死を覚悟したエデルリッゾに手を差し伸べてくれたのは、劣等人種と蔑んできた相手だった。
帝室に忠誠を誓う者は沢山いた。地位を持つ者も、資産を有する者も。
けれど真実、皇女の命を救う手立てとなったのは地球生まれのあの青年だけ。
闘いに身を投じて、神経をすり減らして。それでも姫様のお目覚めを信じて待ち続けた。
彼がいなければ、アセイラムはとっくに命を落としていた。
彼がいなければ、エデルリッゾはその場で処分されていた。
暗殺首謀者たるザーツバルム卿に翻意を促し。重傷を負った姫殿下を治療する為の医療設備を準備し。
一介の侍女でしかないエデルリッゾにすら、充分すぎるほどの生活環境を整えてくれた。
目覚めた姫様がお身体を休めるための、お城を用意してくれたのも。
混濁する記憶に疲弊したお心を慰撫する、お庭を手配してくれたのも。
忙しい合間を縫ってお見舞いに訪れてくれたことさえ。
みんなみんな、彼の献身から生じたことだったのに。
どうして姫様は、スレイン様に全ての罪を被せてしまわれたのだろう。
命を救われたことに対する感謝よりも、彼が闘い続けることを嫌忌する感情を優先された。
戦争が悪いことだから?
だから、その一事を持って他の行為までをも否定してしまわれるのですか?
貴女の騎士の優しさをなかったことにしてしまわれるのですか?
地球で空を飛ぶ鳥を見た。
その時はこんなものかと意識にも留めなかった景色が、彼の口から語られた途端に優しく色づく。
羽ばたく鳥。青い空。緑為す大地。広大な海原。
どれもが一度は目にしていたのに、大した感慨も抱かなかったはずなのに。ホログラムに映し出された風景を前にすれば驚きと感動が湧き上がる。
不思議と、そのことに疑問は抱かなかった。
だって、そこにあるのは彼の目を通じて見た世界だったから。綺麗だと感じるのも、美しいと思うのも。
彼が教えてくれたことだから。
青年の心が映し出す光景にこそ、憧れは住まう。
気がつけば、エデルリッゾの視線は常にスレインを追うようになっていた。
1.
身を寄せ合い、一つの毛布にくるまって。
しかして交わす言葉といえば、睦言には程遠く。
「君、よくそれでクランカインのことセラムさんの相手として受け入れたね」
伊奈帆が微妙な表情を浮かべた。先ほど戦い終えたばかりの軌道騎士及びその副官と、公爵の不適切な関係を聞いての第一声である。
「女王の配偶者として重要なのは、彼女に有益となる地位と権力、財力を保持しているか。国政に携われる能力があるかであって、愛人の有無は関係ありません。加えてクランカインは姫様の数少ない支援者でもありました」
父親は生粋の軍人で、皇族に絶対の忠誠を置きながらも地球侵攻の望みだけは捨てきれなかった。
争い事を嫌うアセイラムが長ずるに従い、軍事力優先主義の37家門よりも、地球との和平を目指す会議派の意見を重用するようになったのは既定路線といえる。クランカインが議会と繋がりを持ったのは、そんな皇女の志向に添う為だ。
彼は士官学校時代、学友として有力議員の子息を選んでいる。積極的な意見交換を行い、親睦を深める傍ら他の会議派や貴族の子弟達をも抱き込み。卒業を迎える頃には父親達とは異なる政治システムを目指す一派を作り上げていた。
「皇統派を自負するならば、継承者たるアセイラム姫殿下のお考えを尊重すべきであるというのがクランカインの旗幟でした。父親であるクルーテオ伯爵は渋い顔をされていましたが、一理あると容認してもいた。姫様もそれを知っていたからこそ彼を夫に定めたのでしょう」
ただ、困ったことにクランカインは、美しい花からの誘いを決して断らない傾向を持つ。
「地位も権力もあり風貌の良い人ですから、モテるのも当たり前です。如才のない人なので、その辺りもうまくやっていくだろうと心配していませんでした」
口にこそ出さなかったが、彼はずっと皇女を想っていた。
クランカインならば、アセイラムを粗雑に扱うことはない。そう信じたからこそ、スレインは争いに幕を引いたのだ。
けれどもし、その仮定が崩れるのだとすれば。彼の目的が、陛下を奉じて火星を統治していくことになかったのだとすれば。
「例えばですけど、公爵が火星と地球の併合を考えていた場合。この一年で連合軍上層部との折り合いが済んでいたら、火星の領主は計画遂行に邪魔な存在となりますよね」
両者が連携して軌道騎士駆除に乗り出した論拠にもなる。
「どうかな。連合は各国軍の横断的な運用はできても、地球の代表というわけじゃない。それぞれの国には王族や大統領といった別の政権担当者がいる。連合軍中枢の賛同を得ただけでは、惑星同士の併合なんて実現できないよ。ヴァース帝国の首都を地球上のどこかに移すだけでも何十年と掛けて実現するかどうかだ」
国と連合軍の間に対立関係が生じれば、軍部は自国の有利となるよう動く。連合組織には地球防衛の目的以外で、各国首脳陣の反対を押し切ってまで主張を押し通す力はなかった。
「伊奈帆の見解は?」
他者の意見に耳を傾けるなど、ザーツバルムの元へ降って以来のことだった。
「もっとシンプルに考えるべきだ。クランカインは連合軍中枢と何らかの密約を交わした。それを愛人に語ったところ、反対されたため話が広まるのを恐れて口封じに走った、とか」
「伊奈帆の中でも『密約』は確定事項なんですね」
「君が副官という人から聞かされた内容からして、そうだろう。ただ今回の任務は単発だ。君が例えに出したような大それた計画の一環とは考えられない」
不見咲には、他の軌道騎士排他運動に繋がる見通しも示唆されたが、まだ憶測の域を出ていない。
「では、連合軍側は?彼等も公爵と取り決めた約定内容を広められては困るため、協力したということですか?」
あのやりようでは、大規模な災害が発生してもおかしくはなかった。伊奈帆達だって巻き込まれていたかもしれないのに。
「連合には別の狙いがあったのかも。僕達が捨て駒扱いされるのはいつものことだ」
「別の狙い?」
「先頃、セラムさんに危害を加えようとする武装勢力の中でも特に過激な一派が、アルビールに拠点を移している」
昨年、火星よりアルドノアがもたらされたことにより、一号エンジンのある地域周辺の石油使用量は設置前に比べ半分以下となった。
こんなものが複数台設置されようものなら主力エネルギー源にパラダイムシフトが起こり、中東諸国経済は減損してしまう。
恐れを抱く者達の中から火星皇女の暗殺を企て、自分達の主張を世界へ知らしめるためだと、各地で非人道的な行動を繰り返す輩が出現した。
時と場所を選ばず破壊行動に走ることから、連合軍も手を焼いている。
大掛かりな手入れをしたいと考えていた時分、公爵側から当該地域の軌道騎士掃討を持ちかけられたのだとしたら。
火星側とて女王をつけ狙う過激派の存在は苦々しく感じていた。
地球側は、過激派殲滅のために火星の兵力を借りられる。
両者の思惑が一致した先が、この作戦だったのではないか。
「あれだけ派手な示威行為なら他の過激派への牽制にもなる。『街ごと一掃』が当初からの予定だったのか、公爵の独断だったのかは分からないけれど。どちらにしても連合軍にそう不都合はなかったってことじゃないかな」
世界最大規模を誇るとはいえ油田を持つのはアルビールだけではない。最悪、この地が使えなくなったとしても他で賄えるし、一時的に産出量が落ちた分はアルドノアが補ってくれる。普遍化研究が完成するまで完全移行はできないが、限定範囲内であるなら便利に使わない手はなかった。
逆に街が無事だったならば石油の輸出量を保持したまま、治安維持を名目に連合兵が街中を踏査する足掛かりができる。
「説得力のある意見ですね。この件をアセイラム陛下はどのように捉えているのでしょうか。多少なりとも王室内の事情が分かれば良いのですが」
連合軍中枢と公爵が交わした約定の中身も気になるところだ。
「公爵側の人間にひとり心当たりがある」
「本当ですか?」
脳裏に描くのはイエメンに降下し、リヤドで伊奈帆達と交戦した火星騎士。
「セラムさんが療養していた揚陸城の庭園は、地球の美しい花々で溢れていたと彼が驚いていたよ」
件の騎士は、存在を隠されていた本物の皇女を探し出し、彼女の忘れ物を届けてくれている。
スレインの目的を探り出して欲しいという二つ目の頼み事が果たされることは無かったが、それについては何れ当人から教えてもらえばいいのだろう。
「ああ、彼ですか」
伊奈帆が誰のことを指しているのか、スレインにも察しがついた。月面基地の決戦において、唯一クランカインに従事した人物は、戦後も公爵の手足となって働いているという。確かにあの男なら情報を持っていてもおかしくない。
「接触できますか?」
「まずは、どこにいるか確かめないと。連絡を取ってみよう」
大きなミッションの後だ。数日は休暇が出る。彼は己の揚陸城を降下させた街を気に入っており、旅に出ている時以外はそこを拠点としていた。幸いにもここから近い。うまくいけば早々に会えるはずだ。
「わかりました、お願いします」
「方針が決まったところで、少し眠ろう。君もまだ回復してないだろう?」
二人は枕に背を預けるようにして上体を起こしていた。人の温もりは眠気を誘う。伊奈帆の肩にずっと寄りかかっていたスレインには、先ほどから睡魔が下りてきていた。
「そうですね、すみません寄りかかってしまって」
横になるため、離れようとしたスレインの肩を青年が引き留める。
「構わない。僕を頼ってくれて嬉しかった」
顎を掬われ、唇を柔らかな感触に塞がれた。
「抵抗しないの?」
この間は殴られたのにと額が触れあうほどの距離から囁かれ、スレインは目線を落とす。
「……疲れているので気力が沸きません」
「そう」
答えと同時に、もう一度。
徐々に深くなる行為を、スレインは瞼を閉じておとなしく受け入れた。
2.
デューカリオンはキング・ハリド軍事都市(KKMC)に碇泊していた。
北緯27度57分・東経45度33分に位置する砂漠の中央に建設されたこの巨大な都市は、ヘブンズ・フォールにより現在は海岸線と接するようになっている。最大6万5千人の居住を可能とするだけあって、ショッピングモールや娯楽施設も充実していた。乗組員達はここでデューカリオンがメンテナンスを受ける時日、束の間の休息を過ごすのだ。
以前、宇宙戦用のカタパルトモジュールを艦に取り付けるためUAEに立ち寄ったことがあるが、こちらの基地は初めてである。
「外出許可ですか?」
「処刑されたはずの人間が、軍事都市内を歩いているなんて誰も考えません。僕もせっかくの休暇を彼に付き合って、部屋の中で過ごしたくありませんから」
こんな言い分が本当に通るのか?
目的の人物と対面するためには外に出る必要がある。しかし、囚人である自分に自由などあろうはずもなく。伊奈帆とダルザナのやり取りを、スレインは黙って聞くことしかできなかった。
「いいでしょう、と言いたいところですが」
マグバレッジは、まじまじと界塚弟の隣に並ぶ青年を眺める。
「目立ちますね、彼は」
スレインは首を傾げた。顔が知られてしまっているという懸念を除けば、自分はさほど特徴のある人間ではない。強いていえばトウヘッド(白金)が珍しいぐらいか。
「連合軍創立以降は、このKKMCにも多数の外国人が流入したようですが。私のような北欧出身者は少ないのでしょうか?」
元はサウジアラビアとアメリカ軍の協定によって設立された都市だ。大勢は両国の出身者が占めるが、欧州やアジア圏の人間も随分増えたと噂で聞いた。
「君は黙ってて」
ぴしゃりと伊奈帆が遮る。
「自覚がないのも困りものです」
ダルザナは呆れた。火星の皇女よりも白い肌と、月の光のような髪。蒼とも翡翠ともつかない透き通った瞳を持つ青年は、端から見てもかなり人目を引く。
軍神として広く顔の知られた伊奈帆が隣に並べば、相乗効果は抜群だ。
「頭からマントを目深に被せて脱がせないようにします。もちろん僕も」
界塚弟の方には、多少自覚があるのだけが救いか。
「そういうことでしたら、近隣に限り許可します」
相変わらず懐の深い人だ。
知らない人にはついて行かないこと、などという子供対するような注意事項まで頂いてしまったが、許可が下りたのは有り難い。抜け出す手間が省けた。
スレインは胸を撫で下ろすと、青年将校に伴われブリッジから退出する。
「彼は本当に、ここへ現れるのですか?」
食堂に向かう道すがら、元火星騎士が疑問を呈した。
この後は、伊奈帆がカームとニーナに課題を教える約束をしている。既にノルマを終えた韻子は、ライエと共に訓練中だ。
「明日には到着するとメールの返信があった。ここは地球の軍関係者以外は入れない。興味本位に何度か潜入を試みたけど果たせなかったらしい」
呼びつけたら二つ返事で了承を寄越してきた。
「連合の軍関係者どころか元敵対国の人間ですよ。入れてもらえないのでは?」
自身がその旗頭だったことは脇に置いておく。
「リヤド戦で知り合ったサウジ軍のカタフラクト乗りが、偶然にもここの配属になっていたから買収しておいた。火星人であることは黙っていれば分からないし、向こうだって心得ているだろう」
「買……っ?!!」
あっさり種明かしをすると、スレインがのけぞった。
「良く応じましたね。資金調達はどこから?」
「戦後にもらった報奨金を元手にFXと先物投資を始めたんだ。それなりの利益は出してるよ」
所詮はギャンブルで得たあぶく銭。ユキ姉に知られたら怒られそうだし、使い道があって幸いだった。
「貴方の言う『それなり』がどれぐらいなのか気になりますが、聞くと腹が立ちそうなので止めておきます」
「元伯爵様が持っていた資産ほどではないと思う」
スレインと軽い応酬を楽しむなど、彼が収容施設にいた頃には考えられなかったことだ。
火星育ちの青年は伊奈帆が思っていたより表情豊かで、予想していたよりもずっとずっと強く自分を惹きつけた。
手放すつもりはないし、誰にも渡したくない、というのはセラムの時にはなかった感情だ。
名前を呼んでもらえるようになったし、ちょっと流されている感はあるが一緒に眠るのも、キスも受け入れてくれている。掴みは悪くないはずなのだが……伊奈帆は今以てスレインに笑顔を向けてもらってなかった。
側近部下の生存を知ったときの微笑とまではいかずとも、可愛らしくはにかんで見せてくれたりはしないものだろうか。
「ひとつが叶うとその先を求める。人間は欲深いな」
少し話をしてみたい、が出発点だったのに。
「え?まだ儲けたりないんですか?!そのうち全額、溶かしても知りませんよ」
伊奈帆の呟きを勘違いしたスレインが、諭すような口調で釘を刺した。こういうところは年上っぽい。
「心しておくよ」
周囲に人の気配が無いことを素早く確認し、唇をかすめ取った。抗議が降ってくる前にと手首を取って歩を早める。
「カームとニーナが頭を抱えている頃だ。急ごう」
スレインは開いている方の拳を口元に当てると、不本意そうに顔を赤らめた。
食堂では、カームとニーナが真面目に勉強――などしているわけもなく。設置されたモニターから流れる映像を食い入るように視聴していた。
「二人とも広げているだけじゃ課題は終わらないよ」
「うぉ、伊奈帆。ちち、違うぞ。さっきまで真面目にやってたんだ。ちょっとした休憩だって」
カームが慌てて机上に転がしていたシャープペンシルを手にする。
「もう充分、休めたろ。早く続きをやる」
ニーナは唇をとがらせた。
「だって、あのニュースキャスター、適当なことばっかり言うんだもん。心の中で突っ込みぐらい入れたくなるよ」
「お前、ずっと声に出してただろ」
「何をそんな熱心に見ていたんですか?」
つられてスレインもモニターに目をやる。画面にはゆっくりと空を飛ぶ白い火星カタフラクトが映っていた。
ヴァース帝室広報局によるイメージ戦略の一環か、アルビール戦以降タルシスのメディア登場回数が増えている。随伴していた戦艦がリュカオンと名付けられていることもワイドショーの特集で知った。姿だけでなく呼称もデューカリオンとよく似ている。画面の向こうでは解説者が、戦争犯罪として使われた道具が平和の象徴として生まれ変わったとか、乗り手が変わると優美さが違うとか持て囃していた。キャスター達も何かしら褒めなければならず苦慮しているのだろう。マスメディアも大変だなと同情する。
「発着陸の時、なぁんか機体が微妙に不安定なんだよね。下手とまではいわないけど、優美とは違うんじゃないかなあ」
なかなかに辛辣なデューカリオン操舵士の隣で、整備士の青年も鼻に皺を寄せる。
「つかさあ、タルシスってあんなもっさりしてたか?お前のときはもっと俊敏に動いてたよな」
スレインは言葉を濁した。
「地球の重力が影響しているのかも知れません。僕が乗っていたのは宇宙空間だけでしたし、長距離飛行のための反重力装置はなかったので使用感はわかりません」
クランカインは騎士として充分な技能を身につけていたが、タルシスは安定性より速度に重点を置いた造りとなっていることから特に制御の難しい機体なのだ。
「システムの組み方に問題があるんだ。後は搭乗者の運転技術」
伊奈帆は容赦が無い。
クランカインは父親であるクルーテオ卿と同じ轍を踏んでいる。タルシスの未来予測をより正確なものするためシステム周りを重くし、せっかくの機動性を台無しにしていた。
これらは先頃、アナリティカルエンジンをカスタマイズする際に、スレイン自身が青年将校に語ってみせたことだ。
「いくら彼がセラムさんの配偶者だからって、君が気を遣う必要はない」
「そういえば、お姫様って女王様になったんだよね。ヴァースでは男の人が皇帝で女性は女王様になるの?」
ふと浮かんだ疑問をニーナが口にする。
「そういった慣習はありません。お身体の弱ったレイレガリア皇帝陛下の御許で、統治者として振る舞われることを強調するため敢えて女王を名乗られたのでは?」
その直後に皇帝が崩御してしまったため、少々浮いた地位となってしまったが。アセイラムも喪が明け、成人した暁には皇帝の地位に昇るだろう。
「今は公爵と女王のお二人だけを語るときは『王室』、亡くなられたレイレガリア皇帝陛下なども含めた皇族全体を示すときは『帝室』と表現を使い分けたりしていますから、階級制度に馴染みのない方々は混乱するかもしれませんね」
「地位とか立場とか呼び方とか。貴族社会ってのは、色々と面倒なんだな」
カームが肩を竦める。
そんな話をしている内に、モニターは別の話題に移っていた。
伊奈帆が友人達をせっつき課題に取り組ませている間、スレインは積み上がった教科書の中から使用していないものを興味深そうに読み耽っている。
ページをゆっくりと捲る音にカームが、
「速読はしないのか?」
と問えば、
「急ぐ必要がありませんから。趣味ならゆっくり読んだ方が頭に入りますし長く楽しめます」
と、返答していた。趣味かよ、と教科書嫌いの整備士が呻く。
「火星では学校とかってどうなってるの?」
数学のレポートを埋めるため、必死にペンを走らせながらもニーナのお喋りは止まらない。
「あるにはありますが、軍学校としての側面が強いですね」
そこで徹底的に階級社会と反地球思想を植え付けられるのだ。上の学部に進学できるのは中流階級以上と決まっていた。
「3等市民以下が覚えられるのは基本的な読み書きぐらいです。高等学問を得るためには個別に家庭教師を雇う必要がありますから、これは経済的余裕のある貴族だけの特権になります」
稀に優秀な者が階級に関係なく進学を認可されたが、激しい差別待遇に耐えきれず、途中で挫折してしまうことがほとんどだった。
「但し、アルドノア研究者を目指す場合は少し事情が異なっていて、門戸は広く開かれ外部との接触を制限された専門機関で特殊な教育が受けられます。厳しい進級試験があり、大方はふるい落とされて最終的に残るのは入学した内の1%にも満たないそうですが」
「お前はどうだったんだ、スレイン?」
早くも飽きてきたカームが、シャープペンシルを指先でくるくると回しながら顔を上げた。
「僕は基本的にヴァースの教育は受けていません。ザーツバルムの義父には色々なことを教わりましたが、騎士や領主としての教育が主体でした」
一般教養の大部分は地球にいた頃に培ったものだ。普通の学校に通った記憶はほとんどない。教師役となってくれたのは、父親が出入りしていた研究所や大学の職員達で、面白がりながらも競うように教えてくれた。
その為、スレインの持つ知識には偏りがある。専門的な学殖を得ている一方、基本的なことがすっぱり抜け落ちていることもあった。何分、子供の頃のことなので古くなってしまったデータも多く混じっている。
「なので、お二人の取り組んでいる課題や教科書の中身は、とても興味深く感じます。系統立っていてわかりやすいですし」
「ええ?!私にはさっぱり分からないのに~」
ニーナが唇をとがらせた。
「じゃあ、どれだけ分かっているか確かめるために、この課題をやってみるってのは……痛っ!」
体よくレポートを押しつけようとした整備士は、伊奈帆に丸めた教科書で頭を叩かれる。
「ズルはしない。いい加減、真面目にやらないと、見捨てるよ?」
うっ!と喉を詰まらせ、二人は慌てて課題に取り組み直した。提出期限には少し余裕があるが、今日中に終わらせないと明日からの休暇で遊びに行くこともままならなくなる。
夕食後は韻子も教育係に加わり、その日は夜遅くまでペンを走らせる音が食堂に響いた。
3.
休暇に入ってから3日目。伊奈帆とスレインは、ショッピングモールのカフェでお茶を飲んでいた。
初日、2日目は友人達と過ごしたが、本日ばかりは用事があるからと予め断りを入れてある。
「ここが通称エメラルド・シティと呼ばれるのは、あの屋根から来ているそうですね」
窓の外には緑色に輝くモスクの屋根。イスラム教の礼拝堂が臨めた。
「サウジアラビア政府は、米軍と深い関係のあるKKMCの存在を国民に長らく隠蔽していた。アメリカ軍人達が、それを揶揄してオズの魔法使いに出てくる『隠されし都エメラルド・シティ』から取って付けたという説もある」
マグバレッジとの約束通り、青年達は室内でもマントを目深に被っている。
周囲には頭に布を巻いた中東民族衣装姿の者達も多く、彼らに混じれば悪目立ちすることはなかった。
「ためになります」
カップの中身を飲み干すと、伊奈帆は腕時計に目を落とす。
「そろそろ約束の時間だ。行こうか」
外した眼帯を胸ポケットに収めて席を立つと、スレインが硬い表情で頷いた。
都市の入り口付近で二手に分かれる。木陰で休息を装い待っていると、程なくして出入り口の検問官相手に軽口を叩く背の高い男が登場した。
フードの端から、混じりけの無い金髪が覗いている。
タイミングを計り、スレインは男に近づいた。
マントの下で握りしめた拳銃はPSS。ロシア製で消音機能に優れていた。いうまでもなく手配したのは伊奈帆である。
収容施設を出てからこっち、スレインは青年に世話になってばかりだった。いずれ何らかの形で恩を返したいなと考えつつ、銃口を相手の背中に突きつける。
「騒ぐな。そのまま左手の路地へ向かえ」
男は僅かに息を呑んだが、警告に大人しく従った。
「物取りにしては、昼間から大胆だね」
建物に挟まれた僅かな隙間は、街路樹の陰にあり外からは見えにくい。反対側には退路を断つように立ち塞がる伊奈帆の姿があった。
「お久しぶりです。マズゥールカさん」
「これは、これは。再会の挨拶にしては、趣向を凝らしすぎじゃないかな」
火星軌道騎士マズゥールカは、そろりと後ろを振り返り、フードを脱いだ襲撃者の姿に瞠目する。
「サー・スレイン・トロイヤード。まさか生きておられたとは」
王婿の側近となった男も、スレインの生存までは知らされていなかった。
「余計なお喋りをするつもりはない。質問されたことにだけ答えろ」
流氷の蒼を思わせる双眸が、マズゥールカを射貫く。
火星騎士は両手を上げながら、元伯爵に向き直った。
半ばで翻される投降の意。狙いは銃口。
先を読んでいたスレインは自ら得物を跳ね上げることで襲い来る手刀を躱した。続く動作で放たれた左ストレートは身を屈めてやり過ごす。
ほぼ同じタイミングで、マズゥールカは右手を己のマントの下へと潜り込ませていた。相手が銃を抜きさるより早く、元伯爵は地擦りに一歩、大きく踏み出す。
懐深くに入り込み、スレインは男の顎下に冷たい鉄の塊を押し当てた。躊躇うことなく引き金を引く。
都市入り口付近の大通りは、ジープや大型車がひっきりなしに行き交っていた。この喧噪なら、サイレントピストルの恩恵により、発射音には気付かれない。
焦ったマズゥールカが身体を仰け反らせて避けるのも想定内だ。その頃には駆け寄った伊奈帆が、バランスを崩した男の身体を地面に引き倒していた。捕らえた腕をねじり上げ、背中に膝を乗せて対象の動きを封じる。
頬肉の上に足を置いたスレインが、こめかみに照準を定めるのを感じて、マズゥールカは観念した。二人がかりで押さえつけられては勝ち目がない。
「どういう経緯かは知らないが、まさか君たち二人が手を組むとはね。意外だったよ。君もトロイヤード卿の綺麗な顔と手練手管に誑かされた口かい?」
スレインが使用人時代にどんな扱いを受けていたか、マズゥールカは承知していた。精一杯の嫌みとして吐き出せば、伊奈帆は意外な反応をみせる。
「誑かされた……か。悪くない表現だ」
「二人まとめて撃ち抜かれたいとみえる」
唇の端を引き攣らせ、スレインがPSSの引き金に指を掛けた。
「くだらない戯れ言に付き合うつもりはない。こちらが知りたいのは公爵の動向だけだ」
伊奈帆が久しぶりに目にする伯爵様モードは、少し気短だった。
苦笑しつつ、アルビール戦線の顛末を火星騎士へ簡潔に説明する。
マズゥールカは一拍の沈黙の後、言を紡いだ。
「女王陛下がアルビールの件を全面的に公爵へ委任された理由なら、すぐに答えられますよ。まだ一般には公表されていませんが、陛下におかれてはご懐妊の兆しがあります」
大事な時期であることから当面の間、一切の公務から手を引き療養するよう周りが促した。彼の人は今、保護という名の半軟禁状態にある。
「え?!」
「セラムさんに子供?」
絶句する二人の青年。
神の力・アルドノア起動因子を宿すヴァース皇族一番の役目は、系譜を繋ぐことだ。彼女は結婚して1年以上経つのだから、そんな話が出てもおかしくはない。
青年達の思考がそこに及ばなかったのは、若さ故というか……無意識に避けていたというか。
「随分と口が軽いですね。何か考えでも?」
いち早く立ち直った伊奈帆が、視線を男に戻した。
「私も少々気になることがあってね。とりあえず、そろそろ開放して頂けませんか。いい加減、腕が痺れてきました」
前半は伊奈帆に、後半部分を元伯爵に向けて訴える。
「いいだろう。但し、少しでもおかしな真似をすれば容赦はしない」
青年将校の頷きを得て、スレインは顔を押さえつけていた足をどかした。
自由になった腕をさすりつつ、マズゥールカは行儀悪く胡座をかいて地面に座り込む。
「マズゥールカさんの気になることについて発言してもらえますか」
火星騎士の背中から退いた伊奈帆は、いつでも銃を抜けるようホルスターに手を置いた。
「こんな噂がある。『公爵は地球を第二の火星にするおつもりだ』と」
「バディルド卿の副官もそんなことを言っていたが……」
直接談話を?との確認にスレインは首肯する。
「私も生前の彼女達から聞きました。『公爵クランカインは地球に新たな王権制度を築き、自らが君臨するつもりだ。その為に、火星を捨て地球を不毛の地に変えようとしている』と。その時は、つまらない冗談だと流しましたが」
彼女達が亡くなった経緯を考えると、笑い話ともいえなくなってきた。
「随分と滑稽無糖な話ですね」
伊奈帆の左目は、マズゥールカが嘘をついていないことを証明していた。
「同感だ。だが公爵は君に破壊されたカットを次々と復刻させている。何らかの意図はあるのだろう」
伊奈帆が破壊した火星カタフラクトの所有権については地球も名乗りを上げていたが、争奪戦は火星側に軍配が上がっている。手にしたところで起動権がなければ意味がない。いくらアセイラムが地球贔屓といっても、火星兵器の使用に許可は出さないだろう。地球側は敢えて引くことで恩を売ったとも考えられる。
「公爵の望みは惑星間の併合ではなく、火星の体質を地球に移し替えることだったとするならば……。なるほど、それが近道だ」
少しの間、潜考していたスレインに注目が集まった。
「ヴァース帝国が厳しい階級社会を取り入れた節理のひとつは、少ない物資を効率よく分配するためだ」
体制移行時、地球で民主主義と自由経済に慣れ親しんでいた初期の入植者達からは当然、強い反発があった。領地開拓に着手出来るほど潤沢な資金を持っていた軌道騎士は、地球での富裕層出身だ。元から特権階級としての素養がある。逆に支配される側からしてみれば理不尽極まりない話であり、下層階級になるほど抵抗が激しくなっていった。貴族が占有する食料及びアルドノアの恩恵が得られなければ日々の暮らしもままならなくなったことで、最終的に受け容れるしかなくなったのだが。それは、困窮からの苦悶の選択だった。
「けれど地球は違う。エネルギー資源を抑えられたとしても、豊かな自然の恩恵に頼れば生きていくことができる」
彼等を従えたいのであれば、拠り所となるものを潰すより他ない。
ならばいっそのこと。
「地球も火星と同じように荒廃させてしまえば良い、とは考えないか?」
おあつらえ向きに、空にはそのための資材が無数に用意されている。ヘブンズ・フォールで砕けた、無慈悲な夜の女王の残骸――サテライト・ベルトを形成する大小の月の欠片が。
「まさか、地球全土に隕石爆撃を?!」
冷淡な宣告に、火星騎士と地球の青年将校が揃って息を呑んだ。
「クランカインはヴァースで生まれ育った世代だ。長きにわたる反地球政策に染まりきっている。破壊に頓着などしないだろう」
短絡的だが、効果はある。
「しかしですね!」
火星騎士が、スレインを強引に遮った。
「やはり無理があります。ヴァース帝国はいかに表面上鎖国を謳おうとも、細々と送られてくる地球の物資に頼らねば、立ち行かぬのが現状なのです」
それもまた、地球に対する悪感情を育てる一因だった。
「そんなことをすれば、ヴァース帝国も地球も共倒れになります」
「だから、火星を捨てるのだろう」
ミルタの言葉の通りに。
元々火星はアルドノア発掘のために開発された星。用途が元に戻るだけだ。
「なにも地球全土を荒野に変える必要はない。自分達の居住区画は、そのまま残しておくというのなら地球側も一考するのではないか?」
元伯爵の臆度を伊奈帆は噛みしめる。
本来なら一部を残したところで生態系が崩れ、残された土地も同じように荒れていくだけだ。
だが、ヴァース帝国にはアルドノアがある。
超古代文明の神秘を用いれば、自然もまた人類の完全なる統治下に置くことが可能であると。研究データのひとつも提示されれば、信じる者がいてもおかしくはない。
もちろん地球圏からすれば、アルドノア起動因子を手中に収めることが大前提となるが。
廃頽した地球の中、切り取られた楽園。
そこに住まうということは、どれだけの優越感を人に与えるのだろう。
「そんな計画、セラムさんは迎合しない。知れば、絶対に阻止しようとする」
「だから陛下を一定期間隔離できる大義名分が生じた今なんじゃないのか。軌道騎士達の多くは戦争により斃れ、子息へと代替わりしたばかりだ。公爵は彼らの力が弱まっているこの機に乗じるつもりだろう」
「言い方は悪いけど、子供が無事に生まれるとも限らないのに?」
彼が次世代皇帝の父親となれるのは、アセイラムの王婿という立場があってのことだ。よしんば計画が成功したとしても、女王が公爵を拒めばそれまでとなる。
「連合軍の後ろ盾を得て、地球で公爵自身の地位を確立してしまえば、血筋はさほど重要ではなくなる」
アルドノア起動因子を信仰対象とした神政政治から、アルドノア起動因子を道具と見なして囲い込んだものが支配者となる世俗主義へ。
地球の各国首脳陣がいかな反対を唱えようと、降り注ぐ隕石の前では為す術もない。
そして、新生ヴァース帝国の軍部は地球連合軍の職掌となる。
火星騎士の面持ちが険しくなった。
「今のが本当なのだとしたら、私もバティルド卿と同意見だ」
軌道騎士を蔑ろにし、女王を傀儡とする計画などには到底、頷けない。
マズゥールカが地球の資源をなるべく壊さず手に入れようとしたのは、風景を好ましく感じたこともあるが、ことの始まりは余す所なく本国とそこに暮らす民のために役立てたかったからだ。青き星の侵略は、あくまでも愛する祖国ヴァース帝国のため。
それが火星騎士としての矜恃だった。
「真偽を確かめるのは、貴方ですマズゥールカさん」
敵の敵は味方ではないが利用価値はある、が伊奈帆の持論だ。
「この中で公爵との繋がりを持っているのは貴方だけだ。まずは彼が連合軍の誰と結びついているのかを探ってください」
「相変わらず人使いが荒いな。だが、いいのかい?君達の見当が外れていた場合、私は全てを公爵に報告するよ」
「少なくとも、判断材料のひとつにはなります」
「これがただの妄想に過ぎなかったというのなら、陛下にとってはなによりだ」
その時は、マズゥールカの進言により、スレインが生き延び自由に行動していることが明るみに出る。己の身がどうなるか解らないはずもないのに、元伯爵は甘いことを口にした。
火星騎士は苦い笑みを刻みながらも、了承する。
「どうやら私にとっても他人事ではなさそうだ。結果がどうあれ必ず連絡は入れましょう。それと……」
マズゥールカが含みを持たせた。
「公爵閣下は『もうひとつ』のアルドノア起動因子も手に入れる支度をしていました。行動を起こしたのは、その目処が立ったからという考え方もできます」
スレインの顔色が変わる。
「これについては、そこにいるトロイヤード卿の方がよほどお詳しいだろうが」
アセイラムが義母妹の存在を夫に明かすことは想定していたが、もしや既に……。
「スレイン」
焦燥する心を伊奈帆の鋭い声が制した。互いの視線が絡み合う。
案じるような瞳に、緩く首を振った。アセイラムの影武者を務めた存在については、地球圏に一切漏らしていない。力を借りると決めた時点で伊奈帆に隠す気はなくなっていたが、ここで持ち出す事柄ではなかった。
動揺を押し殺し、銃を構え直す。
「あの方が捕らえられたと?」
アセイラムは月面基地戦後の彼女については、生死さえ知らない。公爵が独自に探り当てたというのだろうか。
マズゥールカが両肩を上げた。
「私は北米に不時着したシャトルにそれらしき人影があったという報せを小耳に挟んだだけです。その後は知りませんが、公爵の様子からしてまだ『保護』はされてないでしょう」
ひとまずは安心といったところか。
「他人事ではない、か。まったくだ」
銃を下ろし、スレインは深く息を吐いた。
「人の来ない閉鎖施設で、短い余生を静かに過ごす予定が崩れたな」
放っておけば、火星と地球が焼け野原と化す。姫君達の安全まで掛かっているとなっては、前言を翻してでも参戦するしか道はなかった。
青年の呟きに伊奈帆は眉を顰める。
「隠居するには早いし、君の残りの人生を短くするつもりもない。何のためにユキ姉達がカタフラクトの操縦まで教えたと思っているの」
「酔狂では無かったのか?」
「先進国では学校の兵科教練として必ずカタフラクトの操縦が入る。その他の地域でも大半の者には徴兵制度が適用されるから、やはりそこで操縦を学ぶ」
特に伊奈帆達の世代は、計器類の名前や操作方法を義務教育同然に覚え込まされていた。
軍に関わらずとも、若者達の言葉の端々や芸人のネタ、または置き換え表現として等、日常会話にも頻繁に登場する。
「今後、君が名前や姿を変えて生きていく時には、必要となる知識だ」
少なくともマグバレッジは、その方向でスレインが生存する道を模索していた。
「……やはり酔狂だ」
元伯爵が、ほろりと笑う。
伊奈帆は目を細めて、自分に向けられたものではない面差しを眺めた。
手を伸ばして顎に指を掛ける。
生に対して執着が薄いことにも、自分に笑顔が向けられないことにも、不満が渦巻いていた。
「誑かされている身としては、たまにはご褒美のひとつぐらいあってもいいと思う」
両の瞳を覗き込むと、胡乱げに睨み返される。
「話を飛躍させるな、意味が分からない。それに何時、誰が!誑かしたというんだ?!」
払いのけようと動いた白い手首を捕らえた。
「だいたい、どうしていきなり不機嫌になっているんだお前は?!」
わけがわからん!と元伯爵は口角を下げる。
「君って人の感情を読むくせに、肝心なところは鈍いよね。それとも解っていて僕のこと弄んでいるの?」
告白までしたのに。スレインは自分に向けられる好意に疎すぎる。
「振り回されているのはこちらの方だ。人にあれだけ好き勝手な真似をしておいて言う台詞かそれが」
開いている方の手で押しのけようとしてきたので、そちらも掴まえた。
「事実無根だ。そんな覚えは全くない」
「そちらに無くてもこちらにはある!前々から言おうと思っていたが、お前のスキンシップは過剰だ。そのうちセクハラで訴えられるぞ」
腕を取り戻そうとするスレインと、離すつもりのない伊奈帆の間で攻防が繰り広げられる。大分体力が戻ってきたといっても、力比べになると依然として元火星騎士の方が劣勢だった。
「君にしかしていないから問題ない」
「な!?問題しかないだろうが!」
スレインが、さっと頬に朱を走らせる。
「どこが?君は嫌がってなかった」
間合いを詰めようと青年将校が足を踏み出すと、その分だけ下がられた。
「人の拒絶を全力でスルーしたのは貴様だろう!」
撥ね付けはしてた!思いっきり嫌がってみせた!
最後の最後で流されていた感は否めないとしても。
「あー、お取り込み中の所、誠に申し訳ないのですが」
二人の均衡を破ったのは、おずおずと割り込んできたマズゥールカだった。
「独り身には目の毒なので、痴話喧嘩はそのぐらいにして頂けませんかね」
びくり、と肩を揺らしたスレインの気が削がれる。隙を逃さず、伊奈帆は青年を引き寄せた。
藻掻く身体を逃さないようしっかりと抱きしめてから、呉越同舟となった火星騎士を一瞥する。
「まだいたんですか?」
「酷いな。けどまあ、面白いものが見られたよ」
マズゥールカの知るスレインは、クルーテオ卿の揚陸城でいつも周囲に怯えていた姿か、臙脂の伯爵服に身を包み冷徹な指導者として振る舞っていた時のどちらかだ。
加虐趣味も被虐体質も持ち合わせていない火星騎士にとって、地球生まれの青年は食指の動く対象ではなかった。
しかし、今の反応は悪くない。
「あげませんよ」
マズゥールカの目顔から何かを読み取ったらしい伊奈帆が、スレインの頭を抱え込んだまま釘を刺した。
「貰うよりも奪う方が趣味なんだ」
狙い目は界塚伊奈帆の方であってもまったく差し支えないわけだが、と心の中でこっそり付け加える。
「やっぱり、ここで始末しておこう」
相変わらず淡々とした口調のまま、青年将校がホルスターから銃を引き抜いた。
片腕が外れたことで自由を取り戻したスレインが、グリップを握る手首に掌を添える。
「やめておけ。後片付けが面倒だ。それに」
そいつには、まだ使い道がある。
敵でも味方でも利用価値があるものは使うのがスレインの行動指針だ。
「お二方の、その徹底した合理主義は賞賛に値しますよ」
マズゥールカは服についた埃を払い立ち上がる。このまま出歯亀を続けていると本気で伊奈帆に撃たれかねなかった。
「私からも、ひとつ伺いたい」
ザーツバルグの名を継いだ青年の正面に立ち、ひたと見据える。
スレインは無言で見返した。じゃれ合いの最中も、元伯爵はマズゥールカへの警戒を解いていない。言葉遣いが戻っていないのはその所為だ。
「何故あの時、戦争を止められたのです?」
アセイラムが即位の公布と停戦を呼びかけた時、マズゥールカは戦争の激化を疑っていなかった。
帝室は弱体化しており、クランカインは会議派と通じる裏切り者だ。積年の悲願であった地球侵攻を形にしてくれたザーツバルム伯爵の後継であり、自身も圧倒的な力を見せつけたスレインに多くの騎士達の心情は傾いていた。
スレイン・ザーツバルグ・トロイヤードがただ一声、「戦争の続行を!」と発すれば。多くの火星人達は彼に付き従ったことだろう。
「―――泥沼化させても仕方ないからな。計画は成った。それ以上は必要ない」
そっと視線を外して紡がれたそれは、マズゥールカが始めて接するトロイヤード卿の生の声。
彼が重要視していたのは、自らの地位や命ではなく。別の目的があったのだと初めて悟る。
「計画とはなんです?」
「質問はひとつだけではなかったのか、公爵の騎士殿?」
クランカイン側に属する者に、易々と漏らすはずなかろうと言外に告げられた。
「これは失礼致しました」
マズゥールカは胸に手を当て、慇懃無礼を装って腰を折る。
青年が、あの戦争に見ていたものを。志していたものをマズゥールカは知らない。
成り上がりの地球人を受け入れることができず。青年将校の思惑に乗る形でクランカインへと力を貸した。
両惑星に災厄が降りかかろうとしているのだとしたら、責任の一端は浅はかな感情に付き従って動いた未熟な己にある。
ヴァースの騎士として。帝室に忠誠を誓う臣下として。今度こそ己の立つべき位置を見極めようとマズゥールカは心に誓った。
4.
女王の使いとして軍事都市を訪れたエデルリッゾは、周囲の耳目を集めながらメインストリートを歩いていた。
会見は恙なく終わった。これからは第二次惑星間戦争時、世話になった人達に会いに行こうと考えている。彼らが偶然にもこの地に逗留していることを、エデルリッゾは連合軍将官との対面で知った。
路地裏から出てきた人物に懐かしい面影を認め、足を止める。
視界を過ぎったのは、女王が親しくしていた東洋人の青年だった。声を掛けようと口を開き掛け、続いて現れた人影にハッとなる。
陽光に透ける月光色の髪。澄んだアイス・グリーンの瞳。傍らの青年が、すぐにフードを被せてしまったが錯覚などではない。
あれは、あれは。
極秘裏に生かされていることは知っていた。
戦争首謀者に対する扱いに於いて、エデルリッゾは初めて女王に反対の声を唱えている。
これに驚いたアセイラムが侍女だけに、そっと教えてくれたのだ。
我知らず駆けだして手を伸ばす。マントに縋ると相手がぎょっとして身体を強張らせた。
「エデルリッゾさん?!どうしてここに?」
やっぱり!
「スレイン様」
名を呼べば、涙がこみ上げる。
「わたし、わたしは……っ!」
吸い込んだ息は、音となる前に塞がれた。
「ちょっと待った。こんなところで叫ばれると困る」
発露しかけた感情に蓋をしたのは、近くにいた東洋人。界塚伊奈帆だった。
「デューカリオンまで戻ろう。悪いけど一緒に来て。それまで極力喋らないで」
相変わらずふてぶてしい態度で、矢継ぎ早に指示される。
「すみません、エデルリッゾさん」
地球人に従う義理など無かったが、スレインにまで申し訳なさそうに頼まれては断れなかった。口を押さえられたまま、了承の意を示すため何度も首を縦に振る。
決して離すまい、とマントを握る手に力を込めた。
「ええっと、エデルリッゾさんは、こちらへはどのような用件で?」
外套にしがみついたままの少女に当惑しながら、スレインは会話の糸口を探る。
伊奈帆には悪いが、艦に着くまでの間、沈黙に堪えられそうになかった。
「ひめ――いえ、女王陛下の名代として、連合軍に宛てた親書を届けに参りました。その、陛下は今……」
スレイン達に気を遣ったのだろう、言い淀む侍女に柔らかな笑みを向ける。
「ご懐妊された、と伺いましたが本当ですか?」
エデルリッゾが小さく頷いた。兆しどころではない、もう4ヶ月目に入っているという。
「おめでとうございます。アセイラム姫はお幸せなのですね」
その時に漂った曖昧な表情を。個人的な感傷から来るものだと、侍女は勘違いした。
「セラムさんの用件というのは、アルビールに関することだろう。彼女はなんて言っていた?」
地球で避難生活を送っていた頃は随分と世話になったし、彼の能力も認めているが、この無表情と不必要に姫様に馴れ馴れしい態度は頂けない。
エデルリッゾは青年将校を一睨みすると、ツンと顎を上げた。
「陛下は公爵よりアルビールにおける軌道騎士の残虐非道な行いを聞き及び、大変心を痛めておいででした」
度重なる説得にも耳を貸さず、住民達を虐げ続けているとの通報があっては放置しておけない。
命辛々逃げ出してきた者達の嘆願を受け、義憤に駆られたクランカインが女王を説得した。
「対話による解決を望んでおられた陛下にとって、アルビールでの武力行使は苦渋の決断でした」
アセイラムは己の力量不足に臍を噛みながらも、自ら戦場に立ち指揮を取ったクランカインの勇気に深く感銘を受けた。そして、身重で動けない自分に代わり、快く力を貸してくれた連合軍に謝意を伝えて欲しいとエデルリッゾを使いに出したのだ。
「なるほど。そうなっているのか」
セラムさんを納得させる筋立てとしては順当だ。親書の内容が実態にそぐわなくても、公爵の意向が連合軍上層部に通っているのなら問題とならない。
ただ、と侍女は付け加えた。
「バティルド女伯爵は亡くなる少し前に、女王様との面会を希望されておりました。公爵には内密にとのことだったのですが、知られる所となってしまい……陛下やお腹の子に万が一のことがあってはならないと止められました。陛下は話をする最後の機会であったのにと悔やまれています」
伊奈帆とスレインは顔を見合わせる。
「それは、公爵としても急ぐしかないな」
「下手に面会を許して、関係を暴露されても困りますしね」
公爵自らが乗り出したのは、やはり知りすぎた己の愛人に対する口封じが正解だったようだ。
エデルリッゾは、青年達の様子に戸惑う。会話の内容は不明だが、両者に流れる雰囲気は随分と気安い。
「あの、お二人はいつ仲良くなられたのですか?」
再び互いを見やる二人。
「仲悪く……は、ないですね確かに」
「この期に及んで出てくる感想がそれって、おかしくない?」
もうちょっとこう、一歩踏み込んだ関係性を述べて欲しかった。
「あの?」
微妙に気落ちしている伊奈帆に、侍女は余計な発言をしてしまったかとオロオロする。
「気にしないで下さい。デューカリオンに到着しましたよ」
爽やかに青年将校を無視したスレインに促され、エデルリッゾは巨大な航空母艦を目前にする。異境の地で過ごした日々が鮮やかに蘇った。
迎えてくれた船員達は、エデルリッゾを歓迎してくれた。
誰もが笑顔で近況を尋ねてきたり、アセイラムの様子を訊かれたり。女王の懐妊を伝えれば、皆が一様に言祝いでくれた。
姫を通じてしか接点を持たなかった侍女は、少し昔の己を恥じる。あの時もっと彼らと色々な話をしておけばよかった。
デューカリオンもアルビール戦に参加していたのだと聞き、女王からの謝辞を伝える。将官の前で一度口にしていたので淀みなく述べることができた。
「遠路はるばるごくろうさまでした。火星の女王陛下にもよろしくお伝え下さい」
マグバレッジの答申に、深く頭を下げる。
一通り挨拶を済ませるとエデルリッゾは改めて、隣の青年に意識を戻した。
フードを降ろせば、ふわりとした白金の髪が露わになる。浅瀬の海のような瞳が、面映ゆそうに微笑んだ。
「少し背が伸びられましたね。髪を下ろされている姿は初めて見ましたが、とても良くお似合いですよ」
「スレイン様……」
頬が熱くなる。心持ちでも目線が近くなったことが嬉しかった。
「あれがモテるということです不見咲君」
背後でマグバレッジが副長に講釈を垂れていたが、勿論、侍女の耳には入らない。
「すみませんが、手を離して頂けますか。このままだと脱げません」
やんわりと懇請されて慌てて手を離した。外套を脱いだスレインは見慣れない私服を着用している。
「マントの埃が少し移ってしまいましたね。あいにく今は手袋を持っていないので」
手を貸せないことをお許し下さい。
「なんで手袋?」
同じようにマントを外した伊奈帆が小首を捻る。こちらは、軍が支給したシャツにネクタイといった出で立ちだった。外気温が高いため、両者共に軽装だ。
「素手で火星の人や物に触るなと命じられていましたから」
伯爵ではなくなったのだから、対応も以前に戻すのが適切だろうとスレインは考えている。
エデルリッゾもまた、ヴァース帝国の教えを信じた一人。彼を劣等人種と蔑んで触れられることさえ忌避してきた。
だけど。
「それと、何度も言ったように、私に『様』はいりません。今はもう騎士ですらないのですし」
「いいえ!」
大きく頭を横に振り、青年の右手を取る。両手でしっかりと握りしめた。
指先に唇で触れ頬に押し当てる。
「エデルリッゾさん?!」
侍女の目に涙が溢れた。抑えきれなくなった感情が爆発する。
「いいえ、スレイン様は姫様の騎士です。貴方が……貴方だけが!」
それなのに、どうして。
「どうして姫様は一切合切を貴方一人の責にしてしまわれたのですか?!どうして犯してもいない罪までスレイン様の咎にされなければならないのですか!どうして……どうして!」
アセイラムが玉座に就いて一年は経つのに、未だ気を抜くと慣れ親しんだ『姫様』という呼称に戻ってしまう。
「ちょ……エデルリッゾさん、落ち着いて下さい」
大きくしゃくり上げた侍女に、スレインは慌てふためいた。アセイラムが目覚めたときでさえ、彼女がここまで取り乱したことはない。
「助けてください、伊奈帆」
小声で青年将校に救いを求めるも、あっさりといなされた。
「無理。極度に感情を興奮させた女性は、僕の手に負えない」
じっと嵐が過ぎるのを待つのみだよ。とは、彼の姉との生活における箴言か。
「そんなに泣いたら駄目だよ。スレイン君困ってる」
ブリッジ常駐のニーナや祭陽、詰城といったおなじみのメンバーも横合いから宥めたが、少女の嘆きは収まらなかった。
ここではあまり題材にしたくなかったが、仕方がない。
「エデルリッゾさんが心を痛める必要なんてないのですよ。私がザーツバルム卿の手足となって働いていたことは事実なのですから」
貴女にも随分と怖い思いをさせてしまいました。
「怖いことなんて何もありませんでした!わたしは知っています。貴方がザーツバルム卿に己の全てを差し出されたからこそ、姫様は……わたしは生きながらえることができた。貴方が同胞たる地球人を屠る度に姫様の延命装置の電源供給時間は延ばされていたのです」
スレインの犠牲の上に生かされてきたのだ。アセイラムも、エデルリッゾも。
不要な存在と処分されかけた自分を背にかばい、レムリナの付き人という役割を与えてくれたのは彼だった。それからずっと小さな侍女は、騎士の称号を得た青年に護られてきたのだ。
アセイラムが眠っている間も、目覚めた後も――部屋に軟禁された時でさえ。
一度だって彼は自分達を乱暴に扱わなかった。大切に大切に。姫様に、エデルリッゾに接してくれた。
「貴方が地球の艦隊を墜とす度に苦しまれていたことも、姫様の目覚めを信じてずっとずっと待ち続けておられたことも、わたしはっ!」
アイソレーションタンクの前で姫の目覚めを待つ彼がどんな面差しをしていたのか、どんな風に彼女に語りかけていたのかをエデルリッゾだけは知っている。
スレインの心象風景が描き出す地球はいつでも美しかった。それは彼が青き星を誰よりも慈しんでいたからだ。
大切な故郷に刃を振り上げなければならなかった騎士の懊悩に思いを馳せる度、侍女の胸は張り裂けそうになった。
「エデルリッゾさん」
それ以上は駄目ですよ。
スレインが人差し指を己の唇に当てた。
我に返ったエデルリッゾは、慌てて口を噤む。過去形とはいえ、敵陣の中でする話ではなかった。
「泣かないで下さい」
少し躊躇った後、姫殿下の騎士は侍女の涙を優しく指で拭う。右手が彼女に取られたままなので、手袋がないのを気にすることは止めた。
ザーツバルム卿の名誉のために補完しておくと、電源供給時間の件は実相とは異なる。アセイラムの名を出せば、多少の無茶でもスレインがこなしてしまうため、伯爵が面白がってことあるごとに引き合いに出していただけだ。エデルリッゾはそれを聞いて真に受けてしまったのだろう。
「本当に、気に病むことなどなにもないのです。これは『最初から分かっていた』ことですから」
伊奈帆はアセイラムの側近く仕えた二人を精察する。
やっと腑に落ちた。
スレインは戦時中ずっと『アセイラム・ヴァース・アリューシア姫殿下の騎士』を自称していた。彼の忠誠に偽りなど含まれていなかったことを、伊奈帆はアナリティカルエンジンを通じて知っている。
皇女暗殺まで企てていたザーツバルム伯爵がアセイラムを生かした、その事訳。スレインがザーツバルムに降った訳合が、これで繋がった。
ザーツバルム陣営には、アセイラム以外のアルドノアの起動因子保持者がいた。恐らくはマズゥールカが話題に出した『もう一人』。
姿などは光学迷彩でどうとでもなる。彼等にとって都合よく働いてくれる因子保有者が他にいるのなら、本物の皇女など無用の長物。
スレインは瀕死のアセイラムを救うために、ザーツバルムと取引したのだ。
何の後ろ盾も無く、力も無い彼が差し出せるものは己の身のみ。それを唯一絶対の価値として是認させ、姫を生きながらえさせるために、彼は一体どれだけの犠牲と努力を払わねばならなかったのだろう。
「エデルリッゾさん、陛下にこのことは……」
「お伝えしていません。約束しましたから」
姫様を悲しませないために。ザーツバルム陣営側の事情は一切漏らさないことを、侍女は以前にスレインと約束している。それはアセイラムの誤解を生み、スレインから弁明の機会を奪う行為だ。
「馬鹿だな、君は……」
なんともいえない顔つきで、錯雑した胸の内を吐露する伊奈帆。
「なんのことですか?」
スレインは青年将校をチラリと見て、すぐに視線を逸らした。エデルリッゾの頭を軽く撫でる。
「そんな顔をしていては、陛下に心配されてしまいますよ」
「この仕事をもってわたしは暇を与えられました。姫様がわたしのことを心配することなどもう……っ!」
理由の異なる涙によって、再び侍女の頬が濡れた。
「えぇ、嘘でしょ?!」
途中から口を挟めなくなり、二人の語らいを聞くだけだったブリッジのメンバーが驚きの声を上げる。
「確かエデルリッゾさんは、行儀見習いとして皇城に上がられていましたね。その期間が終わったということでしょうか?」
少女が力なく首を振る。
「わたし自身と姫様の希望により、あと1~2年はお側に仕えさせて頂くことになっていました。ですが、公爵様が懐妊された女王の頼みとなるのは、子育て経験のある方だと仰って」
「よくお姫様が了承したねえ」
「せっかくの大好物を……」
ニーナの影に隠れた詰城の恨み節は、幸いにも一番近くに居た祭陽にしか届かなかった。
「姫様はご存じないかも知れません。出立の際、唐突に告げられましたので」
エデルリッゾは会議派の中でも特に力を持つ派閥の子女だ。幽閉されている内に勢力図が変化し、彼女の実家から入る抗議を無視できるほどにクランカイン擁する政党が権威をつけたというのだろうか。
「スレイン様。わたしはあの戦争の中、ただ漫然と過ごしてきました。今も同じです。役目を解かれ、命じられるまま実家に戻ろうとしている」
涙の跡が残る目元に、侍女は決意を宿した。
「わたしはこれ以上、流されるのは嫌です」
スレインの為に何かをすることも、姫の助けとなることも、今の自分では適わないから。
「教えて下さい。わたしがあの時知らなかったことを」
「……そうですね。貴女には知る権利がある」
少女には姫と同じく何も知らないままで。無邪気に微笑んでいて欲しいと、スレインは願っていたのだが。
そっと手を取り、触れない距離でエデルリッゾの甲へ唇を寄せる。
「わかりました。私が知る限りのことで良ければ、お答えします」
「すごい、本物のお貴族様だ」
礼を尽くした仕草に感激するニーナの横で、不見咲もこっそり頬を赤らめた。監視カメラの画像を後ほどこっそりプリントアウトしておこうと腹積もる。
「不見咲君。君がモテない理由を教えてあげましょう」
邪な思惑が透けて見えるところです。
「職権乱用は懲罰房行きですよ」
賄賂として私の分も用意しておきなさいと、艦長は澄ました顔で命じた。
背後のやり取りを華麗にスルーして、スレインは屈めた上体を戻す。
込み入った話は、落ち着いた場所でしたかった。
「場所を変えましょう……構いませんね」
どうせ内容は、同席する伊奈帆から伝わるのだ。ダルザナに退出を願うと簡単に了承が出る。
残された女性船員達は、優雅にエスコートされる侍女を羨ましげに見送った。
5.
ベッドを無理に一台増やした客室の中央、窮屈そうに収まるソファーセットに腰を落ち着けてエデルリッゾはココアの入ったカップを手に取る。不気味な色をしたこの飲み物は、侍女が地球で口にしたもののなかで最も気に入ったものだった。初めて飲んだときは感動のあまり泣きそうになったほどだ。
向かい側にはスレインと、当然のようについてきた青年将校の姿があった。彼ら二人の前に置かれているのは紅茶で、伊奈帆が同室者の好みに合わせて取り寄せた茶葉が使われていたりする。
「なぜ、界塚伊奈帆がここにいるのですか」
「ここは僕の部屋でもある。お茶を淹れたのも僕だ」
それだけでは分かりにくかろうと、スレインが補足説明を入れた。
「ご承知のように私は主要戦争犯罪人ですから、勝手な行動を取らないように彼が目付役となっています」
ああ、それで一緒に居たのか。
「では、ここはもう結構です。退出してください界塚伊奈帆」
伊奈帆は頭を抱えた。スレインは口に含んだ紅茶を危うく吹き出しそうになる。
「彼の立場ではそうもいかないでしょう。構いません、このまま話を続けてくださいエデルリッゾさん」
温かな笑みに促され、エデルリッゾはもじもじと指先をこすり合わせた。
「君ってタチ悪いよね」
紅茶のポットに差し湯をする青年将校の機嫌は悪い。
「意味を問いただしたいところですが、貴方のことは後回しです」
すげなく言い捨て、侍女に向き直る。
「もうじき日が落ちてしまいますから、その前に済ませましょう。エデルリッゾさんは、何をお知りになりたいですか?」
侍女は視線を彷徨わせた。知りたいことは沢山ある。しかし、伊奈帆がいる場所でスレインの内情に踏み込んだ質問をすることは躊躇われた。
だったらここは、原点回帰すべきだろう。
「戦争の切っ掛けを。姫様の暗殺事件について教えて下さい」
世間では、37家門軌道騎士のひとりザーツバルムの命を受けスレインが実行したことになっている。もちろん、まるっきりの嘘だ。彼は元々クルーテオ伯爵の使用人であり、ザーツバルム門下に降ったのは、アセイラムが銃弾に倒れてからである。
だが、皇女暗殺が実際はどのような経緯で為されたものだったのか。当事者であったにも関わらずエデルリッゾは把握していなかった。
「考えてみれば、おかしな話なのです。あの時、姫様のお側にいたのはわたしのみでした。影武者が乗った車の襲撃映像に驚き、慌てて人を呼んだのですが誰ひとり現れず。静まりかえった廊下に恐れをなしたわたしは、姫様を連れて逃げ出しました」
川辺で界塚伊奈帆に会うまで、存在を忘れ去られたかのように、自分達は取り残されていたのだ。
「貴女にとって余り気分のいい話ではありませんが、構いませんか?」
「それ、私も参加させて貰っていい?」
「……っ!」
いつの間にか入り口に立っていたライエに、侍女は危うくカップを取り落としそうになる。
火星の工作員であった彼女こそ、まさしく暗殺事件で知り合った因縁の相手だった。アセイラムとは和解したようだが、エデルリッゾの中には痼りが残っている。
「立ち聞き?」
お茶を追加すべく、伊奈帆が立ち上がって棚から茶器を取り出した。
「たまたま通りかかっただけ。と、言いたいところだけれど、私も知りたいことがあったから」
後をついてきたのだと、ライエは悪びれない。
「関係のない話だったら立ち去るつもりだった。でも、お父様が殺された時のことなら。貴方があの件について何か知っているのなら、私にも教えて!」
アセイラムにもスレインにも、最早何ら含むところはない。ただ先ほどの侍女の話を聞いて、ライエもまた、自分たち親子が置かれていた立場や状況を理解していなかったことに気付かされた。彼女が父親から教えられていたのは危険な任務の内容と得られる対価、騎士に取り立てられた後の夢のような生活だけだ。
「わかりました。ライエさんも座ってください」
少女の要望を受け入れたスレインは、彼女が着席するのを見計らって口を開く。
「皆さん既にご承知の通り、アセイラム姫のお命を狙ったのはザーツバルム伯爵です。第一次惑星間戦争で許嫁を失った彼は、無謀な戦争に騎士達を駆り立てた帝室に復讐を誓っていました。直接、許嫁の命を奪った地球人達に対する恨みも相当深かったようです」
併行して、逼塞した火星の社会に限界を感じてもいた。
人は火星になど住んではいけなかった。
姫を暗殺することで遺恨を晴らし、階級社会に風穴を開けること。
皇族暗殺に紐付けて地球に侵攻し、軌道騎士積年の悲願を果たすこと。
いずれも成し遂げることで漸く、ヴァース帝国民は真なる生まれ故郷・地球へと凱旋できるのだ。
それが、伯爵の抱いた野望だった。
黒幕の名前は聞き及んでいても、その意図するところまでは知らなかった地球側の軍人は興味深く耳を傾ける。
「ここからは私がザーツバルム伯爵の元で働くようになってから知ったことです。暗殺事件の当日、姫様は慣れない重力に寝込まれておいでだったとか。ですが、そのようなことで体調を崩す火星人などおりません」
「火星の重力は地球の3分の1、月の重力は6分の1なのに?」
唯一、地球にしか滞在経験の無い青年が確認する。
「火星人を名乗ってはいても、元は地球出身者の集まりです。一部区画を除き、ヴァース帝国でも揚陸城でも居住区は地球と同じ1Gに保たれていました。軌道騎士が重力に負けて参戦できなかった、なんて笑い話にもならないでしょう」
3分の1の重力に馴染んでしまえば、骨密度に影響が出て地上を歩くことさえままならなくなる。重力変化に対する耐性は、むしろ火星人達の方があった。
「じゃあ、セラムさんが体調を崩したのは……」
「影武者を用意しリムジンへ乗せたのは、火星より姫に世話役として付き従ってきた会議派の人間。そうでしたね、エデルリッゾさん」
まるで、体調を崩すことを予知していたかのような周到さで。
「会議派の人間が、薬か何かを使って皇女の具合が悪くなるように仕組んだって事?」
ライエは不快感を飲み下すように紅茶を喉に流し込んだ。
「ザーツバルム卿の計画は、会議派に漏れていました。伯爵がクルーテオ卿にスパイを送り込んでいたのと同様に、彼の元にも会議派の諜報員が紛れ込んでいたのです」
皇女に死なれては困るが、軌道騎士には地上に降下してもらわねばならない。それが会議派の腹の内だった。
「嘘です。それでは会議派の方々が戦争を押し進めたようではないですか」
エデルリッゾが異を唱える。
「ヴァース帝国は一向に改善する兆しのない生活環境から、いつクーデターが起きてもおかしくない情勢でした。和平推進派が、そんな策を弄さねばならないほどに、当時の火星は行き詰まっていたのです」
戦争が起きれば、民の関心はそちらへ向く。彼等の鬱憤をある程度散らしたところで、議会が帝室の代理となって争いを収束させれば、皇族への依存と支持率を高めることも可能だ。
その時、皇女の生存を明かせば、軌道騎士達の忠義を軽挙妄動とすり替え罰則を与えることもできる。会議派にとっては、勢力を増し領主の力を削げる絶好の機会だった。
後の責任は全てザーツバルムが背負う。
「エデルリッゾさん達の周囲に人がいなかったのは、軌道騎士降下前に姫様の生存が知れ渡ったり、お二方にクルーテオ卿の元へ戻られたりすると都合が悪かったためです。だから敵だけでなく味方も近寄らなかった。開戦後はすぐに身柄を保護するつもりで、気付かれない距離から警護はしていたとのことですが」
さしもの彼等も暗殺部隊の口封じに、ザーツバルムが隕石爆撃を持ち出すことまでは予測不能だった。保護要員は次々と飛来する岩石に為す術もなく巻き込まれ命を落としている。
混乱の最中、皇女が新芦原市より姿を消したことに会議派は慌てふためいたが、最悪、彼女の命が喪われても代わりは用意できるのだからと、計画は遂行された。
「酷い。姫様のお命をなんだと思っているのでしょう」
口元を覆い侍女が涙を浮かべる。ライエは顔を顰めた。
「戦争を始めるとか、止めるとか。そんな簡単に運ぶものなの?」
「火星側だけでは難しいでしょう。ですが、もう一方の協力があれば話は別です」
侍女の手がスカートにぎゅっと皺を作る。
伊奈帆は火星皇女が訪問した日に、陸橋から一望した光景を回視した。
「僕もあの場所にいたけれど、腑に落ちないことがいくつかあった」
第一に、要人護送用特殊車両があっさりミサイルで大破されたこと。アセイラムの警護にヴァースの技術は使われていなかった。火星人は自分達の皇族が、技術格差のある地域へ出向く事に対する危疑を抱かなかったのだろうか。
第二は、襲撃事件後に責任を取る者がおらず、事件の捜査に関する報知もなかったこと。直ぐに戦争に突入してしまったため、それどこではなかったという言い訳も立つが、争いを激化させたくないのなら事実関係を明確にした上で、相手国側に謝罪を申し入れるべき所だ。
そして、三つ目。
「対応する連合軍の動きが、不自然なほど早かった。軌道騎士降下前に出撃準備が整っていたとしか思えない」
「富と権力の前には、同胞の命などなんとも思わない輩というのはどこにでもいるものです」
ぞっとするような酷薄な笑みを元伯爵が浮かべる。
連合軍上層部と会議派の間には盟約が締結されていた。地球側は一部の土地を戦場として貸し出し、会議派は対価としてアルドノア使用権を支払う。
軍需産業で得る富と無限供給エネルギーは数百万に及ぶ無辜の民の命と等しき価値がある、と連合軍は判断した。
「私の介入で多少計画の修正が必要となったようですが、概ね彼らの目的は達せられたのでしょう」
生贄とする相手がザーツバルムからスレインへ変更されただけだ。
「君はどこからその情報を得た?その言い方だと、知っていた上で計画に乗ったように聞こえる」
侍女が求めたのは、ザーツバルム陣営の事情だ。しかし、スレインは対抗勢力の内実までをも開いてみせた。
元伯爵は否定も肯定もせず、伊奈帆の追及を軽く流す。
「戦争は終わったのですから、これで姫様……女王陛下の御身は安全になったのですよね?」
込み上げる不安を払拭しようと、エデルリッゾが無理に笑みを作った。二人の青年が沈黙する。
アルビール戦以降、朧気に浮かび上がってきた地球の火星化計画。それが、アセイラムにどのような影響を及ぼすのか想像がつかなかった。
無事に子供を産むまではクランカインが守り通すだろうが、その後は。
公爵がどれだけアセイラムを想っているかに掛かっている。
「即答しないってことは、懸念事項があるのね」
火星の工作員だった少女が勘を働かせた。
「軌道騎士も敵、会議派も敵。地球人も敵。火星の皇族は敵だらけね」
「わたし達は一体何を信じればいいのでしょう?!」
侍女が、カチカチと歯を鳴らす。ライエの顔色も悪い。
「陣営全てを味方と見なすことも、敵とすることもできないのなら、後は自分で見極めるしかない」
伊奈帆は誤魔化しや慰めを口にしなかった。
戦争に勧善懲悪は存在しない。複雑に利害が絡み合い、深みに嵌まるほど敵も味方も曖昧になっていく。
トリルランを撃ち、クルーテオに疑いの目を向けたかつてのスレインが、そうであったように。
「だったら、わたしはお二方を信じます」
膝の上で拳を握り締め、エデルリッゾが明言する。
「お願いします。姫様に迫る危険があるというのなら、わたしも役に立ちたい。出来ることをさせてください」
「危険が伴うかもしれませんよ?」
「構いません」
これまでだって剣呑な場面には何度も遭遇している。その度に目の前の青年達が助けてくれた。
次は、自分が力になる番だ。護られるだけではなく、護る側になりたい。
「では、ひとつお願いが。ある人に手紙を届けて頂けませんか」
いずれ必要になるかも知れないと、準備だけはしてあった。
「手紙ですか?一体誰に……」
スレインは引き出しから取り出した便箋の最後にサインを書き足すと、白い封筒に入れシーリングワックスで閉じる。伯爵時代に使っていた印章とは異なるイニシャル一文字だけの簡素なものだが、休暇中に店先で眺めていたら何故か伊奈帆が購入してくれた。宛先を告げるとさらに不思議がられる。
「答えはそのうち。すっかり遅くなってしまいましたね」
デューカリオンはドックの中に停泊中だ。外の様子が分からないため、気をつけていないと時間の経過を忘れてしまう。
「完全に暗くなる前にホテルへ送りましょう」
正式な女王の使いとして訪問したエデルリッゾは、軍から宿泊場所を提供されていた。
なお、船員達にも近くの施設に部屋が用意されていたが、デューカリオンの自室で寝泊まりしても良いことになっている。スレインはいないことになっているので自室しか選択肢がない。
「私が送っていくわ」
ライエが元伯爵を制して立ち上がった。
「陣営ではなく人を見て信じろ、ね。難しいけれど私もやってみる。必要だったら言って。できる限り手を貸す」
頼もしい台詞に、青年達が頬を緩める。
「助かるよ」
「ありがとうございます。ライエさん」
少しだけ成長し女性らしさが増した侍女は、壁に掛けられた鏡に映る自分を眺めた。
己の顔と見つめ合うこと暫し。唇を引き結んでひとつ頷くと、踵を返す。
腰に手を当て、仁王立ちで青年将校をせいいっぱい睨めつけた。
「これだけは言っておきます。界塚伊奈帆――わたしは負けませんから!」
指を突きつけ、高らかに宣言する。
伊奈帆と姫の間に入り込むことは失敗したが、今度ばかりは譲れない。なにせ自分の初恋が掛かっているのだ。
エデルリッゾは伊奈帆が、自分と同じ気持ちを姫の騎士に抱いていることに気付いていた。女の勘である。
要領を得ない様子のスレインにのみ優雅なお辞儀を残し、侍女はライエと共に退出する。
「上等だ」
伊奈帆は、宣戦布告をしっかりと受け止めた。
「エデルリッゾさんは何を?」
「いいよ、君は知らなくて。それよりも僕のこと考える気になった?」
先ほどは後回しにされたけど。
シュンっと音を立ててしまった扉に、しっかりと施錠する。
今夜はこれ以上、誰にも邪魔されたくなかった。
「ああ。あれは貴方が話を混ぜ返そうとしたからです」
だから、と伊奈帆は青年の腕を捕らえる。
「今なら考えられるよね」
部屋の奥に押しやって前のめりに体重を掛ければ、気を抜いていたスレインの身体はたやすくベッドに倒れ込んだ。
「うわっ?!あ、危ないでしょう。危うく壁に頭を打つところでしたよ」
「まったく、自分がこんなに嫉妬深かったなんて予想外だ」
あちこちでフラグ立てまくっておいて当人は無自覚なんて。
「伊奈帆?」
「スレイン告白の返事、聞かせて?」
「へ?うぇ!?」
顔に朱を登らせて藻掻きだしたところで遅い。彼の両肩は伊奈帆によってシーツに押さえつけられていた。
「この間のあれは……冗談……では……」
「本気で言ってる?」
「いえ……」
吐息が掛かるほどの距離で凄まれ、気まずくなったのだろう、スレインは顔を逸らす。
「沈黙は肯定とみなして、このまま突っ走るつもりだけどいい?」
逃れられないようしっかりと自分の重みを乗せながら、ボタンに手を掛けた。
「よくありません!」
「だったら返事」
あーとか、うーとか暫く意味不明な呻きを発した後、両腕で顔が隠される。
ぱたりと反応が止んだ。
「スレイン?」
「……………」
困ったことに、自覚がないわけではないのだ。
名前を呼ばれる度に一寸息が詰まり、名前を紡ぐごとに鼓動がひとつ大きくなる。
アセイラムを想うときのような、温かみや幸福感はそこになく。
少しの後ろめたさと、疼くような胸の痛みが伴った。
精神的によろしくないし、体調にも影響がありそうだ。
それでも、ずっとその痛みを感じていたいと冀うのは。
如何なる心情から来ているのかなんて、己に問うまでもなかった。
「吊り橋効果ですよ、こんなのは」
両腕の下の声が震えている。
拒絶を恐れていた伊奈帆は、ほっと息をついた。
「それの何が悪いの?どうせ僕たちは一生吊り橋の上だ」
落ちる先は奈落の底。
あれだけ殺して。業を背負って。これからも壊し続けるだろう自分達に、辿り着ける安住の地などありはしないのだと地球のカタフラクト乗りは言い切った。
「そう……かもしれませんね」
そっと腕を外すと、泣きそうな顔が伊奈帆を見上げている。
「それに、皆が吊り橋の上にいるのなら、選ぶ相手はやっぱり特別に感じる一人だけだと思う」
「屁理屈っていいませんか、それ」
元伯爵の指が、青年将校の左目を確かめるようにそっと瞼を撫でた。
「整合性は取れている」
ふっ、とスレインの口元が緩やかな弧を描く。
「どちらが先に落ちるのか分かりませんが、底で再び邂逅するのが貴方なら、退屈だけはしなくて済みそうです」
かねてより渇望していたもの。始めて自分へ向けられた笑みが伊奈帆の胸を焦がした。
ゆっくりと顔を傾けると、頬に添えられていた指が髪に差し込まれる。
シャツの前をはだけさせ、ベルトを外して下穿きに手を掛けても、制する声はもうなかった。
重ねた唇、繋いだ掌が、互いの温もりを伝え合う。
熱に浮かされるように、伊奈帆は夢中で相手の身体を貪った。
経験の無い行為は加減が分からず、ネットで得た知識も急き立てられるような情動に抜け落ちて。
スレインには、かなりの無理を強いた。拙い愛撫も無茶な要求も受け止めてくれたのは、年上の余裕からか積み重ねた経験の差か。
恐らくは両方だろう。やんわりとした手解きに導かれるのは、悪くない感覚だった。
愛おしげに手を伸ばされれば求められていると感じる。切なげな吐息が零れれば許されていることが伝わってくる。
互いの呼吸が荒い。
伊奈帆は繋いだ身体を慎重に、けれど動きを止めることなく押し進め、最奥まで欲していることを伝えた。
春情に溺れ、白い喉を晒すスレインは凶悪なまでの色香を放つ。
所有の証を刻み込む度に、上擦る声が耳に心地よかった。
決して優しい感情ではない。灼けるような胸の痛みと、少しの背徳感。
手に入れて尚、残る渇きを幸福と感じる自分はとうに狂っているのかも知れない。
消灯時間と共に、自動制御されたシェードが下りた。
ドックの外に灯っていた光が遮断され、部屋の中を夜の帳が包み込む。
睦み合う二人の営みは、そのまま深夜まで続いた。