敷きにされる畏れもあったが、少々の時間稼ぎには最適な場所だった。
「君達と僕とでは背負っているものの大きさが違う。義務もない君達がこんなことに命を賭ける必要はないだろう」
締め付けられる腕の痛みに翡翠が顔を顰める。
高見沢が慈愛の宿る瞳で、アランの手の上から翡翠の腕を包み込んだ。ふわりと柔らかな光が零れ出し、指の痕が付いた手首から痛みが引いていく。
「義務だから頑張るんじゃないのよ。護りたいから闘うの……」
愛する気持ちを忘れてしまわないで。
少女の微笑みに怒りを静めたのか、アランの力が弛んだ。
「如月君が犠牲になっても~、怨霊の動きを止められるのは一時だけ~。念の憑代となっている《核》を壊さなければ、すぐに再生してしまうわよ~」
ミサちゃんの占いならその位置がわかるんだけどな~。
裏密が青年の計画の無意味さを説いた。的確すぎる指摘に心でも読まれたのでは?といらぬ疑念が湧き上がる。
「ボク達には、確かにヒスイのような義務や役目はナイかもしれまセン。けれどボクは、大切な人を二度と目の前で喪いたくナイのデース」
一族の仇を討つという目的を終えたアラン。何一つ残らないはずだった自分の人生に新たな光を投げかけてくれたのは、龍麻と彼を取り巻く仲間達だった。
アランには正直、この闘いにどの程度の意味があるのかわからない。またもし、知ったところで自分がそれにさして意義を見いだせるとも思っていない。
だが、親も兄弟も。故郷さえも失った自分に居場所を与えてくれた優しい人達を護りたいと心の底から願っていた。
龍麻が、仲間達が、笑顔でいてくれるように。
その為だけに、アランは持てる《力》の全てを使おうと決意している。
「役目だから闘うんじゃないの、舞子達はただ、自分で決めたことを成し遂げようとしているだけなの。お友達をひとりで危険な目に遭わせたりはしないもんッ」
「アラン、高見沢さん……」
如月君はお役目がなくなっちゃったら、もう闘ったりしない~?
問われて束の間押し黙る。
飛水の柵より解き放たれたとき。自分は闘いを放棄するだろうか。
投げ出して、しまうだろうか。
目を閉じて、自問する。
少し前であれば、そうだったかもしれない。
だが、今は……。
答えは、迷うまでもなく己の内に存在した。
「ど~ぉ?ミサちゃんの占い、信じる気になった~~?」
六つの目が翡翠の決心を問う。
青年は一言「ああ」とだけ答えた。
「高見沢さん、すまないが僕達の傷を癒してくれたまえ。その間に裏密さんはアランに雷角の《核》の位置を教えてやって欲しい」
「は~い。どこか痛いところはありませんか~?」
ぱっと顔を輝かせ、高見沢が皆の治療を始める。
裏密はどこからか水晶球を取り出すと、なにやらぶつぶつと呟きながら覗き込んでいた。アランが厳粛な面持ちでその呟きを聞き取っている。
いつもふざけてばかりで翡翠の苛立ちを募らせる者達。
用もないのに店を訪れては、買い物もせずにお茶を要求する図々しい輩。
どうしようもなく愚かで、お人好しで。自分より他人のために心配したり涙したりする。
これが翡翠の仲間。
どんな危機も怖れることなく、逆境にめげることもなく。自分のような偏屈な存在をも受け入れ、支えてくれる。
なんとも頼もしくも有難い存在なのだろう。
彼等を戦地から生還させるために、自分は刃を握ろう。
そうして、できることならば。全員無事で龍麻の元へ辿り着きたい。
翡翠を最初に仲間と呼んだあの佳人が誰の犠牲も望んでいないことを知りながら、どうして自分は容易く命を投げ出そうとしていたのだろう。
「うふふ~心配しないで~」
家壁に背を預け、雷角の動きを探っていた青年に裏密が歩み寄った。
「もし何かあって死んじゃったときでも~、わたしがアル・アジフの書を用いて、第二の人生を与えてあげる~」
「……………………」
幸か不幸か、骨董屋の若旦那にはアル・アジフなる書の名前に心当たりがあった。別名『ネクロノミコン』とも呼ばれるそれは、死者の招魂法などについて記された禁断の書である。
「…………き、気持ちだけありがたく受け取っておくよ」
引き攣った笑みで受け流し、高見沢達の案配を見に行くことを口実に距離を取る。
死んでから蘇らされるのも嫌だが、生きているうちに禁断の書の効果を実体験させられるのはもっと嫌だった。
彼等の状態が良好であることを確認し、己の考えていたことを披露する。少し前までは告げるつもりもなかった事柄がするすると口をついて出た。
「作戦は単純だ。僕が雷角の動きを止めるから、その隙にアランが奴の弱点を打ち抜いてくれ」
「どうやって敵の動きを止めるつもりデスか?」
青龍の宿星を持つ青年がもっともな疑問を口に乗せる。
最前の裏密の科白を思い出した翡翠は、『自分の肉体を使って』という言葉を呑み込んだ。もう、一人で粋がる必要はない。皆で力を合わせれば別の方法も見つかろう。
少し考え、結界によって創り出された亜空間を見渡した。視界が利かぬほどではないが、周囲は薄暗く足元に影はない。
「……裏密さん。君の力でこの場所に光源を呼ぶことは出来るかい?」
「舞子ちゃんと協力すれば、なんとかなるかも~」
でも、長い間は無理よ~。
「……アラン。チャンスは一度きりだ」
出来るか、と目で問うと、アランが胸を叩いた。
「仲間が作ってくれる機会を無駄にはしないネ!OK!任せて下サーイッ!」
「よし!アラン、高見沢さんと雷角の背後に回り込んでくれ。結界を維持する中忍達も、君達が近づけばさすがに攻撃を仕掛けてくるだろう。遭遇したときは彼女を護って速やかに敵を排除くれたまえ。ただし、銃を連射して敵将に気付かれるような愚行はおかしてくれるなよ」
「了解デース!ヒスイ達も気を付けてネッ!」
「今日もがんばりまァ~す」
気力も充分に答える二人に頷き、青年は残るひとりを振り返る。
「裏密さんは僕の後からきてくれ。では――参る!」
掛け声に合わせ、皆が一斉に動き出した。
翡翠は隠しから手裏剣を取り出し、自分達と同じように物陰に身を潜めていた鬼道衆忍軍に向かって投げ打った。そこには、別部隊の動向を悟られぬよう敵の目を引き付けておきたいという意図がある。
方々で悲鳴が上がった。声を聞きつけた雷角がギロリと血走った目を走らせる。
濁った双眸に宿るのは純粋な狂気。敵も味方もない。そこにいるのはただ血に飢え、生身の肉を屠ることのみを欲する醜悪にして哀れな化け物だった。
迫り来る巨魁。
翡翠は仰向けに転がると、襲いかかってくる爪を辛うじて避けた。驚くべきことに敵の反射速度が上がっている。与えられた《力》に躯が順応し始めているのだろう。
忍者にとって幸運だったのは、妖獅子が急停止と方向転換を覚え切れていないことだった。勢いを殺せず奥の壁に突っ込む化け物の姿を視界の端に収めつつ、素早く立ち上がる。目指すのは50m程先。四本の道が交差した他より心持ち開けた場所だった。
高見沢達が移動を終えるのを待ちながら、敵を誘導する。相手の攻撃を紙一重で躱し、地面に転がっては起きあがる。
幾度そんなことを繰り返しただろうか。
生と死ギリギリの境界で、しかし翡翠の心は何故か落ち着いていた。
自分には仲間がいる。彼等の期待を裏切ることはできない。そして、彼等も。決して自分の期待を裏切らないだろう。そんな確信が青年に活力を与えていたのだ。
交差路の中央に躍り出た獲物に向かい、雷角が高く躍動する。
物陰に隠れながら後を追ってきた裏密が、低く笑った。
「準備はいい~?」
「うんッ!!」
場違いなほど元気な了承が道の反対側から上がる。
真神の魔女が唱えだしたのは、小中学校の子供達ならよく知っている呪文だった。
「コックリさ~ん、コックリさ~ん」
この呪文を低俗な動物霊を使って近未来を占う遊びだと認識している者も多いだろう。だがコックリとは、すなわち『狐狗狸』。それぞれが、神の使いとしても知られている動物たちなのである。本来は気安く呼び立ててよいものではなかった。
深い知識を持つ裏密と、清き力を宿す高見沢だからこそ、正しく使うことのできる呪術。
「闇は光に、光は影に~」
もどかしいほどゆっくりとした口調と、裏腹な速度で地面より湧き出し走っていく光の束。
右に、左に。縦に、横に。対角線上に並んだ少女達の間で光が大きな輪を描き、六芒星を形作った。円と星の間にはどこの国の言葉かもわからないいくつもの文字が浮き上がり、さらに大きな光源となって辺りを照らし出していく。
「影は、巡りし輪の中へ~。呪言降霊陣~」
それは、魔法陣の中にあるものに呪(シュ)を施し、小動物へと変えてしまう裏密と高見沢の方陣技だった。
しかし、その呪詛も雷角の動きを捕らえることは叶わない。一度地面に着地した獅子は、光が追いつくより早く天へと駆け上る。
「あァ~ん、ダメぇ~、逃げられちゃう~」
多くの視線が空を舞う怪異を見上げる中、足元を見つめていた翡翠はほくそ笑んだ。
雷角本体は空へ逃れ得たかもしれないが、魔法陣の裡にはいまだ残されているものがある。
「垂直に飛躍したのが災いしたな――飛水影縫ッ!!!」
叫ぶと同時に手にあった得物を投げつける。刃渡り一尺五寸の鋼が、六芒星の中央に染み出た敵将の影を縫い止めた。
目にも留まらぬ早さで空の高見を目指していた雷角の動きが空中でぴたりと止まる。
その体勢は、地面の影をそのまま模倣していた。
重力に引かれ、獣が落下を始めるより早く、アランがトリガーに指を掛ける。
銃声が響き、真っ直ぐに伸びた弾道が化け物の眉間へと吸い込まれていった。
―――ウゴァァァァァァァァーーーッ!!!
虚空に弾ける妖の悲鳴。
仰け反った獅子の全身を取り巻くように、小さな火花が走る。
翡翠は慌てて裏密の腕を引いた。反対側では、アランが舞子を抱き寄せている。
頭上で大きく閃光が弾けた。放射状に飛び散ったプラズマが、青年達を掠めては裂傷を負わせていく。
それが、雷角の放った最後の花火だった。
後に残るは静寂。
「他の鬼道衆は何処へ行ったんデスか……」
衝撃が過ぎ去ったことを確かめ、舞子を解放したアランが呆然と言った。
「逃げたみたいね~」
家屋の塀と翡翠の躰の間に庇われていた裏密が顔を上げる。
「ほら~結界も溶けてきたみたい~~」
徐々に薄くなる結界の合間から、夏の照りつけるような日射しが再び顔を覗かせ始めていた。
「お日様だ~わぁ~いッ!!」
淡い、けれど雲一つ無い空の色に高見沢が歓声を上げる。
得物の回収に向かった翡翠は、コンクリートを貫いたにも関わらず、刃零れひとつしていない忍刀を鞘に収めようとして――その傍に転がる小さな木片に気付いた。山吹色に塗られた小さな人形(ヒトガタ)は、頭の部分に銃弾の貫通した痕が残っている。
青年は木片を丁寧に踏み砕くと仲間達に向き直った。
「まさかあの時点で君が撃つとは思わなかったよ。てっきり地面に堕ちた瞬間を狙うものだと考えていたんだが」
珍しく柔らかな表情をしている青年に攣られたのか、アランが照れながら頭を掻く。
「それまで、舞子達の術が持つかわかりませんデシタから。せっかくヒスーイがボク達を信じてくれたのデス。絶対に負けられナイと思いマシタ」
「………ありがとう――」
翡翠は心から礼を述べると、彼等に向かって深々と頭を下げた。
「君達のお陰で危難を脱することができた。僕一人では雷角を斃すことなど望めなかったろう。礼を言わせてくれ」
戦闘のことばかりではない。
アラン達の指摘通り、翡翠は他者を見下し軽んじていた。
役目と義務を負う己の苦しみなど、誰にも理解されるはずはないのだと。殻に篭もり、世を拗ねて自分から孤独の檻に閉じこもっていたのだ。
己が如何に狭量であったかを、翡翠はこの闘いで思い知らされた。
役目だから立派なのではない。義務だから崇高なのではない。
誰かに手を差し伸べたいと願う、その気持ちこそが尊いものなのだと。
気付かせてくれた三人には、いくら感謝してもしたりないぐらいだった。
「水臭いわ~如月君~」
裏密が人形に頬摺りして恥じらう。
あの人形、ついさっきまでは確かになかったはずなのに。
なぜだ?!と叫び出したくなるのを翡翠は必至に堪え忍んだ。
「あはッ!わたしたち、お友達でしょ~」
「そうです、ヒスイ。仲間が助け合うのは当然のことなのデース」
彼等が差し伸べてくれた手の温かさを自分は生涯忘れまい。
大切な人だから手を貸したいと思う。特別な相手だから力になりたいと感じる。
何を望まれているのかを考え。何を為すべきなのかを知る。
誰に強要されるでもなく。己自身の想いによって。
決意を抱き、志を求める。
己の心に。
相手の胸に。
そうして互いの裡に共通する意欲を見いだしたとき、自分達は仲間となったのではなかったか。
玄武でなくとも自分は龍麻に持てる《力》の全てを捧げたであろう。
飛水でなくなる日が来るとしても、翡翠は彼等の為に武器を取る。
喩え使命などなくとも自分は――。
「……そうだな」
これまで友人と呼べる存在を持ったことのなかった青年は、微笑とも苦笑ともつかない笑みを浮かべると仲間達の輪の中へと入っていく。
これが己のいるべき場所。
そうしてこれからもずっと護り続けていきたいと願う、唯一無二の場所だった。