雲の波間に見ゆるのは、
炫耀たる星の輝きか、あるいは更なる深淵か――。
どうして、と子供は聞いた。
子供が意味のある言葉を口にしたのは、後にも先にも一度きり。
おかしなことではない。むしろ一言でも喋ったことに驚嘆してしかるべきだ。
閉塞された匣の中。あるものといえば子供と、子供を模した人形と。時折訪れる宗崇の意識体のみで。
宗崇は子供に言葉を教えたことはなかった。戯れに掛けた声を聞いて、覚えたというのだろうか?
精神を引き裂かれてなお、他者の干渉をはね除けようとする――本質。
宗崇によって剥がれた子供の人格は、如何なるものであったのだろうか。
「よくぞ来た。待ちかねていたぞ」
第一声は、心から発せられたものだった。
宗崇は待ちわびていた。己の計画を完全なものとする《陽の器》の来訪を。
「っざけんなっ!てめえのせいで、どれだけの人間が苦しんだと思ってやがる!」
朱い髪の青年が烈火のごとく吼え立て、弓を抱えた少女が続けてまくしたてた。
「そうだッ!ひーちゃんにまでひどいことして、絶対に許さないッ!」
「正義の使者気取りか。さぞかしいい気分であろうな」
「へっ、そういうあんたは悪の親玉に浸ってるってか?」
ふてぶてしい面構えの、白い学生服の男が鼻で笑った。
「お前の悪行もこれまでだ」
「これ以上哀しみを増やさないために、戦いを終わらせましょう」
白虎の力を宿す者と、菩薩眼の娘が御託を並べたてる。宗崇は嘲った。
「ご立派なことだ。だが、俺とお前達との間にどれだけの差がある。お前達に望みを絶たれ、力でねじ伏せられて泣いた者達がどれほどいたことか」
「善悪なんて関係ありません。わたしは龍麻を……大切な人を護るためにここにいるんだもの」
紗夜は兄との生活を護るために、他者を犠牲にしてきた。あのときと今との間に、違いなどあるのだろうか。
おそらく何も変わりはしない。今もまた、紗夜は龍麻の無事を願うがためだけに宗崇を殺そうとしている。
けれど、もう後悔はなかった。これが紗夜の選んだ《道》。誰に強要されたわけでもなく、自らの意志で参加した戦いなのだから。
「わいの目的はあんたに復讐することや。一族の仇、討たせてもらう」
邑を滅ぼされた劉が、深仇を気焔万丈に睨みつけた。
「地を這い蹲るしか能のない蛆虫どもを踏みつけたところでどうということもあるまい」
せせら笑うと、柄を握る青年の手が怒りで白くなる。飛び出そうとする劉を制し、玄武が彼の前に身を滑り込ませた。
「飛水流の名にかけて、この地を乱すものは滅するのみ!」
その隣で龍麻とよく似た構えを取るのは、鳴瀧が送り込んできた狗だろう。
「拳武館を貶めようとした報いはうけてもらうよ」
宗崇はさしたる関心も覚えず、若者達を睥睨した。
くだらぬ。この程度の輩であれば、造作なく叩きのめせる。
彼等の中で、脅威となりえるのは、ただひとり……。
「宗崇……」
血気はやる彼等の間を縫い、清絃(せいげん)にも似た声が響いた。
進み出てくるたおやかな肢体。全身を包む壮麗な《氣》。弘毅なる意志に彩られた眼差し。
「久しい、と言うべきか緋勇龍麻よ」
胸に湧き上がる想いは、憶昔かそれとも……。
「直接まみえた、という意味でなら初めてだよ」
精神と肉体と。
これまでの双方の逢瀬には、どちらかのうちの何かが必ず欠けていた。
「ひーちゃん、柳生と面識あったのか……?」
京一が驚きに目を見張る。
「面識というか……」
「育てられた恩を忘れ、我らよりも遥かに劣る連中に組するか」
「おいッ龍麻!」
「ひーちゃん、うそでしょ!?」
愕然とする醍醐と小蒔に、龍麻は軽く肩を竦めた。
「結界に閉じこめられ、正気を奪われた状態を『育てられた』というのなら」
そうなるね。
「ひどい……なんてことを……」
美里が唇を震わせた。他の者達も茫然として、旧知の二人を交互に眺めやっている。
「恨んでいると?」
「別に。不満はなかったよ……ずっとあのままでもよかったんだ」
胎児のように躰を丸め、なにも知らず、知らされないままで。
宗崇の纏う《氣》と髪の、紅の色だけが唯一の『世界』であると信じながら。
「だが、それでは面白くない」
男の呟きに、ふっと龍麻が口角に笑みをのぼらせた。
「あの時も、そう言った……」
龍麻を結界の外へ文字通り『放り出し』、自力で時空の回廊を抜け出し生き延びよと、再び我が前に姿を現せと傲慢に言い放った男。
男が子供に何を望んだのか、今の龍麻になら解る。彼は己の真価を問うているのだ。抱いた野望は成し遂げられることなのか――成し遂げて良いものなのか。一度は手にしていた《器》の半身を、手放した矛盾こそが宗崇の抱く迷いの証。
応う(いらう)資格を持つのは龍麻と、もうひとつの《器》である『彼』の二人だけ。
そして、龍麻が告げるべき答えはすでに決まっていた。
「宗崇……お前の望みは叶わない」
凛とした声が、場を打つ。
「俺に出来るのは、お前を捕らえる柵を断ち切り、終止符を与えることだけだ」
宗崇が哄笑した。
「我を滅ぼすというのか。したが、お前一人でなにが出来る?お前が死ねば我が手にある《陰の器》は完全な《黄龍の器》となり、いかなる野望も思いのままとなるのだ」
《器》が二つあるからこそ、黄龍は戸惑い揺れている。ちょうど、陰と陽それぞれの《器》が、『覇者の権利』というひとつの紐の両端を握り、引き合っている状態であると考えればよい。片方の力が失われれば、紐は残ったほうの手元に手繰り寄せられる。戦いに生き残った者こそが真なる《黄龍の器》として認められるのだ。
「ひとりじゃない。俺には京一が……仲間がいる」
「ひーちゃん」
「龍麻」
仲間達の《氣》が一段と強まった。
村雨は密かに喉を鳴らした。うまいやり方だ。ここ一番というときに、惚れている相手の信頼を受けて気合の入らない奴はいない。
かくいう村雨も、知らず腹に力が篭る。掌で踊らされていると解っていても乗ってしまうのは、自分も他の奴らも、この青年に溺れきっているということなのだろう。
愛しい者を護るために。肩を並べるに値する者達と共に、世界の命運を掛けた大勝負に挑む。
「これぞ男の花道ってもんだぜ」
懐から花札を取り出す。これに《念》を込め、呪符として扱うのだ。そもそも呪術の札というのは、《念》のイメージを定着させる依代でしかない。御門の使う読めもしない文字や記号を羅列した紙切れより、こちらのほうが村雨にはよほど馴染みが深かった。
「ふはははははっ。虫けらがいくら寄り集まったところで、所詮は虫けらよ」
宗崇の全身から瘴気が噴出した。錆びた鉄の臭気を含んだ《氣》に、侵食された空気がねっとりと重みを増す。地面がぼこりと泡立った。
腐臭を核に鬼火が凝る。泥土が次々とヒトガタを象って(かたどって)起立した。
「うえ~ッ、なにコレッ。気持ち悪い!!」
小蒔が弓を握り締め鳥肌を立てる。
「柳生の外法が生み出した化け物というところじゃないのか?」
沈着な如月の言葉に、龍麻が頷いた。
「そう。九角の時と同じだ。宗崇を斃せば、周りの奴等も消える……但し、前回のときほど簡単にはいかないだろうな」
妖が邪気に呼び寄せられていたに過ぎなかった九角の時と異なり、宗崇によって生み出されたモノ達は死に物狂いで創造主を護ろうとするだろう。
脳裏を過ぎるのは、《氣》を分かつ半身の存在。宗崇の完全な人形である『彼』は、時到れば何も疑うことなく龍脈にその身を捧げてしまう。
「……須……」
「何か言ったかい?龍麻」
龍麻を挟み、如月の反対側へ回りこんでいた壬生は微かな呟きを耳にした。
「なんでもないよ紅葉。それより今回は、敵を殲滅するつもりで挑んで欲しい」
醍醐が目をしばたたいた。
「珍しいな、お前がそんなこと言うなんて」
いつもなら、敵味方とも被害を最小限に食い止めるべく配慮するのに。
「そんな甘い作戦が通用する相手じゃないからな。それに、なるべく早く、決着をつける必要もあるし」
敵の遊戯にかかずらっている暇はない。
なんといっても、ここには《陰陽の器》がそろってしまっているからのだから。
えっ、と美里が叫んだ。
「それじゃあ龍麻。《陰の器》も『ここ』にいるというの?」
「いる。宗崇の後ろ――たぶん建物の中に。美里にもわかるはずだよ」
磁石の対極のごとく、陰陽には惹き合う性質がある。元はひとつであったものなれば尚更に。どこにいようと、龍麻は《陰の器》の存在を感じ取ることができた。
「わたしも間違いないと思います。東京……いいえ、世界中の龍脈の力がここに集まってきてるもの」
紗夜は心配そうに龍麻を見る。顔に出さないが、龍脈の影響は彼にかなりの負担を強いているはずだ。
「ごちゃごちゃ言ってても始まらねーぜ。要はさっさと柳生をぶっ倒しちまえばいいんだろ」
京一が刀を袋から取り出して鍔を鳴らす。
「至言だね」
ふっと龍麻が笑みを浮かべた。
「戦力を分散させず固まって動こう。醍醐は俺と一緒に最前面で、なるべく敵の攻撃を受け流すことを念頭に入れて。女性陣を中央におき、紅葉は左、翡翠は右側面、祇孔は背後から近づく敵に対処してくれ。桜井、比良坂は自分の攻撃範囲に入った敵を片っ端から叩き潰せ。美里も回復より攻撃を優先するんだ」
「わかったわ龍麻」
「オッケーまかせといてよ」
「わたしがんばりますから」
男達が了承の声を上げ、女生徒達が口を揃えて返事をする。
「劉は皆のサポートをしながら体力の温存を図ること。宗崇にあたる前に疲れてしまっては意味がないだろう?」
「アニキ~」
ちゃんとわいのこと考えてくれてるんやな~。
嬉し泣きに咽ぶ劉を適当にあしらって、龍麻は京一に視線を流した。
「それと、京一もね」
「わかった」
思考より行動が先に出る京一は、ある程度自由にさせておいたほうが、効率よく動いてくれる。本能的に自分がもっとも必要とされているポジションについてくれるのだ。
「よし、これが最後の戦いだ。気を引き締めていくぞ!」
醍醐の号令一声、各自が役割を果たすべく動きだした。