君に標(しるべ)を残そう。
ひとりになった部屋で暫し微睡んでいた龍麻は、携帯の着信音に覚醒を促された。
京一かなと考え、すぐに否定する。
時刻は1時過ぎ。いつも例に倣えば、今頃は鍛錬の真っ最中であろう。
寝転んだまま、ベッドのサイドテーブルに腕を伸ばした。どのみち仲間うちの誰かであることに違いはない。龍麻の携帯は、仲間と連絡をとる以外の用途で使われたことがないのだから。
「はい緋勇……」
毛布にくるまり直しながら着信させると、電波の向こうからまろやかな少女の声が届いた。
『龍麻……あの、私……』
「美里、どうしたの何かあった?」
彼女は確か今日、用事があると誘いを断っていたはずだ。
『そういうわけじゃないのだけれど……』
美里らしからぬ歯切れの悪い物言い。龍麻は、電話を持ち直した。
『龍麻は京一君達と約束していたわね。旧校舎にいるのかしら?』
「家にいるよ。俺は行かなかったんだ。京一達はまだ潜ってると思うけど……」
『体調が悪いの?私、起こしてしまったのかしら……』
美里の声音が気遣わしげなものになる。
「平気だよ。ちょっと疲れていただけだから」
『それならいいのだけれど。ちゃんと休養をとったほうがいいわ』
「美里?何か俺に話があるんじゃないの?」
『ええ、でも私……』
龍麻を思いやってか、語尾を濁す。
「俺のことなら、充分休んだから気にしなくていいよ。いまどこにいるんだ?よかったらそっちにいくけど?」
美里の様子はどこかおかしい。回復役の要である彼女の志気が下がると、大勢(たいせい)に影響がでかねない。直接会って話を聞いておいたほうがいいだろうと判断を下した。午後一杯を昼寝に費やすことに未練は残るが、いたしかたない。
『学園の近くの公園に……』
電話越しにも消沈した《氣》が伝わってくる。龍麻は素早く身を起こすと、寝巻きの釦に手を掛けた。
公園に着いたのは、それから30分ほど後のことだった。
美里は片隅のベンチに腰かけ俯いている。
「悪い。遅くなった」
近くまで寄って声をかけると、やっと顔を上げた。
「いいえ。私の方こそ具合が良くないときに、呼びつけてしまったりして……」
「俺が自分で来るっていったんだよ」
並んで腰を降ろす。二人はしばらく無言で、細くたなびく雲を見上げていた。
冷たい風は連立する常緑樹に遮られ、暖かな日差しが細い枝の隙間から降りそそいでいる。
「私、新宿中央公園へ行ったときから、ずっと考えていたの……」
とつとつと美里が話し始めた。
「道心先生に私と貴方の繋がりを聴いたとき、とても嬉しかったわ。私は貴方の隣に立つ資格があるのだと、認められたような気がしたの」
気持ちを整理しながら綴られる言葉は、ひどくゆっくりとしたものだった。龍麻は辛抱強く話の続きを待つ。
「けれど、すぐに怖くなった。宿星によって、私たちの運命が決められていたのだとしたら、私の抱くこの感情は、どこまでが私自身のものなのかしら。もしかしたら、私の貴方に対する気持ちは、天意に操られている結果に過ぎないのかもしれないと……」
スカートの上で組み合わされた手が、硬く握り締められる。
「龍麻はこんなことで悩んだりしないのかしら?貴方も星の導きを信じると言っていたでしょう」
宿星を信じるかとの白蛾翁の問いに、龍麻は頷いた。
龍麻や美里の出生など、己のあずかり知らぬところで決められてしまったものを運命と呼ぶのなら、否定しても始まらないと考えたからだ。
「占星術には、人生はあらかじめ定められているもので、人はただ決められた運命を流されていくだけなのだという考え方があるね。でも、俺は運命を信じることと、それに流されてしまうことは違うことだと思う」
龍麻は立ち上がって美里の正面に回ると片膝をついた。
「宿星という枠に填ってしまう必要はないんだよ。決められていることだから、戦わなければならないってことはない。辛いならやめてもいいんだ」
美里の協力を仰ぐため龍麻がいかに心を砕こうとも、当人にやる気がなければ無理強いすることはできない。逃げることも選択肢のひとつなのだから。
「そんな、逃げるなんて……」
「じゃあ、もし、白蛾翁が『美里は《菩薩眼》で、未来を担う運命を背負っているから危険なことはするな』っていったら?ひとりだけ安全な場所に行くように言われたらどうする?」
ちょっと意地悪かな、と思いつつ項垂れる少女の瞳を下から覗き込む。美里の答えは決まっていた。
「皆を置いて、わたしだけ安全な場所に行くことなんてできないわ」
「うん。だからさ、運命なんてその程度のものだと思うんだ」
雑誌の星占いに『今日は北東にいくと悪いことが起きる』と書かれていたら?
まさかそんな下らない理由で、学校を休むわけにはいかないだろう。
「星が《道》を用意しているのだとしても、それに従うかを決めるのは自分自身じゃないかな」
「でも、不安なの。その取捨選択さえもが自分の意志でなされているのか、わからなくて……」
これは重症だ。龍麻はそっとため息をつき、美里の手を取った。白い滑らかな肌を包み込むと、少女が仄かに頬に朱を昇らせる。
「美里は俺のことを、運命だから特別に思えたのかも知れないって言ったろ。他の仲間たちはどうかな?遠野や天野さんのことは?彼女達は俺達のような《力》を持つ宿星じゃないから、仲間には成り得ないか?」
「アン子ちゃんや天野さんには何度も助けてもらったわ。彼女達は大切な仲間よ。他の人達だって……」
「皆同じように好き?」
えっ?と美里が瞬きした。
「同じ宿星の仲間だから、皆同じように好きになった?……そうじゃないよね。気の合う人もいれば、そうでもない人もいる」
美里は無言で頷いた。龍麻の言うとおりだった。努めて仲良く振舞おうとしても、心の奥底でどうしても好きになれない人もいる――宿星の下、同じ運命を分かち合う仲間だというのに。
「それに、この先美里に俺達より大切な人が現れないとも限らない」
社会に出て広い世界を見渡せば、それこそ星の数ほど出逢いがある。龍麻以上に惹きつけられる存在がいないとも限らないのだ。
「私……っ」
「焦ることはないんだ、美里。この戦いが終わってから考えたって遅くはないだろ」
「戦いが終わってから……?」
鸚鵡返しに美里が呟く。
「そう。全部が終わって宿星なんて関係なくなってから、美里が決めればいい」
「私、戦いが終わった後のことなんて考えてもみなかったわ……」
毎日が戦闘の連続だった。激動の波に揉まれまいとする焦燥感が、知らず心にまで伝播していたのかもしれない。
この場所で答えを出さなければならないような気さえしていたのだ。
龍麻の静安な瞳を見つめているうちに、美里の乱れた胸の裡も綏静(すいせい)していく。
時間はいくらでもある。
宿星が役目を終えても、繋いだ絆までが解けてしまうわけではない。そんな簡単なことにさえ気づけないほど余裕を無くしていた。
「龍麻。例え道が分かれてしまっても、私達はずっと仲間でいられるわよね?」
「俺と、美里が信じ続けているのなら」
一緒に過ごした時間が、褪せることのない軌跡となって心に焼き付いている限り。龍麻達は変わらぬ気持ちを抱いていくことができる。
美里の頬を涙が伝った。
「……ありがとう龍麻」
いまは自分の目線より下にある、肩口に頬を埋める。
髪を撫でてくれる手の平の温もりは、遠い星になど届きそうにないほどささやかだったから。この温度だけは、何者にも干渉されていない美里自身の心が感じているものだと、信じられた。
泣いたことを恥じているのか、美里はひとりで帰ると言った。
少女の姿が完全に視界から消えるのを待って、龍麻は手近な樹に背中を預ける。
「……そんなところにいると風邪を引くよ」
笑いを含んだ声を背後に掛けた。
「飛び出さなかっただけ、誉めて欲しいくらいです」
一抱えほどの幹を挟んだ反対側で、栗色の髪が風にそよぐ。
「あの人、卑怯です。龍麻に大切に想われているのを解っていて、逃げて責任を押しかぶせるなんて」
通りかかったのは偶然だった。ベンチに腰掛ける龍麻と、もう一人の存在に気づいたことも。
すぐに立ち去るつもりだったのに、耳に飛び込んできた言葉があまりに腹立だしくて、つい歩みを止めてしまったのだ。
「立ち聞きなんてよくないってことわかってます。でも、わたし自分だけ保身に走ろうとする彼女が許せないんです」
龍麻は微苦笑した。
「あまり責めないでやってくれるかな比良坂。美里なりに悩みぬいた結果なんだろうからさ」
紗夜の言葉はある意味正しい。美里の深層意識には、課せられた重責に対する萎縮があった。龍麻の傍らに立つことを望みながらも、一方で被ることになるだろう波瀾に怯えていたのだ。不安と運命を混同し、無意識に問題をすり替えていたことに彼女自身は気づいていない。
「美里は今の関係を崩したくなかったんだよ。いいんじゃないのかな。《菩薩眼》であることに縛られる必要はないんだし」
「わたし……わたしは、自分の気持ちを誤魔化したりしたくありません。運命だから龍麻の傍にいるんじゃないわ。龍麻が大切だから、貴方の役に立ちたかったから、ここにいるんです」
幹の向こうから顔を覗かせ、きっぱりと比良坂が言い放った。胸元に揺れる黄色いリボン。
龍麻はその淡い色が焔に煽られ、深紅に染まっていた様を思い出していた。
「比良坂は後悔してない?」
いま生きてここにいることを。ひとり取り残されてしまったことを。
龍麻が飛ばされた『時逆の迷宮』。それは、無数に枝分かれした《道》の一端ではなかったのだろうか。宗崇が野望を抱かなかった世界。龍麻が戦いに身を投じなかった世界。可能性として存在しながらも、選ばれることのなかった人生のひとつの《道》。
『紗夜』を救ったとき、龍麻は完璧に己を取り戻していた。結果を為したのは、あちら側の『龍麻』ではなく、『紗夜のいない世界』の龍麻だったのだ。
《道》とは未来に向かって分かれていくもの。だから龍麻の進んできた《道》の過去に、『紗夜が生き長らえた世界』と、『紗夜が命を落としてしまった世界』が二つ共に存在することはあり得ない。
同一境界線上に生じた逆説(パラドックス)は、龍麻の意識がより鮮明な方――『紗夜』が生きている世界――を優先し、上書きすることで均衡を図ったのではないか。龍麻は紗夜が戻ってきた理由をそんなふうに解釈していた。
龍麻の我が儘が、少女の眠りを妨げてしまったのだ。
「わたし感謝してるんです。以前は、兄さんの言うことだけを聞いていれば幸せなのだと思い込んでいました。自分で考えることもなく、良いことも悪いことも兄の責にしていればよかった。わたしも逃げていたんです」
人形であったのは己の心根。償うことも、夢を叶えることも、生きて自分の足で歩いているからこそできるのだと。
そのことを紗夜に気づかせ、やり直せる機会を龍麻が与えてくれた。
「……比良坂、俺が奇跡を信じるのはね、見せてくれた人がいたからだよ」
望みのために流れゆく時を止めた者と、望みを叶えたが故に時の止まってしまった者。
ひとりは龍麻より世界を奪い、いまひとりは封印の軛(くびき)より龍麻を解き放った。
「別にね、奪われたままでもよかったんだ」
己が不幸であることを知らない者は、幸福でいられる。時を止めし男と過ごした時間は、龍麻にそれなりの安寧をもたらしていた。
「けど、俺には世界を見せてくれる人がいた。閉ざされていた自我を呼び覚ましてくれた人がいたんだ。最初は戸惑ったし混乱したけどね」
同時に、面白いと思った。そして、そう考える自分に興味を抱いた。
『思考』する己に、『生』を感じ。
『感情』を揺り動かしてくれる他者に『世界』を知らされる。
無知の知を自覚した者は、二度と無知には戻れない。
龍麻は己が生きている存在であることを知覚してしまった。命に執着を感じたことはないけれど。生きている限り、再び自我を手放すつもりはない。
自分の抱いた関心のために。龍麻に世界を与えてくれた人のために。……大切な人を護っていくために。
龍麻が必要以上に己の意志に拘るのは、それが自己を知る上で重要な意味を持っているものだからである。
「ごめん。説明が曖昧すぎてわからないよな。でも、比良坂にずっと話したかったんだ」
前には伝えることのできなかった言葉。胸の奥に秘めてしまった過去を。
「どうして、ですか?」
「奇跡を信じて欲しかったら、かな。その上で、奇跡が万能ではないことを知ってもらいたかった」
紗夜を救った両親の想いを否定しなくて済むように。運命をも変えるほどに彼女を愛した者達がいたことを、覚えていて欲しかった。
美里と紗夜と。
龍麻が彼女達に抱く感情は、肉親の情に限りなく近い。
美里がいつまでも、聖女のままでいてくれることを。
紗夜が過去に苛まれることなく顔を上げて歩いていけることを。
真摯な気持ちで祈っている。
この感情が天意によるものなのかは知らない。どこから生じたものだろうとかまわない。肝心なのは、龍麻がそう感じているということだ。
そして、龍麻にもうひとつの『奇跡』をくれた少女にも――。
龍麻は、内側の隠しポケットから一枚の写真を撮り出した。小さな女の子と兄らしき少年の仲睦まじい姿が写されている。紗夜としながわ水族館へ行ったときに拾ったものだった。
「忘れないうちに返すよ。これ……」
あっ、と紗夜は声を上げた。
「失くしたと思っていました。龍麻が持っていてくれたんですね」
兄と紗夜が倖せだった頃の、思い出の品を両手で受け取る。炎の中で灰になったのだろうと諦念していたというのに。
写真を胸に抱き、野に咲く可憐な花のように比良坂が顔を綻ばせた。
「龍麻。わたしも奇跡を信じます。あなたと出逢えたことがわたしの奇跡だから」
代償を必要とするような苛烈なものはいらない。人の営みの中で、小さな偶然と必然が織りなした巡り合わせを――贈られた希望の欠片こそを、紗夜はそう呼びたい。
龍麻は優しく微笑むと、少女の躰をふわりと引き寄せた。
「うん。俺も比良坂と、もう一度会えてよかった……」
いつか、彼女を呼び戻したことで代償を払わねばならない日が来るのだとしても。
いまだけはこの奇跡に感謝をして。
木立を縫って吹いてきた冷たい風に、互いの体温が心地よく感じ取れた。
「あれ、ひーちゃん、どうしたんだ一体?」
旧校舎から上がってきた京一は、校門に寄りかかる人影に声を大にした。
「龍麻サン。具合が悪かったとか聞いてたけど大丈夫なのか?」
どうやら京一は体調不全を龍麻欠席の言い訳にしたらしい。……まあ、嘘ではないか。
「アミーゴ、元気そうな姿が見られてなによりネッ!」
雨紋とアランがすかさず駆け寄って来る。
「あ~、ダーリン~だぁ。わ~い!」
回復役の美里が欠席していたためか、いつもは病院の仕事で忙しい高見沢の姿があった。
「無理は良くないよ。休めるときにやすまないとね」
彼女と腕を組んで歩いてくるのは、藤咲だ。
龍麻は彼等に軽く手を上げると、京一に視線を当てた。
「だいぶ休んだから、もう平気だよ。所用があって近くまで来たついでに京一を迎えに来たんだ」
「なんだ京一、龍麻と約束があったのか?しょうのない奴だな」
「京一ってば、こんな寒い中ひーちゃんを待たせるなんて悪いと思わないの?」
醍醐と小蒔に白眼視され、京一が困窮する。
「えっと、ひーちゃん?」
「やだなあ、京一忘れたのか?今日は英語の課題を見てやる約束をしてたろう?」
にっこりと笑う顔が、逃がさないと告げてくる。京一が後退った。
「龍麻、友情も大切だけれど、時には突き放すことも必要じゃないかな」
「彼の成績が芳しくないのは、彼の精進が足りないからだ。甘やかしてばかりでは蓬莱寺君のためにもならないよ」
紅葉と如月がさらりと暴言を吐く。
「そんな、京一先輩は立派な人です。勉強だってやればきっと出来るんですよ!」
握り拳で力説する霧島。紫暮は視線を宙に泳がせた。
「努力してもどうにもならないことも、世の中にはあるけどな……」
京一が呻り声を上げた。
「うるせえお前らっ!俺がひーちゃん家に泊まりにいくからって、やっかんでんじゃねェ!!」
「え~お泊り、いいな~。舞子もダーリン家に行きたい~」
「いいねぇ、アタシも龍麻ん家には興味があるよ」
藤咲が髪を掻きあげる。龍麻は肩を竦めた。
「今度ね。今日はコレの面倒を見ないとならないから」
「蓬莱寺、君はこの時期に泊り込みで勉強しなければならないほど切羽詰っているのかい?」
世間は冬休み。年明けて3学期ともなれば、あとは卒業式を待つばかりだというのに。
紅葉の疑問に答えたのは醍醐と小蒔だった。
「あー、京一は生物と英語がちょっとな」
「古典と数学もだよ醍醐クン」
そんなに、と如月が絶句した。
「テストなんて受ければある程度、点数の取れるものだと思っていたが……」
「けっ……っ嫌味なヤローだぜっ」
「エロイムエッサイム、エロイムエッサイム……わたしが追試の問題を占ってあげようか~~」
「ぬおっ、裏密ッ」
ぬっと目の前に突き出された人形に、京一が仰け反る。
「それいい!そうしなよ京一」
ぽんっ、と小蒔が手を叩いた。
「冗談じゃねェ。例え留年することになったって悪魔に魂を売ることだけはするかッ」
「残念ね~。京一君だったら~魔王ルシファーだって喜んで契約してくれるのに~~」
「………………」
京一の背中をぞくぞくと悪寒が走る。こいつなら本当にやりかねない。目の端では醍醐がやはり顔色を無くしていた。
「龍麻、ちょっとよろしいですか」
一連の騒ぎを静観していた御門がすっと歩み寄る。
「あれ、御門も参加してたんだ?」
「私は貴方に会うためにわざわざ出向いてきたのですよ」
「ごめん。いきなり休んで悪かったよ」
「しかたありませんね。会えたからよしとしましょう」
憂愁の溜息は、御門なりの最大限の譲歩だ。が、もちろん京一には伝わらなかった。
「さっさと要件を言いやがれ」
わざとらしく龍麻を背中に庇う。若き陰陽師は意に介さず淡々と告げた。
「最終決戦となる日時がわかりました」
はっと、周囲の緊張が高まる。
「禍つ星がもっとも地球に近づく1月2日未明。龍脈の活性化は顕著となり、なおかつ不安定となります。柳生が行動を起こすのはこの刻をおいて他にないでしょう」
「その禍つ星というのはなんだ?」
醍醐が口を挟む。御門の背後に控えていた芙蓉が補足した。
「蚩尤旗と呼ばれる彗星です。何十年かに一度、地球に近づくたびに凶事を引き起こすために星占師の間では禍つ星、つまり凶星として知られています」
「蚩尤は中国古代神話に伝えられる邪神の名だ。鉄額銅身。四眼六臂で牛角と蹄を持ち、天の玉座を欲していたと言われている」
「さすが龍麻。よくご存知ですね。蚩尤は己を誅した黄帝に恨みを抱いていました。その怨恨は深く、墓の上空に怨念か凝り(こごり)紅く染まったほどだそうです。この紅気を指して『蚩尤の旗』と称し、禍つ星はこの《氣》を受けた彗星が紅く輝いたものだとも伝えられています」
御門が満足そうに笑みを浮かべた。
「おって明確な場所と時刻もお伝えできるでしょう。くれぐれも油断なさらぬよう。体調不全など、負けの言い訳になりませんからね」
遠まわしに躰を労れと言いたいらしい。素直じゃない御門に、龍麻はくすくすと笑った。
「肝に銘じておくよ」
「ひーちゃん~。わたし~、ひーちゃんのために~、薬を調合したんだけど~飲んでくれる~?」
裏密が人形を強く抱きしめながら言った。乙女の恥らう仕草というよりは、何事かを企み、ほくそ笑んでいるように見受けられるのはどうしてなのだろう。
ごそごそと取り出された小さな包みに、一同の視線が集まる。胸のうちを同じ記憶が駆け抜けた。
コレは確か、先ほどの戦闘で撒き散らしていた粉では……。
「これは~オルムズドの光の粉といって~~」
「うわわっ、ひーちゃん、それに触るんじゃねェ!!」
やっぱり~~ッ!!
京一は蒼白になって龍麻を背後から抱え込んだ。
光の粒子に触れた妖達がぐずぐずに溶けていくのを、いましがた目にしたばかりである。
「京一?裏密がせっかく……」
「いいっ、必要ないッ!薬ならいくらでも俺が買ってやるからッ!」
さっさと帰るぞ!!
脂汗を滲ませて、龍麻を引きずっていく。
さすがに引き止めるものは皆無だった。
「これは魔物には毒だけど、人間には薬になるの~。《黄龍の器》だったらとうなるのか、試してみたかったのに~~」
裏密の残念そうな声が暮れなずむ空に溶けていった。
京一は相好を崩して張り付いてくる。
「なんだよ気味が悪いな」
「へへへっ。だって、ひーちゃんがわざわざ俺のこと迎えに来てくれるなんてよォ」
「他に用事があったんだって言ったろ」
「そうかそうか」
べったりと首にしがみつかれた。
こいつ信じてないな。
睨んではみたものの、京一のだらしない顔に毒気を抜かれてしまった。風が冷たいことではあるし、多少鬱陶しい大きさだが、人間カイロということにしておこう。
「なあ、ひーちゃん元旦になったら初詣に行こうぜ」
「最終決戦の前に皆で神頼みするのか?」
「えっ、……まァ、それでもいいけどよォ」
二人きりで出かけたかった京一は当てが外れたが、一年の始まりを気の置けない奴等と過ごすのも悪くない。
「頼んでおけば、いざってときに助けてくれるかもしれねえしな。お参りしといて悪いこたァねェだろ」
奇跡を願うのではなく、天の恩寵を求めるのではなく。あればいいなというだけの幸運に期待をかけて。気休めも時には、小さな希望の光と成り得ることを知っているから。
「そうだね。美里や桜井の不安を軽くするのには役立つかもしれないな」
「じゃ、決まりだな」
あいつらに連絡入れとかねえとよ。
「……なあ、さっきの御門の話だけど」
計画を立てていた京一は、「んーっ?」と生返事をした。
「もし、蚩尤が攻めてきたら、どうする?」
「あ?来るわけねーだろ、んなもん」
大昔にとっくに滅んじまってんだからよ。
「黄帝に仕返しするために復活してくる、とか」
「にしたって、俺たちには関係ねーだろ。黄帝なんて奴、知り合いにゃいねーし」
「お前、やっぱり理解してなかったな……」
龍麻は呆れると、詩編を諳んじるかのごとく清々とした声を響かせた。
「蚩尤は濃霧を用い、さらに風伯と雨師を招いて敵の軍を苦しめた。禁軍の将・応龍が司る《力》は水であったため、応龍の攻撃は悉く雨と風に封じられてしまう。苦戦を強いられた黄龍は自分の娘である魃(バツ)を天下した。旱(ひでり)の女神である彼女の《力》は水気を払い、これを打ち破ることに成功する。黄龍は地を平定し、蚩尤の一族郎党は絶滅寸前にまで追い込まれていった」
「……《黄龍》?」
京一が聞き咎めた。
「黄帝とは、四方の神を統轄するすべての中心。天の御座に君臨するもの――つまりは《黄龍》のことなんだよ」
一説によれば、蚩尤旗の接近と龍脈活性化の時期が重なるのは、黄龍が警戒し目醒めるためであるとも謂われている。
「勘弁してくれよ」
京一は頭を抱えたくなった。
冗談だろう。というか、冗談であって欲しい。《龍脈》と柳生のことだけでも頭が痛いのに。この上そんな化け物にまで出てこられては洒落にならない。
「……つっても、平和的な話し合いが望める相手じゃねーんだろうな。ま、全員で気合いを入れて掛かりゃなんとかなんだろ」
「戦うつもりなんだ?」
「しょうがねえだろ。黄龍に恨みがあるんじゃ、ひーちゃんのこともよく思わねえだろうし。お前に危害を加えるかも知れねえモノを放っとくわけには……って、おい。ひーちゃん?」
よくよく気に留めてみれば、龍麻の肩が微かに震えている。なんだか嫌な予感がした。
「まさか、ここまで本気にするとは思わなかったな」
「てめぇ、やっぱ俺のことからかったんだなッ!」
堪えきれなくなったのか龍麻が笑声をあげた。
「そういうわけじゃないんだけど。心配しなくても大丈夫だよ京一。蚩尤は目醒めたりはしないから」
……そう、奈落に眠り、黄鱗の輝きに《氣》を遮られた、かの異形が胎動を始めるまでには、いましばらくの猶予がある。
「おまえ、なあ……っ!!」
「ごめんって。悪かったよ。……でも、京一なら、本当に蚩尤を斃せるかもしれないよ?」
「まだ、言うかッ!!」
こいつ、マンションに戻ったら速攻で押し倒してやるッ!龍麻の体調を労って今夜は我慢しようと思ってたが、そんな気持ちは吹き飛んだ。今朝の分も含めて、借りを返させてもらおうと決意する。
憤慨している京一に気づかれないように、龍麻は密やかな笑みを口元に佩いた。
いまこの時に交わしたささやかな会話を、京一は覚えていてくれるだろうか。
君に標(しるべ)を残そう。
何気ない風景に忍び込ませた小さな謎の数々は、縺れた綾糸を解く手掛かりとなる。
薄い氷の上に築かれた幻影に惑わされないで。
薄い氷の奥に沈む真実の欠片を探し出して。
他の誰にでもない、京一だけに導きを残していくから。
いつの日か、時の回廊の向こうで待つ龍麻の元へ辿り着いてくれるように。
無数に分かれた《道》の先が、同じ方向を目指しているように。
遠くて近い未来に希望を託して、君だけに標榜を示そう。