月さえも狭間に隠れた宵の口。
約束の時間になっても龍麻は待ち合わせ場所に現れなかった。仲間を代表して京一が途中まで迎えに出る。
昼間、皆で初詣に行った折にマリアに会った。担任教師は龍麻に話があるといい、二人は夕刻に学園で落ち合う約束を交わしていたから、話が長引いてでもいるのだろう。
真神学園の方角を目指し、いくつかの角を曲がると、彼方から軽い足音が響いてきた。地震の影響でところどころアスファルトが盛り上がり、割れた植木鉢や崩れ落ちたブロック塀やらの破片があちこちに散らばっている。それらをものともせず一直線に駆け抜けて来る黄金の《氣》に、京一は目を細めた。
「よォ、ひーちゃん。あんまり遅いから迎えに来たぜ」
「京一……」
互いの表情が確かめられるまで距離を縮めれば、龍麻はどこか途方に暮れた子供のような表情で京一を見ている。
「ひーちゃん?何かあったのか?」
問いかけには、緩く首を振った。
「何も。何もないよ。京一」
ところどころ擦り切れている制服や、乱れた髪を見れば何事もなかったとは思えないのだが。京一は「そうか」とだけ返した。
「話はあとでゆっくり聞いてやるよ。行こうぜ、皆が待ってる」
手櫛で軽く龍麻の髪を整えてやると、肩に腕を回す。
龍麻はひとつ頷くと、大人しく従った。
待ち合わせ場所には、龍麻を除き、既に戦闘に参加する者達が全員揃っていた。
御門から最終決戦となる場所が確定できたとの連絡を受けた際、自薦他薦を交え相談して決めたメンバーである。
中心である真神5人衆のほか、4人の仲間を加えた計9名。
四神の長であり、東京が鎮護の役目を負う如月。
鳴瀧の指示と本人の要望により龍麻の守護を努めている壬生。
臥薪嘗胆を胸に中国から渡来した劉。
秋月マサキの依頼により東京の行く末を見届けるという大義名分に、好奇心を半分織り交ぜた村雨。
余談だが、彼は御門(と芙蓉)と、どちらが来るかで少々揉めた――片方は残ってマサキの護衛をする必要がある――らしい。どうやって人選したのか定かではないが、案外、コインの裏表で決めたのかも知れない。
自分も連れて行けと騒いでいたほかの連中は、龍麻がお得意の舌先三寸で丸め込んだ。
相手が強敵だからといって、大勢で押しかければいいというものでもない。
そして恐らく。龍麻達が敗れた場合に、対抗手段が全くなくなってしまうことのないようにとの配慮も含まれているのだろう。
龍麻は何も言わなかったけれども。
四神中、ニ神を残していることからもそのことが伺えた。だが、他の仲間達だとて決して遊んでいるわけではない。
マリィは家で、美里の家族が不安に陥らないよう励ますことを龍麻と約束していた。
雨紋は、藤咲と一緒に街中の混乱を収めるため走り回っている。
練馬の平和を護るべくコスモレンジャーも出動中だ。最近コスモブルーに(一方的に)任命されたアランも連れ立って任務に励んでいる。
裏蜜は占いで被害の大きい場所を探し出し、紫暮をいいようにこき使っては救助活動に向かわせていた。
高見沢はたか子先生と共に、病院へ運び込まれた怪我人の対応におおわらわだ。
舞園は人々が少しでも落ち着くようにと、生出演で公共の電波に癒しの歌声を乗せている。もちろん傍では霧島が彼女の警護にあたっていた。
織部姉妹は入院している祖父の世話と、社の守護に奮闘していることだろう。
皆がそれぞれの方法で戦いに参加している。
誰にとっても、今宵は眠れない夜となる。
「悪い。遅くなった」
いつもと変わらぬ穏やかな笑みが、仲間達をひととおり眺め渡す。それだけで場が和み、不安が薄らいだ。龍麻がいなければ集うことのなかった仲間、顔を合わせることすらなかった者達。
各自が思い思いの感慨を噛み締めながら、自分達を惹きつけてやまぬ人物の視線を受け止めた。
敵は上野寛永寺――。
最後の戦いが始まろうとしている。
「龍麻」
集った仲間達から少し離れた場所で。地震によって傾き、安定を欠いた塀に背中を預けていた人影が、静かに身を起こした。
一段と闇が濃くなっていた場所だったためか、その気配すら掴んでいなかった一同は、肝を冷やして首を巡らせる。
龍麻はさして驚きもせず、気安く人影に近寄った。
「比良坂」
口にされた名前に、他の者達の肩から力が抜ける。
紗夜は明るみに進み出ると、迷いのない瞳を龍麻に合わせた。
「龍麻、わたしも連れてって」
「さ、紗夜ちゃん!?」
少女の突然の申し出に、京一が目を丸くする。
「気持ちはわかるが……」
「危険だよ、紗夜ちゃん」
醍醐と小蒔の抑止に、紗夜は淡く微笑んだ。
「私にも《力》がありますから。きっと龍麻の役に立てます」
「でもあなたは、これまで戦ってはこなかったでしょう。素人が急に戦いに参加するなんて危ないわ。龍麻の負担を増やしてしまうことになるんじゃないのかしら?」
「ご心配なく。足手まといにはなりませんから」
憂色を浮かべる美里には、険のある目線を返す。
背後で男達がひそひそと言葉を交わした。
「壮絶だねぇ、女は怖い。先生も大変だ」
「なんや、あのふたりやっぱりそうなんか。で?アニキはどっちが本命なんや如月はん」
「僕に聞かないでくれたまえ」
「君達、もう少し声を抑えないと聞こえるよ」
「比良……――ッ!!」
不意に龍麻が顔を顰めてよろめく。
「龍麻!?」
「ひーちゃん……っと」
美里と京一が足を踏み出したとたん、地面が小刻みに震えた。
地脈の奥深く、悠久の時を渡る黄金色の龍が目醒めようとしている。その胎動がうねりとなって地表に伝わってきているのだ。
「龍麻、どうしたんだい?」
「アニキ、大丈夫なんか?」
残りの者達も一様に、龍麻の元に集う。
「……ちょっと龍脈の《氣》にあてられただけだ。たいしたことはないよ」
額を押さえたまま答えた龍麻に、紗夜が両手を開いた。
「比良坂さんっ!」
美里の非難の篭った呼びかけを聞き流し、前屈みになった頭を抱きとめる。
紗夜から仄かな熱を伴った《氣》が立ち上り、ふわりと二人を包んだ。
初めて目にする紗夜の《力》を一同が驚きの眼差しで見守る。
「大丈夫?龍麻」
「ん……少し楽になった」
龍麻の瞳の深奥でゆらめく黄金の炎。紗夜は微笑み、その瞼に唇で触れた。
「わたしは貴方の役に立てるわ」
淡雪よりも儚い情感を残し、漆黒に戻った虹彩を覗き込む。
「相手が《黄龍》であるならなおさらに。そうでしょう龍麻?」
「どういう意味なの?」
「言葉どおりです」
怪訝な顔をする美里には、にべもなく言った。
「本当にいいのか?」
「約束したでしょう。今度はわたしが貴方の力になってあげるって」
「……ありがとう比良坂」
溜息にも似た柔らかさで、龍麻が囁いた。
龍麻の決定に不満の声を上げるものはなく、紗夜を加えた総勢十名で上野へ向かう。
「なあ、ひーちゃん。紗夜ちゃんがさっき言ってたのってどういう意味だ?」
京一はこっそりと耳打ちした。
「比良坂はもうひとつの『掌中の珠』だ」
龍も人も、眼は二つ揃っているものだろう――と。
やはり小声で戻ってきた答えに、京一はトーンの上がりそうになった声を、慌てて抑えた。
「……《龍珠》?紗夜ちゃんも《菩薩眼》だってェのか?」
「いや、《菩薩眼》は美里だけだ。知っているか京一?『掌中の珠』という言葉には、もうひとつ意味があるんだよ」
掌に包み込み守り抜きたいと願うもの――転じてそれを愛し児(めぐしご)と呼ぶのだ。
《菩薩眼》が《黄龍の器》の『母』であるならば、紗夜は《黄龍》の『娘』たる星の元に生まれついている。
彼女は熱と乾きの支配者。
妙なる天女の格を有する者。旱をもたらす、忌むべき鬼として独り砂漠に追われし者。
その性質は聖にして邪。
雨雲を散らし、霧を干すその《力》は、恵みと災厄の二面性を持っている。
「なんか、よくわかんねーけど。紗夜ちゃんと美里は一対の存在みたいなものってことなんだろ。それでなんで、《黄龍》相手だと紗夜ちゃんの《力》のが役に立つんだ?」
「《黄龍》に対して直接どう、というわけじゃない。龍脈活性化の影響を受けて、古代の異形――《闇》の生き物が永き眠りから醒める場合がある。比良坂の《力》は、そいつらに対する牽制となるんだ」
紗夜の宿星は、神話の頃に黄帝を補佐し強大な敵を退けている。当時の記憶を受け継ぐ《闇》達は、本能的に彼女の《氣》を忌避する傾向にあるのだ。
「つまり、紗夜ちゃんがいると余計な化け物とまで戦わなくって済むってことか?」
「……まあ、そんな感じかな」
京一は龍麻の言う『化け物』が外から来るものだと信じているようだが。
紗夜の抑制力をもっとも必要としているのは、他の誰でもない龍麻なのだ。他者に対峙するよりも前に、龍麻は己を御さねばならない。
何故なら、もっとも甚深なる《闇》が眠っているのは――。
「なんか、ひーちゃんって、つつけばまだまだ秘密がでてきそうだよなぁ」
京一が龍麻の思考を見透かすかのように言った。
「知りたいのか?」
反対に問いかけてみる。
「知りたくないって言えば嘘になるけどよ……」
腕を組み、今度は京一が考え込んだ。
今なら、訊けば龍麻は教えてくれるのかもしれない。だが、
「必要があれば自然と解ることなんだろ。だったら無理に聞くこともねェかなって気はする」
龍脈と黄龍の関係、柳生との因縁、菩薩眼……俄かには信じがたい突飛なものばかりだ。出会った当初に聞かされていたら、与太話と笑い飛ばすか受け止めきれずに放り出してしまっていたことだろう。
物事には時機というものがある。知るべき時に知り、動くべき時に動く。
真実の持つ重みが、自分の中で上滑りしてしまわないように。
大切なものを、手から取り零してしまわないように。
がむしゃらに突っ走ればいいというものではない。機を見ることの重要さを、京一は龍麻と過ごしてきた時間の中で学んだ。
この1年で多少は成長した、ということなのだろう。
「アニキっ!何話してるんや?」
「うわっ」
龍麻の背中に劉が飛びつく。同時に、首に2本の腕が回された。
「京一はんとばっかり話してずるいやないか。わいも混ぜたってや」
「てめーっ劉!気安くひーちゃんに張り付くな。さっさとどきやがれっ!」
京一は、顳に血管を浮き上がらせる。
「硬いこと言いっこなしや」
「そうそう。いつもは京一が、くっついてるんだもん。たまにはいいじゃない」
小蒔が劉に加勢した。
「というわけだからひーちゃん、たまにはボクの相手もしてよね」
切れた京一が劉を力づくで引き剥がすのを見計らって、龍麻の左腕にするりと自分のそれを絡める。
「おまえまで何やってんだよ」
「だってさ、なんかひーちゃんに触っておくとご利益ありそうじゃない」
「あ、そんな感じしますよね」
紗夜が笑って、反対側の腕を取った。
「ご利益って……」
『両手に花』状態になった龍麻が、困惑する。醍醐が呵々と笑った。
「龍麻には、一緒にいれば何があっても大丈夫だという気にさせる不思議な雰囲気があるからな」
俺も便乗しておこう、と肩を叩いてくる。
「そんなご大層もんじゃないよ」
「信じるのは自由じゃないかな。少なくとも僕にとっては効果絶大だった」
彼と共にあり、戦える悦び。罪と血に濡れた己の拳が、龍麻に並びたつ刹那の刻だけは誇らしいものに思える。沸き立つような、この高揚感をどう伝えたらいいのだろう。
「紅葉まで」
しょうがないな、と苦笑する。龍麻は本来、触られることがあまり好きじゃないのだ。京一がべたべたしているからあまり周囲には知られていないにしても。しかし、これで皆の緊張がほぐれるなら安いものなのかもしれない。
ここまでくれば後は何人でも同じと開き直り、小蒔に懐かれている方の腕を持ち上げて、輪から取り残され躊躇っている少女を呼んだ。
「美里」
少女は顔を輝かせ、小走りに近寄ってくる。しなやかだが自分より大きな掌を、両手でぎゅっと握り締めた。
「うふふっ、本当。貴方が傍にいれば、どんなことでも乗り越えていける気がするわ」
大切に大切に包み込み、祈りを込めて指先を口元に引き寄せる。
「いいねぇ。百花繚乱だ」
村雨が低く口笛を吹いた。
「うらやましいだろ祇孔」
龍麻は半ば自棄になっている。どうせ抱きつかれるのなら、野郎よりは可愛らしい女の子が相手のほうが数倍も嬉しい。
村雨は龍麻の正面に回るとにやりと頬を歪めた。
「いや、俺は先生も含めていったんだがな」
軽く身をかがめ、すばやく唇を掠め取る。
「……っ!」
瞬時に、四方から殺気が立ち上った。
「なっ……てめっ、い、今、ひーちゃんに、キ……キ……っ」
「へっ、最高の運が得られそうだぜ」
村雨はしてやったりとほくそ笑む。
「……村雨。君とは一度ゆっくりと話す必要がありそうだ」
「月のない晩には気をつけるんだね」
飛水流忍者と暗殺者が頬を引き攣らせれば、劉と京一はすでに臨戦体勢で抜刀している。
醍醐はただひたすら絶句していた。
女性陣は、心の中でどう思っているにせよ、表面上は極めて同情的な視線を龍麻に注いでいる。
「てっめーっ、よっくも俺のひーちゃんにっ!覚悟しやがれっ!」
「アニキッ、すまん。わい、わいまたアニキを護れんかった。せやけどこの仇はきっと討つからな!」
「俺の、とは聞き捨てならないね、蓬莱寺。龍麻がいつ君のものになったというんだい?」
「うるせー壬生。妙なとこに突っ込みいれてんじゃねーよ」
「事実は正しく述べられるべきだよ」
ぎゃあぎゃあと誠に喧しい。
「皆さんとてもお元気ですね」
微笑ましく見つめる紗夜と、眉間に皺を寄せる美里。
「あんなに動いて、大丈夫なのかしら。戦う前に疲れてしまわないといいけれど」
「あははっ、大丈夫だって。あいつらゴジラなみに体力があるんだから」
小蒔があっけらかんと笑い飛ばす。
「あれだけ騒げるなら、心配はいらないね」
如月がのんびりとした口調で言った。
虚勢かもしれない。空元気かもしれない。それでもまだ、こうして笑いあうことができる。
これから向かうのは死地。
今まで以上に厳しい戦いが待ち受けているのだとしても。
「あれは、演技じゃなく彼等の『地』だと思うけど」
「なおのことだよ。深淵に挑んで薄氷を踏むがごとし。危険に直面すれば人は自ずと慎重になるものだ。しかし、その中で余裕を見失い、悲愴に浸ることは死の享受を意味する。……君に会うまでは、こんなこと考えもしなかったが」
東京を守り抜くことが己の役目。生命を賭すことさえ義務に過ぎないのだと思ってきた。
けれど龍麻と出会い、仲間の個性にふれることで如月の考えは徐々に変わっていった。使命などより、大切にしたいものがある。如月が皆の無事を願うように、仲間達も如月の生還を望んでくれているから。如月は生命を粗末には扱えない。
悲しませたくない人ができたばかりに、受けることになった行動の制約。そのことが、逆にこれまで得たことのない充足感と、新たな力をもたらしてくれる。
「これも龍麻の御陰なのだろうね」
「翡翠……」
骨董店の若き亭主は、尽きることのない愛しさを、想い人の頬にそっと伝えた。
「あーっ、如月てめーまでっ!」
「ア、ア、ア、アニキーっ!!」
「如月さん、抜け駆けはずるいですよ」
「なんでえ、勝ちをもってかれちまったみたいだな」
「もう、皆。いいかげんにしないと、遅れてしまうわ」
「でもサ、そういう葵だってひーちゃんの手を握ったままじゃない」
小蒔が指摘すると、美里が顔を赤らめた。
「それは、そうなのだけど」
「モテモテですね。龍麻」
紗夜にからかわれ、龍麻がげんなりとする。
「男にもてても嬉しくないよ。もういいから、あいつらは放っておいて行こう……醍醐も、いつまでも固まってないで行くよ」
龍麻達が遥か前方を歩いてしまっていることに京一達が気づくのは、これからしばらく後のことだった。