火星人が嫌いだった。
大好きだった父が駒として使われ塵芥のように棄てられた時から、ヴァース帝国は敵の総称になった。
哀しむ暇さえなかった。お別れを告げる間さえなかった。
鼠と嘲られ、追いかけられて。
唯々、逃げることしかできなかった悔恨の情が、今なお胸の奥深くで燻っている。
軌道騎士は憎むべき仇。決して赦すことのできない害悪だった。
倹しい生活の中、必死にライエを育ててくれたあの人が、満面の笑みで家に飛び込んできた日を覚えている。
素晴らしいチャンスを掴んだと、興奮した面持ちで娘の両手を握り締めた。
貧しさしか知らないライエは、これまでの起居に不満を抱いたことは無い。
大好きな父と共に、僅かな食料を分け合って。支え合い、助け合って一生を過ごすのだと信じていた。
けれども、その時の彼があまりにも嬉しそうだったから。
労われることも顧みられることもなく。搾取されるだけの身分から、ついに抜け出せる日が来たのだと喜んでいたから。
安易に「頑張って」なんて口にしてしまった。
望みを叶える代償が、どれほど大きなものかなんて思料もせずに。
どこかで知らない誰かが死のうと、遠い星で戦争が起ころうと。ライエには関係のないことだった。
いずれはきっと、平穏な暮らしに戻れる。
それが豊かなものでも、乏しいままでも。
父がいてライエがいて。
二人で寄り添って生きていけるのなら。それだけでよかったのだ。
1.
迫り来るアレイオンの胸部を至近距離からハンドガンで撃ち抜いた。
ホログラムで出来たカタフラクトは不自然な煙を吹き出すと電気信号の塊へと戻る。
画面に『Mission Complete』の文字が表示された。
「お疲れ様。今日はここまでにしましょう」
シミュレーション機から降りたスレインを、ユキが出迎える。
「やっぱり凄いわねスレイン君。初めてで全ステージクリアなんて、なお君以外で初めて見たわ」
「ありがとうございます」
敵の動きはユキが担当していた。本人を前に相手の攻撃と防御が単調だったので、との感想は控える。
デューカリオンに身を置くようになって早数ヶ月。
体力補強に訓練参加を勧めてきたのは軍医だった。学生でもある伊奈帆達は戦争や任務で遅れてしまった分を取り戻すため、大量の課題を抱えている。一通り終えるまで卒業は保留とされた。彼らが勉学に励む間、手持ちぶさただったスレインは簡単な筋力トレーングから始めてみたのだが。
気がつけば他のメンバーと同等のメニューをこなす迄になっていた。失った柔軟性や筋力も徐々に戻りつつある。
「スレイン、昼食の時間だ。韻子たちが待ってる」
ユキと話していると伊奈帆が迎えに訪れた。ここ最近の日課だ。
「はい、わかりました」
応ずる青年の声は少し堅い。あら?とユキが二人の顔を見比べた。
「喧嘩でもしたの?」
対する弟は、なんとなく嬉しそうだった。
「別に。君もいい加減、現状を受け入れて機嫌を直したら」
事実は変わらないんだから。
「機嫌など悪くしていません。3mmは誤差の範囲です。それに男性は、20歳半ばまで骨端線が残っていると聞きました」
「それでいくと僕のが一年遅い分、差が開く可能性が高い」
口の減らない男だ。スレインはこっそり拳を震わせた。
「ロシアの時は、僕の方が10cmぐらい高かったのに」
あれからスレインだって、それなりに伸びたのだ。そう、順調に伸びているのに!
「せいぜい5~6cmだった。いまは追い越している」
気がつけば、伊奈帆の目線は同じぐらいの高さにある。
繰り返しておく。あくまでも『同じぐらい』である。3mmは誤差の範囲だ。
「なんだァ、お前等まだ揉めてたのか?医務室でしっかり計測してきたんだろ」
ユキと共に教官役を担っていた鞠戸が、呆れた顔をする。
何を契機としたのか、どちらの身長が高いかで口論する二人の仲裁に入り、耶賀頼に決着をつけてもらえと医務室へ送り出したのはつい先日のことだった。
その結果が3mmだったのである。
「も……いいです。皆さんが待っています。早くお昼に行きましょう」
ガックリとうなだれた青年が、伊奈帆と連れ立って食堂へ向かう。
「平和だなあ」
小声でひたすら下らない諍いを続ける二人の背中を目で追い、鞠戸はしみじみと宣った。
単独行動を常とした火星騎士達を纏め上げ、連合軍を散々に翻弄したスレイン・ザーツバルム・トロイヤード。確実に歴史に名を残すであろう彼が、年下の青年に身長を追い越されいじけている姿など一体誰が想像しただろう。
時折、妙に物騒な方向に話が転がるのと、マニアックな会話で他者を置き去りにしていることを除けば、伊奈帆もスレインも『普通』の若者達と何ら変わりない。
同じ学校の生徒として籍を置き、青春を謳歌する道とてあったろうに。戦争とはつくづく残酷なものだ。
「平和ですねぇ」
ユキも首肯した。
端から見るとわかり辛いが、弟はずいぶんとあの青年にのめり込んでいる。
お姫様相手には一方的に庇護欲をかき立てられている印象だったが、彼とは常に対等な立場を保とうとしていた。
弟の左目を失わせた相手を許したわけではないし、姉として複雑な念いはあるのだが。
「あんな、なお君見ちゃうとなあ……」
つい、応援したくなってしまう。
幼なじみでも、友人でも。弟と完全に通じ合うことは出来なかった。姉でさえ感情表現の薄い表情から心の動きは掴めても、頭の回転の速さに追いつくことは出来なかったのだ。
恐らく彼は、伊奈帆が初めて出逢った『等しい目線』で話せる相手。
そしてそれは、スレインにも同様のことが謂えるのだろう。
そう。最近、あまりにも長閑な日々が続いていたから。
鞠戸もユキも誤認していた。
彼らもまた、他の大勢と同じく平凡な一生を歩んでいける人種なのだと。
「あ、来た来た。伊奈帆、スレイン君、遅~い!」
食堂の入り口を潜ると、韻子が目聡く手を振る。ニーナが呼び始めたのがすっかり定着し、ユキも韻子も今ではスレインを『君』付けで呼んでいた。
「すみません、お待たせして。教官達と少し話し込んでいました」
気弱げに謝罪する彼を、少し離れた席に座る女性グループが囁き交わしながらチラ見している。
視線は悪意の籠もったものではなかった。負の感情を向けられるより、影でこっそり可愛いと持て囃されているのを知る方が、ダメージが大きかろうというのは別にして。
「シミュレーション機、使ってたんだよね。火星のと比べるとやっぱり違う?」
温野菜サラダのブロッコリーにフォークを刺しながら、ニーナが問いを投げかけた。
「どうなのでしょう。もしかしたら似たような設備があったのかも知れませんが、僕は使ったことがないので」
月面基地にはありませんでしたし。
スレインは近頃、韻子やニーナの前でも少しだけ砕けた口調を遣うようになった。かなり踏み込んだ質問にも応じてくれる。
但し、返答が得られるのは、あくまで彼にとっての『一般常識』的な範囲に止まった。
「実戦訓練重視派だったのか?」
火星の軍事情を聞けるかも知れないと、カームが興味津々で身を乗り出す。
「いえ、僕は正規の軍人では無かったため、その手の訓練には参加が認められませんでした」
「はあぁぁぁぁ?!なんだそれ!!」
立ち上がった整備士の後ろで、ガタンと椅子が鳴った。
皆が一様に唖然とする。
「何だと言われましても。僕は地球人ですから」
いつ寝返るとも知れない手合いに銃火器を持たせるなど本来ならありえない。ザーツバルムやデューカリオンのメンバー達が特殊なのだ。クルーテオの元では、ひたすら下働きとして扱き使われた。スレインが様々なことについて学んだのはザーツバルム陣営に属してからだが、この時には個別指導と実戦の繰り返しでシミュレーション機材を使うゆとりなどなかった。
「コウモリ型の輸送機とか、白いカタフラクトとか散々乗り回していただろうが!まさか、あれも取説読んで操縦覚えたとか言うんじゃないだろうな」
「スカイキャリアは輸送機です。付属の機銃はあくまで自衛とサポートを行うためのもの。戦闘機の扱いではありませんから基本操作と簡単な修繕法は教わりました。タルシスは使っているうちに何となく……」
マジかよ……。
カームは椅子に座り直すと、意気消沈してテーブルに突っ伏した。
「俺なんて散々練習してもカタフラクトの操縦技術が一向に上がらなかったのに。神様って不公平だよな」と、大げさに嘆く。
伊奈帆はスレインと生身で行った二度の邂逅を回想した。銃に不慣れな様子だったノヴォスタリスクと、アナリティカルエンジンを駆使した青年将校に難なく対応してきた月面基地での闘い。2年足らずの間に起こった変節に、驚きよりも先に戸惑いが勝ったことを覚えている。
並行して、新芦原市に避難勧告が発令された日のことが胸中を掠めた。
カームの張った煙幕を乱した黒い輸送機。ずっと心に突き刺さっていた苦い記憶。
「正規の軍人でなくとも出撃するのか?新芦原市で空からカームを撃ったのは君だろう」
それは、大切な友人を喪った時の出来事。
種子島でスレインは、アセイラムの生存を既知している風だった。彼が暗殺に関わり無いのであれば、彼女の安否を知り得る機会は橋の上で皇女が正体を明かしたここしかない。
カームと韻子の肩がびくりと跳ね上がった。ニーナは不安げに一同を見回す。ライエはテーブルの下で拳を握りしめた。
「ああ、あれはカームさんだったんですね。当たらないように撃ちましたから怪我はされなかったと思いますが」
新芦原市でスレインが攻撃した相手は、トリルランの指示により動きを制したカタフラクト一体だけだ。
「わざと外したってのか?なんでだよ、お前は俺達を殺しに来たんだろうに」
机に額を預けたまま、整備士が低く呻く。
「輸送機でトリルラン卿の案内役を務めるよう主には仰せつかりました。戦闘に参加せよとは命じられていません」
トリルラン。それが、紫色の火星カタフラクトを操縦していた者の名前なのだろう。
視線を逸らしたスレインは暫しの逡巡の後、ぽつりと呟いた。
「―――あの時は、人が死ぬところを見たくなかったんです」
道に迷った幼子のような声音に。カームは虚を突かれて顔を上げた。
二つの惑星を一大戦争に巻き込んだ大罪人と呼ばれる彼も、初めて戦に参加した折には死を恐れ、眠れぬ夜を過ごしたのかもしれない。自分達と何ら変わることなく。
「最早、笑い話にもなりませんが」
自嘲気味に口元を歪めた青年の瞳は、底知れぬほどに昏かった。
「前日は。コウモリの姿がなかったのはどうして?」
ライエが両掌を机に叩きつけ、立ち上がる。
「わたし、先に戻っているから」
「ライエちゃん……」
少女は心配そうなニーナをも没却して、食堂を後にした。
「彼女には、嫌われてしまっているようですね」
新たな日々の中で伊奈帆の同僚達とも適度に馴染んだが、彼女とだけはまだ会話をしていない。
顔を合わせれば睨まれ、一方的に避けられていた。
ううーん、とニーナが唸る。
「ライエちゃん、新芦原市で火星騎士にお父さんを殺されているから」
「そうでしたか」
新芦原にいた火星騎士はトリルラン一人。ライエの父を殺したのが彼なら、輸送してきたスレインが恨まれるのも仕方のないことだった。
「けどさ、不思議な組み合わせだよね。火星人だけど連合軍にいるライエと、地球人なのに火星騎士やってたスレイン君が一緒にお昼御飯を食べてるなんて」
沈んだ場を取り持とうと、韻子がことさら明るい調子を繕った。
「火星人?彼女はヴァース帝国民だったんですか?」
スレインが驚きの声を上げる。
「そうだよ、言ってなかったっけ?」
「初耳です。なるほど、火星人……」
思案顔になった青年の意識を引き戻したのは伊奈帆だ。
「スレイン、話の途中。前日のことを聞かせて」
尋問めいていたが、隠すことでもないので素直に答える。
「離れたところで待機していました。その……初めてスカイキャリアに乗ったので、気分が悪くなってしまって」
乗り物酔いというよりは、戦闘酔いというべきだろう。日本の航空自衛隊がニロケラスに撃墜される情景は、目に焼き付いたまま離れない。タルシスを駆り多くの連合軍兵を死に至らしめた後である今となってもなお、夢に出てくるのはこの時の光景だ。
「で、一日明けたらそのトリなんとかって奴が俺達にやられちまったから、お前は奴の死体担いですごすごと帰っていったってわけだ」
箕国起助のことが頭から抜けなくなったカームの語調が荒くなる。
「いえ、死体は海に捨てました。下手に持って帰ると私が撃ち殺したことが露見してしまいますから」
スレインの物言いが事務的なものになった。彼にとっても余り良い思い出とはいえないのだろう。
「……っ?!」
カームは息を止め、韻子やニーナが身を固くする。
「どういうこと?」
青年将校は自分でも気付かぬ内に、左目に意識を集中させていた。
「貴方達との戦闘行為でトリルラン卿が死ぬことはありませんでした。射殺したのは私です。アセイラム姫の暗殺に関わっていたことが判明したので、彼の拳銃を奪い独断で行いました」
トリルランはクルーテオ伯爵の食客だ。暗殺犯の一味ではないかという疑念の目は無論、己の主にも向かった。
劣等人種たる地球人の主張に耳を傾ける者などなく。スレインもまた、何を根拠に誰を信じて良いのか解らない。
当時の彼の力では皇女殺害計画の真相に迫ることなど到底、適わず。せめてもアセイラムの側で直接彼女を守ろうと試みた。
それが、スレインの行動の原点。青年が種子島で単独だった事情が伊奈帆にも徐々に呑み込めてきた。
短絡的に輸送機を撃ち落としてしまったことが、返す返すも悔やまれる。
カームは何かを吹っ切るように大きく頷いた。
「そっか……うん。なんか、悪かったな」
何について謝られているのか分からない元火星騎士が小首を傾げる。
起助を殺した奴を連れてきたのはスレインだ。
しかしそれは、彼の望むところではなかった。命じられ従うしかなかったのだ。
戦争は始まっていた。拒否すれば地球出身のスレインが無事では済まなかったことぐらいは、カームにだって解る。
火星騎士の登場はアセイラムの地球訪問を起点としているし、紫色のカタフラクトが執拗に自分達を狙ったのは、工作員の生き残りであるライエがいたからだ。
自発的に関与していた二人に比べれば、無理矢理巻き込まれた青年の方が、まだ被害者としての側面が大きい。
整備士は母国から裏切られ傷ついている彼女達を責めたり、追い詰めたりはしないと決めた。
だったら、この件に関して更に絡みの薄いスレインを恨み続けるのはお門違いである。
友人を喪った哀しみは消えることなく、火星人に対する憤りが収まることもない。
心奥が全て氷解したわけでは無いけれど。
カームはスレインに対し渦巻いていた心緒に少しだけ整理をつけた。
自分より頭の良い伊奈帆や韻子は、とっくに結論を付けていたのだろう。直感で人を判断するニーナは仲間内で最も早く青年に気を許していた。
少しずつだが、カーム達はスレインを友人として認め、受け入れ初めている。
今は拒絶を示しているライエも、いずれ同じところに気持ちを帰結させるのだろうなと思った。
2.
明かりの差さない部屋の中、スレインはベッドの上で膝を抱える。
伊奈帆はマグバレッジに呼ばれて不在だ。チェスの対戦らしいが、本当は別の目的があるのかも知れない。
少し前のように青年将校が四六時中一緒について回ることはなくなった。デューカリオン乗員達の囚人対応は危機管理が抜け落ちているのではないかと、いらぬ心配を抱いてしまうほどに緩い。
裏に意図が隠されている可能性もあるが、基本的にはお人好しが揃っているのだろう。
幼い頃には純粋に喜べた人の好意に息苦しさを憶えてしまうのは、自分がそれを受け取る資格をとうの昔に放棄してしまったから。
暗闇は好きだった。
痛みに顔を顰めても、屈辱に唇を歪めても、誰にも悟られなくて済む。
身を潜め、息を殺せば、スレインの身体で憂さを晴らそうとする輩をやり過ごせることもあった。
このまま闇に溶けてしまえればいいのに。
何度、そう願ったか知れない。
これまでの人生に於いてスレインの望みが叶ったことなど、ただの一度も無かったのだけれど。
「そろそろ戻ってくる頃合いだな」
こんなところを見咎められ、変な勘ぐりを受けるのはごめんだった。
ベッドから下り、先にシャワーを浴びておこうとシャツを脱ぎ捨てる。
灯りをつけるべくリモコンに手を伸ばすと、部屋の自動ドアが軽い音を立ててスライドした。
伊奈帆よりも小柄な人影が一寸、差し込んだ廊下の明かりに映し出される。
カチリと撃鉄を起こす音が響いた。
「何の真似ですか、ライエさん」
スレインは人影から招かざる客を断定する。
「お父様の仇。火星人なんて嫌い。軌道騎士は皆、敵よ」
扉が閉まると、あたりは再び闇に沈んだ。辛うじて相手のシルエットだけが掴める。
「そういう貴女も火星人なのでは」
そうよ、とライエが唇を戦慄かせた。
「任務に成功したら、騎士に取り立ててもらえるとお父様は言ってた。苦労を掛けて済まないが、もう少しの辛抱だって」
慣れない地球での課役は、緊張の連続だった。
ライエの家は格式こそそれなりだったが、暮らし向きは貧しかった。明日の食料にも事欠く中、とある筋よりもたらされた一筋の希望に縋って。危ない橋に足を踏み入れた。
倖せになれるはずだった。穏やかな生活に戻れるはずだった。役目を終えれば、父と二人で故郷の地へ帰れると信じていたのに。
「どうしてお父様を殺したの?どうして貴方だけが騎士になれたの?!貴方なんて!貴方なんて地球人のくせにっ!!」
ひとりだけ優遇されて。爵位まで与えられて。劣等人種がどうして!!
火星人を憎み、韻子とニーナという知己を得たライエの身にも、母星で受けた階層教育は染みついている。日常生活に顕すことこそないが、友人以外の地球人を下に見る意識は抜けていなかった。
「たかだか騎士などという称号のために、姫を殺そうとした輩など始末されて当然です」
激高するライエとは対照的に、冷えた響きが暗がりを渡る。
「ザーツバルム卿……義父は、階級・身分を問わない実力主義者でした。捨て駒にされたというのなら、その程度の価値しか見いだされなかっただけの話」
「お父様を馬鹿にしないで!」
ライエが引き金に指を掛けた。
「カタフラクトで敵を撃ち抜くのと、銃口を生身の相手に向けるのとではかなり感覚が異なるでしょう。貴女に撃てるのですか?」
揶揄するように、くすりと笑って距離を詰める。闇の中でも銃身がブルブルと震えているのが伝わった。
カタフラクト相手の戦闘は、人間を直接目にする機会が無い。スクリーンを通して行う行為は、どこかゲームの世界のようで。リアリティに欠けていた。
けれども今、目の前にあるのは生身の体だ。弾丸で撃ち抜けば、血が噴き出し肉片が千切れ飛ぶ。むき出しの死がそこにはあった。
少女は唇を噛みしめる。
明かりが消えていて判別できないから大丈夫だと自らに言い聞かせても、指先の震えは止まらない。
以前、アセイラムを殺しかけた時もそうだった。刃物で刺すなり、拳銃で撃ち抜くなりした方が確実に殺せると分かっていたのに。頸に掛かっていたペンダントの鎖を引くのが関の山だった。シャワーの水滴が細い金属に跳ね返されるのを視界に映しながら、早く千切れてしまえばいいのにとさえ願っていたのだ。
引き金を引くことに、たまらない恐怖を覚える。
朧気な輪郭を頼りにフレームに手を掛けた青年が、強張るライエの手から難なく得物を奪い取った。
「アセイラム姫に害意を向ける者を放っておく訳にはいかない」
自動拳銃が手の中でくるりと返され、硬い材質が少女の眉間に押し当てられる。
「覚悟が足りませんでしたね」
冴え冴えとした声を彩る殺気は、本物だった。
「火星人は全員敵。一人残らず殺してやるわ。戦う覚悟なんて、とっくに出来ている」
死を覚悟した少女が、精一杯の虚勢を張る。
「そちらではありません」
狙いの定まった銃口は微塵も揺るがなかった。
「帰る場所など無いという事実を、受け入れる覚悟です」
「そんな、こと」
ライエの全身が瘧のように震える。
父を殺した相手を憎む気持ちに偽りはなかった。
されど全ての帝国民が事件に関わっていたわけではない。ひとくくりに恨むのは愚劣であるということも心のどこかで分かっていた。
たった一人の肉親を失った少女は、火星に戻る術を持たない。
ライエは火星人を目の敵とすることで連合軍に属する理由を作り出し、己の居場所を確保していたのだ。
独りになるのが怖かった。
これからどうやって生きていけばいいのか分からなかった。
同じ火星人でありながら、皆にありのまま受け入れられているアセイラムが妬ましかった。
異星の出身でありながら、父があれほど渇望した地位を簡単に手にしたスレインが忌まわしかった。
地球人を劣等民族と蔑んでおきながら、縋り付くしかない浅ましい自分を知っている。
父の死後、誰にも悟られたくなくて厭世的な発言と頑なな態度でずっと覆い隠してきた脆くて弱い心。
スレインの言葉は、誰の目にも触れさせたくなかったライエの奥底を的確に暴いた。
「わたし……は……」
膝から力が抜け、崩れ落ちるように床に手をつく。
唐突に部屋に明かりが灯った。
「夜這するには、時間が早すぎるよ」
自動ドアから室内へ踏み込んだ伊奈帆が二人の間に割って入る。タイミングの良さからして、少し前から扉の向こうにいたのだろう。
「人聞きが悪いですね。話をしていただけです」
スレインは得物の安全装置を押し下げ撃鉄を戻した。最初からライエを撃つつもりは無かったのか、あっさり青年将校に銃を差し出す。
「わたしを殺さないの?」
項垂れたまま、ライエが問うた。
「貴女がここにいるということは、アセイラム姫が許したのでしょう」
ならば、私にどうこうする権利はありません。
「どちらかといえば、私も貴女たちの側に属する人間ですし」
スレインもライエの父とおんなじ、ザーツバルムの軍門に降った者だ。
「それだけの忠誠心を見せておいて、おかしなことを言うのね」
顔を上げた少女が、大きくを見開く。
蛍光灯の明かりの下、青年の上半身が露わになっていた。
「その傷……なに……」
透明感のある真っ白な肌の上に夥しい傷が走っている。
鋭利な刃物で切りつけられたもの。繰り返される打擲に消えなくなった痣。鞭で叩かれた部分は爆ぜたのか醜く引き攣っていた。
惨たらしくおぞましい無数の痕が、何処で付けられたものなのか。察したライエは、先程とは別種の震えに口元を手で覆う。
「火星で地球人がどのように思われているかは、貴女の方がご存じでしょう」
伊奈帆は無言で脱ぎ捨ててあったシャツを青年に渡した。
「だって貴方、姫の友人って……あの人、このことを知らなかったの?」
「火星人と地球人の間に確執があることはご存じでした。悲しんで下さいましたし、私が虐げられている所を目にすれば相手を諫めても下さいました」
ですが、それだけです。
「どういう意味?」
ライエが怪訝な顔をする。伊奈帆も少し意外だった。彼がアセイラムのことで否定的とも取れる意見を口にしたのは、これが初めてだ。
「姫様は火星で唯一、何ひとつ不自由のない生活を送ってこられた方です。願えば必ず叶い、己の意見が全てにおいて優先される生活を当たり前のものとされていた」
シャツに袖を通したスレインが、ソファーに腰掛けた。ボタンを留めれば、外からは傷が分からなくなる。
「姫が私を乱暴に扱わないようにと口にすれば、皆はそれに従います。でも、それは姫様の目の届く範囲に限定される効果であることを彼女は知りません。現実が見えていない……いえ、一切見せないように育てられてきたからです」
服の下に消えない傷が急激に増えていったのは、それ以降のことだ。
自分の命がスレインに対する嫉みを募らせたこと。皇族が劣等人種を気に掛けることが多くの者達の苛立ちを増幅させたことになど、アセイラムは気づきもしない。
「なんで、それをあの人に教えなかったの?伝えれば良かったじゃ無い!」
ライエの糾弾をスレインは静かな瞳で見返した。
「清らかであること。正しくあること―――疑わないこと。それが姫の存在価値だからです」
貧困に喘ぎ階級社会の閉塞感に苛まれている火星の民達にとって、光明に満ちた皇女の語り口は未来への希望となり生きていく上での活力となる。
夢の世界に生き現実に取るべき術を知らない皇女に、権力闘争に明け暮れる政務者達は安堵を覚える。
調査団を率いて火星に渡り、一大帝国を築いたレイレガリア博士。民を導く力とアルドノアに対する深い造詣。そして、起動因子までをも得るに至った彼は、紛う事なき統治者だった。
後を継いだギルゼリアは圧政を敷きながらも、軍事産業に力を注ぎ火星に工業都市としての目覚ましい発展を遂げさせた。
だが、アイセイラムは。
「アセイラム姫を皇族たらしめているものは起動因子です。その存在意義は絶対的なものですが、唯一無二ではありません」
レイレガリア博士から始まった系譜が途絶えれば、アルドノアに支えられているヴァース帝国は滅びてしまう。
いざという時のために、保険を掛けておくのは画然たることだった。
「ストックがある、ということか」
ここで告げているのは、レムリナのことではない。
次なる世代へ繋ぐために。皇族にはレイレガリア当人か、息子ギルゼリアかアセイラム。あるいはその全員分の遺伝子を残すバンクの用意があった。
彼女に不幸が起こったとしても、起動権を与えられた貴族が場を繋ぐ間に、新たな起動因子保持者を誕生させる術は用意されている。
「レイレガリア博士にとって姫様は愛する孫であり、一人息子の忘れ形見ですが、帝室の権威に群がっている者達は同じ価値観を有しません」
現在の因子持ちが彼等の阻害となる相手なら、排除して次のお膳立てをすれば良いだけだ。
アセイラムに自力で議員や貴族達を制する力は無い。仮に素養があったとしても、その力を育てきるまで老境にあるレイレガリアが生きながらえる可能性は低かった。
初代皇帝は講じた。
どうしたら孫娘を生きながらえさせることができるのか。
どうすれば彼女が幸せになれるのか。
「その答えが、彼女を嘘で固めた世界の中に置くことだった?」
作られた聖女、そんな形容が伊奈帆の脳裏に浮かび上がった。
「現実を知っても姫様にはどうすることもできない。苦しまれるだけです。ならば教えなければいい。いずれ、有力貴族の中からふさわしい夫を選ばせ、その者に実務を担わせれば彼女は一生、幸せな夢を見続けていられる」
その足下がどれだけ血塗られていたとしても。
「傲慢すぎじゃない」
ライエが鼻に皺を寄せる。
「そうですね。でも、私にはそれに代わる方策を提言するだけの能力も、立場もありませんでした」
地球出身の子供にできたのは、姫君の見る夢に彩りを添えることだけだった。下手に真実を知らせれば、それこそアセイラムの身にまで危険を及ぼすことになる。
「今は女王。私たちと一緒に行動していたときは不自由だって味わってた。悩みもあったみたいだし」
納得がいかないのだろう、ライエが食い下がった。
「即位後のことはメディアを通じてしか存じ上げませんが、傍に仕える者達の顔ぶれや概念が変わらない中、陛下の内面だけに変化が訪れることなどあるのでしょうか?地球での経験は一時的なものだと分かっていますから。旅行にアクシデントはつきものです」
慣れない生活も不自由な思いも、火星の姫にとってはひどく新鮮で珍しいものとして映ったに違いない。
セラムと出逢ったばかりの頃であれば、伊奈帆は即座にスレインに反発していただろう。
けれど、少し時間をおいてみれば青年の所信には頷ける部分がある。
彼女は、一度も火星騎士達と対話の場を持とうとはしなかった。
唯一、アセイラムが軌道騎士の前に姿を現したのは、トリルラン相手に命を下したときのみ。あれは話し合いとはとてもいえない。
暗殺を仕組んだのが火星騎士であれば尚更、下手な言動で彼等を刺激されたくなかった。徒党を組まれ数で押してこられたら、その瞬間にも負けが確定してしまう。さればこそ、彼女の身を護るためにも、自分達が生き残るためにも。時を置かず襲ってきた刀使いのカタフラクトとの戦闘では立ち上がろうとする彼女を制したのだが。
スレインが台頭するまで、騎士達は個人主義を貫き、互いを牽制し合っていた。伊奈帆はそのことに途中から気付いたし、アセイラムにも解っていたことだろう。
事件に係わった騎士がいる一方で、皇女の死を心から嘆き参戦した者とていたはず。
彼女が性根を据えて交渉に挑んでいたなら。通信を通じて少しでも語り合っていたのなら。姫に下る騎士もいたのではないのか。
「空が青いのは光を屈折させるほど大量の水と空気が地上には溢れているから。海が青いのは空の青さを映しているから。真実である必要はなく、ただ綺麗であればいいと君は言った。そういうことだったんだな」
美しく飾られた嘘は、まさしくアセイラムの象徴そのもの。
「可愛らしい方でしょう。姫は」
彼女の歪さを指摘したのと同じ唇が、柔らかく緩んだ。追憶に浸る瞳は愛しげで、彼がどれだけ姫を大切に想っているかが窺い知れる。
「君はもっとセラムさんに、依存しているのだと思ってた」
例えるならそれは、信仰のように。
「していますよ。僕は姫様に命を救われました。この身は姫様のために使うと決めています」
けれど、それと盲目的になるのは違う。
アセイラムを護る力が欲しかった。皇女が何者からも脅かされることなく生きていける環境を整えたかった。それは、彼女の持つ弱さや負の側面を知っていればこそ為し得ることである。
「相当歪んでいるよ、君」
「貴方にだけは言われたくありません」
ちょっと呆れている伊奈帆と、平然と受け流す元火星騎士。
「理解できない」
ライエは二人のやり取りをただ茫然と聞くしかなかった。
「する必要もないのでは。貴女はこれからどうするのか、どうしたいのか。自分のことだけ考えればいいんですよ。姫や私の存在になど囚われたりせずに」
優しく包み込むような響きに、図らずも頬が赤くなる。少女が僅かに目を伏せた。
「そういう貴方は?人のこと心配してる場合じゃないでしょう」
スレインが小さく微笑んだ。
私は、既に決めていましたから。
口元が、そう動いた。
「さて、女性が夜遅くまで異性の部屋にいては誤解を招きます。そろそろ戻られてはいかがですか」
気軽に遊びに来た友人を諭すように、会話の打ち切りを告げてソファーから立ち上げる。
「そういえば君、なんで上半身裸だったの?」
「シャワーを浴びようとしていたところだったので」
客室と云えども、狭い艦内の一室に脱衣所の完備はない。
出てきたところで鉢合わせなくて本当に良かった、とは誰の感想か。
今度こそシャワーを浴びるというスレインをそのままに、伊奈帆はライエを伴って部屋を出た。
「上に報告しないの?」
「彼にその気が無いのなら、僕が口を出すことじゃない」
廊下を並んで歩く。
「何処の生まれとか何処の育ちとか関係なく、自分で決めたならそこが帰る場所でいいんじゃないかな」
君たちは難しく考え過ぎだ。
「当人に帰る場所を選ぶつもりがなかったら?」
ライエは即答を避ける。そんな風に思い切れるほどの強さは持てなかった。帰る場所のある青年将校には解らない。自分やスレインの孤独に共感できるのは同じように故郷を失った者だけだ。
「席を用意して待っている……だけじゃ駄目なんだろうな、きっと」
傍らから項垂れた気配が流れてくる。少女が片方の眉を上げた。
「入れ込んでいるのね、随分」
「正直、手子摺っている」
過剰なスキンシップを取ったり、一緒に眠ったり、おはようのキスをしたり。目一杯あからさまにしているのに、どうして分からないのか。
「言葉にしないからじゃない」
「それで、決定的に拒否されたら、たぶん泣く」
予想外の反応が来た。この男にそんな繊細な心持ちがあったのかと、半信半疑で聞いておく。
「貴方の泣き顔には興味があるかも」
「冗談。それに、そんな段階じゃないよ。僕はまだスレインに名前さえ呼んでもらってない」
韻子やカーム達のことはきちんと名前で呼んでいるのに。伊奈帆のことは未だに『オレンジ色』か『貴方』呼ばわりだ。
ライエは本気で落ち込みだした青年を物珍しそうに眺めた。色恋に嵌まるタイプじゃなさそうだったのに。人は見かけによらないものだ。
少しの間、両者に沈黙が流れる。
「ねぇ」
己の部屋の前に到達したライエは、思い切って口火を切った。
「どうして、お父様は彼のようになれなかったの」
伊奈帆とザーツバルム伯爵。方向性は違うが、スレイン・トロイヤードという同じ人間を見込んだ彼らには、何か見えない共通点があるのかも知れない。そんな思考が浮かんでいた。
「僕は話を聞き囓った程度だし、ザーツバルム伯爵というのがどんな人だったか知らない。無責任な発言をするつもりはないよ」
「それでいいから。聞かせて」
「……君のお父さんは騎士になることを目指していた。スレインは騎士になりたかったわけじゃない、それが理由だと思う」
スレインが時折、口にする言の葉を総合すると、ザーツバルムというのは確固たる目的意識と信念を持った人だったようだ。
自分と家族の生活を豊かにしたいというライエの父親の夢は伯爵の信条にそぐわなかった。
何のために騎士になりたいのか。何を為するのか。
貧困からの脱出こそを望んでいたライエの父は『騎士として』のビジョンを持たず。伯爵は取り立てた後にこそ『騎士として』の働きを求めていた。
貴族の席次には限りがある。先の展望がない者に、与える余裕などない。
だから、口封じも兼ねて始末しようとした。そんなところではないかと伊奈帆は忖度した。
「どちらが正しいとか、間違っているとかじゃなく両者の理念は相容れなかった。もっと端的に表現すれば相性が悪かった、というのは乱暴に過ぎるかな」
「そう……」
ライエが目を閉じた。涙が頬を伝う。
娘と自分と。家族の幸せの為に奔走した父。他者の理解は得られずともライエにとっては、かけがえのない人だった。
ザーツバルムを赦すことはできないし、父を殺した火星騎士が敵であることに変わりはない。
ただ、相手側にも無道な行為をする事由があったのだと得心しただけだ。
それでも。心にひとつの区切りがついた気がする。
大好きな人だからと、ライエは父を盲目的に信じた。
危険なことに首を突っ込んでいたのなら止めるのは自分の役割だったのに、引き戻すのは娘の義務であったのに。怠ったが故に、父を喪ってしまった。
誰を憎み恨もうとも、己の過ちをなかったことにはできない。スレインがそうしているように、ライエも向き合わなければならないのだ。
「そうね、ありがとう」
目尻を拭い、ライエは淡く微笑んだ。
シャワーを浴びて髪を乾かし、ベッドへ入る段になって伊奈帆が戻ってきた。
「遅かったですね」
「ついでだから共用のシャワールームへ寄ってきた」
部屋のは君が使ってると解っていたしと告げて、当たり前のようにスレインのいるベッドの端に腰掛ける。
やっぱりこっちにくるのか。
諦めにも似た感情で、ひとり分のスペースを空けた。
伊奈帆の腕がするりと回され、身体を引き寄せられる。
あの日以来、二人は同じ寝台を使っていた。
断っても撥ね付けても、懲りない青年に折れるのはいつだってスレインの方だ。
朝になったらなったで、挨拶だと額だのこめかみだのにキスしてくるし、本当にこの男は何を考えているのかわからない。
一度、唇にされたときは、反射的に側頭部を張り倒してしまった。
精密機械の入った部分に衝撃を加えてしまったと狼狽える青年に、伊奈帆はまったく動じた様子もなく。反対に乱暴だなどと文句を言う始末。手に負えないことこの上ない。
「スレイン」
いつになく強く抱きつかれた。
「セラムさんの話をしたのは、ライエさんの罪悪感を薄めるため?それとも、セラムさんの裏事情を話すことで彼女の気持ちをほぐそうとしたの?」
「どちらでもありません。久しぶりに火星人と会ったので単なる思い出話をしただけです」
扉の外に貴方がいるとは存じませんでした。
「嘘つき」
スレインの嘘はいつだって、誰かを護る為にある。
優しくて哀しい、けれど何よりも尊い。
「貴方も彼女も気軽に吹聴したりする人ではありませんから、構いません」
伊奈帆はさらに腕に力を込めると、髪に頬をすり寄せた。
息が詰まって、ちょっと痛い。
「そろそろ離して頂けませんか。苦しいのですが……っ!?!」
胸を押し返そうとした腕を捉えられ、シーツに押しつけられる。
「オレンジ色?なに……を」
至近距離から覗き込まれ、スレインの鼓動が跳ねた。
思わず背けた顔が、頬に添えられた手に優しく引き戻される。
「伊奈帆。僕の名前は界塚伊奈帆だ」
「知っています」
せめてもと視線を外し、多少なりとも距離を取ろうと身じろぎした。青年はスレインを解放してくれない。
「呼んで、スレイン」
スレインは唇を引き結んだ。
彼の名前を呼ぶことに抵抗があった。自分自身でも理由は分からない。
ただ、何かが決定的に変わってしまうような。そんな不安があった。
「スレイン」
名を、呼ばれる。
「………っ!」
堅く瞳を閉じた。
「スレイン」
親指が促すように唇をなぞる。
目蓋に柔らかな感触を受けて目を開けると、赤みがかった虹彩がスレインをじっと見つめていた。
逃れられない。
「い、なほ……」
「もう一度」
懇請するような口調に、絆される。
「伊奈帆」
しっかりと見返して呼びかけると、青年の口元が綻んだ。
初めて目にする微笑みに、思わず見惚れる。
こんな顔もできたのか。
「うん、スレイン。もう一度、呼んで」
柔らかく髪を梳かれ、腕の中に閉じ込められて。
スレインは伊奈帆に求められるまま、何度も名前を呼び続けた。
3.
一夜明けて。
朝食の席で挨拶を交わし合った一同は、青天の霹靂的一齣を目の当たりにする。
「おはよう、スレイン」
ライエが、元火星騎士の青年に挨拶した。
それも、はにかむような微笑みつきで。
「おはようございます、ライエさん」
対するスレインも、柔らかく応じている。
「えぇ?!なんか仲良くなってる?」
「えー?なになに、何があったの?!」
何故かあたふたする韻子と、興味津々のニーナ。カームは、ぽかんと口を開けて二人を視ている。伊奈帆は仔細を知っているのかいないのか、相変わらずの無表情だ。
ニーナの質問攻めを、ライエとスレインが上手にはぐらかす。
スレインに対する友人の態度に心を痛めていた韻子は、ほっと胸を撫で下ろした。
事の顛末は分からないが、和解できたのなら喜ばしい。
軍事工場占拠事件以降は、とりたてて大きな任務も無く皆で揃って食事を取れていた。
「こういうのっていいな」
ニーナと笑みを交わす。
「うん、皆でゆっくりご飯が食べられるのって楽しいよね」
こんな日々がずっと続けばいいのに。
だが、ささやかなる願いほど崩れ去るのは一瞬。
不見咲が彼らのテーブルに近づいてくる。
いつになく厳しい顔をした副官は、新たな任務が決まったと食後の招集を告知した。
通常なら艦内放送で呼び出されるのにと、不思議がる少女達の横で伊奈帆の身に緊張が走る。スレインが表情を消した。
察しがいいですね、と青年二人の反応に不見咲が頷く。
「揚陸城への攻撃命令が発せられました」
誤魔化しや偽りの無い副官の通達が、その場にいた全員の心を射貫いた。
「それは、支配地から撤退させろということですか。それとも掃討しろという主旨ですか」
「伊奈帆!」
常と変わらない調子の伊奈帆に、韻子が思わず声を上げる。スレインの顔を見る勇気はなかった。
「指令内容からいって、後者にあたります」
不見咲も淡々としている。
伊奈帆は傍らの青年が小さく息を呑むのを感じた。
「スレイン・ザーツバルム・トロイヤード。現時点をもって、貴方の行動に制限を掛けさせて頂きます」
「わかりました」
従順に席を立つスレイン。動揺が大きかったのは周りの方だった。
「ちょっと待って下さい。不見咲さん!」
「いきなりそれはないんじゃねぇか?」
「スレイン君をどうするつもりなんです?!」
韻子、カーム、ニーナが揃って抗議する。
ライエは気遣わしげにスレインを見上げていた。
やはり馴染ませすぎたか、と不見咲は渋い顔になる。
いずれは敵に戻るかも知れない人物だというのに。彼らはスレインに肩入れし過ぎている。今日のようなことを想定して、彼らの接触を必要最低限にするようマグバレッジに諌言していたが、聴き入れられなかった。
子供に対する不寛容と男性に優しさを持てないところが、モテない理由らしい。
「心配いりません。我々が任務を遂行する間、部屋で待機してもらうだけです」
とはいえ、不見咲も個人的にスレインに含みがあるわけではない。彼が悪い人間で無いのは、生活を共にしてきたことで分かってもいた。
連行要員として他の隊員を連れてこなかったのは、不見咲なりの誠意の現れだ。
おとなしく従った青年は、泣きそうな顔の女性陣に少しだけ困った顔をする。
「僕のことは気にしないで下さい。これで失礼します」
青年将校については見向きもしなかった。
こんな時まで、彼は他者に気を遣うのか。
伊奈帆は毅然とした態度で副官の後ろを歩くスレインの背中を見つめ、ひとつの決意を固めていた。
この艦の警備体制の温さには常々虚脱を誘われたが、今回ばかりは外だけの見張りが有り難たかった。
ソファーに身を沈め、息を吐く。
デューカリオンの性質と任務内容からいって、地上に留まる揚陸城との対峙が避けられないことは始めから分かっていた。
問題は、着地点を撤退ではなく掃討に定めていることだ。
幽閉から抜け出た後に得た情報では、アセイラムは頻繁に地球を訪れ、軌道騎士達の説得に当たっているという。
平和のため武器を捨て、罪を償って欲しいと投降を呼びかけているそうだ。
メリットがひとつもない要請に騎士達が頷くはずもなく。案の定、進捗は芳しくなかったようだが、だからといって殲滅方向へ舵を切るのは性急に過ぎた。女王はそう簡単に諦める性格をしていない。彼女以外の意志が働いていると断じて間違いないだろう。
ヴァース帝国の社会形態はフューダリズム(中世封建制度)が元となっている。これは、開拓した者にその分だけ土地を与えるとした初期政策から発展していったものだ。そして自らを皇帝と称したレイレガリア博士は、忠誠と引き替えに神の力『アルドノア』を貸与することで彼らの上に君臨した。
これなら、開拓資金は各領主の私財によって賄われるし、アルドノアの力を効率的に火星全土に広げ管理・運営することが可能だ。
開拓した地を直接治め、人々の生活を庇護するのは37家門に連なる貴族達の責務。貧困に喘ぎつつも領地民がなんとか生活を営んでいけるのは、領主が力を尽くしてくれているからだった。彼等は接点のない皇族よりも己の領主に多くの心を寄せている。
軌道騎士が皇女暗殺の一派であると疑われていた戦争時であるならともかく、情勢が落ち着いている昨今、意にそぐわぬからと簡単に切り捨ててはヴァースの民意は得られない。
公爵や会議派にとっても、これ以上騎士の数を減らし火星の戦力が失われることはマイナス要因となるはずなのだが。
「占領地住民の訴えを受けて、連合軍が仕方なく乗り出したという線が一番濃厚か?」
降下時はともかく、占領後に軌道騎士が暴虐の限りをつくしているという報告を受けたことはなかった。支配下に置いた土地に住む人間は、彼等にとって庇護対象とすべき領民となるからだ。
ヴァース帝国との兼ね合いと戦力差から傍観に徹していた連合軍を動かすほどの振る舞いを、最近になって軌道騎士が始めたとでもいうのだろうか。
「情報が足りないな」
背もたれに深く寄り掛かり、天井を見上げる。
これより先の動静には注意が必要だ。即座に動かなければならないほどではないが、このまま地上にある全ての揚陸城を沈められるような流れになれば、スレインの計画にも大きく齟齬が生じる。
「もう少し判断材料が欲しいところだが」
勘考に耽っていると、扉の外で軽い電子音がした。ドアがスライドする音に居住まいを正す。
伊奈帆が昼食のトレーを手に入ってきた。壁の時計に目をやれば、時刻はとうにお昼を回っている。
「もうこんな時間だったんですね」
渡されたトレーからフォークを手に取った。伊奈帆は、すぐに出て行こうとせずスレインの向かいへ座る。
収容施設の面会時のような構図だ。
「僕に聞きたいことはある?」
黙然と食事を勧めるスレインを前に、伊奈帆が膝の上で両手を握り合わせた。
「訊ねたら教えてくれるんですか?」
「知っている範囲でなら」
食事の手が止まる。
「何故です?」
「分からない?」
眼帯をしていても、青年に見つめられるのは心臓に悪かった。
「分からないから、聞いています」
「だったら、考えて」
「問答をする気分ではありません」
食事を続ける気分でもなくなった。半分以上残したままトレーを脇へ押しやる。
「そうだね、時間の余裕も無いから要点だけいこう。今回の件は、ヴァース王室より正式に協力要請を受けた作戦だ。目的地は中東、クルディスタン地域。最低でも敵カタフラクトを撃破するよう命令されている。作戦決行は2日後の正午。援軍はサウジアラビアとヨルダンから受ける」
「まさか、アルビール?この艦はアルビールへ向かっているのですか?!」
スレインはソファーから腰を浮かす。青年将校が本気で情報提供をしてきたことも信じられなかったが、それよりなによりも。
「アルビールの揚陸城に何かあるの?」
「いえ……、その、予期せぬ場所だったので。アルビールに降下した伯爵は女性で、騎士達の中でも穏健な方でしたから。経緯をお伺いしても?」
行く先がアルビールであるならば、これまで立ててきた推量は悉く覆る。
動揺を押し殺し、腰を無理矢理落ち着けた。伊奈帆には曖昧な誤魔化しなど見抜かれているだろうが、機密云々は押し遣ってもデリケートな問題を孕む話題であるため、気軽に口にするわけにはいかない。
「聞かされてない。知っていて隠す人じゃないから艦長も指示を受けただけだと思うよ」
「そう、ですか……」
「どうしたい、スレイン」
伊奈帆は思惟に暮れるスレインの腕を掴んで、自分へ意識を向けさせた。
「君が望むなら力を貸してもいい」
はっと顔を上げた青年が、まじまじと伊奈帆を見つめる。
「どういう心境ですか?」
真意を計るように、眼を細めた。
事態を自分で確かめるべく、密かに揚陸城へ潜入できる手段を案出していたことを見透かされたか。
「僕は君の力になりたい」
「理由が分かりません」
「本当に、分からないの?」
まただ。先ほどと同じ問いに、憤懣が募る。
「謎掛けを楽しむ気分ではないと言ったでしょう。貴方の言動は理屈に合っていません。取引目的なら早く条件を提示して下さい」
捕らえられたままだった腕を取り返そうと強く引いた。伊奈帆は手を離さず、引き寄せられるままテーブルに片膝を乗り上げる。ソファーの背もたれにもう一方の掌をつき、上から覆い被さるようにスレインを覗き込んだ。
「君が好きだから」
「………はい?」
一時、頭が真っ白になる。何を言われているのか分からなかった。
「君が好きだから力になりたいし、望みを叶えてあげたい。理屈は合ってる」
いや、合っていませんよ?!
「え?ええっと……あの、……伊奈帆?」
好き?伊奈帆が自分を?すき……スキってなんだったっけ?
スレインは狼狽した。血液が逆流する。自分でも頬が熱くなるのが分かった。
「赤くなったということは、少しは脈があると期待していいのかな」
困惑しきった青年の表情をじっくり観察してから伊奈帆は身を起こす。ここで返事をもらうつもりはなかった。
「い、いいえ。って、そうじゃなくて、今はそんな場合では……」
ぐるぐると思考を回すスレインは眦をバラ色に染め、氷海色の瞳を心許なげに揺らしている。
可愛くて正直、ちょっと理性がぐらついた。
「うん、だから今の話。スレインはどうしたい?」
「……っ!それは、その……」
せわしなく視線を彷徨わせた青年は、長いこと迷った末に上目遣いで伊奈帆を見上げる。
「…………揚陸城内の火星人と話をしたい。それが僕の望みです」
「いいよ。叶えてあげる」
迷いのない瞳が、戸惑うスレインを映し出していた。
「僕の行動が貴方の不利になるとは考えないのですか?裏切るかも知れませんし、戻ってこないかもしれませんよ」
「そこは、スレインを信じるよ。好きな人のことだからね」
やっぱり理屈に合っていない。
昨夜から大盤振る舞い気味の笑顔で告げられれば、スレインにはもう何も言うことができなかった。
4.
作戦決行日。伊奈帆を送り出したスレインは、青年がどこからか調達してきた火星の軍服に着替えた。紺色の上着は長い期間、身に馴染んでいたものだ。更に上から少し大きめの上衣を着込み、帽子を目深に被って準備を終えた。
後から聞いた話によれば、火星の軍服はノヴォスタリスクで地球人の手に掛かった兵士が着用していたものとのこと。見下ろせば胸の部分に穴が空いている。伊奈帆は気味悪がるかも知れないと黙っていたようだが、もとよりスレインはそんなことを気にする性格ではなかった。
外では戦闘が開始されている。
ヨルダン側の持ち出したアレイオンと、軍神が操るオレンジ色のスレイプニールが軌道騎士の相手をしている間に、デューカリオンとサウジアラビア空軍が揚陸城の対処に当たることになっていた。
地球の技術力で揚陸城を外壁から破壊するには核弾頭でも持ち出すしかなく、被害が大きくなり過ぎる。かといって動く要塞である揚陸城を放置しておけば、火星カタフラクトの援護に回られた挙げ句、周辺一帯を焼け野原と化される恐れがあった。
戦力分散は痛いが、陽動と潜入という二方面からアプローチを掛けるしかない。
此度の友軍となったサウジアラビアはリヤドに火星騎士の侵攻を受けたが、幸いにも大きな被害は受けなかった。
もともとアメリカ軍と密接な関係のあったサウジアラビア軍にはヘブンズ・フォール以降、多くの元アメリカ兵が移籍している。完全に吸収されたわけではなく、それぞれの特色を色濃く残した形だ。
スレインが重ね合わせた上着もアメリカ空軍の制服で、紺色を基調としているため火星の一般兵卒の下穿きと合わせてもさほど違和感が出ない。
内部制圧要員としてデューカリオンに同乗した友軍小隊は、多様な人種と民族によって構成されていた。彼等の一部に紛れてしまえば目立つこと無く潜入可能だ。
一方的に情報を受けるのも気が引けたため、伊奈帆には昨夜の内にアルビールの伯爵が有するカタフラクトの攻撃特性を伝えてある。
この地を治める伯爵には軍神と呼ばれた青年の敵たり得る器はない。スレインが口を出さずとも闘いの趨勢は決まっているようなものだったが、敵の手の内を知っていればそれだけ被害が少なくて済む。
扉が軽くノックされた。
決められた合図を受けて、スレインは部屋を出る。人手が足りないこともあって見張りに立つのはカームひとりだった。タイミングを計った見張りのシフトも伊奈帆が手配してくれたことである。
「すみません、カームさんまで巻き込んでしまって」
緊張気味に立っていた整備士が、にかっと笑う。
「気にすんな。俺は伊奈帆を信じてるからな」
だから、あいつが信じているお前のことも信じるぜ。
「羨ましいですね、伊奈帆が。いい友人を沢山持っている」
「お前だって、俺たちの友人だろ」
何の衒いもなく、言ってのけるカームが眩しかった。
「ありがとうございます。行ってきます」
小さな笑みで礼を述べ、身を翻す。気持ちを切り替えサウジアラビア軍の最後尾につけば、彼等は接岸したデューカリオンから降り立つところだった。自軍機で接近した他の小隊も、次々に城内へ足を踏み入れていく。
首尾良く潜り込めたところで隊列から離れた。人目に付かぬ場所に地球軍の上着を脱ぎ捨てれば、火星の一般兵卒と区別が付かなくなる。
伯爵時代に37家門が擁する揚陸城の大まかな構造は頭の中に入れてあった。そこかしこで勃発する小競り合いを避け、下級兵が守備を受け持つ区画を目指して走り出す。
スレインは闇雲に潜入したわけではなかった。ここには戦時中の布石がひとつ残してある。階層を3つほど上がったところで目当ての人物を見つけた。
肩を掴んで振り向かせ、銃を抜こうとした腕を押さえる。
「私だ」と低く告げると、スレインと同じ紺色の軍服に身を包んだ男が大きく目を見開いた。
「スレイン様、生きていらっしゃったのですかっ!?」
20代半ばの、これといった特徴の無い青年はハークライト直属の部下だった男だ。
ハークライトやバルークルスが収容されたのは世界各地にある一般的な戦争犯罪者用の施設のひとつ。警備の都合上場所の公表こそされていなかったが、収容者のリストは出回っていた。知らなかったのは、世俗から隔離されていた自分だけだ。
この男なら直属上司が生存している以上、別途指示があるまで役目をこなすだろうと頼みにしていたが、予想に違わぬ働きをしていてくれたことに、胸を撫で下ろす。
「静かに。私が生きていることを知られるとまずい」
むねび泣く男を黙らせ、報告を促した。
「一体何が起こっている。バティルド卿とクランカイン公爵の間に何があった?」
この揚陸城の主が公爵と理無い仲であることを、スレインはかなり以前から承知していた。クランカインは元雇用主の子息。クルーテオの元で働いていれば、聞きたくなくとも情報は入ってくる。
女伯爵が地表へ降下したのはアセイラム暗殺から3ヶ月も経った後のこと。当初こそ抵抗勢力を相手にカタフラクトを繰り出して力の差を見せつけたものの、制圧後は多額の献上金と引き替えに支配地域住民の自治を許していた。
石油は火星にとってはさほど価値の無い資源だが、地球の主力エネルギー源である。この地域一帯を早い段階で制圧し、油田の口を閉じておけば火星側の勝利は揺るぎないものとなっていた。支配前と変わらぬ輸出を容認していたバティルドの行為は敵に利するものでしかない。
スレインはそこに地球と和平の道を手探りする会議派の思惑を感じ取っていた。
騎士道一辺倒だったクルーテオと一線を画し、息子は議会と太いパイプを繋いでいる。
女伯爵はクランカインの意向を受け、会議派の先鋒として降下したのではないか。目的は新たな領地の確保などではなく、他の軌道騎士の手から地球の重要な資源の産出地を護る為。
そんな疑念からスレインは女伯爵の裏で糸を引く者達の動向を探るため、戦時中からハークライトに命じて諜報員を潜り込ませていた。
「バティルド卿と公爵は決裂致しました」
男の上申は、予想に違わぬ一文から始まる。
公爵が愛人を切りに出たのだ。余程のことがあったのだろう。少なくとも、単純な愛憎劇の縺れに依らないことは明白だった。
貴族同士の婚姻は政略の一環。ザーツバルム卿のように恋愛要素が介在するケースは少なく、かのギルゼリア陛下でさえ正妻の他に愛人を囲っていた。
王配にと請われ、断る術などない。
バティルドもその辺りは弁えていた。愛人が権力の頂点に上り詰めることを喜びこそすれ、妬心など抱かない。
「理由は何だ、女王陛下に露見でもしたか?」
未だ結婚に夢を抱く年齢であることや、潔癖な性格も相俟ってアセイラムは愛人や妾といった存在に拒否反応を示した。異母妹の存在を知った時も受け容れがたかったのか、どこか他人行儀な態度を崩していない。「連合軍に襲われそうになったとき、お姉様は『人として当然の義務』として私を庇いましたが、最後まで妹として見ては下さいませんでした」と月面基地崩落の折、レムリナが寂しそうに語っていたことが思い出される。アセイラムに知られたのなら、公爵が関係を清算しようと動くのも無理からぬ事ではあったが。
「いえ、今後の方針の違いによるものらしいです。詳細については調査中でした」
続けられた内容は、混迷を誘うものであった。
「副官はどうしている?」
重ねて問う。
「は。それが副官殿も女伯爵に同調されているようでして」
人生を謳歌する貴族の若君は、花一輪ではもの足りなかったらしい。副官の方にも手をつけていた。名はミルタ。
こちらについてはバディルドも、笑って済ませるというわけにはいかず。
狭い範囲での女の闘いは陰惨を極め、二人の仲は最悪だった。クランカインは自分を巡って女性達が火花を散らすのを楽しんでいる節があったという。尊敬できない趣味である。
複雑怪奇な人間模様はさておき、ミルタはバディルドと血縁関係にあり子爵の地位も得ている。女伯爵との仲が悪化しただけなら適当な罪状でも被せて排除し、副官と挿げ替えれば済む事柄だった。
まさか愛人1号2号ともに揃って揉めていたとは。
この地を抑えて置くことは戦略的に重要な意味を持つ。公爵とてそう易々とは手離せないだろう。
彼をアルビール放棄に駆り立てたものが何であるのか、確かめる術はひとつしかない。
「そうか、ご苦労だった。お前は機を見て連合軍に投降しろ」
「スレイン様はどうなされるのですか」
「わざわざ出向いて来たんだ、後は本人に直接確かめる。ミルタは中央管制室か?」
城主が最も優秀な騎士であることが求められるヴァースでは、主が出撃している間は副官が城内の護りを固めるのが一般的だった。
「はい。ここより2層上の司令室におられるはずです。右手のエレベーターを使えば直接上がれるでしょう」
お気を付けて。と己の銃を差し出しながら敬礼する。
「感謝する―――死ぬなよ」
スレインは銃を受け取ると階上へ向かった。
発砲を警戒しながら、開きかけたエレベーターの扉から転がり出る。幸いにも連合軍との対応に追われていた副官達は、こちらに背を向けモニターに意識を傾けているところだった。
物音に気付いた護衛兵の一人が振り向くのを待たず、腕を掴んで背中に捻り上げる。
「動くな」
捕らえた男を盾に副官の頭に狙いを定めた。
足下に落ちた兵士の得物は部屋の隅に蹴り飛ばす。
「スレイン・ザーツバルム・トロイヤード伯爵?!生きておられたのですか」
侵入者の姿を認めたミルタが驚愕を浮かべる。
「状況が変わったようなのでな。死んでもいられなくなった。何があったのか聞かせてもらおう」
他の兵の影に隠れた護衛の一人が反撃を試みた。スレインは相手の指が引き金に掛かるのを許さず肩を撃ち抜く。
「生き返られても冷酷非情な性格にお変わりないと見える」
浮き足立つ部下達を制し、元伯爵に向き直った女の態度は慇懃無礼だった。
「そちらこそ私が死んでいる間に、心変わりをされたと見える。それとも主従揃って公爵殿に飽きられたのか?」
記憶に残る女伯爵はゲルマン系の顔立ちに赤毛の可愛らしい印象だったが、同じ系統でも栗色の髪にシャープな顔立ちのミルタには美人という形容が相応しい。整った容貌が苦々しげな顔を作る様は、中々に見応えがあった。
「こちらから捨てたのですよ。公爵には良くして頂きましたし、分別もせず主と張り合っていたのも事実。ですが、私は……いえ、我々は火星騎士としての己に誇りを持っています」
故郷を捨てるという公爵の企てには賛同いたしません。
「火星を捨てる?」
「ええ、そしてこの星を第二の帝国にしようとしている」
怪訝な顔をするスレインに、ミルタが微かな笑みを向けた。
「地球生まれの伯爵様。考えてみれば、彼よりも貴方様の方がよほど私たちの為に力を尽くして下さった」
ドンっ、と廊下へ繋がる扉から爆発音が轟く。
連合軍のご到着だった。
アルドノアで制御された扉にシステムの異なる連合軍のパスワード解析装置は使えない。力業となるが、サウジアラビア兵とてそれを踏まえた上で対策を講じている。突入前、彼等がかなりの量のC-4(可塑性爆薬)を携帯するところを目にした。外壁は無理でも扉に穴を空けるぐらいならなんとでもなる。突破されるのは時間の問題だった。
潮時か。もう少し話を聞きたかったが、連合軍に己の存在を認識されては拙い。
逃走経路を模索していると、副官が意外な申し出をしてきた。
「サテライト・ベルトの戦闘では、我が門下の者達も貴殿に命を救われている。その恩義を返しましょう」
ミルタはディスプレイに指を翳すと、城内の隠し通路を表示する。それは、城主と主に準ずる者だけが把握する極秘情報だった。
「背後のエレベーターでひとつ下の階へお行き下さい。そこからこの避難路を使えば、程なく城外へ抜けられるでしょう」
「お前達はどうするつもりだ」
副官の合図にしたがい、事態を見守るだけだった護衛兵が入り口に向かって銃を構える。
「彼らの足止めをします。我らは公爵の怒りを買いました。生き残る術はありません」
廊下側から響く音は、益々大きさを増していた。
「投降するという手もある」
拉げる音と共に扉が大きく撓む。僅かに空いた隙間を狙い、護衛が発砲を始めた。
「ご存じないのですか、トロイヤード卿。連合軍上層部と公爵は、とうの昔に同じ思想に染まっているのですよ」
降伏したところで、バディルドやミルタの行く末はひとつしかない。
「利害の一致から会議派と地球圏が一定の繋がりを有していることは知っていたが、それだけに留まらないと?」
もはや扉は正常な形を留めておらず、後一撃で吹き飛ぶという所まで来ていた。
「詳しく話して差し上げる時間はなさそうですね。行ってください伯爵。そして、これから起こることをその目に焼き付けておかれるといい」
貴方と再会できたことを喜ばしく思います。
挙手注目の敬礼を残し、ミルタも銃を構えた。
一瞬の迷いが生死を分ける。スレインは捕らえていた兵を解放すると、エレベーターに身を滑り込ませた。
閉ざされた扉の向こうで、激しい銃声が行き交う。
階下で別れたハークライトの部下が案じられたが、ミルタのような中枢を担う人物ならともかく投降した一兵卒が射殺されることなどないだろうと信じるほかない。
そこからは必死に足を動かした。長い監禁生活で低下していた筋力は悲鳴を上げたが、構ってはいられない。途中、脱ぎ捨てた上着を回収し乱暴に羽織った。
急ぎデューカリオンへ戻る。格納庫へ回るとコンテナの脇に伊奈帆が隠したという紙袋を探した。
死角から、細い腕がにゅっと突き出される。
「これ、着替えて」
ぎょっとして立ちすくんだスレインは、相手を認めてほっと息をついた。
「ライエさんでしたか」
差し出された紙袋を受け取り、コンテナの影で手早く衣を改める。
「外の戦闘は続いているようですが、戻られたのですか?」
「私の役目は終わったから」
目顔で外を指し示された。格納庫の開口に首を巡らせると、見覚えのある白い機体が上空を横切る。
「あれは、タルシス?!」
それは、大気圏突入時に大破した愛機の姿だった。スレインが使っていた頃はなかった地上での長距離飛行能力は、再生した際に搭載したものか。
タルシスは元々クルーテオ卿が所持していたカタフラクトだ。連想される搭乗者はひとりしかいない。
「連合軍との友誼の為、公爵が自ら出てきたんだって」
ライエの台詞を背に白銀の機体を目で追っていると、随伴する航空母艦の姿が視界に入ってきた。大きさ、形共にデューカリオンによく似ている。
タルシスの後に続いた戦艦が、船首を揚陸城の正面に据えた。言いしれぬ不安が迫り上がる。
これから起きることを、その目でお確かめ下さい。
副官の言辞が蘇り、背筋を冷たい汗が流れた。
もしやクランカインの狙いは―――。
「ライエさん、伊奈帆に戦域から離脱するよう通信を入れて下さい」
アルドノア・ドライブはエネルギーの塊だ。稼働中に破壊されれば周囲に余波をまき散らす。Rドライブ程ではないにせよ、巨大な揚陸城の動力源ともなれば内部の人間はもとより、外で闘っている連合軍も無事では済まされない。
クランカインの伴う戦艦の主砲が、揚陸城に届く威力を有しているのだとしたら。伊奈帆が火星カタフラクトを斃すまで待っている余地は無い。
「それと、内部突入した兵達に撤退命令を。この艦も含め、一刻も早くここから離れるべきです」
「そんなのどうやって」
「理由は伊奈帆にでも考えてもらって下さい、急いで!」
少女を急かし、スレインは格納庫の入り口ギリギリまで走り出た。
デューカリオンは揚陸城の傘のような部分に接岸している。見上げると先程までいた中央管制室の高い尖塔がそびえ立っていた。距離が遠い。
内部へ向かうべきかと迷ったが、いま戻れば青年将校と交わした約定を果たせなくなる可能性が高い。
戻ってくるのを信じると言った伊奈帆の笑顔が、スレインの足を引き留めた。
タルシスに並んだ母艦が、重たい金属音を響かせて変形を始める。意外なほどに細長い砲口をカタパルトが覆った。百合の蕾みを連想させるフォルム。
これ以上、躊躇している暇はなさそうだった。
スレインは意を決して目を閉じると、全神経を集中させる。
感覚を広げるように。細く、長く息を吐き出す。
僅かなアルドノアの波動を手繰り寄せ、ただ一音を唇に上らせた。
5.
目を覚ますと、見慣れた部屋の天井が視界に広がった。
一人がけのソファーを寄せ、ベッド脇に腰掛けた青年将校が文庫本を捲っている。
「僕は、どうしたんでしょうか……」
起き上がろうとすると、身体中が軋んだ。すかさず伊奈帆が手を回し背中を支えてくれる。
「格納庫の入り口で倒れたらしい。ライエさんがすぐにカームを呼んで部屋まで運んでもらったそうだけど」
よく見つからなかったものだ、と宛がわれた枕に体重を乗せスレインは吐息を漏らした。
「そうでしたか。ライエさんにも、カームさんにも迷惑を掛けてしまいました」
全身の痛みの主な要因は、急激に無理な運動を行ったから。2~3日は消えそうにない。
「軌道騎士と揚陸城はどうなりました?」
これを聞くのには勇気がいったが、知らないままではいられなかった。
「ユキ姉たちとの連携がうまくいって、火星カタフラクトはさほど手間取ることなく無力化できた。公爵が横槍を入れてきたのは、決着が付いた後だ。止めは彼の連れてきた戦艦の主砲が刺している」
デューカリオンの主砲は三連装砲だが、公爵の戦艦には中性粒子ビーム砲が用いられている。
火星の最先端技術の結晶たる兵器は、敵カタフラクトごと背後の揚陸城を貫いた。
荷電粒子を砲弾として用いる手法は、地球圏でも早くから確立していた理論だ。無限の力を持つアルドノアならば必要な電力量を得ることも可能。しかし、荷電粒子砲には飛距離が短く、磁場の影響を受けやすいという弱点があった。起動因子保持者を持たない地球圏では、思うように研究を進められない。成り行きとして、アルドノア・ドライブを搭載した初の地球型戦艦デューカリオンには実戦向きの三連装砲が搭載された。
他方、火星カタフラクトには荷電粒子砲の問題点をある程度克服した実装機が存在する。その改良型とも言うべき中性粒子を使った兵器の開発も進んでいた。
磁場の影響を受けず射程も長い中性粒子砲が完成したのは、第一次惑星間戦争終結から5年後のことだ。
「危うく主砲の光に呑まれるところだったけれど、直前にあった通信のお陰で何とか回避行動が取れた。援軍の兵達も揚陸城の尖塔が倒壊する前に階下へ逃れている。君に助けられたよ」
クランカインは連合軍が危機に陥っていると勘違いし、助けとなるため咄嗟にやってしまったと、後から形ばかりの謝罪と弁明を送りつけてきた。
一連の騒ぎに紛れることでカームは見咎められることなくスレインを部屋に運べたが、公爵に感謝する気持ちには到底なれない。
「周辺地域への被害状況はいかがですか?」
「皆無とはいかないまでも最小限に済んだ。これはついさっき火星から派遣されている技術者との通信で聞いた話だけど、アルドノア・ドライブに中性粒子砲を使用するとレーザー核融合が生じる恐れがあったみたいだ」
カタフラクトに使われている程度なら温度・圧力共に必要量に達しないが、揚陸城エンジンサイズならD-T反応が起こっても不思議はなかった。核兵器投下同然の被害をもたらす危険性があったのだ。
ヘブンズ・フォールにより、サウジアラビアの沿岸部とイラン国土の約3分の1、そしてクェートが消失した。比較的無傷であったイラクは急速に存在感を増していき、2007年には石油産出国第一位に躍り出でいる。
アルビールの近郊には、キルクークやバイハッサン等の油田がある。開発事業が活発化したことで製油所の数も増えており、地中には石油パイプラインが縦横無尽に走っていた。
これらが爆破に巻き込まれていたら。自分達が助からないだけでなく世界最大のエネルギー供給源が失われていた。
「アルドノアの暴発が防げたのは、先に火星騎士を倒していたことでドライブの停止が間に合ったのだろうというのが技術者の見解」
「そうですか、よかった」
想定以上に、多大な被害が起こるところだったようだ。
「ありがとうスレイン」
火星カタフラクトと揚陸城は一時に撃破された。ビーム砲の速度ならば、アルドノア・ドライブが停止する前に城を貫いていたはずだと伊奈帆の左目は弾き出している。
アルドノアの沈黙は軌道騎士が命を失うより先。
青年がソファーからベッドの上に位置を移し、スレインの肩を抱いた。
目を閉じ体重を預けると、労るように背中を撫でられる。
「僕にお礼を言うのは、間違っていますよ」
「そうかな」
「そうです」
青年将校はそれ以上、追求しては来なかった。
スレインは背に腕を回し、縋り付くように身を寄せる。
伊奈帆は驚いたように息を呑むと、毛布を手繰り青年ごとくるまった。
このまま眠っても良いということなのだろう。
何も聞いてこない将校の優しさに、泣きそうになる。
火星にいたときは、こんな風に誰かと寄り添うことなどなかった。
誰も頼れず、誰が敵かも分からず。誰にも相談せず、誰かに心情を明かすことなく。
独りで決断して、行動を開始した。
あの時、こんな温もりが側にあったら、自分は違う結末を得られただろうか。
姫を悲しませずに済む道を選べたのだろうか。
スレインは顔を伏せたまま身を起こした。
「どうかしたスレイン?」
案じるような青年の声音が、スレインの心に優しく浸透していく。
答えは否、だ。過去を変えることはできない。
何度同じ場面に立ち返っても、自分は同じことをする。
後悔も反省も、失ってしまった命の前に何ら価値はなく。
浅ましくも生を繋いでしまった以上は、罪も業も受け入れて歩いていくしかないのだ。
考えなければならないのは、これからのこと。
ミルタの助力は、善意から来るものだけではなかった。彼女はスレインが公爵の障害となることを期待している。
クランカインが火星を棄て、地球を第二の火星にするつもりだといった副官の口上を信じるのであれば、もはや問題は火星だけに留まらない。地球の未来も関わっている。
ならば。
やはりここは火星と地球、それぞれの意見を合わせるべきなのだろう。
「伊奈帆、僕の話を聞いてくれますか?」
覚悟を決めると、スレインはまっすぐな瞳で伊奈帆に向き直った。